ワシントン州シアトル市における航空機産業の 現状

日本大学文理学部自然科学研究所研究紀要
No.39(2004)pp.33 - 48
ワシントン州シアトル市における航空機産業の
現状と問題点について
永 野 征 男
Boeing and the Politics of Growth in the Northwest, United State
Yukio NAGANO
(Received November 1, 2003)
At first glance, it might seem like a remarkable thing that the world’s largest company town was treating
its prime employer poorly. Certainly no existing political theory on the left or the right would predict that
such a thing would happen, and political practice usually dictates against making things hard for big employers.
The Seattle area had grown a lot in the fifty years Boeing had been part of the landscape, both by design
and by accident. Indeed, the region, like most others in the United States, had spent a lot of time, money, and
energy trying to grow, trying to diversify and expand its economy as well as trying to help Boeing succeed.
But the antigrowth coalition, typically a coalition of middle and upper class interests whose livelihoods do
not appear to depend on more growth, can succeed at changing the game to make growth more difficult. Washington State-prodded by antigrowth forces-jumped into the fray, legislating a Growth Management Act to try
to control growth. This came at a time when communities around the country were mortgaging their souls to
get factories to locate nearby.
Keywords:Aircraft Industry, Boeing, Seattle
模のレイオフによっては,さらに増えるといわれて
はじめに
いる。
アメリカ連邦政府は,2001 年 9 月のテロ以降,国
たとえば,シアトル大都市圏内の失業保険加入率
民の個人消費は落ち込むと考えていた。しかし,
は,前年比で 77.6%増の 4.8 万件という高い値であ
2003 年になると急速ともいえる経済回復がみられ,
り,オフィスの空室率は 6.8%増の 13.8%を示した。
GDP では大幅なプラス成長となった。
ちなみに,州内の巨大企業の売上高(2002 年)の比
その一方で,合衆国北西部に位置するワシントン
較では,第1位のボーイング社は 582 億ドル,2 位
州は,全米の動きとは異なり,景気の後退が深刻化
はマイクロソフト社の 77.4 億ドル(この中には訴訟
している。2003 年の失業率は 7%の大台にのぼり,
費用の 6.6 億ドルを含む)
,つづいて開業 6 年目のア
南に隣接するオレゴン州に次いでワースト 2 位であ
マゾンドットコム社の 11.2 億ドルである。わが国で
る。この数字は,これから予想される,州内の最大
有名なシアトルを本社とするスターバックス社は,
企業である航空機産業ボーイング社の 2 ~ 3 万人規
前年比で 40%増の 6,840 万ドルであった。
日本大学文理学部地理学教室 :
〒 156-8550 東京都世田谷区桜上水 3-25-40
Department of Geography, College of Humanities and Sciences,
Nihon University: 3-25-40 Sakurajosui Setagaya-ku, Tokyo,
156-8550 Japan
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なかでも,世界的な巨大企業ボーイング社の存在
校(G. C. Wwestervelt)と機械エンジニアで操縦士
は,シアトルのこれまでの発展を支え,企業城下町
(H. Munter)の 3 名で,初の航空機製造会社 Pacific
の呼称にふさわしい都市化を呈してきた。しかし,
Airo Co., を創設した。
近年の航空機産業そのものの低迷に拍車をかけるよ
この場所で生産された水上飛行艇(S&W)は,海
うな,ニューヨークでのテロ発生からイラク戦争ま
軍に販売することを考えていた。この飛行艇は先
での出来事は,この国の主力製造業の混迷をいっそ
のマーチン型に類似していたが,フロートの部分
う強めている。2000 年におけるボーイングの本社機
が軽く外見的に翼部分が豪華であった。彼の仕事
能のシカゴ移転にはじまり,今日の従業員の大量解
としては,製造技術よりも飛行機を造る必要性を
雇問題は,ボーイング社の工場が分散立地している
アピールすることに専念した。具体的には,国家
ピュージェット湾岸地域に暗い影を投げている。
防衛にとって軍用機の重要性を訴えつづけた。こ
本稿では,企業城下町の成立要因の分析,そして
第二次大戦後の航空機産業の動向をふまえて,この
一大企業の地域における展開過程と,テロ以降の混
のことは,第一次世界大戦時に現実のことになっ
た。
1918 年には,社名を Boeing Airplain Co., に変更し,
海軍からの発注を受けた。翌 1919 年に,支社をワ
迷の状況を解明したい。
シントン DC にも開設している。
1 シアトルにおける航空機産業の拡大過程
Boeing の起業したシアトルという地域は,1815 年
合衆国における航空機産業の立地は,カリフォル
の東部からの白人移住が最初である。移住者の多
ニア州のロサンゼルス周辺地域に代表されるよう
くは農業開拓というよりも,商業を起こすために
な,戦闘機の量産や宇宙開発などに関連して,米軍
定住した。それは,この町が他の都市から孤立し
との関係がもっとも大きい。その点,シアトルへの
ていたため,貿易による発展以外は考えられなかっ
立地時期の早さや要因は特徴を有している。そこ
た。温暖な気候と豊富な魚介類を中心に発展した
で,以下のように企業の展開過程を4期に分けて検
シアトルは,1890 年代に世界でもっとも急速に発展
討したい。
した都市社会であった。
1-1 航空機産業の萌芽期
Boeing の企業が成功した要因としては,立地要
は じ め に シ ア ト ル へ 会 社 設 立 を 考 え た William
因に強く影響する何かがあったということよりも,
Boeing は,1881 年にデトロイトに生まれた。父親の
むしろ何が近かったかという点にある。ワシント
Bill Boeing は,木材関係の仕事をしていたが,彼が
ン州で最初の経済の黄金期は,1897 年のアラスカに
8 歳のときに死別している。イエール大学の機械工
おけるゴールドラッシュとの関係が深い。シアト
学科を終了した W. Boeing は,すでに父親が取得し
ルの人口は,1870 年の 1,000 人から 1890 年には 4.2
ていたワシントン州 Aberdeen に移住し,28 歳から
万人となり,1910 年には 23.7 万人と急増した。シア
木材業を始めた。
トルはアラスカへの鉱山労働者の供給地として,政
この頃から飛行機に対する強い関心をもち,1910
府は金鉱の発見者に対し,シアトルにある政府機
年のロサンゼルスで行われた航空ショウーでは,フ
関への登録を義務づけるなど,合衆国北西部のシ
ランス人の飛行機に搭乗している。シアトルへ帰京
アトルの発展は目ざましかった。
(図 1)
した後も,彼の飛行機への夢は衰えず,周囲の人た
1-2 第一次世界大戦後の混迷期
ちからは嘲笑されることもあった。
この時期は,全世界の航空機メーカーが注文量
1914 年には,T. Marney がマーチン型の水上飛行
の減少により低迷した。そのような中でボーイン
艇でシアトルを訪れた際に搭乗している。当初は,
グ社が倒産を免れたのは,広大な土地資産を所有
彼自身が操縦することを考えていたようだが,しだ
していたこと,飛行機以外にも家具やボートの製
いに航空機の製造に興味を持ちはじめた。そして,
造を手がけていたためである。このことは,Boeing
1916 年 に シ ア ト ル 港 へ 南 部 か ら 流 入 す る 大 河 川
自身が空を飛ぶ夢を単に追いつづけていただけで
Duwamish 川の堤防上の旧造船所を改築し,海軍将
はなく,企業家としてのビジネスに対する洞察力
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ワシントン州シアトル市における航空機産業の現状と問題点について
を有していた証しとなる。
また,シアトルという土地は,飛行機製造の材料
となる木材が豊富であったこと,工業用電力の供給
が充分であったこと,さらに地元のワシントン大学
で高度な技術者の養成ができたこと,人口規模から
くる労働力供給の安易さや,工場までの河川交通が
エンジンなどの部品の搬送に有利であったことも大
きい。
この頃のボーイング社に関して特記できること
は,機体の全ての部分に金属を使うことに成功して
いる。その結果,大型の爆撃機や国際郵便専用機,
商業用ジェット機の開発を可能にした。労働力の面
では,アジア系アメリカ人や,白人女性を労働者と
して雇用した。そして,1928 年には株式の公開に踏
み切り,翌年には関連企業を合併して United Air
Craft
&
Transpotain に改名した。当時の 247 型機は,
世界中の商業用旅客機のモデルとなった。
しかし,この時期には二つの問題が生じた。一つ
は United 航空に対して 247 型機の導入を強要したこ
とで,反発した他の航空会社が,後発のダグラス社
の DC-3 型を導入した。機能面では後者の方が優れ
ていたことから,ボーイングの次期主力機(737 型)
が市場に出るまでの間に,DC-3 は 3,000 機の受注が
あった。第二は,1934年に合衆国で「U.S. Airmail法」
が発効され,単独企業からの飛行機の買い上げや郵
送業務が禁止された。したがって,ボーイング社は
この分野で撤退することになった。
1-3 第二次大戦後の再興隆期
戦時下にボーイング社へは数千機の戦闘機の発注
があった。そのために工場は 80 万から 4,100 万平方
フィートに拡張された。従業員は 1940 年の 7,500 人
図 1 シアトル市周辺図
から,1943 年には 32,000 人に増加し,工場のあるレ
ントン市の人口は 3 倍になった。
に郡人口は,1940 年の 50.4 万人から 1950 年には 73.2
ボーイング社は 1944 年までに 5 万人を雇用し,6 億
万人に増大していた。この急増は,当然のように戦
ドルの売り上げとなった。これは 1939 年のシアト
後における住宅不足や犯罪の増加,公衆衛生上の問
ル内の全工場での売上高の 10 倍に相当する。この
題を引き起こした。1945 年には若い弁護士であった
時点までに,工場は Aberdean, Bellingham, Hoguiam,
William Allen が社長に就任した。終戦後は同社の売
Everett, Chehalis, Tacoma, に建設され,関連する下
り上げも下落し,従業員数が 1.1 万人まで下がった。
請工場は 67 社であった。
政府や市当局も援助はしたものの,低迷がつづき一
同社がシアトル全域に大きな影響力を持ち始めた
時従業者は 9,000 人,レントン工場も閉鎖された。
ことは,シアトルを含む King 郡内で 6 人に 1 人が同
その中で空軍による資金供与は,大きな景気回復
社の従業員であったことからも推定できる。ちなみ
の要因となった。同社は軍関連の工場を Wichita へ
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移転した。これは軍の航空機関連産業が南に偏して
1982 年のような落ち込みは見られなかった。国家
いたこと,さらにはカリフォルニアの関連企業もし
全体が不況の中,同社は解雇の凍結や早期退職制度
だいに東海岸へ移行しつつあった。商業用ジェット
を打ち出し,解雇者の数を削減することに努めた。
機製造を主力にしてきたボーイング社は,朝鮮戦争
関連企業 10 社は,ハイテクやバイオ研究で南部の
と冷戦によって 1940 年代後半から 1950 年代にかけ
Auburn, Tukwila に工業団地に残存した。
て軍関係の受注が増えた。
なかでも爆撃機 B-47,B-52,KC135 を建造し,こ
れが後の 707 型の成功に連がった。大型の 707 型は,
2 ボーイング社と地元シアトル市との関係
ボーイング社の展開にとっては,シアトル市の地
合衆国にとっては期待される機種であったが,商業
域特性を無視することができない。まず,シアトル
用ジェット機のシェアを考えると大きな賭けでも
市を含むピュージェット湾岸地域は,全米でも第二
あった。しかし,他社が大型機生産を見合わせる中
次大戦後に急速な発展をとげた地域として位置づけ
で,このビジネスは大成功を納め,同社とシアトル
られている。地元経済の発展とともに,中産階級が
との関係も深くなった。その結果,同社はワシント
居住しはじめ,市街地の郊外部に住宅が建設され
ン大学へエンジニアの大学院開設を全面的に援助
た。ワシントン州民の気風としては,古いものを改
し,従業員の師弟はそこで専門的知識を学び,ボー
革することよりも,新たな習慣を作ることを好ん
イング社へ就職した。
だ。したがって,連邦政府の上意下達に対抗するよ
1-4 経済不況による低迷期
うな政治スタイルが定着した。その点では,州政府
1958 年,ボーイング社は 6 万人を雇用するまでに
の考え方を州民は受け入れてきた。
拡大し,Business Week 紙はシアトルを「企業城下
しかし,発展には常に問題を含んでいた。住宅の
町」と呼んだ。1959 年には社内から上院議員に当選
不足,犯罪の増加,公衆衛生問題,輸送システムの
した H. Jackson がいる。ボーイング社にとって 1960
ひずみ,教育施設の不足などがあった。これらの解
年代から 1970 年代にかけてはわずかな動きしかな
決のためには,シアトル大都市圏内で解決する手法
かった。超音速輸送機(SST)は,途中で政府資金
がとられてきた。
話が立ち消え,1969 年以降のレイオフが進んだ。
人口 50 万人のシアトル市は,州内で最大の都市
1969 年は 2.5 万人,70 年には 4.1 万人,71 年に 2.5
であるが,全国的にみたメトロポリスとしては小規
万人を数えた。70 年代を通して新規発注は 1 機もな
模である。大都市圏内には 250 万人が居住し,King
く,倒産寸前の状況であった。1968 年に社長は T.
郡だけでも州有権者の 30%が居住している。ちな
Wilson となり,不況の克服に向かって企業の多角化
みに州人口の三分の二は,カスケード山脈の西側に
を計った。具体的には,風車・水中翼船・高速輸送
居住し,北部の Bellingham と南部の Olympia との間
システム開発・タービンエンジンの分野に進出し
に二分の一が住んでいる。
た。しかし,これまでのラインと異なるこれら建造
1970 年代に L.H. Zieger や H.V. Dalen などの経済学
は良い結果には連がらなかった。変わったところで
者たちは,ワシントン州の経済は多様性に欠けると
は,1960 年以降,オレゴン州東部の広大な所有地を
指摘してきたが,その後の同州の経済動向に合致し
貸し出し,農業面での企業活動まで指向した。
なかった。航空機生産 ・ 農業 ・ 漁業 ・ 林業を中心と
レイオフとなった従業員の 15%が地域外へ去っ
するばかりでなく,ソフトウェア・バイオ ・ 貿易な
たが,それまでの航空機製造の財はシアトルに蓄積
ども重要な役割をもち,依然として農業面での発展
され,この地の経済の基盤となった。つまり,W.
は大きな力となった。
Gates の法律事務所の拡充が,息子 B. Gates を名門
シアトルにおける経済人たちは,この町が「西部
ハーバード大へ入れ,P. Allen とマイクロソフト社
のピッツバーグ」になることを夢見ていた。しかし,
をこの地に造ることと同じ論理である。
鉄鉱石の生産地や鉄鋼市場に近接しているわけでも
1990 年代に入るとボーイング社は約 3 万人をレイ
なく,単に地域経済の発展を目指していた。なかで
オフした。しかし,シアトル市の経済は 1969 年や
も州北西部の住民の中には,多業種の産業集積を期
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ワシントン州シアトル市における航空機産業の現状と問題点について
待する向きもあった。だが,必ずしも工業用地計画
タービンの売れ行きが回復の理由であって,商業用
や港湾施設の改良などの開発行為は好まなかった。
ジェット機が会社を左右するとは考えてもいなかっ
ワシントン州の 1960 年代以前の経済は,成長の
た。雇用面は,もともと航空業界の不安定要素に
局地にあった。1940 年代までは,ボーイング工場,
よって大きく動かされていた。軍事予算や宇宙プロ
Brementon の海軍施設,Richland の原子力開発があ
グラムの隆盛期には,この業界も活気づいた。1970
り,州中央部ではコロンビア盆地での河川やアルミ
年代の不況は,州議会も経済学者でも予測ができな
ニュウムのプロジェクトが,連邦政府支援のもとに
いほどであり,2010 年に向かってゆっくりと成長す
実施された。ちなみに,1910 年~ 40 年の州内の農
ると予測していた。
業人口は 47%あったものが,1951 年には 37%に減
1990 年 10 月にボーイング社は 777 型の新型ジェッ
少した。そして,ピュージェット湾岸地域の発展と
ト機の製造を発表した。かつてエバレットに広大な
ともに,1960 年から 70 年にかけて環境問題が取り
所 有 地 を 持 っ て い た が, す で に そ の 一 部 を フ レ
ざたされるようになった。
ディックソン社に売却済みであった。しかし,527
ワシントン州では,全米でもいち早く 1970 年代
エーカーの土地を新たに入手することができた。郊
初頭に環境保護をあつかう部門を設置し,1971 年に
外へ工場を建設することは,州環境委員会(GMA)
は「海岸線管理条例」を公布している。当時は,ボー
も歓迎し,計画は議会を問題なく通過した。もちろ
イング社も景気回復の兆しが見えつつあったが,湾
ん,委員会としては,都市成長の最前線をどこに設
岸地域の人口増加率 71%に対して,同社の雇用シェ
定するかを考えてきた。しかし,地元のエバレット
アは 70 年までの 10 年間に 36%から 21%に落ち込ん
市の反応は異なり,GMA の存在を知っている市民
だ。この時期の状況は,ボーイング社へさほどの影
は 27%のみであった。州政府が勝手に基準づくり
響を与えなかったと思われる。旅客機のシェアでは
をしてきた良い例である。
60%を占め,工場を分割することで不況を切り抜け
たことからも分る。
1990 年 12 月に州政府は,これまでの GMA 決定事
項を強化したガイドライン(環境上重要な土地に対
実際は,1983 年の景気回復まで失業率は高かっ
する保護策,空地計画,土地利用計画)を発表した。
た。この時期は,軍事費の削減と重なったことから,
これにはボーイング社も反対の姿勢を示した。1991
これが不況要素と思われたが,実は商業用ジェット
年,同社は受注の減少とともに,従業員の新規雇用
機の低迷が原因であった。かつて,1968 年には 328
を中止し,航空業界では初めてのレイオフを実施し
機(26 億ドル)の受注があったが,翌年は 164 機に
た。当時は世界的な不況に対応して,航空各社は運
落ち込んだ。その後,1980 年・ 90 年と売り上げは伸
賃の引き下げ競争に入り,採算を無視した価格競争
びた。当時の同社の首脳部は,輸送システムと風力
に突入した。受注の航空機の中には,発注延期の申
し出もあり,同社は規模縮小を余儀な
くされた。1990 年の従業員数 10.4 万人
をピークとして減少し,1993 年には 1
万人の解雇をおこない,ジェット機の
生産を中止するとまで発表した。これ
により,州財政は 3.2 億万ドルの減収
となった。
このように,ボーイング社がレント
ンやエバレットに工場を増築しようと
考えても,法的規制は年ごとに厳しさ
を増した。同社の経営陣は,何回とな
く州議会に対して意見を述べてきた。
図 2 1990年以降におけるボーイング社の航空機生産実態
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それは企業規模の大きさに関係く,一
( 37 )
永 野 征 男
律の規制が課せられることを非難してきた。このあ
討されたこともある。翌年には,当時の州知事 B.
たりも,後述するシカゴへの本社機能移転に結びつ
Gardner の政治力の非力によって改正案が通過しな
く理由であろう。
かった。その後,州選出の下院議員 A. Wang からの
また同社は,地元シアトル市にとって最大の慈善
事業支援団体であった。1994 年には 2.7 億ドルが寄
付され,平均しても年間に 6,000 万ドルが,市当局
提案(航空機の部品に Sales Tax〈5.24 億ドル〉)が出
されたものの不成功に終わっている。
ボーイング社は,これまでも政治献金をしてこ
なかったわけではない。1960 年代から 1980 年代に
や教育関連,文化団体に贈られた。
ボーイング社と従業員組合との関係は,10 年に一
かけて献金総額は少しずつ上昇していた。また,国
回といった対立はあったが,総じて両者は友好関係
家レベルでは著名な政治家に対して寄付をおこな
にあった。それは,従業員の多くが地元に居住して
い,その金額は全米で 7 位にランクされるほどで
おり,苦情も少なかった。1995 年の 69 日間のスト
あった。のちに寄付金に上限がつけられるようにな
ライキでは,解決後すぐに職場復帰がみられた。た
ると,関連するロビー団体を支援するようになっ
とえば技術者は,2.4 万~ 5.0 万人で推移してきたが,
た。今日では,以前のように一人の立候補者に対し,
企業と争うことは少なかった。それは,平均年収 4
数千ドルを寄付することも減少している。合衆国で
万ドルという高い給与と,製品に対して高い誇りを
は政治献金が直接に企業の利益につながるものでは
もっていたからである。
ない。たとえば,州内の石油精製 5 社は献金額も上
同社で 2 番目に大きな労組は,専門事務職の組合
位であったが,1997 年の州議会ではタンカー入港制
(SPEEA)2 万人であるが,自分たちの経済問題から
限が成立したことからも分かるであろう。直接,
1993 年に 1 日,1999 年に 40 日間のストライキをおこ
ボーイング社に関係する税金としては,B & O のよう
なった。概して彼らは恵まれた労働条件下にあり,
に収入面で変動があっても,税額が変動しないこと
組合員が企業側に同調することもあった。たとえ
は魅力であった。
ば,1991 年にエバレット工場の拡大を考え,多くの
献金する一方で,同社はつねに何らかの行動を起
技術者たちは地方議員に対して,拡張案に反対しな
こしてきた。1960 年代には,飛行機部品の売上税を
いように働きかけた。(図 2)
止めさせるために,系列下のダグラス社をカリフォ
2001 年 9 月以降もボーイング社は,従業員 1 万人
ルニア州へ移転させ,5%の売上税が課せられると,
削減を実施した。その結果,2003 年では 16,900 人と
市場競争に勝てないとして,税制改正へ向かって積
なり,5 年前に比べて 58%も減少している。従業員
極的に動いた。先述のロビーストに対しては,高圧
の平均年齢は 47 歳,近々に 25 歳以下の熟練工がい
的な態度をとらず,彼らも企業側の特使のように行
なくなる。また,主力となる製造機種は民間機から
動してきた。
軍用機への比率が上がると予測される。しかし,そ
その中心人物は,州政界でも注目される F.G.Coffy
のときには,一度解雇した従業員を再雇用しないこ
であった。その人柄は柔軟性があり,ボーイング社
とに決定している。近年の組合によるストライキと
の代弁者として最適であり,辞任する 1966 年まで
しては,2002 年の秋にスト突入の可否を決議した
に多くのことを手がけた。とくに,地元のプロフッ
が,組合員の三分の二の同意が得られずに中止して
トボールチーム Seahawks,大リーグの Mariners の
いる。
維持に,官民一体の協力体制を創りあげたことは有
名である。
3 シアトル市当局とボーイング社の軋轢
ワシントン州では,企業からの税収入としてSales Tax,
Property Tax, Gross-receipts business & occupation Tax
(B&O)に頼る部分が大きい。全米の中では所得税
4 航空機産業の町:レントン市とエバレット市
の実態
4-1 レントンにおける工場の拡張
を課さない数少ない州である。しかし,1988 年には
ワシントン湖南端のレントンには,飛行機を製造
州議会で一定の所得税を課すような税制の改正が検
する施設があるようにみえない土地柄である。初め
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ワシントン州シアトル市における航空機産業の現状と問題点について
の用地の選定理由は,飛行艇を水面から離着陸させ
Boeing にちなんで“Boeington”に改名することまで
るために,レントンの Cedar 川沿いは最適であった。
考えたことがある。
水上飛行艇は 1919 年にテストパイロットであった
ここで B-737,757 を製造するための工場建設を
E. Hubbard の 開 発 に よ る も の で あ っ た。 彼 と
計画したときは,市当局はインフラ整備費用の捻出
B. Boeing は,同年にシアトルからカナダへ最初の
を考えていた。つまり,工場の完成による雇用の増
国際航空便を運び,その後は 8 年間もこの方式が続
大とともに,売上税の増収,別途の歳入を考えてい
いた。第二次大戦時には,海軍からこの飛行艇を購
た。実際は 1988 年に住民税を課し,年間 18 万ドル
入する引き合いがあったことから,ここに飛行機専
の収入増となった。工場開設を急ぐ同社は,とりあ
用工場が設置された。しかし,実際は飛行艇 1 機し
えず交通・騒音対策に 200 万ドルの支払いを同意し
か造られず,すぐに B-29 用の工場に変化した。
たが,計画そのものは 1990 年の不況の影響で中止
戦時下におけるレントンは,わずか 4,000 人の鉱
された。同社と行政当局との軋轢は,I-5,405,167
山町から 4 万人の町へと発展した。そして,ボーイ
号線の拡張計画をもつ連邦政府(運輸省)との間に
ング社の隣接地には,Renton Municipal Airport が完
もあった。
成した。当時,同市の昼間人口 4 万人のうち,約
1989 年にボーイング社は,レントンの競馬場 215
60%にあたる 2.5 万人が同社で雇用されていた。こ
エーカーを 8,200 万ドルで購入した。ここは 1933 年
のレントンの地名は,探検家の W. Renton にちなん
に開設された施設であるが,周辺の地主 1,800 名を
で つ け ら れ た が, 市 民 た ち は こ こ に 居 住 し た B.
説得して取得した。さらに,同社の拡張計画は進み,
滑走路をワシントン湖の南岸まで延長しようと考え
た。これは,747 型機をここからエバレットに輸送
するときに必要な工事であった。市側は許可の見返
りとして,Cedar 川河口の浚渫工事費の一部負担を
要求してきた。レントン市内を流下するこの河川
は,カスケード山脈に源を発し,途中のダムが少な
いことから,10 年間隔で大洪水をもたらした。この
被害額とくらべたときに,同社が負担する 400 万ド
ルは高くなかった。さらに,滑走路の延長予定地は
湿地でないことから,連邦政府の「湿地保護政策」
にも抵触しなかった。ただ,1993 年には近隣のイン
ディアン Muckleshoot 族が,この計画に対して,魚
介類の生息地を破壊するとして,抗議活動を起こし
た。その見返りの補償額が莫大であったことから,
ボーイング社はこの計画を断念した。
2002 年から 2003 年の航空機の受注減少傾向にも
かかわらず,レントン市をはじめとする各工場が利
益を得ることができたのは,「Moving Line」の効果
が大きい。これは,1 分間に 2 インチずつ組み立て
ラインが動き,これによって従業員の削減,コスト
の削減ができた。たとえば,レントン工場で生産さ
れる 737 型機は,組み立て時間を 24 日から 13 日に
短縮できた。これはエバレット工場の 747・777 型
機にも生かされている。
図 3 エバレット市周辺図
レントンでは,C. Corvi 女史が副社長・レントン
─ ─
39
( 39 )
永 野 征 男
工場長として任されている。彼女はボーイング一族
の家庭に育ち,大学へ入学時の 1968 年のシアトル
には 10 万人が勤務していたが,1971 年までに 3.8 万
人にも減少している。彼女は大学卒業と同時に同社
へ就職し,機内通路が 1 本の 737 型の生産に携わっ
た。2000 年からは,同型機の最大の取引先であるラ
インエアー社や,サウスウエスト社などから 662 機
の大量発注を受けた。月産ペースを 14 機から 17 機
����
に引き上げるためには,労働者の増員ではなく,徹
底した合理化と在庫の削減を図るなど,彼女の経営
哲学には,GM 社とトヨタの共同出資のニューユナ
主力工場
イテッド=モーター社にあると云われている。とく
に,2001 年のテロ発生以降,小規模かつ新興勢力の
閉鎖施設
航空会社が成功するといった,産業ビジネスモデル
����
が変更してきたことに着目し,それには 737 型機の
改良モデルが最適と考えた人物である。
4-2 エバレットと 777 型機
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ボーイング社がエバレットに主力工場を移転した
のは,他に適当な用地が見つからなかったためであ
る。ここは 1 万フィートの滑走路をもつ Paine Field
を有していた。かつて 1960 年代にエバレットを候
補地にしたことがある。しかし,余り注目されな
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か っ た。 他 の 候 補 地 で あ っ た SanDiego, Denver,
0
Moseslake, Cleveland, Livermore よりも低く捉えら
����
れていた。とくにカリフォルニア州には多くの関連
企業があり,一時,Oakland 近郊の Walnut Creek に
移るかのようにみえた。しかし,従業員の説得が難
1
図 4 エバレット工場周辺および工場閉鎖の現状
(現地調査による)
しく,同社が 1966 年にエバレット近隣の高速道路
ジャンクション建設に参画したことで,ここに工場
の移転が決定した。その結果,郡内に 2.4 万人の雇
用がもたらされた。(図 3・4)
てきた。
しかし,777 型には広い土地が必要であり,1990
年 3 月に 170 億ドルをかけて,5,600 万平方フィート
工場の建設は,747 型の設計図の進行と平行して
の拡大を決めた。それによって,9,500 人の新たな
進んだ。1969 年から 1971 年は不況期にぶつかった
雇用が生まれ,1991 年の 2.4 万人から 1994 年には 3.3
ために,建設業者も早急な支払いを請求しなかった
万人に増加した。しかし,市当局にとって,人口増
ことも幸いした。1980 年代に入ると同社はさまざま
加は住宅や学校建設の増加を意味していた。市側は
なプロジェクトを考えていた。たとえば,燃料効率
同社に対して,輸送関連事業費として 5,000 万ドル
の高い中規模ジェット機の 717 型は,燃料コストの
以 上, 住 宅 費 用 200 万 ド ル を 要 求 し た。 ま た
低減とともに中止された。結局は,世界最大規模の
Snohomish 郡は,道路整備用に 920 万ドル,住宅に
ツインエンジンのジェット機で,機体巾が広い 777
810 万ドルを要求した。これらについては,ボーイ
型に決定した。この機種は部品の多くが工場内でデ
ング社は地元雇用の増大効果で充分であるべきと激
ザインされたために,スムーズに技術者へ伝達でき
怒したほどである。
た長所と,実物模型を造ることもなくデザインされ
( 40 )
─ ─
40
ワシントン州シアトル市における航空機産業の現状と問題点について
形の特徴ある変化は難しいところであり,その意味
5 新型モデル製造にともなう動向
では 7E7 型は全く新しいジェット機と呼べるかもし
航空機の業界においては,新機種への指向は強い
れない。まず,エンジンのデザイン変更によって,
ものの,その時期や製造工場の場所に関する議論が
従前よりも 10%の燃費効率を果たし,10%の空港使
長期にわたる。いわゆる「7E7」型ジェット機の製
用料の削減が期待されている。さらに,新しい機材
造工場がシアトルに立地するか否か,地元にとって
の活用や運行システムの改良,更なるデザインの検
大きな議論となった。今日の中心機種である 737・
討によって,競争相手の A330 より 10%以上の効率
777 型が,今後さらに 20 ~ 30 年間製造されたとし
が得られるとされている。
ても,廃止の時期を迎えたとしても,地元の雇用や
ボーイング社では,長年にわたり「20XX」と称さ
職種に大きな影響力をもつことが予想されるからで
れる,将来型のジェット機に関する計画があり,そ
ある。
の中の一つが 7E7 であった。このプランは,1990 年
そこで,新モデル成立までの経過を以下に記すこ
代後半に現在の開発チームの主任 W. Gillette を中心
とにする。2000 年にボーイング社は現行のジェット
に分岐したグループである。当初の目標は,生産工
旅客機よりも速い「Sonic Cruiser」を提案した。そ
程における巨額の投資と,製造期間の長期化の改良
の一方で,2001 年 9 月 11 日の航空機を使ったテロ行
を目ざしていた。One in Ten と呼ばれるこのプロ
為発生を受け,利用旅客数と受注数の急減となるに
ジェクトは,一機当り 10 億ドルで 10 ヶ月内に完成
つれて財政破綻を受け,ボーイング社は 3.5 万人の
させる計画である。たとえば,現行の最新鋭機 777
解雇をスタートした。 これにより計画中の Sonic
型は,1994 年から製造され,完成までに 5 年を費や
Cruiser は中止となり,現行のジェット旅客機より
した。正式なデータではないが,この間に 100 臆ド
も安価な 7E7 型モデルが提案された。経済の低迷し
ルかかったといわれる。
た 2002 年当時,ワシントン州内におけるボーイン
製造工場は,州内でこれまでの組立てラインを使
グ社の就業者は 6.2 万人,関連企業のそれは 15 万人
用し,安価な航空機生産に踏み切れるメリットが考
であった。
えられてきた。つまり,従来型の機体と多くの共通
2003 年の 3 月には,新モデルの組立工場が州内の
性をもつ中で,単純化された機種という業界の常識
工場のいずれかに決定することが発表された。少な
が踏襲されている。その意味では,空気力学的な設
くとも 2004 年 4 月までには,同社の理事会で正式な
計の躍進する中,共通項の多い旅客機という点で平
製造の可否が決定する運びである。
凡に見えるかもしれないが,設計から完成まで費用
5-1 新モデル機の特徴について
削減を図った点では革命的ともいえる。
この機種のスタイルは,外形がネズミイルカに似
今日のように,6 種の旅客機を生産するボーイン
ていると評されることが多い。機体の先端が突出
グ社にとって,大型の 777 型と小型の 737 型は,唯
し,滑らかに流れる尾翼と,多少上向きにレイアウ
一成功モデルとして,今後 20 年以上にわたり需要
トされた小型の翼に特徴がある。これまでの航空力
があるといわれるが,いずれは 7E7 型のような中型
学にとらわれることの無いデザインが,他の機種と
に移行するものと考えられている。そして,同社の
の差別化が図られ,さらに新たな航空力学の理論形
航空機の種類が,3 ~ 4 つのモデルに統合されると
成に役立つことが期待された。近年では,1970 年代
思われる。そのためにも,胴体部分にはあらゆる必
に翼の部分で発生する小さい竜巻状の風を防ぐた
要部品が,あらかじめ組み込まれて納入されなけれ
め,翼の先端を折り曲げる工夫が NASA によって開
ばならない。7E7 型機は,ほぼ 767 型と同じサイズ
発され,エアバス,ボーイングの両社とも早期に導
であり,220 ~ 350 人乗り,機内には 2 本の通路があ
入している。
り,可航距離は 747 型と同じ 8,000 マイルをマッハ
これらの変化を航空機の技術革新とみるか,単な
0.85 で飛行できる。燃費的には 15 ~ 20%減が可能
る航空機の差別化とみるかは,議論の分かれるとこ
といわれ,テスト飛行は 2007 年,供給は 2008 年と
ろである。このことから分かるように,航空機の外
公表されている。
─ ─
41
( 41 )
永 野 征 男
5-2 7 E 7 モデルの海外組み立ての真意
高につながると考えられてきた。ボーイング社内で
7E7 の最終の組み立て地としての有力な候補地に
は,エバレット工場が挙がっている。これまでの
747 ・ 777 の生産工程にくらべ,7 E7 の場合は少数の
この素材を研究するグループが設立されたのは,
1960 年代の後半であり,エアバス社より遅れた。
また,この素材は他の繊維よりも柔軟であり,錆
限られた完成部品が流れ,組み立てることになる。
びることもなく,アルミニュウムのように変形によ
エバレットでは,これまでにもツインの通路をもつ
る耐久性の低下もないため,航空機材としては最適
機体が造られているし,1954 年の Dash 80 以来,カ
である。現在,777 型機の重量の 10%にあたる部分
リ フ ォ ル ニ ア で 生 産 さ れ る 717 型 以 外 の 商 業 用
で,この素材が使われている。コストを低くするた
ジェット機は,シアトル周辺を最終の工程に選んで
めには,主翼のデザインだけではなく,製造法を変
きた。
える必要がある。新素材によって,主翼での多くの
他の動きとしては,すでにカンザス州の Wichita
で,ボーイング社は州当局に対して,5 億ドルもの
ビス打ちが不要となり,翼の上と下の面は一体化し
たものとしてクレーンで運ぶことができる。
高額な免税措置と,奨励金を要請したともいわれ
とくに,この主翼部分が海外発注される可能性が
る。いずれにしても関連部品を世界のどこに発注す
大きい。今日でもボーイング社の仕事量の 64%は,
るかが決定した後に,結論を出すものと思われる。
海外調達に頼っている。そのうちの半分はエンジン
本命のワシントン州は,2001 年に本社機能がシカゴ
部分である。もし主翼を海外ということになると,
へ移動したことを受けて,今回は根強い話し合いを
同社工場の最終的な仕上げ作業が,大きく削減され
求めている。製造場所が州内に決まれば,州の経済
る。下請け業者は,今後,小さい部品のみの受注と
回復を期待できるからである。知事の G. Locke は,
なるであろう。つまり,7 E7 型では,製造技術革新
早くも30億ドル分の免税措置を発表した。エバレッ
が大きいことになる。
トでは,広大な土地があるものの,現状では何も見
さて,この新素材の発注先であるが,エアバス社
えてきていない。今日,全米の 20 余州が工場立地
は 2003 年 6 月に A-380 型用の納入業者として三菱
に名乗りを挙げている。(図 5)
レーヨン(豊橋工場)を選定した。一方,ボーイン
5-3 新たな機体素材の開発
グ社は,7E7 型の主翼部分の組み立てを三菱重工へ
7E7 型の素材としては,合成素材(プラスチック
発注予定であると報じられた。現在の 777 型尾翼の
とカーボン繊維)
「Composites」から成ることを発表
一部は,タコマ市のフレディックソン工場で製造さ
している。両翼と胴体部分でアルミニュウムに替わ
れている。そこにある日系企業の東レ株式会社は,
る予定である。金属よりも強くて軽いこの素材は,
素材を同工場へ提供している。一方,これまでのア
もともと軍用機に多く使われている。たとえば,
ルミニュウム製造会社は,金属より 10%軽く,費
B-2 爆撃機に金属が使われることは無い。これまで
用を低く押さえた新たなる合金を売り込んでいる。
の民間技術では,この合成素材を使うことがコスト
いずれにしても,合成素材の利用は,航空機その
もののターニングポイントになると考えられる。
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6 米軍および宇宙開発との関連
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近年の米軍とボーイング社との関係は,ロケット
の受注に現れている。同社とロッキード社は,EELV
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図 5 7E7型機製造工場を誘致する諸州
( 42 )
(Air Fore’s Evolved Expendable Launch Vihicle) プ ロ
ジェクトと呼ばれるロケット製造の供給元である。
ボーイング社のデルタⅣロケットは,ロッキード社
のアトラスⅤと競合している。1998 年,前者は 1 機
あたり 18.8 億ドルで 28 機の注文を得ている。ちな
みに後者のそれは 19 機であった。
─ ─
42
ワシントン州シアトル市における航空機産業の現状と問題点について
また,国防総省は老朽化している給油機(KC-
し,同社はつねにそれ以上のビジネスチャンスを模
767)100 機をボーイング社へ発注すべきか否か思考
索してきた。恐らく伝統的なシアトルの土地から外
中といわれている。発注というよりも,正確には賃
部へ移動することで,3 つの管理部門(商業・軍事・宇
借契約である。条件は 1 機あたり 6 年契約であり,
宙)をそれぞれに独立させ,航空機(商業)部門を
200 億ドルが想定されている。議会は 2001 年にこの
単に一つの部門として捉え,同社の中核部門ではな
賃借を一旦認めている。しかし,当事者である空軍
いことを示そうとしたと思われる。
は,むしろイラク戦争がらみで,40 年以上を経た老
朽の KC-135E(68 機)の切り替えを望んでいる。
本社を移転することは,企業の大きな変化を象徴
している。移動することで,その企業がグローバル
もう一方の宇宙開発分野では,ボーイング社が
企業であると公言しているのに等しい。本社機能を
2000 年にヒューズエレクトロニクス社の衛星製造
工場の一角から離すことは,同社の上層部の考えを
用の機械を 3.75 億ドルで購入したことを公表してい
航空機一辺倒から,戦略的に変化させることにつな
る。ヒューズ社は,この分野で世界をリードする商
がる。一つの部門に固まっていると,残りの部門が
業用衛星の製造元である。現在,軌道上の 40%の
全く見えてこなくなる。管理者たちが外部へ動く
衛星は同社のものである。この事実によってボーイ
と,製造工場までが外部へ移り,工場間のバランス
ング社の株は 75%以上も急上昇した。しかし,こ
を保つことができる。たとえば,日本で生産する
の 3 年間は,通信衛星産業の急落により,その需要
747 型の翼を,日本で生産して船で輸送することを
は低迷している。
考えると,企業が海外調達を視野に入れていること
ボーイング社がこの衛星通信分野に参画した歴史
が公開されたことになる。
は新しく,1996 年が最初である。この時に,ロック
収益額は少ないが,同社の中で着実に売り上げを
ウェル社から 3 億ドルで宇宙開発案を入手した。ま
伸ばしている部門は,宇宙や通信関連であって,売
た,その直後にライバルのマグドネルダグラス社を
り上げの 64.4%(1998 年)を占めていた航空機部門
13 億ドルで買収している。しかし,先述のように
は,翌年には 59.8%にまで下落した。
この部門は決して好況ではなく,2002 年にはサンノ
幹部たちは,この 10 数年間,シアトルから外部
ゼに本拠をもつグローバルスター社が通信衛星で倒
への移転を考えていた。もっとも,当初は本社の移
産し,ボーイング社とヒューズ社は,中国へ非合法
転まで考えていなかった。他社の事例では,営業上
に衛星技術を移転したと国防総省から告発されてい
の理由や象徴的なものをどうするか,そこにアクセ
る。当然に衛星関連でも解雇は進み,9,000 人(2000
ン ト が あ っ た。 た と え ば, 新 聞 出 版 業 の Knight
年)の従業員は,4,900 人(2003 年)まで落ち込んだ。
Ridder 社 は,長年住み慣れたマイアミの町から,
ボーイング社の社内における見通しの明るい部門
1998 年にシリコンバレーへ移転した。これによっ
は,セントルイスに本部がある軍用機とミサイル部
て, 同 社 は 最 新 の テ ク ノ ロ ジ ー に 一 歩 近 づ い た
門である。昨年の下半期の利益は,前年から 40%
が,一方では,新規産業に過敏であるといった信号
増えて 389 万ドルとなった。いずれにしても,ボー
を送ったことになる。また,Citibank 社は 1998 年の
イング社の軍関連の売り上げは,2001 年の 125 億ド
Travelers との合併を前にして,Palo Alto(カリフォ
ルから,2002 年には 140 億ドルとなっている。
ルニア州)への移転を考えた。その理由は,テクノ
ロジー関連の顧客のことを考えたからであって,単
7 ボーイング本社のシカゴ移転の背景
なるニューヨークの銀行というイメージを払拭した
2001 年 10 月 4 日,ボーイング社はその本社機能
かったに過ぎない。
をシアトルからシカゴへ移転させた。シアトル市民
ボーイング社は,航空機産業の競争激化にとも
はもとより,ワシントン州当局にとっても青天の霹
なって,取引先に近接した場所への立地を望んでき
靂に近いできごとの発表であった。一般的に,これ
た。まさに,ユナイテッド航空がオヘア空港(シカ
まで本稿で分析してきたボーイング社は,世界的規
ゴ)の近隣地に本社を,デンバーに大規模な支社を
模の航空機メーカーというイメージが強い。しか
開設している。アメリカン航空はフォートワースに
─ ─
43
( 43 )
永 野 征 男
本拠地をもち,同時にオヘアに巨大な支社機能を,
しかし,ボーイング社は売り上げの 60%以上をシ
またサウスウエスト航空の本社はダラスに,コンチ
アトルで生み出している。すでに,州議会では転出
ネンタル航空はヒューストンを本拠としている。
の意思決定そのものが,州経済にダメージを与えて
シカゴ大学の経済学者 T. Hubbard は,エアバス
いると発表した。グローバルな企業に成長したボー
社との比較を前提として,ボーイングの本拠地がシ
イング社は,Puget Sound, St. Louis と,南カリフォ
カゴであれば,ユナイテッド航空の経営陣としばし
ルニアに分割されている。他の地域にも拠点があ
ば会談ができるメリットを指摘している。具体的に
り,他には海外 24 か所の施設を所有または借り上
は,ユナイテッド航空と US Air との合併,アメリカ
げている。本社の移転は,より柔軟性を求め,大消
ン航空と TWA とのそれが進んでいる現実をみたと
費地に近いウォール街などの中央にこだわり続けた
き,ユナイテッドとの取引を逃せば,結果的に US
一つの結果であろう。
Air との取引を失うことになるからである。
シアトルには,Starbucks, Microsoft, Costco の本社
大企業の変革は,最近10 ~15年の経済動向に従っ
があり,これら企業にとってシアトルは好ましい場
ている。つまり,多様なビジネスをもつ大企業は,
所であると云われている。航空機を利用しての立地
他分野に自立させた企業を整理し,小規模な持ち株
要因としては,なんら距離的な問題点はないからで
会社とする傾向にある。その代表例が,J. Welch 率
ある。したがって,ボーイング社の移転問題は,同
いる GE 社である。彼が就任してからは,家庭用か
社の経営哲学に変化が生じたと考えた方が良いであ
ら原子炉までのさまざまな事業を再編し,成績の悪
ろう。冷戦終結にともなう軍需の縮小,競争相手と
い部門は閉鎖した。その結果,Fairfield 社(コネチ
しての Air bus 社の台頭,1990 年代半ばからの株式
カット州)を世界の上位にまで引き上げ,企業トッ
市場における低迷などによって,会社そのものの将
プ(CEO)としての評価は高まった。彼の手法は,
来像について厳しい見通しが要求されてきた。この
製造業から金融業までが参考にしたほどである。
点における同社の検討は早く,1998 年には高齢の役
しかし,近年の投機家たちは,一つのビジネスを
員 6 名をリストラし,移転についても計画が話題に
指向する企業を好む傾向にあり,この持ち株制度の
なっていた。当時の会社分布は,商業用飛行機はシ
方向は忌避されている。GM 社は,車の部品部門を
アトルに中心があり,軍用と宇宙通信に関しては
切り離し,通信衛星部門はボーイング社へ売却し
St. Louis と Seal Beach にあった。また,カンザス州
た。ペプシ社は,飲料とスナックに力を入れるべく,
の Wichita とカナダ,オーストラリアにも多くの社
ボトル部門を分離した。
員を抱えていた。同社の社長は,これらのどの都市
総じて,ボーイング社の直面する問題点は,①エ
にも本社が近接することを好まなかった。
アバス社,② ヨーロッパを守備する企業群,③ ロ
1998 年,毎年シアトルで開催されてきた株主総
ケット発射部門,との競争に集約できる。企業利益
会が St. Louis で開かれ,ダグラス社との合併が発表
を上げるには,いかに低価格でより良い商品を提供
された。1999 年には Los Angels で,2000 年はアラバ
できるかにかかっている。777 型機の広い機内は好
マ州の Huntsville で開催された。
評であり,これ以上の変革は不要と思われる。新型
本社の移転先に挙げられた候補地の中では,Dalas
機の開発によって,同社はいくつかの部門を分離独
と WashingtonD.C. が所得税のかからない都市であっ
立させるであろう。この成功の可否は不明である。
た。しかし,非課税であることがこれら都市を有利
他へ移転しなければならない理由としては,シアト
にするものでもなかった。Chicago, Dalas, Denver の
ルが海外とのアクセスに不便,ワシントン DC や
すべてが主要な航空会社の中心地であった。ボーイ
ニューヨークへ 3 時間の距離にあること等の指摘が
ング社の方針としては,移転先に8月までに社員を
ある。「人柄や場所もとくに問題はない。しかし,
動かし,地元の教育施設に子供たちの入学手続きを
王道から外れている」。この言葉は,今日のシアト
完了させようとした。この動きに対してマイクロソ
ルを良く表している。
フト社は,ボーイング社の一つの取引先として,本
27,000 人の労働者は,つねに不安を感じている。
( 44 )
社がどこに移転しようとも,25 年間続いた立地点と
─ ─
44
ワシントン州シアトル市における航空機産業の現状と問題点について
会議所会頭(B. Watt)は,事前に情報を得ていた数
関係は変わることがないと断言している。
ふり返ると,1916 年にボーイング社設立以来,今
回のことは初めてのできごとであり,2000 年 8 月ま
少ない人物であったが,1時間に及ぶ説得も有効で
はなかった。
でに決めると発表した。移転先には 1,000 名の雇用
共和党議員は,移転せざるを得ない理由に州政府
が発生し,シアトルには生産設備を残すことで,
の諸法制の厳しさを指摘した。しかし,G. Locke 知
7,800 名の雇用があると云われた。しかし,市当局
事の説明は同社の企業戦略のためであり,金融・政
は不満の意を表わした。
治の中心に近い場所への移転と断定づけた。さらに
ボーイング社は,ここ数年間にわたり政府と自治
同党は,州当局はビジネスの拡大しやすい環境を阻
体に対して減税を訴えつづけてきた。シアトル市を
害していると指摘した。とくに税負担の重さを訴え
含む King 郡では,1992 年以降一貫して税額の再評
た。
価を申請してきた。このことが本社移転の重要な要
因であるか否かは諸説がある。節税問題が大きな要
いずれにしても,発表の時期がアメリカの株価の
低落と失業者の増加時期と合致している。
移転先の候補になったシカゴ市長(R. Daley)は,
因ではないとする理由は,税金の多くは残存する工
場に課せられるからである。
都市の経済力がスイスや台湾を大きく上回ることを
同社と州政府との間には,土地の売買による収益
誇り,ダラス市長(R. Kirk)はボーイング社の必要
分についての免税措置が,1949 年以降実施されてい
とするもの全てを提供するといった。一方,デン
る。たとえば 2000 年度には 1.2 億ドルの免除を受け
バー市長(W. Webb)は,朝ゴルフが午後にはスキー
た。さらに同社は,1995 年以降に更新した製造機械
が可能な魅力を訴えた。その中でも,シカゴ市長は
や設備についても免税も受け,2000 年にはこの部分
減税を暗示していた。
で 2 億ドルの節税になったといわれる。また,同年
にはほとんどの部門で,失業保険税の削減を求める
8
交渉に入った。
8-1
イラク戦争が航空業界へ与えた影響
経営悪化の航空各社
ボーイング本社移転にともなう他社の反応とし
イラク戦争のさなか,全世界で 4,600 億ドル相当
て,たとえば Costco 社(本社は Issaquah)のケース
の観光産業への影響があるとみられた。しかし,テ
では,移転後の州内での販売額が1位になることに
ロ後,数日で事態は回復するという見方もあった。
ついて困惑しているとの新聞発表を行った。多くの
かつて,1991 年の湾岸戦争時,観光収益の伸び率は
見方としては,ボーイングが今後ともこの土地で航
1.2%であったが,翌年には 8.3%に上がっている。
空機を造りつづけたとしても,本社の存在いかん
今回は,国内第 2 位のユナイテッド航空が倒産す
が,信用度に影響すると捉えている。専門家として
ると危惧されていたし,US エアー社の方法を契機
の D. Arnesen 教授(シアトル大)の指摘は,世界地
に,テロ警戒度が最高コード(レッド)を示したと
図でシアトルのもつ意味がボーイングとマイクロソ
きには,手持ち航空券をまったくフリーに旅行計画
フトの存在である限り,その点で同社の移転は大き
の変更を可とする処置をも発表した。もっとも影響
なマイナスであるという。
を受ける路線は中東・北アフリカ・ヨーロッパの一
マイクロソフト R. Belluzzo 社長は,本社の移転を
考えていないと発表したように,各社ともボーイン
グ社ほどの大企業が撤退する土地であるという,イ
部であり,そしてアメリカ国内便の飛行便数の削減
が心配された。
すでに,2001 年のテロ以降,航空業界では 18 億
ドル以上の損失が生じ,全体で 10 万人の従業員の
メージの悪さの回復に神経を使っている。
さて,政治家たちはこの移転をどこまで事前に把
解雇など,負債総額は 100 億ドル以上に膨れ上がる
握していたのであろうか。共和党・民主党ともに議
とみられてきた。ユナイテッド航空以外にも,アメ
員たちは発表まで情報を掴んでいなかった。シアト
リカン・デルタ・コンチネンタル・ノースウエスト
ル市長は,発表後,法人代表( J. Warner)にクレー
航空などは,財政的に困窮しているといわれる。中
ムをつけたが再考されることがなかったし,市商工
でもユナイテッドは,2002 年に 3.2 億ドルの損失を
─ ─
45
( 45 )
永 野 征 男
生じ,2003 年の 1 ・ 2 月だけでも 749 万ドルとなって
800 型を 100 機発注したと報じられた。同社はすで
いる。たとえば一社が倒産すると,国内各社はその
に同型機を 31 機所有している。長引く不景気の中
ルートを引き継ぎ,フライト数を増やすことにな
で,この取引は年間最大のものと予想される。ボー
る。すでに,それを目ざして動き出した英国のバー
イング社の 2003 年 7 月までの供給機は 280 機,2004
ジンアトランティック航空すらある。
年にはこの 100 機を含め 275 ~ 300 機が予想されて
いずれにしても,戦争による航空産業全体への損
いる。Ryanair 航空は,急速に成長を遂げてきた企業
失は 40 億ドルといわれたが,途中でその数値は 67
であり,ロンドンやダブリンを中心に,ヨーロッパ
億ドルに変更され,今日では 107 億ドルともいわれ
各都市との間に多くの路線を持つ。2004 年には現行
る。2001 年のテロ以降,ユナイテッドとアメリカン
ルートに加えて,さらに新規 5 路線の開設が発表さ
は倒産保護策がとられ,後者の株価は 34%も落ち
れた。その一方では,同社のライバル企業 Easyjet
込み,1.95 ドルの業界最安値をつけた。航空業界は,
航空が,エアバス社へ 120 機の発注をしている。
政府に 40 億ドルの支援を依頼し,イラク終戦後の
アジア諸国の中では,インド航空がエアバス 43
免税措置をも申請した。また,ジェット燃料の価格
機の購入をインド議会に提示したが,しかし,未確
抑制とともに,毎日 100 万バーレルの放出を求めた。
定のままである。ボーイング社としては,最近 10
しかし,燃料は 2003 年 1 月以来,21%の価格の上昇
年間のインドとの強いつながりから,737 型機の購
を示し,1 ガロン当たり 1.20 ドルと,前年 2 月から
入を依頼している。また,インド国内第 2 位の Air
57 セントも上昇している。
India 社へ 17 機の 777 型を商談中である。同社は大
連邦議会の反応は様々であるが,2003 年に入って
からの上院議会での発言では,企業倒産を避けるべ
型機の導入によって,英国航空やルフトハンザ航空
との国際線競合を考えている。
く 30 億ドル余の出費を要請,その代わりに幹部社
台湾の中華航空が,10 機の 747-400 型を発注して
員のベアを中止する要請が提出された。具体的に
いる。これには両国政府の外交上の特権が有利に作
は,デルタ航空幹部の中には,1,290 万ドルの給与
用している。日本の航空業界では,全日空が 45 機
受給者が,またノースウエスト航空社長は 2001 年
の 737 型を発注予定(供給は 2005 年 4 月以降)であ
より 75%増の 280 万ドルを,コンチネンタル航空社
ることが発表された。同社は,5 年前から 25 機のエ
長は 2001 年の 2 倍近い 1,190 万ドルを得たといわれ
アバスを所有しているが,今回の計画は 27 年前か
る。いずれの経営陣も,企業の経営難を労働者の解
雇という形で乗り切ろうとしてきたことが分かる。
8-2 航空機受注と株価にみるボーイング社への影響
2003 年にボーイング社は,Auburn 工場での生産を
外部に発注すると発表した。それによると,50 の事
業部門を削減し,2004 年までに 400 部門の縮小を計
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図 6 四半期ごとの諸収益の動向
(Bloomberg Newsによる)
平方キロメートルの尾翼工場を含む数棟の建屋を売
より,製造部品のうち簡単なものから外注が始まる
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パー Safeway に工場敷地の一部を売却し,さらに 9
ら 13.8 平方キロメートルまでに縮小される。これに
販売額
単位:10億ドル
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単位:ドル・セント
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画している。Auburn では,2002 年の秋に大手スー
却予定である。2005 年までの間に,同工場は 21.4 か
株 価
利 潤
単位:100万ドル
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ことを意味している。従業員たちにとって作業工程
や部品の簡素化は,みずからが開発したものであ
り,その部分の切捨てに反発している。
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一方,ボーイング機の受注は流動的である。アイ
ルランドの格安航空会社 Ryanair は,2003 年に 737-
( 46 )
─ ─
46
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図 7 最近52週間における株価の動向
(Bloomberg Newsによる)
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ワシントン州シアトル市における航空機産業の現状と問題点について
単位:10億ドル
の購入をしたとしても,今年 3 月の売却による利益
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は 10 ドルといわれる。今日の終値 27.84 ドルは,こ
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れまでの最低の値下がりであった。最高時(2000 年
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12 月)の 69.93 ドルから,実に 60%の下落となって
いる。もし,ユナイテッド航空が負債から抜け出す
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ことに失敗をすると,予定していた受注機は破棄さ
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れるために,ボーイング社は生産の 60%を失うこ
図 8 合衆国における航空会社の純益変動
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(U.S.
Department of Transportation資料より)
とになる。航空各社は,過去に契約した発注機の破
棄を望んでいるが,ボーイング側としては納入時期
ら使用してきた 737 型を段階的に破棄するために必
の延期までは認めたとしても,破棄することまで了
要なことであった。全日空のこのようなボーイング
承していない。(図 6・7・8)
社への大量発注の裏には,すでに 2001 年 9 月以前か
以上のように,航空機産業の実態は世界経済の動
ら,使用航空機の種類を減らすことによって,メン
きと表裏一体であり,需給関係のバランスは単品の
テナンスやトレーニング関連費用を削減することを
規模・価格が大きいだけに,経済動向を明確に捉え
目的としてきた。実際は,126 席の 737-700 型が中
ることができるといった特徴をもっている。合衆国
心になるといわれる。
の航空機生産の伝統的な中心地であるワシントン州
アジアの他社では,シンガポール航空が 7 年間使
については,地域経済との相関度が大きいだけに,
用した A310 に代わる新型機の発注を発表した。し
ボーイング社の今後の動きに関して,今後とも調査
かし,SARS の後遺症もあって,決定が 2004 年にず
を継続する予定である。
れ込むようである。また,タイ航空は,7 機の 747-
400 型をユナイテッド航空から 3.5 億ドルで購入す
謝辞
るといわれる。中古機の購入によりタイ側は約 1 億
本研究の現地調査は,2000 年以降の日本大学海外派遣
学術調査,文理学部海外研究ファンドの研究費によると
ころが大きい。現地では,資料面でワシントン大学地理
学教室に,また研究上の指導を George H. Kakiuchi 名誉
教授から受けることができた。記してここに感謝いたし
ます。また,この論文を 2003 年度で定年を迎える立石
友男教授に謹呈いたします。
ドルの節約となり,倒産を避けるために企業努力を
つづけるユナイテッドを多少なりとも支援すること
にもなる。さらに,ウズベキスタン航空は 2 機の
767-300ER を購入すると発表している。
現在,ボーイング社の株価の動きはどのように
なっているのであろうか。1995 年 3 月に 1,000 ドル
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