第15話 日立半導体第三の黄金期

牧本資料室
第 1 展示室
「バック・ツー・ザ・フューチャ・半導体」
第15話 日立半導体第三の黄金期
日立の事業経営の中で他社に比べて特にきわだっている点は厳しい「予算制度」である。毎年
の上期、下期ごとに、各事業部・工場で売上高、収益、投資額、人員などについて詳細な予算を
立て、その実績を厳しくフォローする制度である。歴史的に重電分野から会社が立ち上がったこ
ともあり、操業の初期にはこの制度が日立の事業発展に大きな役割を果たしたと思われる。即ち、
予算を策定すればそれが殆んどすべてであったのだ。
期初の予算に対してなるべく100%に近い実績を出すことが理想であるが、重電分野において
はそのような理想に近い形での実績となることがほとんどである。一方、半導体など変化の激し
い分野では予算の数値から激しく乖離することがある。たとえば売上高が(+)30%になることも
あれば、逆に(-)30%になることもある。重電分野出身の経営幹部から見れば「半導体の人達
はまじめに仕事をやっているのか?」という疑念を持ったとしても不思議ではない。そのようなこと
が背景にあるため、半導体の市況が落ち込むたびごとに「予算未達」の責任をとらされる形で、
厳しい処分を受けることになる。私自身、このような形での落ち込みを2回ほど経験していた。先
輩の幹部の中には半導体事業から外された人たちも少なくない。
1992年にもそのようなことが起こった。この年の6月、取締役・半導体事業部長の地位にあっ
た佐々木威氏が、突如関連会社に転出することになったのだ。通常、日立の役員人事は西暦の
奇数年に行われるので、この年の異動は唐突の感が否めないものであり、前期の業績が予算未
達に終わったことの責任を負わされたというのが一般の見方であった。
そして後任の半導体事業部長には私が任命された。5年前、「予算未達」が原因で左遷され、
高崎工場長として赴任した時には、ここが日立における最後のポストになるのではないかという
悲観的な見方をしていたことを思うと、まことに予想外の展開となったのである。
半導体の業績を大きく左右するのは「稼働率」である。売り上げを拡大して生産ラインを目いっぱ
い稼動させることが業績向上のための最大の施策である。何としても積極策によって売り上げを
拡大し、「予算未達」の汚名を返上しなければならなかった。売上拡大のために強化した拡販活
動が設計開発センター長時代に開始したSGOおよびMGOと称する大作戦である。
SGOは「サブミクロン・グランド・オペレーション(サブミクロン大作戦)」の略称であり、MGOは
「マイコン・グランド・オペレーション(マイコン大作戦)」の略称である。実はこのプロジェクトのヒン
トになったのが70年代後半にインテル社で行われた「オペレーション・クラッシュ」つまり「粉砕作
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戦」である。私が高崎工場長として赴任して間もなく、米国の友人からウイリアム・ダビドフ著「ハ
イテクノロジー・マーケティング」が贈られてきた。この本では70年代後半にインテル社とモトロー
ラ社の間で繰り広げられた16ビット・マイコンの激しい市場争奪戦のことが具体的に記されてい
た。当時、16ビット・マイコンとしてはインテル社の8086が市場をリードしていたものの、モトロー
ラ社の68000の方がアーキテクチャーとして優れていると見る向きが多かったのである。ダビド
フを中心とするインテル社のマーケティング・チームはこのことに危機感を持って「粉砕作戦」を立
ち上げ、文字通りモトローラ社のマイコンを粉砕し、勝利を収めたのである。その本ではハイテク
分野におけるデザイン・ウイン活動の重要性が強調されていた。デザイン・ウインのためには単
に製品自体の性能が優れているだけでは不十分であり、お客様がその製品を十分に使いこなせ
るようなサポートが重要であることを強調していた。
SGOは90年2月にスタートした。その対象製品は4MビットDRAMと1MビットSRAMである。
両製品ともに初めて0.8ミクロン技術をベースにした製品であることから「サブミクロン」の名前が
つけられたのである。山村雅博をリーダー役として設計開発部門の中堅クラスが専任のメンバー
として任命された。彼らは製品の中味を熟知し、開発の意図や応用分野についてのしっかりした
知見をもっていたので、顧客からのいかなる質問に対しても即答することができたのである。
SGOはスタート直後から破竹の進撃で成功を収めた。幸運にも丁度プロジェクトがスタートした
月に日立の4MビットDRAMが「日経優秀製品賞」に選ばれた。SGOのメンバーにとってはまさ
に「錦の御旗」を掲げながらのデザイン・ウイン活動となった。販売部門ではこの大作戦を契機と
して顧客から大量の注文をいただく。製造部門はそれに応えるべく総力を上げて増産に励む。
製・販の歯車が噛み合ってその年の夏場には、世界で初めて月産100万個の生産量に達し、6
4KビットDRAM以来の王座奪還を果たしたのである。
SGOの成功に促される形で翌91年2月にマイコン版のMGO(マイコン・グランド・オペレーショ
ン)がスタートした。メモリーに比べて品種の数も多く、顧客も多岐にわたり、応用製品も千差万別
だ。設計部門を中心に優秀な技術者がこの大作戦のために動員された。第一期(91年~93年)
は10名強の人数であったが、第二期(93年~95年)は約30名、第三期(95年~97年)は約8
0名と増強され、世界各地の顧客へのデザイン・ウイン活動が進められた。専任メンバーとなって
リーダー役を果たしたのは阿部正義、川下智恵、堀田慎吉、佐藤恒夫など当時の設計部門の主
任技師たちであり、彼らは技術の真髄をしっかりと理解した上でマーケティング活動に取り組ん
だ。
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推進対象の製品は第 1 期ではH8マイコンが中心だ。これは日立の最初のオリジナル・マイコン
であり、モトローラ社との特許係争の終結を受け、晴れて拡販に打ってでたものである。第二期
以降ではSHマイコンが加わった。性能の面では世界的にも最高レベルの製品であり、MGOのメ
ンバーは最大の誇りと愛着を持って活動を進めた。また、H8マイコンのF-ZTAT版(フラッシュメ
モリ搭載版)も93年に開発され、新コンセプトのマイコンとしてデザイン・ウインが幅広く進められ
た。
この「大作戦」は私が自分から言いだした事でもあり、時間の許す限り顧客の方に直接出向き、
トップセールスの形で活動の支援をした。後になって木原利昌氏から聞いたことであるが、ライバ
ル会社がMGOについて次のような感想を漏らしているというのだ:
「日立の半導体で怖いのはSHマイコンだ。それよりも怖いのはMGOだ。さらにもっと怖いのは牧
本さんのトップセールスだ」。
これにはお世辞も入っているのであろうが、私が日立半導体のトップとしてSHマイコンに明確
にコミットしたことがお客様に安心感を与えたことも確かであろう。
SHマイコンは今日「デジタル・コンシューマ」と総称される製品群を切り開くさきがけの役割を果
たした。なかでも記憶に残るのはカシオが世界初で製品化したデジタル・カメラ(QV-10)へのS
H-1の採用である。画素数は27万画素と鮮明度には欠ける面があったが、パソコンへのインプ
ット・デバイスとして予想を大幅に上回って売れた。また、セガのゲーム機(セガ・サターン)にはS
H-2が採用され、SHの売れ行きを大きく伸ばす原動力となった。因みにQV-10とセガ・サタ
ーンは95年の日経優秀製品賞にかがやいた。
さらにシャープのPDA(ザウルス)、ヤマハの電子楽器(クラビノーバ)、ローランドのミュージッ
ク・ワークステーション、ザナビーのカーナビなどSHマイコンのデザイン・ウインは次々に拡がっ
ていった。
そのようなSHマイコンの強力な勢いを背景としてマイクロソフト社との共同開発が始まる。93
年3月にコンシューマ分野を指向したマイクロソフト社の新OS(WindowsCE)をSHマイコンに搭載
するプロジェクトがキックオフとなった。日立側のリーダーは木原利昌部長、マイクロソフト側はハ
レル・コーデシュ部長だ。また現地ではHMSIのトニー・モロヤンが専任で取り組んだ。このプロジ
ェクトは96年まで続き、節目ごとの打合わせには私が出席して先方の幹部と進行状況のレビュ
ーを行った。その成果は96年11月のコムデックス展示会における WindowsCE 発表会のときに
表れた。この展示会で世界の7社から新OS、WindowsCE 搭載のHPC(ハンドヘルドPC)が発表
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されたが、SHマイコンはその中の5社(カシオ、HP、LG、コンパック、日立)に採用されており、
先行していたMIPSとX86を抜き去ったのである。マイクロソフト社はそれまで PC 向け OS で圧倒
的なシェアを築いていたが、WindowsCE は同社がコンシューマ分野へ進出するきっかけとなり、こ
れをベースとして携帯電話などのモバイル機器や自動車分野への応用が広がっていった。
写真-1はこのときにマイクロソフト社からいただいた記念品である。今日の小型モバイル PC を
思わせるようなモデルである。
写真1 マイクロソフト社からいただいた記念品
また、写真-2はプロジェクト終了時点におけるメンバーの写真である。
写真2 WindowsCE 開発プロジェクト終了記念
(前列左からハレル・コーデシュ、トニー・モロヤン、クレイグ・マンデー、牧本、大西勛、木原利昌)
SGOとMGOの目覚しい活動がきっかけとなって日立半導体の売り上げは鰻上りの形で伸び
ていった。私が事業部長に就任した92年の売り上げが5600億円であったが95年には9600
億円となり、この3年間で4000億円増加して1兆円に迫るところまで拡大したのだ。この時期が
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日立半導体の第三の黄金期ともいえる時期であり、私の半導体人生がもっとも充実していた時
期でもあった。
この年の6月に半導体事業部長のポストを野宮紘靖氏(後に日立国際電気専務)に譲り、私は
電子グループ長となって半導体とディスプレイ事業を管掌することになる。身勝手な表現かも知
れないが、正直のところ「ほっとした」と言うのが感想であった。私の知人からも「君はこれまで半
導体の収益問題で何回も痛めつけられたが、もう赤黒で責められることも無いだろう」と慰められ
たほどだ。
しかし、それから間もなく、世の中がそんなに甘いものでないことを痛いほど知らされることにな
る。半導体のダイナミズムの激しさ故に、わが人生の最大の谷が近づいていたのである。
第16話につづく
ここに掲載した記事は2006年7月12日から2008年1月9日まで、半導体産業新聞に掲載され
たものを元に加筆訂正し、ウエブ用に再編集したものである。
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