研究成果 - 西南学院大学博物館

2013年度 「先進研究奨励」費 研究報告書
氏 名:佐藤友梨
学 年:博士前期課程2年
研究課題名:ダニエル書11章における異文化受容と「境界線」
―ヘレニズムと衝突するユダヤ人の宗教アイデンティティ―
研究目的と意義
申請時の研究計画では、ダニエル書 11 章に描かれている「驕慢の支配者」像から、
〈ヘ
レニズム〉の「東西文化の融合」という美化されたイメージとは異なる一面を引き出すこ
とを試みた。ダニエル書成立時、ユダヤを支配していたセレウコス朝シリアの王であるア
ンティオコス 4 世エピファネス(在位前 170-164 年)がユダヤに対し「迫害」を行った為に、
ユダヤ敬虔派は抽象的な表現を用いて「迫害」を「黙示文学」として記したのである。ギ
リシャ-マケドニア系の王朝に支配された被支配民による〈ヘレニズム〉の一面を明らかに
することが可能であると考えた。
しかし、原典の分析が進むにつれ、ダニエル書 11 章にはユダヤ人の価値体系の主軸〈宗
教アイデンティティ〉が奪われた一連の事件が「黙示文学」という形で残されていた可能
性に行き着いた。ギリシャ文化という異文化を「どこまで受容するか」という問題と対峙
し、強硬な異文化受容を迫られる中で、ユダヤ共同体としての価値体系の主軸さえも廃さ
れ、共同体としてのアイデンティティが奪われた事件を、当時ユダヤを支配していたアン
ティオコス 4 世エピファネスによる「迫害」としてダニエル書に記した、という可能性で
ある。
科学信仰の根強い現代において、〈宗教アイデンティティ〉が奪われるということの深
刻さは理解し難い面もあるであろう。しかし、2013年10月に起こったウイグル族による天
安門事件の背景には、ウイグル族のイスラームという価値体系の主軸が中央政府によって
否定されていったこともあるのではなかろうか。同化政策により、他民族のアイデンティ
ティが崩壊の危機に直面する例は、他にも多数存在する。しかし、同化政策によって共同
体の宗教的なアイデンティティが奪われ、本来は平和主義であったはずの共同体が憤りを
暴力として表現する、という点がひどく似通っているのである。そのため、こちらのテー
マがより現代の問題を浮き彫りにできると考え、修士論文では異文化受容の「境界線」の
内側にある〈宗教アイデンティティ〉を論じることとした。
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本研究では、ダニエル書成立の契機ともなったユダヤに対する宗教的迫害とそれに続い
て起こった「マカバイ反乱」を中心に、当時の時代状況、特にユダヤ神殿にギリシャ系の
神であるゼウス像が祀られた事件について検討し、ユダヤがヘレニズムというギリシャ化
の時代をどのように捉え、向き合ったのか、そしてどこまでを許容し拒絶したのかについ
て検討した。今回の研究計画では、特に以下の点を検討することを目的とした。
① セレウコス朝シリアのアンティオコス 4 世エピファネス、及び親ギリシャ派と呼ばれる
上層部のユダヤ人が、強硬なギリシャ改革を主導したとするのが従来の見方である。し
かし、ギリシャ改革にはどのような社会的背景と人々の思惑があったのか。またそれは、
どのようなギリシャ化であったのか。
② ユダヤ神殿へのゼウス像の安置は、従来、当時ユダヤを支配したアンティオコス 4 世エ
ピファネスによって行われたとするのが一般的であるが、先行研究では親ギリシャ派ユ
ダヤ人〈ヘレニスト〉と呼ばれる人々の存在が言及されている。しかし、ゼウス像安置
を行うことによって、どのような人々に最も利益があったのか。
③ ユダヤ神殿に異教の神が祀られたのは、ゼウスとユダヤ人の神が同一視されたという可
能性があるが、神々の同定・習合はユダヤにおいて幾度も行われたことである。何故、
今回に限り反乱に及ぶような事態になったのか。
研究の経緯
2013年8月30日
資料収集 於:旧博物館(ベルリン)
常設展示「Alexander und die Folgen Das Zeitalter des Hellenismus」において、ア
ンティオコス4世像及びヘレニズム彫刻の観察・撮影
2013年8月30日
資料収集 於:ペルガモン博物館(ベルリン)
所蔵されている作品の観察(ゼウスの大祭壇及びヘレニズム時代の作品を中心に)
2013年9月 4~6日
資料収集 於:ベルリン州立図書館(ベルリン)
ヘレニズムの提唱者であるドロイゼンとユダヤに関する記事の閲覧、複写
2013年9月7日
資料収集 於:ユダヤ博物館(ベルリン)
所蔵されているユダヤ教祭儀に関する資料の観察・撮影
2013年9月28日
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研究報告
発表題目:驕慢の支配者に映し出される禍のヘレニズム ―ダニエル書11章から読み取
る異文化受容の「摩擦」と「反発」―(仮)
国際文化研究科夏期研究発表会 於:西南学院大学
2014年1月20日
論文作成
修士論文題目:ダニエル書11章における異文化受容と「境界線」―ヘレニズムと衝突
するユダヤ人の宗教アイデンティティ―
提出先:西南学院大学国際文化研究科
2014年2月1日
研究報告
発表題目:ダニエル書11章研究 ―ヘレニズムにおける異文化受容の「境界線」―
国際文化研究科冬季研究発表会 於:西南学院大学大学院
2014年3月22日
研究報告
発表題目:ダニエル書11章研究 ―驕慢の支配者に映し出される禍のヘレニズム―
第2回西南学院大学国際文化学会 於:西南学院大学
研究成果
本研究の成果は修士論文「ダニエル書 11 章における異文化受容と『境界線』―ヘレニズ
ムと衝突するユダヤ人の宗教アイデンティティ―」にまとめた。その要旨は以下の通りで
ある。
■問題提起
本論文は、執筆者の問題意識の根底にある「ヘレニズムにおけるユダヤ人の異文化受容
の境界線」の解明を目的とし、
「境界線」を超えた為に起こった「マカバイ反乱」の背景に
あるアンティオコス 4 世エピファネス治世間の「迫害」 (前 167-164 年)に着眼した。中で
も、ユダヤ神殿にゼウス像を祀った事件は「迫害」の極みとされる。しかし、何故、異教
の神殿に異教の神を祀ったのであろうか。その背景には、ギリシャ改革を推し進める人々
の思惑が隠されている。
ギリシャ改革を行ったのは、本来は、親ギリシャ派と呼ばれる上層部のユダヤ人であっ
た。そのため、ユダヤが社会的にギリシャ化していく過程には、このユダヤ上層部の思惑
や、諸外国をめぐる時代状況が影響している考えられる。
本稿では、分析対象として「迫害」期(前 167-164 年)に成立したダニエル書を取り上げ、
そこで「迫害」と「ゼウス像安置事件」がどのように著され、背景にどのような意図が働
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いていたのかを、ヘレニズム世界におけるユダヤという地域性や、当時の諸外国との外交
及び経済状況との関わりから検討した。
■分析
ダニエル書をアンティオコス4世の「迫害」に関する史料として扱うことの困難さについ
て、まず、この書が歴史書でないことが最も重要な要因である。ダニエル書は歴史書では
なく、黙示文学である。通常の歴史書のように登場人物の実名が記される事はなく、正確
な地名や年代が書かれているわけではない。ただし、後半部分(7-12章)において、正確な歴
史描写を「幻」という神秘的な表現で覆い隠しながら行っており(主に11章)、この詳細な時
代描写によりダニエル書はその歴史性が認められているのである。
本稿では、11 章をキュロス王からアンティオコス 4 世即位前までの約 360 年間を凝縮し
た導入部分(2-20 節)と、アンティオコス 4 世の即位から死に至るまでの約 10 年間を詳細に
描いた部分(21-45 節)の 2 つに分けた。さらに、25 節(11:21-45)を 4 部〔「王の即位」(11:
21-28) 、「王の迫害」(11:29-35) 、「王の驕慢」(11:36-39) 、「王の終り」(11:40
-45)〕に分け、ダニエル書著者による歪んだ視点から「迫害」を分析した。
「王の迫害」(11:29-35)の中で、ゼウス像安置事件はアンティオコス 4 世エピファネ
スによる行いではなく、その意を得た軍隊によって行われたとされる。この記述は、史実
と一致しており、セレウコス朝からエルサレムの治安維持の為に派遣された兵隊を指すと
考えられる。当時セレウコス朝はギリシャ-マケドニア系の兵士に不足しており、シリア周
辺のシリア・フェニキア人を軍隊に編成していたのである。
シリア・フェニキア人が崇拝していたのは「天の主」(バアル・シャメーン)と呼ばれる神
である。ギリシャ人とシリア・フェニキア人の交流は古来より盛んであり、「天の主」は
一説によれば前10世紀にはギリシャ系の神であるゼウスと同定されていた。さらに、ダニ
エル書11章には「天の主」(バアル・シャメーン)を風刺する「荒らす憎むべきもの」(ハッシ
クーツ・メショメーム)という語があることから、エルサレム神殿に祀られたのはゼウス神
というよりは、ゼウス神と同一視されていたシリア・フェニキア系の神である「天の主」
であることが明らかとなった。
当時、エルサレムを中心としたユダヤ共同体は、「都市国家」として経済的に発展して
いくために、古来よりギリシャとの交流が深かったシリア・フェニキアを模範としたギリ
シャ改革の必要に迫られた。親ギリシャ派ユダヤ人は、シリア・フェニキア人と密接に経
済的・文化的接触を保っており、ギリシャ化するエルサレムにおいてシリア・フェニキア
の影響は計り知れなかったと考えられる。そのシリア・フェニキア人がセレウコス朝から
派遣され、ユダヤ人と雑居したとき、ギリシャ改革を推し進める中でユダヤ人はシリア・
フェニキア人との同化が求められ、「天の主」とユダヤ人の神が同一視されてしまったが
為に、ユダヤ人の神殿にシリア・フェニキア式の祭儀が導入され、敬虔派ユダヤ人の価値
体系の主軸を成していたユダヤ式祭儀が「迷信」として廃されたと考えられる。
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■結論
ダニエル書11章の分析を通して、敬虔派ユダヤ人のアイデンティティの根幹に祭儀を中
心とした宗教的営みがあることを明らかにした。また、ユダヤに対し行われたのがシリア・
フェニキアを模範としたギリシャ化であること、つまりギリシャ改革の実態はシリア・フ
ェニキア化であったことも明らかとなった。エルサレムの都市国家としての経済的な発展
や、諸外国との通商上において、ギリシャ改革が急務であったこと、そして、古来よりギ
リシャとの交流が盛んであったシリア・フェニキア人の存在がギリシャ改革に不可欠であ
ったことが背景に存在していたと言える。
この論文を通し、目的に挙げた3点については以下のような成果を得ることができた。
研究目的①について
パレスチナにおけるユダヤ人は、多大なギリシャ化によりエルサレムの都市化と「都市
国家」への変貌を経験した。また、シリア・フェニキアとの連携も経済発展には欠かせな
いものであるために、シリア・フェニキアを模範としたギリシャ改革が進められた。即ち、
エルサレムが都市国家として経済発展する為に必要な政策であったのである。さらに、セ
レウコス朝から派遣される役人や兵士、またシリア・フェニキア人の軍隊が常駐するよう
になってからは彼らとの雑居を強いられていた。ギリシャ化による同化政策は、雑居する
エルサレムの統一を促し、周辺諸国との通商を円滑にする効果があった。
ダニエル書において、都市のギリシャ化に対する風刺は確認できない。これは、敬虔派
にとって都市のギリシャ化がさして重要ではなかったことを示しているのではないかと考
える。彼らにとって深刻な問題であったのは、政治・社会面におけるギリシャ化ではなく、
宗教面におけるギリシャ化であった。それは、彼らのアイデンティティが宗教的な営みい
よって形成されており、ここに彼らの異文化受容の「境界線」が存在していた為である。
研究目的②について
ユダヤ神殿に祀られた可能性が高いのは、ゼウス神ではなく、ゼウス神と同定されたシ
リア・フェニキア人の神である「天の主」である。無形の神を崇拝していたユダヤ人と異
なり、シリア・フェニキア人は有形の神を崇拝しており、ユダヤ神殿に有形の「天の神」
が祀られたと考えられる。
これを行った可能性が高いのは、親ギリシャ派と呼ばれるユダヤ人ではなく、セレウコ
ス朝からユダヤに派遣されて来たシリア・フェニキア人であろう。彼らは宗教的な営みに
よって共同体の絆を築いており、「天の神」の礼拝場所をユダヤに求めたのである。
更に、エルサレムの経済発展を、シリア・フェニキアを模範としたギリシャ改革という
形で推し進めた親ギリシャ派ユダヤ人にとって、「天の神」とユダヤ人の神との同一視は、
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更なるギリシャ改革を行うという思惑があったと考えられる。
礼拝場所を求めたシリア・フェニキア人と、ギリシャ改革を推し進めていた親ギリシャ
派ユダヤ人が、両者の利益のために結び付いたのではないか。
研究目的③について
神々の習合はさして重要ではなく、「形」のある神殿祭儀が、敬虔派ユダヤ人にとって
アイデンティティの根幹を成していたからであると考える。無形の神を崇拝するユダヤ人
にとり、神々の同一視が重要な意味を有していたとは考え難い。具体的な神殿にける宗教
的な営みを続けることにこそ、敬虔派ユダヤ人は己のアイデンティティを見出していたの
ではなかろうか。
敬虔派は平和主義であったが、祭儀というユダヤ人の宗教アイデンティティを取り戻す
ために「マカバイ反乱」に関わっていった。これは、単なる宗教的弾圧であったのではな
く、アイデンティティという、人間としての主軸が脅かされたことを意味するからこそ、
一連の事件が「迫害」としてダニエル書に記されたのである。
■課題
今回は、
「迫害」の記述があるダニエル書 11 章から、ヘレニズム期におけるユダヤ人の
異文化受容の「境界線」を取り上げた。ダニエル書著者が所属したのは敬虔派と呼ばれる
集団であり、
「迫害」期(前 167-164 年)に突如として脚光を浴び、その後のユダヤ教の主流
となるファリサイ派とエッセネ派の源流ともなる集団である。しかし、ユダヤには様々な
集団が存在しており、他集団の中での敬虔派の位置付けを明確にしていく必要がある。ま
た、シリア・フェニキア人の検討が不十分であり、ユダヤ内のシリア・フェニキア人の位
置付けや、両者の祭儀の比較など残された課題は多い。
また、本稿により宗教アイデンティティの重要性については言及できたが、現代におけ
る宗教アイデンティティの問題との繋がりが不十分であり、現代の宗教アイデンティティ
問題の解決案も提示できていない。
しかし、本稿ではこれまでの研究で取り上げられていなかったダニエル書による異文化
受容の「境界線」について分析し、彼らの宗教アイデンティティの実態について明らかに
することができた。また、従来ほとんど注目されることのなかったシリア・フェニキアと
の関係を「迫害」の背景に位置づける事ができ、
「黙示文学」として捉えられてきたダニエ
ル書を〈史料〉として扱うことの一つの具体例を示せたのではなかろうか。今回の研究を
第一歩として、宗教アイデンティティが歴史に与える影響と、現代における宗教アイデン
ティティの軽視による諸問題との関連と解決への道を模索し、今後も引き続き研究を発展
させていく所存である。
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