条文ワンポイント解説「自動車運転死傷処罰法」 (短答完全征服講座(短答合格FILE)から抜粋) 第1条(定義) Ⅰ この法律において「自動車」とは,道路交通法(昭和35年法律第105号)第2条第1項第9号に規定する自動車及 び同項第10号に規定する原動機付自転車をいう。 Ⅱ (略) 〔注: 「無免許運転」の詳細な定義〕 第2条(危険運転致死傷) 次に掲げる行為を行い,よって,人を負傷させた者は15年以下の懲役に処し,人を死亡させた者は1年以上の有期 懲役に処する。 ① アルコール又は薬物の影響により正常な運転が困難な状態で自動車を走行させる行為 ② その進行を制御することが困難な高速度で自動車を走行させる行為 ③ その進行を制御する技能を有しないで自動車を走行させる行為 ④ 人又は車の通行を妨害する目的で,走行中の自動車の直前に進入し,その他通行中の人又は車に著しく接近 し,かつ,重大な交通の危険を生じさせる速度で自動車を運転する行為 ⑤ 赤色信号又はこれに相当する信号を殊更に無視し,かつ,重大な交通の危険を生じさせる速度で自動車を運転 する行為 ⑥ 通行禁止道路(道路標識若しくは道路標示により,又はその他法令の規定により自動車の通行が禁止されてい る道路又はその部分であって,これを通行することが人又は車に交通の危険を生じさせるものとして政令で定め るものをいう。 )を進行し,かつ,重大な交通の危険を生じさせる速度で自動車を運転する行為 第3条 Ⅰ アルコール又は薬物の影響により,その走行中に正常な運転に支障が生じるおそれがある状態で,自動車を運転 し,よって,そのアルコール又は薬物の影響により正常な運転が困難な状態に陥り,人を負傷させた者は12年以下 の懲役に処し,人を死亡させた者は15年以下の懲役に処する。 Ⅱ 自動車の運転に支障を及ぼすおそれがある病気として政令で定めるものの影響により,その走行中に正常な運転 に支障が生じるおそれがある状態で,自動車を運転し,よって,その病気の影響により正常な運転が困難な状態に 陥り,人を死傷させた者も,前項と同様とする。 第4条(過失運転致死傷アルコール等影響発覚免脱) アルコール又は薬物の影響によりその走行中に正常な運転に支障が生じるおそれがある状態で自動車を運転した者 が,運転上必要な注意を怠り,よって人を死傷させた場合において,その運転の時のアルコール又は薬物の影響の有 無又は程度が発覚することを免れる目的で,更にアルコール又は薬物を摂取すること,その場を離れて身体に保有す るアルコール又は薬物の濃度を減少させることその他その影響の有無又は程度が発覚することを免れるべき行為をし たときは,12年以下の懲役に処する。 第5条(過失運転致死傷) 自動車の運転上必要な注意を怠り,よって人を死傷させた者は,7年以下の懲役若しくは禁錮又は100万円以下の罰 金に処する。ただし,その傷害が軽いときは,情状により,その刑を免除することができる。 第6条(無免許運転による加重) Ⅰ 第2条(第3号を除く。 )の罪を犯した者(人を負傷させた者に限る。)が,その罪を犯した時に無免許運転をし たものであるときは,6月以上の有期懲役に処する。 Ⅱ 第3条の罪を犯した者が,その罪を犯した時に無免許運転をしたものであるときは,人を負傷させた者は15年以 下の懲役に処し,人を死亡させた者は6月以上の有期懲役に処する。 Ⅲ 第4条の罪を犯した者が,その罪を犯した時に無免許運転をしたものであるときは,15年以下の懲役に処する。 Ⅳ 前条の罪を犯した者が,その罪を犯した時に無免許運転をしたものであるときは,10年以下の懲役に処する。 【立法趣旨】 従来,刑法208条の2に規定されていた危険運転致死傷罪は,「自動車の運転により人を死傷させる行為等の処罰に関 する法律」(平成25年法律第86号)の制定に伴い,刑法典から独立の法律へと規定が移されるとともに,新たな処罰類 型が設けられた(従来,刑法211条2項に規定されていた自動車運転過失致死傷罪も同様にこの法律へと移された)。こ れは,飲酒運転や無免許運転のような悪質で危険な運転によって死傷結果が発生する事件が後を絶たない現状に照ら し,自動車の運転による死傷事件に対して,運転の悪質性や危険性などの実態に応じた処罰ができるように,罰則の 整備を行ったものである。 - 1 - 一 「自動車」の意味(1条1項) 「自動車」は四輪以上のものに限られない。自動二輪車,原動機付自転車も含まれる。 二 危険運転致死傷罪(2条)について 1 2条において処罰の対象となる危険運転行為は以下の行為である。 ① 「アルコール又は薬物の影響により正常な運転が困難な状態で自動車を走行させる行為」 (2条1号) 「正常な運転が困難な状態」とは道路及び交通の状況等に応じた運転操作を行うことが困難な心身の状態であ り,現実にこのような運転操作を行うことが困難な心身の状態にあることを要する。アルコールの影響により前 方を注視してそこにある危険を的確に把握して対処することができない状態もこれにあたるとされる(最決平 23.10.31,重判平23刑法2事件) 。 ② 「その進行を制御することが困難な高速度で自動車を走行させる行為」 (2条2号) ③ 「その進行を制御する技能を有しないで自動車を走行させる行為」 (2条3号) ④ 「人又は車の通行を妨害する目的で,走行中の自動車の直前に進入し,その他通行中の人又は車に著しく接近 し,かつ,重大な交通の危険を生じさせる速度で自動車を運転する行為」 (2条4号) ⑤ 「赤色信号又はこれに相当する信号を殊更に無視し,かつ,重大な交通の危険を生じさせる速度で自動車を運 転する行為」 (2条5号) ⑥ 「通行禁止道路…を進行し,かつ,重大な交通の危険を生じさせる速度で自動車を運転する行為」 (2条6号) ☆ 上記①②③の行為は,運転者の意思によっては的確に自車の進行を制御することが困難な状態の下で自動車を 走行させる行為である。行為の性質上,重大な死傷事故を発生させる危険性が高い。 ④⑤の行為は,運転者の意思による自車の進行の制御自体には特段の支障はないが,特定の相手方との関係で, 又は特定の場所において,重大な死傷事故を生じさせる高度の危険性を有する運転行為である。 ◎ 最決平20.10.16(重判平20刑法6事件) 《新司20-12》 判例は,「殊更に無視し」に意義につき,「およそ赤色信号に従う意思のないものをいい,赤色信号である事の 確定的な認識がない場合であっても,信号の規制自体に従うつもりがないため,その表示を意に介することな く,たとえ赤色信号であったとしてもこれを無視する意思で進行する行為もこれに含まれる」としている。 ☆ 「人又は車の通行を妨害する目的」の要件は,やむを得ずに④の行為に出て,他の車両を妨害することとなる 場合を除外するために設けられたものである。 ◎ 最決平18.3.14(百選Ⅱ7事件) 被告人が対面信号機の赤色表示に構わず,時速約20㎞の速度で対向車線に進出して本件交差点に進入しようと したことは,それ自体赤色信号を殊更に無視した危険運転行為にほかならないのであり,このような危険運転行 為によりAらの傷害の結果が発生したものである以上,他の交通法規違反又は注意義務違反があっても,因果関 係が否定されるいわれはなく,危険運転致傷罪が成立する。 2 因果関係 「よって,人を負傷させた」り, 「死亡させた」場合(2条柱書) ①~⑥の行為ではなく,通常の運転行為であったとしても同様の結果が発生した場合には因果関係が認められず, 同罪は成立しない。例えば,①~⑥の行為があったが,自動車の直前への飛び出しがあったなどの場合には同罪で の処罰は認められない。 3 罪質(結果的加重犯に類する) 故意に①~⑥の危険運転行為を行い,よって人を死傷させた者を,①~⑥の行為の実質的危険性に照らし,故意 の暴行により人を死傷させた者(傷害致死罪)に準じて処罰するものであり,結果的加重犯に類するものである (もっとも,①~⑥の危険運転行為自体は,刑法において身体・生命に対する罪として処罰されているものではな いので,典型的な結果的加重犯とは異なる)。①~⑥の危険運転行為それ自体は,酒酔い運転その他の道路交通法違 反に当たるので,人の死傷結果発生以前において全く処罰できないというわけではないことから,当該行為自体を 処罰する規定は特に設けなかった。 4 責任能力との関係 通説は,運転を予期しえずに酩酊した後に,責任能力に障害ある状態で運転した場合にも刑法39条の適用を排除 するのは責任主義からして疑問があることを理由に,危険運転致死傷罪においても責任能力の規定の適用を認めて いる。もっとも,いわゆる原因において自由な行為が成立する場合にのみ,責任能力の規定の適用を排除する。 - 2 - 5 法定刑 2条の法定刑は,負傷させた場合が15年以下の懲役で,死亡させた場合が1年以上の有期懲役である。これらの 上限は傷害罪,傷害致死罪の法定刑の上限と同等である。これは,危険運転致死傷罪が傷害罪及び傷害致死罪の特 別類型としての性質を有することを考慮したものである。 一方,死亡させた場合の2条の法定刑の下限は1年であり,傷害致死罪の下限(3年)よりも低く設定されてい る。これは,2条が,人に直接向けられた有形力の行使とまではいえないものを含むことから,事案に即した対応 を可能とするためである。なお,傷害罪には罰金刑等の選択が定められているのに,危険運転致傷罪にはそれが設 けられなかったのは,①~⑥の行為の類型的な危険性の大きさ及び行為の反社会性の強さが考慮されたものである。 6 罪数関係 ①~⑥の行為は,酒酔い運転,速度違反等の道路交通法違反の罪を前提として含んだ構成要件となっており,ま た,本罪の法定刑が特に重くされていることから,本罪が成立する場合には当該道路交通法違反の罪は本罪に吸収 される。もっとも,本罪が前提としていない道路交通法違反の罪については,本罪とは別に成立し併合罪となる。 暴行,傷害,傷害致死,殺人との関係はどうか。死傷について故意があれば傷害罪,殺人罪が成立する。死傷に ついての故意がない場合は,①~⑥の行為が同時に暴行を構成すると評価されるときも本罪が成立する。 本罪の成立が認められる場合には業務上過失致死罪は成立しない。 三 新たな危険運転致死傷罪(3条)について 従来の危険運転致死傷罪(改正前刑法208条の2)と同じとまではいえないものの,なお悪質で危険な運転によって 人を死傷させた場合に,これまでよりも重く処罰することができるようにするために,この罪が設けられた。具体的 には,アルコールや薬物,又は病気のために正常な運転に支障が生じるおそれがある状態で,そのことを認識しなが ら自動車を運転し,その結果,アルコールや薬物又は病気のために正常な運転が困難な状態になり(この状態になっ たことの認識は不要),人を死傷させた場合,従来は自動車運転過失致死傷罪が適用されていたが,悪質性や危険性な どの実態に応じた処罰ができるようにするため,新たな危険運転致死傷罪を設けた。 ここでいう,「正常な運転に支障が生じるおそれがある状態」とは,アルコールや薬物又は病気のために,自動車を 運転するのに必要な注意力・判断能力・操作能力が相当程度低下して,危険である状態のことをいう。 四 過失運転致死傷アルコール等影響発覚免脱罪(4条)について 飲酒運転をして人を死傷させた際に,「正常な運転が困難な状態」という危険運転致死傷罪の要件を判断する証拠を なくして重い処罰を逃れるために,刑が軽い,いわゆるひき逃げの罪を犯してでもその場から逃げてしまうという, 「逃げ得」の状態が生じているのではないかと言われていた。そこで,①アルコールや薬物のために正常な運転に支 障が生じるおそれがある状態で自動車を運転し,自動車の運転をする際に必要な注意を怠って人を死傷させ,②例え ば,その時にアルコールに酔っていたか,どのくらい酔っていたかなどを警察等に分からないようにするために,更 にアルコールを飲んだり,その場から逃げたりして,アルコールに酔っていたかや,どのくらい酔っていたかといっ たことが分からないようにした場合には,過失運転致死傷アルコール等影響発覚免脱罪として12年以下の懲役刑に処 することとされた。 五 過失運転致死傷罪(5条)について 1 意義・趣旨 平成19年法改正により,自動車運転過失致死傷罪が新設された。これは,飲酒運転などによる自動車事故にお いて,危険運転致死傷の立証ができない場合でも,悪質な事案を重く処罰するためである。そして,平成25年法 改正により,新設された「自動車の運転により人を死傷させる行為等の処罰に関する法律」により規定されるこ とになった。 六 2 行為 ……「自動車の運転上必要な注意を怠ることである。 3 罪数 ……危険運転致死傷罪が成立する場合には,危険運転致死傷罪が適用される。 4 刑の免除…発生した「傷害が軽いとき」に「情状により」刑を免除できるとした。 無免許運転による刑の加重(6条)について 自動車を運転するには運転免許を受けなければならないというのは,最も基本的なルールであり,無免許運転は この最も基本的なルールを無視する,規範意識を著しく欠いた行為である。また,運転免許を受けたり更新したり する際には,適性(視力等),技能,知識について試験や講習等があるが,無免許運転をする者は,このような チェックを受けて知識を身に付ける機会がなく,人を死傷させることにつながる危険性も有している。このように, 無免許運転は規範意識を欠いた危険な運転であり,無免許運転をして人を死傷させたということは,それが現実の ものになったと考えることができる。そこで,無免許運転で死傷事犯を起こしたときには,その死傷事犯とは別の 機会に無免許運転をした場合以上の重い罰則にすることにし,6条が設けられた。 - 3 - 《過去問チェック》以下は,従来,危険運転致死傷罪が刑法208条の2に規定されていたときの本試験問題です。 なお,解説は,新しい自動車運転死傷処罰法の条文に沿っています。 (短答完全征服講座(短答合格FILE)から抜粋) □ 甲は,自動車の運転免許を取得したことも運転経験もなく,ハンドル,ブレーキ等の運転装置を操作する初歩的な技能もなかっ たのに自動車を走行させたため,自車を対向車線に進入させ,対向車に衝突させて同車の運転者を死亡させた。甲に危険運転致死 罪が成立する。(新司20-12) ☞正しい。法2条3号の「進行を制御する技能を有しないで自動車を走行させ」,よって人を死傷させたとは,自動車の運転操 作の初歩技能すら有しないような運転技術が極めて未熟な状態で自動車を走行させ,その結果人を死傷させた場合を指す。 □ 甲は,覚せい剤を使用した後,自動車の運転を開始したが,運転中,覚せい剤の影響により正常な運転が困難な状態になったの に,それを認識しながらあえて運転を続けたため,自車を電柱に激突させ,同乗者を死亡させた。甲に危険運転致死罪が成立する。 (新司20-12) ☞正しい。法2条1号の「薬物」は,アルコール以外のものであって,運転者の精神的又は身体的能力に影響を及ぼす薬理作 用を有するものであり,覚せい剤を含む。 □ 甲は,自動車を運転中,前方の交差点に設置された対面信号機が赤色表示に変わったのに気付かず,時速約50キロメートルで同 交差点に進入したところ,歩行者用信号機の青色表示に従って前方の横断歩道上を歩行していた乙に自車を衝突させ,乙に傷害を 負わせた。甲に危険運転致死罪が成立する。(新司23-5) ☞誤 り。法2条5号。「赤色信号又はこれに相当する信号を殊更に無視し」(法2条5号)とは,故意に赤色信号に従わない 行為のうち,およそ赤色信号に従う意思のないものを言い,赤色信号を看過した場合や,信号の変わり目で赤色信号である ことに未必的な認識しかない場合は含まれない。 □ 甲は,交通違反を繰り返して自動車運転免許の取消処分を受けていたものの,自動車の運転経験が長く運転技術に自信があった ので,事故を起こすことはないだろうと思って自動車の運転を始めたが,運転中脇見をしてハンドル操作を誤り,自車を対向車線 に進出させて乙運転の対向車と衝突させ,乙に傷害を負わせた。甲に危険運転致死罪が成立する。(新司23-5) ☞誤 り。法2条3号。未熟運転致傷罪(法2条3号)の「進行を制御する技能を有しない」とは,自動車の運転操作の初歩 的技術すら有しないような,運転技量が極めて未熟な状態をいう。無免許であることが原則であるが,長年ペーパードライ バーであった場合も含み得る。これに対し,経験・技能はあるが無免許の場合や免許停止中の場合などは含まれない。 □ 甲は,片側1車線の道路を自動車を運転して進行中,時速約50キロメートルで走行する乙運転の先行車を追い越すに当たり,対 向車両が接近しており,追越しを完了させるには乙車の直前に進入する必要があったので,同車の通行を妨害することになるかも しれないと思いつつ,対向車線に自車を進出させて追越しを開始し,乙車の直前に自車を進入させたところ,乙が驚いてハンドル を左に切り,乙車をガードレールに衝突させ,乙に傷害を負わせた。甲に危険運転致死罪が成立する。(新司23-5) ☞誤 り。法2条4号。妨害運転致傷罪(法2条4号)の「妨害する目的」とは,相手方に衝突を避けるための急な回避措置 をとらせるなど,相手方の自由かつ安全な通行の妨害を積極的に意図することをいう。したがって,何らかの事情でやむな く割り込むような場合には,相手方の通行を妨害することになると未必的に認識していても妨害運転致傷罪は成立しない。 《関連判例》今回の司法試験委員会の発表によれば,「自動車の運転に伴い人を死傷させた事案については,その前後 の経過等も含め,作為義務,因果関係,過失等の刑法総則上の重要な概念に関わる問題を生じることがし ばしばある」とされています。そこで,作為義務,因果関係,過失に関する判例を掲載します。 (短答完全征服講座(短答合格FILE)から抜粋) 判例1【因果関係】 (結果の回避可能性と過失)に関する判例 ◎ 最判平15.1.24(百選Ⅰ7事件) 【事案】 被告人は,タクシーを運転して,左右の見通しが利かず交通整理の行われていない交差点に,減速・徐行しない まま漫然時速約30kmないし40kmの速度で進入した。このため,被告人車左後側部が,折から左方道路より進行して きたA運転の普通乗用自動車の前部と衝突した。このため,被告人車の後部座席に同乗のBは死亡し,助手席に同 乗のCは重傷を負った。なお,本件事故現場は,被告人車が進行する車道とA車が進行する車道が交差する交差点 であり,各進路にはそれぞれ対面信号機が設置されているものの,本件事故当時は,被告人車の対面信号機は黄色 灯火の点滅を表示し,A車の対面信号機は赤色灯火の点滅を表示していた。 【判旨】 「このような状況の下で,左右の見通しが利かない交差点に進入するに当たり,何ら徐行することなく,時速約 30ないし40キロメートルの速度で進行を続けた被告人の行為は,道路交通法42条1号所定の徐行義務を怠ったもの といわざるを得ず,また,業務上過失致死傷罪の観点からも危険な走行であったとみられるのであって,取り分け タクシーの運転手として乗客の安全を確保すべき立場にある被告人が,上記のような態様で走行した点は,それ自 体,非難に値するといわなければならない。 しかしながら,他方,本件は,被告人車の左後側部にA車の前部が突っ込む形で衝突した事故であり,本件事故 の発生については,A車の特異な走行状況に留意する必要がある。すなわち,1,2審判決の認定及び記録による - 4 - と,Aは,酒気を帯び,指定最高速度である時速30キロメートルを大幅に超える時速約70キロメートルで,足元に 落とした携帯電話を拾うため前方を注視せずに走行し,対面信号機が赤色灯火の点滅を表示しているにもかかわら ず,そのまま交差点に進入してきたことが認められるのである。このようなA車の走行状況にかんがみると,被告 人において,本件事故を回避することが可能であったか否かについては,慎重な検討が必要である。 この点につき,1,2審判決は,仮に被告人車が本件交差点手前で時速10ないし15キロメートルに減速徐行して 交差道路の安全を確認していれば,A車を直接確認することができ,制動の措置を講じてA車との衝突を回避する ことが可能であったと認定している。上記認定は,司法警察員作成の実況見分調書……に依拠したものである。同 実況見分調書は,被告人におけるA車の認識可能性及び事故回避可能性を明らかにするため本件事故現場で実施さ れた実験結果を記録したものであるが,これによれば,①被告人車が時速20キロメートルで走行していた場合につ いては,衝突地点から被告人車が停止するのに必要な距離に相当する6.42メートル手前の地点においては,衝突地 点から28.50メートルの地点にいるはずのA車を直接視認することはできなかったこと,②被告人車が時速10キロ メートルで走行していた場合については,同じく2.65メートル手前の地点において,衝突地点から22.30メートルの 地点にいるはずのA車を直接視認することが可能であったこと,③被告人車が時速15キロメートルで走行していた 場合については,同じく4.40メートル手前の地点において,衝突地点から26.24メートルの地点にいるはずのA車を 直接視認することが可能であったこと等が示されている。しかし,対面信号機が黄色灯火の点滅を表示している 際,交差道路から,一時停止も徐行もせず,時速約70キロメートルという高速で進入してくる車両があり得ると は,通常想定し難いものというべきである。しかも,当時は夜間であったから,たとえ相手方車両を視認したとし ても,その速度を一瞬のうちに把握するのは困難であったと考えられる。こうした諸点にかんがみると,被告人車 がA車を視認可能な地点に達したとしても,被告人において,現実にA車の存在を確認した上,衝突の危険を察知 するまでには,若干の時間を要すると考えられるのであって,急制動の措置を講ずるのが遅れる可能性があること は,否定し難い。そうすると,上記②あるいは③の場合のように,被告人が時速10ないし15キロメートルに減速し て交差点内に進入していたとしても,上記の急制動の措置を講ずるまでの時間を考えると,被告人車が衝突地点の 手前で停止することができ,衝突を回避することができたものと断定することは,困難であるといわざるを得な い。そして,他に特段の証拠がない本件においては,被告人車が本件交差点手前で時速10ないし15キロメートルに 減速して交差道路の安全を確認していれば,A車との衝突を回避することが可能であったという事実については, 合理的な疑いを容れる余地があるというべきである。」として,被告人に無罪を言い渡した。 判例2【過失】 (予見可能性の意義)に関する判例 ◎ 最決平元.3.14(百選Ⅰ52事件) 【事案】 普通貨物自動車を運転していた被告人が運転を誤り,後部荷台に同乗していたAおよびBを死亡するに至らせ, 更に助手席に同乗していたCに対して傷害を負わせたが,被告人は自車の後部荷台にA及びBが乗車している事実 を認識していなかった。 【判旨】 「被告人において,右のような無謀ともいうべき自動車運転をすれば人の死傷を伴ういかなる事故を惹起するか もしれないことは,当然認識しえたものというべきであるから,たとえ被告人が自車の後部荷台に前記両名が乗車 している事実を認識していなかったとしても,右両名に関する業務上過失致死傷罪の成立を妨げない」 判例3【作為義務】 (殺人罪の成否)に関する判例 ◎ 東京地判昭40.9.30 【事案】 交通事故で重傷を負わせた被害者を病院に搬送するため自車に乗せたが,発覚した場合を考えると恐くなり,途 中で病院搬送を放棄したため,被害者が車内で死亡した。 【判旨】 客観的事情として「被害者は事故直後に治療を受ければ一命をとりとめる蓋然性が極めて高かった」というこ と,および,主観的事情として「被告人が直ちに被害者を病院に搬送すれば救護可能であると考え」,「被害者の死 を未必的に予見していた」ということから,殺人罪が成立するとした。 (参考)山口厚「刑法」(有斐閣)(第3版)51頁より抜粋 「単純なひき逃げについては不作為による殺人罪の成立は肯定されていない(過失運転致死傷罪と道路交通法上の 救護義務違反・報告義務違反罪が成立する。)。その成立が肯定されたのは,自己の過失により重傷を負わせた被害者 を,最寄りの病院に搬送するため自動車に乗せて出発したが,刑事責任を問われることをおそれ,適当な場所に遺棄 して逃走しようと走行中に,被害者が死亡した事案(東京地判昭40.9.30),自己の過失により重傷を負わせた被害者 を,自動車に乗せ,深夜寒気厳しい時刻に人を発見される見込みのない場所に,自動車から引きずり降ろして放置し た(発見されて死に至らなかった)という事案(東京高判昭46.3.4)などである。これらの事案においては,先行行 為,被害者が支配下にあって被告人に依存していたことが認められる。」 - 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