山陰の名物まんじゅう 大試食会 野口詩織 昔から人々の間で親しまれてきた「ま ん じ ゅ う 」。 そ の 歴 史 に つ い て は 諸 説 あ りますが、古いところでは十三世紀に中 国 か ら 伝 わ っ た と さ れ て い ま す。 ま ん じゅうは他の和菓子と比べると少し地味 なイメージを持たれることがあるかもし れませんが、何百年もの間、食べ続けら れている、日本人には欠かせない和菓子 です。 山陰には誰もが知っている有名なまん じ ゅ う も い く つ か あ り ま す が、「 ま だ ま だ人にあまり知られていないまんじゅう がたくさんあるはず!」と思い、歴史の 長いものから短いものまで、さまざまな まんじゅうを収集し、試食会を行うこと にしました。第一弾の試食会を六月十三 日に総勢十六人で行い、七月九日、八月 十日に第二弾、第三弾を行いました。 どじょう掬いまんじゅう かつてフランス人が出演していたユ ニークなCMでおなじみの「どじょう掬 い ま ん じ ゅ う 」。 食 べ た ま ん じ ゅ う の 中 で断トツの知名度を誇っていました。つ ■「どじょう掬いまんじゅう」 中浦本舗(松江市) 30 ぶらな瞳がとても可愛らし く、食べるのがもったいない という声が多かったようで す。中の餡がさらさらとして 粉雪のような食感でした。 どじょう掬いデカまん じゅう す。とても一人では食べきれなさそうな てあります。大きくても可愛さは健在で いるのです。鳥取の名物が目でも舌でも まんじゅうには大山バターが使用されて 多かったです。皆さん鋭いですね。この 通常の「どじょう掬いまん じゅう」をそのまま大きくし ので、切っちゃいました。キメが細かく 味わえます。 因 幡 の 白 う さ ぎ( 古 事 記 編 纂 一三〇〇年特別パッケージ) 綺麗なおでこにナイフを入れるのは心痛 みましたが、おいしくいただきました。 因幡の白うさぎ つ で す。「 ふ ろ し き ま ん じ ゅ う 」 を 製 造 販売している山本おたふく堂は、なんと 明治元年の創業で、昔からの味を今まで 保ち続けています。まんじゅうの出来上 がりがふろしきの四隅を折ったような形 になることから、「ふろしきまんじゅう」 と名付けられたそうです。 本物の経木に包まれていて、なかなか 趣があります。まんじゅう同士がくっつ き合っていて、離す時に表面の薄い生地 がはがれてしまうのも御愛嬌。少しお酒 して米粉に混ぜた生地と、朝汐餡と呼ば ですが、薯蕷(とろろいも)をすり下ろ 朝汐といえば菓子処松江を代表するま んじゅうです。見た目はとてもシンプル 朝汐 パッケージには「妖怪なまえあてクイズ」 小判型のまんじゅうに妖怪たちの焼 印 が 押 し て あ り と て も 可 愛 ら し い で す。 ゲゲゲの鬼太郎小まんじゅう が口いっぱいに広がります。 が、お酒は入っていません。黒糖の甘さ いるように思われました。 れる皮むき小豆餡が使用されていて、と の味がするという意見も多かったのです ても上品な味がします。少しお値段が張 です。なんと書籍の形をしています! 一目見て、中にまんじゅうが入っている いがボーロのようだなと感じました。こ こちらはパッケージがとても珍しいの さ ぎ 」。 耳 の 形 が 綺 麗 な 曲 線 を 描 い て い なんて微塵も思えないでしょう。どう見 ふろしきまんじゅう 楽しめます。食べたときの鼻に抜ける匂 が書かれており、味だけでなくクイズも て思わず撫でてしまいそうです。こちら ても本にしか見えません。今年の古事記 ■「妖怪饅頭」寺子屋ウェーブ (境港市) るので大人の一品です。 の餡はしっとりなめらかで、とてもまろ 「 赤 い 目 が と て も 可 愛 い 」 と 女 の 子 た ちが黄色い声をあげていた「因幡の白う ■「朝汐」彩雲堂(松江市) のまんじゅうの特徴は紅芋の餡が使用さ ■「ゲゲゲの鬼太郎小まんじゅう」 宝販売(鳥取県三朝町) たくさんのファンをもつ山陰銘菓の一 ■「ふろしきまんじゅう」山本おたふ く堂(鳥取県琴浦町) 編纂一三〇〇年をとても上手くPRして ■「花馬饅頭」井山屋製菓(出雲市 多伎町) ■「因幡の白うさぎ」寿製菓(米 子市) やか。バターの風味がするという意見が ■(上段)どじょう掬いデカまんじゅ うを持つ吉岡さん。(下段)デカまん じゅうを切る筆者。 れていることで、とてもさっぱりしてい ます。 妖怪饅頭 こちらもゲゲゲの鬼太郎たちのまん じゅうです。しかし、鬼太郎小まんじゅ うとは違い、まんじゅうの形自体が妖怪 の形をしていました。こちらのパッケー ジには妖怪たちの名前がつけられたJR 境線の駅名が載っていて、食べながら楽 しむことができるなと思いました。人形 すぎなくて食べやすい味です。 し た 生 地 で し た。「 塩 蒸 し 」 と 書 か れ て 皆生温泉みやげとして売られていま す。和菓子とは思えないほどふわふわと 塩蒸し饅頭 いう意見が多かったです。 し た。「 黒 糖 の 味 が 強 く て お い し い 」 と が記されていてとても珍しいなと思いま 利休饅頭は浜田名物です。包み紙には 有名な浮世絵師である一勇斉国芳が描い 利休饅頭 花馬饅頭 いたので塩の味が強いかと思えばそうで た。 これで「はなんばまんじゅう」と読み ます。出雲市多岐町のお菓子です。白餡 はなく、ほんのりと塩の風味があり、同 焼に栗餡を入れたような感じですが、甘 の舌触りがよく、これぞまんじゅうの王 時にミルキーな味が塩味によって引き立 ■「鳥取大砂丘」宝販売(三朝町) じです。試食会終了後にスーパーに行く 出雲まんずっにあらエッサくんの焼印 が入っています。味は出雲まんずっと同 あらエッサくん 面白いという意見がありました。 うなのでしょう。この出雲弁の商品名も んずっ」と書いてあるからにはまんじゅ と 疑 問 に 思 う 人 も い た よ う で す が、「 ま パンのような食感で、まんじゅうなのか 事まんじゅうというイメージです。蒸し ら れ ま す が、「 出 雲 ま ん ず っ」 は そ の 法 私 の 住 ん で い る 地 域( 安 来 市 広 瀬 町 ) では法事のときにパンやまんじゅうが配 出雲まんずっ た利休と『秀雅百人一首』の利休の和歌 道という意見が多かったです。知名度は ■「おしどりの詩」宝販売(三朝町) てられ口に広がります。 ■「利休饅頭」仲屋(浜田市) 一番低かったのですが、人気は上々でし ■(左上)「出雲まんずっ」(左下)「あらエッ サくん」瀬尻製パン店(安来市広瀬町) (右)「塩蒸し饅頭」宝製菓(鳥取県琴浦町) と、なんと、しまねっこバージョンのま んずっを発見しました。出雲まんずっは 着々とその範囲を広げているようです。 鳥取大砂丘 名前の通り鳥取砂丘をイメージしたま んじゅうで、表面に風紋のような模様が 表現されています。包装紙にも鳥取砂丘 32 がプリントされており、砂丘の美しさが 伝わります。また、砂丘についての説明 書きも記されていて、おみやげにはぴっ た り の 一 品 だ な と 思 い ま し た。 練 乳 が 入っていますが、甘すぎず食べやすいで す。 おしどりの詩 おしどりは鳥取県の鳥で、まんじゅう 自体が鳥をイメージさせる形をしていて き な こ ま ん じ ゅ う、 か ぼ ち ゃ ま ん じ ゅ 丸で囲んだようなマークがかかれていま うです。酒まんじゅうは一畑の一の字を は酒まんじゅうとむらさきいもまんじゅ んじゅうがあるのですが、今回食べたの 口に入れたときにいちじくの風味が口に が 連 想 さ れ た と い う 意 見 も あ り ま し た。 ら餡が少し出ていて、いちじくの割れ目 出雲市多伎町の特産品である、いちじ くが使われています。白くて丸い生地か いちじく浪漫 がありました。 す。味は素朴でお酒の風味がほんのりす う、黒ごままんじゅう、むらさきいもま るという声が多かったです。むらさきい 広がります。餡にはいちじくの種が入っ 見 が 多 か っ た の で す。 し か し、「 こ の よ もまんじゅうはきれいな紫色をしていま うな経験は一度きりで勘弁して欲しい」 ていて、いちじく特有のプチプチ感が楽 買い出し人によると益田のまんじゅう といえば鶏卵饅頭か千両まんじゅうだと という声や、この試食会は三度行ったの す。餡がしっとりしていて生地との相性 かりんとう饅頭 言われたそうです。残念ながら千両まん で す が、「 三 度 目 に は 出 席 し た く な い 」 しめます。 る梨からできたピューレが入っていて独 じゅうは手に入らなかったのですが、鶏 という声も上がりました。 が抜群です。 特の味がしました。包装紙の絵は鳥取の 見た目が真っ黒で少し驚きました。黒 糖 の 味 が 強 く、 少 し 苦 味 が あ り ま す が、 卵饅頭は入手することができました。益 とても可愛いです。鳥取県の特産品であ 画家である濱田壽峰によって描かれたも 餡の甘さと調和してとてもおいしいで 田市にある鶏卵堂で作られているまん 鶏卵饅頭 ので、鳥取県の特徴を凝縮したようなま す。 パ ッ ケ ー ジ が キ ュ ー ブ 型 で 珍 し く、 じゅうです。パッと見、普通のまんじゅ まんじゅうはおみやげとしての性質が 強いからか、その地域の文化を象徴して こんなに多くのまんじゅうを食べたの は初めてで、とても楽しかったという意 んじゅうだなと思いました。 高級そうなイメージだという声が多かっ うですが、触ってみるとケーキのように い る も の が 多 い な と 思 い ま し た。 ま ん たです。 一畑まんじゅう ふわふわとしています。白餡がしっとり (のぐち・しおり/日本語文化系二年生) れているからではないでしょうか。 広まると同時に、地元の人々が愛してく るのは、おみやげとして他地域の人々に 一畑まんじゅうは一畑薬師の近くの開 眼堂というお店で作られています。いつ ■「鶏卵饅頭」鶏卵堂(益田市) じゅうが昔から多くの人に親しまれてい か ら あ る そ う で す。 一畑薬師近辺でしか 売られていないの で、わざわざ遠方か ■「いちじく浪漫」 多 伎 振 興( 出 雲 市 多伎町) ら買いにくるお客様 も お ら れ る そ う で、 とても根強いファン がいるようです。味 の種類は五種類あ り、 酒 ま ん じ ゅ う、 33 のんびり雲|第 6 号| 2012 ■「一畑まんじゅう」開眼堂(出雲市) していて、生地はカステラのように甘み ■「かりんとう饅頭」はまみ屋 (米子市) から作られているのかわからない程古く ■パッケージの見た目について感想を書いている編集部員たち。 いしい和菓子屋さんがあります。その代 市にも松江ほど多くはありませんが、お 名です。しかし、私の生まれ育った米子 れ、日本三大菓子処でもあり、非常に有 松江市は、七代目松江藩主の松平不昧 公の影響により、古くからお茶が親しま 羊羹」を購入しました。そして、 この日は不参加)お勧めの「白 ん(残念ながら、都合が悪くて 員の一人で米子市在住の大家さ るだや本店に立ち寄り、編集部 した。まず、角盤町にある、つ のんびり、米子の 和菓子を味わう 表 が、 創 業 八 十 七 年 の 老 舗「 つ る だ や 」 米子湊山公園に向かい、到着後 吉 岡 萌 です。 した。 です。 米子尽くしのお茶会をやろうというわけ 湊 山 公 園 に し ま し た。 松 江 市 に 対 抗 し、 抹茶を使い、場所は米子を代表する公園、 業は享和元年、つまり一八〇一年)のお た。お抹茶は米子の老舗、長田茶店(創 集部員だけのお茶会を開くことにしまし き、先ほど購入した白羊羹を頂くことに 日本庭園の芝生にビニールシートを敷 茶会をすることに決めました。さっそく ……」と思っていたので、この場所でお こ の お 茶 会 に 参 加 し、「 い い と こ ろ だ な です。私も高校生の頃、茶道部員として 会が行われるところで、風情がある場所 一度開かれる米子市民大茶会というお茶 いのですが、日本庭園は米子市で一年に 場所として選んだのは入って すぐの日本庭園。湊山公園は広 そして、私と編集部員の石田さん、野 口さんの三人の協力によって持ち寄った とができました。 まろやかで、とても美味しくいただくこ 子だそうです。食べてみると味は非常に ではあまり目にすることができないお菓 菓子があるのですが、白羊羹は他の地域 います。普通、日本全国に似たようなお 白羊羹とは、白いんげんを使って練り 上げられたもので、米子名物と言われて さっそくお茶会の準備を始めま し、十二時半に学校を出発しま 今回私たちはつるだやを訪れ、米子の 和菓子について色々とお話を伺うことに ■まったりと米子を味わう しました。 しました。また、つるだやのお菓子で編 六月十一日、私たち二年生編集部員六 人は、お茶会を行う米子湊山公園を目指 抹 茶 茶 碗 に、 長 田 茶 店 の お 抹 茶 を 注 ぎ、 さ っ そ く 人 数 分 点 て る こ と に し ま し た。 私が持ってきた茶碗は曽祖父が趣味で 作ったものであり、石田さんが持ってき たものは、陶芸作家である石田さんのお 父さんが作られたものです。 編集部員六人と先生二人分のお抹茶を 一 人 で 点 て る の は と て も 大 変 で し た が、 おかわりをしてくれる人もおり、美味し そうに飲んでくれたので、こちらも嬉し くなりました。お抹茶も、まろやかな口 当たりと程よい苦みがあり、白羊羹の甘 さと上手く調和し、非常に美味しくいた 園にはほとんど人がおらず、貸切状態で 頃にはすでに、洋菓子を販売 んでしたが、社長が子どもの 販売を行っている和菓子屋さ 菓子など、焼き饅頭を中心に つるだやは大正十四年四月 十五日に創業されました。創 方です。 鶴田定蔵さんのひ孫にあたる 鶴田陽介さん。創業者である 迎えてくださったのは社長の 七月二日、米子のお菓子屋さん、つる だやに取材に伺うことになりました。出 ■創業八十七年の老舗つるだや 餡を詰めたも れた白餡と粒 種に、吟味さ 刻印した最中 「 つ る だ や 最 中 」 は、 つ る だ や の ブ ラ ンドマークを も美味しかったです。 した甘みがあり、求肥も柔らかくてとて す。私もいただきましたが、ほんのりと げ、口当たりがとても滑らかいお菓子で 職人さんが一つ一つ丹精込めて作り上 を 求 肥 で 細 長 く 包 み 込 ん だ 生 菓 子 で す。 ゆずを練りこんだ、ゆず餡の二種類の餡 いう商品。十勝産小豆の粒餡と、白餡に 少 し 紹 介 し ま す。 ま ず、「 は は き 野 」 と 「弓ヶ浜の歌」(竿菓子)、「浜がすり」(饅 子が沢山あること。例えば、「皆生松露」、 不思議に思ったのが、つるだやの商品 には、米子にちなんだネーミングのお菓 ■不思議なネーミング ます。私も、秋にぜひ食べてみたいです。 で、栗好きにはたまらない一品だと思い ます。栗丸ごとの風味を生かしているの 用いて、大粒の栗を一粒丸ごと包んでい ものです。こなし餡は小麦粉、くず粉を 「 栗 ざ ん ま い 」 は、 上 質 の 甘 露 煮 の ま るた栗を、こなし餡で包んで蒸しあげた モニーを楽しめます。 つの素材がマッチしており、絶妙なハー 口の中でとろけそうな美味しさです。三 だくことができました。この日、日本庭 した。天気も爽やかで素晴らしいお茶会 し て い た そ う で す。 現 在 で のです。最中 となりました。 も、バームクーヘンやパウン 種は歯ごたえ 業当初は「桃山」といったお ドケーキなどの洋菓子も販売 が優しく、白 鶴 田 さ ん は、「 米 子 の お 菓 子、 地 域 の お菓子だとお客様に分かってもらいたい 頭)、「番傘まんじゅう」などがあります。 されています。 餡 と 粒 餡 は、 35 のんびり雲|第 6 号| 2012 ■(上段)白羊羹を食している様子。(中段)花冠で 遊ぶ、石田さんと野口さん。(下段)お茶会後、モニュ メントの前で記念撮影。 ここで、つるだやの商品を ■(左)お茶を点てる筆者。(右)米子名物、白羊羹のパッケー ジ。とても美味しかったです。 ■ははき野。 通りでないた め、全ての人 の好みに合わ せることはで きない。だか ら、大多数の 人の舌に合わ せることが必 ちなみに、以前は法事のときは法事パ ン が 各 家 庭 で 出 さ れ て い た そ う で す が、 要となってく る。ただ、そ 世間で「法事にパン 」というイメージ れ が 難 し く、 年代頃から、人々の 間で甘さを控えたお 菓子が好まれるよう に な っ て き ま し た。 これに合わせて、つ るだやで作られるお 菓子も、甘さを控え たものに変わってき 苦労するとこ やカステラが使われるようになったそう が浸透してきたため、現在ではどら焼き れていました。時代の変化に柔軟に対応 康に良い商品を作っていくことを挙げら められるのだなと実感しました。 し、お客様のニーズに対応することが求 ろ」と話して 味しく、安全なお菓子を作ることだそう お菓子を作る上でのこだわりは、お客 様に手に取ってもらいやすい価格で、美 を感じ、とても嬉しく思いました。 子市民である私は、米子を愛する気持ち ることがとてもよく伝わってきます。米 売をしているから、米子にこだわってい おっしゃいました。米子の人を相手に商 に特化したネーミングにしている」と のだ、ということを伝えたいから、地域 し、米子近辺にはこのようなものがある て い て「 お 菓 やの商品を食べ の頃からつるだ 中には、子ども よく買いに来ら お供え物として 岸など、仏事の お 客 様 の 年 齢 層 は、 五 十 代 の 方 が 多 く、お盆やお彼 た。 お客様もいらっ ■(上段)最中の包装作業。(中段)大きな釜で小豆 餡と水飴を混ぜているところ。(下段)工場内にあった クロードのトレイ。 新商品はどのように開発し、作られて いるのでしょう。新商品は毎年いくつか ■健康に良いお菓子? です。やりがいもやはり、お客様に美味 子と言えばつる は、肩ひじ張らず、いつまでも愛される しいと言っていただけることで、お客様 だや!」という お店でありたいとおっしゃっていまし のことを一番に考えておられることが伝 しゃるようで 出されるそうで、昔製造していたものを わってきました。 す。 鶴田さんはお菓子の変化についても話 してくださいました。高度経済成長期を 逆に、お店をしていて苦労したことは、 お客様の商品に対する評判や感想が良く れ る そ う で す。 な か っ た と き だ そ う で す。「 人 の 舌 は 一 久しぶりに作ってみて、店頭に出して評 た。鶴田さん です。 そして、これから挑戦したい取り組み として、現代人のニーズに合わせた、健 たそうです。 ■(上段)中にはこんなに可 愛らしいお菓子も !!(下段) 鶴田さんお気に入りのレモン ケーキ。 くださいまし ? 過ぎ、生活にゆとりが出てきた昭和五十 ■(上段)お菓子作りへの想いを熱く語る社長の鶴田陽介 さん。(下段)取材中の様子。 36 れたそうなのですが、そのうちの一つに 周年の時、いくつか復刻版の商品を出さ です。今から七年前、つるだや創業八十 判が良ければ定番化することもあるそう うでないところとで多少の地域差はあり 異なるそうです。米子では、市街地とそ だやですが、地域によって売れ筋商品は それぞれ一店舗ずつ出店されているつる れない、米子の銘菓であると自信を持っ そうで、やはり他の地域ではあまり見ら 子は、私たちがお茶会で食した白羊羹だ お伺いしました。つるだやお勧めのお菓 してしまいました ということです。取材班全員がビックリ す。つまり、クロードはつるだやの分家 現社長のおじさんにあたる方だったので そうです。鶴田さんは、ここがフレキシ イスを取り入れて出来上がることもある ありますが、お客様からの要望やアドバ 新商品は、職人さんが考案したり、鶴 田さん自らが提案して、作られることも 店頭に並べられているそうです。 という商品があり、今は定番商品として 昭 和 三 十 年 代 に 作 ら れ て い た「 か ち 栗 」 とおっしゃっていました。 市 民 の 気 質 が 表 れ て い る の で は な い か、 であったため、品の良いものを好む鳥取 好まれるそうで、かつて鳥取市は城下町 に、餡を詰めたもの)といったお菓子が 一方、鳥取市では、白羊羹や長寿梅(お せんべいを薄く二枚に切ったものの中 ます。 ますが、様々な商品がまんべんなく売れ 土産にくださったのですが、ほんのりレ さんがレモンケーキを私たち取材班のお 番化した商品だそうです。取材後、鶴田 この商品も昔作られていたものを復刻定 子 だ そ う で、 と て も 面 白 い お 話 で し た。 す。子供の頃よく食べた思い出深いお菓 ま た、 鶴 田 さ ん 個 人 が 好 き な 商 品 は、 意外にも洋菓子のレモンケーキだそうで ておっしゃいました。 (よしおか・もえ/文化資源学系二年生) ことと思います。 を召し上がってみてください! きっと 今までとはまた違った魅力を堪能できる に来られた時は、ぜひつるだやのお菓子 分かりいただけましたでしょうか。米子 みなさん、松江だけでなく、米子にも 美味しい和菓子屋さんがあることを、お ブルなところであり、他社には負けない んとクロードを作ったのは、つるだやの 「 ク ロ ー ド 」 の ト レ イ が あ っ た こ と。 な 更に工場見学をしていて驚いたことが あります。それは、松江にある洋菓子店 したのを覚えています。 商品が作られており、とてもいい香りが とができました。あちらこちらで様々な 「ははき野」の製造途上のものも見るこ さんの姿もありました。先ほど紹介した た小豆餡に、水飴を混ぜておられる職人 ました。また、攪拌機付きの大釜に入れ たものを、手作業で包装されたりしてい していたり、カステラを小さくカットし 最後に、製造現場を見学させていただ くことができました。機械が最中を包装 ■ 生 ま れ て 初 め て! お 菓 子 工 場 見学 モンの味がし、ふわふわしていてとても 魅力であると誇らしげにおっしゃいまし 子市内でどのような存在でありたいかを 美味しかったです。 ! つるだやお勧めのお菓子と、鶴田さん お好みのお菓子、これからつるだやが米 た。 米子市内に四店舗、鳥取市、安来市に ■(上段)店内の様子。美味しそうなお菓子が沢山ありました。(下 段左)歴史を感じるつるだやのケースと「栗ざんまい」。(下段右) カステラを包装する職人さん。 ム」を訪れるために、数時間だけマンハッ クィーンズにある「ノグチ・ミュージア 二 〇 一 一 年 の 十 月 上 旬、 マ ン ハ ッ タ ン で 一 週 間 を 過 ご し た。 正 確 に い う と 商工会議所ビル)で開催することになっ ン」をニューヨークの日本クラブ(日本 ン・マインド・オブ・ラフカディオ・ハー 記念館で開催した、造形美術展「オープ 点の作品が展示され、いずれも会場は大 名だ。アテネでは五十点、松江では五八 者タキス・エフスタシウさんの発案と命 狙いである。ギリシャ人でハーンの愛読 アートを楽しむ機会を提供しようという 額の投資をせずに新しいスタイルで現代 資源としてハーンを二次的に活用し、巨 などとともに展示する。すなわち、文化 せてもらい、ハーン自身の文章や初版本 する世界のアーティストに造形作品を寄 生き方をウェブ上で紹介し、それに共鳴 しては偏見の少ない「開かれた精神」と 美術展が開催された。ハーンの、当時と 二〇〇九年にギリシャ・アテネにある アメリカン・カレッジで同じタイトルの オ ー プ ン・ マ イ ン ド・ オ ブ・ ラ フ カ デ ィ オ・ ハ ー ン I N ニ ュ ー ヨーク は、文明嫌いのハーンにとって最も苦手 にも不思議な縁を感じる。ニューヨーク 中、同じ時空を奔走していたので、これ かけてニューオーリンズ万博開催期間 高峰とハーンは、一八八四年から翌年に 日 本 ク ラ ブ は、 一 九 〇 三 年 に ジ ア ス タ ー ゼ の 発 明 者、 高 峰 譲 吉 が 設 立 し た。 た。 援とご協力によってこの展示会が実現し をかけていただき、県人会の多大なご支 さっそくニューヨークの島根県人会に声 出 身 な の で 島 根 へ の 思 い は 人 一 倍 深 い。 が 四 十 年 に 及 ぶ が、 雲 南 市 三 刀 屋 の ご とによる。狩野さんはニューヨーク生活 示会を行うようにとご提案いただいたこ ビルにある日本クラブのギャラリーで展 をしたところ、ニューヨークで芸術の秋 のトップシーズンにぜひ日本商工会議所 江での「オープン・マインド展」のお話 狩野務さんにお会いする機会があり、松 変な賑わいだった。 地を訪ねた際に、日本商工会議所専務の なったのは、家内と息子が昨年一月に同 ■マンハッタンのミッドタウン。 この展示をニューヨークで行うことに に説明しておこう。 小 泉 凡 ニューヨーク滞在記 タ ン 島 を 離 れ た が。 な ぜ、 好 ん で こ ん たからだ。まずこの展示会の趣旨を簡単 二〇一〇年に松江城の天守閣と小泉八雲 な 喧 噪 の 大 都 会 に 出 か け た か と い う と、 ■展示会場で。日本ギャラリーの本多庸子さんと。 38 品二点のほか、ハーンや松江市 作品二五点、初版本二一点、遺 結果だった。展示では、アート トの発展を考えると大変嬉しい されたので、今後のプロジェク とを実感した。 る実践活動にはこのような労力が伴うこ びは一入だ。そして文化資源的着想によ が手がけた。それだけに盛会になった喜 示品のキャプションなどもすべて関係者 が 降 っ た。 す る と 気 温 は 一 気 に 下 が る。 十月上旬といっても緯度の高いニュー ヨークは、天気が不安定でよくにわか雨 みになった。 ルームを覗くのが、ささやかな朝の楽し ンド移民として第一歩をしるした地であ な場所だったが、十九歳の時、アイルラ となり、松江市や日本クラブ、ニューヨー 営などあらゆる煩雑な作業を家内が中心 利用し、梱包、荷ほどき、展示会場の設 のまた夢で、一般の運送業者を 労力を要した。日通美術など夢 からの美術品の輸送には大変な しかし限られた実行委員会の 予算で運営することから、松江 た。 いた。楽譜も読めないのにピアノが大好 ルでその多彩で華やかな音色に馴染んで るピアノ製造会社で、松江のプラバホー ニューヨークに設立された世界を代表す た。 ス タ イ ン ウ ェ イ 社 は 一 八 五 三 年 に スタインウェイ社のショールームがあっ 通 っ た が、 六 番 街 と 五 七 丁 目 の 角 に は、 合間をぬって街を歩いた。毎日、六番 街五三丁目のホテルから徒歩で会場に 街歩き プン」で埋め尽くされた。最近、アメリ 札の回転バーも、すべて「ユニクロ・オー 全駅の階段の一段一段の段差部分と、改 プン」の文字でラッピングし、ほとんど うに走る地下鉄の車両を「ユニクロ・オー ろう。マスコミはもとより、網の目のよ 逸した広報活動が話題づくりをしたのだ いた。というよりはユニクロ側の常軌を 廉価で提供することが町の話題になって クが立ち並ぶ五番街に近々店を出し、自 そんな時節柄、ユニクロが、高級ブティッ り、英訳「古事記」を読んで日本行きを ク島根県人会の協力を得て自力で行っ きな私には、装飾が日々変化するショー を紹介するパネルが壁面を飾っ 決意した場所でもある。来日後の自分の た。広報活動や印刷物、解説パネル、展 ■(上段)講演の風景。(下段)五番街周辺。 では味わえぬ洗練された豪華な レストランでは、ギリシャ本国 きだ。ホテルの近くのグリーク・ 少しつまむ。実に楽しいひとと の辛口の白ワインで、生ガキを いえる。懐かしいワシントン州 この店は、元祖「駅ナカ」とも かけた。一九一三年に創業した オイスターバーにも地下鉄で出 る、グランド・セントラル駅の 夜 は 夕 食 を 兼 ね て 外 に 出 た。 ニューヨークでは必ず立ち寄 目を見張るものがあった。 本企業だが、このアピール力は され気味で息をひそめている日 カでは車や家電も韓国企業に押 慢のヒートテックのアンダーウエアーを 著作の大半はやはりニューヨークで出版 さ れ た。 言 う ま で も な く こ の 町 は 現 代 アートの発信地でもある。だから、こん な場所でハーンをテーマとする美術展が 開催できることは特別の意味があった。 日本クラブのビルはミッドタウンの六 番街と七番街に挟まれた五七丁目にあ り、カーネギー・ホールの筋向いという 一 等 地 だ。 ビ ル の 一 階 に「 日 本 ギ ャ ラ リー」という瀟洒な空間を所有する。こ こで九月三十日から十月十四日まで展示 会が開催され、期間中に約一八〇〇人が 来場、十月四日のレセプションや私のつ たない講演会にも一四〇名が来場され た。そのうち四割近くが地元在住のアメ リカ人で、他に、ハーンにゆかりのある 関係国の外交官やマスコミ関係者も来訪 39 のんびり雲|第 6 号| 2012 ■荷解きと搬入の作業。 らすのだろうか。 ニューヨーカーの消費生活に変化をもた だ。そんな町におけるユニクロの出現は、 と は、 そ れ な り の 対 価 が 要 求 さ れ る の タン島のレストランの席を占有するこ い。ただでさえ限られた面積のマンハッ ネともローマとも比較にならないほど高 る。ニューヨークの物価は東京ともアテ グラスワイン一杯でも五千円は優に超え し か し、 こ れ が 勘 定 を 払 う 段 に な る と「しまった!」と思うのだ。パスタと ンテなパスタが出てきた。 アでもローマよりずっとおいしくアルデ おいしさも体験した。街中のピッツァリ しむ姿勢に共感した。 し、八十代の今もポジティブに人生を楽 きわ光彩を放っていた。苦労の末に成功 シュなおしゃべりは参加者の中でもひと た が、 や は り サ ミ ー さ ん の エ ネ ル ギ ッ ションの後には、楽しいお酒をご一緒し ら押し掛けるという。十月四日のレセプ 弟子にしてほしいという若者が世界中か の技術には定評がある。無給でいいから ステイタスをもつ理容室で、サミーさん 室を経営する。ニューヨークでも屈指の をもつ「MOMOTARO」という理容 宮本さんだ。マンハッタンに複数の店舗 だったのが島根県の江津出身のサミー・ の 出 会 い が 忘 れ ら れ な い。 と く に 強 烈 地元で活躍する元気な日本人の方たちと 商 工 会 議 所 専 務 の 狩 野 務 さ ん を 筆 頭 に、 辿れる。今回の「オープン・マインド・ アモデルからモニュメント構想の変遷が いう。無数に置かれた金属製のミニチュ 飛び出して立体表現に自然に移行したと もともと画家だったが、いつしか平面を だ が、 今 回 初 め て ア ト リ エ に 招 か れ た。 一九七七年からニューヨークに住む彫 刻家の野田正明さんとは十五年来の友人 合い、ギリシャでの再会を約束した。 なっていたので、その不思議な縁を喜び 本文化を知るイベントで講演することに イェロバシルー・ワイン博物館主催の日 偶然ながら十一月四日にテッサロニキの に出かけるということだった。実は私も 市、テッサロニキで開かれる国際映画祭 して、十一月三日からギリシャ第二の都 関心があると熱心に話しかけられた。そ 映画監督の黒岩久美さんも講演を聴い た後、映画の作り手としても、ハーンに だった。 信 と 野 心 さ え 感 じ さ せ る 素 敵 な「 盛 年 」 静かで謙虚なもの言いの中に、確かな自 岡さんも、講演会に来てくださった。物 感じるものなのだとつくづく思った。倉 を楽しみ、文化というのは嗅覚や味覚で いただき、束の間、懐かしい日本の香り いう。ここで、私も江戸風のざるそばを ジュリアーニ元市長が店の常連だったと 提供する店として知られる。松井秀喜や 陣頭指揮をとり、良質のそばと日本酒を 九十歳が近いらしい。自ら店頭に立って 次 に「 レ ス ト ラ ン・ 日 本 」 の 経 営 者、 倉岡伸欣さん。年令は企業秘密というが タンの高層ビルの威圧感にうんざりして パー、花屋、学校などが並ぶ。マンハッ カ ル な コ ー ヒ ー シ ョ ッ プ、 小 さ な ス ー リシャ料理を出すタベルナ(食堂)やロー リシャ系アメリカ人が多く住むので、ギ い建物がないからだ。このあたりは、ギ 分が落ち着いた。あたりを見回しても高 一度だけ地下鉄でマンハッタンを離れ 大 陸 側 の ク ィ ー ン ズ 地 区 へ 行 っ た。 ブ ノグチ・ミュージアム た。 が限定保存されているという印象を覚え 時にそこには日本というタフな国の過去 せることができた人たちなのだろう。同 吸い込んで、それをプラスの力に転換さ ク」という特別な歴史的空間の「気」を りの方だが――には、偉大なエネルギー 一週間のうちにニューヨークで出会っ た日本人――お会いしたのはほんの一握 はニューヨークしかあり得ない。 意識が高い。新たな作品の構想を練るの ころ。現代アートに関わる人たちのプロ 責任ある反応がかえって来るのがいいと される。でも自分から問いかければ必ず ので、高いコミュニケーション力が要求 こ ん な 話 を 聞 い た。 ニ ュ ー ヨ ー ク で は、日本のような以心伝心は通用しない に設置)も野田さんが手がけた。 ボルとなるモニュメント(アテネと松江 オブ・ラフカディオ・ハーン展」のシン 出会い ロードウェイ駅を降りたとたんに妙に気 が底流していた。もちろん、「ニューヨー この美術展の開催を実現に導いた日本 ■(上段)展示会場を訪れた松浦松江市長。(下段)野田正明さ んのアトリエ。 40 ロ ン グ・ ア イ ラ ン ド・ シ テ ィ ー に あ る ためだった。イースト・リバーに面した この地区に来たのは、冒頭に記したよ うに「ノグチ・ミュージアム」を訪ねる いたので、実に心地よかった。 チの精神に共感する。 リックアートの神髄を知りつくしたノグ が再来を願って送り出してくれる。パブ 問者を暖かく迎えてくれ、最後に同じ庭 作品が配置されたほのぼのとした庭が訪 た。「 オ ー プ ン・ マ イ ン ド 」 と い う 精 神 作り出す絶対条件なのではないかと思っ こそが、真の「オープン・マインド」を 漂 泊 の 精 神 と い う べ き「 帰 属 の 危 う さ 」 ブな側面を併せ持っている。でも、この も 残 っ て い た。 そ ん な 親 近 感 を 抱 い て イ サ ム・ ノ グ チ か ら い た だ い た は が き 手 と な っ て く れ た。 だ か ら 我 が 家 に は を許してくれたのか、遊び相手、学び相 私の祖父一雄は、子どものころ、レオ ニーに英語を習っていて、その際、いつ た。 に我が家を訪ねられたのかを想像してみ ドウス昌代さんが、なぜ自分の学生時代 い。あらためて伝記も読み返し、著者の 点を熱心に語り合ったことが忘れられな 松江でお会いし、イサムとハーンの共通 興奮が冷めやらぬうちに松井久子監督と も こ の 映 画 を 広 島 で 見 て 大 い に 感 動 し、 生が映画化されたのは二〇一〇年で、私 そのレオニーとイサムをめぐる波乱な人 一 九 〇 六 年 に イ サ ム を 伴 っ て 来 日 し た。 というハーンの評伝を出 Hearn in Japan し た 人 だ。 母 は レ オ ニ ー・ ギ ル モ ア で、 然と再会したからかもしれない。ミッド 仕事が終わり、そんな安堵感をもって自 ンの喧騒の中に一週間いて、何とか無事 分の問題なのかもしれない。マンハッタ だろうと思ったが、不思議だ。これは気 アイルランドのスライゴの海岸で真夏 の大西洋に手を入れた時は何と冷たいん た。異常に生温かった。 パークを散歩し、大西洋に手を浸してみ タを楽しんだ。その東にあるステート・ で、カラマリ(小イカ)のフライとパス グリニッジという小さな町のレストラン たが、途中で断念し、コネチカット州の い一日だった。当初、ボストンをめざし ディアンサマーに逆戻りしたような暖か た。この日は雲ひとつない快晴で、イン ハッタンから再び私たち夫婦を連れ出し き て く れ た。 レ ン タ カ ー を 借 り て マ ン 帰国の前日、ロサンゼルスに住む友人 夫婦が、わざわざニューヨークに飛んで 人間にとって必要なものだと体感したこ 代えがたい幸せだった。自然がこんなに ニューヨークを後にできたことは何にも 美しい緑と青い海に静かに見送られて た い。 し か し、 最 後 に コ ネ チ カ ッ ト の に導いてくれたことにあらためて感謝し ニューヨークという町の偉大なエネル ギーとそこで出会った方たちの親切でア 形にさえぎられてのことだ。 ことがあるが、これはあくまで自然の地 本あたりでも似たような現象を体験した ても自然の摂理に反している。石見の川 に陽が差し込まないというのは、どうみ 響き合う共通性なのだろう。 性こそ、ノグチとハーンが深いところで ミュージアムを徒歩でめざす。ここは世 イ サ ム・ ノ グ チ の 父 は 詩 人 の 野 口 米 次 郎 で、 一 九 一 〇 年 に 早 く も Lafcadio 界的な彫刻家イサム・ノグチ自身が設計 の部分からなる二五〇〇平方メートルの ミュージアムを見学すると、イサム・ノ と、これが、皮肉にもニューヨークで得 した建物と庭園、それに元々あった工場 敷地で、多彩なノグチの作品と十分に対 グチの作品からは何か「オープン・マイ タウンの高層ビルの谷間では朝十時頃に た最大のお土産かもしれない。 コネチカットの自然に包まれて 話することができる美術館だ。ノグチの ンド」なものを感じ、マンハッタンで疲 ならないと日が昇ってこないし、夕方は ( こ い ず み・ ぼ ん / 総 合 文 化 学 科 教 員 * 民 俗 クティブな力がこのたびの展示会を成功 れ た 心 を 優 し く 包 み 込 ん で く れ た。「 開 早々にくすんだ水色の空となる。新宿の 学) も年下のイサム君が同じ境涯の一雄に気 かれた精神」は「普遍性」というポジティ 沙汰ではない。太陽があって雲もないの 41 のんびり雲|第 6 号| 2012 ■コネチカット州のステイト・パーク。 ブな面と「帰属の危うさ」というネガティ ■ノグチ・ミュージアム。 ウッドクラフト には、沢山のお土産屋さんや飲食店が軒 成一五年五月に 多野憲さん。平 です。店主は波 ト「汐や」さん るウッドクラフ 届いた情報に、私は興味をそそられまし そんな時に耳にしたのが、大社に木工 品のお店があるという話です。口コミで 資源を発見したかったからです。 できた灯台と、眼下を飛ぶウミネコ、そ は初めてでした。この間近に見ることの 生まれも育ちも出雲市斐川町の私です が、実は、あんなに間近で灯台を見たの た。 的な存在感をもってそびえ立っていまし ませんでしたが、白い日御碕灯台は圧倒 様で、日本海の景色を楽しむことはでき 取材当日の六月三〇日はあいにくの雨模 の 灯 台 一 〇 〇 選 」 に も 選 ば れ て い ま す。 台 と し て は 日 本 一 の 高 さ を 誇 り、「 世 界 は、 高 さ 四 三・七 メ ー ト ル と 石 積 み の 灯 「 汐 や 」 は、 県 内 有 数 の 観 光 名 所、 日 御碕灯台の真横にあります。日御碕灯台 ウッドクラフト「汐や」 」 います。 となって「落ち着いた」雰囲気を作って 置の仕方、昔の道具など、すべてが一体 醸し出しています。店の広さ、作品の配 も所々におかれていて、独特の雰囲気を 面、自在鍵や天秤棒など、昔の生活道具 ます。よく見ると、古いタンスや臼、帳 と中央に作品がゆったりと展示してあり とは言えませんが、店内には、左右の壁 くりきます。広さは約八畳と決して広い しかしお店に入ると、静かというより も「落ち着く」という言葉が、一番しっ ずいぶんと静かな印象を受けます。 いてありました。周りのお店と比べたら、 呼び込みをしていました。そんな中で「汐 木工作品というと、私には馴染みのな いような、少し「お堅い」イメージを持っ 気を演出しています。 す。その日本的な裸婦像も、お店の雰囲 樹脂で出来ていてとても軽いのだそうで で銅で出来ているのかと思ったら、実は して立っています。赤銅色をしているの を連ねています。飲食店は、大きな声で 開 業 し ま し た。 して足元をワサワサと歩き回っているフ 波多野さんのおじさんも物づくりを仕 事 に し て い る そ う で す。 お 店 の 奥 に は、 ていましたが、実際は全くそんなことは 工芸・木工芸・木彫のことを言います。 「汐や」を訪ねて 「地元の出雲のモノを取り上げたい」 ウッドクラフト ナムシのおかげで、私は日御碕を存分に そのおじさんが作った高さ一八〇センチ せき や」は、小さな看板が一つ、店の前に置 を中心とした作 堪能することができました。 ぐらいの裸婦像が、いまにも歩きそうに ジが大きいですが、その陰に隠れた文化 品を販売してい そのお店は、出雲市大社町日御碕にあ た。 ます。ウッドク そんな日御碕という観光地で営業して い る「 汐 や 」。 駐 車 場 か ら 灯 台 ま で の 道 材を素材とした 温かみ溢れる木工作品 ラフトとは、木 私がまず最初に思ったのは、これでし た。出雲といえば出雲大社というイメー 深津知里 ■真剣な表情で作業をする波多野さん。ろくろとかんなを巧みに操る。 り ま し た。 そ の ま ま 手 で 回 す タ イ プ は、 まま手で回すタイプの二種類のコマがあ お店には可愛いコマが沢山ありまし た。紐を巻きつけて回すタイプと、その 木をさし、ろくろを回し、かんなを使い 実際に、波多野さんにろくろの作業を 見せていただきました。まず、ろくろに ます。 して一番奥に、木工ろくろが置いてあり んは、基本的にろくろを使って作業を行 四、五センチのものから、三、四ミリの本 細長い卵型やコマなどの形を作っていき ありませんでした。店内に置かれている 当に米粒のサイズのものまで、いくつか 燥させたもので磨くそうです。作業で使 います。 のサイズがありました。 うカワハギの皮は、近所の方が持って来 のは、とても愛嬌のある、可愛らしい作 作品の中には高さ五センチほどの削っ ていない木の顔と胴体に針金で手と足を 品ばかりでした。 つないだものや、高さ約五~一〇センチ てくれるそうです。 店の隣は四畳ほどの作業場になってい て、電動のこぎりや穴をあける機械、そ の細長い卵型とも言えるような形の木に 多野さんはどんな気分だったのかなと考 れました。作品の表情から、この日の波 じものはないと波多野さんは言っておら こと。同じ物を作るのは苦手で、全く同 もしているそうです。モデルはないとの て、そこから思いついて表情を決めたり ています」と返ってきました。映画を見 す か 」 と 聞 く と、「 そ の 日 の 気 分 で 描 い で、「 表 情 は ど う や っ て 決 め て い る の で ユニークな表情のものばかりだったの いった表情でしょうか。何とも言えない げ て 笑 っ て い る も の で す。 ニ タ ッ っ と 何とも言えないユニークな表情の作品 もありました。目を見開いて、口元を上 箱に捨てられた木材の中から、使えそう 作品は、椿やアオハダといった堅い木 材を使って作ります。先生の工房でゴミ なものなのだなと思いました。 を作る上で、道具も作品を左右する大事 方は大事だと言っておられました。作品 ばし作っていきます。やはり、刃の付け い、鍛冶屋のように火に入れ、叩いて伸 その二種類のかんなは自分で作るそう です。刃金は先生のところでわけてもら 首などに使われます。 はくびれたような形をしており、人形の のかんなの二種類です。幅が狭いかんな んなとそれ以外の作業で使う幅一センチ ます。形ができたら、カワハギの皮を乾 表情が描かれているものもあります。 形を作るカンナは二種類あるそうで す。細かいところに使う刃の幅が狭いか えてしまいました。 作品が生み出されるまで ものでも大丈夫だそうです。 作品が小さいものなので、それぐらいの な物を持って帰ることもあります。作る 温かみ溢れる作品を生み出す波多野さ 43 のんびり雲|第 6 号| 2012 ■作品を磨くカワハギの皮。 かなと思いましたが、何かに使えるかも えてくださいました。こんなもの使うの と、それはウニの刺を取ったものだと教 作業場には、木以外に見たことのない ものがあり、これは何かなと思っている たからこそ言える言葉だなと だったそうです。充実してい 波多野さんにとって、産業 体験の一年間はあっという間 現在のお店で独立しました。 の提案もあって平成一五年に お店で修行した後、松谷さん と持っているそうです。どこまでも、発 思いました。 想力豊かな方だなと思いました。 木工との出会い だ っ た の で す。「 吉 や 」 は、 大 社 の 島 根 こ れ が、 波 多 野 さ ん と 木 工 と の 出 会 い たのが、「吉や」という木工のお店でした。 ま、島根定住財団の担当者から紹介され 波多野さんは、もともと木工がやりた かった訳ではありませんでした。たまた です。 きっかけづくりをしようという取り組み してもらうことによって、UIターンの で農林漁業や伝統工芸などの産業を体験 産業体験とは、島根定住財団が行って いる事業であり、県外の人に、島根県内 島根に来ていたそうです。 あると知ってから、わずか一週間後には て来られたそうです。島根で産業体験が 島根の産業体験に応募して、島根にやっ キングホリデーを経験しました。帰国後、 ました。その後、カナダで二年間のワー 会社員として働いた後、二七歳で退職し お昼に困ることはないんだとか。その話 の 方 が お 昼 を 御 馳 走 し て く れ る そ う で、 波 多 野 さ ん は、「 周 り の 皆 さ ん が と て も親切だ」とも言っていました。ご近所 しょう。 根を不便な場所と感じることはないので と言っていた波多野さんにとっては、島 した。しかし、「人が多いところはダメ」 る場所に住んでいるとは思えない発言で た。車でコンビニへ行くのに三〇分かか い た の で、 こ の 答 え は 意 外 な も の で し 島根は不便で困るのではないかと思って ら し た ら、 都 会 の 愛 知 か ら 来 た の な ら、 んなことはない」と言われました。私か と 聞 い て み ま し た。 す る と 即 座 に、「 そ そんな波多野さんに、「愛知から来て、 不 便 だ と 感 じ た こ と は あ り ま せ ん か?」 へ帰っていきました。 は、産業体験が終わるとそれぞれの地元 ているのは波多野さん一人です。他の人 波多野さんと同期に産業体 験をした人で、今島根に残っ 少なくはないでしょう。私もその一人で とけば……」と後悔したことがある人も は 本 当 に ビ ッ ク リ で す。「 あ の 時 あ あ し 思いカナダを訪れた波多野さんの行動力 そうです。ワーキングホリデーという機 ワーキングホリデーでカナダを訪れた 時は、住む場所も決めずカナダに行った す。 年働きながら旅行することが認められま 三〇歳の日本国民なら、訪問国で一~二 期滞在の許されるビザです。一八歳から 外休暇旅行です。観光旅行とは違い、長 キングホリデーとは、就業許可付きの海 今 回 私 は、「 ワ ー キ ン グ ホ リ デ ー」 と いう言葉を初めて知ったのですが、ワー そんなことはないなと思いました。 しいと聞いたことがありましたが、全然 ました。出雲の人は他所から来た人に厳 Iターンの苦労は? ワイナリーの近くにあり、波多野さんの を聞いて、出雲が地元の私も嬉しくなり 「 汐 や 」 の 店 主、 波 多 野 憲 さ ん は、 愛 知 県 の 出 身 で す。 地 元 の 愛 知 で 七 年 間、 師匠である松谷伸吉さんが営んでおられ 会があるのだから、使わなきゃ損だ、と カナダでの ワーキングホリデー ます。波多野さんは、一年間松谷さんの 44 ワーキングホリデーで訪れたカナダで は、農業をして働いたそうです。車に沢 ありました。 動」という経験談からは沢山学ぶことが す。波多野さんの「思いたったらすぐ行 らいました。自分をさらけ出せるように すが、カナダではいろんな人に助けても れ る よ う に な り ま し た。 今 ま で は 何 で した。他の人からも明るくなったと言わ た性格が明るくなったと言っておられま も自分一人でできると思っていたそうで 山乗り、車が潰れるほどだったとのこと なったそうです。 す。ワーキングホリデーでカナダへ行く 人間にならざるを得なかったと思いま す。サラリーマン時代は仕事中心の仕事 た。そのなかで、性格も変わったそうで カナダでの時間は、波多野さんにとっ て人生を考え直すリフレッシュ休暇でし う言葉でした。波多野さんの生活はまさ 野さんの「自分の時間が一番大事」とい この取材で一番印象的だったのは、波多 う 生 活 を 送 っ て い る と い う 波 多 野 さ ん。 起きるのも気分、作業時間も決めずとい あっている」と言っておられました。朝、 時間と生活スタイル ことで価値観も変わったのではないので にその通りだと思いました。 な い と 言 っ て お ら れ ま し た。 こ こ で も、 しょうか。サラリーマン時代と今の生活 会社員の頃と比べての発言だったのか もしれませんが、波多野さんは「一人が とでは時間の使い方・考え方、価値観な ど一八〇度変わったと言えます。暗かっ 最初から最後までやるのが好きと言っ ておられた波多野さんにとっては、これ 波多野さんの行動力を感じました。 う質問に、もともと英語ができた訳では です。語学力に心配はなかったか、とい ■(上・中段)波多野さんの作品。(下段)小さな コマを回すのに悪戦苦闘しました。 作業は深夜になっていることもあるそう 中しすぎて時間が分からず、気づいたら から好き」と言われた波多野さんは、熱 こ と は で き な い で し ょ う。「 熱 中 で き る 自分一人で最初から最後までするという ん。会社に勤めていたら、一つの仕事を 波多野さんは今を楽しんでいる。そうい て 見 え、 少 し 羨 ま し い と も 感 じ ま し た。 す。私から見た波多野さんの生活は輝い 多野さんにとってそれは二の次なので 金を稼ぐためと考えてしまいますが、波 思 い ま し た。 私 は、「 働 く 」 と い え ば お 波 多 野 さ ん の お 話 を 聞 け ば 聞 く ほ ど、 波多野さんは今の生活を楽しんでいると も木工の魅力の一つなのかもしれませ です。 じることができます。今のお仕事は、波 からも、波多野さんの木工への思いを感 囲気が出迎えてくれます。 か。温かみ溢れる作品と、落ち着いた雰 「汐 みなさんも、日御碕を訪れた際は、 や」へ足を運んでみてはいかがでしょう う印象を受けました。 多野さんの性格や生活スタイルに合って (ふかつ・ちさと/文化資源学系一年生) 作業に集中できないからと、波多野さ んは家にテレビを置いていません。そこ いるな、と思いました。 ■(上段)珍しい機械が沢 山ある作業場。(下段)楽し い雰囲気の店内。
© Copyright 2024 Paperzz