第 17 章 「NPO 革命」と反革命 ――敵対性を胚胎する場所をめぐって―― 仁平典宏 1 はじめに 現在、奨励されている「公共空間」における身振りとは、要求を求めて抗議や直接的行動や .... デモンストレーションを行うのではなく、非政治的な社会参加や、参画対案や政策提言を行う 「建設的」な形態である。その一方で、既存の秩序のラディカルな組み替えを要求するような 運動の敵対性や政治性は、いびつなもの、逸脱したものとして封殺される。例えば、ボランテ ィアをめぐる言説の中でさえ、戦後しばらくは「運動」との接続は肯定されてきたが、1980 年以降それが転調し、 「運動」は古いものさらには「自立していないもの」であるため、NPO が事業や提案を行なう社会参加/参画こそ望ましい市民社会の文法だと定義されるにいたって いる(仁平 2008) 。 批判者によると、これによって、ネオリベラリズム自体に対する異議申し立てのレパートリ ーは縮減され、ネオリベラリズムというゲームの規則には触れない範囲内で、よい「まちづく り」や「学校づくり」のために「参画」が推奨されるという事態が生じている(仁平 2005) 。 本章では、 「参加・参画」と「運動」の断絶というテーゼについて、その妥当性をデータから 検証することを目的とする。しかしその前に、次のように問う余地があるだろう。果して、こ の問いは、正面から取り組む必要はあるのだろうか。 「争議的な運動」や「ラディカルな敵対性」 が必要だと思うことは、一部の古い政治的立場(左翼?)の幻想/郷愁にすぎないのであって、 市民が成長し、行政も市民の力を認めて様々な領域を参加/参画に開いている現在、そのよう な「民度の低い」形態に操を立てる必要はない――このような感覚は、ボランティア論や NPO 論にとどまらず、参加型市民社会や公共性をめぐる論議に広く流通していると考えられる。よ ってまずは、 “ 「運動の封殺」という共振問題は存在しない(問題とするに値しない) ”という主 張について、検討していきたい。 2 「NPO 革命」と反革命 “ 「運動の封殺」という共振問題は存在しない”という主張は、 “ 「運動」は「NPO」 「ボラン ティア」的なもの(参加・参画的なもの)に代替されたため、もはや不要である”という主張 によって主導される。この立場は、いくつかに分かれる。 まず考えなくてはならないのは、①その主張が〈運動〉という意味論自体を不要とするもの なのか、②〈運動〉の意味論自体は擁護しつつ、そのレパートリー/形態として「争議的な運 動」よりも参加・参画の方が望ましいとするものなのか、という種別性である。 この種別性の意味を的確に抑える上で、ここで社会学(社会運動論)における「運動」の定 義を参照しよう。それによると「運動」概念は、それが準拠する意味論を不可欠の内包として いると考えられる。例えば、社会学の社会運動論として代表的なシドニー・タローの次の定義 を見てみよう。 社会運動は、エリート、敵手、当局との持続的な相互行為の中での、共通目標と社会的連帯に 基づいた、集合的挑戦である。(Tarrow 1998=2006:24) この定義のポイントは、 「エリート、敵手、当局」という構成的外部が用いられていること、 「敵 手」というニュートラルな分析概念と、 「エリート」 「当局」といった〈政治〉に訴求する意味 論とが混淆しているということである。換言すれば、ここには、 「エリート」 「当局」 (=既存の 社会秩序)といった政治的意味論=実定性をもった世界観が折りこまれているといえる。実際 に、このような政治的意味論を要件に含めず、形態的特徴のみで定義しようとする試みは、外 延の不明確化に陥る。よって、定義を実効的なものとするためには、政治的意味論に訴求する ことで意味を縮減せざるをえない。 ここから確認できることは、第一に、 「何が『運動』か」ということは、その外部にある「何 が『敵手』か」という問いと鏡像的な関係にある、つまり「既存の社会とは何か」という問い が構成的外部として潜在的に先行していること。このメタ言及性こそが〈運動〉論を構成して いる。第二に、何が〈運動/外部=敵手〉か、ということは観察者の観察位置と相関的に決定 される。この二点である。 このように考えると、 〈運動〉と、 「参加・参画」は、概念の位相が異なると考えることがで きる。両者の間には、分業体制が成り立っているのである。 例えば〈運動〉からみると、 「参加・参画」とは、 〈運動〉の目的の実現のために採用されう る手段/レパートリー(形態)の偶有的な選択肢の1つに過ぎない。それは、抗議行動、集会、 デモ、バトラー的撹乱、「文化=政治」……等と並ぶもので、選択肢の中では最も争議性 (contentiousness)の低い部類に入る。しかしそれは、状況に応じて選択されうる手段の一つ である。 一方で、 「参加・参画」からみると、 〈運動〉は、NPO などの参加・参画主体が掲げうる目 的(意味)の偶有的な選択肢の1つに過ぎない。それは、サービス提供、親睦、営利、共益増 進……等と並ぶ目的の一つである。 つまり、相互は相互に偶有的である。この幸福な分業体制が成り立っている限り、 「運動は参 加・参画に代替された」という言明は生じえない。両者は存在身分が異なるからである。逆に いえばこの言明は、この分業体制に何らかの形で揺るがされていることを示している。しかし それはいかなる形で揺るがされたのであろうか。 ここでまず、本節の最初に掲げた区別が有効になる。つまり、 (1) 「 〈運動〉という意味論自 体が不要である」と、 (2) 「 〈運動〉の意味論自体は擁護しつつ、そのレパートリー/形態とし て『争議的な運動』よりも『参加・参画』の方が望ましい」という二つの立場の区別である。 ここで(1)を分業体制自体を否定する「革命モデル」 、 (2)を分業体制は維持しつつ、レパー トリー間の配分構造を変えようとする「体制内改革モデル」と呼んでおこう。 (1) 「革命モデル」とは、 「参加・参画」に〈運動〉と同じレベルの(意味論レベルの)存 在身分を与えることを要求した上で、 〈運動〉 という意味論自体がもはや不要なものとなった (死 んだ)ため、上記の旧体制(アンシャンレジーム)としての分業体制は失効したことを宣言す るものである。 〈運動〉の意味論に変わって、今後は、 「参加・参画」に込められる別の意味論 ( 〈生きがい・自己実現〉や、NPO 論に見られる〈経営論的なもの〉など)が、意味論のレベ ルにおいて主導するとされる。1990 年代以降、盛んに「NPO 革命」とか「ボランティア革命」 ということが言われるが、この「革命」の言表は、字義通り受け取るべきなのである。 この立場に対しては、基本的に交渉は困難である。というより、 〈運動〉の意味論に準拠する 限り、相互は相互に「環境」とならざるを得ないため、交渉を打切るしかない。つまり後は世 界観の問題、 「神々の闘争」というわけである。 〈運動〉論は、 “ 「運動の封殺」という共振問題 は存在しない”と主張する相手に対し、以後は、交渉者(対抗者)ではなく敵対者として対応 することしかできないだろう。 〈運動〉論に準拠しながら〈運動〉を抹消することの「問題」を 告発することは、準拠しないものにとってはトートロジーにしか聞こえないのだから。規範理 論や社会哲学の領域に入るこの争点について、本章で扱うことはできない。 (2) 「体制内改革モデル」とは、 〈運動〉の存在身分や分業体制自体は脅かさず、 〈運動〉を 有効に遂行する形態として「参加・参画」が、争議性の高い形態(直接行動・抗議・告発……) に替わって、特権的・独占的な場を占めるに至ったとするものである。 これは事実認識に関わることであり、本章で検討することができる。ただし、体制内改革派 には、2つの立場がある。一つが「段階論」派である。これは、 「参加・参画」という形態を― ―争議性が高い形態より――「新しい段階」であるという主張から、規範的含意を導く主張で ある。もう一つが、 「プラグマティスト」であり、有効性の問題として「参加・参画」を擁護す る。ここには、さらに、政治機会的プラグマティスト、表象動員的プラグマティストに区別す ることが可能である。 3 「段階論」派との交渉 “ 「運動の封殺」という共振問題は存在しない”=“ 「運動」は「参加・参画的なもの」に代 替されたためもはや不要”と主張する最初の交渉相手である「段階論」派は、 「参加・参画」と いう形態は争議的な形態より「新しい段階」にあるという歴史哲学を用いるものである1。こ の「事実性」に関する記述から、だから「参加・参画」は望ましいという規範論的言明を導出 し、意味論=存在身分の同定/境界設定に関する含意を取り出す。この種の議論は、 〈運動〉の 意味論を否定する「革命派」によっても用いられるが、その意味で、段階論派と革命派との間 には接続(内通?)の可能性が絶えず存在している。 さて、この議論の問題点とは、この立場に「段階論」という名称を与えた道場親信(2006) によると、 「 『類型論と段階論とが無媒介に重ね合わせられる』ことで」 「特定の集合行為が『古 い型』のものとされ、また別のものが『新しい型』のものとされるだけでなく、それは『古い 段階』のもの、 『新しい段階』のものへと『無媒介』に意味づけられていく。その結果、現に生 き生きと行われている活動や運動が『段階論』的に価値づけられ、選別される、という転倒が 起きる」 (道場 2006:243)という点にある。 道場自身が運動の重厚な歴史を描いて示しているように(道場 2005; 2006) 、実際の運動は、 そのような単純な「段階」を経るものではない。また、新しい段階といわれる「ボランティア」 が「新しい」わけでも、昔の「ボランティア活動」が「自己犠牲的な滅私奉公」だった(から 今のボランティアは新しく素晴らしい)わけでもない(仁平 2008) 。 よって、 「段階論」派との交渉は、その事実誤認だけを指摘して終わりにしてもよいのだが、 もう一つ本稿の枠組のもとでつけ加えられるのは、段階論によって「参加・参画」を「新しい 型」と言祝いだ議論も、再び「段階論」によって否定されるということである。 以下、道場(2006)とは若干異なる形で、運動における「段階」として一般的に語られるこ とについて再整理してみたい。 表 17-1 特定の形態に規範的意味を読み込むタイプの段階論 運動 ④ 搾取への抵抗 敵手=「既存の秩序」 意味論 労働運動論 ⑤ 前衛的かつ合理的なツリー状の官僚制組織 ④ 抑圧・管理されたアイデンティティ/生の形式の反乱 ⑤ 資本主義・産業社会 ② 封建的・非「近代」的秩序 ③ 形式合理的なツリー状の 官僚制組織 形態 意味論 「新しい社会運動」論 フレキシブル/ネットワーク型組織・参加 (「ボランティア」的なもの?) ① 介入国家としての〈社会〉国家(=福祉国家) ① テクノクラシー・プログラム化社会(トゥレー ヌ) ② 形式合理的なツリー状の 官僚制組織 ③ 生の包摂(フレキシブルな組織形態、 創造性・コミュニケーションの活用) 形態 ③ ネオリベラリズム/グローバル化が生み出す 排除・抑圧への抵抗 (「国家」や「共同体」の両義化) 意味論 ① ネオリベラリズム(グローバル資本主義) 〈社会的なもの〉(≒福祉国家)の解体 ネットワーク型社会(カステル) ④ ? 形態 ② フレキシブルな社会編成・ 脱中心型=ネットワーク型権力・ 創造性・コミュニケーションの活用・ 「ボランティア/NPO」への「封じ込め」 ポスト「新しい社会運 動」論? (一方向矢印は「要素の移動」 、双方向矢印は「要素の対立」を表す) 表 17-1 は、特定の形態から規範的含意を引き出すタイプの段階論について整理したものであ る。なお通常の議論では、 「労働運動論」と「 『新しい社会運動』論」との対比が中心的な論点 だが、ここではその次の「段階」 (ポスト「新しい社会運動」論)を想定して作成している。 以下、それぞれの段階について説明を加えていく。番号は、それぞれの表のセルの番号と対 応している。 労働運動論 ①④敵手は、資本主義・産業社会であり、労働運動は、それがもたらす搾取への抵抗という 意味論をもつ(もちろん多くの場合それは「革命」への連続線上で捉えられる) 。 ②敵手である資本主義の形態は、特に日本の場合――しかも講座派的意味論の中では――封 建的・非近代性と接続するものと捉えられていた。 ⑤労働運動のツリー状で形式合理的な(官僚制的な)形態は、そのような後進性との関係に おいて「前衛」性を主張でき、価値的な優越性を主張することができる。 (形態に規範的含意を 読み込む議論の完成) ③しかしいうまでもなく、近代資本主義は、ツリー状で形式合理的で官僚制的な組織形態を も主要な装置として配備する。この意味で、形式合理的な官僚制組織という「形態」は、運動 も敵手(社会)も用いることが可能なテクノロジー(技術)の総体・あるいは統治的合理性 (形態に規範的含意を読み込む議論の破綻) (governmentality)2というべきものである。 「新しい社会運動」論 ①新しい社会運動論の社会を観察する意味論では、ポスト産業社会段階に入った資本主義が 国家と強い連関を結んだ「組織化された資本主義」 (国家独占資本主義)が敵手となる。そして これを「統治」するのが「テクノクラシー」であるとされる3。つまり、敵手は、資本主義か ら国家に重心がシフトする。この国家とは端的にいえば「介入国家」としての〈社会〉国家= 「福祉国家」でもあった。 ④よって、運動の目的は、抑圧・管理されたアイデンティティの反乱であるとされる。 ②さて、ここで主要な社会編成/組織形態は、前段階では運動側も使用していた「官僚制組 織」とイメージされることが多い。 ⑤ここからツリー型の官僚制の対義語である(とされる) 、アソシエーション/ネットワーク /創造性/自主性/参加/リゾーム……などの形態が、規範的根拠をもつという議論が生まれ る。 (形態に規範的含意を読み込む議論の完成) ③とはいえ、この段階の運動論の全てが、このような単純な議論を展開しているわけではな い。 「新しい社会運動」論のトゥレーヌは、この時期の趨勢的な社会秩序を「プログラム社会」 と呼び、その編成・組織原理が硬直な官僚制とは異なり「柔軟性」を備えていることを繰り返 し指摘していた4。つまり、組織の柔軟性・創造性といった特質は、運動側の特徴的な組織形 態であると同時に、 「既存の社会」の側も持ち、生の包摂のために活用されているという観察が 成り立っていたといえる。またも両者は統治的合理性の水準で一致していたといえるだろう。 (形態に規範的含意を読み込む議論の潜在的な破綻) ちなみに、メルッチは、マルクス主義的な労働運動論を、統合主義的で本質主義的な社会運 動概念とし、その前提となる、単一の基準から社会を一般的に記述することの誤りを批判して いる(Melucci 1989=1997:235-308) 。この批判は、官僚制社会という社会観察を持って、形 態・意味のレベル共に、その反対物として設定しようとする、新しい社会運動論の「単純なバ ージョン」に対しても当てはまる。ここでも形態は、規範的論拠となり得ない(仁平 2001) 。 しかし、 「参加・参画」の形態を、段階論的に擁護しようとする議論は、基本的にこの段階に とどまっている ポスト「新しい社会運動」5論? さて、この「 『新しい社会運動』論の単純なバージョン」は、今や、他ならぬその段階論によ って「復讐」されようとしている。 ①まず社会認識として、前段階時の「敵手」だった「福祉国家=介入国家」は、経済のグロ ーバリゼーションと相関するように進展したネオリベラリズムによって、基盤が崩されつつあ る(酒井 2001、Harvey2005=2007) 。敵手の側は、再び「 (グローバル)資本主義」が主要な 位置に着いたといえる(Castells1989; Hardt & Negri2000=2003 など) 。 ②しかも、ネットワーク/創造性/自主性/参加/リゾーム……などの形態を、経済におけ る付加価値の増大や、コストのかかる国家の縮小のために積極的に活用されるようになった。 それらは主要な統治的合理性として、現勢化・前景化するようになったとされる。この観察を 踏まえるなら、 「参加/参画」や「NPO」を前段階の認識をもとに言祝ぐ「 『新しい社会運動』 論の単純なバージョン」は、 「ネオリベラリズム/グローバリゼーション」というより新しい段 ....... ... 階論によって「周回遅れ」化することになった。そしてこれこそが、言うまでもなく、ネオリ ........... (形態に規範的含意を読み込む議論の完全な破綻) ベラリズムとの「共振」という事態である6。 ここから、徹底的な批判が生じるようになった(Rose1999; 中野 2001、渋谷 2003、渋谷 2004、 Sinha2005、Harvey2005=2007 など) 。 ③ここにおいて現在の「運動」の意味論は、 「ネオリベラリズム/グローバリゼーション」が もたらす排除への抵抗、という形で構成されることが多い。もちろん、ここで「抑圧する国家」 という問題系が相対化されたわけではない。確かにグローバル資本が一国の経済・社会政策を 左右するようになったという種別性はあるが、国家はグローバル資本の逃避を避けネオリベラ リズム的秩序を作るために、むしろ強権的・抑圧的に行為するとされる( 「構造改革」 「骨太の 方針」を想起) (Harvey2005=2007 など) 。国家は、抗いの対象と共に、社会保障やグローバ ルな社会政策などを求めていく名宛人という意味で、両義性を帯びる。 ④さてここで、運動の「形態」には、何が名指されるのだろうか。結論から言うと、それは もはや単一の何かを――しかも規範的含意を込めながら――同定できるものではない。 例えば、 現在、様々な運動が「貧困」でつながれつつあるが、それは単一のアイデンティティ(プレカ リアートなど)に回収されるわけではない。 「前段階」としてプロットされる「新しい社会運動」 論――というより、それらを包括するポスト構造主義の諸思想/気分――が開いた形態的地平 (ex. Melucci 1996)――「偶有的で暫定的なアイデンティティの縫合という方が普通だし抑 圧も少ないでしょ?」――を、もはや塞ぐことはできない。表 17-1 の「ポスト『新しい社会 運動』?」の④のセルには「?」が入っているが、それは、ここに新しい何かが投入されるわ けではないことを示している。目的に応じたレパートリーが――「直接行動」や「参加/参画」 も含め――その時に応じて選ばれる。もちろん、 「参加/参画」だけが独占的な位置につけるわ けではない7。 ここに至って、もはや、このような段階論的歴史のリストを長くしていくことには意味がな ......... いといえるのではないだろうか。新たな「段階」が真に示しているのは、特定の形態に規範的 ....................... 意味を読み込むような段階論=歴史哲学が失効したということであると思われる。 4 「政治機会的プラグマティスト」との交渉 (1) 2 つの疑問 “ 「運動の封殺」という共振問題は存在しない”=“ 「運動」は「参加・参画的なもの」に代 替されたためもはや不要”と主張する第二の立場は、 「参加・参画」の形態面における有効性を 主張する「プラグマティスト」である。プラグマティストはさらに二つの立場に区別しうるが、 先に「政治機会的プラグマティスト」と名付けうる立場の主張について検討したい。 「政治機会的プラグマティスト」の主張とは、 「市民参加・参画の機会が開かれてきたので、 反対・抗議のような直接行動をくり返すのではなく、行政とパートナーシップを組んで、提案・ 対案を行った方が、効果的である」というものである。 この主張は、確かに説得的なものである。しかし二点疑問が残る。 疑問の1つ目は、 「参加・参画」はたえず開かれているのか?というものである。つまり「参 加・参画」は、国家・市場とベクトルが(偶然?)一致したところにしか開かれないのではな いだろうか。実際には、イシュー(issue)によって政治機会の開かれの度合いは異なり、イシ ューによっては、 「参加・参画」が開かれないということがあるのではないだろうか。例えば、 反グローバリゼーションや反戦といったイシューの場合、一体どこに「参加・参画」したらい いのだろうか。そのような領域の場合、まずは、 「直接行動」というレパートリーを駆使して、 問題の共有化を訴えたり、 「参加・参画」への「こじ開け」をめざすことが合理的なのではない だろうか。例えば、1990 年代の新宿のホームレス「問題」においては、東京都は徹底した物理 的排除で望み、当事者と支援者は「直接行動」をレパートリーとして選択せざるをえなかった。 東京都や新宿区がこのコストを認識し、当事者/支援者団体に対して「参加・参画」の場を開 いていったのは、逮捕者を何名も出すような激しい「直接行動」を経た後である。 以上のことが示唆するのは、公共性=openness=〈開かれてあること〉とは、温情(おねだ り?)で開かれるのを待つものではないということである。今「参加・参画」が開かれていた としても、そこには、閉じているものをこじ開ける〈原-力〉があったと考えることは可能であ り、同時にそれが、参加型市民社会を創り支えるものではないだろうか。この点を、アレント =ハーバーマス的公共性論は忘却しているように思われる。日本で現在「まちづくり」などの 文脈で行われている「参加・参画」も、 〈原-力〉としての 1970 年代「住民運動」に起源を求 めることは可能だろう。1970 年代のボランティア論の一部は、そのような「運動」に共振する 形で――少なくとも言説のレベルでは――自らの規準として取り入れていたすでに述べたとお りである。つまり、 「参加・参画」とは単なる類型ではなく、この歴史性=〈原-力〉性を刻印 したものであるといえる。 逆にいえば、政治機会的プラグマティストの主張は、 〈原-力〉の記憶を喪失した場合、 「参画・ 提案の場(政治機会)が開かれているとき、参画・提案は効果的である」というトートロジカ ルな真理に堕すると考えられる。 では、現在の「ボランティア」や「NPO」は、この〈原-力〉たる「運動(争議性の高いレ パートリー) 」に、どの程度開かれているのだろうか。もし、この回路が開かれている場合、 「ボ ランティア/NPO」は、 〈原-力〉としての「運動」を排除することなく、 “敵対性の封殺”と いう問題は杞憂であるという主張に同意することができる。 疑問の2つ目は、 「参加・参画」を主導する「ボランティア/NPO」は、その意味論を、 〈運 動〉と共有しているのか?というものである。 政治機会派の前提は、 「参加・参画」を行う「ボランティア/NPO」も、意味論(問題意識 や世界観)は〈運動〉と共有しており、レパートリー(形態)レベルで、より効果的なものを 選んでいるだけ、というものであった。しかし、 「ボランティア/NPO」が、 〈運動〉と意味論 を共有しているという想定は、アプリオリに是認できるものではなく、検証を行う余地がある と思われる。 以上二つの疑問を解消するために、以下では、 「ボランティア」 「NPO」 「社会運動」など、 様々な言表と形態のもとに活動を行う団体への調査結果の分析をもとに、検証を行っていく。 (3) 検証1: 「ボランティア/NPO」は「運動」への回路が開かれているのか はじめに、 「参加・参画」を主要なレパートリーとする「ボランティア/NPO」が、より争 議性の高い――より「運動」的な――レパートリーに開かれているのか、開かれているとした らどういう形か、ということを検証していく。この問いは、上述のように、 「政治機会的プラグ マティスト」に対する一つ目の疑問――「参加・参画」はたえず開かれているのか?――を展 開する形で、設定されたものである。 分析の基本的な方向性は、①「ボランティア/NPO」を掲げる団体は、争議性の高いレパー トリーも取ることがあるのか、②「ボランティア/NPO」を掲げる団体は、 「運動」と自己定 義する団体とネットワークを形成しているのか、という二つ作業レベルの問いを検証するとい う形を取る。つまり、①では、 「ボランティア/NPO」は、必要に応じて「参加・参画」を開 くための〈原-力〉=「争議的行動」のレパートリーを選択することがあるのか、について、② では、 「ボランティア/NPO」は「運動」を忌避せずに関係性を維持しているのか、について 検討する。 まず、①から検討しよう。 図 17-1、2 は、過去3年の間に市区町村行政、都道府県行政、国家に対して、 「要望書・意 見書を提出した」 「直接交渉や街頭行動を行った」という経験の有無について、それぞれの法人 類型(任意団体/NPO 法人)の結果を示したものである。 図17-1 法人類型別 要望書・意見書提出経験の有無 0% 20% 40% 60% 80% 54 .6 任意団体(N=392) 図17-2 法人類型別 直接交渉・街頭行動経験の有無 0% 100% 任意団体(N=392) 45 .4 50% 28.1 100% 71.9 あり あり なし なし 3 6.3 NPO法人(N=432) NPO法人(N=432) 13.9 6 3.7 86.1 データの性格上、母集団の特定が困難な上、無作為抽出もできないため、統計的検定は行わな い。しかし、一見して明らかなように、どちらの項目についても、 「任意団体」の方が「NPO 法人」に比べて経験のある団体の割合は高い。 次に、法人格のない「任意団体」だけに注目し、自己定義(自分たちをどのような「団体」 だと認識しているか)によって、行政への要求・抗議行動の経験率がどう違うのかを見てみた い。 図17-4 任意団体自己定義別 直接交渉・街頭行動経験の有無 図17-3 任意団体自己定義別 要望書・意見書提出経験の有無 0% 20% 40% 社会運動団体(N=48) NPO(N=16) 62.5 その他(N=38) 0% 37.5 43.6 あり なし 66.1 15.8 42.1 40% 60% 66.7 NPO(N=16) 25.0 75.0 24.3 75.7 市民活動団体(N=172) 27.3 72.7 その他(N=38) 80% 100% 33.3 NGO(N=37) ボランティア団体(N=56) 8.9 5.3 サークル(N=19) 84.2 57.9 20% 社会運動団体(N=48) 51.4 56.4 33.9 100% 16.7 48.6 市民活動団体(N=172) サークル(N=19) 80% 83.3 NGO(N=37) ボランティア団体(N=56) 60% あり なし 91.1 94.7 31.6 68.4 「社会運動団体」と自己定義している団体は非常に高く、 「NPO」 「市民活動団体」 「NGO」 はそれに続き、 「ボランティア団体」 「サークル」と自己定義する団体は、非常に低いことが見 てとれる。特に、制度的立場としては同じ任意団体でありながら、 「社会運動団体」と「ボラン ティア団体」との間の差は、極めて大きい。 ちなみに、図 17-3、4 において、 「NPO」という自己定義の団体において、争議性が高いと いう結果が出ている。しかしこれは「NPO」が運動=争議性に開かれていると考えるべきでは ない。なぜなら、図 17-1、2 でみたように、多数を占める「NPO 法人」の争議性の度合いは 相対的に低く、任意団体で「ボランティア」と自認する団体と同じぐらいなのだから。図 17-3、 4 における自己定義の「NPO」とは、NPO 法人格を取らず「任意団体」でありながら「NPO」 を自認する特異な(例外的な)位置を占めている団体である(だからサンプル数も小さく 16 しかない) 。 総じて見ると、 「NPO 法人」や「ボランティア」と自己定義する団体は、自らが争議的な行 動を行うことは少ない。この点において、 「運動」との距離は大きい8。 次に②の検討に移ろう。 「ボランティア」 「NPO」である限り、自らが争議的な行動を取る必要はない、ということ は可能である。争議性の高い「運動」との間に、ネットワークが築かれていれば、それは一つ の回路である。 ここでは、法人別、自己定義別に、それぞれ「運動団体」との間で、 「事業・集会」 「寄付・ カンパ」 「直接行動・デモ」において協力した経験があるかについて、分析を行った。 図17-5 法人類型別 運動団体との間の協力関係 (事業・集会) 0% 20% 40% 60% 図17-6 法人類型別 運動団体との間の協力関係 (寄付・カンパ) 80% 100% 0% 52.8 任意団体(N=373) NPO法人(N=414) 28.0 47.2 任意団体(N=373) 20% 33.8 40% 60% 80% 100% 66.2 あり あり なし なし 72.0 NPO法人(N=413) 14.8 85.2 図17-7 法人類型別 運動団体との間の協力関係 (デモ・直接行動) 0% 任意団体(N=372) 20% 40% 60% 29.6 80% 100% 70.4 ある ない NPO法人(N=416) 7.0 93.0 図 17-5 から 7 までの結果から、NPO 法人が全般的に「運動団体」と弱い関係性しか築いてい ないことを示している。ここには、 「NPO 法人」は、 「運動」との回路が切断されている傾向 がはっきりと現れている。特に、 「デモ」や「直接行動」というレパートリーに関わる協力関係 は著しく少ない。 次に、法人格のない「任意団体」だけを取り出して、団体の自己定義ごとに、同様の分析を 行う。 図17-9 任意団体自己定義別 運動団体との間の協力関係 (寄付・カンパ) 図17-8 任意団体自己定義別 運動団体との間の協力関係 (事業・集会) 0% 20% 40% 60% 80% 66.7 33.3 NPO(N=15) 39.4 NGO(N=33) 60.6 あり ボランティア団体(N=54) サークル(N=18) 38.7 61.3 市民活動団体(N=163) 81.5 22.2 77.8 その他(N=37) 45.9 なし 100% 38.3 61.7 NPO(N=15) 26.7 73.3 NGO(N=34) 29.4 70.6 あり 36.6 13.0 市民活動団体(N=161) ボランティア団体(N=54) 18.5 50% 社会運動団体(N=47) 6.4 93.6 社会運動団体(N=47) 0% 100% 10.5 サークル(N=19) 54.1 32.4 その他(N=37) 63.4 なし 87.0 89.5 67.6 図17-10 任意団体自己定義別 運動団体との間の協力関係 (デモ・直接行動) 0% 20% 60% 82.2 社会運動団体(N=45) NPO(N=15) 40% 20.0 80.0 26.5 73.5 市民活動団体(N=162) 29.6 3.6 70.4 ある ない 96.4 100.0 サークル(N=19) その他(N=36) 100% 17.8 NGO(N=34) ボランティア団体 … 80% 25.0 75.0 図 17-8 から 10 を見て分かるように、法制度的には同じ「任意団体」でありながら、 「社会 運動団体」と自己定義する団体と、 「ボランティア」 「サークル」と自己定義する団体との間に は、極めて大きな差が存在している。 「社会運動団体」と自己定義する団体が、どの項目におい ても高い数値を示しているのに対し、 「ボランティア団体」 「サークル」と自己定義する団体の 数値は非常に低い。特に、運動団体と直接行動やデモで協力関係を結んだ経験は皆無に近いと いう状況である。 また、 「市民活動団体」と自己定義する団体の結果も興味深い。それは、 「NPO」や「NGO」 と自己定義する団体を抑えて、 「社会運動団体」と自己定義する団体についで運動団体と密接な 関係を築いているのだ。 「市民活動団体」という言表は最近多くの団体が採用するようになって きており、それがどういう性格をもつのか――つまり従来の「運動」に近いのかあるいは「ボ ランティア」に近いのか――について議論が行われているが、この結果を見るかぎり、それは 両方の中間に位置しながら、 「運動」との回路に開かれながらあるという姿が浮かび上がってく る9。 ちなみに、図 17-11 は、任意団体の自己定義ごとに、行政から助成・補助・委託を受けた経 験について図示したものである。 「ボランティア団体」が非常に高く(半数近く)にのぼってい ることに着目しよう。戦後「ボランティア」の意味論においては、行政からの自立と、 〈運動〉 への準拠が、理念として掲げられたが、現在、少なくとも行為のレパートリーとしてみる限り、 それと逆のあり方が趨勢となっていることが分かる。 図17-11 任意団体自己定義別 行政からの助成・補助・委託経験 0% 社会運動団体 20% 8.5 市民活動団体 35.3 21.6 その他 80% 100% 6 4.7 7 8.4 34.7 15.8 22.2 助成・委託・補助あり 6 5.3 47.4 ボランティア団体 サークル 60% 91.5 NPO NGO 40% なし 52.6 84.2 7 7.8 ちなみに、先ほど「運動」との関係において高い値を示した「市民活動団体」が、行政との 関係においても比較的高い値を示している点に関心が向く。 「市民活動団体」という言表は、 「行 政」との関係(パートナーシップ!)を結びつつ、 「運動」との関係も積極的に維持するという、 両価性を帯びた存在だという面が指摘できる。 (4) 検証2: 「ボランティア/NPO」は、その意味論を、 〈運動〉と共有しているのか? 次に、 「政治機会的プラグマティスト」に対する二つ目の疑問の検証として、 「ボランティア /NPO」は、その意味論を、 〈運動〉と共有しているのかどうかについて検証を行っていく。 ここではそのために、各団体のリーダーに様々な政治的争点に関する意識を訊く質問を用い る。用いた項目は「自分は革新というより保守だと思う」 「総理大臣の靖国参拝に賛成」 「憲法 「競争は、 の改正に賛成」 「自民党支持」という〈革新-保守〉のコードにおける「保守」志向、 格差拡大より、社会の活力のもとになる」 「経済活動への規制は少ない方がよい」 「人間的な社 「決めるときは、話し合い 会より、まずは安定した経済が必要」というネオリベラリズム志向、 よりリーダーシップですばやくの方がよい」という反「コミュニケーション的行為」志向、 「原 子力発電の推進に賛成」といった反環境志向、である。 表 17-2 が、任意団体と NPO 法人という法人格別の比較、表 17-3 は、任意団体のみを取り 出して、自己定義別に比較したものである。 表 17-2 法人格種別 政治意識(保守・ネオリベラリズム的志向) 法人格 革新というより保守(%) 総理大臣の靖国参拝に賛成(%) 憲法の改正に賛成(%) 自民党支持(%) 競争は、格差拡大より、 社会の活力のもとになる(%) 経済活動への規制は 少ない方がよい(%) 人間的な社会より、 まずは安定した経済が必要(%) 決めるときは、話し合いより リーダーシップですばやく(%) 原子力発電の推進に賛成(%) 任意団体 (n=394) NPO法人 (n=434) 11.7 12.4 19.4 9.4 40.8 31.2 26.7 25.5 17.0 19.8 24.4 41.5 17.0 65.2 52.5 43.5 55.1 35.9 表 17-3 任意団体のみ・自己定義別 政治意識(保守・ネオリベラリズム的志向) 任意団体のみ 自己定義 社会運動 市民活動団 ボランティア サークル NPO(n=16) NGO(n=37) 体(n=173) 団体(n=57) 団体 (n=19) (n=48) 革新というより保守(%) 総理大臣の靖国参拝に賛成(%) 憲法の改正に賛成(%) 自民党支持(%) 競争は、格差拡大より、 社会の活力のもとになる(%) 経済活動への規制は 少ない方がよい(%) 人間的な社会より、 まずは安定した経済が必要(%) 決めるときは、話し合いより リーダーシップですばやく(%) 原子力発電の推進に賛成(%) 2.3 0 4.5 4.5 13.6 6.8 22.2 9.1 2.2 7.1 0 13.3 7.1 50.0 57.1 7.1 42.9 13.3 11.5 9.1 18.2 6.1 31.3 30.3 12.9 18.2 12.1 9.6 12.0 16.5 8.6 39.5 27.8 23.3 22.3 15.8 22.0 25.0 42.9 14.0 66.0 51.1 32.7 44.9 30.6 その他 (n=38) 15.8 23.5 33.3 22.2 50.0 58.8 61.1 22.2 27.8 18.9 15.2 15.2 11.1 44.4 28.6 38.2 34.3 23.5 まず、表 17-2 の法人格別の比較を見ていきたい。一見して分かるように、NPO 法人は、い ずれの項目においても、保守主義、ネオリベラリズムに対する態度において、任意団体を上回 っている。ちなみに、無作為抽出法ではない上、任意団体に至っては母集団の特性も仮定でき ないため、統計的検定を行うことは意味がない。しかし擬似的に行ってみると、どの項目も 1% 水準で有意であった。 次に、表 17-3 の自己定義別(任意団体のみ)の分析に移る。とりあえず、太字・下線で示 されている「社会運動団体」と「ボランティア団体」の二つに着目する。この二つは、全項目 の中で、両極に位置していることが分かる。言うまでもなく、 「社会運動団体」が革新・反ネオ リベラリズムという意味論に準拠し、 「ボランティア団体」は保守・ネオリベラリズムという意 味論に準拠している。ちなみに、(3)でも述べたが、この表における「NPO」については、 「任意団体(法人格なし)かつ NPO」という例外的なものなので、無視してよい。 「NPO」に ついては趨勢的な傾向を見るには、表 3 の「NPO 法人」の値を確認する必要がある。ちなみ に、全ての法人格(任意団体・NPO 法人・その他の非営利法人・その他の法人)を含めた上 で、自己定義別に分析した結果を一応示しておく(表 17-4 参照) 。 表 17-4 全ての団体・自己定義別 政治意識(保守・ネオリベラリズム的志向) 全ての団体 自己定義 革新というより保守(%) 総理大臣の靖国参拝に賛成(%) 憲法の改正に賛成(%) 自民党支持(%) 競争は、格差拡大より、 社会の活力のもとになる(%) 経済活動への規制は 少ない方がよい(%) 人間的な社会より、 まずは安定した経済が必要(%) 決めるときは、話し合いより リーダーシップですばやく(%) 原子力発電の推進に賛成(%) 社会運動 団体 (n=76) NPO (n=363) NGO(n=78) 4.3 5.4 11.1 5.6 20.5 12.3 27.0 20.3 10.8 20.7 26.0 42.3 18.7 67.4 54.9 45.7 56.1 38.6 9.5 14.5 27.1 12.9 45.7 39.4 24.6 40.8 19.4 市民活動団 ボランティア 体(n=217) 団体(n=73) 9.5 10.0 18.0 6.8 40.2 29.4 21.5 24.0 15.0 25.8 32.3 46.9 16.9 70.5 58.1 34.4 50.0 32.8 サークル (n=23) その他 (n=78) 13.0 23.8 31.8 21.7 50.0 57.1 63.6 31.8 22.7 17.3 18.6 23.9 10.8 52.0 37.8 45.2 40.5 21.9 ここでは、 「NPO」と「ボランティア」が同じような値を示し、 「社会運動団体」と対極の位置 にあることが分かる。このデータの分析を詳細に行った丸山真央(2007)は、次のように指摘 している。 「社会運動団体」 「市民活動団体」と自己定義した団体のリーダーたちは、革新的で、政治不信 が強く、反競争・ 「大きな政府」への志向性をもっており、首相の靖国参拝や改憲に否定的であ る。これに対して、「ボランティア団体」「NPO」と自己定義した団体のリーダーたちは、「社 会運動団体」や「市民活動団体」のリーダーたちに比べて、保守的で、政治をある程度信頼し、 競争・ 「小さな政府」志向をもっており、靖国参拝や改憲に肯定的な態度を示している。 「NGO」 とした団体のリーダーたちは、保革を除いて、 「社会運動団体」や「市民活動団体」のリーダー 層の傾向に近い。(丸山 2007:92-93) われわれの結論も丸山の指摘と同じである。 「運動」という思想財のもとに構成される政治的意 味論と、 「ボランティア」 「NPO」のもとに構成される政治的意味論は、 「参加型市民社会」の 布置の上では、対極と言っていい位置にある。 「運動」と「参加・参画」 (ボランティア/NPO) は、 〈運動〉の意味論は共有しており、その上で、最適なレパートリーを選んでいるだけだとい う「政治機会的プラグマティスト」の決断に、同意することはできない。それらは、まさに意 味論のレベルにおいてこそ、断絶があるのである。 5 「表象動員的プラグマティスト」との交渉 (1) 「運動」という記号からの逃走 ここから、 「運動の封殺」という共振問題をめぐる、第三の立場について検討する。ここで「表 象動員的プラグマティスト」と呼ぶそれは、 〈運動〉の意義を認めた上で、従来の「運動」とい う表象(イメージ、言表、形態等)が動員や支持獲得に逆機能であるということを主張するも のである。 この例として、道場親信は、小林正弥の「平和運動の中心を担ってきた方々が高齢化して、 若い世代にとっては従来の運動のスタイルや論理が、古く見えているのではないでしょうか」 という言葉を引いている(道場 2005:647) 。この観点から、 「参加・参画」など争議性の低い ものも含めた異なるスタイルを採用することが、 〈運動〉にとっても効果的だと主張する。まず 「普通の人」でも参加できる「普通の」形にしてから、意味論や世界観を徐々に浸透させてい く方が、有効だというわけだ。 これに対しては、道場(2005)は、ここで想定されている〈古い/新しい〉という区別が、 現実の歴史を整理するものとしては、あまりに事実誤認に満ちたものであること、また「普通 の人々」の「普通の感覚」を、無前提に準拠枠にすることは、 「普通でない」とされるものを排 除するメンタリティとつながるという点から、批判を展開している。 しかしこの批判を踏まえた上で、さらに論点を追加するとしたら、既存の「運動」の表象を 忌避するのは、研究者や言説生産者だけではなく、実際に活動している人たちの間にも時に見 られるという点である。例えば、ある国際 NGO で中核的に働く A 氏は、 「 『社会運動』は薄い 言葉」であるため使ってこなかったという。なぜならそれは「マルクスとか、イデオロギー的 なもの」 、 「共産党系、労組系」のものであり、 「60~70 年代の活動とつながる感じがする」と 述べる。そして、 「市民運動より、市民活動や市民社会という言葉」の方を使いたいという。こ の発話内容に対し、道場のように、それは「運動」に対する偏ったイメージだと異議を唱えつ つ対話を開いていくことは可能であろう。しかしここで注目したいのは、A 氏は、あるいは A 氏が所属する NGO は、様々なアドボカシー活動も行っており、外部の観察者からみたとき、 「運動」的と観察が可能である――「運動」との差異性を見いだせない――ということである。 「運動」と変わらない活動をしながら、 「運動」という言表を回避する現場の活動者――これは 「敵対性の封殺」という「ネオリベラリズムとの共振」に陥っているといえるのだろうか。 これを考える上で必要なことは、 「運動」という言表を使用することと、 〈運動的〉と観察可 能な行為をしたり・その意味論を生きることを、区別して考えるということだと思われる。 ここで「運動」とは、特定の集合行為(形態)に対して「実体的」に与えられる言表である。 社会運動論などで使用される通常の用法はこちらに含まれる。これに対し、 〈運動〉とは、社会 を参照しながら、敵手(=既存の秩序)/自己を同時に起動させ、前者を変えていこうとする コミュニケーションのモードに対して与えられる。これは、様々な意味領域(福祉、教育、文 学……)とプログラムとして接続可能である。例えば戦後長い間、社会福祉や教育では、ある 種の実践を、 〈運動〉的と呼ぶ慣行があったが、それはこちらの意味で捉えることができる。も ちろん、この〈運動である/ない〉というコミュニケーションは、 「戦後」という思想財が摩耗 するのと相関して、首肯性を失ってきた。 しかしとりあえず運動の語を、狭義の実体性をもつ「運動」から切り離し、 〈運動〉という意 味論上の用法に置き直すところから初めてみたい。 「運動」という名指しからの撤退は、 〈運動〉 からの撤退と同義ではないということ、 〈運動〉にとって「運動」という形態・言表は偶有的で あるということである。 (2) 〈運動〉を胚胎する記号について A 氏は、 「運動」という言葉を、過去の党派的な教条主義を呼び起こすとして拒否した。われ われはここにある既視感を覚えないだろうか。1970 年初頭にも、新左翼系の運動が行き詰りと 血腥い転回を見せるのを受けて――〈運動〉論の意味論を共有しつつ――手垢にまみれた「運 動」と異なる言表/思想財を求める動きが確かにあった。 例えば、ボランティア推進に大きな役割を果たしてきた興梠寛は、1970 年代当時の日本青年 奉仕協会(JYVA)について次のように語っている(仁平 2007a) 。彼は 1970 年代はじめに、 学生運動が「組織間の中でかなり厳しい自己否定や粛清が行われていく」ため、運動に「醒め」 ざるをえなかった。しかし、同時に、社会状況については「変えなきゃいけないという意識」 は強かった。 「ボランティア」はこの中で、そのアイデンティティの受け皿になったという。そ れは彼/女だけではなく、 「全国ボランティア研究集会」に参加し「俺はボランティアなんか嫌 いだ」と言いつつ、中核的な役割を果すようになる「学生運動崩れのやつ」も同様であった。 彼/女らは、 「ボランティア」に「市民運動なんてものを持ち込んでくる」ようになる。 ある言表/思想財に、負の歴史が刻まれ、その象徴的な正当性を失うとき、別の新規な言表 /思想財が、かつての言葉とはズレと反復を孕む形で意味を備給され、生きられていくという ことがある。1970 年代の「ボランティアの増殖」の中には、 「運動」という言表を捨てること で〈運動〉的な意味論と実践の刷新を図ろうとした系譜があった。現在は、 「NPO/ボランテ ィア」の語は、 〈運動〉の意味論との間には、無視できない距離が広がっていた。それは、思想 財としては、 〈運動〉を胚胎させる耐用期間を過ぎていると言った方が、妥当する面が多いので はないだろうか。 しかし、 「運動」の語の否定は、 〈運動〉的なものの否定と同義ではないとしたら、現在、か つての「ボランティア」のように、 〈運動〉の意味論が刻印された言表/思想財を探すことで、 「敵対性の封殺」という結論と異なる現実を開示すること、この可能性は残されている。 これに関するわれわれの答は、極めて凡庸なものである。 「市民活動」 「NGO」という言葉が それだ。本章の図 17-3、4、8、9、10、表 17-3 などを見る限り、それらは、 「ボランティア」 や「NPO」とは異なり、 「社会運動団体」に準じる動きを見せている。 「非政府」という立場性 が刻印された「NGO」だけではなく、 「運動」ではなく「活動」の語を選択する「市民活動」 の言表も――A 氏の言葉通り――その中に〈運動〉的なものを胚胎する場所となっているとい うことを示唆しているように思われる。エルネスト・ラクラウとシャンタル・ムフによると、 差異の体系の象徴秩序としての社会は、縫合しきれない外部をその中に孕みもつ。その内部の 外部こそが、敵対性=〈政治的なるもの〉であり、それは抹消しきれるものではない(Laclau & Mouffe 1985=1992) 。これが深層「構造」だとしたら、その敵対性は、様々な記号を介し て、表に現われうるということではないだろうか。そして、それは、時に敵対性=〈政治的な るもの〉なき平滑空間として想定・批判される「参加型市民社会」の用語系の中にも、現出す る。 「市民活動」 「NGO」という記号は、敵対性という亀裂が開示しやすい一つの場所なのかも しれない。その一方で「市民活動」は、図 17-11 にみるように、行政との「パートナーシップ」 の値も高い。 「市民活動」という記号は、そのいささか凡庸な響きと裏腹に、様々なベクトルを 胚胎させるスキャンダラスな場所になっている可能性がある。 今後の運動論の課題として、様々な現場において、いろいろな言表や形態のもとに散らばっ ている〈運動的〉のかけらを集めて、現在の〈運動〉の輪郭を浮かび上がらせるということが あるのではないだろうか。それは、NPO を「運動」と外挿的に名指し・言祝ぐことでも、NPO ≠「運動」とやはり外挿的に否定することでもない。現場から様々な〈運動的〉なものを丁寧 に拾い上げ、その像と射程を追跡していくこと――それこそが、段階論が失効した現在におい て、リアルに今を捉えていく唯一の方法ではないだろうか。 【引用文献】 Castells, M., 1989, The Information City : Information Technology, Economic Restructuring and the Urban-Regional Process, Oxford : Blackwell. 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