第4節 西欧的結婚類型とヘイナル・テーゼ - econhist >論文・レポート

第4節 西欧的結婚類型とヘイナル・テーゼ
現代日本の平均初婚年齢、生涯未婚率、婚姻内出生率の上昇を論ずるに当たり、大きな
示唆を与えるのは近世西欧の家族史と人口史である。これは西欧的結婚類型とヘイナル・
テーゼとしてまとめることができる。
この問題については以前別の所1で論じているのでそれを再録することにする。
家族史の人口動態アプローチ demographic approach 2へ入る前に、若干の基礎事項を確認した
い。まず重要なのは、家族世帯3の3類型を把握することである4。
単純世帯制度 simple household system : 核家族世帯(単婚家族世帯)
結合世帯制度 joint household system : 多核家族世帯、共同体家族世帯
直系家族世帯制度 stem family household system 5: 日本、ドイツの伝統社会に典型的
1
2
3
4
5
中嶋 博, 修士論文「17世紀イギリスの労働市場――農業奉公人の家族史分析」, 2002 年(未
刊行)
人口学用語は基本的に国際人口学会 [50]に則って使用される。
人口動態アプローチ:demographic approach の直訳は「人口論的アプローチ」である。ここでは
アンダーソン [3]を翻訳した北本に従い「人口動態アプローチ」と訳出した。人口動態事象
vital events とは、出生、死亡、死産、胎児死亡、婚姻、養子縁組、嫡出化、認知、婚姻の
取消、離婚、別居と定義することができる。つまり、民事上の身分 civil status の変更と合
わせて、個人が生まれてから死ぬまでの全ての出来事を網羅する。これに対し人口静態統計や
センサス(日本では国勢調査と呼ばれる)は、特定時点における人口の状況に関する情報を得る
ために行なわれる(国際人口学会 [50] pp.20-21)
家族と世帯:世帯 household とは、一緒に居住する個人から成り立つ社会経済単位である。
国際的な標準として勧告された定義によれば、世帯は住居と主要な食事を共にしている人々の
集まりを言う。過去には炉 hearth という言葉が用いられたことがあり、世帯を同じ炉の火を
共用した人々で構成される人々の集まりとしたこともある。……下宿人 boarder は住み込み
のお手伝いさんとは異なるが、世帯の他の成員とは血縁姻戚関係を持たず、食事を世帯員と平
常共にする人々である。一方、間借り人 lodger, roomer は下宿人によく似ているが、食事は
平常別にする人達である。この2つのグループは、統計目的によって世帯員に含める場合とそ
うでない場合がある(同書 pp.3)
一方家族 family は世帯からは注意して区別しなければならない別の単位である。それは主
として結婚、出産、あるいは養子縁組によって関係づけられたものを言い、法律や慣習によっ
て規定されるものである。基本的な家族関係は、1つは結婚による夫婦関係であり、もう1つ
は両親つまり父親、母親と、彼等の子供、つまり息子そして娘との関係である。両親と子供達
だけが構成する家族は時として生物学的家族 biological family または核家族 nuclear
family と呼ばれる(同書 pp.4-5)
ミクロ経済学でいう家計は「household」である。また古ドイツ語に、家 haus はあっても
family に相当する語がなかったことは有名である(ミッテラウアー・ジーダー [29] pp.6-11)
トッド [43] pp.40-47 の4分類(絶対核家族、平等主義家族、直系家族、共同体家族)も興味
深いが、ここではトッドの人類学研究ではなくヘイナルの形式人口学研究に従う。
Hajnal [13] pp.69 では単純世帯制度と結合世帯制度の2分類であらゆる世帯形成システムを
説明できるとしている。しかし斎藤 [56] pp.121-122 は、日本の伝統社会の直系家族世帯制
その特徴を各々以下に列挙する6。
単純世帯制度の原則
a.両性における晩婚(例えば平均初婚年齢は男性 26 歳以上、女性 23 歳以上)
b.結婚後、夫婦は自分達の世帯を作る(夫は家長となる)
c.しばしば若者は結婚前に移民として世帯間を移動する
結合世帯制度の原則
a’.男性の早婚と、女性の著しい早婚(平均初婚年齢は男性 26 歳以下、女性 21 歳以下)
b’.新婚夫婦は、しばしば年配の夫婦の世帯に加わって生活を始める(普通は夫が構成員だ
った世帯に加わる)
c’.複数の夫婦を含む世帯が2つ以上の世帯に分割されることがあり、それぞれ1つ以上
の夫婦を含んでいる
直系家族世帯制度の原則(ただし日本の)
a”.成人した子供のうち1人(跡継ぎ――長男が多いが、そうである必要は必ずしもない)
は家に留まり、結婚後も両親と同居する。しかし、他の子供は結婚とともに別の世帯を形
成する。それゆえ日本の家族世帯は、水平拡大しないという意味で結合家族型の大家族と
も、他方、新居制 neo-localism が成立しないという意味で単純核家族型とも、構造を異に
している
b”.家族自営業世帯の継承者(跡継ぎ)に関しては、単純世帯制度の原則 c.に拘束されない
c”.非跡継ぎ、特にいわゆる次三男の場合は、親の世帯を継承できないので、家を離れ労
働市場と関わる可能性が高い
図 3.1 は以上3分類を図示したものである。
6
度の固有性を強調している。
Hajnal [op.cit.] pp.69, 斎藤 [前掲書] pp.121-122
図 3.1 家族型
上段:核家族型
中段:直系家族型
下段:結合世帯型(共同体家族型)
出典:トッド [43] pp.46 図を編集
人口学者 J.ヘイナルはこのうち前二者の世帯形成システムの史的展望を行なった7。彼は
単純世帯制度が世界史上、近代ヨーロッパ北西部に固有なことを見出し、特に要件 a.に着
目して「西欧的結婚類型 European marriage pattern」の名称を与えた8。本章はヨーロッパ的結
婚パターンと、その原因であり結果でもある農業奉公人制度の記述である9。
4.1 西欧的結婚類型
かつて西欧には「農村は早婚で子だくさん」という意識があった。これは根拠のない先
入観である10。ヘイナルは散発的資料の収集から、むしろ晩婚と予防的制限を特徴とするこ
とを明らかにしている。本節ではヘイナルの原論文に則して実態を紹介したい11。
ヘイナルはまず D.ベルトラミの研究したヴェネチアの資料から検討している。
7
Hajnal [12]
ヨーロッパ北西部とはペテルブルクからトリエステの西側。もっと細かく言えば、アイスラン
ド、スカンジナヴィア諸国(フィンランドは除く)、アイルランドを除いたイギリス、低地諸国、
ドイツ語圏地域、フランス北部。ハンガリー、ギリシャのように、西欧型と東欧型の中間形態
を示す国もある。イタリア南部やスペインが東欧型に近いことを考慮すると、ヨーロッパ北西
部と東欧・南欧と区分した方が適切であろう。
9
農業奉公人制度はヨーロッパ的結婚パターンの原因なのか結果なのか? 未解決の問題であ
る。本論の射程を外れるが、西洋経済史の諸問題を解く鍵とも言える。すなわちヨーロッパ的
結婚パターンと農業奉公人制度の成立過程、農村家族や村落共同体の慣習の歴史、近代西欧の
人口波動と雇用労働の形態変化、等の解明を意味するからである。
10
ミッテラウアー・ジーダー [29] 第2章
11
Hajnal [12] pp.106-113, 135-140
8
表3.1 ヴェネチアの平均結婚年齢
表 3.1 は明らかにヨーロッパ的結婚パターンに属す
る。比較のため非ヨーロッパ的結婚パターンの資料を
1701~1705
男性
29.9
女性
28.8
1720~1724
31.0
29.8
1740~1744
31.4
29.3
1760~1764
31.6
28.1
表 3.2 に載せておく。
ヨーロッパ的結婚パターンと非ヨーロッパ的結婚パ
ターンの対比が明らかになったので、他の資料も当た
ってみよう。
1780~1784
31.7
28.0
出典:Hajnal [12] pp.108
表3.2 セルビアの平均結婚年齢
R.モルによると、1664~
1669 年と 1693~1695 年の
ゾンメレン村(オランダ)
1888~1895
1896~1905
未婚女性の平均結婚年齢
20.0
19.7
の平均結婚年齢は男性 27
平均結婚年齢(全女性)
21.7
21.3
出典:Hajnal [12] pp.109
歳8ヶ月、女性は 26 歳8
表3.3 結婚年齢分布の比率の比較
ヶ月である。ヴァン・ニエ
ロップはアムステルダム市の登
年齢
録から 1578~1601 年にあった
11,597 件の結婚(うち 9,247 件
が初婚)の独身男性の結婚年齢
を調査している。表 3.3 は彼女
18~19
20~24
25~29
30~
合計
アムステルダム
1578~1601年
2
51
34
13
100
イングランド・ウェールズ
1891~1895年
2
47
34
17
100
出典:Hajnal [12] pp.109
の資料と 1891~1895 年のイン
グランド、ウェールズを対照し
表3.4 ドゥルラッハの平均初婚年齢
た物だが、よく似ているように思われる。
男性
女性
とはいえ、結婚登録にある年齢を安易に信用する
のは危険である。より確実なのは、配偶者それぞれ
の結婚日時と洗礼日時を照合する手法である。O.K.
ローラーはドゥルラッハ(バイエルン)という
1701~1720
28.7
26.5
1721~1751
27.4
25.4
1751~1780
27.6
25.6
1781~1800
26.6
25.1
出典:Hajnal [12] pp.110
小さな町をこの方法で分析した。その結果は
表3.5 イングランドの2教区の平均結婚年齢
表 3.4 に示してある。参考のため全バイエル
ノース・エルナム
1581~1606年
ンの平均初婚年齢(1896~1897 年)を付け加え
ウェドモア
1634~1645年
ると、男性 27.4 歳、女性 24.9 歳で 18 世紀以
来大して変化していないことが判る12。
C.C.モレルも同様の方法でイングランドの
男性
女性
27.6
27.9
24.5
24.6
出典:Hajnal [12] pp.110
ノース・エルナム教区(ノーフォーク)とウェ
ドモア教区(サマセット)の平均結婚年齢を調べている。再婚を含めた全体の平均結婚年齢
は表 3.5 の通りである。
表 3.6 はイタリアのリアナ村(パルマ教区)を2世紀半追跡した資料である。平均結婚年
12
教区簿冊:チェンバースは 17~18 世紀のグロスターシャの結婚申請とノッティンガムシャー
の結婚証明書を使って同様の研究を行っている([J.D.Chambers, 1957])
表3.6 17~19世紀のリアナ村の平均結婚年齢
結婚数
新郎の平均年齢±標準誤差
新婦の平均年齢±標準誤差
1650~1699
30
33.2±1.4
25.4±1.2
1700~1749
29
34.3±1.8
30.4±1.5
1750~1799
10
32.2±2.8
29.1±2.1
1800~1849
12
33.8±2.6
30.2±2.2
1850~1899
49
32.8±1.1
27.8±1.0
出典:Hajnal [12] pp.111
齢は西欧型に属しており、一定方向への変化は見られない。
教区資料の照合はフランスのクルレ村(ノルマンディ)にも適用されている。E.ゴーティ
エとルイ・アンリによれば、1674~1742 年の平均初婚年齢は男性 26.6 歳、女性 25.1 歳で
安定している。P.ジラールはこれとは別の教区で 1760~1790 年、平均初婚年齢が男性 27.4
歳、女性 26.2 歳だったことを明らかにしている。また 1851~1855 年、フランス全体では
男性 28.3 歳、女性 26.2 歳である。ブルジョア=ピシャは、18 世紀パリの女性の平均初婚
年齢を 24.75 歳と算定している。
P.ドゥプレは未刊行論文でフランドル農村家族の平均初婚年齢に触れている(表 3.7)13
表3.7 フランドル農村家族の平均初婚年齢
男性
女性
1680~1699
25.3
23.9
1700~1719
25.9
24.2
1720~1739
26.4
25.1
1740~1759
1760~1779
26.7
24.1
25.1
23.1
出典:Hajnal [12] pp.112
18 世紀の結婚年齢を研究する方法として、教区資料の照合以外に年齢・配偶関係別死亡
分類資料がある。例えば 50 歳以上で死亡した独身女性の比率から生涯未婚でいる女性の数
が推定できる。クルレ村では 1750~1800 年に行なわれた埋葬のうち 224 件が 50 歳以上の
女性のもので、うち 198 件は有配偶もしくは寡婦、4件は未婚女性、残り 22 件については
配偶関係が特定できない。従って 50 歳以上の未婚女性の比率は2~11.6%である。加えて
修道女になり教区外の修道院で死んだ女性や、都市へ奉公に出た女性も考慮しなければな
らない。修道女は当然未婚だが、奉公で働く女性も独身者が多い。1715~1744 年、パリの
サン・シュルピス教区のような奉公人の多い所では、50 歳以上で死んだ女性のうち 15%が
独身であった(男性は 20%以上)
ジュースミルヒは 1748~56 年ポンメルンの 25 歳以上人口の配偶関係別死亡数を調べて
いる。それによると、25 歳以上の死亡数は 40,000 件以上、うち独身者は女性で 10%、男
性は 13%いた。こうした数値は非ヨーロッパ的結婚パターンの場合よりも高く、殊に女性
に著しい。
13
系図資料を用いているため資料の選択に偏向が存在する。
北欧は近代的なセンサスが 18 世紀から定期的に実施されており、研究対象として極めて
魅力的である。例えば 1645 年モーエン島(デンマーク)の5つの農村教区(人口 4,014 人)で
は 15 歳以上の人のうち男性 39%、女性 41%が未
表3.8 15歳以上人口の配偶関係別比率
婚者、またはやもめである。これはヨーロッパ的
結婚パターンと非ヨーロッパ的結婚パターンの
1645
有配偶者
60
非有配偶者
40
1769
65
35
中間型と思われる。E.P.マッケプラングは同じ地
域から得られた 1769 年、1901 年の資料と比較し
1901
55
45
出典:Hajnal [12] pp.135
ている。結果は表 3.8 のとおりである。
1769 年の数値は一見非西欧型のようである。し
表3.9 20~39歳年齢集団の独身率
かし配偶関係の定義、特に未婚者とやもめの区別が
曖昧なので信用できない。1781 年の全デンマーク
オーストリア(1754年)
男性
41
女性
38
48
45
のセンサスでは 15 歳以上年齢集団の結婚率は 53%
イギリス(1851年)
に留まっている。
ブルガリア(1900年)
28
11
出典:Hajnal [12] pp.136
オーストリアで 1754 年に実施されたセンサスも、
未婚者とやもめが混同されている。しかし対象にさ
れた 650 万人のうち、20 歳以下の結婚率は皆無に近い。表 3.9 のとおり、また 20~39 歳年
齢集団の独身率はヨーロッパ的結婚パターンを示唆している。
フランスの行政官ド=フェプールは 1789 年オーストリアが行なったベルギーの人口統計
を引用している。20~29 歳人口の結婚率がわずか8%であるが、別の資料と整合しないな
ど信頼性に乏しい。
G.アレアティは 1700 年パヴィア市(イタ
表3.10 1700年パヴィア市の年齢別独身率
リア)の3教区(人口 2,168 人)の実査から
年齢
年齢集団の人数
独身者の比率
独身率を計算している。表 3.10 を見る限
り、ヨーロッパ的結婚パターンの印象を受
20~24
81
78
25~29
106
52
40~59
205
15
20~24
111
41
25~29
119
27
男性
ける。
グレゴリー・キングによると、1695 年リ
ッチフィールドでは 40 歳以上の独身率が
女性
非常に低い一方、40 歳以下では高くなって
40~59
いる。また 1695 年の全イングランドの未
202
11
出典:Hajnal [12] pp.137
婚者の数も計算している。いくぶん疑わし
い推計ではあるが、25 歳以下年齢集団の独身率はヨーロッパ的結婚パターンの枠に収まっ
ている。
配偶関係の統計を歪めるものに奉公人や貧乏人がいる。彼らは公式の統計になかなか姿
を現わさないが、資料を分析する際はいつも念頭に置かなければならない。
1703 年アイスランドのセンサスでは 30~34 歳の結婚率が男性 34%、女性 39%しかなく
ヨーロッパ的結婚パターンの中でも異常な数値である。もしセンサスが正しければ、当時
のアイスランドは出生過少で人口急減に陥ったはずである。しかしアイスランド統計局で
は数値が過小なだけと考えている。センサスには配偶者のいる女性の 97%が世帯主の妻と
記載されている。だからといって世帯主の妻以外に既婚女性がほとんどいないことにはな
らない。下層民は一家を構えることが難しかったが、それでも結婚していたかもしれない
のである。またセンサスでは世帯主の親戚の分類が曖昧になっている。
配偶関係と年齢両方が判る資料はオランダのワルダー村にもある。1742 年3月 20 日~4
月 17 日にかけて N.ストリュイックが記録したもので、表 3.11 に要約を載せてある。
表 3.11 を見ると 30 歳以上の独身者がほとんど完全にいない点は非ヨーロッパ的結婚パ
ターンを思わせるが、20~30 歳の独身者の比率は西欧型と非西欧型の中間を示している。
ヨーロッパ的結婚パターンにならないのは、奉公人が資料を歪めているためである。
一般に 18 世紀以前の資料では奉公人が別枠扱いされている。これは奉公人の特殊な立場
を反映した慣習である。奉公人は人口の1割弱を構成しており、大半は 20 歳以下の独身者
であった。表 3.12 は奉公人を独身者に繰り入れた数値を示している。表 3.12 は明らかに
ヨーロッパ的結婚パターンを示している。一方奉公人を除外すると、数値は見かけ上西欧
表3.11 1742年ワルダー村の年齢・配偶関係別人口
年齢
~20
20~24
25~29
30~39
40~59
60~
合計
未婚
69
9
3
1
1
0
83
男性
有配偶
0
4
6
23
29
4
66
寡夫
0
0
0
0
6
8
14
未婚
90
7
2
0
1
0
100
女性
有配偶
0
7
12
19
25
3
66
外部の奉公人
寡婦
0
6
0
0
1
0
2
0
8
1
7
0
18
7
出典:Hajnal [12] pp.138
表3.12 奉公人を含めた配偶関係別比率
オランダの村落(1742年) スウェーデンの村落(1750年)
独身
40.5
44.8
有配偶
50.8
51.8
寡夫
8.7
3.3
独身
39.2
42.3
有配偶
48.7
44.3
寡婦
12.1
男性
女性
13.4
出典:Hajnal [12] pp.139
型と非西欧型の中間型に変化する。
メサンスはフランスのオーベルニュ地方の大半(人口 19,000 人)、リヨン(人口 20,000 人)、
ルーアン(人口 61,000 人)についてストリュ
イックと似た報告を行っている。彼の資料
表3.13 家内奉公人による独身率の変化
には 15 歳以上の未婚者と既婚者の比率が載
っているので、奉公人の大半が 20 歳以下の
奉公人込み 奉公人除く
独身者であるという仮定を使って修正する
男性
41
32
女性
38
31
男性
39
30
女性
39
28
男性
40
32
オーベルニュ
と表 3.13 のようになる。この独身率の高さ
からヨーロッパ的結婚パターンの存在が判
るだろう。
リヨン
J.S.ミュレはスイスのヴォー州について、
成人人口 76,000 人のうち独身者が 38,000
ルーアン
女性
人、うち 9,000 人はやもめと推計している。
39
33
出典:Hajnal [12] pp.140
またベルンについても似たような推計を引
用している。
以上、ヘイナルによる前工業化期ヨーロッパ北西部の形式人口学を見てきた。ただしこ
れは、あくまで前節で扱った世帯形成原則 a.を論じただけである。そのためここでは、以
下の図式の提示に留まる。
ヨーロッパ北西部
晩婚・高い生涯独身率
それ以外の地域
早婚・皆婚
4.2 西欧的世帯形成制度
前項では世帯形成原則 a.のみ論じた。本項は単純世帯制度の原則 b., c.について詳述す
る。
図 3.2 は西欧を世帯構造別に分類したものである。図中の「単純世帯・中間地域」対「結
合世帯」という視点で眺めると、「ヨーロッパ的結婚パターン」対「非ヨーロッパ的結婚パ
ターン」の地理分布と一致する。ヘイナルが 1983 年に提案した「西欧的世帯形成システム」
という概念はこの着想から生まれた。
前工業化期ヨーロッパ北西部の特徴は奉公人を含む核家族世帯の優越にある。これを「単
純世帯制度」と呼ぶ。一方非西欧地域には血縁関係を持つ複数の夫婦からなる世帯が多い。
大雑把な分類範疇だが、一括して「結合世帯制度」と呼ぶ。両者は「単純世帯制度-晩婚」
「結合世帯制度-早婚」という対照関係を有する。
図3.2 単純世帯地域と結合世帯地域
出所:Todd [43] pp.54, 60, 63から編集
どちらの制度も平均世帯規模は等しく5人程度である。また多産多死の若年型人口構造
と農村人口の卓越という点でも共通していた。重要な相違は世帯形成原則とそこから派生
する人口動態に見られる。
Ⅲ-1(1)で示した原則は一般論で、実際には多くの変異が存在する。しかも結婚、移
民、分家以外の世帯間移動が把握できない難がある。こうした限界はあるものの、原則の
対比は明白である。まず単純世帯制度から考えてみよう。
単純世帯制度では、新婚夫婦が必ず独立した世帯を作るので、夫婦家族単位数は1にな
る。やもめと結婚しても、数値に変動はない。
ル=プレの直系家族制度は、息子の1人が結婚、同時に父親の引退に際し農地を相続す
るという点で単純世帯制度の世帯形成原則に合致している。ル=プレ自身は結合世帯制度
に近いものを考えていたが、もしそうなら全ての息子が世帯に嫁を連れてくるはずである。
直系家族には1組の嫡男夫婦しかいないし、しかも自分達で独立した世帯を形成する。
移民──当時の言葉で奉公人は、経済史でも重要である。奉公人制度は未婚の青年層を
大量に生じさせることで結婚年齢を上昇させ、人口と資源を均衡させる予防的制限に一役
買ったからである。
次に結合世帯制度の結果を見てみよう。結合世帯制度の成員は、世帯主の妻子のみなら
ず兄弟、親族も包摂される。そのため夫婦家族単位数は2以上になる。しかも世帯の分割
が生じない限り包摂は続くので、非常に大きな世帯が生じることもある。経済的理由で故
意に世帯の分割が妨げられた場合、世帯規模が 10 人になることすらありうる。結合世帯制
度を考える際は、世帯が分割される時期に気をつけなければならない。
1つ注意点がある。実のところ結合世帯制度の地域でも世帯の大部分が結合世帯である
ことは決してない。けれども同時にほとんどの人は結合世帯に属した経験を持っている。
これは単純世帯制度ではありえない。家族ライフサイクルのいかなる時点でも結合世帯が
生じないからである14。
ヨーロッパ北西部の世帯構造の特徴は、世帯主とその妻子以外の親族がほとんどいない
こと、奉公人や間借り人が世帯に統合されていることである。彼らはたいてい世帯主とは
血縁関係がない。
ここでは単純世帯制度の典型例としてデンマークを検討する。デンマークのセンサスは
1787 年と 1801 年の物が残っているが、18 世紀の物としては非常に質が良いからである。
例えば配偶関係が調査内容に含まれているので、家族構造を知るには最適である。
H.C.ヨハンセンはこの資料から 26 の農村教区(人口 7,000 人)を分析した。標本の選択は
農村人口に重きを置いている。というのも、当時デンマークの人口の約 80%が農村に暮ら
していたからである。
表3.14 デンマークの世帯主との関係別人数(/100世帯)
既婚の世帯主と妻
その他の世帯主
子供 その他親族
奉公人
その他
合計
1787、1801年
農村部
1645年
モーエン島
男性
88
5
99
8
50
5
255
女性
88
7
96
15
40
9
255
両性
176
12
195
23
90
14
510
両性
175
12
249
-
62
-
523
出典:Hajnal [13] pp.75
14
Hajnal [13] pp.68-72
表 3.14 でいう「子供」とは、世帯主との続柄なので成人も含まれる。さらに世帯主の医
学的意味の子供以外に養子や連れ子も含む。1645 年モーエン島の資料は徴税を目的とした
もので、聖職者が行なった実査をマッケプラングがまとめたものである。「その他の親族」
と「その他」が一括されているので、表では空欄にしてある。モーエン島の特徴は子供の
数の多さであるが、これは奉公人の記載漏れを反映したものにすぎない。
奉公人が世帯の一員である事実は、単純世帯制度の決定的特徴である。J.グラントは 1696
年1つの世帯に3人の奉公人、間借り人がいるとした。数値自体は過大だが、奉公人の一
般性をよく表わしている。「その他の親族」「その他」に属する者の少なさは奉公人の多さ
の裏返しである。
世帯形成原則によれば、単純世帯制度では結婚に伴い全ての新郎が世帯主に就くはずで
ある。表 3.14 はそれを例証したものである。これは 1787 年、1801 年の世帯主との関係別
に既婚男性の比率を採ったものである。単純世帯制度の優越は明らかである15。夫婦家族単
位数2の世帯は良くて全世帯の4%以下にしかならない16。
4.3 ライフサイクル奉公人制度の展開
単純世帯制度は奉公人の普遍的存在を特徴とする(原則 c.)17
17 世紀オーストリアの村
落では、18~20 歳の若者の 50%以上が奉公に出ていたし、18 世紀末のデンマークでも 100
世帯につき大体 90 人の奉公人がいて人口の 17.6%を占めていた。今は名残すら留めていな
いが18、かつてはヨーロッパ北西部の普遍的慣習だったのである。
単純世帯地域の奉公人は世界にも類を見ない。結合世帯地域の家内奉公人は家事用役を
主な目的とするが、ヨーロッパ北西部の奉公人は農業、手工業、小売業といった営利活動
に従事する。結合世帯の成員はほとんど全員世帯主と親族関係にあるが、ヨーロッパの奉
公人は見知らぬ世帯主と雇用契約を結ぶだけである。にもかかわらず雇われ先の世帯の一
員として扱われる。
奉公人になれるのは、男女を問わず未婚の若者だけである。彼らは 10 代半ばで親許を去
り面識もない世帯に雇われる。そして住み込みで働きながら1年ごとに勤め先を変えてい
く。奉公による移動は結婚まで続く。結婚して自分の世帯を持つと、腰を落ち着け二度と
奉公することはなかった。
15
16
17
18
ibid. pp.73-78
既婚の奉公人は夫婦で同居しておらず、住み込みで働く夫が定期的に妻のもとへ出かけてい
た。
Hajnal [13] pp.92-104
しかし地域によってはつい最近まで細々と命脈を保っていた。W.M.ウィリアムズは 1952~
1953 年カンバーランド西部で制度が残存していたと報告している(Kussmaul [17] pp.135)
ラスレットはこれを「ライ
(%)
フサイクル奉公人制度」と名
60
付けた19。若者の大多数が青年
50
期にくぐり抜ける通過儀礼の
40
ようなもので、生涯続ける職
30
業ではなかったからである。
図 3.3 は 1787 年、1801 年デン
20
マーク農村教区の資料だが、
10
図3.3 年齢別人口に占める奉公人比率
男子
女子
5~9
4
4
10~14
36
26
15~19
52
50
20~24
56
51 男子
25~29
43
28 女子
30~34
23
13
35~39
14
6
40~44
6
5
45~49
6
4
50~54
5
3
55~59
5
2
人口に占める奉公人の比率が
0
男女とも青年期に鋭く収束し
ていることが判るだろう。
5~9 15~19 25~29 35~39 45~49 55~59
(歳)
マクファーレンはライフサ
出所:Hajnal [13] pp.94を編集
イクル奉公人制度を、貧民層
の就業形態の1つとして捉えている20。例えば 1801 年デンマーク農村教区では新生児の 50%
が労働者の子供だから、奉公人の出身身分もそれを反映して貧民層が中心になるはずであ
る。しかしこれは明らかに不十分な把握である。自分の土地を持つ者や大規模な農業家で
さえ子供を奉公に出していたのである。奉公人の相当な部分が農業家の子供という事例さ
えある。
ライフサイクル奉公人制度は様々な結果をもたらす。家族ライフサイクルに伴い世帯規
模が縮小する局面でも、外部からライフサイクル奉公人を調達できれば労働力不足に陥る
ことはない。若い夫婦は親からの援助なしに独立するが、そこには奉公人時代の貯蓄が充
てられる。見方を変えると、親は子供の扶養費を節約できる。
ライフサイクル奉公人制度は単純世帯制度の不可欠な要素である。逆に単純世帯制度は、
ライフサイクル奉公人制度だけでも維持可能である。以降イングランドの農業奉公人制度
を例に、この点を追究する。
4-4.イングランドの農業奉公人制度
4-4-1.農業奉公の原則と一般性
西欧的世帯形成システムは晩婚・新居制・ライフサイクル奉公人制度に立脚している。
ライフサイクル奉公人制度の代表格――イングランドの農業奉公人制度には3つの原則が
ある。
19
20
ラスレット [19] pp.29
マクファーレン [23] pp.245
1.成人の職業ではなく子供時代から家族を得るまでの過程で就く職業
2.契約にもとづく制度。通常年季契約で更改も可能であった
3.奉公人は農業家の擬制家族21として衣食住を保証される
農業奉公人制度は工業化以前のヨーロッパ北西部の農村部の大きな特徴であった。農業
奉公人は、貴族の執事のような有産者の個人的便宜に奉仕する者でもなければ、ヴィクト
リア朝時代の女中のような家事労働に専念する第三次産業従事者でもない。彼らは雇用主
の世帯の一員として農場や手工業企業で生産活動を行なう。
西欧以外の奉公人との違いは明白である。ロシアの農奴や中国の世襲の家内奉公人も名
前こそサーヴァントではあるが、彼らは青年期の一時的職業として奉公に就くわけでもな
く、そこに参加した人の割合もごく少数にすぎない22。
単なる賃金労働者との違いも明白である。貧民も富裕層もこぞって子供を奉公に出した
からである。そこには農事技術の習得23や貯蓄への願望、あるいは自分の子供を他人の財布
で養わせる狙いが渦巻いていた。徒弟奉公と異なり、農業奉公人の生活費は全て雇用主が
持つからである24。ライフサイクル奉公人の最大の特徴は彼らが結婚を待つ身だったことで
ある。彼ら自身はいかなる扶養義務も負わない25。
原則 1.を検討しよう。ここから農業奉公人の普遍性も定量的に明らかになる。ヘイナル
によると奉公人は常に総人口の6%を占め、10%以上というのも普通である26。イングラン
ドではそれより高く、いつの時代でも人口の8分の1を占めていた27。カスモールは 1574
~1821 年の教区一覧表をもとに、奉公人は人口の 13.4%を構成していたと言う28。R.ウォ
ールの研究ではもっと数値が大きく、1650~1749 年の低出生力期には人口の 18%が奉公人
21
22
23
24
25
26
27
28
擬制家族:Ⅳ-1参照。全世帯員は、体罰懲戒権まで含め家長の監督下に服すが、家長に対
して保護を求める権利も有する。
Hajnal [13] pp.93-97
農業奉公人制度という形で早期の外部労働市場(村落共同体間労働市場)形成を可能にした要
因として、以下が指摘されている(Kussmaul [17] pp.68-69)
a.農業技術の地域格差が元来少なかった
b.奉公人にとって慣習的な作業ルーチンは変更できなかった
c.奉公人は新技術の導入に抵抗した
無論奉公人の中にも、革新的な少数派と守旧的な多数派の競合関係があった。また外部労働市
場が一度成立すれば、知識や技術の交流を通じて農業部門全体の技術水準向上に大きく貢献し
た。
契約方法にも相違がある。農業奉公人の契約は口約束と暗黙の了解で交わされる。都市の徒
弟の雇用契約が書面で交わされるのとは対照的である(ibid. pp.4)
ibid. pp.3
Hajnal [op. cit.] pp.96
ラスレット [19] pp.127
Kussmaul [op. cit.] pp.3
という標本もある。その後 1750~1821 年の出生力上昇期になると 10%まで落ち込む29。
15~24 歳人口だけに注目すると、比率はさらに高くなる。川北は 15~24 歳人口のうち3
分の1以上が奉公人で、20 歳代前半の女子では半数近いというラスレットの研究を引用し
ている30。一方カスモールは男女とも 60%と推定している31。未婚の成人は大部分が潜在的
な奉公人の供給源であった。
奉公人の男女比率は自然の性比を反映している。ある教区における 1851 年の奉公人の性
比は 107:100 である32。女性の農業奉公人の比率は常雇いの女性農業労働者の比率より高
かった33。
図 3.4 は農業に従事する全雇用労働
図3.4 農業労働者に占める農業奉公人
の比率
者に占める奉公人の比率を示している。
中間値で 56%が農業奉公人である。ア
ーサー・ヤングは 1770 年先進的な大農
場 355 ヶ所の労働力編成を調査したが、
継続雇用は奉公人 1,482 人、労働者
1,401 人で全体に占める奉公人の割合は
51%であった34。
農業家だけで見ると、農業家世帯の
46.4%が奉公人を含んでおり、そのうち
奉公人2人だけというのが 59.0%であ
る35。
そのようなわけで、農業奉公人は近世
農業の雇用労働力の2分の1~3分の
出典:
Kussm aul[17] pp.17
1に達するというのが定説になってい
る36。
ただし人口に占める奉公人の割合は地域ごとに異なり、低い所で4%、高い所では 25%、
それ以上の事例もある37。地域的相違には大局的な傾向が存在する。1851 年のセンサスによ
ると、イングランド南部と東部では奉公人が少なく、北部と西部では奉公人が多い。日雇
い労働者の地域分布はこれと正反対の結果になっている。
29
30
31
32
33
34
35
36
37
斎藤 [78] pp.152 15~24 歳人口は全人口の 17~18%で安定していた。
川北 [49] pp.53
Kussmaul [op. cit.] pp.3
ibid. pp.15
ibid. pp.16
ibid. pp.18 日雇い労働者のみの農場は 23.1%しかなかった。
ibid. pp.11
ibid. pp.4
ラスレット [op. cit.] pp.97
図3.5 農業労働者に占める農業奉公人の比率
ただ 1851 年のセンサスは奉公衰退期に
実施されたので歴史的偏向が存在する。図
3.5 は縦軸に農業で雇用される全労働者に
占める奉公人の比率を取り、イングランド
南部・東部と北部・西部で比較したもので
ある。これを見ると近世の段階では比率に
大して差がなかったことが窺える。しかし
1851 年までに南部・東部では 51%から8%
に急落する一方、北部・西部では 68%から
51%へ漸減するに留まっている。
地域的相違の最大の理由は農業構造にあ
る。イングランド北部の高地地方は標高が
出典:Kussmaul [17] pp.21
高く平均以上の降雨があるので牧草の生育
に適する38。しかも耕作地の大規模化が利益にならないので必然的に肥育や酪農が行なわれ
る。肥育業は毎日家畜の世話をしなければならないので常雇いの労働力を必要とする。酪
農業では加えて搾乳やバター・チーズ製造といった膨大な継続労働が必要なのでどうして
も拘束労働力が要求される。農業奉公人は年季契約で拘束されるので、作業に季節性のな
い牧畜地域には最適であった。
これに対しイングランド南部の低地地方は乾燥し農場の大規模化も容易なので穀作が発
達した39。穀作農業の繁忙期は草むしり、鍬掘り、草刈り、収穫のある夏と初秋に集中する
ので日雇い労働者、季節労働者、臨時労働者を使った方が経済的である。年季契約の農業
奉公人は冬の農閑期、遊休労働力になるので不経済なのである。
社会経済構造の相違も大きい。イングランド北部は共有地や荒蕪地が囲い込まれなかっ
たので独立した小保有農が数多くいた。彼らは幼い子供を扶養する負担を避けるため子供
を奉公に出すが、自ら賃金労働者になる動機はない。それに対し囲い込みの徹底したイン
グランド南部では一家全員が日雇い労働者として働かなければ生計をたてられなかった。
仮にイングランド北部の農業家が日雇い労働者を使いたいと思っても工業部門と競争し
なければならなかった。イングランド北部で発達した製造業は圧倒的に成人男性を需要し
たので、農業部門と労働需要で競合したのである。一方奉公人雇用なら工業部門とは競合
しない。
T.ヒットが 1760 年に行なった分析では、イングランド南部に多い集居形式の村落では日
雇い労働者が支配的で、北部の散居形式の村落では農業奉公人が支配的であった。これは
労働市場が利用しづらいからである40。
38
39
40
Thirsk [42] pp.12
ibid. pp.12
Kussmaul [op. cit.] pp.19-23
イングランド北部よりもっと北のスコットランドでは、農業奉公人制度がさらに展開し
たらしい。もともと牧畜が盛んだったことに加えて、人口密度が低く大規模な農場が点在
し、都市労働力との接触が困難で、重工業が発達したからである41。
原則 2., 3.の検討に移る。
契約が開始されると、奉公人は無条件で四六時中拘束され主人の命令が無理難題でない
限り従わなければならない。これに対し雇用主は奉公人を扶養し所定の賃金を支払わなけ
ればならない。奉公人が人頭税などを払えなければそれも立て替えねばならない。
しかも農業家は奉公人が契約期間中無能体になっても雇用を続ける義務を負う。つまり
奉公人の働きが悪かろうが労働不適格だろうが扶養しなければならないのである。従って
奉公人を解雇する法的事由として病気も妊娠も不十分であった。農業家はこうした奉公人
を解雇したがったが、四季裁判所の判決では「解雇不可能性」を根拠に拒否されることが
多い42。例えば妊娠した奉公人を出産後1ヶ月は世話するよう命じられたのである。だから
といって農業家が正規の賃金を払ったかどうかは疑わしい。働かない奉公人に賃金を払う
筋合いなどないのである。奉公人を看病する義務は変わらないとしても、賃金は減らされ
たに違いない。
穀作地帯ならば冬期雇用義務もある。穀作地帯では冬になると仕事が減ってしまうので、
農業家は遊休労働力を解雇したがったのである。しかしこれも雇用維持義務の慣習の前に
は挫折せざるをえなかった。
ただ契約が口約束で結ばれるので、相当いいかげんなことがまかり通っていたらしい。
農業奉公人制度も末期になると、定住権を与えないため通年雇用すると言いながら年季が
明ける3日前に教区から追い出すなど当たり前になる。
契約の当事者双方の合意があれば契約を取り消すこともできる。例えば定住調査の際、
しばしば農業家と奉公人双方の合意にもとづき雇用契約が取り消されている43。
ここまでの結論を整理しよう。
(1)農業奉公人は近世イングランド農業の雇用労働力の2分の1~3分の1を構成し、その
大部分は結婚前の青年男女であった
(2)書面に拠らない雇用契約で、ほとんど年季契約であった
(3)農業家は雇用した農業奉公人の生活の一切を保障しなければならない
41
42
43
Devine [9] pp.100-102
Snell [38] pp.80 1572 年エセックス四季裁判所記録によると、アルファムストーン某宅に
は3つしかベッドがないので奉公人ジョーン・レイニアは主人の息子シモンド・カリーと同じ
ベッドを使うよう命令された。彼女の誘惑に息子の邪な欲望が刺激され、シモンドの子供がで
きた。某は契約の残り期間彼女を置くように命じられた(Kussmaul [op. cit.] pp.44)
ibid. pp.31-33
次項から奉公人のライフサイクルに沿って制度の詳細を記述する。
4-4-2.幼年期~奉公に入るまで
奉公に入るまで子供達が何をするかはよく判らない。幼年期を抜け次第世帯内で生産活
動をしていたかもしれない。マクファーレンは子供達が家内工業に従事していたと述べて
いる44。カスモールが個人史研究の対象にしたジョセフ・メイヨーという奉公人も9歳まで
家でレース編みの手伝いをしている45。
農村家内工業従事者の世帯では子供の稼得部分が家計の重要な位置を占めていたのであ
りえる話ではある。しかしスネルはそれが奉公衰退期の特徴かもしれないと示唆している46。
彼によると、18 世紀半ば以降下層民の子供は 10 歳頃から親許で暮らしつつ何年か日雇い労
働を行ない、それから奉公へ出ていった。
図 3.6 から判るように、農業奉公人が家を出る年齢はばらばらである。マクファーレン
の言う「成年」になる慣習的年齢は、存在したかもしれないが地域的変異が大きすぎて把
握できない47。過去の知識人は普通 13~14 歳にしているが、統計を取ると親許にいる子供
も多い48。しかし 15~19 歳人口の8割は奉公に出ている。
図3.6 定住調査に見る奉公に入る年齢(標本数91人)
出典:Kussmaul [17] pp.72
44
45
46
47
48
マクファーレン [23] pp.127-129
Kussmaul [17] pp.86
Snell [38] pp.83 Ⅳ-3(1)参照。
マクファーレン [op. cit.] pp.127
Kussmaul [op. cit.] pp.70
通説では 14.5 歳である。これはスネルが 1700~1760 年の資料から割り出した平均値で、
広く容認されている49。
子供を奉公に出すことは、何よりも貯蓄の機会を与え独立の準備をさせることを意味し
ていた。新居制の下では結婚後の生活基盤を自力で確立しなければならなかったのである。
奉公で貯めた資金は小農地や共有地の獲得、新居の家具購入にあてられる。
奉公は教育の場としても重要である。都市の徒弟奉公や学校と異なり、農業奉公人制度
では雇用主の負担で農事技術を習得できる50。
晩婚との関連も無視できない。結婚年齢が高いと、子供の独立前に両親が死んでしまい
がちである。H.ル=ブラは 18 世紀フランスの 25 歳の若者の 34%は片親を亡くしており、
17%は両親を失っていると述べている。子供の独立前に親が亡くなると世帯は崩壊してし
まう。残された孤児は糊口をしのぐため奉公へ出ていった。一家が離散しなくても、新し
い継親と対立すればやはり奉公へ出ていった。定住調査は親の死去や再婚が奉公の契機と
注記している51。ただし注意しなければならないのは、両親の死の直後に奉公に出た者がい
ない点である。しかも孤児の数は奉公人に比べあまりにも少なすぎる。晩婚構造との関連
で見れば、子供を奉公に出す理由は親が死ぬ前に子供を独立させるためと解釈した方が良
さそうである。
決して証明できない要因もある。子供を奉公に出す究極の理由は思春期に達した子供が
近親相姦に陥るのを防ぐためというのである。近親相姦の危険性は若年者の集団である農
業奉公人につきまとう問題であるが、それがどこまで重要なのか――重要でないか――は
推測しかできない52。
4-4-3.奉公の開始
農業奉公人の仕事は当時農家で行なわれた全作業に及ぶ。それは農村生活史の記述でも
ある。
奉公人フレッド・キッチンの就業時間は午前5時~午後9時まで、休憩を挟みながら 16
時間に及ぶ。典型的な冬の仕事ぶりは次の通りである。
49
50
51
52
川北 [49] pp.57
賃金を減らす代わりに農事技術を教えるという賃金協定も散見される。
Kussmaul [op. cit.] pp.74
ラスレット [19] pp.222 これはベッド数が少ないことと関係がある(Ⅲ-2(1)脚註参照)
それから男性は雑魚寝しても女性はそうしない傾向がある。20 世紀初頭の南ウェールズでは、
娘と女中が一緒に寝ることはないものの息子と男性の奉公人は離れで一緒に眠らされた
(Kussmaul [op. cit.] pp.41) 1828 年ジョン・エルマンは「農業家の妻達は奉公人を家に入れる
ことに苦情を述べている」と陳述している(Snell [op. cit.] pp.69) これは女性を性的事柄も
ろとも保護隔離する秘私性の表われかもしれない。
奉公人と農業家は朝4時起床
牛に飼い葉を与え畜舎を掃除する
馬と牛にブラシをかける
家畜に水と餌をやる
6時に朝食
7時から2~3時間耕作。その後昼食(正餐)
畜舎に戻り朝飯前の仕事を繰り返す(畜舎の掃除、ブラシかけ、給餌)
18 時半に軽く夕食
20 時まで靴の修理、麻打ち、リンゴを踏み潰してリンゴ酒製造、麦芽挽き、脱穀、犂
の刃研ぎと修理
畜舎の掃除、麦藁の搬入
奉公人は日々の仕事が終わった夕べ、退屈な日常を彩る変わった仕事を期待した。また
多くの馬車挽きと耕夫はちょっとした職人仕事ができた53。
農村では女性労働にも注意を欠かせない。
「マリーは他の女性が1日 10 ペンスでする、畑の石掘りや鍬を使う仕事、荷車を引いたり
種を蒔いたり雑草を抜いたりする仕事よりも、家で革の手袋を作る内職の方を選り好みし
ていた。……彼女が農場で手伝いをするのは収穫の時だけだったが、それも天気が良くて
2人の子供を連れて来られて、垣根の側で他の子供達と遊ばせられる時だけだった。彼女
は農作業がまるで好きではなかった」54
専門の酪農婦の労働強度は極めて高かった。
「朝5時に起きてそれから7時まで乳搾りです。7時にオートミールのお粥の朝食を食べ
て、8時にも朝食を摂ります。食べたらすぐ内向きの仕事を始めます。休憩は 30 分もあり
ません。昼食は 12 時です。食べ終わったらすぐに乳牛の餌やりに出かけます。麦藁、蕪な
どの仕事で午後4時まで働き続けます。4時になったらお茶を飲みます。それからまた乳
牛に餌をやります。5時半から7時まで休憩して、それから8時まで乳搾りです。それか
ら 30 分かけて乳牛に飼い葉を与えます」55
53
54
55
Kussmaul [17] pp.35
Hugett [15] pp.46 舞台は 1870 年代イングランド中部である。100 年前なら怠け者と罵られ
ただろう。
Devine [9] pp.103 彼女達は女性労働者の中で最も賃金の高い集団である。それは長時間の
重労働と厳しい制度の代価だった。
酪農の起床時間は午前2~3時のこともある。消費者は搾りたての牛乳を偏愛したから
である。大規模なチーズ製造も重要である。この作業が要求するのは「膨大な労働の連続
で、週7日の労働が6~7ヶ月も続くのである……。以前私は女達が午後3時に同じ服を
着ているのを見たことがある。彼女達は朝の3時、4時に慌ただしく起床して骨の折れる
仕事を続けなければならない。1つの仕事が終わればまた次の仕事だ――乳搾り、朝食の
準備、チーズ造り、子牛と豚の餌やり、昼食の用意など。酪農に従事する女性にとって1
日 16 時間働くのは普通のことであり、自由が認められるのは食事の時間だけだ」56
専門職に対し、一般職とも言える少女達は家事、搾乳、農場の手伝い、つまり農場の全
仕事を割り当てられた57。彼女達には規則的な日課も休日もない。ただ一般化は困難である。
それは個々の雇用者の態度や地域的慣習に大きく依存するからである。酪農地域の大規模
な農場では搾乳と乳牛の世話でほとんどの時間を費やす傾向があった。小さな農場では、
彼女達は家族と一緒に働き、要求されること全てを行なった。彼女達の特別な仕事に台所
仕事がある。独身の農業労働者が農場付属の家屋で食事をすることも多いからである。無
論搾乳、家禽の世話、農場の臨時の手伝いといった戸外で行なう仕事もこなさなければな
らない。もし彼女達が農場で雇われる唯一の奉公人ならば、他のいかなる女性農業労働者
より長時間の厳しい労働をするのは当然と思われていた58。
上記のように、奉公人は雇用主と別々に食事をすることもある。これは雇用主の好みと
意向による。しかし雇用主が擬制家族の伝統に従うならば、世帯員は全員同じ食卓を囲ま
なければならない。
「以前はそこに 10~15 人の男性、少年、女中がいた。……マホガニーの食卓、素晴らしい
椅子、素敵なグラス……瀬戸物でできたグラスと酒の入ったガラス瓶、つまり『ディナー
セット』、本物の相場師スタイル……おそらく大地主チャリントンの父親は、男達と座るの
にオークの食卓を使っていた。そこで短い挨拶を述べ、肉とプディングを切り分けていた
のだ。彼らが何も持っていなければ手酌で強いビールを注いでやったに違いない」59
食卓の共有は「食卓と祈りの共同体」を編成することに他ならない。これは雇用主と奉
公人を1つの食卓秩序で束ね権威主義的結合を実現するものである。ドイツでは食卓共同
体が強固に維持された。そこでは家長が食卓の前方正面に座り、その後にはパン棚がある。
家長は黒パンを切ってから祈りの言葉を述べる。その間、奉公人は席に着かず机に背を向
56
57
58
59
ibid. pp.108
ibid. pp.109 原語 'In-and-out' Girls 「屋内外で働く少女」と、「尻軽女」の語呂合わせ
と思われる。
ibid. pp.109
Snell [38] pp.69
けて祈る。それから家長がナイフの柄で机を打ち鳴らす。これが着席の合図である。食事
中に話すことは禁じられていた。家長がナイフとスプーンを置くや否や、食事時間は終了
であった60。食卓共同体は聖餐との連想で、それ自体が宗教的寓意を含んでいたに違いない
61
。
農業奉公人の賃金は貨幣部分と現物部分に分かれる。現物部分は農業家が奉公人に提供
する食事や住居のことで、賃金全体の 20~42%を占めていた。費用に換算すると1人当た
り年間 10 ポンドくらいになる62。しかしここでは賃金の貨幣部分を扱う。
奉公人の賃金は長らく法律の規制下にあった。表 3.15 はその一覧である。ただ賃金が規
制に従ったかどうかは判らない。16~17 世紀の賃金支払いの記録がほとんどないからであ
る。
表3.15 賃金を規制した法律の年表(イングランド)
名称
1349年 ordinance de servientibus 最初の明示的規制
1350~1351年
Statute of Labourers
備考
黒死病最初の年に施行
賃金が黒死病以前の水準に凍結される
1388年
法律が失効不能となり、一定の賃率が公布される
1444~1445年
古い賃率の2倍に改定される
1495年
賃率がわずかに上昇
1514~1515年
再び上昇
1562~1563年
賃金を規制する法律の廃止
Statute of Artificers
最高賃金の設定は治安判事と四季裁判所に任される
査定された賃金は極めて安い
1813年
法律の廃止
出所:Kussmaul [17] pp.35-36を編集
イングランドにも賃金強制は存在した。強制奉公である。1350~1351 年労働者法は、自
由民か否かを問わず、手工業、商業に従事する者以外で、土地を所有せず、奉公人でもな
い 60 歳未満の全ての労働可能身体の男女に農村での奉公を義務づけた。狙いは2つある。
1つは小屋住農を通年雇用労働者として安定供給することである。当時小屋住農は入会権
で地位を守られていたため雇用労働力としては使いづらかったのである。もう1つは賃金
協定で定められた賃金での労働を強制することにある。この場合、賃金統制それ自体が強
制力を発揮する。
ところがイングランドは大陸と異なり強制奉公の重要性が非常に低い。雇用主も労働者
60
61
62
若尾 [76] pp.190-192
もっともイングランドでは 18 世紀に入ると、食卓共同体の放棄があっさり進んだ。農業家が
積極的に廃止したからである。それは主に農業家が奉公人の食事にかかる費用を嫌ったことが
原因だが、食卓の私秘化も理由の1つである。
Kussmaul [op. cit.] pp.40
も雇用市での取引を好んだのである63。実際、18 世紀に賃金統制が衰退すると雇用市を中心
とした農業労働力の自由公開市場が隆盛を迎える。そこでは出自による賃金差別はなかっ
た。
そのかわり慣習の影響力は強かった。例えば農業奉公人の賃金は限界生産性で決まるわ
けではない。彼らは従属と拘束の代償として賃金を受け取る64。
女性の賃金は明らかに男性より少なかった。16~18 世紀の資料では男性の5~6割しか
ない。賃金差別の原因はいくつかある。
まず何より社会は女性に、男性と同じ賃金率を得ることを許さなかった。女性の賃金は
男性の半分程度に固定されていたのである。この差別は女性労働力が減少してもなお維持
される。工業化によって男性労働者の供給が減った時、農業家は賃金を上げることで労働
者の確保に奔走した。しかし女性労働者が減少したからといって男性並の賃金を与えるこ
とは決してなかったのである。伝統的差別は農業家に多大な利益をもたらした65。
表3.16 伝統的な女性の仕事(19世紀スコットランド)
通称
内容
種芋の植え付け、草取り、石の除去、
普通の仕事
じゃがいも掘り、排水施設を石でふさぐ
蕪掘り、飼い葉の準備、納屋仕事、
小麦の種の移送、肥料の散布、
「小さな道具」を使う仕事
じゃがいもと蕪を鍬で掘る作業、
草むしりと小麦の刈り入れ
乳搾りとチーズ製造
出所:Devine [9] pp.98を編集
もう1つ、女性に固有の仕事分野があったことも賃金差別の重要な理由である。表 3.16
は女性の仕事の一覧で、軽作業が中心である。当時の人々は職種の性差別を正当化するた
め次のようなことを言っている。
「女性は腰を屈める点で男性より肉体的によく順応すると言われている」
「女性は草むしり、
63
64
65
教区徒弟についても同じことが言えるかもしれない。
ibid. pp.7-9 Ⅳ-3(3)参照。賃金が限界生産性で決まらないのは、当時のイングランド農
業が慣習的農業だからである。生産市場の供給のみ考えると、そこでは生産要素(大半が再生
産可能な資本+労働)を投入し尽くしたため、増分0の垂直供給曲線の領域に入っている(供給
曲線=2次曲線の一般的性質による) 垂直労働供給曲線ならば、限界生産性と無関係に価格
が変動しうる。これは長時間の粗放労働にしばしば見られる現象である。Ⅴ章の余暇選好性の
議論も参照。
Devine [op. cit.] pp.101, 119
鎌での刈り入れ、穀物の収穫に精通している。それは手先が器用だからである」
「犁夫が蕪
掘りを頼まれたら侮辱にとるだろう。たいていの犁夫は牛舎仕事も断る」66
女性の賃金は伝統的蔑視に加え、半端仕事しか割り当てられなかったため低く抑えられ
たのである。これは児童労働についても同様である。それどころか、まだ幼く力のない奉
公人は全く賃金を受け取らなかった。両親にしてみれば、1年間農業家に養ってもらうわ
けである。
子供の賃金から大人の賃金に変わる年齢は、男性で 10~20 歳、女性では 12~16 歳であ
る。18 世紀の伝統では 16 歳だがばらつきが大きかった67。いずれにせよ、この年齢を境に
職種が子供向けから大人向けに変化する。例えば半端仕事を請け負う牧童から牽引用の役
畜の担当者に変わり、それに伴い賃金も上昇する。犁夫や酪農婦といった専門技能を持つ
者は最も高い賃金を受け取った68。
賃金の支払い形態も興味深い。年季契約でありながら、通常の協定では奉公人が分割払
いを要求でき年季末に帳尻合わせするのである。年季末の一括払いを強要される者もいた。
これは強制貯蓄と同じで、農家の現金不足が原因である。
奉公人は酒と服以外ほとんど現金を使わない。賃金の分割払いを求めるのは主に祭の時
である。彼らはその年最大の祭の直前に賃金の分割払いを求め、ことごとく消尽してしま
う。独立のためこつこつ貯金するというヘイナルの想定は、真面目な者にしか妥当しない。
家畜による支払い形態もある。例えば奉公人に羊を自由にさせてやる代わりに賃金から
1頭当たり8ペンス控除したり、貨幣賃金に加え2頭の羊の放牧権で雇用契約を結ぶ事例
がそうである。しかし奉公人の死後尋問調査書によると、奉公人の遺品はたいてい財布、
箪笥、衣類のみで、家畜は稀にしか見られない69。
4-4-4.奉公人の移動
農業奉公人は1年ごとに移動する。彼らの流動性は共同体との直接的紐帯を重視する近
世社会にあって全く異質なものであった。それでも奉公人の流動性が社会を不安定にする
ことは決してなかった。
66
67
68
69
ibid. pp.99, 101
Kussmaul [op. cit.] pp.37
ibid. pp.11
ibid. pp.38-39
奉公人の移動は雇用契約の終了日(同時に新しい雇用契約の開始日)を中心に行なわれる。
こうした日は伝統的に決まっており、イングランド南部と東部ではミカエル祭(9月 29 日
頃)、イングランド北部ではマルタン祭(11 月 11 日頃)やメーデー(5月1日)が一般であっ
た(表 3.17)70
契約期間についても、特別の付帯事項がない限り慣習的に1年となる。
表3.17 雇用開始日の比率(17~19世紀の定住調査)
ミカエル祭 マルタン祭 メーデー 聖母マリアの祝日 その他
雇用総数
ヨーク、ノース・ライディング
0
92
8
0
0
24
ノーザント、レスターシャー
91
7
0
2
0
44
ケンブリッジシャー、ノーフォーク
98
1
0
0
1
120
リンカーンシャー
0
7
90
0
3
72
ウィルトシャー、グロスターシャー
96
1
0
1
イースト・ライディング
1
85
出典:Kussmaul [17] pp.51
契約日は収穫や剪毛、秋の犁耕の直後の農
表3.18 奉公人の移動性
閑期と一致している。奉公人は伝統的な雇用
日になると各々移動を始めるが、それが過ぎ
ると移動はほとんどなくなる。これは新聞も
同一の農場に留まった年数(1780~1830年)
%
リンカンシャー
1年だけ
68
広告もなければ識字率も低い状況で広範な
(128人)
3年以上
16
バークシャー
1年だけ
80
(99人)
3年以上
5
71
労働市場を成立させる唯一の方法である 。
当局にとってもこの方が浮浪者と容易に見
分けられる。
前述した農業奉公人制度の原則 2.で、更
改可能な契約と指摘した。実際にはほとんど
コジェンホー
リンカンシャー
年間の移動率
0.45~1.00
0.61
契約の更新は行なわれなかった。表 3.18 は
大アムウィル
0.6
奉公人の移動性を示している72。これを見る
セイコンブ
0.58
ウェストミル
0.65
と大部分の奉公人は1年で別の世帯に移っ
てしまうことが判るだろう。農業家にとって、 テトニー
ほとんど全ての奉公人は新参者であった73。 ラドリー
0.52
0.77
出所:Kussmaul [17] pp.51-54を編集
70
71
72
73
この3日が契約開始日の 90%を占める。表中「聖母マリアの祝日」は8月 15 日頃(聖母被昇
天)を指すと思われる。牧畜地域は春夏の季節性を持つからである。
Kussmaul [17] pp.49 地方紙に広告が出ることもあった。ノリッジ・マーキュリー紙で最初
に雇用市の広告が出たのは 1743 年のことである(ibid. pp.59)
年間の移動率は、一覧表上のある年から次の年までに消えた名前の比率で表わされる。つま
り一覧表に出てくる者が全て消えれば比率は1、誰も消えなければ0になる。農業奉公人は若
年者が多く死亡の攪乱が少ないので、一覧表から消えた未婚男女は奉公に伴い移動したものと
見なせる(ibid. pp.52-54)
ibid. pp.49-54 年季契約なので契約期間は当然その日から約 12 ヶ月間である。ただし1年に
数日欠ける契約も多かった。理由は教区利己主義である。
これは農業家を立腹させがちであった。極端な人手不足の折に奉公人が辞めると、後任
者が見つかる保証などなかったからである。農業家はよそ者の雇用に慎重であった。信用
できるか、別の雇い主の許に逃げないかどうか怪しかったのである。職人法はそうした利
害を代表した法律である74。もっとも職人法は捺印証書の慣習が一般的でなかったので全く
役立たずであった75。
移動規制は農業家にとって不利益になりがちなのである。当時の農作業は年齢別に役割
分担されていたが、奉公人の加齢は止められない。牧童の需要は大きいが大人の仕事では
ない76。奉公人の定住を阻止し救貧税負担軽減を目論む教区利己主義も見逃せない。さらに
言えば、飲酒、無能、病気、妊娠、高齢、罵詈雑言など労働不適格な奉公人を追い出す上
でも移動規制はない方が良かった。
奉公人にとっても同様である。奉公人が頻繁に移動した理由は移動の禁止がなく、契約
が1年で切れ、持ち運ぶ財産がほとんどなく、被扶養者がおらず、農事技術の共通性が高
かったことが挙げられるが、それ以上に雇用主の農業家に愛想を尽かしたというのが本当
らしい。
いわく「食事がしみったれてる」「居酒屋が遠い」「主人が意地悪」「性行為を迫られた」
「もっとましな雇い口を探す」
「結婚相手を探す」
「賃金の更改額が低い」77
奉公人ジョセフ・メイヨーも、裸にすると雇用主に脅されたので道具を奪い主人の頭を
かち割ってやると脅してみたり(最初の奉公)、主人が変人だったので3日で辞めたり(6回
目の奉公)、洗礼派の女性と付き合い悶着を起こして解雇されたり(10 回目の奉公)、酷暑の
中厳しい仕事を言い付けられ頭に来て兵隊になると言い出すが挫折したりしている(12 回
目の奉公)78
バッキンガムシャのある労働者は、賃金の減少と冬期雇用義務の不履行、費用削減の皺
寄せで独身者が真っ先に解雇されることに不満を述べている。リントン郡出身のある労働
74
75
76
77
78
奉公人は教区を去る際、推薦状の携行が要求される。これは教区治安官の捺印と教区牧師に
よる登録が必要だった。推薦状には当該奉公人が雇用主のもとを去る許可を得ておりよそで自
由に奉公できる旨記載する。1388 年労働者法は単純に、奉公人が自分の住んでいる教区を去
ることを禁じた。1444~45 年に法律が強化され、雇い先を去る前に、次の雇い主と新しい捺
印証書を1通作って辞職の警告をすること、もし両方の条件が満たされなければ捺印証書は無
効を宣言され、奉公人は元の雇い主の許にもう1年残らなければならないと定められた。1549
~50 年、雇い主に辞職を予告する期間が最低3ヶ月に設定された。
ibid. pp.148
ibid. pp.35 児童労働は補助労働力として半端仕事をあてがわれた。例えば畜舎の掃除、牛の
搾乳、子牛その他の給餌、蕪掘りの手伝い、犂の先導(切り返し) これに対し青年男子は多彩
な仕事を請け負った。
ibid. pp.55 農業技術習得のため、など真面目な動機もある。
ibid. pp.85-93 メイヨーは 1783 年生まれ。最初の奉公(1795 年)、6回目の奉公(1799 年)、
10 回目の奉公(1801 年)、12 回目の奉公(1802 年) ちなみに 1816 年 12 月結婚。おそらく 10
回目の奉公の時の交際相手とである。
者は農業家のことを「奴らはあこぎで、けちで、強情な連中ときている」と断言している79。
エイムズベリ近郊の者も同様の怒りをぶちまけている。
「奴らは物価が高い時に貧民の賃金を値切る。……奴らはそんなには払えないとか言って、
貧乏人に金を払うつもりなぞないんだ。そんなだというのに、なのに奴らはヤクザ馬に跨
がりグレイハウンドを飼っていやがる」80
ある農業家がジャックを雇い、夜っぴいて指図した。「ところでジャック」、農業家は言
った、「私の名前は何だい」「いかにも、ご主人様です」「違うね」
彼は言って、「お前は
100 回に1回私をトムと呼ばなければいけない」 次に彼は寝台を見て尋ねた。
「これは何
だい、ジャック」「なぜでしょう、ベッドですが」「違うね、お前は『こいつはダメだ』と
呼ばなければいけない」81
もともと農業家は農業奉公人に対して一体感のようなものを抱いていた。確かに彼らは
奉公人のことを「無礼で鼻持ちならず、不実でひねくれ者で田舎者」とこき下ろしている。
アーサー・ヤングも良い奉公人の条件として仕事上の技量より人柄を挙げている82。それで
も彼らは奉公人と利害を同じくしており、感謝することも少なくなかった83。
79
80
81
82
83
Snell [38] pp.101 スネルの元来の意図は農村モラルエコノミーの記述、殊に農業奉公衰退
期の農村での社会関係険悪化の分析にある。しかし農業家と奉公人の麗しい友情など好景気の
折にも稀でしかなかった。とはいえ雇用する側もされる側も、そうした理想を抱いていたのは
後述の通りである。
ibid. pp.101
ibid. pp.101
Kussmaul [op. cit.] pp.45
ジョセフ・メイヨーも、16 歳の時読書を教えてくれた主人を懐かしく思い出している(ibid.
pp.89)
表3.19 雇用先の探し方
イングランド南東部やケントで一般的だった
戸別訪問
移動方向に指向性がなく時間浪費的な方法
居酒屋の主人や地方市場から入手した求人情報
口伝えの情報
移動範囲は情報網の範囲内に制限される
奉公人は親族を頼って居場所を見出していた
親族網
主人も奉公人の親族を通して求人していた
例えば主人の義理の息子の所に自分の従姉妹の
口伝え+親族網
居場所を見つけてやる場合
法定集会・小治安裁判
雇用市
長距離の労働移動を可能にする
集会の影響範囲が重なる場合、奉公人はかなりの
距離を動いた
出所:Kussmaul [17] pp.58-59を編集
ミカエル祭なりマルタン祭なりメーデーなりに農業家のもとを飛び出した奉公人が次の
勤め先を見つける方法はおおむね4つに分けられる。表 3.19 はその一覧である84。こうし
た方法は移動の方向と距離に大きく影響する。戸別訪問では移動範囲は狭いが、噂や親族
に頼れば探索範囲を広げられる。雇用のための大々的な集まりが催されれば探索範囲を一
気に拡大できる。こうした自由公開の村落共同体間市場85は農業奉公人に広く受け入れられ
ていた。何しろある雇用市で満足いく賃金が妥結できなくても、また別の雇用市へ行けば
良いのである。農業家も1年付きあう仕事仲間をじっくり見極める、絶好の機会として歓
迎した86。
雇用市は地域の慣習的雇用日に年1回、場合によっては半年後もう1回開かれた。いく
つかの地域では雇用市を開く場所が固定されていた。そうでなければ村の近くで数週間か
けて断続的に行なわれる。参加者の数や吸引力には大きな偏差があった。
奉公人の移動は近距離移動が中心である。表 3.20 はスポールディング周辺の移動研究だ
が、大概 10 ㎞程度に収まっている。P.ホーンは元の場所から半径 16 ㎞を越えて移動する
奉公人はほとんどいなかったと述べている87。
84
85
86
87
親族網はヘイナルの注目した求職形態である。
カスモールはこれを「市場紐帯共同体」と呼んでいる。筆者がここで「村落共同体間労働市
場」なる語を用いたのは以下の理由による。中世村落共同体の耕作強制(共同体内での労働力
の融通と、重量有輪犁などの生産手段共用から催合の一種と考えられる)の仕組が解体し、さ
らに広い範囲で労働力の融通が行なわれるようになった。これが農業奉公人制度である。そ
れは 19 世紀確立する一国労働市場の雛型に外ならない、と。
もともと法定集会は賃金を決定する市場ではなかった。16 世紀頃、初期の段階では行政的機
能が前面に押し出されていた。雇用主と奉公人は集会前にあらかじめ合意を交わし、集会の
場で確証し宣誓前に記録するだけの場だった。しかし 18 世紀賃金規制が衰退すると、農業労
働力の自由公開市場へ変貌した。
川北 [49] pp.59
表3.20 奉公人の移動距離(単位㎞)
定住調査
ハートフォードシャー
4
サフォーク
5
多くは15㎞圏内
スポールディングの法定集会
男性844人、女性722人対象
(1765~1785年)
移動の平均距離
20㎞以上移動
賃金£9以上の平均移動距離
20㎞以上移動
男性
12.32
女性
10.78
男性
18%
女性
8%
――
12.77
賃金£9以上
24.2%
その他
16.7%
スポールディングの
主人の最長移動距離
22.5
春季法定集会(1773、1784年)
奉公人の最長移動距離
37.5
両者の平均移動距離
9
出生地~最初の奉公先の平均距離
5.92
出生地~最後の奉公先の平均距離
6.31
スポールディングの定住調査
距離に有意な差はない
25%が奉公後生家のある教区に戻る
50%が出生地から7㎞圏内で活動
シェフィールドの徒弟
3分の2がシェフィールドの34㎞圏内出身
出所:Kussmaul [9] pp.57-66を編集
ただ移動方向なしでは統計的に無作為な数字しか見出せない。図 3.7 上図を見ると、奉
公人の移動がスポールディングを中心にしていることが判るだろう。雇用市が奉公人、農
業家両方の移動領域を束縛するのである。一方図 3.7 下図を見ると、ジョセフ・メイヨー
が生家のあるクエイントンを中心に動いていることが窺える。もちろん遠くの雇用市へ冒
険したこともあるが、大半は狭い地域内で雇用されている。
奉公人移動の狭域性は中国の市場限定共同体 market defined community と類似している。典
型的な市場紐帯共同体は半径 3.4~6.1 ㎞で、8つの村落と 1,500 の世帯を含んでいる。共
同体内の成人は互いに会釈をする間柄である。近世イングランドの村落共同体間労働市場
もこの程度の広さだったのだろう。
図3.7 雇用市による移動経路
1767~1785年の3人の奉公人の移動経路
奉公人ジョセフ・メイヨーの1795~1802年の移動経路
出典:Kussmaul [17] pp.65,88
しかし中国と決定的に違う点は、農業家も奉公人も相手について不完全情報しか持って
いなかったことである。18~19 世紀にはこうした不確実性について不満が出されている。
これに対抗するため、農業家も奉公人も目星を付けた者の素性を同輩に尋ねたに違いない。
交友範囲や親族網は雇用市に来る者の数よりはるかに小さいが、決定的影響力を及ぼした。
奉公人が地域を越え自分の両親や友人のもとに赴く事例はいくらでもある88。
とはいえ、大半の奉公人は見知らぬ農業家に雇われていったし、農業家もまた面識のな
88
Kussmaul [op. cit.] pp.56-66
い奉公人を雇っていった。彼らを繋ぐのは「同郷人」という社会的紐帯なのである。
雇用市は人々の集う場なのでお祭り騒ぎになるのは必然と言って良い。多くの地域では
雇用市が収穫後最初に催される祭なので、奉公人にとっては楽しい休暇にすぎなかった。
18 世紀イングランド南部で農業奉公人制度が衰退すると、雇用市は本来の役目を失い純粋
な祭に変わる。その時期の雇用市の様子を J.キタリンガムは次のように述べている。
「……『スタッティーの日(Statute Day)』は、どこで開かれるにせよ、一円の労働者階級
の人々にとってはお祭りとなった。屋台やメリーゴーラウンドが出るうえ、雇用契約がま
とまった後は、深酒をして乱痴気騒ぎとなるのが普通であった」89
契約の筆頭には手付金が来る。これは「神のカネ」などと呼ばれていた90。
残念なことに雇用市の詳細な風俗を紹介した文献は未見である。しかしトマス・ハーデ
ィは「キャスタブリッジもの」と呼ばれる一群の小説の中で、その光景を活き活きと描写
している。以下では『遥か群衆を離れて』に註解を加える91。
……話はとんで二月のある日のことである92。キャスタブリッジの田舎町では、恒例の雇
い人市が立っていた。
町はずれには、陽気で元気な労働者たちが二、三百人も「幸運」の訪れを待っていた。
――みんな、「働く」といっても、せいぜい引力と取っ組みあいをすることだし、「楽をす
る」といったって、その取っ組みあいをやめることじゃないか、とたかをくくっているよ
うな種類の連中だった。――車力がいるし馬車ひきもいる。帽子のまわりにむちなわを巻
きつけているのですぐわかる。屋根屋は、目じるしに藁なわの切れっぱしをつけている。
羊飼いは牧杖をたずさえている。だから、雇う方では、その目じるしをちょっと見さえす
れば、その男がどんな勤め口を欲しがっているのかが、ひと目でわかるのだ93。
89
90
91
92
93
川北 [前掲書] pp.82
同書 pp.84 God's penny の他に earnest、hiring penny、fastening penny など。
ハーディ [14] pp.65-69 資料の教示はBLPCヘルプデスク Gareth Barker 氏による。
フランスでは1月と2月が重要な結婚=奉公人の移動の月であった。しかしイングランドで
は例外である。イングランドで1月と2月の結婚が一般的だった地域はスタッフォードシャ、
チェシャ、ランカシャであるが、なぜそうかはうまく説明できない。こうした地域は宗教改
革後のイングランドにあってローマ・カトリックであった。国教会忌避とカーニバル・カル
チャーが特徴である(Kussmaul [18] pp.43) もし雇用市が年2回ならば、8月の雇用市の半
年後がありうる。あるいは牧畜地域の標準である春の雇用市だが、もっと大きな雇用市とぶ
つからないよう前倒しされたのかもしれない。
聖職者や道徳家は若者の風紀紊乱を懸念したり、人身売買のような印象をもとに激しく雇用
市を非難した(川北 [前掲書] pp.83) 確かに若者達が職を求めて立ちん坊している様は奴
隷市を連想させただろう。
群衆の中に、ほかの連中より少しましな風采の、逞しい青年が一人混っていた。実際そ
の風采は目だって立派だったので、わきに立っていた赤ら顔の農夫たちなども、何かをき
くときには、まるで農場主にでも口をきくように丁寧に話しかけていたし、言葉の終わり
には、きまって、「はい、旦那」といっていたくらいだった。彼の答えは型で押したように
――
「口を探してるんです。――地主代理の口をね。誰か心あたりはありませんかね?」だ
った。
その朝、騎兵の一個連隊が町を発った。そして、軍曹が一人、兵士の一隊を引きつれて
新兵募集のために太鼓をたたいて四つの大通りを触れてまわった。そろそろ日も暮れかけ
てきたのに、いまだに勤め口にもありつけないゲイブリエルは、いっそ軍隊に入って国家
にご奉公すればよかったなあ、と思ったほどだった94。彼は、いつまでも市場に立ちんぼし
ているのがいやになり、どんな仕事でもまあいいだろうという気持になって、地主代理と
はちがった口を見つけようと決心した。
羊飼いなら、農場主の間で引っばりだこのようだった。羊の世話は、ゲイブリエルの得
意中の得意である。彼は薄暗い大通りを折れて、もっと暗い小路へ入った。そして、とあ
る鍛冶屋の店先へ入った。
「牧杖を一本こさえてもらうのに何分ぐらいかかるかね?」
「二十分ですな」
「いくらほどでできるかね?」
「まあ二シリングてとこです」95
彼がベンチに腰かけているうちに牧杖ができ上がった。柄はサービスしてくれた。
それから、彼は既製服星へいった。そこのおやじというのは、田舎に大きなとくいを持
っているのだった。牧杖を誂えるのになけなしの財布の底をはたいてしまったのて、今着
ている外套を、羊飼い用の正式の上っぱりと交換してもらおうと、おやじにかけ合ってみ
たらきいてくれた。
取引きがすむと、彼はまた町の中心へ引っ返した。そして、羊飼いらしく手に牧杖を握
って舗道のへり石の上に立った。
羊飼いになってみると、今度は地主代理の口がいちばんありそうな気がした。けれども
二、三人の農場主が、彼の姿をみかけてそばへ近づいて来た。そして、ついでにちょっと
きいてみるのだかといったふうな、こんな言葉のやりとりがあった。
「おめえさん、どこから来なさっただね?」
「ノークームからです」
「そりゃあまた、えらく遠いところからこさらしたのう」
94
95
ナポレオン戦争や、18 世紀第2四半期の労働集約的な戦争の時期、結婚ではなく徴兵で奉公
を辞めるのは普通のことだったに違いない(Kussmaul [17] pp.92) ジョセフ・メイヨーもナ
ポレオン戦争と 1812 年のアイルランド戦で海を渡っている。
当時1週間の生活費=1シリングが社会通念であった。
「十五マイルくらいですかね」96
「今まで誰の農場にいなさったたな?」97
「自分の農場にいました」
この返事は、相変わらず、まるでコレラの噂ほどの利きめがあった。言葉をかけた農場
主は、ぎょっとしてじりじり後じさりすると、怪しいなといわないばかりに首を振った。
:
(中略)
:
日が暮れてきた。穀物取引場のわきでは、いいご機嫌の連中が四、五人で、口笛を吹いた
り歌を歌ったりしていた98。しばらくすることもなくて、上っぱりのポケットの中に入って
いた手か、たまたま、肌身はなさず持っていたフルートにさわった。今まで、骨身をそぐ
ような思いをしながら精進を重ねてきた腕前をみせる、またとない好機である。
彼は愛用のフルートを引っばり出すと、悲しみなんかどこ吹く風て、「市にでかけるばく
ろうどん」(急速なモリス・ダンス曲99の一。第四組曲の二番目に当たる)の調べを吹き始め
た。
:
(中略)
:
元気よくフルートを吹きつづけたおかげて、彼は、三十分もたつと、一ペンス、二ペンス
のばら銭ではあるが、失業者としてはひと財産に当たるほどの額をもうけることができた。
きいてみると、あすショッツフォードでもまた市が立つという。
「ショッツフォードってのは、だいぶ遠いんですか?」
「ウェザべリイの十マイルばかし先ですじゃ」
:
96
97
98
99
約 25km 移動する奉公人は表 3.20 から判るように全体の2割しかいない。
零落と失恋という、
主人公ゲイブリエルの傷心ゆえであろう。
農業家達は横の繋がりを有していた。これは文中のような身上調査に留まらず、教区利己主
義を強化する上でも極めて効果的であった(Snell [op. cit.] pp.93)
雇用市は奉公人が現金を持つ数少ない機会の1つである(今一つは奉公終了時。奉公人の衣食
住は雇用主に依存するので、現金の持ち合わせは不要である) こうした現金が工業財購入に
充当されることこそヘイナルの命題の示唆なのだが、呑んでしまったらしい。それを可能に
したのは 17 世紀後半に生じた食料事情の好転である。この時期はジンとビールを中心とする
アルコール飲料の急速な普及期である(川北 [48] pp.91) また食生活と料理方法の劇的な
変化も見られる(ローダン [21]) スパイシーな煮込料理(コズマン [8])は素材の持ち味を
活かした料理(例えばサラダ)に席を譲る。その背景には健康観の一大転換がある。錬金術思
想がヒポクラテス以来の体液論に取って代わったのである。
モリスダンス morris dance:古い英国の男子の仮装舞踏の一種。くるぶし飾りや腕輪などに
付けた鈴で音楽に合わせて拍子を取り、ロビン・フッドなど民話の人物に扮した。主にメー
デーの催し物。対になる女性を五月姫(メイド・マリアン Maid Marian=ロビン・フッドの恋
人である修道女マリアン)と言う。
(中略)
:
ウェザベリイ!
それは、バスシーバが、二か月まえに引越していったところである100。
この話をきいて、オークは、突然、闇夜から真昼のもとへでて来たような気がした。
「ウェザベリイまでどのくらいの道のりですかね?」
「五、六マイルですな」
有産者の利害剥き出しの批判にもかかわらず、雇用市は 19~20 世紀まで残存した。ただ
経済の中心地で昔ながらの雇用市が開催されることはもはやなくなり、辺境へ追いやられ
たことも事実である101。
4-4-5.奉公の終了
奉公人は6年程で奉公を辞める102。ただし4分の1は 10 年、11%は少なくとも 14 年奉公
を続けている。奉公の開始は斉一的だから、奉公を辞める時期が違いを決める。
農業奉公を辞めることは、職業、配偶関係、移動から定住、という3つの変化を意味す
る。ここではまず職業の変化から見ることにする。
結婚後も奉公を続ける者はほとんどいない。奉公人は結婚とともに職業を変える(Ⅲ-2
(1)農業奉公の原則 1.) 大部分は日雇いの農業労働者になるが、農業家や小屋住農もいる
し、徒弟奉公を始める者もいる。小売商人になったり都市へ移住したり、民兵に就く者も
ある。
しかし簡単に言えば、農業奉公人の進路は労働者か農業家に分かれる103。
小農地や共有地が入手可能なイングランド北部の開放村落では農業家、小屋住農が有力
な進路である。自分の土地を手に入れて独立できるからである。アーサー・ヤングは 12 エ
ーカーの牧草地を持つ標準的な農業家の初年度経費を 65 ポンドと試算している104。
表 3.21 は奉公人の貯蓄可能額を推計したものである。勤勉な若者なら奉公中に 20~30
ポンド貯金できるので、最低 10 年奉公すれば恋人の貯蓄と合算で土地を獲得できる。その
ため若者は、十分な貯蓄ができ独立する見込みがつくまで奉公を続ける。
100
101
102
103
104
バスシーバはゲイブリエルの片思いの女地主。
川北 [49] pp.89
ラスレット [19] pp.22 数字は中位値。
Kussmaul [17] pp.79
ibid. pp.84
表3.21 男女の総貯蓄推計(単位£)
奉公期間(年)
2
平均賃金の累積値
男性
女性
12.5
5.5
男女の総貯蓄額
賃金の2分の1を貯蓄 賃金の3分の2を貯蓄
9
12
4
25.1
11
18.1
24.1
6
37.6
16.6
27.1
36.1
8
50.2
22.1
36.2
48.2
10
62.7
27.6
45.2
60.2
出典:Kussmaul [17] pp.82
しかし勤勉な若者がこぞって農業家になったわけではない。当時の知識人は小規模な農
業家が悲惨な境遇にあると記している105。小農地で収益を上げるのは容易ではなかったので
ある。そのため賢明な若者は貧しい農業家より富裕な小屋住農を選択した。これは開放村
落で最も希望ある選択肢と思われる。逆に開放村落で日雇い労働者になると、落伍者の烙
印を押された。
農村工業に従事する者も多かったはずである。しかし兼業が一般的だったため、職業統
計から比率を出すのは難しい106。
大経営が普及したイングランド南部では事情が異なる。小農地や共有地が稀で農村工業
もなければ、奉公を辞めた後は日雇い労働者以外にない。日雇い労働者が自分で土地を買
える見込みは極めて小さい。加えて大規模穀作農家が季節労働者を偏重し農業奉公人を削
減するとなれば、多くの若者は貯蓄の機会すら奪われる。奉公は貯蓄の好機と考えられて
いたが、閉鎖村落は奉公を続ける誘因に乏しいのである。そこで若者達は新しい住居や将
来の収入の見込みがたつと速やかに奉公を辞めて独立する107。
独立の望みすらない一部の奉公人は下宿人になった。実家に間借りする者もいる。
結論として奉公を辞める動機は大きく二分できる。開放村落なら十分な貯蓄に依存、閉
鎖村落なら住宅供給と就業機会に依存する。
奉公を辞める時期は結婚年齢に影響する。開放村落では貯蓄ができるまで奉公を続ける
ので、結婚年齢が上昇する。しかし土地が手に入らないと了解済みならば、結婚を延期す
る理由はない。
上述では奉公を辞める動機と奉公後の職業の関連を見た。ただ奉公を終了する経済的理
由は存在しない。それは大半の農業奉公人が結婚後日雇い労働者になるからである。奉公
を続ける間は雇用主が衣食住全て面倒を見てくれるので飢餓や貧困に陥る心配はない(原
則 3.) それどころか 18 世紀後半~19 世紀初頭のイングランド南部の奉公人はかなり肉を
105
106
107
ibid. pp.81
Ⅳ-2参照。
ibid. pp.83-84
食べていたし、小農場で働く奉公人は雇用主と同じ食事を摂っていた108。それが奉公を辞め
結婚した途端貧窮の危機に直面する。日雇い労働者にとって季節的失業は当然で、貨幣賃
金を受け取るので物価変動に弱い109。積極的に独立する理由はなかったのである。
蓋然性があるのは、男も女も妊娠を機に仕方なく奉公を辞めるという見方である。ヒュ
ームは 1752 年「全ての主人は男性の奉公人の結婚を妨げ、女性の奉公人の結婚も何とか認
めないようにした。結婚した場合、奉公人は明らかに不適格と判断された」と書いている110。
配偶関係の変化は奉公を終了させる主要な原因だったのである。
教区簿冊時代のイングランドの特徴に、非嫡出児出生率と結婚年齢の逆相関がある111。結
婚年齢が下がると非嫡出児出生率が上昇するのである。これは私生児の増加を結婚の抑制
と関連づける単純な見解とは相容れない事実である。そこでラスレットは「求婚欲求度仮
説」を提案した112。
1.
適齢期の未婚者全てが配偶者探しに忙しかったわけではない
2.
求婚は「一緒になって子供を産む見込み」のある年齢までなされない
3.
求婚年齢はとりわけ経済展望に依存する
4.
求婚への熱意の高まりは婚前妊娠と私生児出産を刺激する
5.
奉公人は時宜に適った時にしか求婚できない
求婚欲求度仮説の
結果は婚前妊娠と非
表3.22 婚外妊娠の問題(17世紀)
嫡出児の出産である。
ランカシャ
私生児の母親に占める
奉公人の割合
24
エセックス
61
表 3.22 を見ると、婚
私生児の父親が母親
と同じ家にいる割合
24
前交渉は結婚を前提
に行なわれていたよ
52
出所:Kussmaul [17] pp.44から編集
うに思われる113。私生
108
109
ibid. pp.40-41
ibid. pp.80
110
111
112
113
Hajnal [13] pp.95
Poos, Razi & Smith [30] pp.322
ラスレット [前掲書] pp.239-240
ウェールズには恋人達が着衣のまま同衾する慣習さえあった(バンドリング) 法学者アナス
ターズ・ジェルモニオ大司教の報告(1608 年フランス サヴォワ地方)――土曜や祭日に、若
い農夫が適齢期の娘たちと夜遅くまで共に過ごすという習慣があり、彼らは娘たちに、家が
遠いからという理由で一晩の宿を提供し、ベッドを共にするよう要求していた。これは通俗
的には「宿借りをする」と称されていた。親の反対がない限り、そして若者が貞潔を奪わな
いと約束すれば、娘たちは自分の床を貸すのを拒んだりしなかった。2人だけで同じ床に入
り、娘は夢中で男の誠実さというものに身を委ねたのだった。シャツは着ていた。だが、こ
の障害物の効果はさほどあてにならず、欲望を前に滑稽な約束は破られた(フランドラン
[11] pp.159) 結婚を約束したのに捨てられる女も多い(渡会 [77] pp.148-150) 一方奉公
児の母親の4分の1は子供の父親と婚約していた114。彼らが結婚に踏み切れないのは周囲の
状況に阻まれたからにすぎない。初産が私生児である比率と婚前妊娠率を合わせると、下
限で 10%、上限 50~55%、平均 20~40%に達するのはこうした事情からである。
我々は奉公の終了を延期させる要因――十分な貯蓄、または住宅供給と就業機会――と、
奉公の終了を促進する要因――求婚欲求度――を見た。最後に頻繁な移動から定住への変
化に触れておく。
農業奉公人の頻繁な移動は社会を不安定にしなかった。他の臨時契約と異なり奉公人だ
けが共同体との直接的紐帯を欠いていた。にもかかわらず共同体が奉公人を認めたのは、
若者が腰を落ち着けなければ便利な労働力として使えることに気付いたからである。
翻って若者が結婚により共同体の正式な成員になると頻繁な移動はできなくなる。男性
も女性も奉公を辞めると「あらゆる種類の手荷物ができるので引っ越しは至難を極める」
のである115。
4-4-6.低圧人口と予防的制限
114
115
人から生まれた私生児の半分は雇用主の子供で、もう半分は雇用主の息子の子供だという研
究がある(Kussmaul [op. cit.] pp.44)
ibid. pp.44
ibid. pp.66-67
4-1.で我々は、世界のほとんどの地域で平均結婚年齢が男性 26 歳以下、女性 21 歳以下
である一方、1930 年代までヨーロッパ北西部の平均結婚年齢は男性 26 歳以上、女性 23 歳
以上であることを見てきた。また生涯未婚率も、ヨーロッパ北西部は世界のどこよりも著
しく高かった。こうした「ヨーロッパ的結婚パターン」は 16 世紀に初めて生じたものであ
る116。なぜなら西欧は古代、中世を通じて早婚傾向にあり、生涯独身でいる者もごく少数だ
ったからである。近世に入ると、生涯独身でいる女性が目立って増加した。女性の結婚年
齢が男性より低いと女性の相対的過剰が生じるが117、西欧にはそれを打ち消す制度や慣習が
なかったためである118。晩婚と結婚可能な女性の余剰のため、ヨーロッパ北西部では出生率
が低下した。しかし同時に「長い 17 世紀」には死亡率も低下したので119、図 3.8 のように
人口は均衡した。
図3.8 イングランドの年平均人口成長率(1541~1871年)
出典:斎藤 [78] pp.144
ヨーロッパ的結婚パターンは単純世帯制度という枠組の重要な構成要素である。ヨーロ
116
117
118
119
ヘイナルはヨーロッパ的結婚パターンの起源を 1400 年か少し以前と考えていた節もある
(Hajnal [12] pp.117 脚註 28, pp.125) この着想はカスモールが農業奉公人制度の起源を中
世末と仮定したことからも支持される(Kussmaul [17] Appendix 3)
男性は女性より長く結婚を待機しなければならない。その間の男性死亡数が女性の余剰を発
生させる。高死亡率人口集団では、平均結婚年齢まで生き残るのも難しいし、年齢差のため
待機すればさらに死亡の危険に曝される。この結果性比が攪乱される。
女性の余剰は連続的複婚によって吸収された。これは一人の女性が結婚、離婚(死別)を繰り
返しながら複数の結婚を経験する状態を言う。特に重要なのは、寡婦が年下の未婚男性と結
婚する場合である。
安元 [74] pp.22
ッパ北西部は近世以来単純世帯が支配的であった。単純世帯の形成は新居制に従う120。「新
婚夫婦は両親から独立しなければならない」という不文律のため、多くの若者は奉公人と
して見知らぬ世帯に雇われていった。若者達は貯蓄、土地、家畜といった独立の経済的裏
付けを得るまで住み込みで働き続ける。奉公を続ける限り結婚できないので晩婚構造が生
じる。しかし「ライフサイクル奉公人制度」は柔軟性に富んでおり、経済見通しが好転す
れば奉公を打ち切って結婚することもできた。
工業化で先行したのは単純世帯地域
図3.9 出生力、死亡率と実質賃金の関係
である。これは前工業化期の人口均衡が、
人口増加率より経済成長率の高い状態
を作り出したからである121。図 3.9 はそ
の概念図である。
非ヨーロッパ的結婚パターンの地域、
すなわち結合世帯地域は出生力の絶対
水準が高いため、直線F1 で表現される。
人口の均衡点はF1 と死亡率曲線の交わ
る点である。資源の状態は実質賃金曲線
上の点P1 で表わされる。これに対しヨ
ーロッパ的結婚パターンの地域、すなわ
ち単純世帯地域は晩婚で出生力がやや
低くなるため直線F2 で表わされる。人
口の均衡点は、同様にF2 が死亡率曲線
と交わる点で、資源水準はP2 である。
これはヨーロッパ北西部がその他の地
出典:安元 [74] pp.53
域より資源と生活水準で優っていたこ
とを意味する。さらにライフサイクル奉公人制度のような人口圧力に応じて出生力を調整
する慣習を想定するなら出生力曲線はF2 からF2a へ移行する。これにより人口は一層高い
資源水準P2a を実現できる。
18 世紀ヨーロッパの著作家は、それほど金持ちでないヨーロッパ人でさえ世界のどこよ
りも豊かな生活水準を享受していると信じていた。生活水準の底上げは、農業奉公人制度
によるところが大きいであろう。人生の最も生産力の高い時期を扶養家族なしに過ごし、
収入を貯蓄に回すからである。彼らは結婚後、このちょっとした財産を元手に様々な工業
財を購入する。そこから生じる需要は、一握りの富裕層の奢侈品需要よりはるかに裾野の
120
121
ラスレット [19] pp.135
川北 [48] pp.21, 120 川北は明言しないものの、人口増加率<経済成長率を低開発経済の
富裕増大の絶対条件としている。
広い市場を作り出す122。
そのためここで言う経済成長とは、農村のそれである。安元は「プッシュ=プル理論」
の前提として、
農民は慣習的に農村を好む
経済的選好にもとづき都市へ移民する
……としている123。我々は当時の都市が「人口墓場」と呼ばれる劣悪な衛生水準、生活状
態にあったことを想起しなければならない。プロト工業化と都市化との関連については、
ド・フリーズが、プロト工業化期には大都市の人口は増加したが、一般的には都市化の退
行 de-urbanization の時代であったことを明らかにしており、広く受け入れられている124。農
業への軽蔑や都会への憧憬といった心性が一般化するのはようやく 19 世紀に入ってなので
ある125。それまでは、いかに重商主義ロンドンが貨幣資産を蓄積しようと、それが貧民に食
い潰されることはなかった。「年々の生産物」が増大したのは、後背地としての農村である
126
。
4-4-7.家族ライフサイクルと奉公人
我々は既に個人のライフサイクルと奉公の関係を見てきた。しかしライフサイクルは家
族にも存在する。この「家族ライフサイクル」こそがライフサイクル奉公人制度を継続さ
せる最大の動機であった127。
核家族の典型的な家族ライフサイクルは次のように表わされる。
第1局面:新たに独立した夫婦家族が設立される。夫婦の労働のみで土地集積がなされる
第2局面:子供の出産で始まる。幼い子供の扶養負担で家族は経済的に後退する
第3局面:子供が大きくなり所得に貢献するようになるので、家族の生産力は極大化する
第4局面:子供が結婚し独立するので親家族の生産力は再び後退する。
122
123
124
125
126
127
Hajnal [op. cit.] pp.131-132, サースク [41] pp.137
安元 [73] pp.292 この心性は理論上の提言に留まる。
酒田 [57] pp.83
Snell [38] pp.69, Hugett [15] pp.46 農業は「女らしくない」「汚くて粗雑」な職業と見
なされるようになったのである。そして以前なら農業奉公に従事していた未婚女性は、こぞ
って都市の女中奉公人に就業した(Devine [9] pp.119)
無論、貧農の存在を否定するものではない。しかし富農-貧農の二極分解が起こったわけで
もない。
Kussmaul [17] pp.24-27
子供の結婚に際し土地が分与される場合、経済力の低下は顕著である。家族ライフサイ
クルはこれで一巡する。子供家族は新たに第1局面へ入る128。
家族ライフサイクルは奉公人の需要と供給を支配する要因であった。ここではまず需要
から検討する。
労働の観点で見た単純世帯の最大の問題点は、家族ライフサイクルの第2局面にある。
ここで家族は労働力不足に陥り農業経営に支障をきたすからである129。
家族ライフサイクルから生じる労働需給の周期的不均衡を解決する方法は世帯形成シス
テムによって異なる。結合世帯地域では水平的拡大家族が有効である。複数夫婦が1つの
世帯を作ることで、互いの循環的変化を打ち消しあうのである。
X'世帯 ――<結婚>─→
Y'世帯130
例えばある夫婦の子供がまだ幼くて所得に貢献しなくても、別の夫婦の子供は既に世帯
の生産に貢献しているだろう。しかし保有地規模が経済的余裕に依存する場合131、世帯規模
と各家族に割り当てられた保有地規模が長期的に不均衡に陥る可能性がある。
この不均衡を解消する方法は分益小作制度、小農家族経済、土地市場に分類される132。家
族の労働力に合わせ保有地規模が弾力的に変更できるなら、保有地規模一定の場合よりも
生産性が高い。けれども家族労働力のみに依存するので労働力調達に失敗すると経済的損
失が生じる。ロシアの小農家族経済では飢饉などで世帯内労働力に大きな損失が生じると
階層分化にいたる傾向がある133。
しかし労働力を家族外から随時調達できればその懸念もなくなる。ライフサイクル奉公
人制度は、世帯規模を伸縮させることで家族ライフサイクルの循環的変化に対抗する手法
なのである。
X世帯 ――<奉公人>─→ Y世帯134
その意味で事後的な家族計画と言える。高死亡率状況下では将来の死亡予測にもとづく
家族計画などほとんど無意味だが、奉公人という形で世帯規模を変更すれば適正経営規模
を実現できる。特に農業家にとっては労働編成を操作できる利点が得られる135。従って、原
128
129
130
131
132
133
134
135
ケージー [7] pp.130
Hajnal [13] pp.98
ibid. pp.84
マクファーレン [23] pp.150
若い夫婦が家族ライフサイクルの第3局面で信用取引できる場合のみ該当。
友部 [63] pp.181
Hajnal [op. cit.] pp.84
労働の統制に注目する意見も多い。奉公人は自分の子供より訓練が楽だというのである。
則としてライフサイクル奉公人は家族ライフサイクルの第3局面で生じる余剰家族人員が
第2局面の家族へ労働移動するものと把握される136。
ただしライフサイクル奉公人制度には必須条件がある。貨幣や日用品市場がないと賃金
労働者として雇用される意味がないので、いかなる賃金労働者も存在しえない。また保有
地規模に著しい格差がある場合も制度が成り立たない。これはおびただしい数の貧農家族
が奉公人を供給しても富裕農の用意できる宿舎に限度があるからである。ライフサイクル
奉公人制度が栄えるのは小農場と中規模農場が混在する地域である137。
奉公人を供給する世帯は全世帯の3分の1~4分の1程度らしい138。これは家族ライフサ
イクルの過程で余剰家族人員が生じた世帯である。ただ余剰人員の定義は世帯の経済的立
場ごとに違う。貧民にとって小さな子供の扶養負担は耐えがたいものだったので、家で働
かせるか、よそへ出してしまうしかない。前者は農村工業に組み込まれた家族経済に典型
的で139、後者はライフサイクル奉公人の供給動機に他ならない。人々は誰か他人の支出で子
供を養ってもらう機会を歓迎し、ライフサイクル奉公を「貧民の子供の避難場所」と捉え
ていた。図 3.10 を見ると労働者の子供が家に残る比率は、農業家の子供より急激に減少す
ることが判る140。
図3.10 若年人口の年齢別累積比率
出典:Kussmaul [17] pp.77
136
137
138
139
140
ただし農業家は超過労働力が必要な時でも子供を奉公に出した。奉公人を得られる保証がな
いのにである。奉公人が利用できなければ孤児を世帯に組み込んだらしい。もっともライフ
サイクルとの整合上、子供の売買や養子縁組は好ましくなかった。
Kussmaul [op. cit.] pp.23
ラスレット [19] pp.24
Levine [22] pp.113
Kussmaul [op. cit.] pp.76-78
だからといってマクファーレンのように、富裕層が貧民の子供を使うというのは適切で
はない。全ての奉公人が貧しい労働者の子供というわけではないし、奉公を辞めたら労働
者になると決まったわけでもないからである。小屋住農が荒蕪地を名目に子供を家に留め、
奉公人を求める農業家と争った事例もある141。
ライフサイクル奉公人制度は単なる賃金労働者の移動と異なり、核家族の家族ライフサ
イクルの下でしか繁栄しないのである。
141
ibid. pp.22