2013日本自動車殿堂 殿堂者

2013日本自動車殿堂 殿堂者(殿堂入り)
Japan Automotive Hall of Fame, Awarded Inductees of 2013
選考主題 自動車社会構築の功労者
Theme of selection : Person of merit who has furthered the cause of motoring.
主張のある自動車の追求と実現
Pursuit and realization for theoretical excellent cars
水澤 譲治 氏
Mr. Joji Mizusawa
●
フライングフェザーなど超小型経済車に挑戦
Challenge to develop Flying Feather and ultra-compact economy cars
富谷 龍一 氏
Mr. Ryuichi Tomiya
●
日本の量産・高精度技術を指導
Providing direction for Japan’s mass-production and high precision technology
ウイリアム R ゴーハム 氏
Mr. William R. Gorham
●
自動車実学に徹したモータージャーナリスト
A motor journalist committed to practical science
小林 彰太郎 氏
Mr. Shotaro Kobayashi
日本自動車殿堂者の表彰原本は殿堂に登記され国立科学博物館において紹介される
The original copies of testimonials awarded to the inductees of Japan Automotive Hall of Fame are registered at the Hall of Fame,
and are presented at The National Science Museum.
17
主張のある自動車の追求と実現
水澤 譲治
いすゞ自動車株式会社 元取締役会長 水澤譲治( みずさわ じょうじ)略歴
1 9 2 3
( 大正1 2 )年 3 月
1 9 4 6
( 昭和2 1 )年 9 月
1 9 4 6
( 昭和2 1 )年1 0 月
1 9 6 1
( 昭和3 6 )年 5 月
1 9 6 1
( 昭和3 6 )年1 0 月
1 9 6 3
( 昭和3 8 )年 8 月
1 9 6 6
( 昭和4 1 )年 7 月
東京都に生誕
東京帝国大学第一工学部機械工学科卒業
いすゞ自動車の前身ヂーゼル自動車工業㈱
に入社 東大生研石原助教授と共同研究。国産初の
大型、中型、小型自動車トルクコンバーター
研究開発
技術援助協定による乗用車ヒルマンの国産
化業務完了
同社研究部小型車設計二課付
乗用車ベレル開発
ディーゼル乗用車開発で日本機械学会賞
受賞
同社研究部設計室乗用車設計課長
乗用車ベレット 、ベレットGT 開発
同社設計第二部主査室主査
同社設計企画室主査
乗用車フローリアン開発、117クーペ開発
米国向けピックアップトラックLUV開発
1974
(昭和49)年6月
1979
(昭和54)年1月
1981
(昭和56)年1月
1982
(昭和57)年1月
1985
(昭和60)年4月
1989
(平成 元)年1月
1992
(平成 4)年1月
1994
(平成 6)年1月
2002
(平成14)年3月
同社取締役、開発本部副本部長
GMワールドカー乗用車ジェミニ開発
同社常務取締役、開発本部長補佐
ディーゼル乗用車ジェミニ開発
セラミックグロープラグU-QOS 開発 同社専務取締役、開発本部長
ピアッツァ開発
4 WD・SUVビッグホーン(Trooper)開発
同社取締役副社長
GMワールドカー乗用車アスカ開発
ディーゼル乗用車最高スピード記録樹立
科学技術庁長官賞受賞
乗用車FFジェミニ開発
同社取締役会長
同社取締役会長退任、相談役
同社相談役退任、顧問
顧問退任、4月特別理事
現在に至る
戦後の日本で、次世代を切り開きたいという夢の実
現を目指して、いつの時代にも通用する技術者魂を発
揮し、今の日本の自動車産業の礎を築いてきた数多く
の技術者がいる。いすゞは後発国産乗用車メーカーと
して、ほとんどゼロからの技術開発、商品開発の労苦
を経験している。困難を極めた開発を主導し、技術の
主張を持つ、個性的で、また美しい乗用車、国際的に
試作したトルクコンバーター羽根車
通用するピックアップトラック等を開発する偉業を成
し遂げた水澤譲治氏、および、担当したエンジニアの
技術者魂には敬服を禁じえない。その足跡を紹介し、
あとに続く技術者へのメッセージとしたい。
開発技術者としての門出
1)初挑戦としてトルクコンバーターの共同研究
入社した終戦後の社会情勢下で新人技術者の活躍
する場は少なかったが、トルクコンバーターの研究開
いすゞ初のベレルトッププレゼンテーション(左端:水澤氏)
発を担当し、東大生産技術研究所石原智男先生との
独自開発に踏み切る。その第一弾がベレルである。営
産学協同研究に参画する機会を得た。実機開発を含
業からの強い要望でタクシー仕様も企画された。特に
めた研究で、理論的な解析をツールとして最適な設計・
ディーゼルエンジンを搭載するという、いすゞの独自
開発に適用し製品化する手法-シミュレーション-の
性が盛り込まれた。その頃の乗用車開発体制は不十分
重要性を学んだ。新技術に怯まず挑戦して実現する強
で、例えばスタイリングを担当するデザイナーもいな
い信念が発揮された最初の事例であろう。技術を大切
ければモデルの制作道具もない、車体構造設計も初
にし、新しいことにチャレンジするいすゞの風土は今も
挑戦、乗用車にディーゼルエンジン搭載も初体験等々。
受け継がれている。
この状況下で耐久・信頼性が要求されるタクシー車も
含めた開発に踏み切ったのも新技術に立ち向かう姿勢
いすゞ乗用車開発の基礎固め
があってのことである。開発には思いがけない多くの課
1)基礎的な開発技術の習得 |ヒルマンの国産化|
題に直面したが着実に解決策を講じていった。デザイ
戦前はトラックを中心に事業を営んできたいすゞだっ
ナーとして芸大から優秀な学生をスカウトし工業デザ
たが、綜合自動車メーカーを目指して乗用車事業に進
イン部門の基礎ができる。ディーゼルエンジン搭載
出する方針をかため、英国ル ーツ 社と技術提携してヒ
で効果的な振動騒音対策に知恵を絞り、この経験で
ルマンを国産化することになった。これが水澤氏の夢
研究・開発力は確実に高められ、貴重な財産として引
の実現のスタートだった。これを機に乗用車開発チー
き継がれることになる。懸命の改良を進めた結果、品
ム が設立されリーダーとなる。いざ国産化となると彼
質は向上し、19 63年に機械学会より本格的ディーゼ
我の乗用車技術の格差に驚く。金属材料の熱処理の
ル乗用車として製品賞を授与され苦労が報われた。
違い、部品メーカーのノウハウ非開示等々基本的な
技術情報の不足に直面した。この苦境を乗り切れたの
主張のある乗用車を目指して
は、リーダーの技術に対する鋭い洞察力と、明確な意
1)個性豊かなくるま「ベレット」の開発
思決定に負うところが大きい。チームのメンバーは迷う
独自開発の乗用車二代目にして、革新性があり、高
ことなく業務に没頭できたと想像できる。
い市場評価が得られたくるまが何故開発できたのか。
2)初の乗用車独自開発に挑戦 |ベレルの開発|
企画前に当時の欧州四大自動車ショーを視察し、世界
ヒ ル マン 国産化の経験を得て、いよいよ乗用車の
の乗用車のレ ベ ル に目から鱗の衝撃を受けた事が強
19
ベレットのデ ザインコンセプト
く影響しているのは間違いない。
「 個性のないくるまは
人を惹きつけない」…水澤氏がよく口にした「くるまへの
思い」である。ベレットの開発時期はベレルの生産立
ち上がりと併行することになったため、新しいチームが
GTの名に恥じない本格派ベレット16 0 0 GTR
編成され水澤氏がその責任者となる。メンバーは未経
な困難に遭遇する。中でもこの車の性格のカギを握る
験だが、やる気満々の怖いもの知らずの若者達だった。
リヤサスペンションの開発は最も難航した。ダイア
高速道路の開通、オリンピック開催など、世の中は景
ゴナルリンク構造の設計、スイングアクスルによる
気の上昇とともに個人のくるまへの興味が急速に膨ら
横転のリスクの回避が特に重要な課題であった。
みつつあり、自身の思いを精一杯ぶつけられる環境が
上司からの「自分の信じる通りにやれ」との励ましと
整ったのである。ベレットは藤沢工場の主力車種とし
水澤氏の強い信念がグル ープ全員の能力を引き出し、
ていすゞの命運をかけるくるまと位置づけられており、
昼夜を分かたぬ苦心の末、次々と名案が生まれ難問を
既に工場建設工事も着々と進んでいた。皆が工事現場
解決した。最終的にバランスのとれた「高速安定性、
を訪れ、責任の重さを痛感し、チ ーム 一丸となっての
操縦性の優れた本格的スポーツサルーン」に仕上がっ
目標達成を決意した。コンセプトの実現にあたって、
た。リーダーの目標達成への信念がメンバーを動かし、
世界中の目ぼしい車を徹底的に調べながら、分解した
解決に導いたといえる。続いて開発したのが日本初の
部品構造から設計意図などを読み取りイメージ を固
グランツーリスモで、低いフォルムのボディーに1.6L
めていった。狙いを具現化するためエンジンは新開発
の DOHCエンジンを搭載したベレット1600GTRは、
の1.3/1.5Lのガソリンと1.8Lディーゼル、サスペン
卓越した動力性能と操縦性能がレース・ラリー競技で
ションは4輪独立懸架でリアにはスイングアクスル、
の好成績をもたらし、一層多くのファン に絶大な人気
ステアリングはラックアンドピニオン、トランスミッ
で支持されることになった。
ションは4段ダイレクトコントロール等々、当時として
2)美しいくるま「117クーペ」
は思い切った仕様を積極的に採用した。スタイリング
ヒルマンに続いてオーソドックスなファミリーサルー
は社内デザイナーによるスポーティなイメージを強調
ンとしてフローリアンを開発。更にこのくるまをベース
したオーバルラインを採用。いずれも水澤氏の強い主
にして世界に通用する車を目指して外部の才能を活用
張が反映されたものである。新装置の開発とあって様々
することを決意した。イタリアのデザイナー、ジュー
ジャーロ氏がデ ザインした117クーペ は当時最も美
しいくるまとして高い評価を得た。160 0cc の美しい
DOHC エンジンを搭載、手づくりの「 高嶺の花」とい
われ、未だに日本全国に117ファンクラブが残ってい
発表当日のベレットと水澤氏
ジュージャーロデ ザインの117クーペ
117クーペの後継車ピアッツァ( 写真は原型となったプロトタイプ)
国際市場で好評のタイ製 D-MAX
る珍しいくるま。その後継車が同じくジュージャーロデ
ディーゼル(タイ名:ファスター Z 、D-MAX)が大人
ザインのピアッツァである。
気となり、長年シェアNo1を争うピックアップとして君
臨し輸出先も全世界に拡大している。
ワールドカー構想の中のいすゞ
GMと資本提携を契機にワ ールドカ ー構想に参画
ディーゼ ル を経営の柱に
し、水澤氏がいすゞのチーフエンジニアとして交渉に
戦前からの「ディーゼルをいすゞ経営の柱とする」と
あたる。当時GMの小型車開発はドイツのオペル社が
いう大方針はいすゞの乗用車にも綿々と受け継がれ、
担当、その中でいすゞの個性を生かす企画が練られ、
1.8 Lジェミニディーゼルは当時世界を席巻していたゴ
日本市場向け仕様として新型1.8Lディーゼルエンジ
ルフディーゼルをしのぐ評価を得た。特に新開発のセ
ンを搭載して非常に高い評価を得た。その後、このモ
ラミックス技術を活用した瞬間始動システムは、ディー
デ ル の後継車としてFFジェミニ をいすゞ独自で開発
ゼルをより使い易いくるまにする画期的な開発として注
し、その俊敏な走りは“ 街の遊撃手”のCMに乗って
目され、科学技術長官賞を受賞した。乗用車ビジネス
市場に浸透した。しかし、対米輸出は自主規制枠の更
撤退後も小型ディーゼ ル はGM と共にポーランド で
なる延長が続きいすゞにとって大きな痛手であった。
生産を続け、米国ではGM とV8ディーゼ ル工場を操
ワールドカー構想の第二弾として、中型乗用車の企
業。アジアではタイの2.5L 直噴ディーゼルの拡大、
画が開始された。水澤氏が日本市場への競合力重視
新工場の建設など、いすゞ経営の柱となっている。
を主張し、新開発の2.0Lディーゼルエンジン搭載を
含むフローリアンの後継車としてのアスカが誕生した。
あとがき
後にターボディーゼル乗用車として最高速度世界記録
「夏草や兵( つわもの)どもが夢の跡 松尾芭蕉」
を樹立した。
当時の記憶を巻き戻すために参考にした内部の記録
冊子
「光芒-いすゞ乗用車開発の軌跡-2001年編集」
SUV 車の開拓
を読み直してみると、芭蕉の句が伝える思いが身にしみ
乗用車の台数が伸びない局面を打開するためピッ
るような気がする。夢を実現させ、自分がこの世に存在
クアップトラックを開発、シボレー・ラブとして販売
していた証拠を残したい、いや、それ以上に人間として
された。この車から派生した4×4はSUVとして、米国
社会存続・発展に貢献したいという技術者魂、強い思
および日本で人気車種に成長、米国では “4×4of the
いが感じられる。独特の鋭い技術的感性と、高く設定
Year ” を受賞した。更にタイでは新開発の2.5L直噴
した目標達成への挑戦、勇気とねばり強さなどに加え
て、一緒に仕事をする仲間との協調、部下への強力な
指導哲学、
「 外を見る、外に出る、創意工夫」などの厳し
くも思いやりのある指導が今も思い出される。あらため
てお話を伺う機会があったが、自分もその中の一員で
あったこともあり、当時の高揚感が蘇ってきた。技術者
として伝えるべき貴重な経験であることを実感している。
街の遊撃手 FFジェミニ
(元 東京工業大学特任教授 北原 孝)
21
フライングフェザーなど超小型経済車に挑戦
富谷研究所 所長 富谷 龍一
富谷龍一(とみや りゅういち)略歴
1908
( 明治 4 1)年
1924
( 大正13)年
1928
( 昭和 3)年
1934
( 昭和 9)年
1936
( 昭和 11)年
1949
( 昭和24)年
1954
( 昭和29)年
1955
( 昭和30)年
1956
( 昭和31)年
1958
( 昭和33)年
1972
( 昭和 4 7 )年
4 月 赤坂にて誕生
川端画塾入門
東京高等工芸図案科卒業同校竹屋教授付
精密機械科助手
日産自動車 入社
ダットサン・レ ーサ ーの設計
住江製作所 入社
住江製作所常務取締役就任 ダットサンスリ
フトの設計、生産小型軽量車フライング・
フェザ ー設計試作開始
日産自動車、住江製作所 退社
富士自動車にてFRP3輪自動車フジキャビン
スクーター設計
セントラル自動車 入社
富谷研究所設立 東京都補装具研究所より
身体障害者用電動車椅子の委託開発
1973
( 昭和48)年
1975
( 昭和50)年
1976
( 昭和51)年
1976
( 昭和51)年
1982
( 昭和57)年
1985
( 昭和 6 0)年
1997
( 平成 9)年
機械動物( メカニカルアニマル)上野国立
博物館に永久保存される
沖縄海洋博 芙蓉パビリオンに機械生物
製作出展
ニューフライングフェザ ーⅠ( NFFⅠ)設計、
製作 アイダエンジニアリング 協賛
ニューフライングフェザ ーⅡ( NFFⅡ)
トヨタより開発依頼
東京芸大デ ザイン 科特別講師委任
新宿 NSビル 巨大時計設置
労働福祉事業団 労災リハビリ工学センター顧問
10月 逝去
ヤジロベエのサスペンション
「あ、これはまた!……ほう」
pattering防止のダンパーも効を奏して、なんとなくシー
ソーに乗っているみたいな不思議な感覚であった。
数名の青年が黙々と図面を引いていた部屋のいちば
前輪の突き上げ変位が後輪のバネ反力を生んで後
ん奥の席で、先刻から外誌のグラビア頁を繰っていた
体を押し上げる一目瞭然のメカニズムを、たしかサス
親方の富谷龍一氏が突然声を出した。1953(昭28)年
ペンション理論の大御所、亘理厚
(1917-1983)
・東大
頃、東京の大森にあった住江製作所、軽自動車のはしり
教授が「ヤジロベエのサスペンシヨン」と呼ばれたも
ともいうべきフライングフェザーの設計室である。
ので、われわれは試乗を大いにたのしんだ。
(注:この
「何ですか?」
文章は住江時代の富谷氏の部下だった増田忠氏が書
「シトロエンがまたおもしろい車を……」
かれたものであり、当時の情景を彷彿とさせる)
肩越しにのぞいてみたが、何がおもしろいのか、よく
わからなかった。
夢を見よ、そしてそれを具体化せよ
それまでいくつも独創的な車を手掛けてきた富谷
かねてからの夢であった、鳥の羽根のように軽やか
氏は、そのレイアウトと全車比例、そして空車重量の
に走る理想の車、フライングフェザー ……片山豊氏
数値からすぐにその特異性に気づいたようだった。
らと語り合った車を作るために、富谷氏は住江製作所
それから2ヵ月ほど後のある日の夕刻、工場の前庭
(後の住江工業)に移籍した。戦前から日産に内装材
にその車が到着した。輸入第1号車である。
やシートのファブリックとしての織物材を納入していた
このときのショックは、今でも鮮明に覚えている。濃
住江織物は日産自動車の依頼でボディ・メーカーとし
緑の車体の、バラック小屋のような作り、平面ガラスの
て住江製作所を設立した。富谷氏による設計のダット
前窓、側窓に加え、ボンネットの外板には裏板のよう
サン・スリフトは好評でよく売れ、新会社は大成功。フ
なビード
(ひもだし)の列がムキだし、裾がひらいてい
ライングフェザー開発の資金も出来た。
て、まさに帯代裸
(おびしろはだか、細紐だけの着物
鳥のように軽やかに走る車とはどんな車か? 鳥は
姿の女性像。だらしのないことの形容)
の風体である。
軽い体に貯めこんだ脂肪を燃やして大海原をも渡る
「ひでえなコレ。ひでえクルマだ!」というのが仲間内の
優れた能力を持つ。したがって理想は大食らいではな
第一印象だった
(後年、シトロエンBXなどに見られる
く、軽量で、スムーズに走るサスペンションを備え、空
絶妙に美しいボンネットとは雲泥の差)
。さっそく試走
気に逆らわない形状の車である。
に出掛けた。当時はまだ舗装していない道路がたくさ
富谷氏は、ばね下荷重を軽くすることにこだわった。
んあって、悪路ではピッチングがあたりまえだったが、
特に軽量車の場合、高価なスウェーデン鋼を使ってで
この車(シトロエン)
は様子がちがっていた。
も軽くしたいと考えた。乗り心地が良く、エネルギーを
前後輪のコントロール・アームをコンロッドとコイル
消費しないからだ。
ばねとノリマキばねとで連結した、独特のサスペンショ
ンのため、上体がフワーと上昇する感じ。それに4輪に
自由闊達の御曹司グループ
取り付けた不相応
(!)に重たい鋳物の錘の入っている
1935(昭10)年、富谷青年はスターミーアーチャー
富谷氏によるリアエンジン車のレイアウトスケッチ
軽量車の先駆けとなったフライングフェザー
23
(英国の自転車変速機メーカー)
内装3段のライレー・
龍一氏、チーム監督は呂畑・組立課長というメンバー
ロードレーサーで日産の新子安本社工場まで通勤し
だった。約4ヵ月先の10月25日が本番という驚くべき
ていた。ロードレーサーはサスペンションがないけれ
タイトなスケジュールである。
ども、サドル上の身体重心を中心に前後の車輪が交
生産車はまだサイドバルブのエンジンの時代にサルム
互に振動するので、サスペンションとは何か、なんとな
ソン
(フランス)製のDOHCを参考にしたとは言いなが
く体感していたのだろう。
ら、まったく新しいエンジンを作り、レーサーを丸ごと
また、車体設計課の久原光夫氏は鮎川義介社長の
開発した情熱と取組には驚嘆に値する。
本家筋にあたる久原財閥の御曹司、富谷氏も富谷製
しかし見事レースには勝ったものの好敵手オオタ号
薬の御曹司、父はアスピリンを結晶化することに成功
は故障で欠場、記録は見るべきものがあったにしても、
し、商品化して創業者となった人、宣伝部の片山豊氏
日産チームとすれば肩透かしを食らった結果となった。
も名家の生まれであった。つまり3人とも日産では肩
書きはないものの、仕事は熱心で伸びやかに勤めてい
メカニカルアニマル(マカニマル)
たようだ。
富谷氏は日産、住江、を辞めた後、富士自動車に移
そのころ主力車種のダットサンは横転事故が問題
籍し、キャビン・スクーターを設計した。前2 輪/後1
になっていた。社内技術指導をしていた顧問のアメリ
輪で2人乗り。フルモノコックのFRP(強化プラスチッ
カ人・ウイリアム・ゴーハム氏は、ダットサンはトレッド
ク)
ボディは世界でも珍しい画期的な車だった。エンジ
が狭い割りに車高が高いせいだとしていた。しかし富
ンはガスデン空冷単気筒121cc。
「最大の仕事を最小
谷氏はそれがサスペンション・ジオメトリのせいだと確
の消費で」という富谷流クルマ哲学をまさに体現した
信していた。実際に挙動を見ていると、路面の状態に
作品だった。ただし車は画期的でも商品としての問題
よって車が傾いたとき、フロントのラジアスロッドがス
を抱えていたためか商業的には成功しなかった。
テアリング作用を起こして過度にハンドルを切った状
1958(昭33)年、富谷氏は自動車技術会理事の吉
態になるのである。
城肇氏の紹介で、トヨタ系のボディ・メーカー、セント
ゴーハム氏に確認を申し入れたが話にならない。そ
ラル自動車 に入社した。デザインを主体とした規範室
れではと、スケッチでは理解しにくいだろうとスケルト
でモデリングとデザインの指導を行なった。
ン模型を作り、傾いた時にサスペンションがそれをさ
折りしも1961年に発売されたパブリカのエンジン
らに助長するさまを見せ、ゴーハム技術顧問を納得さ
を利用して関東自動車工業がスポーツカーを開発して
せた。
いた。デザインは元・日産の佐藤章蔵氏が担当してい
富谷氏のデザイン
(意匠)での初仕事はダットサンの
る。セントラル自動車も富谷氏を中心にFRPボディの
ウサギのマスコットだった。毎日、大久保彦左衛門邸
アルファ風コーダトロンカ・スタイルスポーツカーを製
跡
(現八芳園)に出向きウサギをスケッチし、あのラジ
作していた。
エーターグリルのウサギのマスコットが完成した。
宣伝部の片山氏に依頼された、カタログ用のダット
サンのスケッチも描いた。富谷氏の描く絵は、外国人と
日本人の違いががよく描き表されている。またダットサ
ンのつなぎ文字のマークも富谷氏のデザインである。
1936(昭11)
年6月7日、多摩川スピードウェイで開
催されたレースで日産は常勝オオタに破れた。
「なんと
してもオオタをやっつけろ」と、鮎川義介社長の厳命
を受け、レーサー開発計画が発足した。シャシー設計
課長の後藤敬義氏を中心に、エンジンは川添惣一氏、
シャシーは田辺忠作チーフ、
シャシー/ボディは富谷
メカニカルアニマルを製作中の富谷氏
しかし関東自動車工業の製作した試作車パブリ
カスポーツ145Aが、1963年の東京モーターショー
に出展され、量産車ではトヨタ・スポーツ800として
1965 年に発売された。富谷デザインのFRPボディは
この時点で開発を終了した。
その後セントラル自動車はパブリカ・ベースのオープ
ンカーを開発。富谷氏は幌骨を設計したほか、ルーフ
を切り取ったぶんの補強としてフロアパネル、ロッカー
パネルなどの設計を指揮した。オプションとして製作さ
れたFRPのハードトップも見事な出来栄えだった。
ボディにアルミ素材を使用して製作された画期的なニューフライング
フェザー(NFFⅠ)
この頃から、セントラル自動車のプロジェクトに隙
メカニカルプレス・メーカーのアイダエンジニアリング
間が出来るようになり、富谷氏も例のスケルトン模型
の協力を得て、富谷研究所の2階で開発が始まった。
で、リンク機構の教育模型を作り始めた。最初はサ
アイダの手塚氏、セントラルの嘉規氏らの努力でつい
スペンシヨンの模型が次第にヘビやカニ、ムカデな
に完成。2階の窓をはずし、日通のクレーン車を使っ
ど、様々な生き物に変化し、機械動物の世界に発展
てニューフライングフェザーは路上に舞い降りた。
していった。
以下、CAR GRAPHIC誌1975年7月号のロードイ
そのころ日本ではシンクタンクなどという、頭脳集
ンプレッションから一部を引用させていただく。
団が出現し始め、東京工業大学の森政弘教授が参加
「富谷氏によればもしボディの揺動を最小に出来れ
していた自在研究所(略称:自在研)の会合に富谷氏
ばダンパーもスタビライザーも不要なはずで、エネル
も出席するようになった。
ギー損失も最小になり、それだけ動力性能も燃費も向
そこではフライングフェザーや機械動物、絵画など
上するのではないか、との仮説を立証するための実験
ユニークな富谷氏の作品と解説が、自在研に参加した
であった。しかしこの4輪懸架が成立するためには、
人々を楽しく魅了したに違いない。自在研のメンバー
車重に対して相対的に硬いスプリングを必要とする。
には平尾収・元東大教授もおられた。
ところが左右両輪が同時にバンプ、あるいはリバンプ
森先生らの紹介で、富谷氏はNHKの機械動物園
したり、またはボディがロールした場合、つまり関連が
というテレビ番組に出演し、注目を浴びるようになり、
ロックされる条件下では、硬いスプリングが裏目に出
機械動物は「メカニカルアニマル」として1976 年の沖
て、乗り心地とハンドリングの両方をスポイルする。
縄海洋博覧会での展示や映像にも供された。
富谷氏もこの点の改造は2号機でなされたはずで
1972年、初めて独立の富谷研究所を設立した富谷
あったが、新しいデータは残っていない。4輪関連懸
氏に東京都舗装具研究所から頚椎損傷者用電動車
架をONとOFFに切り替えるようにすれば、燃費など
椅子の開発依頼があった。これは車椅子からベッド
の比較が出来ると富谷氏は語っていた」
に乗り移り易いように、車椅子の座面をベッドの高さ
富谷氏の理想の車はついに大衆商品として実現せ
までリフトアップさせる機構を有したものである。それ
ずに終わったが、彼は晩年まで少年のように好奇心
が公開されたのは、身体障害者同士の結婚式が補装
旺盛で、ひたすら物づくりを楽しんでいた。物を作ると
具研究所で行われたときだった。当時の東京都知事・
き、普通の人は失敗を繰り返しながら、1段1段階段
美濃部亮吉氏(1904-1984)
にも披露された。
を登って行くもので、後から見ればなんでこんな事に
気づかなかったのだろうと思ったりする。
新しいフライングフェザー
富谷氏は階段の4~5段、いや、もっと先が見えて
富谷氏は定年を迎えながらも、理想の車をどうして
いたのではないだろうか。それは物の本質を素早く見
も作りたかった。あのシトロエン2CVを超える、4輪
てとる優れた才能があったからだと思う。
関連懸架を備えた新しいフライングフェザーだ。高速
(平野正二)
25
日本の量産・高精度技術を指導
元日産自動車(株)専務取締役 ウイリアム R ゴーハム
William R. Gorham(ウイリアム R ゴーハム)略歴
1888(明治 21)年 米国カルフォルニア州サンフランシスコに生れる
1905(明治 38)年 ヒールズ工科大学・電気学科を卒業
1911(明治 44)年 ゴーハム エンジニアリングを起業、エンジン、
船、ポンプ等を設計・製造
1918(大正 7)年 来日して飛行機用エンジンを紹介
1919(大正 8)年 実用自動車製造発足と共に小型車の設計特許を
提供、技師長に就任、小型車リラー号の製 造を指導
1921(大正 10)年 鮎川義介氏の戸畑鋳物に招聘され、小型エンジ
ンの開発と生産に従事
1926(大正 15)年 日本産業系列の東亜電気の技術責任者として電
話 交換機等の設計に従事
1931(昭和 6)年 戸畑鋳物の越中島工場にて自動車用部品の量
産に着手。米国人技師を採用
1933(昭和 8)年 日産自動車創立に伴い、欧米並みの量産体制
の 導入を指導。日産自動車横浜工場を建設
ダットサンの商品企画、生産等技術部門を統括
1934(昭和 9)年 戸畑鋳物の持株会社・日本産業に復帰
1935(昭和 10)年 東亜電気 ( 後の日立製作所 ) の戸塚新工場建設
を指導
1941(昭和 16)年 夫妻共々、日本へ帰化
1945(昭和 20)年 日産自動車の役員に就任。GHQとの自動車生
産再開折衝に尽力する一方、日産の生産工場
再開の総指揮を執る
1946(昭和 21)年 日産自動車の専務に就任
1948(昭和 23)年 富士自動車の副社長に就任。再度ゴーハム エン
ジニアリングを起業
1949(昭和 24)年 田園調布の自宅にて逝去、銀座教会での葬儀後、
多摩墓地に埋葬される
“自動車企業の成否は量産量販体制の成否で決
まる”と言う史実は洋の東西を問わず、真理であろう。
1
930年代、日本のモータリゼーション黎明期に、
ゴー
ハム氏が量産体制を確立した功績は極めて偉大であ
り、自動車のみならず通信機器や高精度機械等の分
野での貢献度も極めて高い。そして、真から日本を愛し
た敬虔なクリスチャンとして戦後の激動期に多くの日本
人を励まし指導した。
生産技術に尽くす夢を抱いて来日
ゴルハム式自動三輪車と 写真右端がゴーハム氏 隣は後藤敬義氏
ゴーハム氏は、サンフランシスコでタイヤの極東代理
造に発展、ダットサンを生産する事になる。ゴーハム氏
店を営む裕福な家庭に生れた。フロンティア精神に満
は日本語に馴れ、日本食を好み、日本人の勤勉さ、緻
ち、機械好きな少年は1
3歳の時に父と来日した。
密さ、誠実さ、そして治安の良さ等に心を動かされ、真
その後、ヒールズ工科大学で電気技術を専攻、卒
からの日本贔屓になっていった。
業後、23歳で父とゴーハム エンジニアリングを起業、
鮎川義介氏と出会う(戸畑鋳物時代)
船舶用エンジン等を開発する一方、V6・1
50馬力の航
ゴーハム氏の強みは、設計のノウハウに加えて生産
空機用エンジンも手掛けた。
管理と品質管理にも精通していた点である。
1
920年代初頭、ゴーハム氏の功績に感銘した鮎川
義介氏は戸畑鋳物で技術指導をゴーハム氏に打診、
ゴーハム氏は
「自分が愛する日本の工業発展の為に自
分の一生を捧げる心境」
を吐露した。鮎川氏は自分の銘
である“嘘をつかない事、誠意を以て人と接する事” を
ゴーハム エンジニアリング 社の従業員と 右端がゴーハム氏
ゴーハム氏に観て、
二人の結は次第に堅くなって行った。
戸畑鋳物では、
「トバタ発動機」
と称す小型エンジン
当時の日本は明治維新から半世紀、官民一体となり
を技術指導し、船舶用、農耕用、灌漑用と拡大した。
富国強兵策の下で工業化に邁進していた。ゴーハム
更に、工作機械や治具製作の他に、戸畑鋳物の看板
氏は日本での航空ショーの情報を聞き、1
9
1
8年、夫人
商品である鉄パイプ用継手でも素材管理から前工程
と二人の息子を連れて来日、将来の日本の工業発展
のチェックまで細心の指導が奏功し“ひょうたん継手”の
に大きな期待を寄せ、自ら生産技術の発展に尽くす覚
ブランドは世界中で愛用される様になった。ゴーハム氏
悟を決めて永住する事になった。そして、航空ショーの
は、製品構想を前の晩に自宅で練り、翌朝一番先に出
仕掛け人・櫛引弓人氏の為に小型エンジン付きの三
社、図面を起こし、現場に渡し、自ら現場に赴き、テス
輪車クシ・カー、別名「ゴルハム式自動三輪車」を製
トを行なった。強い技術者信念に溢れる一方、自分の
作し、当時の話題になった。
過ちは率直に認めた。
先進技術に挑む(実用自動車製造時代)
自動車部品の設計と生産を指導
この頃、米国ではフォードやGMが自動車産業を軌
日本に於ける自動車産業の発展に注目していた鮎川
道に乗せつつあり、日本でも1
9
1
9年、実用自動車製造
氏は、1
925年からノック・ダウン生産を行なった日本フ
が発足、ゴーハム氏は小型車の設計特許とクシ・カー
ォード
(横浜)や1927年からの日本GM
(大阪)に鋳物
の製造権を提供して技師長に就任した。
部品を納入、更に電気系部品も以前に買収した東亜
ゴーハム氏の教えを受けた技術者の一人に後藤敬
電気で生産する運びとなり、1
926年、ゴーハム氏は東
義氏が居た。二人はクシ・カーを基本に四輪車のリラー
亜電気の技師長に招かれた。
号を経て本格的小型車を企画、実用自動車製造は
まず、電話交換機の自動化や電動工作機類が品
1926年、ダット自動車商会と合併してダット自動車製
質の安定性で大好評を得た。続いて自動車用高圧コ
27
繁栄する企業は大量生産に成功した企業である。
鮎川氏は、いよいよ日本でも自動車量産時代が到来
したと判断。
1
93
1年、実用自動車製造とダット自動車商
会が合併したダット自動車製造を買収、1933年、
「戸
畑鋳物自動車部」を設立、
「自動車製造」へ発展し、
1
934年、日産自動車となる。
1
933年、ゴーハム氏は横浜宝町に於ける本格的な
大量生産工場の建設に取り掛かり、米国から工作機
械を購入、また10名以上の優秀な技術者を募った。
ゴーハム氏(右端) ダン氏(右から2番目) ヘーゼル夫人(左端)
1930年頃
後のGMの副社長・ジョージ・マザウエル氏、後のハド
イルやデスビー、スターター・モーター等も設計・製作す
ソンの技術部長・ハリー・マーシャル氏、フォード出身の
る傍ら、
フォードの大量生産方式を成功させたテーラー・
H・W・ワトソン氏達であった。
システムを導入して企業収益を向上させた。1
93
1年、
1
934年、横浜新工場稼働後、ダットサンの生産は
ゴーハム氏は東亜電気から戸畑鋳物の東京工場
(越
翌1
935年3,
800台、
1
936年61
,
63台、
1
937年8,
353台
中島)
で鋳物を中心に本格的に自動車部品の量産化を
に増え、国産初の手頃な量産小型乗用車とトラックとし
指導する。
日本フォードや日本GMの納入品質基準は高
て好評を博した。
く納期遵守も厳しかったが、学ぶ処も多かったという。
高精度工作機製造にも挑戦
家族は191
1年に結婚したヘーゼル夫人との間に長
ゴーハム氏は当時の日本の工業製品の量産の課題
男・ビリー氏、次男・ダン氏の4人、夫人も日本の文化
は高精度工作機による製造である事を痛感していた。
に親しみ、2人の子息は成人後、諸々の面で複雑な国
欧米の工作機との差が著しかったのである。
際関係にあった日米間の橋渡し役を務めた。
ゴーハム氏は日産自動車横浜工場の立上げに続き、
日産創業時に本格的な大量生産を指導
以前に技師長として辣腕を奮った東亜電気の新工場
鮎川氏の構想は
「自動車製造 業は長期的視野に
の建設の指揮をした後、
1
936年、国産精機、後の日立
立った損益計画から診て、年産10千台から1
5千台の
精機で高速度旋盤の設計に着手した。因みに、
この様
規模が必要」
と語っている。欧米でも大型高級車中心
な高精度工作機を設計するのは初経験であったが、
の少量生産で存続出来た企業は稀有で、後世に長く
日本人の器用さをゴーハム氏は認めつつも少数の職人
芸に依存するのではなく、均一の量産品質を常に維持
する重要性を指導し、次の点を力説した。
①現場に図面を渡す以前に可能な限り訂正を重ねる
べきで、後工程
(生産現場)
に於ける修正はコスト高
になる。
②油で手を汚す事、即ち、理論だけではなく現場の実
情もつぶさに視野に入れる。
国産精機はタレット・レースのメーカーとして最も信
頼性の高い製品を世に送り、続いて車輪旋盤や色々
な種類の極めて精密な研削機械を発売して企業業
績を伸ばしたが、誠に皮肉な事に、これらの機械を駆
使して生産される工業製品は悲しくも敵国となる母国・
米国との戦闘用軍需製品が多かった。
日本へ帰化
日産自動車・横浜工場の建設 左から5番目がゴーハム氏
ゴーハム氏は日本の自然を愛し、日本食を嗜み、一
生を日本の将来に貢献しようと決心していたので、第二
正しくゴーハム氏が “ブルドーザー”とのニックネー
次大戦で日本とアメリカの戦いを大変嘆いた。
ムで 親しまれた所 以であり、
「 Explanation means
1941年、ゴーハム夫妻は日本に帰化する決意を固
nothing. I want the results」が氏の口癖であった。
め、日本名・合波武克人、夫人は翠となった。
ゴーハム氏は生まれながらの国際的視野に加えて、
しかし、世間の眼差しは厳しく、“敵国人” 扱いされ
長期間の日本の生活を通じてこの時代の世相の本質
る場合も少なくなかったと言う。
を捉えていたので、技術分野のみならず、東京裁判や
戦後、日本の復興に貢献
財閥解体指令に代表される日本の重要な針路決定の
連合軍は戦争中から日本の占領統治方法を研究し
際にも多くの関係者に貴重な意見を提供した。
ており、とりわけ京浜工業地帯の重要な工場施設は破
不況時の雇用確保にも貢献
壊せず占領後に活用する計画であったので、
ゴーハム
戦争後の不況で各自動車メーカーは労働争議や
氏が戦前に建設指導した日産の横浜工場も破壊され
人員整理に苦悩の日々を重ねていたが、一方、米軍
ず、終戦時に連合軍に接収された。
から軍用車両の解体組立作業が求められ、山本氏と
1
945年、終戦に伴い、壊滅状態の日本の工業力を
ゴーハム氏は1
948年、富士自動車を創業、その後1
0年
回復する為、ゴーハム氏は身を粉にして指導した。先
間で230千台を送り出した。因みに当時の自動車生産
進国の文化と事象の本質を踏まえた広い視野から物
台数はこの間で全メーカー合計でも330千台であった
事を観察し、長期的な対策を展開する姿勢は復興に
から、富士自動車の実績は雇用確保にも大きく貢献し
取組む日本人を励まし、多くの勇気を与えた。
たのである。
復興の輸送手段を確保する目的で、
トラックに限り生
再びゴーハム エンジニアリングを創設
産再開を許可された日産は新首脳陣
(社長・山本惣治
富士自動車の経営を推進しつつ、ゴーハム氏は各
氏)
の下でゴーハム氏は取締役技師長に進み、摂取さ
方面からの技術相談に応えていた。これらの業容をコ
れた工場を解除して貰う交渉を始めた。幸いな事に交
ンサルティング会社に統合する為、23歳の時に父と起
渉相手のスモーク大佐はゴーハム氏がターレット旋盤
こした会社「ゴーハム エンジニアリング」
と同名の会社を
を開発していた頃、技術を研究し合う等、お互いに全
起業、生産設備の設計、技術指導に加えて、大量生
福の信頼を置く仲であった。
また、
GHQの輸出入部長・
産方式と原価低減法を指導、更に財務経理や輸出
メィ氏は戦前に日本GMの専務で気心の通う仲であっ
入の事前調査まで一貫したシステム思考を反映したコ
たから、戦後の日米間の複雑な課題を率直に話し合う
ンサルティングを展開し、今日の日本の優秀な企業の
事が出来、効果的な解決策を導いた。
多くが指導を受けた。
山本氏は回想録の中で、
「ゴーハム氏は不屈の勇気
日本への感謝と神への祈りを遺す
を奮い、非常に苦労を重ね、全精霊をこれに打ち込ま
体力と健康にも秀出たゴーハム氏であったが、腎臓
れた。その甲斐あって僅か2カ月の短い期間に一切の
病が悪化、1
949年1
0月24日、日本への感謝と神への
整理が終え、生産再開に至ったが、
これは氏の豊富な
祈りを遺し逝去、銀座教会での葬儀の後、多摩墓地
組織力、実行力、推進力の賜である」
と。
に埋葬された。享年6
1歳。“汝の隣人を愛せ”との教え
に基づいて“世の中に役立ちたい”との堅い信念を日本
で実践した人であった。
(モータリゼーション研究会 主宰 清水榮一)
参考文献:
•「BIOGRAPHY OF WILLIAM R. GORHAM An American Engineer in Japan」 Compiled by
William.R. Gorham Memorial Committee
•「鮎川義介先生追想録」 追想録編纂刊行会
1947年 日産販社会議 起立している人が山本社長 左隣がゴーハム氏
•『日本自動車工業の成長と変貌』 山本惣治著
•『日本人になったアメリカ人技師』 桂木洋二著 ほか
29
自動車実学に徹したモータージャーナリスト
小林 彰太郎
自動車ジャーナリスト/自動車社会史研究者 小林彰太郎(こばやし しょうたろう)略歴
19 2 9
(昭和 4)
年1
1月 東京 生まれ
19 4 6
(昭和 21)
年
3月 成蹊中学校卒業
19 4 9
(昭和 2 4)
年
3月 成蹊高等学校文科卒業
19 5 6
(昭和 2 9)
年
3月 東京大学経済学部卒業
19 6 2
(昭和 3 7)
年
3月 株式会社二玄社にて月刊自動車専門誌 CAR GRAPHIC 創刊
19 6 3 ~ 19 8 (
9 昭和 3 8 ~平成元)年 日本自動車ジャーナリスト協会副会長 を務める。
19 6 8
(昭和 4 3)
年
5月 株式会社二玄社取締役就任
19 8 0 ~ 19 8 9(昭和 5 5 ~平成元)年 日本カー・オブ・ザ・イヤー実行委員
会副会長を務める
19 8 4
(昭和 5 9)
年
5月 株式会社二玄社常務取締役就任
19 8 9
( 平成元)
年 4月 株式会社二玄社常務取締役兼自動車部門編集総局長
就任
19 9 4
( 平成 6)
年 5月 株式会社二玄社取締役相談役編集顧問就任
19 9 6
( 平成 8)
年 6月 株式会社二玄社相談役編集顧問就任
19 9 6 ~ 19 9 9( 平成 8 ~ 11)年 CAR OF THE CENTURY名誉専門
委員会副会長を務める。
19 9 8 ~ 2 0 0 4
( 平成10 ~ 16)年 ヴィラ・デステ・コンクール・デレガン
ス審査員を務める。
2 010
( 平成 2 2)
年
5月 株式会社二玄社相談役編集顧問退任
2 010
( 平成 2 2)
年
6月 株式会社カーグラフィック顧問兼 CAR GRAPHIC 名誉編集長就任
主な著書:
『小林彰太郎の世界』、
『On the Road すばらしき車の世界』
翻訳書:ローレンス・ポメロイ著『ミニ・ストーリー 小型車の革命』、
武田秀夫との共訳、ポール・フレール 著『ハイスピード・ドライビング』
(以上二玄社刊)
、
『小林彰太郎の日本自動車社会史』
( 講談社)
『
、昭和の日
本自動車見聞録』
(トヨタ自動車株式会社 トヨタ博物館)、
オックスフォー
ド大学図書館編『 英国におけるモータリングの歴史1895 年-1940 年』
、他。
小林彰太郎氏は真の意味での自動車ジャーナリス
に従わなかった。と言うのも僅か3歳の時に自動車の
トの日本におけるパイオニアの一人であり、第一人者
魅力の虜になってしまったからである。彼が呱々の声
である。ジャーナリストと言っても単に出来事を報じ
を上げたのは旧東京市内であったが、一家の事情で
るのみではなく、
「 自動車はかくあるべし」という確固
生まれて間もなく青梅街道に近い、まだ田園風景の
たる信念をもち、次々と発表される新型車や、次々に
残る阿佐ヶ谷に引越したのである。当時の青梅街道
起こる事象に論評を加えてきた。彼はその絶対的とも
は路面電車とバ ス は走っていたものの、乗用車は滅
言える評価基準を自動車史の研究や、モータースポー
多に通らなかったが、彼はお手伝いさんと1時間も佇
ツへの傾倒などを通じて確立したのであった。
んで車を待ったという。小学校低学年の小林少年は、
小林氏の著作により自動車の魅力に開眼し、氏に
一家がタク シ ーに乗ると前席背後の補助席に座って
触発されて自動車のエンジニアやデザイナー、ジャー
運転手の一挙手一投足を食い入るように見るのが常
ナリストを志した人は少なくない。日本車の成長期の
であった。
各メーカ ーには、小林氏の薫陶を受けた人々が数多
19 3 (
6 昭和11)年、小林氏は吉祥寺の小中高一貫
く在籍していた。そうした人々を通じて、小林氏は日
教育の成蹊学園小学校に入学、多くの自動車好きの
本車を正しい方向に導き、日本車の発展に大きく貢献
友人に出逢う。また当時の軍国少年の常として航空機
したのである。こんなことがあった。19 6 0 年に発表
にも強い興味を抱き、中学時代にはプライマリーの
されたコロ ナ の第二世代、PT2 0の広報資料に大
グライダー飛行にも親しむ。第二次大戦末期には学
要次のようなことが書かれていた。
徒動員で勉強どころではなかったが、成蹊中学4年の
「 モ ーターマガジンとかいう雑誌で、小林彰太郎と
時に終戦、高校進学を翌年に控えて遅れを取り戻す
いう人が、実用的なセダンの走りをスポーツカーの
ために猛烈に勉強する。特にこれからは英語の時代
標準で評価しているが、新型コロナのロードホール
だと見定めて英語の勉強に力を入れた。これが後に
ディングは彼によっても高く評価されるであろう。」
小林氏が日本を代表する国際派モーター・ジャーナ
リストとして大活躍する素地となるのである。
小林彰太郎氏は19 2 9
( 昭和4)年、東京に生まれ
19 5 0 年 東 京 大 学 経 済 学 部 経 済 学 科 に入学、
た。小林家は石鹸や歯磨で有名なライオンの創業家
19 5 4 年に卒業するが、当時は極度の就職難であっ
の一族であった。小林一族では少なくとも長男はライ
たため、同学部商業学科に学士入学する。この間学
オンに入社するという不文律があった。彰太郎氏は5
業の傍、自動車への情熱もだしがたく、文系ながら唯
人兄弟の長男であったが、彼一人のみはその不文律
一人工学部の自動車愛好クラブ、モーター同好会へ
生まれて初めて手に入
れたクル マ、19 3 2 年
オースティン・セヴン・
サル ーン
の参加を許され、理論と実際の彼が言うところの “自
動車実学” を学ぶ。大学入学2年め、縁あって駐日ア
メリカ大使館日本語学校の助手をアルバ イトとして
勤めることになる。この時同じ助手として出逢ったの
が、新聞社のカメラマン を目指していた三本和彦氏
である。
アメリカ 大使館の報酬はかなりよかったので、彼
はオンボロの19 3 2 年型オースティン・セヴンを手
に入れる。当時の日本はまだモ ータリゼーションの
遙か以前で、1家に1台の自転車という時代であった
から、いくらオンボロとは言っても学生の分際で車を
持つというのは大それたことであった。そのオースティ
ン・セヴ ン は残骸に近い状態であったが、彼は修理
CAR グ ラフィック
創刊号(1962年)
工場の一角を借り、解体屋を漁って部品を集めて苦
うな感覚を抱かせる臨場感溢れるものであった。それ
心の末に独力でレストアに成功、快調に走るようにし
ゆえに多くのファン を獲得、文壇にも高く評価する人
た。その後彼は次々と中古車や大古車を発掘し、手を
が居た。強い信念に裏付けられた小林氏の歯に衣着
油で真黒にして夜中まで修理をするのを無上の喜び
せぬ論評は、時としてメーカーの怒りを買い、雑誌へ
とするようになる。
の広告出稿が止まったことさえあった。当時の日本で
は大メーカ ーでも対外的な窓口は宣伝課のみで、広
大学での6 年間を通じて、小林氏の自動車への情
告を出すのも試乗車を貸し出すのも宣伝課であった。
熱はいよいよ激しくなっていく。船便で2カ月遅れで
広報課が独立するのはかなり後のことである。
届く英国の週刊自動車誌“ The Autocar ” を貧り読
むうちに、彼は次第に自動車ジャーナリストとして身
小林彰太郎氏は学生時代から、厳正な商品評価で
を立てることを夢見るようになる。そして大学卒業と同
知られた花森安治氏の雑誌“ 暮しの手帖”に強く傾倒
時に、彼は父の反対を押し切って夢を現実にし、自動
し、いつの日にかその自動車版を出すと心に決めてい
車誌への執筆を開始する。初めて雑誌に載ったのは、
た。
「それが現実となったのが、吉田二郎と高島鎮雄
19 5 6 年10月号のモ ーターマガジン 誌掲載の、そ
の仲間と(株)二玄社から19 6 2 年 4月に創刊した
れまでの自らの自動車遍歴を綴った一文であった。さ
月刊誌 “ CARグラフィック”
( 現 “CG” )誌である。」
らに彼はダットサン110系のロードインプ レッショ
当初は1号に内外の1ブランド を特集する1号1車主
ンをモーターマガジン誌に発表、斯界の注目を集め
義を採り、創刊号では当時としては夢のまた夢であっ
る。
たメル セデス・ベンツ3 0 0SLロードスターを東村
実 はロ ードイン プ レ ッシ ョン はもともとThe
山の工業技術院機械試験場の1周2kmのバ ンク付
Autocar 誌の人気シリーズ で、ロードテストほど大
オーバール・トラックでテストするという快挙を成し
掛かりではないが、自動車について深遠かつ広範な
遂げた。以後ジャガー、フォード、日産、MG、フェラー
知識と経験をもつエクス パ ートが、発売されたばか
リ、シトローエンと続いたが、8号目では「 外車と国
りの新型車に乗り、その印象を厳正に中立な立場で
産車を比較する」という特集を組み、日本車の諸悪の
いち早く報じるものである。そのロードインプレッシ
根源はタク シ ー用の設計だからであると喝破、オ ー
ョンの概念を真先に日本にもたらし、日本の自動車ジ
ナードライバー用を設計の主体とすべしと提言した。
ャーナリズムに根付かせたのは小林氏であった。彼
のロードインプ レッションは文学的表現により、読
CAR グラフィック 誌は多くの点で自動車誌の革新
む者にあたかも自らステアリングを握っているかのよ
に先鞭をつけた。創刊1年目はB 5 版の旧態依然と
ホンダS60 0欧州120 0 0 ㎞の旅(196 4 年、アルプスにて)
本田宗一郎氏との初対面(1963年、ホンダ 荒川テストコースにて)
した体裁であったが、2 年目からは A4 版とし、グ ラ
え、世界的水準での測定を伴う本格的ロードテスト
フィック・デ ザイナ ーを起用して初めてグラフィック
を開始したのであった。
の名に恥じないものになった。以後自動車誌は競っ
てA4 版になっていく。まったく自力で海外取材を敢
CG 誌を率いてきた小林彰太郎氏は、19 6 6 年に
行したのもまたCAR グ ラフィック が最初で、小林氏
初代の編集長に就任、89年まで23年間その重責に
と三本氏は19 6 3 年11月のマカオ・グランプリを取
あった。8 3歳の現在もCG 誌の名誉編集長を務め、
材、6 4 年1月号巻頭を飾った。さらにホンダのF1、
現役のジャーナリストとして執筆活動を続けている。
RA 2 71が19 6 4 年の夏にデ ビューすると知ると、小
この間日本自動車ジャーナリスト協会副会長、日本
林氏は自費でホンダ S600を購入、ヨーロッパへ送っ
CAR OF THE YEAR 実行委員会副会長、世界的な
て7月から9月まで滞在、8月のドイツ・グランプリ
CAR OF THE CENTURY 名誉専門委員会副会長、
でのデビュー戦を含め、三つのグランプリを取材した。
日本クラシックカークラブ( CCCJ )会長、ヴィラ・
その頃には他の自動車誌もロードテストやロード
デステ・コンクール・デ レガ ンス( イタリア)審査
インプレッションを掲載するようになったが、実のと
員などを務めている。
ころ2 、3日メーカーから借りて乗っただけでは 、そ
小林氏の無上の喜びは古い車を整備し、走らせる
の車の真の特質やウイークポ イントはわからない。
ことで、つい数年前までは19 2 8 年ライレー・ブルッ
またメーカ ーの中には特別にチューンしたテスト用
クランズ・ナイン、1926 年ブガッティ T23ブレシア、
の貸し出し車両を準備するところさえあった。そこで
1924 年ランチア・ラムダなどで内外のヒストリックカー・
小林氏率いるCG テストグル ープは、市中の販売店
レースやラリーなどに参加していた。
から自費で新車を購入、長期に亘って実用に供してリ
小林彰太郎氏は、まさに骨の髄までしみこんだ自
ポートする長期テストを開始した。初期には2 年で8
動車エンスージャーナリストなのである。
(高島鎮雄)
万 kmに達する車もあり、中には3 年で12万 km走っ
たものもあった。これは都内の平均的なオ ーナ ーの
生涯以上のペースであった。
ロードインプレッション で人気を博した小林氏で
あったが、車のメーターとストップウォッチによるも
のではなく、厳密な科学的測定の裏付けをもつロード
テストが必須であると考えていた。時あたかも19 6 8
年に茨城県の谷田部に1周5. 5 km の高速自動車試
験場が完成、CG 誌は第五輪式電気速度計や加速度
計、ブレーキ踏力計、燃費計など高価な計測器を揃
1926年ブガッティT23ブレシア
33
2013日本自動車殿堂 歴史車
2013
Historic Car
of Japan
日本の自動車の歴史に優れた足跡を残した名車を選定し
日本自動車殿堂に登録して永く伝承します
Cars that blazed the trail in the history of Japanese automobiles are selected,
registered at the Hal of Fame and are to be widely conveyed to the next generation.
ホンダ N360
HONDA N3 6 0
ホンダ N360 の成功によって、本田技研工業は四輪メーカーとして躍進を果たした。その後 N360 の後継車であるライフが開発されるが、このライフ
の水冷エンジンがベースとなって、世界戦略車となるホンダシビックが開発され、ホンダの本格的な世界進出がスタートしたのである。
ホンダ N360(1967 年)主要諸元
全
長 2,995mm
型
全
幅 1,295mm
駆 動 方 式
FWD(FF)
全
高 1,345mm
エ ン ジ ン
空冷並列 2 気筒
ホイールベース 2,000mm
ボア×ストローク
62.5mm×57.5mm
ト レ ッ ド 前 1,130mm
総 排 気 量
354cc
後 1,105mm
式
N 360
圧 縮 比
8.5
車 両 重 量 475Kg
最 高 出 力
31ps / 8,500rpm
乗 車 定 員 4 名
最大トルク
3.0kg・m / 5,500rpm
最 高 速 度 115km/h
燃料消費率
28km/L
登 坂 能 力 20°
変 速 機
4 段コンスタントメッシュ
タイヤサイズ 5.20 -10-2PR
価
313,000 円
最小回転半径 4.4m
格
本田宗一郎社長(当時)が唱えた“あらゆる人々のための車”を具現化し
たホンダ 360AT。ホンダが独自に開発したオートマチックを搭載。
二輪メーカーとしてスタートした本田技研工業は、
次に四輪車市場にも進出をはかり、1963 年(昭和
38 年)に軽トラックT360 を発売、その翌年には2
シーターのスポーツカー “ホンダS500”を発売した。
ホンダはこれらの個性的な車種の開発によって、順
調に四輪メーカーとしても地歩を着実に固めていた
が、量産できる車種の開発は、四輪部門でも必須で
あった。そこで日本の庶民の車として、急激な勢いで
普及していた乗用軽自動車に着目し、ホンダN360
の開発が進められることになるのである。開発に当
たっては、エンジン排気量は 360cc、全長 3m、全幅
1.3m、という軽自動車の規格(当時)を考慮して、エ
ンジンは小さくて効率の良いオートバイのエンジンレ
イアウトをベースとした。さらに大人 4 人が座れるス
ペースを最大限とするため、室内スペースを確保する
のに有利な前輪駆動(FF:フロントエンジン・フロン
トドライブ)方式を採用することが決められた。当時
FF方式は、技術的な課題もあり、採用されることが
極めて少ない駆動方式であったが、開発責任者の中
“ ホンダN360は先ず客室から設計をはじめました” と宣伝す
るN360発売当初の広告。
村良夫氏は、
「軽の寸法の中で、最大限の効率性、ス
ペースユーティリティを発揮させるには、前置きエンジ
ルームもあり、車重は 475kg と軽量で、販売価格は
ン、前輪駆動しかなかった」と当時を回想している。
当時の常識を大きく下回る 31.3 万円と発表された。
■注目のホンダ軽自動車誕生
N360 は発売されると同時に、若者を中心に注文
1966 年(昭和 41 年)の晴海で催されたモーター
が殺到した。1967 年(昭和 42 年)2 月から配車を
ショーで発表されたホンダN360 は、ホンダによる
開始して僅か 3 ヵ月目の 5 月には、早くもスバル 360
初の乗用軽自動車として、大きな注目を集めた。4 サ
に替わって、
軽自動車販売第1位となり、
以後 44ヵ月、
イクル OHC、2 気筒エンジンの最高出力は 31 馬力
通算では 83ヵ月に渡って国内軽自動車トップの座を
の高性能を誇り、室内スペースも広く、加えてトランク
占めることになった。さらにN360 は、ユーザーの多
様なニーズに対応するため、次々にバリエーションを
拡大した。高性能な 36 馬力エンジンを搭載したモデ
ルで、モータースポーツの分野で活躍。また独自の 3
段オートマチックを採用し、加えて豪華モデルの投入
によって大衆化をはかり、今まで軽自動車に関心の
なかった人たちからも大きな支持を得たのである。
N 360 の後継モデルとして、1971 年(昭和 46 年)
に水冷エンジン搭載のホンダライフが開発されるこ
とになるが、このライフシリーズを含めたホンダの軽自
動車の生産台数は 8 年間で約125 万台が販売され、
日本の自動車業界に様々な革新を起こす結果となり、
ミッションやクラッチも一体型の非常にコンパクトな
エンジンは、広い室内空間を可能とする設計であり、
現代にも通じる優れた思想であった。
自動車の本格的な大衆化に大きな貢献を果たしたの
である。 (日本自動車殿堂会員 小林謙一)
47
2013∼2014
CAR OF THE YEAR
日本自動車殿堂 カーオブザイヤー
ホンダ フィット ハイブリッド
Honda FIT HYBRID
この年次に発表された国産乗用車のなかで
最も優れた乗用車として
ホンダ フィット ハイブリッドが選定されました
小型車の概念を刷新した設計思想の継承
新たな制御系採用でハイブリッド技術を進化
クラスを超えた室内空間と優れた利便性
数々の優れた特徴をそなえた車です
ここに表記の称号を贈り
開発グループの栄誉をたたえ表彰致します
2013∼2014
IMPORT CAR OF THE YEAR
日本自動車殿堂 インポートカーオブザイヤー
フォルクスワーゲン ゴルフ
Volkswagen Golf
この年次に発表された輸入乗用車のなかで
最も優れた乗用車として
フォルクスワーゲン ゴルフ が選定されました
自動車の本質を進化させた車造り
安全・環境・走行性能を高次元で実現
高レベルの予防安全装備を標準化
数々の優れた特徴をそなえた車です
ここに表記の称号を贈り
インポーターの栄誉をたたえ表彰致します
71
2013∼2014
CAR DESIGN OF THE YEAR
日本自動車殿堂 カーデザインオブザイヤー
ボルボ V40
VOLVO V40
この年次に発表された国産乗用車・輸入乗用車のなかで
最も優れたデザインの車として
ボルボV40 が選定されました
節度のあるスカンジナビアンデザイン
安全機能とスタイリングの融合
スポーティで格調高いインテリア
数々の優れた特徴をそなえた車です
ここに表記の称号を贈り
デザイングループの栄誉をたたえ表彰致します
2013∼2014
CAR TECHNOLOGY OF THE YEAR
日本自動車殿堂 カーテクノロジーオブザイヤー
ホンダ アコード スポーツハイブリッド i-MMD
Honda Accord SPORT HYBRID i-MMD
この年次に発表された国産乗用車・輸入乗用車のなかで
最も優れた技術として
ホンダ アコード スポーツ ハイブリッド i-MMD が選定されました
革新的なスポーツハイブリッド・システム
力強い加速性能と卓越した低燃費
進化した電動サーボブレーキなどの予防安全技術
数々の優れた特徴をそなえています
ここに表記の称号を贈り
開発グループの栄誉をたたえ表彰致します
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