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第2章 歴史・文化

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第2章
歴史・文化
1.歴史
中世
(1) 多くの国と陸続きであり、平地が多く、他国の勢力の侵入が容易な地形で
あるため、ポーランドは幾度も戦争に巻き込まれ、国境線が絶えず変化
した。 ポーランドの建国は、ピアストがポラニエ族の首長に選ばれた
時といわれているが、歴史上はっきりとした
年代が現れるのは、ピアストの後裔ミエシュ
コ1世が受洗した966年からである。
1000年、ボレスワフ1世は同盟を結んだ神
聖ローマ皇帝オットー3世から王への戴冠と
ポーランドを管区とする大司教座の設置を認
められ、1025年にローマ教皇からその許
ボレスワフ1世
可を得て正式にポーランド王に即位、ポーラ
ンド 王国を成立させた。
11 世紀初頭の領土(影部分は現在の
ポーランド)
(2) その後ポーランド王国は、いわゆる封建的な諸氏分封制を採用し、小王たち
の分治統治の時代となったが、分裂時代のポーランド各公国は、王権の弱さ
から政治的に弱体化した。1241年にはチンギス・ハーンの孫バトゥ率いるモ
ンゴル帝国軍の侵攻を受け、諸侯の連合軍がワールシュタットの戦いで大敗
した。
14世紀のはじめ、ヴワディスワフ1世によってポーランドは再統一されたが、
東方への進出をはかるドイツ人たちによる外圧に悩まされることになった。ヴ
ワディスワフ1世の子カジミエシュ3世(カジミエシュ大王)は外交手腕を発揮
して外圧をはねのけ、内政改革を推進して国力を高めてピアスト朝の最盛期を
いたが、後継者を残さずに没し、ピアスト朝は断絶した。
カジミエシュ3世
(3) ピアスト朝は、大王の甥であるハンガリー王が継ぎ、その後継者
の王女ヤドヴィガがリトアニア大公ヤギェウォと結婚したため、リ
トアニアとポーランドは同君連合を形成し、ヤギェウォ朝が始まっ
た。
リトアニア・ポーランド連合軍は、1410年には宿敵ドイツ騎士団
(チュートン騎士団)から決定的な勝利(「グルンヴァルトの戦い」
(タンネンベルクの戦い))を得て、1466年にはバルト海への出
口を回復した。16世紀末にはポーランドは、北はバルト海、南は
黒海に至る欧州最大の王国となり、文化面でもこの時代はまさに
「黄金の時代」であった。
(4) 1572年のズィグムント2世アウグストの死によりヤギェウォ
朝が絶えると、ポーランドはシュラフタ(貴族)の議会「国会
(セイム)」による選挙王制(シュラフタ制)に移行した。セイム
による政治は当時としては民主的で、その議決は全会一致
の原則に基づいていた。国王の全ての決定は、セイムの承
認を求められたため、17世紀以降、政治は次第に硬直化し
ていった。しかしながら、1791年、米国に次いで世界で二
番目に古く、欧州では最古の議会制定憲法である「1791年
5月3日憲法」を制定するなど、民主主義の進展も見られ
た。17世紀にはウクライナ・コサックの反乱、スウェーデン王国、
ロシア帝国の侵攻が相次ぎ「大洪水時代」と呼ばれる大混乱が
起こり、国力は下り坂となった。
14
グルンヴァルトの戦い(1410 年)
「5 月 3 日憲法」の採択(1791 年)
築
近代~第一次世界大戦
(1)ポーランドは、周辺帝国の成長とともにロシア、プロシア、オーストリアの3国に
よって国土を3度にわたり分割された。(ポーランド分割 1772年、1793年、
1795年)最後の分割を前に1794年、タデウシュ・コシチュシュコ(コシューシ
コ)率いる蜂起軍が決起したのをはじめ、ポーランドではたびたび独立の回復を
求める民族蜂起が起こったが、いずれも失敗に終わった。
(2)1807年にはナポレオンによってワルシャワ公国が建国された
が、実態はフランスの衛星国に過ぎなかった。1815年、ウィー
ン議定書に基づきワルシャワ公国は解体され、その4分の3を
ロシアの領土とした上で、ロシア皇帝が国王を兼務するポーラ
ンド立憲王国が成立した。南部の都市クラクフとその周辺は、
クラクフ共和国として一定の自治が容認された。西部はポズナ
ン大公国としてプロイセンの支配下に置かれた。
ポーランドの民族主義者は、独立を目指して運動と蜂起を繰
り返すが、ロシア軍によって鎮圧された。ポーランドの独立を恐
れたロシアは王国におけるポーランド語の使用を制限してロシ
ア化政策を推し進めたが、それでも独立を求めるポーランド人
の民族意識は高まっていった。
コシチュシュコ
1807 年公国憲法を授与するナポレオン
(3)第一次世界大戦終結後、ベルサイユ条約の民族自決の原則により、ドイツ帝国とソ
ビエト連邦から土地が割譲され、123年ぶりに独立を獲得した。初代国家元首には
ユゼフ・ピウスツキが就任した(第二共和)。1919年のベルサイユ条約では、敗戦国
ドイツからポズナン・西プロイセンを獲得、また東プロイセンがドイツ領に残されたか
わりに海への出口として「ポーランド回廊」を割譲されたが、外港のグダンスク(ダンツ
ィヒ)は国際連盟管理地域に置かれた。1921年には、ソ連の侵略を阻止するため東
方に軍を進め(ポーランド・ソビエト戦争)、独力で阻止、ベラルーシ、ウクライナの一
部を獲得した。1932年にはソ連邦と、1934年にはドイツと不可侵条約を締結した。
ピウスツキ
15
第二次世界大戦
(1)1935年にピウスツキが没した前後には、ドイツでアドルフ・ヒトラー率
いるナチスが政権を握り、その軍国化が脅威となっていた。ポーランド
はイギリス、フランスと同盟を結んでこれをけん制したが、1939年9
月1日、ナチス・ドイツはポーランドへの侵攻を開始した。イギリスとフ
ランスはただちにドイツに宣戦布告し、第二次世界大戦が勃発した。
最新兵器を装備した機甲部隊を中心とするドイツ軍にポーランド軍は
敗れ、また、ドイツとポーランド分割の密約を結んでいたソ連が東部地
域に侵攻して、1941年までポーランドのほとんど全土が分割占領さ
れた。戦時中は、英国ロンドンに亡命政府を置き、国内外で反独闘争
を続けた。
(2)1941年にはドイツ軍がソ連支配圏に侵攻して独ソ戦が始まり、緒戦のドイ
ツの勝利によりポーランドの全土がドイツの支配下に置かれた。ドイツ占領
下でポーランドは厳しい占領行政のもとに置かれ、反ドイツ的なポーランド
人たちに弾圧が加えられた。ポーランド国内では英仏を後ろ盾とする亡命
政府系「国内軍」の反ドイツ運動とは別に、ソ連を後ろ盾とする共産主義系
のパルチザンが蜂起してドイツ軍に抵抗し、大戦中のポーランド人の犠牲
者は数百万人を数えた。ポーランドはヨーロッパでも最大規模のユダヤ人
人口を抱える国であったが、彼らはアウシュヴィッツ(ドイツ名)などの強制
収容所に収監され、多くが犠牲になった。
抵抗組織「国内軍」
Armia Krajowa の旗
(3)独ソ戦でソ連が反撃に転ずると、ドイツ占領地域
はソ連軍によって解放されていき、1944年にポ
ーランドはソ連の占領下に置かれた。終戦により
国家として復活したが、新たにポーランド共和国
に定められた領土は、東部のウクライナ・ベラル
ーシ西部をソ連に割譲し、代わりにオドラ川以西
のドイツ領であるシロンスクなどを与えられると
いうものであった(右図参照)。失った東部領は
新たに得た西部領の2倍に及び、東(現在のウク
ライナ西部)を追われたポーランド人が旧ドイツ
領から追放されたドイツ人のかわりに西部に移り
住む人口の大移動が起こった。
(4)大戦終戦後の1945年、ロンドン亡命政府と共
産主義系の解放委員会は合同し、挙国一致政
府が成立した。しかしソ連の強い軍事的な影響
力の元に次第に共産主義系の勢力が政府の実
権を握るようになり、亡命政府系の政治家は逮
捕されたり亡命に追いやられた。大戦の影響で、
総人口は戦前から3割減少し、2,393万人(19
46年)となった。
ポーランド軍人の第二次世界大戦における活躍
ナチス・ドイツが用いていた暗号機「エニグマ」の初期型の解読にポーランド暗号局員が成功し、開戦前に同
暗号機の複製品を関連情報とともに英及び仏に提供。その後、英国は同情報を基礎にエニグマの解読を発
展させ、大戦の間、エニグマで作成されたドイツ軍の情報を解読することができた。ポーランドが独とソ連に
占領される際に脱出したポーランド軍人は、連合軍に加わった(その数は約 20 万人と言われている)。1940
年 7 月に開始されたバトル・オブ・ブリテン(BOB)に参加した約 1,500 名の英空軍パイロットのうち、150 名以
上がポーランド人パイロットであった。ポーランド人パイロットは、既にポーランド及び仏における戦争で実戦
経験を積んでおり、同人らで編成された第 303 コシチュシコ戦闘機中隊は、BOB に参加した連合軍の戦闘機
中隊の中で最高の撃墜記録を挙げた。1941 年の英空軍には、ポーランド軍人による 10 個の戦闘機中隊と 4
個の爆撃機中隊が存在した。これらのポーランド軍人は、BOB において重要な役割を果たしただけでなく、
連合軍の航空作戦に重要な貢献を行った。
16
また、1942 年に編成された第1機甲師団(最大時 16,000 名の兵士で構成)は、1944 年のノルマンディー上
陸作戦、続くベルギー、オランダそしてドイツにおける戦闘に参加した。また、1943 年に編成されたポーランド
第 2 軍団(1945 年当時 75,000 名の兵士で構成)は、エジプトにおける戦闘に参加した後、1944 年 5 月には
英国第 8 軍団の部隊としてイタリアのモンテ・カッシーノの戦いに参加し戦略拠点の占領に貢献した。同部軍
団は、その後もイタリアのアンコーナ及びボローニャにおける戦闘に参加した。
カティンの森事件
1939 年 9 月、ナチス・ドイツとソ連の双方に侵攻されたポーランドでは、多くのポーランド人将校らが捕虜とな
り、ソ連に連行されていった。捕虜となったポーランド人は、1940 年 4 月まで、占領下のポーランドにいる家族と
連絡を取り合うことができたが、それ以降、音信不通となった。ソ連に侵攻したドイツ軍は、1943 年、ソ連西部の
スモレンスク近郊のカティンにて、ポーランド人の集団墓地を発見した。当初、ソ連は、これをナチス・ドイツの仕
業と主張したが、冷戦終焉後の 1990 年になって漸く、自国の行為と認めた。1992 年、エリツィン・ロシア大統領
は、2 万以上のポーランド人の殺害命令が 1940 年 3 月にスターリンらによって署名され、ポーランド人の殺害が
ソ連の特殊機関(NKVD)によって実行されたことを明らかにする最高機密文書を公開した。更に、翌 1993 年、同
大統領はワルシャワを訪問し、カティン慰霊碑の前で謝罪した。一方、ロシアは軍検察の捜査を 2004 年に打ち
切り、審理記録の大半が非公開とされたことから、両国間での対立が再燃。引き続き、同事件は両国の関係に
暗い影を落として来た。
2010 年 4 月、トゥスク、プーチン両首相が参列する中、ポーランド・ロシア合同で 70 周年追悼式典が挙行され
た。プーチン首相が、露側国家指導者として初めてカティンを訪問したこと、また演説において当時の露共産党
幹部の責任を明確に認めたことは、両国の歴史的和解の端緒として評価された。さらに、メドヴェージェフ露大
統領は、非公開とされた軍検察の審理記録をポーランド側に渡すと明言し、同年 5 月、訪露したコモロフスキ大
統領代行に対し、同審理記録 183 巻の内 67 巻を手渡した。今後は残りの審理記録の公開、被害者の名誉回復
等が課題。
中世~第二次大戦年表
922年
ピアスト王朝の創立者で初代国王、ミエシュコ1世生まれる
1000年
ボレススワフ1世によりポーランド統一
1025年
ボレススワフ1世戴冠、ピアスト朝始まる
12C初~14C 小邦分立の時代
初
1241年
レグニッツァ(ワールシュタット)の戦いで、ポーランド・ドイツ連合軍がモンゴル軍に大敗
1333年
カジミエシュ3世(大王)即位
1370年
カジミエシュ大王死去。甥のハンガリー王ラヨシュ大王が後継に。ピアスト朝断絶
1384
ハンガリー王ラヨシュ大王の王女ヤドヴィガが王位に
1386年
ヤドヴィガとリトアニア大公ヤギェウォが結婚。ヤギェウォがヴワディスワフ2世として戴冠。ヤ
ギェウォ王朝始まる
1410年
ポーランド・リトアニア連合軍、グルンヴァルト(タンネンベルク)の戦いでドイツ騎士団を破る
1572年
ヤギェウォ朝断絶。選挙王制へ
1596年
ジグムント3世が首都をクラクフからワルシャワに遷都
1655~58年 「大洪水」と呼ばれる、スウェーデン軍による度重なる侵攻
1683年
ヤン3世ソビエスキがオスマントルコ軍からウィーンを解放
1764~72年 ポーランドの最後の国王スタニスワフ・アウグスト・ポニャトフスキ治世の下、ポーランド文化
の「黄金期」
1791年
ヨーロッパで初、米国に次いで世界で2番目の近代民主憲法(「5月3日憲法」)を採決
1795年
ロシア、プロイセン、オーストリアによる第三次三国分割(第一分割1772年、第二次分割1793
年)。以後123年間、「ポーランド」が地図上から消滅
1806年
ナポレオンのワルシャワ進軍。翌年ワルシャワ公国創設
1815年
ワルシャワ公国、ナポレオン失脚後の「ウィーン会議」の決定により、ロシアとプロイセンに分
割
1830年
11月蜂起
1918年
11月11日、第一次世界大戦後の「パリ講和会議」により、ポーランド独立
1939年9月
ナチス・ドイツのポーランド侵攻
1941年
独ソ戦開始
1943年
ワルシャワ・ゲットー蜂起(ユダヤ人の強制収容区域)
1944年
ワルシャワ蜂起。ワルシャワ中心部の84%が灰燼と化し、20万人余りの蜂起兵及び一般市民
が死亡
1945年
第二次世界大戦終結。ソ連の影響下で国家再建へ
17
社会主義体制時代(1948年から1980年)
(1) 1948年、ソ連の後援で共産党系のポーランド労働者党とポーランド社会党
左 派が 合同 し、ポー ランド統 一労働 者党 (共 産党、 Polska Zjednoczona
Partia Robotnicza:PZPR)によるソ連式の一党独裁、社会主義体制(ポーラ
ンド人民共和国、Polska Rzeczpospolita Ludowa)へ移行した。農業の集団化
など、ソ連型の経済政策が導入され、1952年には社会主義憲法を制定し、
国名をポーランド人民共和国に改めた。
国際的にはワルシャワ条約機構や、1949年1月、ソ連と東欧の共産圏でマ
ーシャルプランに対抗するものとして設立されたコメコン(経済協力機構)の
構成国となり、社会主義国として東西冷戦の渦中に巻き込まれた。
(2) 社会主義体制期は、大まかにいって①スターリン主義時代(1948年から55年、ビエルート第一書
記)、②改革・再統制時代(1956年から70年、ゴムウカ第一書記)、③対外開放期(1970年から80
年、ギエレク第一書記)、④「連帯」運動と戒厳令、体制内改革期(1980年から89年、ヤルゼルスキ首
相、カーニャ第一書記)に分けられる。
(3) ビエルートは、ソ連の強力な干渉の下でスターリン主義的な独裁体制を敷いたが、彼の死後、1956年
のポズナン暴動をきっかけに、国民の民主化要求が高まり、ゴムウカが第一書記に復帰、改革を行い
つつ再統制を試みた。しかし、ゴムウカ時代は、1968年の知識人による抗議行動、また1970年の経
済不振と食料品の大幅値上げに端を発する労働者によるグダンスク抗議行動により終わりを告げた。
(4) ギエレク新政権は、経済改善により国民の不満を解消しようと試み、積極
的な外資導入を行った。一時期は国民所得の増加も見られたが、粗放な
投資等で経済は崩壊的状況となり、1980年7月には食肉値上げに反対
する大規模ストが起こった。この年の8月、政府はスト労働者との間でい
わゆる「グダンスク合意」を結び、これにより、ソ連圏では初めての自主管
理労働組合(「連帯」)が誕生した。
ワルシャワ条約機構
ワルシャワ条約機構(Warsaw Treaty Organization、Warsaw Pact)は、冷戦期の
1955 年、ワルシャワ条約に基づきソビエト社会主義共和国連邦を盟主とした東ヨ
ーロッパ諸国が結成した軍事同盟。「東欧相互防衛援助条約機構」が正式名。西
ドイツの再軍備及び北大西洋条約機構への編入という事態に対抗して作られた。
加盟国は、ソ連、ポーランド、アルバニア(1968 年脱退)、ブルガリア、ルーマニ
ア、ドイツ民主共和国(東ドイツ)、ハンガリー、チェコスロバキア。
1989 年の冷戦終結に伴って東欧革命が始まり、1991 年 3 月に軍事機構を廃止、7 月 1 日に正式解散。12 月
末にはソ連が崩壊した。現在では、ロシア、アルバニアを除き、かつての加盟国のほとんどが北大西洋条約機
構(NATO)に加わっている(ポーランドは 1999 年加盟)。
社会主義から民主主義へ(1981年から1989年)
(1)1980年9月、ギエレクの後を継いだカーニャ第一書記は、
「グダンスク合意」を尊重し、「連帯」との対話路線をとったが、ソ
連の圧力や国内の緊張が高まり、1981年10月、軍人出身の
ヤルゼルスキ首相が党第一書記を兼任、同年12月、戒厳令を
導入した。
1983年7月には戒厳令が解除され、ヤルゼルスキ政権は社
会主義の枠内での経済改革を試みたが効果は上がらず、1988
年春、夏には再び労働者の抗議運動が高まりを見せた。
「連帯」等の在野勢力の協力なしには改革が行き詰まると考えたヤ
ルゼルスキは、1989年1月の党中央委員会総会で「政治的多元
主義、労組多元主義」を認めさせ、反体制側との対話の道を開い
た。
戒厳令を発表する
ヤルゼルスキ首相
(2)1989年2月から4月に体制側、反体制側がひとつのテーブルについて今後
の政治運営につき話し合った「円卓会議」は事実上の憲法制定会議ともなった。6
月の自由選挙では「連帯」系が圧倒的勝利を収め、その後ワレサ連帯委員長のイ
ニシアチブにより、9月にはマゾヴィエツキが首相に就任、旧東側ブロックでは初
めての非社会主義内閣が誕生した。なお、円卓会議での合意により大統領制が
復活、ヤルゼルスキ国家評議会議長が初代大統領に選出された。これをもって、
「第三共和制」ともいわれる。
18
戒厳令布告を報じる
統一労働者党機関紙
ポーランド略史
9世紀、ピアスト王朝成立
14世紀、ポーランド・
リトアニア合同
17世紀、ポーランド黄金期
1795年、第3次分割により
ポーランド国家消滅
約220万人
約150万人
1918年、独立回復
(第二共和国)
第二次大戦により、独ソ
に再分割
1947年、共産主義政権
の樹立
1989年、体制転換
(第三共和国)
民主化以降(1990~現在)
(1)マゾヴィエツキ内閣は経済再建と民主化の徹底に取り組んだ。特に副首相兼蔵相を務めたバルツェロヴ
ィッチが実施した「ショック療法」(いわゆるバルツェロヴィッチ改革)は、その後のポーランド経済発展の基
礎固めとなった。1990年11月には初の直接自由選挙による大統領選挙が行われ、ワレサが大統領に
当選した。翌1991年1月には無名に近かったビエレツキが首相に就任、同年10月には初の自由総選
挙が実施された。しかし、小党乱立状態の議会は安定せず、連帯系政府とワレサ大統領の関係も悪く、
内閣は次々と交替した。
(2)1993年、スホツカ内閣の不信任に伴う総選挙では旧統一労働者党系の民主左翼連合(SLD)と農民党
(PSL)が勝利し、SLD・PSL連立内閣が成立した。同内閣はバチカンとの関係を規定するコンコルダー
トの締結や、新憲法採択を行い国政の基礎固めを行ったが、1997年の総選挙では連帯を中心とした連
帯選挙行動(AWS)が返り咲き、自由同盟(UW)との連立政権が樹立された。しかし、4大改革(地方自
治、健康保険、年金、教育)の実施に伴う困難、絶え間ない内部対立、汚職の蔓延等によりAWS政権は
大幅に支持を下げ、2001年9月の総選挙では惨敗、再びSLDに政権を譲った。なお、大統領選挙に関
しては、1995年の選挙でクファシニエフスキSLD党首(当時)がワレサ大統領を僅差で破り、二期連続
で2005年まで大統領を務めた。
(3)民主左翼連合(SLD)と労働同盟(UP)によるミレル内閣は、2004年のEU加盟等の成果を挙げたもの
の、失業問題、医療制度改革等において有効な対策を示せず、また汚職等のスキャンダルに塗れ支持
率を急激に落とした。2005年の総選挙では、旧連帯系の「法と正義」(PiS)と市民プラットフォーム(P
O)の2党が第1党の座を争い、PiSが勝利した。また同年の大統領選においてもPiS出身のカチンスキ・
ワルシャワ市長(当時)がトゥスク市民プラットフォーム(PO)党首を僅差で破った。
(4)「法と正義」(PiS)は、2006年から「自衛」及びポーランド家族同盟(LPR)と連立を組み、軍情報機関の
再構築、中央汚職対策庁(CBA)の設立等の自党の政策実現を進めてきたが、2007年8月に連立を解
消するに至った。同年10月21日の任期前倒し総選挙では、「市民プラットフォーム」(PO)が勝利し、11
月16日にPOと農民党(PSL)の連立によるトゥスク内閣が発足した。2011年9月9日に実施された総選
挙において、POが207議席を獲得し、再び第一党となり(PiS157議席、「パリコト運動」40議席、PSL2
7議席、SLD26議席)、11月17日、POとPSL連立によるトゥスク政権が再び発足した。二期連続の政
権維持は民主化以降初めて。
(5)2010年4月10日、カティンの森事件追悼70周年記念式典に向かう政府専用機の墜落事故により、レ
フ・カチンスキ大統領夫妻他政府高官等96名が死亡する事件が起こった。大統領逝去により、同年6月
に繰り上げ大統領選挙が実施され、7月の決選投票の結果、POのコモロフスキ下院議長がヤロスワフ・
カチンスキPiS党首を破り、大統領に就任した。
19
著名なポーランド人
天文学者
ミコワイ・コペルニク(ニコラウス・コペルニクス)
画家
ヤン・マティコ
軍人
タデウシュ・コシチュシュコ(コシューシコ)
詩人
アダム・ミツキエヴィッチ
音楽家
フレデリック・フランソワ・ショパン
音楽家・政治家
イグナツィ・パデレフスキ
眼科医・言語学者エスペラント創案者
ルドヴィゴ・ザメンホフ
物理学者・化学者
マリア・スクウォドフスカ=キュリー(マリ・キュリー)
社会主義者
ローザ・ルクセンブルク
小児科医、孤児院院長、児童文学作家 ヤヌシュ・コルチャック
カトリック神父
マキシミリアノ・コルベ
(アウシュビッツ強制収容所で餓死刑に選ばれた男の身代わりとなったことで知られ、「アウシュビッツの聖者」と
いわれる。)
カトリック修道士
ゼノ・ゼブロフスキ(被爆後の長崎で恵まれない人々への救援活動
を行った。)
ローマ教皇
ヨハネ・パウロ2世(カトリック聖職者・第264代ローマ教皇)
映画監督
ロマン・ポランスキー
映画監督
アンジェイ・ワイダ
映画監督
クシシュトフ・キェシロフスキ
SF小説家
スタニスワフ・レム
政治家・元大統領
レフ・ヴァウェンサ(レフ・ワレサ)
軍人、首相、元大統領
ヴォイチェフ・ヤルゼルスキ
米国国家安全保障担当大統領補佐官 ズビグネフ・ブレジンスキー
映像作家
ズビグニュー・リプチンスキー
ノーベル賞受賞者
マリア・キュリー(Maria Curie- Sklodowska) 1867~1934 年
科学者。物理学賞(1903 年)、化学賞を受賞(1911 年)
ウラン鉱石の精製からラジウム、ポロニウムを発見し、原子核の自然崩壊及び放射性
同位元素の存在を実証。原子力・核の時代を開く。
ヘンリク・シェンキエヴィッチ (Henryk Sienkiewicz) 1846~1916 年
作家。文学賞(1905 年)
第一次世界大戦勃発後、スイスでポーランド人犠牲者委員会を設立、独立回復の運
動に参加。失われた祖国への思いを込めた 3 部作、「火と剣と」(Ogniem i mieczem)、
「大洪水」(Potop)「ヴォウォディヨフスキさん」(Pan Wolodyjowski)。「クオ・ヴァディス」
(Quo Vadis)を発表。
ヴウァディスヴァフ・レイモント(Wladyslaw Reymont) 1867 年~1925 年
作家。文学賞(1924 年)
第一次世界大戦の際に独立回復の運動に参加。作品に「約束の土地」(Ziemia
obiecana)、「農民」がある。
20
チェスワフ・ミウォシュ(Czeslaw Milosz) 1911~2004 年
詩人、随筆家、翻訳家。文学賞(1980 年)
リトアニア生まれ、訳者。第二次世界大戦中に地下活動に参加。戦後外交官となっ
たが、のちに亡命。米国で教鞭をとる。90 年代にポーランドに戻った。代表作は「まひ
るの明かり」(Swiatlo dzienne)、「囚われの魂」(Zniewolony umysl)、「名前の無い町」
(Miasto bez imienia)、「故郷のヨーロッパ」(Rodzinna Europa)、「ウルロの地」
(Ziemia Urlo)、「これ」 (To)。
ヴィスワヴァ・シンボルスカ (Wisława Szymborska) 1923 年~2012 年
詩人、随筆家、翻訳家。文学賞(1996 年)
授賞理由は、「人間の本質が持つ様々な断面に、歴史的、女性的視点から
アイロニーを込めて照らし出した詩」であった。
レフ・ワレサ(レフ・ヴァウェンサ Lech Walesa) 1943 年~
労働組合運動家、政治家。平和賞(1983 年)。
ポーランドの元大統領(1990~95 年)。電気工としてグダンスクのレーニン造船所
に在職中、1968 年_の三月事件をきっかけに政治活動に関わるようになる。___1970
年の十二月事件では造船所ストライキ委員会のメンバーとして重要な役割を果た
す。1976 年政治的言動を理由に解雇され、以後、非合法の反体制運動に参加。
1980 年夏、政府との交渉で公認を受けた労組「連帯」の委員長に就任。1981 年 12
月の戒厳令で拘留されるが、その後釈放。
1989 年 6 月、円卓会議合意に基づく限定的自由選挙で「連帯」が圧勝し、第二次
大戦後の東欧諸国で初の非共産党政権を発足させた。
1981 年「連帯」代表として来日し、「ポーランドを第二の日本に」と述べたのが有名。
1983 年にノーベル平和賞受賞。1994 年国賓として来日。1995 年の大統領選ではクファシニエフスキ前大
統領に第二回投票で僅差で敗れた。2000 年の大統領選にも立候補したが1%に満たない得票で惨敗。現在
でも積極的に執筆、講演活動を行っている。
ポーランド語では、姓を「ヴァウェンサ」と発音する。
民主化運動の背景 カトリックと「連帯」
ポーランドは 1919 年まで、ロシア、プロイセン、オーストリア
(「三国分割」)の領域下にあり、もともと反ロシア的感情が強
い地域であった。ソ連の影響下に置かれてからも反ソ連的、反
体制的、反共産党的な勢力が、国内の改革と民主化を求めて
暴動を起こし、ポーランド政府はソ連による介入を防ぎつつ、
ある程度国内の民主化への要求を聞き入れるという対応を繰
り返してきた。
1978 年のローマ教皇ヨハネ・パウロ 2 世の誕生は、民主化
運動に大きな影響を与えた。ポーランド人初の教皇の誕生は、
ナショナリズムの高揚とソ連への抵抗心を強めるといった結果
をもたらした。就任 8 か月後に初めて故国を訪問した際には、
熱狂的歓迎をもって迎えられ、ワルシャワのユゼフ・ピウスツキ
グダンスク造船所
元帥広場に集まった人々に「(共産主義政権を)恐れるな」と訴え
た。
1980 年からはレフ・ワレサ率いる独立自主管理労働組合「連帯」が活発化。政府は翌 81 年 12 月に「連帯」
を非合法化し、全土に戒厳令を布告したものの、民衆の民主化要求に背くこの行為は、共産圏を除く世界各
国から激しい非難を浴びる結果となった。
非合法とされながらも「連帯」は以降も活動を続け、彼らを中心とした勢力は引き続き国内改革と民主化を
要求し、社会主義政府を揺るがし続けた。
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さらなる民主化を模索する動きは、1981 年に非合法化された「連帯」の合法化から始まった。1989 年の 2
月からはポーランド統一労働者党政権と「連帯」をはじめとする民主化勢力との間で話合いが行われ、両者
の間で自由選挙の実施をすることで合意がなされた。この合意は 6 月に実行に移された。
東欧では先頭を切って自由選挙が実施され、ワレサ率いる「連帯」が圧勝した。新政権として民主化を求
める非統一労働者党勢力が主導権を握りつつも、統一労働者党勢力を政権に取り入れる連立政権が発足
し、ヤルゼルスキが暫定的な大統領に就任。首相以下閣僚に「連帯」などの非統一労働者党勢力出身の人
物を任命して、新生ポーランドがスタートした。
新政権は、ポーランド統一労働者党に極めて有利であった憲法を改正したほか、ポーランド人民共和国か
らポーランド共和国へ国名を改正し、国民の直接選挙による大統領選挙の導入などを決定。この結果を受け
た 1990 年、国民の直接選挙によって選ばれた初めての大統領として「連帯」のワレサが当選。政権の完全
委譲が果たされた。
独立自主管理労働組合「連帯」(http://www.solidarnosc.org.pl)
全国的な反共自由労働組合。通称、「連帯」(Niezalezny Samorzadny Zwiazek Zawodowy Solidarnosc)。ポ
ーランド語での略称は「NSZZ "Solidarnosc"」。
1980 年、政府による食肉価格の値上げを発端として、食料値上げに反対する労働者のストライキがグダ
ンスク造船所(旧レーニン造船所)で起こる。グダンスク協定により自主的な労働組合の設立が許可され、同
年 9 月 17 日発足。
組合員数 約 68 万人(2012 年 4 月)
本 部 グ ダ ン ス ク ( ul. Waly Piastowskie 24 80-855
GDANSK)
首都ワルシャワ
ワルシャワ(Warszawa ポーランド語では「ヴァルシャヴァ」)は、ポーランドの首都で最大の都市。マゾフ
シェ県の県都。中欧の政治、経済、交通の要衝でもある。ヴィスワ川の中流、マゾフシェ地方に位置し、市内
をヴィスワ川が貫通する。製造業、鉄鋼業、電機産業、自動車産業などの工業都市であり、ワルシャワ大学
をはじめとするポーランド有数の高等教育機関が集中し、オペラ座やワルシャワ交響楽団を有する文化都市
でもある。人口約 172 万人。
地理
中央マゾフシェ低地にあり、平均海抜はおよそ 100m。市内には幾つもの丘があるが、その多くは人工的
に築かれたものである。ヴィスワ川の中流に位置し、市域はその両岸に広がっている。
カルパティア山脈やバルト海からの距離はおよそ 350km。
歴史
ヨーロッパの首都としては歴史が浅く、首都となったのは 16 世
紀の終わりのことである。ワルシャワに最初に人々が住むように
なったのは 10 世紀ごろで、13 世紀の終わりにはマゾフシェ公の
居城が建てられ、今日、旧市街として知られる地区の原型ができ
あがった。15 世紀にはポーランド王国の首都はクラクフのままで
あったものの、ワルシャワは急速に発展した。
16 世紀初めにポーランド王国はマゾフシェ公国を編入し、1596
年、国王ジグムント 3 世は首都をワルシャワに移した。その後、
17 世紀のスウェーデン軍の侵攻により壊滅的な打撃を受けた。
今日のワルシャワに 18 世紀以前の古い建築物がほとんどない
のは、この時代の混乱が原因のひとつである。
18 世紀のワルシャワ
18 世紀後半にはポーランド最後の国王スタニスワフ・アウグス
ト・ポニャトフスキ王の下で栄えたワルシャワだが、ポーランド三
国分割により、18 世紀の終わりにはプロシア領となり、ナポレオン戦争を経て 19 世紀初頭にはロシアの支配
下に置かれることとなる。
第一次大戦後再び独立を果たしたポーランドの首都となったが、第二次大戦中にはドイツに占領され、ゲ
ットー蜂起、ワルシャワ蜂起など、二度の大規模な蜂起を経験することとなる。ワルシャワ蜂起により、ナチ
ス・ドイツはワルシャワ市をほぼ完全に破壊したが、戦後は首都として発展した。
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ワルシャワの各地区(現在)
第二次大戦で破壊された旧市街
ワルシャワの紋章
旧市街の町並み(ユネスコ世界遺産)
中央駅付近のビジネス街(現在)
ワルシャワ蜂起
第二次世界大戦中、ナチス・ドイツ占領下のワルシャワで起こった武
装蜂起。
1941 年の独ソ戦開始で、一時はソ連の首都モスクワ直前にまで侵攻
したナチス・ドイツ軍であったが、
その後敗走を重ね、1944 年には
ソ連軍がワルシャワ近郊にまで
迫ることになった。1944 年 8 月 1
日、武装蜂起が開始された。
レジスタンス側(ロンドン亡命政
府の指揮下にあった)の兵力は 5
万人、ドイツ軍は 2 万人であったが、装備に大きな差があった。ドイツ
軍による懲罰的攻撃により、徹底した破壊が行われ、10 月 3 日鎮圧さ
れた。
ロンドン亡命政府は、ソ連による解放・統治を懸念し、解放後の主
導権を得るため、十分に整わないまま蜂起開始を指示したともいわれ
ている。
破壊された市内
一説には彼我の被害は、レジスタンス側死者 1 万 8,000 人、負傷及
び不明者 2 万 5,000 人、殺された市民の犠牲者 18 万人。ドイツ側死
者 1 万人、不明 7,000 人、負傷者 1,500 人。鎮圧後、約 65 万人の市
民が追放された。(ワルシャワ蜂起博物館資料より。)
生き残ったレジスタンスは、地下活動を継続。ソ連軍進駐後はソ連
を攻撃目標とするようになり、共産政府樹立後も、要人暗殺未遂など
の混乱が続いた。
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ワルシャワ蜂起記念碑
ワルシャワ蜂起を題材とした映画
「地下水道」(1957 年、ポーランド映画)
アンジェイ・ワイダ監督の抵抗三部作の第二作。カンヌ映画祭審査
員特別賞を受賞している。
「戦場のピアニスト」(2002 年、フランス・ドイツ・ポーランド・英国映画)
ワルシャワ蜂起が映画のクライマックスになっている。
ワルシャワ蜂起博物館内部
ワルシャワ蜂起博物館(MUZEUM POWSTANIA WARSZAWSKIEGO )
ul. Przyokopowa 28 http://www.1944.pl 電話:22-626-9506
ワルシャワ蜂起 60 周年の年、2004 年にオープン。映像と効果音などを駆使した体感型博物館。ワルシャ
ワ蜂起に関する出来事や当時の国際情勢を紹介している 2,000 ㎡にも及ぶ展示スペースを回ることにより、
ワルシャワ蜂起の全体像を把握できるようになっている。(月、水、金-日 10:00~18:00 木 10:00~20:00
火曜休館)
ゲットー記念碑( POMNIK BOHATEROW GHETTA, ul. Zamenhofa)
第二次世界大戦中、ドイツ軍は、戦前からユダヤ人が多く住んでいたこの地域に壁を張り巡らして物理的に
ポーランド人と隔離し、ワルシャワの全てのユダヤ人を収容した。延べ 50 万人のユダヤ人がここに追い込ま
れ、うち約 30 万人がトレブリンカ、アウシュヴィッツ等の強制収容所に送られた。1943 年 4 月 19 日には、ゲッ
トーに残っていたユダヤ人が過酷な労働と生存不可能なごく僅かの食料配給に耐えかね、絶望的な「ゲット
ー蜂起」を起こした。蜂起は徹底的に鎮圧され、戦後生き残ったのは 200 人程度だったといわれる。
完全に廃墟と化したこの地域は戦後普通の住宅地として整備された。この記念碑は当時のゲットー区域
に、戦没者の霊を慰めるために建てられ、「ユダヤ人戦士及び犠牲者に捧ぐ・・・ユダヤ民族」と、ポーラン
ド、ヘブライ両語で記されている。1970 年、国交正常化後、ブラント西独首相(当時)がポーランドを初めて訪
問した際に、ここに
ひざまずいたこ
とで有名。
古都クラクフ
クラクフ(Kraków)は、ワルシャワの南約 250 ㎞にある人口約 76 万人(第
2 位)の都市。14 世紀からの約 300 年間、ポーランドが最も繁栄した時期の
首都。第二次世界大戦中も戦災を免れたため、貴重な文化財が数多く残
され、ヨーロッパ中から大勢の観光客が集まる。
工業、文化の主要な中心地でもある。ヴィスワ川の上流に位置し、市街
地はヴァヴェル城を中心としてヴィスワ川の両岸に広がっている。
市の中心、ヴィスワ川を挟んでヴァヴェル城の対岸には、映画監督アン
ジェイ・ワイダ氏の発案で日本美術技術博物館が建設されるなど、日本と
のつながりも深い古都でもある。
地理
近隣の都市としては、約 70 ㎞西にカトヴィツェ、100 ㎞北東にキエルツ
ェ、100 ㎞南にザコパネが位置している。
歴史
町の歴史はワルシャワよりも長く、10 世紀にはカトリックの司教座が設
置され、ヴァヴェル城の丘やその周辺に幾つもの教会や僧院が建てられ
た。1241 年、クラクフはモンゴル人の襲撃によって破壊されたが、その後
行われた再建計画によって、現在見られるような美しい旧市街広場、整然
ヴァヴェル城
とした町並みが作られた。
14 世紀半ば、クラクフはカジミエシュ 3 世(大王)の下で文化的にも経済的にも大いに発展した。しかし、カ
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ジミエシュ大王は後継者を持たなかったためピアスト家は断絶。ピアスト朝は、大王の甥であるハンガリー王
が継ぎ、その後継者の王女ヤドヴィガがリトアニア大公ヤギェウォと結婚したため、リトアニアとポーランドは
同君連合を形成し、ヤギェウォ朝が始まった。
クラクフはポーランド=リトアニア大連合の首都となった。1410 年、両国は宿敵チュートン騎士団を破り、こ
れを皮切りに近隣地方を吸収して広大な多民族国家を築き上げ、繁栄した。
16 世紀に入ってヤギェウォ王朝が断絶すると、しばらくはシュラフタ民主王制(貴族が王を選挙する)の下
で一層繁栄した。しかし、次第に大貴族の力が強まり、外国の侵略もあって国力は低下した。18 世紀末の
三国分割では、クラクフはオーストリア領となり、再びポーランドとなったのは第一次大戦後の 1918 年。しか
し、平和もつかの間で、1939 年にはナチス・ドイツに占領され、占領軍の司令本部が置かれた。この間、大
勢のユダヤ人たちがクラクフを経てアウシュビッツ(ポーランド名オシフィエンチム)などの収容所に送られ
た。
クラクフの旗
(上:白、下:青)
クラクフの紋章
織物会館(中央)と中央広場
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