戦災復興期における八幡市住宅協会の試みとその計画史的評価

戦災復興期における八幡市住宅協会の試みとその計画史的評価
西村 博之
0.はじめに
給」優先の開発になっている。
戦災復興期、八幡では市街地の壊滅的被害から、都
2.八幡市住宅協会の概要
市の再構築と住宅供給が急務とされていた。復興都市
八幡市住宅協会は、住宅金融公庫の融資による住宅
計画を軸に新たな理想都市建設を目指した八幡市は、
建設と都市不燃化への貢献を目的に設立された八幡市
公共施設とともに住宅を多数建設している。これらの
建設局建築部住宅課の外郭団体である。
住宅の中には、単なる供給目的の南面平行配置とは一
県下で最も深刻な住宅事情にあった八幡市は、八幡
線を画した、まさに「都市」との関係性を意識した住
製鐵を有しており、住宅復興が直接産業復興に繋がる
宅があった。そして、その建設に関わっていたのが、
重要な問題であった。このことから、市では住宅建設
『八幡市住宅協会』である。
増大を図るため、市独自の住宅協会を持つに至った。
幸い、当時建設された住宅の多くが現存している。
構成メンバーは役員が 23 名、職員が 5 名である。戦
これらを通して、過去の試みがどのような意味を持っ
災復興計画で積極的に都市改造に取り組んでいた『守
ていたのかを知ることは、これからの都市環境を考え
田道隆市長』が理事長に就き、その下の役員は市議会
る上でも極めて重要だと考える。
議員等の市長と関係が深い人物で固められている。加
本研究は、戦災復興期における八幡市住宅協会の住
えて、わずか 5 名の職員の任命権を市長自ら持ってい
宅建設の意図を読み取り、その功績に対して計画史的
た。以上のことから、市長の意見が直接反映される組
評価を行うことを目的としている。
1.八幡の公共住宅の変遷
まず、八幡における公共住宅の変遷をみていく( 図
1)。なお、ここで取り上げる「八幡の公共住宅」とは、
建設主体別に、八幡製鐵社宅、公営住宅、公庫融資に
よる協会および公社住宅、公団住宅の 4 種を指すもの
とする。
戦前、八幡には行政による住宅建設はほとんどな
く、公共住宅と呼べるものは八幡製鐵社宅が大半を占
めた。これらの多くは、大規模な敷地に、居住者の職
場階級に応じてプランニングがなされた異なる住棟を
順に並べたものである。あくまで製鐵内部の事情で建
設が行われていたといえる。
戦災復興期、全国的な住宅政策の中で具体的に目標
住戸数が設定され、住宅「供給」が最優先事項とされ
た。そのため、当時の公共住宅はそのほとんどが、効
率良く住戸数を稼ぐことができる南面平行配置の団地
であった。その中で、昭和 26 年に設立された八幡市住
宅協会は、店舗併用住宅を街路に面して配置した「都
市型」集合住宅を建設しており、注目される。
高度経済成長期に入ると、八幡市住宅協会は北九州
五市合併(昭和 37 年)に伴い解散し、八幡の公共住宅
全てが高度利用および南面平行配置といった住宅「供
11-1
図1 八幡および八幡近郊の公共住宅の変遷
織体制であったと考えられる。
ているが、特に建設資金計画において重要な役割を
守田市長は、大学で建築を学び、その後も都市計画
果たしている。当時は公営住宅法で併存住宅が認可
に携わってきた経歴の持ち主で、常に欧米の都市を理
されておらず、市営の店舗併用住宅を建設しようと
想としていた。八幡市住宅協会の「都市型」集合住宅
しても国の融資を得ることができなかった。そこで
の建設は、守田市長が欧米の街並みを八幡で再現しよ
八幡市は、外郭団体である協会に公庫融資で建設さ
うとした試みだったといえる。
せた後に建物を譲り受ける方法をとることで、市営
3.八幡市住宅協会の「都市型」集合住宅
の店舗併用住宅建設を可能にしたのである。
八幡市住宅協会が戦災復興期に建設した「都市型」
第 3 ・4 棟が街路を挟んで互いに向き合っているな
集合住宅には、協会住宅[平和ビル]と市営住宅[本
ど、平和ビル同様、街路を強く意識した計画であった。
町アパート]・[白川町団地]の 3 事例ある(図2)。
■事例 03[白川町団地]
■事例 01[平和ビル]
白川町団地は、昭和 32 年に第 1・2 棟、昭和 35 年に
平和ビルは、八幡駅移転とそれに伴う駅前の整備計
第 3 棟が建設された。協会は、ここでは設計業務のみ
画と連動する形で、昭和 29 年に全 4 棟が建設された。
にアドバイザー的立場で関わっている。
協会は、権利交渉・計画・建設・管理と全てのプロセ
配置は、3 つの住棟が南面平行で並び、団地内に公
スに関わっている。
園と集会所を有している。「都市型」集合住宅といえ
配置は、平和通りの両脇に建物が並ぶ構成である。
るのは街路に面した第 3 棟のみであり、前述の 2 事例
いずれの住棟も敷地境界に接し、ファサードが街路の
とは異なる方向性の計画であった。
景観を構成する要素となっている。また、第 1・2・4
4.所有・管理に関する契約
棟では、角部分が斜めに切られ、交差点に対してアー
ここでは、3 事例の所有・管理に関する契約内容に
バンデザイン上の配慮がなされている。この建物に
ついて考察する(図3)。
は、住宅としての機能はもちろん、そのデザインで新
■事例 01[平和ビル]
しい街並みを形成し駅前を飾るという都市的な役割も
協会は土地を所有せずに借地としている。しかも、
強く期待されていたと考えられる。
公共住宅でありながら、土地所有者に対して賃貸部分
■事例 02[本町アパート]
の入居優先権などの権限を認めた特殊な契約である。
本町アパートは、平和ビルと同じ昭和 29 年に第 1 ∼
土地所有者は、八幡駅移転による地価高騰を期
4 棟が建設されている(第 5 棟は昭和 40 年北九州市に
待して戦後購入した人が多い。そのため彼らは、
よる建設)。協会はここでも全てのプロセスに関わっ
自分達にとっては割に合わない平和ビル建設を受
図 2 八幡市住宅協会の「都市型」集合住宅 3 事例
11-2
け入れる条件として、それに見合うだけの権利を強
することに見出していたともいえるだろう。
「都市型」
く主張した。協会は建設実現のために、それを全面的
集合住宅を建設する「場所」に対する協会の強い思い
に認めざるをえなかったのである。
が垣間見える。
■事例 0 2 [本町アパート]
そして、予定地での建設を実現するため、その場そ
平和ビルとほぼ同様の契約だが、土地所有者に特別
の場で交渉を行い独自の契約を結んでいる。3 事例の
な権限はない。
契約内容が異なるのは、そのためと考えられる。
ここの土地所有者は、戦前から街路沿いに八幡製鐵
5.ファサードと住戸の関係
の通勤者を相手とした商店・飲食店を経営していた人
ここでは、3 事例のファサードと住戸プランとの関
が多い。戦災でこれらを焼失した彼らにとって、土地
係について考察する。
を手放すことなく再び店舗と家屋を手に入れることが
■事例 01[平和ビル]
できる本町アパート建設の話は願ってもない話だっ
平和ビルは、ほぼ同じプランの住戸(以下、基本住
たという。そのため、この話を持ちかけてきた市およ
戸)が街路に沿って並ぶが、例外的に街区の角に当た
び協会に対して、彼らが自ら使う空間以上の所有権
る部分にはプランの異なる住戸(以下、角部屋)が存
を主張することはなかった。
在する。ここでは、第 2 棟を例にみていく。
■事例 03[白川町団地]
ⴝ඙ౝㇱ
白川団地のある一帯は、八幡市が戦後まもなく戦災
応急住宅(2 軒長屋)を建設するために土地を買収し
₵㑐 ᶎቶ
⇥๺ቶ
บᚲ
ている。白川団地はその一角の建て替え事業であった
ため、そのまま土地が市の所有になっている。
⇥๺ቶ
■小結
ᵗቶ
協会は、時に平和ビルのように、不利な条件を飲ん
ᐢ✼
ででも建設を推し進めている。それは裏を返せば、多
図4 平和ビル第 2 棟基本住戸(S= 1/200)とファサード
少の不利に目をつぶるだけの価値を予定地に「建設」
ࡕ࠺࡞
੐
଀
䵄
ᐔ
๺
ࡆ
࡞
䵅
ਥߥᄾ⚂᭎ⷐ
㓏
૑ቛදળ
㓏
૑ቛ
㓏
㓏
ᐫ⥩
࿯࿾ᚲ᦭⠪
࿯࿾
Ԙ㧙࿯࿾ߩᚲ᦭ᮭߪߘߩ߹߹ߢ‫ޔ‬දળ
߇ߎࠇࠍ୫࿾ߔࠆ
ԙ㧙㓏ᐫ⥩ㇱಽߪ‫ޔ‬ᑪ⸳ᓟ࿯࿾ᚲ᦭
⠪ߦಽ⼑ߔࠆ
Ԛ㧙㓏૑ቛㇱಽߪ‫ޔ‬ᑪ⸳ᓟ࿯࿾ᚲ᦭
⠪ߦಽ⼑ߔࠆ
ԛ㧙࡮㓏ㇱಽߪදળߩᚲ᦭࡮▤ℂߣ
ߔࠆ߇‫ޔ‬࿯࿾ᚲ᦭⠪ߩⷫᚘฬ⟵╬
ߦࠃࠅ࿯࿾ᚲ᦭⠪ߦ૑ᚭ౉ዬߩఝ
వᮭࠍਈ߃ࠆ
Ԝ㧙࡮㓏ㇱಽࠍᄁළߔࠆ㓙ߦߪ‫ޔ‬ᔅ
ߕ࿯࿾ᚲ᦭⠪ߦኻߒߡⴕ߁
ً╙᫟ߩᐔ㕙⊛ߥࡈࠔࠨ࡯࠼
ⴝ〝஥
第 2 棟のファサードは、横方向に連続する窓がデザ
インの特徴になっている(図4)。この窓は、外壁を構
造体から切り離し、カーテンウォールとすることで可
能にしたものである。基本住戸をみると、外壁と柱の
間に生じた空間を広縁にしていることが分かる。広縁
が都市との緩衝的役割を果たすことで、寝室として設
定されていたであろう 6 畳和室は、都市の喧騒から守
られた静かな空間になっている。
ファサードにおける窓の連続性を重視した結果、角
੐
଀
䵄
ᧄ
↸
ࠕ
ࡄ
䳦
࠻
䵅
㓏
౎ᐈᏒ
㓏
૑ቛ
㓏
㓏
ᐫ⥩
࿯࿾ᚲ᦭⠪
Ԙ㧙࿯࿾ߩᚲ᦭ᮭߪߘߩ߹߹ߢ‫౎ޔ‬ᐈ
Ꮢ߇ߎࠇࠍ୫࿾ߔࠆ
ԙ㧙㓏ᐫ⥩ㇱಽߪ‫ޔ‬ᑪ⸳ᓟ࿯࿾ᚲ᦭
⠪ߦಽ⼑ߔࠆ
Ԛ㧙㓏૑ቛㇱಽߪ‫ޔ‬ᑪ⸳ᓟ࿯࿾ᚲ᦭
⠪ߦಽ⼑ߔࠆ
ԛ㧙࡮㓏ㇱಽߪ౎ᐈᏒߩᚲ᦭࡮▤ℂ
ߣߔࠆ
部屋には窓の位置と住戸プランが対応せず、押入に窓
ԙ
Ԙ
ԙ
⇥๺ቶ
࿯࿾
ًⷺㇱደ߆ࠄߩ⌑ᦸ
੐
଀
䵄
⊕
Ꮉ
↸
࿅
࿾
䵅
㓏
౎ᐈᏒ
ԙ㧙㓏ᐫ⥩ㇱಽ࡮㓏૑ቛㇱಽߪ‫ޔ‬ᑪ
⸳ᓟಽ⼑ߔࠆ
Ԛ㧙㓏૑ቛㇱಽߪ‫ޔ‬ᑪ⸳ᓟ࿯࿾ᚲ᦭
⠪ߦಽ⼑ߔࠆ
ᐫ⥩ᚲ᦭⠪
ԛ㧙࡮㓏ㇱಽߪ౎ᐈᏒߩᚲ᦭࡮▤ℂ
ߣߔࠆ
Ԝ㧙ᢝ࿾ౝߩ౏࿦߅ࠃ߮㓸ળᚲߪ‫ޔ‬ዬ
૑⠪ߩ౒ห▤ℂߣߔࠆ
૑ቛ
㓏
㓏
࿯࿾
ᐫ⥩
౎ᐈᏒ
ᵗቶ
Ԙ
Ԙ㧙࿯࿾ߩᚲ᦭ᮭߪߘߩ߹߹ߢ‫౎ޔ‬ᐈ
Ꮢ߇᦭ߔࠆ
㓏
บᚲ
₵㑐
⇥๺ቶ
ᶎቶ
ᐢ
✼
ⴝ඙ౝㇱ
ًࡈࠔࠨ࡯࠼ߣ㑆ขࠅߩߕࠇ
図3 3 事例の所有・管理に関する契約
図5 平和ビル第 2 棟角部屋(S= 1/200)とその特徴
11-3
ⴝ〝஥
が食い込んでいる箇所がある( 図5) 。当時は採光確
7)。このバルコニー部分のファサードには、目隠し
保など住戸の環境向上が叫ばれていた時代であるが、
として装飾的なデザインが施されている。
ここではその優先されるべき住戸内部がファサード
また、第3棟はカーテンウォールを採用しているが、
デザインのあおりを食っている訳である。平和ビル
外壁・柱間の半間分の奥行きが、第 3 棟 6 畳和室と第
という計画において「ファサード」がいかに重要とさ
1 棟 4.5 畳和室の違いになっていることが分かる。第
れていたかが窺い知れる。
3 棟の住戸プランは、ごく普通の南面平行配置住棟で
角部屋は、以上のようなファサードと住戸のズレを
あった第 1 棟プランを変形させたものと考えられる。
調整する役割を担う一方で、「住戸」としても魅力的
ⴝ඙ౝㇱ
な設計がされていた。直角二等辺三角形の洋室に設け
₵㑐
られた横長の窓からは、駅前広場など、広がりのある
Ԙ
⇥๺ቶ
独自の眺望が得られる。この洋室を中心に、都市の風
景を楽しみながらの生活が展開されることを期待して
いたと考えられる。
บᚲ
⇥๺ቶ
■事例 02[本町アパート]
ࡃ࡞ࠦ࠾࡯
基本住戸の居室配置をみると、公営住宅 51C 型や公
ⴝ〝஥
団初期の標準設計 2DK と酷似している(図6)。その中
㧺
ً╙᫟ߩࡈࠔࠨ࡯࠼ ً╙᫟ߩၮᧄ૑ᚭ
Ԙ
図7 白川町団地第 3 棟基本住戸(S= 1/200:左)と第 1 棟基本住戸
で、51C 型や 2DK ではバルコニーが DK 側にあるのに対
して、本町アパートでは反対側にある点が、注目され
■小結
る。これは、バルコニーが街路側に表われないように
住戸プランをみると、独自の住戸を設計していた平
との配慮と考えられる。また、そのことによって出窓
和ビルから徐々に、標準設計・南面平行配置という住
が街路に直接面し、ファサードに凹凸によるリズム
宅「供給」を優先した住宅の要素を取り入れる方向へ
感が生まれている。
移行していったことが分かる。
2DK が登場する昭和 30 年以前に、このような「都市
しかし、完全に「都市型」集合住宅建設を放棄する
型」集合住宅仕様の「標準設計」を作り出していたこ
わけではなく、ファサードを上手く処理することで
とは大変興味深い。
標準設計・南面平行配置の住宅を「都市型」集合住宅
に仕立てている。住戸プランが規格化する中で、協会
ⴝ඙ౝㇱ
はファサードを「都市型」集合住宅の最も重要な要素
ࡃ࡞ࠦ࠾࡯
と考え、こだわり続けていたのではないだろうか。
6.八幡市住宅協会の功績
⇥๺ቶ
八幡市住宅協会は、戦災復興を進める守田市長自ら
₵㑐
が理事長に就き、都市と住宅とを一体的に計画できる
⇥๺ቶ
ᵗቶ
組織体制にあったといえる。
ًᧄ↸ࠕࡄ࡯࠻ߩࡈࠔࠨ࡯࠼
実際の「都市型」集合住宅建設にあたって、協会は、
ً
บᚲ
˴ᧄ↸ࠕࡄ࡯࠻ၮᧄ૑ᚭ
ⴝ〝஥
ٕ౏༡%ဳߩᮡḰ⸳⸘
土地所有者との権利交渉、標準設計導入など、多くの
ٕ౏࿅ဳ&-ߩᮡḰ⸳⸘
現実的問題に直面し、それに対し柔軟な対応をしてい
る。その対応とはある意味妥協点を探るものであり、
協会メンバーの本意ではなかったかもしれない。しか
し、彼らが何よりも優先したかったものは、
「都市型」
集合住宅を理想論で終わらせず、実際に「建設」する
図6 本町アパート基本住戸(S= 1/200:左上)と 51C 型・2DK
ことだったのだろう。だからこそ、最終的に「建設」
■事例 0 3 [白川町団地]
に至った 3 事例の実現の意味は大きいと考える。
白川町団地は 3 棟が南面平行配置で並び、いずれの
最後に、本研究で知り得た八幡市住宅協会の意欲的
住棟もバルコニーは南側に設けられている。そのた
な試みとそこに払われたひたむきな努力が今後に受け
め、南に街路を持つ第 3 棟では、本町アパートと異な
継がれ、新たな「都市型」集合住宅の試みが取り組ま
り、バルコニーが街路に面する形になっている( 図
れていくことを切に望んでいる。
11-4