山陰の名物まんじゅう 大試食会

山陰の名物まんじゅう
大試食会
野口詩織
昔から人々の間で親しまれてきた「ま
ん じ ゅ う 」。 そ の 歴 史 に つ い て は 諸 説 あ
りますが、古いところでは十三世紀に中
国 か ら 伝 わ っ た と さ れ て い ま す。 ま ん
じゅうは他の和菓子と比べると少し地味
なイメージを持たれることがあるかもし
れませんが、何百年もの間、食べ続けら
れている、日本人には欠かせない和菓子
です。
山陰には誰もが知っている有名なまん
じ ゅ う も い く つ か あ り ま す が、「 ま だ ま
だ人にあまり知られていないまんじゅう
がたくさんあるはず!」と思い、歴史の
長いものから短いものまで、さまざまな
まんじゅうを収集し、試食会を行うこと
にしました。第一弾の試食会を六月十三
日に総勢十六人で行い、七月九日、八月
十日に第二弾、第三弾を行いました。
どじょう掬いまんじゅう
かつてフランス人が出演していたユ
ニークなCMでおなじみの「どじょう掬
い ま ん じ ゅ う 」。 食 べ た ま ん じ ゅ う の 中
で断トツの知名度を誇っていました。つ
■「どじょう掬いまんじゅう」
中浦本舗(松江市) 30
ぶらな瞳がとても可愛らし
く、食べるのがもったいない
という声が多かったようで
す。中の餡がさらさらとして
粉雪のような食感でした。
どじょう掬いデカまん
じゅう
す。とても一人では食べきれなさそうな
てあります。大きくても可愛さは健在で
いるのです。鳥取の名物が目でも舌でも
まんじゅうには大山バターが使用されて
多かったです。皆さん鋭いですね。この
通常の「どじょう掬いまん
じゅう」をそのまま大きくし
ので、切っちゃいました。キメが細かく
味わえます。
因 幡 の 白 う さ ぎ( 古 事 記 編 纂
一三〇〇年特別パッケージ)
綺麗なおでこにナイフを入れるのは心痛
みましたが、おいしくいただきました。
因幡の白うさぎ
つ で す。「 ふ ろ し き ま ん じ ゅ う 」 を 製 造
販売している山本おたふく堂は、なんと
明治元年の創業で、昔からの味を今まで
保ち続けています。まんじゅうの出来上
がりがふろしきの四隅を折ったような形
になることから、「ふろしきまんじゅう」
と名付けられたそうです。
本物の経木に包まれていて、なかなか
趣があります。まんじゅう同士がくっつ
き合っていて、離す時に表面の薄い生地
がはがれてしまうのも御愛嬌。少しお酒
して米粉に混ぜた生地と、朝汐餡と呼ば
ですが、薯蕷(とろろいも)をすり下ろ
朝汐といえば菓子処松江を代表するま
んじゅうです。見た目はとてもシンプル
朝汐
パッケージには「妖怪なまえあてクイズ」
小判型のまんじゅうに妖怪たちの焼
印 が 押 し て あ り と て も 可 愛 ら し い で す。
ゲゲゲの鬼太郎小まんじゅう
が口いっぱいに広がります。
が、お酒は入っていません。黒糖の甘さ
いるように思われました。
れる皮むき小豆餡が使用されていて、と
の味がするという意見も多かったのです
ても上品な味がします。少しお値段が張
です。なんと書籍の形をしています! 一目見て、中にまんじゅうが入っている
いがボーロのようだなと感じました。こ
こちらはパッケージがとても珍しいの
さ ぎ 」。 耳 の 形 が 綺 麗 な 曲 線 を 描 い て い
なんて微塵も思えないでしょう。どう見
ふろしきまんじゅう
楽しめます。食べたときの鼻に抜ける匂
が書かれており、味だけでなくクイズも
て思わず撫でてしまいそうです。こちら
ても本にしか見えません。今年の古事記
■「妖怪饅頭」寺子屋ウェーブ
(境港市)
るので大人の一品です。
の餡はしっとりなめらかで、とてもまろ
「 赤 い 目 が と て も 可 愛 い 」 と 女 の 子 た
ちが黄色い声をあげていた「因幡の白う
■「朝汐」彩雲堂(松江市)
のまんじゅうの特徴は紅芋の餡が使用さ
■「ゲゲゲの鬼太郎小まんじゅう」
宝販売(鳥取県三朝町)
たくさんのファンをもつ山陰銘菓の一
■「ふろしきまんじゅう」山本おたふ
く堂(鳥取県琴浦町)
編纂一三〇〇年をとても上手くPRして
■「花馬饅頭」井山屋製菓(出雲市
多伎町)
■「因幡の白うさぎ」寿製菓(米
子市) やか。バターの風味がするという意見が
■(上段)どじょう掬いデカまんじゅ
うを持つ吉岡さん。(下段)デカまん
じゅうを切る筆者。
れていることで、とてもさっぱりしてい
ます。
妖怪饅頭
こちらもゲゲゲの鬼太郎たちのまん
じゅうです。しかし、鬼太郎小まんじゅ
うとは違い、まんじゅうの形自体が妖怪
の形をしていました。こちらのパッケー
ジには妖怪たちの名前がつけられたJR
境線の駅名が載っていて、食べながら楽
しむことができるなと思いました。人形
すぎなくて食べやすい味です。
し た 生 地 で し た。「 塩 蒸 し 」 と 書 か れ て
皆生温泉みやげとして売られていま
す。和菓子とは思えないほどふわふわと
塩蒸し饅頭
いう意見が多かったです。
し た。「 黒 糖 の 味 が 強 く て お い し い 」 と
が記されていてとても珍しいなと思いま
利休饅頭は浜田名物です。包み紙には
有名な浮世絵師である一勇斉国芳が描い
利休饅頭
花馬饅頭
いたので塩の味が強いかと思えばそうで
た。
これで「はなんばまんじゅう」と読み
ます。出雲市多岐町のお菓子です。白餡
はなく、ほんのりと塩の風味があり、同
焼に栗餡を入れたような感じですが、甘
の舌触りがよく、これぞまんじゅうの王
時にミルキーな味が塩味によって引き立
■「鳥取大砂丘」宝販売(三朝町)
じです。試食会終了後にスーパーに行く
出雲まんずっにあらエッサくんの焼印
が入っています。味は出雲まんずっと同
あらエッサくん
面白いという意見がありました。
うなのでしょう。この出雲弁の商品名も
んずっ」と書いてあるからにはまんじゅ
と 疑 問 に 思 う 人 も い た よ う で す が、「 ま
パンのような食感で、まんじゅうなのか
事まんじゅうというイメージです。蒸し
ら れ ま す が、「 出 雲 ま ん ず っ」 は そ の 法
私 の 住 ん で い る 地 域( 安 来 市 広 瀬 町 )
では法事のときにパンやまんじゅうが配
出雲まんずっ
た利休と『秀雅百人一首』の利休の和歌
道という意見が多かったです。知名度は
■「おしどりの詩」宝販売(三朝町)
てられ口に広がります。
■「利休饅頭」仲屋(浜田市)
一番低かったのですが、人気は上々でし
■(左上)「出雲まんずっ」(左下)「あらエッ
サくん」瀬尻製パン店(安来市広瀬町)
(右)「塩蒸し饅頭」宝製菓(鳥取県琴浦町) と、なんと、しまねっこバージョンのま
んずっを発見しました。出雲まんずっは
着々とその範囲を広げているようです。
鳥取大砂丘
名前の通り鳥取砂丘をイメージしたま
んじゅうで、表面に風紋のような模様が
表現されています。包装紙にも鳥取砂丘
32
がプリントされており、砂丘の美しさが
伝わります。また、砂丘についての説明
書きも記されていて、おみやげにはぴっ
た り の 一 品 だ な と 思 い ま し た。 練 乳 が
入っていますが、甘すぎず食べやすいで
す。
おしどりの詩
おしどりは鳥取県の鳥で、まんじゅう
自体が鳥をイメージさせる形をしていて
き な こ ま ん じ ゅ う、 か ぼ ち ゃ ま ん じ ゅ
丸で囲んだようなマークがかかれていま
うです。酒まんじゅうは一畑の一の字を
は酒まんじゅうとむらさきいもまんじゅ
んじゅうがあるのですが、今回食べたの
口に入れたときにいちじくの風味が口に
が 連 想 さ れ た と い う 意 見 も あ り ま し た。
ら餡が少し出ていて、いちじくの割れ目
出雲市多伎町の特産品である、いちじ
くが使われています。白くて丸い生地か
いちじく浪漫
がありました。
す。味は素朴でお酒の風味がほんのりす
う、黒ごままんじゅう、むらさきいもま
るという声が多かったです。むらさきい
広がります。餡にはいちじくの種が入っ
見 が 多 か っ た の で す。 し か し、「 こ の よ
もまんじゅうはきれいな紫色をしていま
うな経験は一度きりで勘弁して欲しい」
ていて、いちじく特有のプチプチ感が楽
買い出し人によると益田のまんじゅう
といえば鶏卵饅頭か千両まんじゅうだと
という声や、この試食会は三度行ったの
す。餡がしっとりしていて生地との相性
かりんとう饅頭
言われたそうです。残念ながら千両まん
で す が、「 三 度 目 に は 出 席 し た く な い 」
しめます。
る梨からできたピューレが入っていて独
じゅうは手に入らなかったのですが、鶏
という声も上がりました。
が抜群です。
特の味がしました。包装紙の絵は鳥取の
見た目が真っ黒で少し驚きました。黒
糖 の 味 が 強 く、 少 し 苦 味 が あ り ま す が、
卵饅頭は入手することができました。益
とても可愛いです。鳥取県の特産品であ
画家である濱田壽峰によって描かれたも
餡の甘さと調和してとてもおいしいで
田市にある鶏卵堂で作られているまん
鶏卵饅頭
ので、鳥取県の特徴を凝縮したようなま
す。 パ ッ ケ ー ジ が キ ュ ー ブ 型 で 珍 し く、
じゅうです。パッと見、普通のまんじゅ
まんじゅうはおみやげとしての性質が
強いからか、その地域の文化を象徴して
こんなに多くのまんじゅうを食べたの
は初めてで、とても楽しかったという意
んじゅうだなと思いました。
高級そうなイメージだという声が多かっ
うですが、触ってみるとケーキのように
い る も の が 多 い な と 思 い ま し た。 ま ん
たです。
一畑まんじゅう
ふわふわとしています。白餡がしっとり
(のぐち・しおり/日本語文化系二年生)
れているからではないでしょうか。
広まると同時に、地元の人々が愛してく
るのは、おみやげとして他地域の人々に
一畑まんじゅうは一畑薬師の近くの開
眼堂というお店で作られています。いつ
■「鶏卵饅頭」鶏卵堂(益田市)
じゅうが昔から多くの人に親しまれてい
か ら あ る そ う で す。
一畑薬師近辺でしか
売られていないの
で、わざわざ遠方か
■「いちじく浪漫」
多 伎 振 興( 出 雲 市
多伎町)
ら買いにくるお客様
も お ら れ る そ う で、
とても根強いファン
がいるようです。味
の種類は五種類あ
り、 酒 ま ん じ ゅ う、
33 のんびり雲|第 6 号| 2012
■「一畑まんじゅう」開眼堂(出雲市)
していて、生地はカステラのように甘み
■「かりんとう饅頭」はまみ屋
(米子市)
から作られているのかわからない程古く
■パッケージの見た目について感想を書いている編集部員たち。
いしい和菓子屋さんがあります。その代
市にも松江ほど多くはありませんが、お
名です。しかし、私の生まれ育った米子
れ、日本三大菓子処でもあり、非常に有
松江市は、七代目松江藩主の松平不昧
公の影響により、古くからお茶が親しま
羊羹」を購入しました。そして、
この日は不参加)お勧めの「白
ん(残念ながら、都合が悪くて
員の一人で米子市在住の大家さ
るだや本店に立ち寄り、編集部
した。まず、角盤町にある、つ
のんびり、米子の
和菓子を味わう
表 が、 創 業 八 十 七 年 の 老 舗「 つ る だ や 」
米子湊山公園に向かい、到着後
吉 岡 萌
です。
した。
です。
米子尽くしのお茶会をやろうというわけ
湊 山 公 園 に し ま し た。 松 江 市 に 対 抗 し、
抹茶を使い、場所は米子を代表する公園、
業は享和元年、つまり一八〇一年)のお
た。お抹茶は米子の老舗、長田茶店(創
集部員だけのお茶会を開くことにしまし
き、先ほど購入した白羊羹を頂くことに
日本庭園の芝生にビニールシートを敷
茶会をすることに決めました。さっそく
……」と思っていたので、この場所でお
こ の お 茶 会 に 参 加 し、「 い い と こ ろ だ な
です。私も高校生の頃、茶道部員として
会が行われるところで、風情がある場所
一度開かれる米子市民大茶会というお茶
いのですが、日本庭園は米子市で一年に
場所として選んだのは入って
すぐの日本庭園。湊山公園は広
そして、私と編集部員の石田さん、野
口さんの三人の協力によって持ち寄った
とができました。
まろやかで、とても美味しくいただくこ
子だそうです。食べてみると味は非常に
ではあまり目にすることができないお菓
菓子があるのですが、白羊羹は他の地域
います。普通、日本全国に似たようなお
白羊羹とは、白いんげんを使って練り
上げられたもので、米子名物と言われて
さっそくお茶会の準備を始めま
し、十二時半に学校を出発しま
今回私たちはつるだやを訪れ、米子の
和菓子について色々とお話を伺うことに
■まったりと米子を味わう
しました。
しました。また、つるだやのお菓子で編
六月十一日、私たち二年生編集部員六
人は、お茶会を行う米子湊山公園を目指
抹 茶 茶 碗 に、 長 田 茶 店 の お 抹 茶 を 注 ぎ、
さ っ そ く 人 数 分 点 て る こ と に し ま し た。
私が持ってきた茶碗は曽祖父が趣味で
作ったものであり、石田さんが持ってき
たものは、陶芸作家である石田さんのお
父さんが作られたものです。
編集部員六人と先生二人分のお抹茶を
一 人 で 点 て る の は と て も 大 変 で し た が、
おかわりをしてくれる人もおり、美味し
そうに飲んでくれたので、こちらも嬉し
くなりました。お抹茶も、まろやかな口
当たりと程よい苦みがあり、白羊羹の甘
さと上手く調和し、非常に美味しくいた
園にはほとんど人がおらず、貸切状態で
頃にはすでに、洋菓子を販売
んでしたが、社長が子どもの
販売を行っている和菓子屋さ
菓子など、焼き饅頭を中心に
つるだやは大正十四年四月
十五日に創業されました。創
方です。
鶴田定蔵さんのひ孫にあたる
鶴田陽介さん。創業者である
迎えてくださったのは社長の
七月二日、米子のお菓子屋さん、つる
だやに取材に伺うことになりました。出
■創業八十七年の老舗つるだや
餡を詰めたも
れた白餡と粒
種に、吟味さ
刻印した最中
「 つ る だ や 最 中 」 は、 つ る だ や の ブ ラ
ンドマークを
も美味しかったです。
した甘みがあり、求肥も柔らかくてとて
す。私もいただきましたが、ほんのりと
げ、口当たりがとても滑らかいお菓子で
職人さんが一つ一つ丹精込めて作り上
を 求 肥 で 細 長 く 包 み 込 ん だ 生 菓 子 で す。
ゆずを練りこんだ、ゆず餡の二種類の餡
いう商品。十勝産小豆の粒餡と、白餡に
少 し 紹 介 し ま す。 ま ず、「 は は き 野 」 と
「弓ヶ浜の歌」(竿菓子)、「浜がすり」(饅
子が沢山あること。例えば、「皆生松露」、
不思議に思ったのが、つるだやの商品
には、米子にちなんだネーミングのお菓
■不思議なネーミング
ます。私も、秋にぜひ食べてみたいです。
で、栗好きにはたまらない一品だと思い
ます。栗丸ごとの風味を生かしているの
用いて、大粒の栗を一粒丸ごと包んでい
ものです。こなし餡は小麦粉、くず粉を
「 栗 ざ ん ま い 」 は、 上 質 の 甘 露 煮 の ま
るた栗を、こなし餡で包んで蒸しあげた
モニーを楽しめます。
つの素材がマッチしており、絶妙なハー
口の中でとろけそうな美味しさです。三
だくことができました。この日、日本庭
した。天気も爽やかで素晴らしいお茶会
し て い た そ う で す。 現 在 で
のです。最中
となりました。
も、バームクーヘンやパウン
種は歯ごたえ
業当初は「桃山」といったお
ドケーキなどの洋菓子も販売
が優しく、白
鶴 田 さ ん は、「 米 子 の お 菓 子、 地 域 の
お菓子だとお客様に分かってもらいたい
頭)、「番傘まんじゅう」などがあります。
されています。
餡 と 粒 餡 は、
35 のんびり雲|第 6 号| 2012
■(上段)白羊羹を食している様子。(中段)花冠で
遊ぶ、石田さんと野口さん。(下段)お茶会後、モニュ
メントの前で記念撮影。
ここで、つるだやの商品を
■(左)お茶を点てる筆者。(右)米子名物、白羊羹のパッケー
ジ。とても美味しかったです。
■ははき野。
通りでないた
め、全ての人
の好みに合わ
せることはで
きない。だか
ら、大多数の
人の舌に合わ
せることが必
ちなみに、以前は法事のときは法事パ
ン が 各 家 庭 で 出 さ れ て い た そ う で す が、
要となってく
る。ただ、そ
世間で「法事にパン
」というイメージ
れ が 難 し く、
年代頃から、人々の
間で甘さを控えたお
菓子が好まれるよう
に な っ て き ま し た。
これに合わせて、つ
るだやで作られるお
菓子も、甘さを控え
たものに変わってき
苦労するとこ
やカステラが使われるようになったそう
が浸透してきたため、現在ではどら焼き
れていました。時代の変化に柔軟に対応
康に良い商品を作っていくことを挙げら
められるのだなと実感しました。
し、お客様のニーズに対応することが求
ろ」と話して
味しく、安全なお菓子を作ることだそう
お菓子を作る上でのこだわりは、お客
様に手に取ってもらいやすい価格で、美
を感じ、とても嬉しく思いました。
子市民である私は、米子を愛する気持ち
ることがとてもよく伝わってきます。米
売をしているから、米子にこだわってい
おっしゃいました。米子の人を相手に商
に特化したネーミングにしている」と
のだ、ということを伝えたいから、地域
し、米子近辺にはこのようなものがある
て い て「 お 菓
やの商品を食べ
の頃からつるだ
中には、子ども
よく買いに来ら
お供え物として
岸など、仏事の
お 客 様 の 年 齢 層 は、 五 十 代 の 方 が 多
く、お盆やお彼
た。
お客様もいらっ
■(上段)最中の包装作業。(中段)大きな釜で小豆
餡と水飴を混ぜているところ。(下段)工場内にあった
クロードのトレイ。
新商品はどのように開発し、作られて
いるのでしょう。新商品は毎年いくつか
■健康に良いお菓子?
です。やりがいもやはり、お客様に美味
子と言えばつる
は、肩ひじ張らず、いつまでも愛される
しいと言っていただけることで、お客様
だや!」という
お店でありたいとおっしゃっていまし
のことを一番に考えておられることが伝
しゃるようで
出されるそうで、昔製造していたものを
わってきました。
す。
鶴田さんはお菓子の変化についても話
してくださいました。高度経済成長期を
逆に、お店をしていて苦労したことは、
お客様の商品に対する評判や感想が良く
れ る そ う で す。
な か っ た と き だ そ う で す。「 人 の 舌 は 一
久しぶりに作ってみて、店頭に出して評
た。鶴田さん
です。
そして、これから挑戦したい取り組み
として、現代人のニーズに合わせた、健
たそうです。
■(上段)中にはこんなに可
愛らしいお菓子も !!(下段)
鶴田さんお気に入りのレモン
ケーキ。
くださいまし
?
過ぎ、生活にゆとりが出てきた昭和五十
■(上段)お菓子作りへの想いを熱く語る社長の鶴田陽介
さん。(下段)取材中の様子。
36
れたそうなのですが、そのうちの一つに
周年の時、いくつか復刻版の商品を出さ
です。今から七年前、つるだや創業八十
判が良ければ定番化することもあるそう
うでないところとで多少の地域差はあり
異なるそうです。米子では、市街地とそ
だやですが、地域によって売れ筋商品は
それぞれ一店舗ずつ出店されているつる
れない、米子の銘菓であると自信を持っ
そうで、やはり他の地域ではあまり見ら
子は、私たちがお茶会で食した白羊羹だ
お伺いしました。つるだやお勧めのお菓
してしまいました
ということです。取材班全員がビックリ
す。つまり、クロードはつるだやの分家
現社長のおじさんにあたる方だったので
そうです。鶴田さんは、ここがフレキシ
イスを取り入れて出来上がることもある
ありますが、お客様からの要望やアドバ
新商品は、職人さんが考案したり、鶴
田さん自らが提案して、作られることも
店頭に並べられているそうです。
という商品があり、今は定番商品として
昭 和 三 十 年 代 に 作 ら れ て い た「 か ち 栗 」
とおっしゃっていました。
市 民 の 気 質 が 表 れ て い る の で は な い か、
であったため、品の良いものを好む鳥取
好まれるそうで、かつて鳥取市は城下町
に、餡を詰めたもの)といったお菓子が
一方、鳥取市では、白羊羹や長寿梅(お
せんべいを薄く二枚に切ったものの中
ます。
ますが、様々な商品がまんべんなく売れ
土産にくださったのですが、ほんのりレ
さんがレモンケーキを私たち取材班のお
番化した商品だそうです。取材後、鶴田
この商品も昔作られていたものを復刻定
子 だ そ う で、 と て も 面 白 い お 話 で し た。
す。子供の頃よく食べた思い出深いお菓
ま た、 鶴 田 さ ん 個 人 が 好 き な 商 品 は、
意外にも洋菓子のレモンケーキだそうで
ておっしゃいました。
(よしおか・もえ/文化資源学系二年生)
ことと思います。
を召し上がってみてください! きっと
今までとはまた違った魅力を堪能できる
に来られた時は、ぜひつるだやのお菓子
分かりいただけましたでしょうか。米子
みなさん、松江だけでなく、米子にも
美味しい和菓子屋さんがあることを、お
ブルなところであり、他社には負けない
んとクロードを作ったのは、つるだやの
「 ク ロ ー ド 」 の ト レ イ が あ っ た こ と。 な
更に工場見学をしていて驚いたことが
あります。それは、松江にある洋菓子店
したのを覚えています。
商品が作られており、とてもいい香りが
とができました。あちらこちらで様々な
「ははき野」の製造途上のものも見るこ
さんの姿もありました。先ほど紹介した
た小豆餡に、水飴を混ぜておられる職人
ました。また、攪拌機付きの大釜に入れ
たものを、手作業で包装されたりしてい
していたり、カステラを小さくカットし
最後に、製造現場を見学させていただ
くことができました。機械が最中を包装
■ 生 ま れ て 初 め て! お 菓 子 工 場
見学
モンの味がし、ふわふわしていてとても
魅力であると誇らしげにおっしゃいまし
子市内でどのような存在でありたいかを
美味しかったです。
!
つるだやお勧めのお菓子と、鶴田さん
お好みのお菓子、これからつるだやが米
た。
米子市内に四店舗、鳥取市、安来市に
■(上段)店内の様子。美味しそうなお菓子が沢山ありました。(下
段左)歴史を感じるつるだやのケースと「栗ざんまい」。(下段右)
カステラを包装する職人さん。
ム」を訪れるために、数時間だけマンハッ
クィーンズにある「ノグチ・ミュージア
二 〇 一 一 年 の 十 月 上 旬、 マ ン ハ ッ タ
ン で 一 週 間 を 過 ご し た。 正 確 に い う と
商工会議所ビル)で開催することになっ
ン」をニューヨークの日本クラブ(日本
ン・マインド・オブ・ラフカディオ・ハー
記念館で開催した、造形美術展「オープ
点の作品が展示され、いずれも会場は大
名だ。アテネでは五十点、松江では五八
者タキス・エフスタシウさんの発案と命
狙いである。ギリシャ人でハーンの愛読
アートを楽しむ機会を提供しようという
額の投資をせずに新しいスタイルで現代
資源としてハーンを二次的に活用し、巨
などとともに展示する。すなわち、文化
せてもらい、ハーン自身の文章や初版本
する世界のアーティストに造形作品を寄
生き方をウェブ上で紹介し、それに共鳴
しては偏見の少ない「開かれた精神」と
美術展が開催された。ハーンの、当時と
二〇〇九年にギリシャ・アテネにある
アメリカン・カレッジで同じタイトルの
オ ー プ ン・ マ イ ン ド・ オ ブ・ ラ フ
カ デ ィ オ・ ハ ー ン I N ニ ュ ー
ヨーク
は、文明嫌いのハーンにとって最も苦手
にも不思議な縁を感じる。ニューヨーク
中、同じ時空を奔走していたので、これ
かけてニューオーリンズ万博開催期間
高峰とハーンは、一八八四年から翌年に
日 本 ク ラ ブ は、 一 九 〇 三 年 に ジ ア ス
タ ー ゼ の 発 明 者、 高 峰 譲 吉 が 設 立 し た。
た。
援とご協力によってこの展示会が実現し
をかけていただき、県人会の多大なご支
さっそくニューヨークの島根県人会に声
出 身 な の で 島 根 へ の 思 い は 人 一 倍 深 い。
が 四 十 年 に 及 ぶ が、 雲 南 市 三 刀 屋 の ご
とによる。狩野さんはニューヨーク生活
示会を行うようにとご提案いただいたこ
ビルにある日本クラブのギャラリーで展
をしたところ、ニューヨークで芸術の秋
のトップシーズンにぜひ日本商工会議所
江での「オープン・マインド展」のお話
狩野務さんにお会いする機会があり、松
変な賑わいだった。
地を訪ねた際に、日本商工会議所専務の
なったのは、家内と息子が昨年一月に同
■マンハッタンのミッドタウン。
この展示をニューヨークで行うことに
に説明しておこう。
小 泉 凡
ニューヨーク滞在記
タ ン 島 を 離 れ た が。 な ぜ、 好 ん で こ ん
たからだ。まずこの展示会の趣旨を簡単
二〇一〇年に松江城の天守閣と小泉八雲
な 喧 噪 の 大 都 会 に 出 か け た か と い う と、
■展示会場で。日本ギャラリーの本多庸子さんと。
38
品二点のほか、ハーンや松江市
作品二五点、初版本二一点、遺
結果だった。展示では、アート
トの発展を考えると大変嬉しい
されたので、今後のプロジェク
とを実感した。
る実践活動にはこのような労力が伴うこ
びは一入だ。そして文化資源的着想によ
が手がけた。それだけに盛会になった喜
示品のキャプションなどもすべて関係者
が 降 っ た。 す る と 気 温 は 一 気 に 下 が る。
十月上旬といっても緯度の高いニュー
ヨークは、天気が不安定でよくにわか雨
みになった。
ルームを覗くのが、ささやかな朝の楽し
ンド移民として第一歩をしるした地であ
な場所だったが、十九歳の時、アイルラ
となり、松江市や日本クラブ、ニューヨー
営などあらゆる煩雑な作業を家内が中心
利用し、梱包、荷ほどき、展示会場の設
のまた夢で、一般の運送業者を
労力を要した。日通美術など夢
からの美術品の輸送には大変な
しかし限られた実行委員会の
予算で運営することから、松江
た。
いた。楽譜も読めないのにピアノが大好
ルでその多彩で華やかな音色に馴染んで
るピアノ製造会社で、松江のプラバホー
ニューヨークに設立された世界を代表す
た。 ス タ イ ン ウ ェ イ 社 は 一 八 五 三 年 に
スタインウェイ社のショールームがあっ
通 っ た が、 六 番 街 と 五 七 丁 目 の 角 に は、
合間をぬって街を歩いた。毎日、六番
街五三丁目のホテルから徒歩で会場に
街歩き
プン」で埋め尽くされた。最近、アメリ
札の回転バーも、すべて「ユニクロ・オー
全駅の階段の一段一段の段差部分と、改
プン」の文字でラッピングし、ほとんど
うに走る地下鉄の車両を「ユニクロ・オー
ろう。マスコミはもとより、網の目のよ
逸した広報活動が話題づくりをしたのだ
いた。というよりはユニクロ側の常軌を
廉価で提供することが町の話題になって
クが立ち並ぶ五番街に近々店を出し、自
そんな時節柄、ユニクロが、高級ブティッ
り、英訳「古事記」を読んで日本行きを
ク島根県人会の協力を得て自力で行っ
きな私には、装飾が日々変化するショー
を紹介するパネルが壁面を飾っ
決意した場所でもある。来日後の自分の
た。広報活動や印刷物、解説パネル、展
■(上段)講演の風景。(下段)五番街周辺。
では味わえぬ洗練された豪華な
レストランでは、ギリシャ本国
きだ。ホテルの近くのグリーク・
少しつまむ。実に楽しいひとと
の辛口の白ワインで、生ガキを
いえる。懐かしいワシントン州
この店は、元祖「駅ナカ」とも
かけた。一九一三年に創業した
オイスターバーにも地下鉄で出
る、グランド・セントラル駅の
夜 は 夕 食 を 兼 ね て 外 に 出 た。
ニューヨークでは必ず立ち寄
目を見張るものがあった。
本企業だが、このアピール力は
され気味で息をひそめている日
カでは車や家電も韓国企業に押
慢のヒートテックのアンダーウエアーを
著作の大半はやはりニューヨークで出版
さ れ た。 言 う ま で も な く こ の 町 は 現 代
アートの発信地でもある。だから、こん
な場所でハーンをテーマとする美術展が
開催できることは特別の意味があった。
日本クラブのビルはミッドタウンの六
番街と七番街に挟まれた五七丁目にあ
り、カーネギー・ホールの筋向いという
一 等 地 だ。 ビ ル の 一 階 に「 日 本 ギ ャ ラ
リー」という瀟洒な空間を所有する。こ
こで九月三十日から十月十四日まで展示
会が開催され、期間中に約一八〇〇人が
来場、十月四日のレセプションや私のつ
たない講演会にも一四〇名が来場され
た。そのうち四割近くが地元在住のアメ
リカ人で、他に、ハーンにゆかりのある
関係国の外交官やマスコミ関係者も来訪
39 のんびり雲|第 6 号| 2012
■荷解きと搬入の作業。
らすのだろうか。
ニューヨーカーの消費生活に変化をもた
だ。そんな町におけるユニクロの出現は、
と は、 そ れ な り の 対 価 が 要 求 さ れ る の
タン島のレストランの席を占有するこ
い。ただでさえ限られた面積のマンハッ
ネともローマとも比較にならないほど高
る。ニューヨークの物価は東京ともアテ
グラスワイン一杯でも五千円は優に超え
し か し、 こ れ が 勘 定 を 払 う 段 に な る
と「しまった!」と思うのだ。パスタと
ンテなパスタが出てきた。
アでもローマよりずっとおいしくアルデ
おいしさも体験した。街中のピッツァリ
しむ姿勢に共感した。
し、八十代の今もポジティブに人生を楽
きわ光彩を放っていた。苦労の末に成功
シュなおしゃべりは参加者の中でもひと
た が、 や は り サ ミ ー さ ん の エ ネ ル ギ ッ
ションの後には、楽しいお酒をご一緒し
ら押し掛けるという。十月四日のレセプ
弟子にしてほしいという若者が世界中か
の技術には定評がある。無給でいいから
ステイタスをもつ理容室で、サミーさん
室を経営する。ニューヨークでも屈指の
をもつ「MOMOTARO」という理容
宮本さんだ。マンハッタンに複数の店舗
だったのが島根県の江津出身のサミー・
の 出 会 い が 忘 れ ら れ な い。 と く に 強 烈
地元で活躍する元気な日本人の方たちと
商 工 会 議 所 専 務 の 狩 野 務 さ ん を 筆 頭 に、
辿れる。今回の「オープン・マインド・
アモデルからモニュメント構想の変遷が
いう。無数に置かれた金属製のミニチュ
飛び出して立体表現に自然に移行したと
もともと画家だったが、いつしか平面を
だ が、 今 回 初 め て ア ト リ エ に 招 か れ た。
一九七七年からニューヨークに住む彫
刻家の野田正明さんとは十五年来の友人
合い、ギリシャでの再会を約束した。
なっていたので、その不思議な縁を喜び
本文化を知るイベントで講演することに
イェロバシルー・ワイン博物館主催の日
偶然ながら十一月四日にテッサロニキの
に出かけるということだった。実は私も
市、テッサロニキで開かれる国際映画祭
して、十一月三日からギリシャ第二の都
関心があると熱心に話しかけられた。そ
映画監督の黒岩久美さんも講演を聴い
た後、映画の作り手としても、ハーンに
だった。
信 と 野 心 さ え 感 じ さ せ る 素 敵 な「 盛 年 」
静かで謙虚なもの言いの中に、確かな自
岡さんも、講演会に来てくださった。物
感じるものなのだとつくづく思った。倉
を楽しみ、文化というのは嗅覚や味覚で
いただき、束の間、懐かしい日本の香り
いう。ここで、私も江戸風のざるそばを
ジュリアーニ元市長が店の常連だったと
提供する店として知られる。松井秀喜や
陣頭指揮をとり、良質のそばと日本酒を
九十歳が近いらしい。自ら店頭に立って
次 に「 レ ス ト ラ ン・ 日 本 」 の 経 営 者、
倉岡伸欣さん。年令は企業秘密というが
タンの高層ビルの威圧感にうんざりして
パー、花屋、学校などが並ぶ。マンハッ
カ ル な コ ー ヒ ー シ ョ ッ プ、 小 さ な ス ー
リシャ料理を出すタベルナ(食堂)やロー
リシャ系アメリカ人が多く住むので、ギ
い建物がないからだ。このあたりは、ギ
分が落ち着いた。あたりを見回しても高
一度だけ地下鉄でマンハッタンを離れ
大 陸 側 の ク ィ ー ン ズ 地 区 へ 行 っ た。 ブ
ノグチ・ミュージアム
た。
が限定保存されているという印象を覚え
時にそこには日本というタフな国の過去
せることができた人たちなのだろう。同
吸い込んで、それをプラスの力に転換さ
ク」という特別な歴史的空間の「気」を
りの方だが――には、偉大なエネルギー
一週間のうちにニューヨークで出会っ
た日本人――お会いしたのはほんの一握
はニューヨークしかあり得ない。
意識が高い。新たな作品の構想を練るの
ころ。現代アートに関わる人たちのプロ
責任ある反応がかえって来るのがいいと
される。でも自分から問いかければ必ず
ので、高いコミュニケーション力が要求
こ ん な 話 を 聞 い た。 ニ ュ ー ヨ ー ク で
は、日本のような以心伝心は通用しない
に設置)も野田さんが手がけた。
ボルとなるモニュメント(アテネと松江
オブ・ラフカディオ・ハーン展」のシン
出会い
ロードウェイ駅を降りたとたんに妙に気
が底流していた。もちろん、「ニューヨー
この美術展の開催を実現に導いた日本
■(上段)展示会場を訪れた松浦松江市長。(下段)野田正明さ
んのアトリエ。
40
ロ ン グ・ ア イ ラ ン ド・ シ テ ィ ー に あ る
ためだった。イースト・リバーに面した
この地区に来たのは、冒頭に記したよ
うに「ノグチ・ミュージアム」を訪ねる
いたので、実に心地よかった。
チの精神に共感する。
リックアートの神髄を知りつくしたノグ
が再来を願って送り出してくれる。パブ
問者を暖かく迎えてくれ、最後に同じ庭
作品が配置されたほのぼのとした庭が訪
た。「 オ ー プ ン・ マ イ ン ド 」 と い う 精 神
作り出す絶対条件なのではないかと思っ
こそが、真の「オープン・マインド」を
漂 泊 の 精 神 と い う べ き「 帰 属 の 危 う さ 」
ブな側面を併せ持っている。でも、この
も 残 っ て い た。 そ ん な 親 近 感 を 抱 い て
イ サ ム・ ノ グ チ か ら い た だ い た は が き
手 と な っ て く れ た。 だ か ら 我 が 家 に は
を許してくれたのか、遊び相手、学び相
私の祖父一雄は、子どものころ、レオ
ニーに英語を習っていて、その際、いつ
た。
に我が家を訪ねられたのかを想像してみ
ドウス昌代さんが、なぜ自分の学生時代
い。あらためて伝記も読み返し、著者の
点を熱心に語り合ったことが忘れられな
松江でお会いし、イサムとハーンの共通
興奮が冷めやらぬうちに松井久子監督と
も こ の 映 画 を 広 島 で 見 て 大 い に 感 動 し、
生が映画化されたのは二〇一〇年で、私
そのレオニーとイサムをめぐる波乱な人
一 九 〇 六 年 に イ サ ム を 伴 っ て 来 日 し た。
というハーンの評伝を出
Hearn in Japan
し た 人 だ。 母 は レ オ ニ ー・ ギ ル モ ア で、
然と再会したからかもしれない。ミッド
仕事が終わり、そんな安堵感をもって自
ンの喧騒の中に一週間いて、何とか無事
分の問題なのかもしれない。マンハッタ
だろうと思ったが、不思議だ。これは気
アイルランドのスライゴの海岸で真夏
の大西洋に手を入れた時は何と冷たいん
た。異常に生温かった。
パークを散歩し、大西洋に手を浸してみ
タを楽しんだ。その東にあるステート・
で、カラマリ(小イカ)のフライとパス
グリニッジという小さな町のレストラン
たが、途中で断念し、コネチカット州の
い一日だった。当初、ボストンをめざし
ディアンサマーに逆戻りしたような暖か
た。この日は雲ひとつない快晴で、イン
ハッタンから再び私たち夫婦を連れ出し
き て く れ た。 レ ン タ カ ー を 借 り て マ ン
帰国の前日、ロサンゼルスに住む友人
夫婦が、わざわざニューヨークに飛んで
人間にとって必要なものだと体感したこ
代えがたい幸せだった。自然がこんなに
ニューヨークを後にできたことは何にも
美しい緑と青い海に静かに見送られて
た い。 し か し、 最 後 に コ ネ チ カ ッ ト の
に導いてくれたことにあらためて感謝し
ニューヨークという町の偉大なエネル
ギーとそこで出会った方たちの親切でア
形にさえぎられてのことだ。
ことがあるが、これはあくまで自然の地
本あたりでも似たような現象を体験した
ても自然の摂理に反している。石見の川
に陽が差し込まないというのは、どうみ
響き合う共通性なのだろう。
性こそ、ノグチとハーンが深いところで
ミュージアムを徒歩でめざす。ここは世
イ サ ム・ ノ グ チ の 父 は 詩 人 の 野 口 米
次 郎 で、 一 九 一 〇 年 に 早 く も Lafcadio
界的な彫刻家イサム・ノグチ自身が設計
の部分からなる二五〇〇平方メートルの
ミュージアムを見学すると、イサム・ノ
と、これが、皮肉にもニューヨークで得
した建物と庭園、それに元々あった工場
敷地で、多彩なノグチの作品と十分に対
グチの作品からは何か「オープン・マイ
タウンの高層ビルの谷間では朝十時頃に
た最大のお土産かもしれない。
コネチカットの自然に包まれて
話することができる美術館だ。ノグチの
ンド」なものを感じ、マンハッタンで疲
ならないと日が昇ってこないし、夕方は
( こ い ず み・ ぼ ん / 総 合 文 化 学 科 教 員 * 民 俗
クティブな力がこのたびの展示会を成功
れ た 心 を 優 し く 包 み 込 ん で く れ た。「 開
早々にくすんだ水色の空となる。新宿の
学)
も年下のイサム君が同じ境涯の一雄に気
かれた精神」は「普遍性」というポジティ
沙汰ではない。太陽があって雲もないの
41 のんびり雲|第 6 号| 2012
■コネチカット州のステイト・パーク。
ブな面と「帰属の危うさ」というネガティ
■ノグチ・ミュージアム。
ウッドクラフト
には、沢山のお土産屋さんや飲食店が軒
成一五年五月に
多野憲さん。平
です。店主は波
ト「汐や」さん
るウッドクラフ
届いた情報に、私は興味をそそられまし
そんな時に耳にしたのが、大社に木工
品のお店があるという話です。口コミで
資源を発見したかったからです。
できた灯台と、眼下を飛ぶウミネコ、そ
は初めてでした。この間近に見ることの
生まれも育ちも出雲市斐川町の私です
が、実は、あんなに間近で灯台を見たの
た。
的な存在感をもってそびえ立っていまし
ませんでしたが、白い日御碕灯台は圧倒
様で、日本海の景色を楽しむことはでき
取材当日の六月三〇日はあいにくの雨模
の 灯 台 一 〇 〇 選 」 に も 選 ば れ て い ま す。
台 と し て は 日 本 一 の 高 さ を 誇 り、「 世 界
は、 高 さ 四 三・七 メ ー ト ル と 石 積 み の 灯
「 汐 や 」 は、 県 内 有 数 の 観 光 名 所、 日
御碕灯台の真横にあります。日御碕灯台
ウッドクラフト「汐や」
」
います。
となって「落ち着いた」雰囲気を作って
置の仕方、昔の道具など、すべてが一体
醸し出しています。店の広さ、作品の配
も所々におかれていて、独特の雰囲気を
面、自在鍵や天秤棒など、昔の生活道具
ます。よく見ると、古いタンスや臼、帳
と中央に作品がゆったりと展示してあり
とは言えませんが、店内には、左右の壁
くりきます。広さは約八畳と決して広い
しかしお店に入ると、静かというより
も「落ち着く」という言葉が、一番しっ
ずいぶんと静かな印象を受けます。
いてありました。周りのお店と比べたら、
呼び込みをしていました。そんな中で「汐
木工作品というと、私には馴染みのな
いような、少し「お堅い」イメージを持っ
気を演出しています。
す。その日本的な裸婦像も、お店の雰囲
樹脂で出来ていてとても軽いのだそうで
で銅で出来ているのかと思ったら、実は
して立っています。赤銅色をしているの
を連ねています。飲食店は、大きな声で
開 業 し ま し た。
して足元をワサワサと歩き回っているフ
波多野さんのおじさんも物づくりを仕
事 に し て い る そ う で す。 お 店 の 奥 に は、
ていましたが、実際は全くそんなことは
工芸・木工芸・木彫のことを言います。
「汐や」を訪ねて
「地元の出雲のモノを取り上げたい」
ウッドクラフト
ナムシのおかげで、私は日御碕を存分に
そのおじさんが作った高さ一八〇センチ
せき
や」は、小さな看板が一つ、店の前に置
を中心とした作
堪能することができました。
ぐらいの裸婦像が、いまにも歩きそうに
ジが大きいですが、その陰に隠れた文化
品を販売してい
そのお店は、出雲市大社町日御碕にあ
た。
ます。ウッドク
そんな日御碕という観光地で営業して
い る「 汐 や 」。 駐 車 場 か ら 灯 台 ま で の 道
材を素材とした
温かみ溢れる木工作品
ラフトとは、木
私がまず最初に思ったのは、これでし
た。出雲といえば出雲大社というイメー
深津知里
■真剣な表情で作業をする波多野さん。ろくろとかんなを巧みに操る。
り ま し た。 そ の ま ま 手 で 回 す タ イ プ は、
まま手で回すタイプの二種類のコマがあ
お店には可愛いコマが沢山ありまし
た。紐を巻きつけて回すタイプと、その
木をさし、ろくろを回し、かんなを使い
実際に、波多野さんにろくろの作業を
見せていただきました。まず、ろくろに
ます。
して一番奥に、木工ろくろが置いてあり
んは、基本的にろくろを使って作業を行
四、五センチのものから、三、四ミリの本
細長い卵型やコマなどの形を作っていき
ありませんでした。店内に置かれている
当に米粒のサイズのものまで、いくつか
燥させたもので磨くそうです。作業で使
います。
のサイズがありました。
うカワハギの皮は、近所の方が持って来
のは、とても愛嬌のある、可愛らしい作
作品の中には高さ五センチほどの削っ
ていない木の顔と胴体に針金で手と足を
品ばかりでした。
つないだものや、高さ約五~一〇センチ
てくれるそうです。
店の隣は四畳ほどの作業場になってい
て、電動のこぎりや穴をあける機械、そ
の細長い卵型とも言えるような形の木に
多野さんはどんな気分だったのかなと考
れました。作品の表情から、この日の波
じものはないと波多野さんは言っておら
こと。同じ物を作るのは苦手で、全く同
もしているそうです。モデルはないとの
て、そこから思いついて表情を決めたり
ています」と返ってきました。映画を見
す か 」 と 聞 く と、「 そ の 日 の 気 分 で 描 い
で、「 表 情 は ど う や っ て 決 め て い る の で
ユニークな表情のものばかりだったの
いった表情でしょうか。何とも言えない
げ て 笑 っ て い る も の で す。 ニ タ ッ っ と
何とも言えないユニークな表情の作品
もありました。目を見開いて、口元を上
箱に捨てられた木材の中から、使えそう
作品は、椿やアオハダといった堅い木
材を使って作ります。先生の工房でゴミ
なものなのだなと思いました。
を作る上で、道具も作品を左右する大事
方は大事だと言っておられました。作品
ばし作っていきます。やはり、刃の付け
い、鍛冶屋のように火に入れ、叩いて伸
その二種類のかんなは自分で作るそう
です。刃金は先生のところでわけてもら
首などに使われます。
はくびれたような形をしており、人形の
のかんなの二種類です。幅が狭いかんな
んなとそれ以外の作業で使う幅一センチ
ます。形ができたら、カワハギの皮を乾
表情が描かれているものもあります。
形を作るカンナは二種類あるそうで
す。細かいところに使う刃の幅が狭いか
えてしまいました。
作品が生み出されるまで
ものでも大丈夫だそうです。
作品が小さいものなので、それぐらいの
な物を持って帰ることもあります。作る
温かみ溢れる作品を生み出す波多野さ
43 のんびり雲|第 6 号| 2012
■作品を磨くカワハギの皮。
かなと思いましたが、何かに使えるかも
えてくださいました。こんなもの使うの
と、それはウニの刺を取ったものだと教
作業場には、木以外に見たことのない
ものがあり、これは何かなと思っている
たからこそ言える言葉だなと
だったそうです。充実してい
波多野さんにとって、産業
体験の一年間はあっという間
現在のお店で独立しました。
の提案もあって平成一五年に
お店で修行した後、松谷さん
と持っているそうです。どこまでも、発
思いました。
想力豊かな方だなと思いました。
木工との出会い
だ っ た の で す。「 吉 や 」 は、 大 社 の 島 根
こ れ が、 波 多 野 さ ん と 木 工 と の 出 会 い
たのが、「吉や」という木工のお店でした。
ま、島根定住財団の担当者から紹介され
波多野さんは、もともと木工がやりた
かった訳ではありませんでした。たまた
です。
きっかけづくりをしようという取り組み
してもらうことによって、UIターンの
で農林漁業や伝統工芸などの産業を体験
産業体験とは、島根定住財団が行って
いる事業であり、県外の人に、島根県内
島根に来ていたそうです。
あると知ってから、わずか一週間後には
て来られたそうです。島根で産業体験が
島根の産業体験に応募して、島根にやっ
キングホリデーを経験しました。帰国後、
ました。その後、カナダで二年間のワー
会社員として働いた後、二七歳で退職し
お昼に困ることはないんだとか。その話
の 方 が お 昼 を 御 馳 走 し て く れ る そ う で、
波 多 野 さ ん は、「 周 り の 皆 さ ん が と て
も親切だ」とも言っていました。ご近所
しょう。
根を不便な場所と感じることはないので
と言っていた波多野さんにとっては、島
した。しかし、「人が多いところはダメ」
る場所に住んでいるとは思えない発言で
た。車でコンビニへ行くのに三〇分かか
い た の で、 こ の 答 え は 意 外 な も の で し
島根は不便で困るのではないかと思って
ら し た ら、 都 会 の 愛 知 か ら 来 た の な ら、
んなことはない」と言われました。私か
と 聞 い て み ま し た。 す る と 即 座 に、「 そ
そんな波多野さんに、「愛知から来て、
不 便 だ と 感 じ た こ と は あ り ま せ ん か?」
へ帰っていきました。
は、産業体験が終わるとそれぞれの地元
ているのは波多野さん一人です。他の人
波多野さんと同期に産業体
験をした人で、今島根に残っ
少なくはないでしょう。私もその一人で
とけば……」と後悔したことがある人も
は 本 当 に ビ ッ ク リ で す。「 あ の 時 あ あ し
思いカナダを訪れた波多野さんの行動力
そうです。ワーキングホリデーという機
ワーキングホリデーでカナダを訪れた
時は、住む場所も決めずカナダに行った
す。
年働きながら旅行することが認められま
三〇歳の日本国民なら、訪問国で一~二
期滞在の許されるビザです。一八歳から
外休暇旅行です。観光旅行とは違い、長
キングホリデーとは、就業許可付きの海
今 回 私 は、「 ワ ー キ ン グ ホ リ デ ー」 と
いう言葉を初めて知ったのですが、ワー
そんなことはないなと思いました。
しいと聞いたことがありましたが、全然
ました。出雲の人は他所から来た人に厳
Iターンの苦労は?
ワイナリーの近くにあり、波多野さんの
を聞いて、出雲が地元の私も嬉しくなり
「 汐 や 」 の 店 主、 波 多 野 憲 さ ん は、 愛
知 県 の 出 身 で す。 地 元 の 愛 知 で 七 年 間、
師匠である松谷伸吉さんが営んでおられ
会があるのだから、使わなきゃ損だ、と
カナダでの ワーキングホリデー ます。波多野さんは、一年間松谷さんの
44
ワーキングホリデーで訪れたカナダで
は、農業をして働いたそうです。車に沢
ありました。
動」という経験談からは沢山学ぶことが
す。波多野さんの「思いたったらすぐ行
らいました。自分をさらけ出せるように
すが、カナダではいろんな人に助けても
れ る よ う に な り ま し た。 今 ま で は 何 で
した。他の人からも明るくなったと言わ
た性格が明るくなったと言っておられま
も自分一人でできると思っていたそうで
山乗り、車が潰れるほどだったとのこと
なったそうです。
す。ワーキングホリデーでカナダへ行く
人間にならざるを得なかったと思いま
す。サラリーマン時代は仕事中心の仕事
た。そのなかで、性格も変わったそうで
カナダでの時間は、波多野さんにとっ
て人生を考え直すリフレッシュ休暇でし
う言葉でした。波多野さんの生活はまさ
野さんの「自分の時間が一番大事」とい
この取材で一番印象的だったのは、波多
う 生 活 を 送 っ て い る と い う 波 多 野 さ ん。
起きるのも気分、作業時間も決めずとい
あっている」と言っておられました。朝、
時間と生活スタイル
ことで価値観も変わったのではないので
にその通りだと思いました。
な い と 言 っ て お ら れ ま し た。 こ こ で も、
しょうか。サラリーマン時代と今の生活
会社員の頃と比べての発言だったのか
もしれませんが、波多野さんは「一人が
とでは時間の使い方・考え方、価値観な
ど一八〇度変わったと言えます。暗かっ
最初から最後までやるのが好きと言っ
ておられた波多野さんにとっては、これ
波多野さんの行動力を感じました。
う質問に、もともと英語ができた訳では
です。語学力に心配はなかったか、とい
■(上・中段)波多野さんの作品。(下段)小さな
コマを回すのに悪戦苦闘しました。
作業は深夜になっていることもあるそう
中しすぎて時間が分からず、気づいたら
から好き」と言われた波多野さんは、熱
こ と は で き な い で し ょ う。「 熱 中 で き る
自分一人で最初から最後までするという
ん。会社に勤めていたら、一つの仕事を
波多野さんは今を楽しんでいる。そうい
て 見 え、 少 し 羨 ま し い と も 感 じ ま し た。
す。私から見た波多野さんの生活は輝い
多野さんにとってそれは二の次なので
金を稼ぐためと考えてしまいますが、波
思 い ま し た。 私 は、「 働 く 」 と い え ば お
波 多 野 さ ん の お 話 を 聞 け ば 聞 く ほ ど、
波多野さんは今の生活を楽しんでいると
も木工の魅力の一つなのかもしれませ
です。
じることができます。今のお仕事は、波
からも、波多野さんの木工への思いを感
囲気が出迎えてくれます。
か。温かみ溢れる作品と、落ち着いた雰
「汐
みなさんも、日御碕を訪れた際は、
や」へ足を運んでみてはいかがでしょう
う印象を受けました。
多野さんの性格や生活スタイルに合って
(ふかつ・ちさと/文化資源学系一年生)
作業に集中できないからと、波多野さ
んは家にテレビを置いていません。そこ
いるな、と思いました。
■(上段)珍しい機械が沢
山ある作業場。(下段)楽し
い雰囲気の店内。