doyou63_ino yamaguchi

(Le Monddiplomatiqe)総編集長。マルコスは、訳者・湯川順夫氏の紹
◆図書・文献紹介◆求む!原稿
介によると、「メキシコ・チアバス州で 1994 年に武装蜂起した先住民族
●田中 登編著『小松茂美 人と学問−古筆学六十年』
(思文閣出版、2002 年)
組織 EZLN(サバティスタ民族解放軍)に属する、先住民族出身の副司
2002 年 11 月 26 日夕刻、突然、日本の古筆学の創始者・小松茂美
いるが、人前では常に覆面をして顔を隠し、その半生の不明の人物」
氏から上記の本が送られてきた。小松氏については人伝には聞いて
である。また、近々、マルコスの著作『ラカンドンの密林のドン・ドゥリー
いたがよく知らなかった。その晩、本書を一気に読み始めた。というよ
ド:サバティスタの寓話』、『サバティスタの夢』が、現代企画室から刊行
りも吸い取られるように読み込んでいた。一通り読み終えたら明け方で
されるという。
令官でスポークスマン。メキシコ政府は実在する誰某であると特定して
本書は著者のイグナチオがメキシコ南部チアパス州南東部に広が
あった。
とにかく驚いたの一言である。翌日から数日は完全に体調を崩し仕
るラカンドン密林にある EZLN の根拠地にいるマルコス副司令官を訪
事にならなかった。なにに驚いたのかというと、小松氏の学問精神に
ねた会見禄(スペイン語)をフランス語訳した『反乱する尊厳』からの日
である。私には古筆学なるものを解説する資格も教養もないが、小松
本語訳である。
氏が青年時代から古筆学なるものに虜になり独学しつつ、古筆学なる
周知のように、ラテンアメリカには無数の先住民が住む。これらの先
学問がまだ成立していない段階からその道の先人に執拗に食い下が
住民は自らの文化・習慣・風俗・言語・人権を国家権力によって襲撃・
り質問責めと人間的交流を深めながら、小松氏独自の古筆学を作り上
強奪・排除されてきた長い歴史を持っている。これに立ち向かうために
げるまでの人生を描いている。決してアカデミズムの人間には成就で
は密林の中に先住民の根拠地を作り武装闘争を余儀なくされるのは
きない偉業であると、編者は絶賛している。
当然である。先住民の排除と攻撃は国家権力が左翼であろうと右翼で
本書は第三部構成で、第一部「小松古筆学 六十年の奇蹟」、第二
あろうと関係なく強行されてきた。先住民排除と攻撃を繰り返してきた
部「小松茂美 人と学問」、第三部「小松茂美履歴・研究業績」である。
前政権が選挙によって敗北した後、新政権についたフォックス大統領
第一部で編者の田中氏は、古筆学の成立過程を冷静に解説しつつ、
に対して、マルコス副司令官をはじめとするサバティスタ民族解放軍
青年時代から現在まで小松氏が爆発的な情熱を傾けてきた様子を描
が対等な話し合いを要求したのである。そのために、武装蜂起をゆる
いている。学問としての古筆学の成立は小松氏の研究過程そのもの
め、密林から出てメキシコ現政権の中心都市に大行進をすることを予
であることが知れる。小松氏もそれを十分に認識されており、今後は後
告しながら、新政権とも真摯な対話を要求する内容である。
進のために「古筆学方法論」の執筆を準備されている。第二部は、小
ラテンアメリカ民族解放闘争にはうとく関心を向けて来なかった。そ
松氏の膨大な著作の一つひとつが刊行されるたびに、メディアに掲載
の理由は彼らの抑圧された政治状況は奥が深く一筋縄では理解でき
された多数の書評家の作品論である。どれをとっても「驚くべき作品」
ないと思っていたからである。
であると絶賛する。第三部は文字通り古筆学成立過程を如実に示す
しかし、訳者の湯川氏に勧められるべく、きちんと読んでみると、マ
ルコスらの政治的民族解放を求める見解は実にわかりやすく当たり前
小松氏の膨大な研究業績のオンパレードである。
私が興味を引くのは、小松氏がこの世界に入ることになったそもそも
のことを述べていて、その見識に尊敬の念を禁じ得なかったばかりか
の動機である。広島の厳島神社に奉納された「平家納経」に魅せられ
感動的である。丸い地球になぜ、先住民族だけが隔離され攻撃される
たことに始まる。編著者の田中氏は、小松氏が古筆学の学問を確立し
のか、先住民族も混血も白人にも、ともに対等の人権を要求している
たことは、「それはまことに不思議な、いわば現代の奇跡ともいうべき
のである。
事柄」であり、「こうした偉業がなるまでの、それこそ壮絶としかいいよう
本書に集録された多くの資料は、メキシコ先住民連帯関西グループ
の翻訳によるが、いずれも先住民族の尊厳をもとめるわかりやすい文
のない、小松茂美の人生ドラマ」があったと述べている。
これを読むと一本の道を脇目も振らずまっしぐらに走り続けてきた小
章である。まさに、彼らの声明は「反乱する尊厳」に値する内容である。
松氏の学問人生の努力と感性はまさに天才の名に値する。その偉業
最近は米軍のイラク攻撃が時間の問題となっている。米国一極支配の
は『小松茂美著作集』全 33 巻(旺文社、1995 年 11 月∼ 2001 年 3 月)
グロバリゼーションの端的な実例である。
しかし事態はもっと深刻である。本書を読むことで、得体が知れなく
で知れる。
これに対して私はどのように答えるべきなのだろうか。いまはただ、
世界中をわがものと闊歩するグローバリゼーションなる思想の実体は、
大きな衝撃を受けているとだけでしか言いようがない。いつか機会が
先住民族の存在そのものを抹殺することであることをはっきり証明して
あれば、直接、お目にかかってその学問人生の一端でもお聞きしたい
いる。■猪野修治
と思っている。■猪野修治
●イグナシオ・ラモス『マルコス ここは世界の片隅
なのか−グラーバリゼーションをめぐる対話』(湯川
順夫訳、現代企画室、2002 年)
著者イグナシオ・ラモスはフランスのル・モンド・ディプロマティーク
●レオン・トロツキー『バルカン戦争』(清水昭雄訳、
湯川順夫解説、柘植書房新社、2002 年 11 月7日、定
価 6500 円+税)全 646 頁
2度にわたるバルカン戦争(1912-13 年)に戦争特派員としてバ
ルカンに赴いたトロツキーは、
みずから面会したバルカン諸国の政
治家、将校、兵士、負傷者、捕虜たちの口をつうじて、戦争サディ
13
ズム、戦場の兵士の心理、短期間のうちに殺人鬼と化し堕落、戦争
後のコレラの蔓延……。そして、こんにち、なおバルカン問題の根
底にある民族問題解決の道筋を語る。(本書の帯より)
すべてのはじまりに嫌悪がある。―1990 年代はそれを顕在化する。
「敗北」の時代である 1990 年代は、嫌悪をそして嫌悪をのみあから
さまにする。
アイザック・ドイッチャーが『武装せる預言者・トロツキー』で
いつも「敗北」の時代がそうであったように。
絶賛した古典的名著である。それは、革命前のロシアの自由主義的
しかし、嫌悪は「敗北」の時代の行き止まりではない。
急進主義的な新聞に特有な、
堂々たるジャーナリズム的スタイルで
「敗北」の時代を、秩序への帰順としての「敗北」に清算しないため
かかれている。どの論文も、背景となる知識の確実さ、豊富な印象
にこそ、嫌悪はある。昨日と今日を嫌悪し、明日をも嫌悪せざるを得な
と地方色、描写と分析のすばらしさ、さらに、想像力ゆたかな、溌
い人に嫌悪のレッスンによる嫌悪の連帯を。」
剌した言葉にすぐれた貴重な論文であった。これらの評論は、いま
最初の「すべてのはじまりに嫌悪がある。」という言葉は、サルトルの
でもなおいぜんとして 1914 年以前のバルカンの、非常に貴重な記
「すべての根源に拒否がある。」という言葉をも想起させる言葉である。
録である。評論家トロツキーはまた、自分で物を見、ありとあらゆ
かつて「怒れる世代」といわれた 68 年世代のかなりの部分が、学生運
る職業の人間と会見し、
読者に真新しい話題を提供することに熱中
動を性急に闘った後、今やこの社会の「責任世代」となり、権威に抵抗
している。元気溌剌なジャーナリストでもあった。■猪野修治
する者をシニカルに嘲笑する側にまわるようになっていることを知って
いる者は、嫌悪という感情の重要性に思い至らないわけにはいかない。
●ボール・アリエス、クリスチャン・テラス『ジョゼ・ボヴェ
−あるフランス農民の反逆』(杉村昌昭訳、柘植書房新
社、2002 年 10 月 22 日、定価 1700 円+税)全 473 頁
繰り返し言おう。嫌悪は怒りよりもねばり強い。
この批評集で取り上げられているのはすべて嫌悪に関係する者た
ちである。
グローバルに考え、ローカルに行動する。南仏の小都市で建設中
本書では、世界に対する「不快」を常に表現し続けた中上健次、わ
のマクドナルド店は、なぜ、どのように、「解体」されたのか? 反
ずかな仲間への愛情が周囲への嫌悪としてあらわれ暗い輝きを放っ
グローバリゼーションを象徴する人物。彼はまた、「ただ自らの大
ていた「嫌悪するミュージシャン」尾崎豊、日常への慣習や常識への
義に忠実に生きているだけ」と、語る。たたかうことは喜びである
絶えざる異和がそのまま作品となっている小川洋子、『ああ播磨灘』で
(本書の帯より)。ジョゼ・ボヴェは今年 10 月来日し全国の労働
国技である相撲界の常識をことごとく踏み破ってしまう力士を登場させ
者から熱烈な歓迎を受ける。
遺伝子組み換え作物反対に取り組むフ
た「嫌悪する漫画家」さだやす圭、嫌悪から発した神経的闘争を闘っ
ランス農民運動家の世界へのメッセージである。■猪野修治
た文学者、芥川龍之介、そしてその存在そのものが我々の社会秩序
にむけられた巨大な嫌悪である怪獣ゴジラなどが言及されている。
●高橋敏夫『嫌悪のレッスン』(三一書房、1994)
高橋は、第一章の「いま、嫌悪とはなにか―90 年代の「大きな肯定」
なんとも息苦しい。少しも解放感というものがなく言葉というものにリ
への闘争」という節で 1945∼1967 年までを「敵対的否定から競合的否
アリティを感じることがない。何をしていても閉塞感が、身体の底に沈
定への時代」1968∼ 1975 年までを「自己否定あるいは自己嫌悪の時
んでいくようである。このような閉塞感がただよう時代に、批評家、高橋
代」と位置づけている。
敏夫が、注目する感情が嫌悪という感情である。
高橋は、1945∼1955 年までを敵対的な否定の時代ととらえる。ここ
高橋によれば、「嫌悪とは「怒り」に重なる部分をもちながら怒りその
ものではなく、怒りを包み込み、一層ひろく遍在的な感情」であるという。
怒りが瞬間的な感情的であるのに対して嫌悪は怒りよりもさらに持続的
で包括的な感情なのである。
でいう敵対的な否定とは、否定する者と否定される者が、はっきり区別
されている否定ということである。
この場合、否定される者や物とは、戦前の天皇制国家であり、それ
を支えた諸制度、支持者達だったとする。そして 1955∼1967 年は、競
今はやりの言葉で言うならば、「持続可能な感情」とでもいおうか。
合的な否定の時代と位置づけられる。
(なお誤解のないようにことわっておきたいが、ここでいう嫌悪という感
競合的な否定とは、「近代化」をめぐる体制側と反体制側のつばぜり
情は、小林よしのりの「ゴーマニズム」のような感情に連なるものでは決
合いのことを意味している。保守と革新が「近代化」という同じ方向に向
してない。むしろ「ゴーマニズム」に対する嫌悪といった方がよい。)
かってお互いを否定しあうという時期だったということである。1968∼
さて嫌悪という感情に注目していた者には、先駆者がいる。おそらく
1975 年までの「自己否定あるいは自己嫌悪の時代」の「自己否定」とは、
文学者では、埴谷雄高である。埴谷は、文学作品『死霊』で「自同律の
いうまでもなく全共闘運動の過程で生まれ、全共闘運動の重要な思想
不快」という言葉で世界に対する異様なといってよい異和感について
となったものである。
述べていた。それらは文学作品という形で述べられたものだったが、
この「自己否定の時代」は嫌悪の時代だったと高橋は言う。
高橋はそれをここで批評にしたのである。
自分を含む世界に対する「嫌だ」「不快だ」「吐き気をもよおす」とい
高橋は最初のマニフェストともいえる部分でこう述べている。
った気分が、蔓延しており、この時期、高橋自身「不断の吐き気」を感
「すべてのはじまりに嫌悪がある。われわれの感覚が、思考が、感
じていたのだという。
情が動き始めるのは、それまでの感覚、思考、感情への嫌悪のゆえで
ところが、ポストモダンといわれる 1980 年代が始まると時代の気分が
ある。物語が始まるのは、前の物語への嫌悪からである。政治が始動
大きく変化し始めたことを1980年前後の「不思議、大好き。」(西武百貨
するのは、以前の政治への嫌悪なくしてありえない。そして、、、もまた。
店)「好きだからあげる」(丸井)
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「いいなあ、あれ」(ヤマハ)「すこし愛してながーく愛して」(サントリ
ー)「気持ちんよかーー」(パスタイム)などのコピーを例に取りながら、
この嫌悪を批評にした高橋敏夫は、もちろん嫌悪のかたまりの様な
人である。
指摘する。つまり「否定」よりも「肯定」の気分を表現する言葉が、多くな
あとがきで「「あまのじゃく」はやがて「隅の少年」となり、破壊するマ
りはじめたということである。それらの「肯定」は最初は、「小さな肯定」
オ思想の遅れてきた実践者となりその壊滅ののち惰眠をむさぼりつつ
だったが、1989 年頃、すなわち昭和天皇死去の頃にはもう「小さな肯
文の闘争にたずさわり、斜めに走った後退線の上をじりじりじりじり退き
定」ではすまないほどの現状に対する「大きな肯定」となる。嫌悪などと
ながら、ついに日々の嫌悪を、そして嫌悪だけを自覚する者となった。
いう感情は、人間として非本来な感情とまで見なされるにいたっていた
嫌悪はその後退線のどん詰まりに突如姿を現したように見えたのであ
というわけである。
るが、もちろんそんなはずはなかった。「あまのじゃく」にとって世界は
そして 1990 年代には、「歴史のおわり」によってもたらされた「大きな
嫌悪の薄い膜で包まれていたはずだからである。」と書いている。
肯定」によって「嫌悪の消失」という事態はいっそう進行していった。と
もうこの嫌悪にふれないのは、もったいないというほかはない。
ころが高橋は次のようにもいう。
昨日と今日を嫌悪し、明日をも嫌悪せざるを得ない人にはぜひ御一
「しかしながら同時に嫌悪は増大している。特に 90 年代に入って嫌
読いただきたい本である。■山口直樹
悪は急速に増大している。」これは一体どうしたことなのだろうか。明ら
かに矛盾しているのではないか。
「そうではない」と高橋はいう。「常識を背負った多数者が、身内だと
感じれば、許し、異論をかたる少数者だとみなせばあからさまな嫌悪
のまなざしをむける。これが嫌悪の消失と嫌悪の増大の正体だったの
です。」つまり現在の体制秩序、集団あるいは制度の内部では、嫌悪
の消失が生じ、制度の外や周縁部分では嫌悪が増大しており、嫌悪
の消失と嫌悪の増大とは、矛盾するのではなく、おなじ事態の別のあ
らわれ方をしたものだったというのである。
市民科学研究室
運営日誌
2003 年 1 月 18 日∼2003 年 2 月 16 日
●1/18(土)電磁波 PJ 勉強会 於:天神山事務所(上田、西
野、赤坂、薮、懸樋)●1/19(日)ワークショップ&講演「科
学技術社会の中の環境問題」於:北九州市環境ミュージア
ム(上田)●1/21(火)「どよう便り 第 62 号」発送 於:天神山
事務所(上田、薮、月本、後藤、藤田、古田、小林)●1/22(水)
出張ワークショップ「21 世紀の預言」 於:東京工業大学・環境
そして重要なのはその次の部分に書かれた以下の言葉である。
「90 年代に「いまとここ」を少しでも動かそうとするなら嫌悪する少数
者にならざるをえないことは是非言っておきたいのです。そして孤立し
がちとはいえ、嫌悪する少数者もまた連帯するということも。」
そう―この批評集は、嫌悪する少数者の連帯ということが主題の本
だったのである。
(したがってここでの嫌悪は、多数者が少数者にむける嫌悪、たとえ
ば外国人労働者に対する嫌悪などとは、明確に区別されなくてはなら
ない。)
そのことは、第四章「国家に向けられた嫌悪」での次の言葉にさらに
鮮明に表現されているといっていいだろう。
「依然として国家は嫌悪を抑圧する暴力装置である。国家は、そこに
とらえられた人々に嫌悪をわけへだてなく供給するとともにたえず嫌
悪を見張り、嫌悪をつぶし、嫌悪の結合を分断しようとする。「日本」
「民族」「大国の責任ある市民」「一丸となったサポーター」「制服のよく
似合う子供」といったスローガンを掲げつつ、国家は、常に嫌悪を憎悪
している。国家は憎悪装置である。だが、嫌悪は憎悪より大きくねばり
強い。嫌悪のまえについに国家は死滅するしかないということもまた依
然として正しい。はるか彼方に約束された国家の死滅を嫌悪はいまと
ここで準備するだろう。国家を嫌悪する嫌悪とは、嫌悪の最もありふれ
サークル(薮、上田、小林)●1/25(土)第 147 回研究発表「生
物兵器とバイオテロリズム」講師:上田昌文 於:社会問題研究
所 参加者 14 名 ●1/26(日)科学技術評価 PJ 勉強会 於:天
神山事務所(上田、尾内、小林、藤田ほか)●1/26(日)みどり
の会議 一周年記念パーティ 於:赤坂プリンスホテル(上田、
小林)●1/30(木)web 刷新会議 於:天神山事務所(上田、上
村、河野、小林)●2/4(火)OZONE 見学ツアー リビングデザ
インセンターOZONE(古田、森、薮、上田、後藤)●2/6(木)天
神山子ども教室 於:天神山事務所(南風ちゃん、ひかりちゃん、
上田)●2/4(火)天神山経済ゼミ 於:天神山事務所(小林ほか
13 名)●2/7(金)運営会議 於:天神山事務所(上田、薮、月本、
小林)●2/7(金)「土と水の連続講座」打合せ 於:天神山事務
所(上田、森)●2/9(日)電磁波 PJ 国立での計測予備調査(上
田、懸樋、薮、武内ほか)●2/10(月)web 関連打合せ 於:天神
山事務所(上田、小林)●2/11(火)電磁波 PJ 打合せ 於:天神
山事務所(上田、西野)●2/11(火)科学技術時事解説会議
於:天神山事務所(上田、西野、小林)●2/13(木)臨時研究発
表打合せ 於:天神山事務所(藤田、上田)●2/16(日)電磁波
PJ 勉強会 於:天神山事務所(上田、懸樋、薮、西野、赤坂)
た、だが先鋭なポリティックスである。」
この言葉は、ナショナリズムとグローバリゼーションという怪物が、地
球上を徘徊する今日にあってこそ記憶するに値する言葉であるように
私には思われる。
国家が嫌悪を見張り、嫌悪をつぶし、嫌悪の結合を分断するという
のならば、「嫌悪する市民」同士の国境を越えた連帯は、これからの市
民運動にとってますます重要課題である。
15
会計報告 2003 年1月(1月1日∼1月 31 日)
収入 \926,365(昨年度繰越金 \339,877 を含む)
支出 \225,668
■小林一朗
収支 \700,697