インド紀行1009-2 a249 クトゥブ・ミナール Qutub Minar / Qutb al-Dīn Aybak / 1192 インド 2 日目・2010 年 9 月 18 日朝 ホテルのロビーに降りると大勢のインド人でごった返していた。 このホテルは経済的で場所もいいため、インド人旅行者に人気があ るようだ。レストランにはいくつかの日本人グループもいて、食事 をすますとあわただしくバスに乗り込んでいった。私たちも出かけ ることにした。 最 初 の 目 的 地 は ホ テ ル か 30 赤い砦 分ほどのクトゥブ・ミナール オールドデリー Qutub Minar である(右図右下、 ニューデリー インド門 右下写真、写真右手前は後述す ヤムナー川 るチャンドラヴァルマンの鉄 フマユーン廟 柱 )。 ミ ナ ー ル と は ト ル コ 語 の ミナレ Minare に由来し、アラビ ア 語 で は マ ナ ー ル manar、 英 語 クトゥブミナール 圏ではミナレット minaret と呼ば れるイスラム寺院に付随する塔である。 イスラム教では 1 日に 5 回の礼拝=サ ラーが習わしである。1 回目=スブフ は夜明けごろ、2 回目=ズフルは昼ご ろ、3 回目=アスルは午後、4 回目=マ グリブは日没ごろ、5 回目=イシャー が夜である。イスラム教の休息日であ る金曜は 5 回のうち少なくとも 1 回は 寺院での礼拝が奨励されているが、信 仰心の厚い人は平日でも寺院に出かけ て礼拝する。1日 5 回の礼拝の時刻に なると、アザーンと呼ばれる呼びかけ が行われる。かつてはアザーンは肉声だったため、遠くまで聞こえ るようにイスラム寺院の傍らに塔が建てられ、塔に上ってアザーン が行われた。この塔がミナール=ミナレ=マナール=ミナレットで - 1 - ある。イスラム寺院にはミナールが不可欠と考えていい。 12 世紀初頭、北インド・デリーにイスラムの解放奴隷であった クトゥブッディーン・アイバク Qutb al-Dīn Aybak が侵出してきた。 彼 は 、 1193 年 に は デ リ ー を 征 服 し 、 奴 隷 王 朝 Slave Dynasty (1206-1290)を興すのだが、侵出して間もない 1192 年に、このあ たりにあったヒンドゥー寺院を建て替えてイスラム寺院=クワット ゥル・イスラム・モスク Quwwat Ul Islam Masjid の建設に着手する。 まずは、付随するミナールを 1192 年に完成させた。その高さは 100m ともいわれるが、地震などで崩落し、72.5m 分が現存する。それで も現存する歴史的なミナレットとしては世界一の高さを誇る。おそ らく、クトゥブッディーン・アイバクが高さ 100m のミナレットに よってヒンドゥー教の世界にイスラム教の偉容を示そうとしたので あろう。塔の基底部の直径もわずか 14.3m で、先端はなんと直径 2.75m しかない。鉛筆が立っているような細さで天を突いている。 当時のインド人はさぞや驚かされたのではないだろうか。 塔内部にはアザーンのための 379 段の螺旋階段が設けられてい て、遺跡観光に開放されていたが、手すりが無く、1982 年、修学 旅行で訪れた女生徒が足を滑らせて大勢が亡くなってしまった。以 来、内部は閉鎖されている。高さ 72.5m は近代ビルに換算すると 24 階建てほどになるし、基底部の内径は 10m 余、先端は 2m にも満た ないうえ手すり無しだから、アザーンで上り下りするイスラム教徒 も大変だったのではないか。とりわけ下りは足がすくみそうだ。ひ たすら神のご加護を祈るしかない。 外から塔を見上げると、塔の途中にバルコニー風のせり出しで 5 層に分けられている。高さ 100m のときは 7 層だったらしい。1 層 目の外壁は赤みと黄みをの石を、半円形と角形を交互にして積み上 げ、2 層目は赤みと黄みの石を、半円形を連続させて積み上げ、3 層目は赤みの石を、角形を連続させて積み、4 層目は白い大理石? を円筒状に積んでいて、5 層目は赤みの石を円筒状に積みそこにア ーチの縁取り、あるいはアーチの開口を入れていて、実に変化に富 んだ外観を構成している(次頁右上写真は 1 層目)。さらに、石の - 2 - 表面にイスラム教の聖典であるクルアー ンを図案化したレリーフを帯状に巻いて いる。石の芸術の極致といえよう。目を 奪われたまま、塔を何度も回り、目を楽 しませた。 ミナールの傍らには 1197 年に完成した クワットゥル・イスラム・モスクの遺構 が残っている。広い石敷きの中庭を囲ん で石造の回廊がめぐり、礼拝堂だったで あろう奥は石積みの壁だけが残されてい る。礼拝堂の壁は赤みの不定形の石が積 んであるだけだが(右中写真)、 回廊にはヒンドゥーの女神とお ぼしき女性のレリーフが彫られ た花崗岩らしい白みの石が用い ら れ て い る ( 右 下 写 真 )。 回 廊 にはアーチ構造が無く、柱の上 に横材をのせるまぐさ式である。 デリーに侵攻したばかりのイス ラム勢力はヒンドゥー寺院を転 用し、ヒンドゥーの技術者を登 用してイスラム寺院を建造した であろうから、ヒンドゥー様式 が混在せざるを得なかったので あろうし、さらにいえば、ヒン ドゥー教徒の反乱を抑えるため にもヒンドゥー様式の混在を認 めなければならなかったのでは ないだろうか。様式の混在した遺構を見ていると、そんな気がして くる。 中庭にはチャンドラヴァルマンの鉄柱と呼ばれる高さ 7.2m ほど の鉄柱 iron pillar が立っている(写真前出)。ガイドによれば、4 世 紀ごろの建造で、純度が 100 %に近いため錆びずに残った、そうだ。 柵越しにのぞくと確かに黒光りしている。あとで資料を探したら、 加熱しながら鍛えていくと錆びにくくなるがそれでも錆びるそう で、むしろリンpがまじって錆びにくくなったのではないかとの説 がある。また由来は、グプタ朝 Gupta Empire(320 - 550 ごろ)が 北インドを統一した記念との説もある。デリーに侵攻したクトゥブ ッディーン・アイバクはこの鉄柱をイスラム寺院の中庭に立てるこ とで、奴隷王朝の始まりを誇示したのかもしれない。いずれにして も、北インドに鍛鉄の技術が存在したのは事実であろうが、ほかに 鉄を使った建造物は見られない。不思議といえば不思議だが、そう した不思議さを包み込んでしまうのがインドのようだ。 - 3 - - 4 - クワットゥル・イスラム・モ スクの北隣にアライ・ミナール Alai minar の残骸が残っている ( 右 写 真 )。 基 底 部 の 直 径 は お よそ 25m で、単純にクトゥブ・ ミ ナ ー ル と 対 比 さ せ る と 、 100 ÷ 14.3 × 25 = 175m の高さにな る。権力を手中にした者はとき として狂気になるらしい。幸い にも?工事半ばの地震で崩れそのまま放置された。残骸は砕石を泥 で固めながら積み上げられていて、外側には凸状の丸みが連続して いる。クトゥブミナールも同じ工法だろうから、1 ~ 5 層目の外観 に表現された半円形、角形は砕石を泥で固めながら下地をつくって おき、その上に赤みの砂岩や白みの花崗岩などで仕上げたと想像で きる。この工法は 1987 年に調査した民家のつくりかたと同じであ り、奴隷王朝もイスラム寺院を始めとした建造物をインドの土着工 法でつくっていたことになる。残骸ではあるが、技術交換の見本と なっている。(1009 現地、1103 記)
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