黄金の枷・外伝 ジョゼ、日本へ行く すごい雨だった。雨は上から下へと降るものだと思っていたが、この国では真横に降るらし い。それも笞で打つみたいに少し痛い。痛いのはもしかしたら風の方だったかもしれないが、 そんな分析を悠長にしている余裕はなかった。目の前を立て看板が電柱から引き剥がされて 飛んでいき、とんでもないスピードで別の電柱に激突するのを見たジョゼは、危険を告げる原 始的なアラームが大脳辺縁系で明滅するのを感じてとにかく一番近いドアに飛び込んだ。 それは小さいけれど洒落たホテルのロビーで、静かな音楽とグロリオサを中心にした華や かな生花が高級な雰囲氣を醸し出していた。何人かの日本人がソファに座っていて、いつも のようにスマートフォンを無言でいじっていた。 風と雨の音が遠くなると、そこには場違いな自分だけがいた。びっしょり濡れて命からがら逃 げ込んできた人間など一人もいない。 「ジョゼ! いったいどうしたのよ」 エレクトラが、落ち着いたロビーの一画にあるソファに座って、薄い白磁でサーブされた日本 茶と一緒にピンクの和菓子を食べていた。 ジョゼは、とある有名ポートワイン会社の企画した日本グルメ研修に、勤めるカフェから派遣 された。彼が職場の中でも勉強熱心で向上心が強いウエイターであるからでもあったが、日 本人とよく交流していて仕事中にも片言の日本語で観光客を喜ばせているのも選考上で有 利に働いたに違いない。 彼は、日本に行けることを喜んだ。彼の給料と休みでは永久に行けないと思っていた遠くエ キゾティックな国に行けるのだ。そしてその国は、なんと表現していいのかわからない複雑な 想いを持っているある女性の故郷でもある。ああ、こんな言い方は卑怯だ。素直に好きな人と 認めればいいのに。 話をややこしくしている相手が、目の前にいる。日本とは何の関係もないジョゼの同国人だ。 幼なじみと言ってもいい。まあ、そこまで親しくもなかったんだけれど。 エレクトラ・フェレイラは、ジョゼとかつて同じクラスに通っていたマイアの妹だ。フェレイラ三 姉妹とは学校ではよく会ったが、それはマイアの家族が引っ越すまでのことで、その後はずっ と会っていなかった。ひょんなことから彼はマイアの家族が再び街の中心に戻ってきたことを 知った。 快活で前向きな三女のエレクトラは、小さいお茶の専門店で働いている。ジョゼの働いてい るカフェのように有名ではないし、従業員も少ないのでいくら組合の抽選で当たったとはいえ、 休みを都合して日本へ来るのは大変だったはずだ。それを言ったら彼女はにっこり笑って言 った。 「だってジョゼが行くって知っていたもの。一緒に海外旅行に行くのはもっと親しくなる絶好の チャンスでしょう」 「え?」 「え、じゃあないでしょう。そんなぼんやりしているから、そんな歳にもなって恋人もいないのよ。 マイアそっくり。もっともマイアだって、さっさと駒を進めたけれどね」 「あのマイアに恋人が?」 エレクトラは、人差し指を振って遮った。 「恋人じゃないわ、夫よ」 「なんだって?」 「しかも、もうじき子供も生まれるんですって」 「ええええええええ?」 「彼女、例の『ドラガォンの館』の当主と結婚しちゃったの。全く聞いていなかったから、のけぞ ったわ。私たちが知らされたのは結婚式の前日よ」 「マイアが?」 「あ。なんかの陰謀じゃないかって、今思ったでしょう」 「いや、そんなことは……」 「嘘。私も思ったわよ。でもね。結婚式でのマイアを見ていたら、なんだ、ただの恋愛結婚かっ て拍子抜けしちゃった。あの当主のどこがそんなにいいのかさっぱりわからないけれど、マイ アったらものすごく嬉しそうだったもの」 「僕に知らせてもくれないなんて、ひどいな」 「仕方ないわよ。おかしな式だった上、それまでも、それからも、私たちですらマイアに会えな いんだもの。妙な厳戒態勢で、私たちが結婚式に列席できただけで奇跡だってパパが言って いたわ」 意外な情報にびっくりして、ジョゼは目の前の女の子に迫られているという妙な状況も、自 分には好きな女性がいると告げることもすっかり意識から飛ばしてしまった。だから、最初に きっぱりと断るチャンスを失ってしまったのだ。それにエレクトラは、ものすごい美人というわけ でもないが、表情が生き生きとしていて明るく、会話が楽しくて魅力的なので、好かれているこ とにジョゼが嬉しくないと言ったら嘘になった。 この旅に出て以来、エレクトラはことあるごとにジョゼと行動を共にしたがった。彼は、曖昧 な態度を見せてはならないと思ったが、朝食の席がいつも一緒になってしまい、一緒に観光 するときも二人で歩くことが増えて、周りも「あの二人」という扱いを始めているくらいなのだっ た。 「一体、何をしてきたのよ、そんなに濡れて」 「あの嵐でどうやったら濡れずに済むんだよ」 エレクトラは肩をすくめた。 「この台風の中、地下道を使わないなんて考えられないわ」 彼女が示した方向にはガラスの扉があり、人々が普通に出入りしていた。ホテルは地下道で 地下鉄駅と結ばれていたのだ。ジョゼはがっかりした。 彼女はバッグからタオルを取り出すと、立ち上がって近づき、ジョゼの髪や肩のあたりを拭 いた。 「日本では、水がポタポタしている男性は、いい男なんですって。文化の違いっておかしいと 思っていたけれど、案外いい線ついているのかもしれないわね」 エレクトラの明るい茶色の瞳に間近で見つめられてそんなことを言われ、ジョゼはどきりとし た。けれど、彼女はそれ以上思わせぶりなことは言わずにタオルを彼に押し付けるとにっこり 笑って離れ、また美味しそうに日本茶を飲んだ。 「明日からは晴れるらしいわよ。金沢の観光のメインはお城とお庭みたいだから、晴れていな いとね」 * * * あの嵐はなんだったんだと呆れるような真っ青な晴天。台風一過というのだそうだ。 ジョゼ は、まだ少し湿っているスニーカーに違和感を覚えつつ、電車に乗った。ただの電車ではない。 スーパー・エクスプレス、シンカンセンだ。 「この北陸新幹線は、わりと最近開通したんですって。だから車両の設備は最新なのね」 エレクトラは、ジョゼの隣に当然のように座り、いつの間にか仕入れた情報を流した。彼は、ホ テルや町中のカフェなどと同じように、この特急電車のトイレもまた暖かい便座とシャワーつき であることに氣づいていたので、なるほどそれでかと頷いた。 この国は不思議だ。千年以上前の建物や、禅や武道のような伝統を全く同じ姿で大切に継 承しているかと思えば、どこへ行っても最新鋭のテクノロジーがあたり前のように備えてある。 それは鉄道のホームに備えられた転落防止の扉であったり、妙にボタンの多いトイレの技術 であったり、雨が降るとどこからか現れる傘にビニール袋を被せる機械であったりする。 クレジットカード状のカードにいくらかの金額を予めチャージして、改札にある機械にピタンと そのカードを押し付けるだけで、複数の交通機関間の面倒な乗り換えの精算も不要になるシ ステム。40 階などという考えられない高層にあっという間に、しかも揺れもせずに運んでくれる エレベータ。 ありとあらゆる所に見られる使う側の利便を極限まで想定したテクノロジーと氣遣いは、この 国では「あたりまえ」でしかないようだが、ジョゼたちには驚異だった。 それは、とても素晴らしいことだが、それがベースであると、「特別であること」「最高のクラス であること」を目指すものには、並ならぬ努力が必要となる。 ジョゼは、街で一二を争う有名カフェで働いていて、だから街でも最高のサービスを提供して いる自負があった。ただのウェイターとは違うつもりでいたけれど、この国からやってきた人に ミク とっては、ファーストフードで働く学生の提供するサービスとなんら変わりがないだろう。彼女 にとっても。 彼女は、ミュンヘンで彼のことを好きだと言った。あまりにもあっさりと言ったから、たぶん彼 の期待したような意味ではないんだろう。知り合った時の小学生、弟みたいな少年。あれから 月日は経って、背丈は追い越したけれど、年齢は追い越せないし、住んでいる世界もまるで 違う。もともとはお金持ちのお嬢様だったとまで言われて、なんだか「高望みはやめろ。お前と は別の次元に住んでいる人だ」と天に言われたみたいだ。そして、彼女の故郷に来てみれば、 理解が深まるどころか民族の違いがはっきりするばかり。 「なんでため息をついているの?」 エレクトラの問いにはっとして意識を戻した。「なんでもない」という事もできたけれど、彼はそ うしなかった。 「この国と、僕たちの国って、大きな格差があるなって思ったんだ」 そういうと、彼女は眉をひとつ上げた。 「格差じゃないわ。違いでしょう。私は日本好きよ。旅行には最高の国じゃない。まあ、同化し ていくのは難しそうだから、住むにはどうかと思うけれど。結局のところ、物理的にも精神的に も、この国と人びとは私たちからは遠すぎるわよね」 * * * 台風は秋を連れてくるものらしい。それまでは夏のようなギラギラとした陽射しだったのに、 嵐が過ぎた後は、真っ青な空が広がっているのに、どこか物悲しさのある柔らかい光に変わ っていた。 金沢城の天守閣はもう残っていない。もっとも堂々たる門や立派な櫓、それに大きく整然と したたくさんの石垣があるので、エキゾティックなお城を見て回っている満足感はある。 何百年も前の日本人が、政治の中心とは離れた場所で、矜持と美意識を持って独自の文 化を花咲かせた。それが「小さい京都」とも言われる金沢だ。同じ頃に、ジョゼの国では世界 を自分たちのものにしようと海を渡り独自の文化と宗教を広めようとした。かつての栄誉は潰 えて、没落した国の民は安い給料と生活不安をいつもどこかで感じている。 ジョゼたち一行は、金沢城を見学した後、隣接している兼六園を見学した。薔薇や百合や欄 のような華やかな花は何ひとつないが、絶妙なバランスで配置された樹々と、自然を模した池、 そして橋や灯籠や東屋など日本の建築がこれでもかと目を楽しませる。枯れて落ちていく葉 も、柔らかい陽の光のもとで、最後の輝きを見せている。 さんしゅゆ 「この赤い実は、 山 茱 萸 といいます。滋養強壮に役に立つのでお酒に入れて飲みます」 「こちらの黄色い花はツワブキといいます。茎と葉は火傷や打撲に対する湿布に使います。ま たお茶にすると解毒や熱冷ましにもなる薬用植物です」 ガイドが一つひとつ説明して回る花は、見過ごしてしまうほどの地味なものだが、どれも薬 になる有用な植物ばかりだ。 「野草をただ生えさせておいたみたいに見えるのに、役に立つ花をいっぱい植えているのね ぇ」 エレクトラが言った。 地味で何でもないように見えても、とても役に立つ花もある。そう考えると、没落した国の民、 ミク しがないウェイターでも、なんらかの役割はあるのかもしれない。それが彼女 にとって、なん らかの意味を持つかどうかはわからないが。 なんだかなあ。彼女の国に行ったら、いろいろな事がクリアに見えてくるかと思っていたのに、 反対にますますわからなくなっちまった。ジョゼはこの旅に出てから20度目くらいになる深い ため息をついた。 (初出:2016 年 11 月 書き下ろし) 八少女 夕
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