教会報169号 - 日本基督教団 柿ノ木坂教会

日本基督教団
柿ノ木坂教会
主任担任教師
牧師 渡邊義彦
教 会 報
169 号 2015 年 5 月 24 日
〒152-0022
東京都目黒区柿の木坂
1-31-19
電話:03-3717-3870
F a x : 03-3717-3916
巻頭言
「神にすべての誉れを帰す」
――フィリピの信徒への手紙第 2 章 6〜11 節――
牧師
渡邊
キリストは、神の身分でありながら、神と
義彦
以前、同じ聖書箇所からクリスマスのメッ
等しい者であることに固執しようとは思わず、 セージを聞きました。世界を救われる救い主
かえって自分を無にして、僕の身分になり、
が、身をまことに低くされ、世界にまで、わ
人間と同じ者になられました。人間の姿で現
たしたちのところにまで己を虚しくして来て
れ、へりくだって、死に至るまで、それも十
くださったことをクリスマスは教えてくれて
字架の死に至るまで従順でした。このため、
います。クリスマスの出来事に表されている
神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさ
内実、神の御子が人の貧しさを負い己を虚し
る名をお与えになりました。こうして、天上
くされ、まことの謙りをもって人となってく
のもの、地上のもの、地下のものがすべて、
ださったという内実は、主が十字架にお架か
イエスの御名にひざまずき、すべての舌が、
りなることでより鮮明になりました。僕とな
「イエス・キリストは主である」と公に宣べ
り己を虚しくされ、死に至るまで、それも十
て、父である神をたたえるのです。
字架の死に至るまで従順であられた。賛歌は
(新共同訳聖書)
言葉を重ねて、この方の死が十字架の死に至
この聖書箇所は、キリスト賛歌と呼ばれる
る死であり、神の御心に対するまったくの恭
キリストをほめたたえ讃美する言葉です。使
順を明らかにする死だった、と歌います。
徒パウロが手紙を書いた当時に歌われていた
ここで賛歌は底を打って、最も深い深みか
であろう讃美歌を引用したものだ、と言われ
ら上昇に転ずる、主の高挙、高く上げられる
ています。この讃美歌にはキリストがなさっ
様を次に歌います。しかし、ペトロたち、キ
たことが大きく二つ歌われています。一つは、
リストの弟子たちは十字架が自分たちの救い
天から地へと降られる下降の方向にある歌、
に欠くことができないと直ちに了解できたの
もう一つは、地から天へと昇られる上昇の方
ではありません。彼らは十字架に先生が殺さ
向にある歌です。キリストの下降と上昇の御
れることを恐れました。自分たちの先生を殺
業は、キリストの十字架と復活、二つにして
した刃が自分たちにも向かうことを恐れまし
一つの救いの御業です。
た。主を見失い恐れる、この弟子たちに死の
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恐れを克服させたのは、十字架の死からよみ
復活されたキリストは、神としての御存在
がえられたキリストです。復活の主が御傷を
を明らかになさるため、再び天に昇られます。
示され、罪を赦されるため十字架を負ってく
十字架の死に至るまで従順であられたお方は、
ださったことを、彼ら、彼女らにお教えくだ
父なる神の御力によって十字架の死からよみ
さいました。罪ゆえに恐れ続けねばならなか
がえらされ、高く天に上げられ、神の右の座
った死を、もう一切恐れる必要はないこと、
に就いておられます。
復活によって死を越えた永遠の命にキリスト
弟子たちは、よみがえられたキリストにお
は既に生きておられ、キリストを信ずる者た
会いし十字架の救いの恵みの大きさを知りま
ちも終わりの日に同じ命に与ることを、お教
した。十字架の救いの恵みがどれほど大きく、
えくださったのです。
どれほど遠くまでを救いに治めているかを知
まことの人、キリストがよみがえられたの
らされました。よみがえられたキリストとお
です。神であるキリストが復活をなさったの
会いしたこと、十字架の救いを確信したこと
であれば、その復活はわたしたちと遠く隔た
で、弟子たちは何によっても、たとえ死んで
った復活であり、罪に苦しむ人間を本当に生
も取り去られない、堅固な希望を望む者とな
かすことはできません。神とわたしたち人間
ります。主イエス・キリストこそまことの救
とはまったく隔たった異なる存在だからです。 い主であること、主イエス・キリストは十字
神が御自身の御力で自らを復活させたという
架の死を死なれてよみがえられて今も生きて
ことになります。そもそも、神には、わたし
おられること、終わりの日にキリストが再び
たち人間とは違って死も誕生もありません。
来てくださること、キリストを覚える礼拝、
すべての始まりであり終わりであるお方には
キリストを宣べ伝える伝道を弟子たちは直ち
一切の誕生も死もありません。ですから、神
に開始したのです。
御自身は死からの復活を必要としません。死
キリストを信じることの成果が冒頭の讃美
からの復活を必要とするのは、罪の結果とし
歌にも表されています。この讃美に歌われて
て死ななくてはならない人間です。
あるように、教会の暦は、冬の始まりに天か
キリストは神の子でありながらマリアを母
ら降ってこられた救い主を覚え、春に十字架
として人となり生まれてくださいました。人
と復活の主を覚え、そして再び天に高挙され
として地上の人生の終わりに死を迎えられま
たお方を覚え、春が終わろうとするときペン
した。その死は十字架を負われるという大変
テコステ、聖霊降臨日と共に年の後半を迎え、
に大きな苦しみ負われる死でした。人として
キリストがお建てくださった教会の業を覚え
死を負われたキリストは、神の全能の御力に
る季節を迎えます。神の右の座に就かれたキ
よって人のよみがえりの初穂として復活なさ
リストは、讃美をお受けくださり、祈りを執
いました。人であるキリストが死に留まるこ
り成してくださいます。教会は、イエス・キ
となくよみがえられたので、わたしたちも同
リストは主であると告白し、父なる神にすべ
じ復活に与る希望を持つことができます。
ての誉れをお返しします。
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☆☆ご紹介します☆☆
「生まれ変わったわたし」
中島 眞理
南支区のむさし小山教会から参りました。
どうぞよろしくお願い致します。
私は 2009 年イースターにむさし小山教会
の遠藤牧師より洗礼をさずけていただき、こ
の教会でのびのびと育ちました。
受洗した時の印象、それは牧師の黑い正装
姿、銀色の器に入った洗礼用の水、教会から
いただいた色とりどりの美しい花束・・・こ
れら3つが額縁におさまった 1 枚の絵のよう
に私の脳裏に色鮮やかに焼きついています。
教会からお祝いに革表紙の上等の聖書を戴
きました。
こうして私は三位一体の神さまを信じる者
となり、神さまに祈ることを許される者とな
りました。
神の民として生きるようになってからは見
える風景がすっかり変わってきましたよ。例
えていいますと七色の虹の世界にいるような
感じです。以前の私の世界は単色でした。と
ころが今では洗礼の時にいただいた色とりど
りの美しい花束のように色彩豊かです。見え
る風景と私を取り囲む風景が豊かになった気
がします。
また、とても自由になった気がしますよ。
今までの私は窮屈で何かに縛られて生きてい
る感じでした。今ではとても自由になり、気
分爽快です。大空を思い切り羽を伸ばして飛
んでいる鳥のような感じです。
なぜでしょうか? きっとそれはイエス様
が「ありのままの姿でいいんですよ。大丈夫
ですよ。背伸びしなくていいんですよ。
」とお
っしゃっている気がするからです。世間体や
周りの目を気にしなくなったからかもしれま
せん。他の人との比較ではなく神さまの下で
自分を見つめること
の大切さを知ったか
らかもしれません。
友が心配して言い
ました。
「聖書という
一つの世界で生きて
いると一つの夢しか
み ら れ な い よ 。」
と・・・
(限られた世界でしか生きられないよ
という意味だと思います) ところが全く違
っていましたよ。限られた世界どころか、世
界が広がりましたよ。いろんなことを思い切
り楽しみたくなりました。不思議なことに年
をとっても夢見る夢子さんになったんです。
なぜでしょうか? きっと神さまが与えてく
ださった庭があまりにも豊かで美しく魅力に
満ちているからなのでしょう。
また、生き方がシンプルになりましたよ。
楽になりました。なぜでしょうか? それは
この世で出会う喜びや悲しみ、試練はすべて
イエス様の元にもっていけるからです。一人
でかかえ込まなくていいんです。神さまの所
にもって行き、祈る。これは楽ですね。人生
のどんな場面にもイエス様が生きて働いてお
られる。重荷を一緒に担ってくださる。一人
ぼっちではないんです。有り難いですね。
だんだんに図々しくなって「心配事は神さ
まに心配してもらって私は自由になるのよ。
」
と友にのん気なことを言ったりしています。
これはに神さまもあきれていらっしゃるかも
しれませんね。
「おいおい、それは調子よすぎ
るよ。
」と・・・。心配性の私がかなり楽天的
になりましたよ。
私は創世記のヨセフ物語が大好きです。
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ヨセフは青年期に 10 年間も牢獄で過ごしま
した。死の家の生活です。にもかかわらずヨ
セフは健やかに成長したと聖書は語っていま
す。牢にいても同僚に「今日は顔色が悪いで
父親ヤコブがヨセフの2人の子どもに祝福を与
すね。
」と相手を気づかう心が持てるんです。本
で先に次男の方に祝福を与えたのです。ヨセフ
当にそんなことができるのだろうかと首をかし
は不満に思い、父の手を置き換えようとします
げてしまいます。聖書は解き明かします。神が
がヤコブはこれでいいのだとゆずりません。ヨ
ヨセフと共にいたことを。
セフはあきらめというか受け入れる形となりま
神が共にいてくださる。神に知られている。
える場面です。ヨセフは長男、次男の順に祝福
を与えてもらえるよう配慮しました。
ところがびっくり。ヤコブは手を交差してま
した。
このことが確信できる信仰はどんなにひどい境
神の祝福はこの世の常識や人間の考えを越え
遇にあっても人間として健やかな成長が出来る、
ている。神のご計画は計り知れない。人間の思
このことに感動しました。
いはあるけれど、神は自由に働かれる神。
ヨセフ物語の最後の場面も興味深いです。
ここのところが不思議というか奥深いという
死も近くなり、目も見えなくなったヨセフの
か思わずう~んとうなってしまいます。
「ただいま」
江島 香織
このイースターに行われた柿ノ木坂教会の
愛餐会で、転入者紹介としてお時間を頂きま
したが、感極まり泣き出してしまい、途中で
話すことができなくなってしまいましたので、
改めて自己紹介させて頂きます。
2012 年 6 月に、イギリスはロンドンのイー
リングにある ECCJ 日本語教会で洗礼を受け
て、昨年日本に帰国致しました江島香織と申
します。柿ノ木坂教会との出会いは、今から
15 年前になります。長男の健の幼稚園入園説
明会で初めて触れた主任の先生のお祈りに導
かれて、次男の純も含めて 5 年間ベテル幼稚
園にお世話になりました。
初めての幼稚園説明会で、主任先生は先ず、
「この幼稚園はキリスト教の幼稚園なので、
お祈りから始めさせて頂きます。」とノンク
リスチャンへのご配慮ある説明をされてから、
お祈り下さいました。お祈りが始まると最初
に「今日ここにおいでになれなくなった保護
者の方々、また今ここに向かわれている保護
者の方々…」と世間で言う【約束の時間を守
らなかった】方々のことを気遣われる内容に
衝撃を受けてしまい
ました。それと同時
に、これから幼稚園
が始まって、体調を
崩して欠席となって
しまうような時にで
も、こうして我が子
も覚えていて頂ける
のだなと言う安心感
に、即入園を決めました。
そして、長男の健が入園して間もなく、神
様についての質問を毎日投げ掛けてくるよう
になり困り果てました。適当に答えても良い
ような質問ではなかったので、クリスチャン
の友人に相談しました。
友人:「え?、教会幼稚園なのだし、どう
して日曜学校には行かないの?」
私:「え?、日曜日に学校に行くの???」
と次なる衝撃の会話が交わされました。
それからは、親ではなく子に手を引かれ
て、毎週日曜学校に通うことになりました。
その後、長男が無事にベテル幼稚園を卒園
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して、公立小学校に入学して間もなくすると、
「どうして小学校ではお祈りをしないの?」
と質問され、「ボクは礼拝のある学校に行き
たかった。」と更に言われ、大きな衝撃を受
けました。またしても困り果て、この度私の
教補になって下さった長老にどうしたものか
と、ご相談しました。長老のお導きで、ベテ
ル幼稚園を卒園しても、子供達がイギリスの
学校から留学生として招かれるまで、教会学
校の小学科へと繋がれることになりました。
子供達の英国留学生活は、親の転勤同伴で
はなく、小学生から寮生として親元を離れて
学ぶと言う日本では考えられない大きなチャ
レンジでした。始めは、このチャレンジに独
り積極的だった主人に対して、離婚してでも
反対しようとしましたが、最終的には、これ
は子供達に与えられた招きであると思い、死
ぬ気で受け入れました。
留学 2 年目からは、死に絶える前に、母親
である私自身も留学生組に加わり、長男がシ
ニアスクールに進学する頃には、4 人家族が
一人一人別の地で暮らすような生活になりま
した。この間、日本ではあり得ないような災
いも次々と起こりました。イギリスでも、子
供達は学校生活の中で、毎朝礼拝を守ってお
りましたが、私自身は教会に足を運ぶことの
ない生活を送っていました。
久々の里帰りの折に、クリスチャンの友人
に色々を報告しているうちに先日のように泣
き始めてしまい、イギリスにいる間にも教会
へ行くように強く勧められました。彼女の導
きで ECCJ と出会い、初めての礼拝で、子供達
が多くて柿ノ木坂教会の日曜学校みたいだと
思い、「帰って来た!」と感じました。
それから数ヶ月後に、自分ではなく、主を
頼りにこれからの人生を歩みたいと切望して、
洗礼を受けました。
その後、帰国までも変わらず日本ではあり
得ないような試練も受けましたが、それ以上
に驚くような恵みも沢山体験しました。そし
て今は、イギリスで試練の度に与えられた多
くの助け人達に子供達を託して、日本でも平
安のうちに暮らすことができるようになりま
した。
イギリス留学での英国家具修復の学びを活
かして、現在は英国家具を輸入し、静岡の工
場で修理修復をして販売している下目黒にあ
るアンティーク家具店で仕事をさせて頂いて
おります。
このようにクリスチャンとしてまだ未就園
児のような私ですが、これから柿ノ木坂教会
で大先輩の兄弟姉妹から多くを学ばせて頂け
るようにとお祈りする日々です。どうぞ末永
くよろしくお願い致します。
☆☆☆教会の行事☆☆☆
――今まであったこと――(定例行事は除く)
◇3 月 29 日(日)棕櫚の主日。
◇4 月 2 日(木)19:30、洗足木曜日礼拝。
◇4 月 3 日(金)受難日。
◇4 月 5 日(日)10:30、復活日(イースター)礼拝。午後、愛餐会。
◇4 月 19 日(日)礼拝後、2015 年度定期教会総会。
◇5 月 3 日(日)入門講座が再開された。毎日曜日 9:30 から伝道師室で行われる。
◇5 月 17 日(日)子供と共に守る礼拝(花の日合同礼拝)
。
――これからの予定――
◇5 月 24 日(日)10:30、聖霊降臨日(ペンテコステ)礼拝。
15:00、明治学院・南支区共催のペンテコステの集い。明治学院白金校舎礼拝堂で。
南支区合同聖歌隊が奉唱。柿ノ木坂教会、桝田恒長老の指揮、鷺晶子姉のオルガン伴奏。
◇6月は伝道月間、詳細は3ページの案内を参照。
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随
想
偶然のできごと
偶然が続くと、なぜか不思議な感じがしま
せんか。この半年に起ったことです。
その1:昨年 10 月、夫婦二人で香港を訪れ
ました。中国人の友人一家が出席する教会の
礼拝(教会報 166 号参照)に出た日の夜、友
人一家と共にレストランで食事をして店を出
たところで、なんと横浜に住んでいる友人に
ばったり!
その2:2 月半ば、二人とも今は問題ない
けれど、新聞に紹介されていた脳梗塞マーカ
ー検査なるものを受けてみることにしました。
実施しているクリニックをネットで調べ、
その中から適当に選んで、やや遠いけれど、
都心にあるクリニックに出かけました。
検査が終わったところへ受付の方がやって
きて、どうしてここを選んだのか聞きます。
ネットで調べてたまたま、と答えると、彼女
は驚くのです。その方はベテル幼稚園の前身、
幼児グループの卒園生で小川文先生のファン。
お子様方もベテル幼稚園。会堂改築の時、幼
稚園の改築委員をやっていたとおっしゃるの
です。当方の名前に見覚えがあったので尋ね
てみたと言います。なんという偶然。
その3:同じ 2 月半ばのこと。東京改革長
老教会協議会の長老研修会が芝教会であり、
出席しました。
「洗礼試問を巡って」というテ
ーマで牛込払方町教会の山ノ下恭二牧師が講
演をしてくださいました。
その中で出てきた話に驚きました。ある企
業の川崎にある工場の聖書研究会で、明治学
院の秋元徹先生が講師をされていて、その会
から多くの献身者が出た、という話です。
その聖書研究会というのは、私が会社に入
ったときに配属された工場でのもので、私も
入社以来、横浜に異動になるまでの 10 年間、
その秋元先生の聖書研究会に出席していたの
です。実は同じ工場にいた家内も一緒でした。
家に帰ってから調べてみると、秋元先生は
井澤 浩一
1947 年から 1990 年まで 43 年間に亘って講師
を引き受けてくださっていました。
企業の中で、聖書研究会が、会社から補助
金が出る正式の部活動として認められていた
のも、稀有なことでしょう。そして、確かに
この聖書研究会から、会社を辞めて神学校へ
行き、牧師になった人たちが出ています。ま
た、聖書研究会で信仰を得て、今では教会役
員のご用に当っている人、私のように、もと
もと教会に属していて、長老・役員のご用に
当っている人も数名います。
過去にも全く予期しないところで、友達に
出会う偶然を経験しています。そういえば、
かつて、浜松に移られた勝田先生ご夫妻と、
わが教会のいずみ会の何人かが、なんと松本
城でばったり、ということもありましたね。
これらの例のように、率は低くても、確率
論的には起り得る偶然もよくありますが、こ
の偶然について聖書をひも解いてみました。
ルツが恥も外聞もなく落穂ひろいをするた
め、知らずに飛び込んだ畑は、偶然にも夫の
親戚筋に当る人のものでした。
(ルツ記 2 章)
ユダヤ人たちがパウロを殺そうとする計画
は、偶然パウロの姉妹の子が聞いたことによ
り、未遂に終わりました(使徒言行録 23 章)
。
シルカというサマリアの町で水を汲みに来
た女が、偶然イエスと出会い救われました。
そこには「イエスはサマリアを通らねばなら
なかった。
」(ヨハネ福音書 4 章 4 節)とあり
ます。
人の目に偶然と見える出来事も、すべて神
の必然、御計画の中にあると聖書は言ってい
るようですが。単に確率論的に起きる偶然も
ありそうに思います。偶然にはすべて意味が
あるのでしょうか。どなたか教えてください。
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今月のメッセージ
ホームページもご覧ください
-5月のホームページ巻頭言から-
http://kakinokizaka-church.com/
イエスはお答えになった。
「第一の掟は、これ
玄関に走り込んでゆくとき、すれ違いざまに、
である。
『イスラエルよ、聞け、わたしたちの神
これから映画に行くんだ、と言っていきました。
である主は、唯一の主である。心を尽くし、精
正確には、礼拝が終ってから映画に行くんだ、
神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あ
ということです。日曜日の朝に礼拝を献げてか
なたの神である主を愛しなさい。』第二の掟は、
ら、お父さんとでしょうか、お母さんとでしょ
これである。
『隣人を自分のように愛しなさい。』
うか、おばあちゃん、おじいちゃんでしょうか、
この二つにまさる掟はほかにない。
」
楽しみにしていた映画を見に行くことを、うれ
(新共同訳聖書・マルコによる福音書第
しそうに報告してくれました。
これを聞いて、ああ良かったな、と思いまし
12 章 29〜31 節)
毎日曜日、朝9時から教会学校がはじまりま
た。礼拝を休んで映画に行くんだ、というので
す。教会学校教師たちは子供たちが集まってく
はなかったからです。あの男の子は、日曜日の
る前に教会に来て皆で祈りを献げ、礼拝の準備
朝一番、礼拝を献げてから遊びに行ったのです。
をして子供たちを迎えます。クラス準備のない
イエス様は、ふたつのことが最も大切だ、と
わたしは、教会前の十字路で、東西南北、四方
教えてくださいました。神を愛することと、隣
からやって来る子どもを迎えるようにしていま
人を愛することです。
時間の中で生きているわたしたちは、この順
す。
暑い日も、寒い日も、晴れの日も、雨の日も
序を良く考えなくてはなりません。時間の順序
教会にやって来る子どもを迎えていると、ほん
から言えば、彼は、確かに幼い仕方でありまし
とうに励まされます。迎えるときには、挨拶だ
ょうけれども、まず神様を愛することを、週の
けでなく、一言二言、言葉を交わすこともあり
はじまりの朝に礼拝を献げることで表したので
ます。幼稚園を卒園していった子供たちの学校
す。そして、残りの休みの一日を、楽しみの映
での様子や、中学校、高校受験を合格したうれ
画を見に出かけ家族といっしょに過ごしたので
しい知らせや、久し振りに来た子が少し恥ずか
す。わたしたちもこの順序の中で生活を秩序あ
しそうにやって来ることもあります。
るものとすることが必要です。
神を喜ぶこと、そこにすべての力の源がある
そんな中で、先日、ひとりの幼稚科に通って
くる元気のいい男の子が、朝、さあーっと教会
のです。
(牧師 渡邊 義彦)
―――編集後記―――
集会案内
・6月は伝道月間です。この機会に多くの方
を教会にお招きしたいものです。
・転入会されたお二人の姉妹に紹介文を書い
ていただきました。これから共に信仰の道
を歩んでまいりましょう。
・都合により紙面に空きが出てしまったので、
編集子の拙文を入れました。どうか、この
ような時のために、あらかじめ書いておい
てくださる方がいらっしゃると助かりま
す。教会報へのご意見・ご感想を編集委員
長の井澤浩一までお寄せください。
主日礼拝 日曜日 午前 10 時 30 分
聖餐夕礼拝 第1日曜日 午後 5 時
入門講座 日曜日 午前9時 30 分
教会学校 日曜日 午前 9 時
(幼稚科、小学科、ジュニアチャーチ)
*ジュニアチャーチは中学生、高校生です。
聖書と祈り会 水曜日午前 10 時、午後 7 時 30 分
日本基督教団 柿ノ木坂教会
〒152-0022 東京都目黒区柿の木坂 1-31-19
電話 03-3717-3870(教会・牧師館)
03-3723-3870(ベテル幼稚園)
牧師 渡邊 義彦
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