私が「郵船学校」で学んだ経営者の心得

私が「郵船学校」で学んだ経営者の心得
世の中への提言といっても、そうネタがあるものじゃない。特
に、経済は生き物だから、その視点次第で 180 度違った論理展開
ができる。だから、私には経済問題に関して断言する勇気はない。
森羅万象(しんらばんしょう)を反映する株の世界にいると、ま
すます口が重たくなり「相場は相場に聞け」となる。浅学菲才(せ
んがくひさい)の私にできることがあるとすれば、経営者の端く
れとして自分の経験談をすることくらいだ。今回はそれにお付き
合いいただくこととしたい。
私は評論家でも学者でも、ましてや哲学者でもない。一人の経営者として「私だけが知
る、私だけの歴史」を頼りに、時代を読む社長業に携わっている。成り行きでその立場に
置かれたので、しょうがないと諦めているが、そうした職務に最も向いてない一人だと常々
思っている。若い頃から画家志望だった。組織というものを心の底では信用しておらず、
自分勝手に生きていくのに向いた性格だとずっと思っていたからだ。京都の「哲学の道」
の碑に刻まれている西田幾多郎の言葉、「人は人 吾はわれ也 とにかくに 吾行く道を
吾は行くなり」というのが好きだ。座右の銘を問われたら、この言葉が真っ先に浮かぶ。
唯我独尊は傲岸不遜(ごうがんふそん)と読み替えられなくもないが、生きるスタンス
としては決して間違ってはいないと私は思っている。ただ、自分ひとりで生きていけると
思ったら大間違いだ。様々な人達が自分を支えてくれている。一見矛盾しているようだが、
そこに心の葛藤が生じ、自律で生きていこうという覚悟が生まれると思うからだ。他律で
生きる人生ほど空しいものはない。
人生には様々な恩師との邂逅(かいこう)がある。自律とは何かをそうした恩師から教
えてもらったように思う。先日叙勲された大学ゼミの石弘光先生もそうだし、私が以前在
籍していた日本郵船の社長だった菊地庄次郎氏もそうだった。ずっと以前に綴(つづ)っ
た『郵船学校』という拙文をここに引用したい。
「スルドイ」
。一瞬、会議室内がシーンとなった。隣の課長の顔を見るとみるみる紅潮し
てきた。しばらく間を置いて担当常務が、
「ガハハハハ、務台(私の旧姓)君、よく言った。
してその心は?」と聞いた。
「いや、あの…その……痛いところを突かれたなと思いまして、
つい…」
。
私が以前勤めていた日本郵船では、若手社員に御前会議と称して、会長・社長、以下重
役陣の前で講義をさせるという慣習があった。その会議で、私は課を代表してある問題に
ついて御前講義をした。その際、社長より質問があり、どうせくだらない質問だろうと高
をくくっていたところ、豈(あに)はからんや実にポイントを突いたものだったので、思
わず発した言葉が冒頭の発言であった。
幸い担当常務の当意即妙の間の手に救われ、続く爆笑の後の講義は、他の重役達の「で
は、私もスルドイ質問をしてみようかな」といった具合で、一方通行になりやすい講義が
一転して討議の場となり、閉会時の菊地会長の「今日は、実に楽しい議論を聞かせてもら
った」という言葉で括(しめくく)ることができた。
■社長の「目の下の隈」の理由
私が郵船会社に入社したのは昭和 51 年(1976 年)であった。ちょうどオイルショック後
の不況期で、同期は 10 人しかいなかった。その時の社長が菊地庄次郎氏だった。
社長招宴会が青山の社員クラブで開かれた。定刻に遅れること 30 分して社長が現れたの
だが、その顔を見て同期一同一様にドキッとしたのである。目の下には黒々と隈(くま)
ができ、メガネの奥の眼はギラギラと光っている。まるで闇夜に現れた亡霊だ。新人一人
ひとりと言葉を交わし、仙台弁のその語り口はマイルドであったが、全体からはカミソリ
のような殺気を感じたのは私だけではなかったと思う。
グラスを重そうに傾けながらの「勉強しなさい。自分の為に。郵船は会社である前に、
学校だと思って下さい」という言葉が今でも耳に残っている。その真意も分からぬまま、
同期の連中とは「社長ってのは、大変なんだなあ」と呑気(のんき)に言い合ったもので
ある。隈の原因は後で知った。
当時郵船は海運中核6社中のブービーの業績であった。それ以前の 40 年代の 10 年間は、
高度成長に乗っていわば得手(えて)に帆を上げたように順調に業績を拡大し、企業体力
を一段と充実させて中核6社のトップを維持していた。社員の中に「不沈艦郵船」という
気持ちが蔓延(まんえん)してきた矢先の業績急降下であった。実は前年の 50 年(1975 年)
に、菊地社長はある大決断をした。当時高収益を誇っていたタンカー船隊の大整理を実行
したのである。
■社内の総反対を押し切っての社長の決断
定期船を軸として発展してきた郵船に、高度成長に合わせる形で、タンカー、不定期船
という新たな柱を加えたのは、戦後ずっと経営の中枢にいた菊地氏の陣頭指揮の下であっ
た。竣工(しゅんこう)して走り出せば何億と稼いでくれるタンカーを、高度成長は終わ
ったとして、逆に1隻何十億というキャンセル料を払ってでも船台ごと売り払え、できぬ
船は追加コストを払ってでも他船型に変えろ、と指示したのである。1年前に問題提議を
したうえで、社内で大議論をし、最後は総反対を押し切っての決断であったという。
オイルショックを挟み、それまでの高度成長時代は終わり低成長に移るという議論は、
ローマクラブの「成長の限界」といったリポートに代表されるようにあったことはあった
が、皆疑心暗鬼で、少し我慢すれば元に戻るという過去の延長を信じる方が多かった。問
題提議の時点では現にタンカーで大もうけしていたわけであるから、菊地社長が孤立した
ことは容易に想像できる。社内外から、「菊地狂ったり」といわれる中での孤独な決断で
あった。
若い頃から大変な勉強家で、経済哲学、経済理論、経済史観で一家言を有し、冷徹な頭
脳を持つ者だけが成し得る決断だったと思う。一方で、これを冷笑した会社がその後大き
な時代のうねりの中に消えていったのである。その結果がまだ分からぬ時点での、招宴会
のあの社長の鬼気迫る表情を、私は今でも夢に見る。
明治 45 年(1912 年)生まれの菊地氏は、若くから戦後一貫して郵船の経営の中枢にあり、
郵船中興の祖と呼ばれる。旧制高校時代は土井晩翆教授に、また大学時代は河合栄治郎教
授にかわいがられた学究肌の人だった。亡くなられる年、昭和 59 年(1984 年)に連載され
た日経の「
『私の履歴書』~ただ一筋の道~」で次のように述べられている。
■経営者はすぐれて教育者でなければならぬ
「企業も生物と同じで、成長期、爛熟(らんじゅく)期を経て没落期にさしかかるのが
自然の過程であるという哲学を私はもっている。企業の生命を伸ばす為には、企業を支え
る世代の見事な交代がない限り実現困難だと思う。そうした中で企業の盛衰を決めるのは、
結局は企業を構成する人間集団である。輝かしい伝統も、優れた組織や強力な蓄積も、そ
の時々の担い手次第で槿花一朝(きんかいっちょう)の夢となる。したがって、企業にと
っては人材育成が何にもまして重要なテーマであり、経営者はすぐれて教育者でなければ
ならぬと思っている。私は、教育は仕事を通して教えるのが基本であると考える。それは
結構手間が掛かるが、その際私は『会社の為に働け』と言ったことがない。自身の充実し
た人生の為に自身を磨けと言っている。将来の応用力を養う為に深い掘り下げを求めるか
ら、時には相手がオーバー・ロードになるおそれはあるが、人間の能力が向上するのはま
さに苦難を乗り切る過程においてである。そういう努力の集大成が結果として会社の為に
なる。半面から見れば、社員個々のポテンシャルを、単純なトップダウン方式ではなく自
由なコミュニケーションの中に啓発しつつ、その特色・長所を企業の強化につなげるのが、
経営者の使命であり、経営の根幹であると、私は信じている」。
経営者は教育者であらねばならぬという菊地理念は、当時の郵船に息づいていた。冒頭
のエピソードなども、大学の同窓に話すと信じられない顔をするが、郵船では担当者が、
その件に関しては最も良く知っており、従って発言権も大きく、会社の代表たるべしとい
うカルチャーがあったように思う。
もちろん、責任は上の者がとるわけであり、経験の浅い若手の意見がそのまま通るほど
甘くはないが、まずは担当者に考えさせ結論を出させるということを徹底させていた。ど
うしましょうかではなく、私はこう考えるから承認してもらいたいというメモでなければ
突っ返された。結果として社員は皆すこぶる生意気であった。皆社長になったつもりでい
る。
正直言って、私はその中で劣等生であった。物を深く考える訓練をしてこなかった咎(と
が)めである。郵船に入って初めて、世の中にはとてもかなわない人間が、すいぶんとい
るものだなと思った。
自信を喪失しかけた 20 代後半の出来事である。上司よりあるリポートの提出を求められ
た。2~3日徹夜して書いたそのリポートが、当時の菊地会長にも廻(まわ)った。出来
の良いリポートだったからではなく、郵船ではよくある事であった。会長コメントが裏に
ぎっしりと赤ペンで書かれていた。通常この種のコメントは、ご苦労さま、良く頑張った
ねというニュアンスであるものだが、全くそうではない痛烈なものだった。
■「勉強しろよ、自分のために」
論点が曖昧(あいまい)である、勉強が足りないからだ、ここに論理的矛盾がある、も
っと良く調べろ、もっと良く考えろ、ヒントとしてこういう事がある。新入社員に毛が生
えた社員にとって、これ程エンカレジングなものはない。再度頭を絞って書き上げたリポ
ートに会長のコメントは無かった。恥ずかしかった。しかし、不思議に落胆はせず、むし
ろ、付け焼刃の知力など見る人が見ればお見通しか、もう少し頑張ってみるかという気に
なり、その時、招宴会での菊地社長の顔がフッと浮かんだ。
「勉強すろよ。ずぶん(自分)
の為に」
。ニタッと笑って、菊地氏は私にそう言ったのである。
私は郵船に 11 年間お世話になって退社したが、会社に勤めたというより、郵船という学
校に通学していたように思えてならない。劣等生とはいえ、そこで様々なことを学んだ。
会社に何の貢献も出来ずに辞めたことに、後ろめたい気持ちはずっと持ち続けてはいるが、
今でも当時の上司、同僚、後輩が色々な会合に呼んでくれ、たまに、丸の内の郵船ビルに
行くと、色々な人から声を掛けられる。私にとって郵船は人生最大の恩師である。
恩師の教えに背くことばかりしていて、自律がますます遠のいていく。「そんなことで
大丈夫なのか?」と最近は自問自答しているが、まあ、何とかなるだろう。