- 18 - その他、黒軍(アナキストの軍隊)、 緑軍(ウクライナ民族主義者の

そ の 他 、 黒 軍 ( ア ナ キ ス ト の 軍 隊)、
緑軍(ウクライナ民族主義者の軍隊)
青軍(ポ-ランド軍)
白軍は後にロシア全軍連合となる。これらの軍隊が指揮系統がバラバラで脈絡
なくあ の広いロシ ア国内で戦 闘になった のだから誠 に複雑な戦 闘で日本の 高校・大
学のテ キストはこ の辺をカッ トして講義 も素通りだ から理解し ていないの が普通な
状態なので,
一寸寄り道してこの辺を探ってみたい。。
1917 年 、「 二月 革命」「 十月 革命 」二 度に わた る内乱 があったが ,実は 日露戦争 中
の 1905 年 以 降 度 々 内 乱 が 起 きて おり 、 その ‘ トド メ ’ と言 え るの が 十 月革 命 で、
史上初 の社会主義 国家が生ま れようとし ていた。
1914 年 18 年 は第一次世界大戦であったが連合軍側
日露戦争後のロシアは内政的にゴタゴタ続きで国軍は必ずしも健全では無かっ
た。そ のような時 、帝政ロシ ア軍は連合 国側として 出兵したが 、東プロイ センのダ
ンネル ベルクの戦 いでドイツ 軍に大敗し 動揺が拡が っていた。
ロシア皇帝の戦争指導力に対して兵士、民衆共に不満を持ち、皇帝ニコライ 2 世
は積極 的に前線を 視察したり 督戦したり と活発に動 いたが、内 政面で現状 認識が乏
しく、 皇后アレク サンドラと 怪僧ラスプ -チンの傍 若無人の動 きによって 宮廷内部
から崩 壊が始まっ てしまった 。
民 衆 の 怒 り が 爆 発 、 抗 議 デ モ が 連 日 行 わ れ 、 1916 年 、 貴 族 達 の 手 に よ っ て 怪 僧
ラ ス プ - チ ン は 暗 殺 さ れ た が , そ れ で も デ モ は 収 ま ら ず 、 1917 年 3 月 、 首 都ベ ト
ログラ-ド(現在のサンクトペテルブルク)で起こったデモは拡大し、ニコライ 2
世は退 位を決意、 身の危険を 察知してい た皇位継承 者は辞退し て皇帝を継 承する者
がおら ずロマノフ 王朝は崩壊 した。
かくして 2 月革命により中道派臨時政府が成立した。だが戦線と国内で大混乱が
続き, そのうちレ -ニンが率 いる急進的 な左翼党派 ボリシェヴ ィキは、こ うした混
乱を巧 みに利用し 権力を獲得 し勢力を拡 大した。
11 月 、 ボ リ シ ェ ヴ ィ キ は 武 装 蜂 起 し ベ ト ロ グ ラ - ド の 要 所 を 制 圧 し , 臨 時 政 府
を打倒 して(十月 革命)ボリ シェビキ主 導のソヴェ ト(労働者 ・農民・兵 士の意)
へと権力が集中し、これに引き続きロシア内戦(1917 年 ~ 1922 年)に陥り、最終
的 には 1922 年 に 史 上 初 の 共 産主 義国 家 であ る ソビ エ ト 連邦 が 誕生 し た 。
ボリ シェビキは かねてより 暴力による 革命を是と していたか ら、軍事革 命委員会
を設置 して,軍事 革命委員会 の指揮下に 赤衛軍(赤軍)をおいて,武装蜂起により臨
時政府 を打倒、政 府機関を軍 事革命委員 会が掌握し た。
しか し,ロシア 国内には様 々な勢力が あり赤衛軍 、白衛軍、 黒軍、青軍 、緑軍が
入り交 じっての戦 いで整理す るのが面倒 なくらいや やこしい事 態になった のがロシ
ア内戦 で、それに 付随して起 きたチェコ 軍救出のた めのシベリ ア出兵やポ -ランド
孤児救 出等ロシア 内戦の実態 が理解でき ないと混乱 してしまう 。
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