2014年11月16日 目白町教会主日礼拝説教 「直ちにすべてを捨てて従う」 マタイによる福音書 4:18~22 松 木 信 [新共同訳] 18 節 イエスは、ガリラヤ湖のほとりを歩いておられたとき、 2 人の兄弟、ペトロと呼 ばれるシモンとその兄弟アンデレが、湖で網を打っているのを御覧になった。彼ら は漁師だった。 19 節 イエスは、「私について来なさい。人間をとる漁師にしよう」と言われた。 20 節 2 人はすぐに網を捨てて従った。 21 節 そこから進んで、別の 2 人の兄弟、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネが、父親 人の兄弟、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネが、父親 のゼベダイと一緒に、 ゼベダイと一緒に、船の中で網の手入れをしているのをご覧になると、彼らをお と一緒に、船の中で網の手入れをしているのをご覧になると、彼らをお 呼びになった。 22 節 この 2 人もすぐに、舟と父親とを残してイエスに従った。 [説 教] 今日は教会のバザーです。12 時からバザーを始めますので、礼拝の時間をいつもより短 くしました。そのために子供達へのお話をカットしましたが、今日の説教は小学生が聞い てもよく分かるお話ですから、こひつじの会の子供たちも大人の人と一緒に聞いて下さい。 バザーのために本来の礼拝時間を短くすることは教会として本末転倒ではないかというご 意見もあるかと思いますが、私は、教会のバザーは神様の恵みに感謝し、神様の御栄を表 す大切な働きとして、私達の礼拝の 1 部をなすものと考えたいと思います。今年も、私達 のささやかな支援でも必要としておられる社会福祉施設や地方の困難は教会、東北の被災 地などに、本日の収益からクリスマス献金をお送りします。教会員はもちろんのこと、教 会員以外の友人やご近所など、遠くは韓国からも、大勢の方々のお祈りを込めたご協力を いただきました。主の御前に心から感謝申し上げたいと思います。 本日の聖書の舞台は、イスラエルの北部にある大きな湖、ガリラヤ湖のほとりです。こ こで、イエス・キリストは「天の国・神の国は近づいた」という嬉しいニュース(喜びの訪 れ)を人々にお話しし始めました。そしてそれを始めるのに当たって先ず最初になさったこ とは、ご自分と一緒に生活し、働く弟子達をお招きになった事でした。普通イエスの弟子 は 12 人いたと言われていますが、今日の聖書の箇所には、その中で 1 番最初に招かれた 4 人の名前が記されています。 「ペトロとその兄弟アンデレ、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟 ヨハネ」です。この 4 人は皆ガリラヤ湖で魚をとって生活していた漁師でした。ガリラヤ 湖は今でも漁業が行われている豊かな湖です。彼らは毎日この湖に船を出し、網を打って 魚を取り、それを売りさばいて生計を立てていたのです。この湖は、彼らの生活を支える 場所、生まれてから死ぬまでの日常の生活にとってかけがえのない場所でした。またガリ ラヤ湖は海面下 210 メートルの湖で、南を除く 3 方を山に囲まれているため、天候が急変 し突然突風に見舞われることのある危険な湖でした。福音書にも、船に乗って湖を渡って いた弟子達が突然の嵐に見舞われて遭難しかけたという記事が載っています。恐らく、こ こで暮らす人々の中には、漁に出たまま嵐に遭って身内が帰らぬ人となった、そのような 辛い悲しい記憶を心に抱いて生きる人もいたのではないかと思われます。豊漁の喜びと遭 難の悲しみと、そのような人の世の縮図とも言うべき生活がこの湖のほとりでずっと営ま れてきたのです。 ところが、この人の世に、人間の日常生活の真っ只中に、神様の御心が、神様の力が、 突然現れて入って来られました。神様の一人子イエス・キリスト、神様が 1 人の人として 来て下さったのです。 4 人の漁師はどこから見ても全く当たり前の普通の人間でした。こ の世の生活・漁師の生活をするのに必要な知恵を持ち、肉体を持ち、網や船などの財産を 持ち、家族を持ち、様々な欲望を持って生きている、極く極く当たり前のこの世の人間で した。この 4 人がイエスの「私について来なさい。人間をとる漁師にしよう」という言葉 を聞いて、その場で、すぐに、網を捨て、船を捨て、家族を捨て、すべてを捨ててイエス に従ったと言うのです。これは奇跡と言う他は無い出来事です。 人間は利益に向かって動くものです。自分にとって得になる、自分にとって良い結果を 生みそうに思われる、そういうことによって動くものです。つまり自分を後生大事に抱え て自己中心に生きるものなのです。ところがこの 4 人は「人間をとる漁師にしよう」とい うイエスの言葉に従って、この先の自分たちの人生がどのようなものになるか見当もつか ないのに、新しい生き方に向かって 1 歩を踏み出したのです。この時イエスはまだ多くの 病人を癒す奇跡を行っていませんでした。ガリラヤ中にイエスの評判が広まって大勢の 人々が押し寄せてくる前でした。この 4 人は、イエスについて行ったら儲かる、何か得に なることがあると思って従って行ったのではありませんでした。彼らは自分たちの利益に よってではなく、イエスの人格の内に生きて働いている神の力によって動かされた、そう いう奇跡が起こった、としか言い様がありません。 「人間をとる漁師」とはどういう意味でしょうか。それは魚をとる漁師ではなく、お金 や財産をとる漁師でもなく、名声や地位を得ようとする漁師でもなく、 「人間を神様の人間 に取り戻す漁師」、あるいは「この世に人間中心・自己中心に生きている人間を、神の国に すくい上げる漁師」ということでしょう。生まれながらの古い人間ではなく、イエス・キ リストと出会うことによって生み出される新しい人間です。 イエスは宣教活動のすべてに先立ってこの弟子達を選び、招かれました。それは神様が私 達ごく当たり前の人間を必要とし、求めていらっしゃるということです。私達は神様によ って、キリストによって必要とされ、求められている存在なのです。私達もこの 4 人と同 じように、日常生活に埋没し、自分の生活のことばかり考えながら生きています。しかし イエス・キリストは、そのような私たちをそのままで、 「私について来なさい。人間をとる 漁師にしよう」と今も呼びかけて下さっているのです。この御言葉に対する私たちのなす べき応答ははっきりしています。 「直ちにすべてを捨てて従う」ということです。祈りま しょう。 以上
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