浜田庄司,アルフレッド ウォリス - 東京工業大学 世界文明センター

東工大クロニクル No. 376
Apr. 2003
海外ニュース
セントアイヴス,浜田庄司,アルフレッド
ウォリス,そしてケトルズヤード
社会工学専攻 教授 肥田野 登
セントアイヴス
昼をだいぶ廻っていたと思う,私は,英国ブリテ
ン島の最西端,コーンウォル地方にある,セントア
イヴスという小さな港町の鉄道駅に降り立った。
この町には,英国の誇る,テート美術館のセント
アイヴス別館がある。この辺鄙な地に,なぜテート
3.大学発ベンチャーとは
もう一度原点に立ち返って考えてみると,大学発
があるのか。それは,大ブリテン島内では気候がよ
ベンチャーとは,1)基本技術や特許が大学の研究
く,19世紀初頭から,風景画のターナーを始め多く
者にあること,2)教官が出資していること,など
の画家がこの地を訪れ,世紀末には,英国のみなら
が基本ですが,大学発ベンチャーの責任として,1)
ずロシア,フランス等ヨーロッパ各地から芸術家た
基礎研究に立脚していること,2)本来の研究や教
ちがここに移り住み,創作活動を行ったためである。
育活動と矛盾していないか,をいつも考え,でもリ
現在その輝きは失っているものの,それでもおおく
スクを犯しての挑戦が基本です。私のつたない経験
の痕跡が残っている。
から成功させるには,経営者との2人3脚で,教官
は経営には口を出さないこと,良くも悪くも学生に
駅から,坂を登り,小さな展望台から,町と港が
影響を与えることをいつも考えておく必要がありま
見渡せる。町は2つの丘に囲まれ広がっている。そ
す。
の真中辺に,彫刻家,バーバラヘップワースのアト
でも,ベンチャー企業に関わって,自分たちの使
リエがある。彼女の作品は,ロンドンのテートブリ
いたい装置ができたこと,研究室の学生によい刺激
テンを飾るばかりでなく,ニューヨークの国連ビル
を与えることができたこと,私自身が社会人として
の前にもある。ヘップワースはヨークシャーの出身
目覚め(権利と義務)られたこと(本当はこれが一
番大きかった),研究と教育が本務であることが再
であり,ヘンリームーアは彼女の美術学校時代,同
級であった。彼女は,ヨークシャー特有のなだらか
確認できたこと,などが収穫と言えば収穫でした。
(生命理工学研究科生体分子機能工学専攻 教授)
な丘からその作品を構想したようにも思えるが,一
方で,セントアイヴスに砕ける波を題材にし続けた。
この地を愛したバーバラは,1975年に,アトリエの
火事でなくなった。
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しかし,墓石は,バーナードリーチが,ウォリスが
好んで描いた灯台をモチーフに焼いた,陶器のタイ
ルで作られたすばらしいものである。
写真1 セントアイヴスのながめ
彼女の2番目の夫は抽象画家のベンニコルソンで
ある。
さてテートセントアイヴスは,北側の丘を越え,
墓地の横に建っていた。斜面を生かして建てられた
この美術館の大きな窓が大西洋の空と波に開かれて
いた。それと対峙するように,浜田庄司の作品が,
バーナードリーチの陶器の横に置かれている。浜田
写真3 アルフレッドウォリスの墓
庄司,日本を代表する世界的陶芸家(文化勲章受章
ウォリスを発見したのは,ベンニコルソンや,バ
者),は旧友バーナードリーチに請われて,この地
ーバラヘップワースや,バーナードリーチばかりで
で窯を作り,多くの作品を残している。
はない。当時ロンドンのテートの学芸員助手であっ
た,ジムエドもまた多くの絵を買ったのである。し
かし,限りなくゼロに近い価格で。
ケンブリッジ
ジムエドはケンブリッジにある,パブリックスク
ール,チップス先生さようならの舞台となった,レ
イズスクールの学生のころから,フィッツウイリア
ム美術館をはじめおおくの場所で芸術品に日常的に
触れていた。
写真2 テートセントアイヴス
しかし,彼はケンブリッジの地に,通常の美術館
テートセントアイヴスを飾る特異な画家に,アル
やギャラリーとは異なり,観客と芸術作品という関
フレッドウォリスがいる。ウォリスは船乗りであっ
係では無く,学生やこの地を訪れる誰もが,もっと
た。60歳を越えてから,この地で絵を始め,小学生
気楽にリラックスして美しいものに触れられる空間
の描くような,不ぞろいの船,家を不整形の板にペ
を作りたいと考えた。1957年から彼は,廃墟となっ
ンキでこすりつけるように表現している。その絵の
た家を改造してこのような空間づくりをはじめた。
持つ力を,セントアイヴスを訪れたベンニコルソン
ケンブリッジ大学はこのプロジェクトを引き継ぎ,
が発見したのは1928年のことである。極貧のうちに
さらに拡張を図った。1970年,ケンブリッジ大学で
亡くなった,ウォリスの墓は,テートの横にある。
もっとも裕福なカレッジであるニュートンが出たト
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リニティカレッジの卒業生である,チャールズ皇太
ケンブリッジにはギャラリーばかりでなく小さな
子の臨席のもと,ジャクリーヌジュプレとダニエル
シアター,ホールやゼミ室もたくさんある。例えば,
バレンボエムのコンサートでその完成が祝われた。
20世紀を代表する経済学者ケインズは,駅近くのハ
この“家”は毎日午後2時間だけ開く特別な場所
ーヴェイ通りの家に生まれたが,自らの株の才覚で
である。ジムのコレクションは膨大な数にのぼるが,
得た富を,長い間勤めたキングスカレッジに寄付し
アルフレッドウォリスの作品はその中で重要な位置
た。それをもとに完成したケインズホールがその一
をしめている。私たちは,このケトルズヤードの家
つである。150人程度のホールである。このホール
で彼の作品と出会うことができる,ヘップワース,
ではよくコンサートが開催される。新曲や,発見さ
ベンニコルソン,バーナードリーチにも,ヘンリー
れたスコアーの演奏等多彩な実験が試みられてい
ムーアにも。そして小規模なコンサートが頻繁にこ
る。
の家で開かれている。
キングスカレッジのフェロー用の建物であるギブ
ケトルズヤードはケンブリッジの至宝といえよ
う。
スビルディングの小さな暖炉付きゼミ室ではセミナ
ーが開かれるが,科学哲学者バートランドラッセル
この家を出ると左手にケトルズヤードのギャラリ
の跡を襲った,ヴィトゲンシュタインと社会工学の
ーがある。ここでは現代芸術の絵画,彫刻,映像,
提唱者であったカールポパーの論争もここで行われ
さまざまなものが,一ヵ月ごとに取り替えられ展示
た。
されている,ケンブリッジ大学が招いた若いアーチ
ストたちの作品も積極的に取り上げられている。
これらの小さな,しかし本物の仕掛けと人のつな
がりが,ケンブリッジの知的創造を支え,そして新
たな宝を再生産している。
東京
もし本学が世界最高水準の理工系総合大学を標榜
するなら,ケトルズヤードの質の高さやケインズホ
ールの実験,ギブスビルでの熱気あふれる論争を作
り出す,現代の,芸術と,経済学と,哲学の大樹を
学内に育てなければならない。なぜなら骨太の科学
技術はそれだけでは単独に成立しえないからだ。
浜田庄司は旧制府立一中時代,芸大出身で,端正
写真4 ケトルズヤードギャラリー外側から
で愛のこもった作風の板谷波山が教える蔵前(東京
工業大学)への進学を決め迷いは無かったという。
浜田のような,芸術と技術,哲学と経済の結びつい
た,真の意味で独創的国際的な人材を輩出する為に
は表面的な実績や声の大きさでなく本当に力のある
人たちを見極める眼力と彼らを支える決意と実行が
不可欠だと思う。
写真5 ケトルズヤードギャラリー内側から
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