2011 12 25 イエス 平和の君

大阪インターナショナルチャーチ ジョセフ・トッティス牧師 2011年12月25日
タイトル: イエス・キリスト『平和の君』
預言者イザヤは、イエスがお生まれになる600年ほど前
来たる世の救い主キリスト、メシヤについてこのような言葉を残しています。
イザヤ 9:6 ひとりのみどりごが、私たちのために生まれる。ひとりの男の子が、私たちに与えら
れる。主権はその肩にあり、その名は「不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君」と呼
ばれる。
そして今日、このクリスマスの朝に、私たちはここに集まり、この預言が成就したことを祝って
います。
受肉(神が人となってくださった)
イエス・キリストのご降誕
クリスマスです。
イエスは確かに来られました。そして、このお方は平和の君です。しかし、次の個所を見てくだ
さい。
イザヤ 9:7a 「その主権は増し加わり、その平和は限りなく。。。」
イエスは、限りなく平和な政府を樹立されたでしょうか。
文字通りの意味では、まだです。
なぜ、まだそうされないのでしょう。
ダニエルは、メシヤについてこのように預言しています。
ダニエル 9:26a 「その六十二週の後にメシヤは断たれるでしょう。ただし自分のためにではあり
ません。。。。」
イエスが最初に来られたときに、御国を樹立されないことは預言されていました。
そうではなく、断たれるために来られたのです。
この62週が終わるまでには、イエスは十字架にかけられ、ご自身の民から捨てられ、断たれるこ
とになっていたのです。
ルカ 2:7 男子の初子を産んだ。それで、布にくるんで、飼葉おけに寝かせた。宿屋には彼らのい
る場所がなかったからである。
捨てられ、断たれるというイエスの人生は、お生まれになった時から始まっていました。
宿屋には彼らのいる場所がなかったとあります。
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イエスがお生まれになった夜、御使いたちは羊飼いたちに何と言ったでしょうか。
ルカ 2:12 あなたがたは、布にくるまって飼葉おけに寝ておられるみどりごを見つけます。これ
が、あなたがたのためのしるしです。」
なぜ布にくるまっている赤ちゃんがしるしなのでしょう。
もし、赤ちゃんを布でくるむのが当時では当たり前なのであれば、わざわざそのことに触れる必
要があるでしょうか。
現代風に言い換えるとどうでしょう。ふわふわの水色のおくるみに包まれた男の子の赤ちゃんを
見つけます、でしょうか。
それがどのようなしるしとなるでしょうか。
それは特別なことでしょうか。
ルカ 2:12 あなたがたは、布にくるまって飼葉おけに寝ておられるみどりごを見つけます。これ
が、あなたがたのためのしるしです。」
なぜ神は、このことをわざわざ付け加えられたと思いますか。
聖書に出てくるほかの子どもの誕生の場面で、布にくるまっているということは書かれていませ
ん。しかし、イエスについては二度も記されています。
興味深いことに
聖書で誰かが布に包まっていると書かれているのは、死について書かれた個所だけです。
イエスがラザロを死からよみがえらされた個所を覚えていますか。
ヨハネ 11:44 すると、死んでいた人が、手と足を長い布で巻かれたままで出て来た。彼の顔は布
切れで包まれていた。イエスは彼らに言われた。「ほどいてやって、帰らせなさい。」
使徒の働きで、アナニヤが神にうそをついて、倒れて死んだ個所にはこうあります。
使徒の働き 5:6 青年たちは立って、彼を包み、運び出して葬った。
また、イエスの死について書かれた個所にもこのようにあります。
マルコ 15:46 そこで、ヨセフは亜麻布を買い、イエスを取り降ろしてその亜麻布に包み、岩を
掘って造った墓に納めた。墓の入口には石をころがしかけておいた。
もちろん昔から、布にくるむということと赤ちゃんが関連づけられることはあります。
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しかし、この時代、この場所で、この文化の中では、他の子どもの誕生について、聖書にそのよ
うな関連付けはありません。
聖書の最善の注解書は聖書です。
聖書自身によって聖書のみことばを紐解いてもらうと、羊飼いたちへのしるしについて分かるこ
とがあります。それは、ただ単なるおくるみに包まれた赤ちゃんが飼い葉桶に寝ているのを見つ
けるという意味ではないということです。
これは、他に類を見ないしるしです。
死のために備えられた赤ちゃんを見つけるということなのです。
イエスは、私たちの罪を負って死ぬためにこの世に来られました。
それこそが、主の来られた目的なのです。お生まれになったときでさえ、預言的に、また見たと
おりに、そのことが示されています。
皆さんがお気づきになったかわかりませんが、
クリスマス(Christmas)という言葉自体が、イエスの死に関連しています。
Christキリスト=メシヤを意味するギリシャ語
と
Masマス
マスというのは、ラテン語のミサから来ています。
これは、カトリック教会の聖体や、プロテスタント教会の聖
式を意味するミサという言葉は、
ここから来ています。
これらは、イエスが弟子たちに、イエスを覚えて行いなさいと教えられた最後の晩
に由来する
ものです。
パウロはこのように書いています。
1コリント 11:24 感謝をささげて後、それを裂き、こう言われました。「これはあなたがたのた
めの、わたしのからだです。わたしを覚えて、これを行いなさい。」
1コリント 11:25 夕食の後、杯をも同じようにして言われました。「この杯は、わたしの血によ
る新しい契約です。これを飲むたびに、わたしを覚えて、これを行いなさい。」
1コリント 11:26 ですから、あなたがたは、このパンを食べ、この杯を飲むたびに、主が来られ
るまで、主の死を告げ知らせるのです。
クリスマス・・・それは、イエスが私たちの代わりに死ぬために生まれてくださったことを覚えると
きです。
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イザヤ9:6a ひとりのみどりごが、私たちのために生まれる。ひとりの男の子が、私たちに与えら
れる。・・・
ヨハネ3:16 神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信
じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。
「与えられる」・・・イザヤ9:6
「お与えになった」・・・ヨハネ3:16
これらの言葉が意味するのは、十字架です。
イザヤ 53:8b 「。。。彼がわたしの民のそむきの罪のために打たれ、生ける者の地から絶たれた
ことを。」
ですから、メシヤは絶たれるために来られたのです。ここで、ダニエルの言葉をもう一度見てみ
ましょう。
ダニエル 9:26a 「その六十二週の後にメシヤは断たれるでしょう。ただし自分のためにではあり
ません。。。。」
では、誰のために断たれるのでしょう。
このお方は、あなたのため、そして私のために、断たれ、十字架にかけられました。
ご自分の罪のために死なれたのではないのです。
ピラトは言いました。
「あの人に何の罪も見られないということを、あなたがたに知らせるためです。」 ヨハネ 19:4
ユダは言いました。
「私は罪を犯した。罪のない人の血を売ったりして」 マタイ 27:4
十字架に架かっていた盗人までもこう言いました。
「だがこの方は、悪いことは何もしなかったのだ。」 ルカ 23:41
神は、イエス・キリストが無実であることを、三人の証人の口をとおして、証明されました。
イエスは、私たちに代わって死ぬためにお生まれになりました。これが、イエスの来られた目的
です。
イエスは、私たちのために断たれ、十字架に架かられました。
しかし、イエスは再び来られます。
そして、再臨されるときには、約束された限りない平和をもたらしてくださいます。
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イザヤ 9:7a 「その主権は増し加わり、その平和は限りなく。。。」
先ほど申し上げたように、
この預言は、文字通りの意味ではまだ成就していません。
しかし、霊的にはどうでしょう。
ヨハネ 14:27 わたしは、あなたがたに平安を残します。わたしは、あなたがたにわたしの平安を
与えます。わたしがあなたがたに与えるのは、世が与えるのとは違います。あなたがたは心を騒
がしてはなりません。恐れてはなりません。
ということは、
今日でも、信徒の心の中には、地上に平和があるのです。
しかし、この平和は買うことはできません。
習うこともできません。
また、完全に理解することさえできないのです。
みことばにはこうあります。
ピリピ 4:7 そうすれば、人のすべての考えにまさる神の平安が、あなたがたの心と思いをキリス
ト・イエスにあって守ってくれます。
イエス・キリストを信じた時のことで印象的だったのは、心が愛、喜び、平安で満たされたこと
です。
説明はできません。
ただ、神がともにいてくださることがわかりました。
マタイ 1:23 「見よ、処女がみごもっている。そして男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ば
れる。」(訳すと、神は私たちとともにおられる、という意味である。)
神が私とともにおられたのです。
そして、祈ったり聖書を読んだりして神をもっと知っていくと、信じる者すべてに与えられた平
安の約束についても知るようになりました。
また、この平安は、自分の行いによって手に入れるものではなく、神がしてくださったことによ
り、与えられることも知りました。
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ヨハネ 14:27a 「わたしは、あなたがたに平安を残します。わたしは、あなたがたにわたしの平安
を与えます。。。」
これは、信仰によってイエス・キリストを信じる人すべてに無償で与えられる賜物です。
この平安は、神と和解した結果なのです。
コロサイ 1:20 その十字架の血によって平和をつくり、御子によって万物を、御子のために和解さ
せてくださったからです。地にあるものも天にあるものも、ただ御子によって和解させてくだ
さったのです。
エデンの園で人が神に逆らった時から、人は神に逆らい続け、神と敵対しています。
私たちの性質のうちに、神に服従したくない、自分の人生を神のみこころにゆだねたくないとい
うものがあります。
そういうわけで、人類はずっと神と敵対しています。
人が神と敵対しているなら、内面の平安を持つことができないのは当然のことです。
罪のせいで、この敵対関係が存在するのです。しかし、イエスは平和をもたらしてくださいまし
た。ご自身が十字架上で私たちのために血潮をながしてくださったことによってです。
イエスは、平和への道を開いてくださり、私たちの罪を取り去ることにより、私たちが神のもと
へ行けるようにしてくださいました。
もう一度言いますが、これがイエスのお生まれになった目的です。イエスの死によって私たちが
神と和解できるためです。
ですから、イエスを信じて、神と和解すると、
平安を見出すのです。
戦いは終わり、神への敵対心はなくなります。
それは、私たちが完璧で天使のような存在になるということではありません。
しかし、その時点から、神に敵対することはないということです。
神から逃げることもないのです。
私たちの生き方や望みは変化します。
正しいことをしたい、
神に仕えたい、
神に喜ばれる人生を送りたい、と思うようになります。
そういうわけで、
心から信じる人には、神の栄光ある平和が与えられるのです。
神に喜んでいただける生き方に人生を捧げることなく、クリスチャンとして生きる利点だけを手
に入れたいと思う人はたくさんいると思います。
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言い換えると、すべての罪を赦されて死んだら天国に行けるという確証はほしいけど、自分の好
きなように生きたいということです。
それは、こういうのと同じです。よくある話ですが、炊事、洗濯、掃除、子育てをしてくれる人
がほしいので、結婚したいという男性がいます。
けれども、釣った魚にえさはやらないと言います。
友だちと飲みに行ったり、他の女性と不倫をするほうが楽しいと言うのです。
結婚していても、そんなふたりは、まったくバラバラです。
同じように、
イエスとつながっていることで得はしたいけど、心をすべてささげるのはいやだという人がたく
さんいます。
イエスは言われました。
マタイ 15:8 『この民は、口先ではわたしを敬うが、その心は、わたしから遠く離れている。
前にも言ったことがありますが、妻のエイミーに口先だけで愛していると言っても意味がありま
せん。
愛を行動で示す必要があります。
言うのは簡単です。
行動は言葉より多くを語ります。
神との関係においてもそれは同じです。
神が私たちに備えてくださった愛、恵み、平安を完全に体験したいなら、まず神との平和を持た
なければなりません。
イエスがお生まれになった夜、天の御使いは羊飼いたちの前に現れて、こう告げました。
ルカ 2:14 「いと高き所に、栄光が、神にあるように。地の上に、平和が、御心にかなう人々にあ
るように。」
神の平和がほしいと思うなら、
今日、平和の君であるイエス・キリストを信じて受け入れましょう。
神の限りない愛とご臨在というクリスマスプレゼントは、あなたに開いてもらうのを待っていま
す。
自分には神の平和がないと思うなら、
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どうか、むなしさ、孤独、ストレスなどを抱えたままで帰らないでください。
イエス・キリストに人生をゆだねましょう。そして今日、あなたの心をイエスの愛と平和で満たし
ていただきましょう。
祈りましょう。
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