Untitled

1
雪のクリスマス
第一章
%で御覧ください
125
2
高野優二は作家志望でフリーターをしている。現在は人材派遣会社から印刷
会社へ派遣されている。その印刷会社で働き出して、まもなく半年になる。働
き始めた頃から、職場に向かう途中、歩いて通り過ぎる駅で、毎日のようにあ
る女性に合う。背は高く、姿勢の良い、美しい女性だ。しかし、彼女は頭部の
三箇所が脱毛している。彼は彼女のことが気になってしようがない。彼は彼女
を見る度に同情を寄せると同時に、疑問を抱く。なぜ帽子をかぶらないのか、
なぜヘアピースを着けないのか、彼女の心を推し量る。
駅は都心から少し離れているが、大きな駅だ。私鉄と地下鉄の連絡駅で、郊
外に住む人々が都心へと勤めに出る拠点になっている。周辺にスーパーマーケ
ット、ショッピングモール、居酒屋、レストラン、パチンコ店などが並んでい
る。そして、複数のマンションとオフィースビルが乱立している。そういう駅
が二人の出合う場所だ。
彼女のことが気になる彼は、彼女に少しづつ恋心を抱き始めた。大きな瞳、
高い鼻、小さなくちびる、上品で清楚な仕草。彼女の表情が彼の心の中にポス
ターのように大きく貼られている。最初は数秒間すれ違うだけだったが、彼は
駅の隅から彼女が姿を現すのを待ち、出来るだけ彼女に近付くように歩いて行
く。二人の接近は数秒からから数十秒に長くなった。彼はいつも、彼女と話す
チャンスがないかと伺っていた。 そのために、 彼女の情報を集めようと考えた。
彼女が何時頃戻るのかを知るために、仕事を終えると、彼は駅で待ち続けた。
そして、五時三十分頃、家路をたどる彼女が再び駅を通ることを知った。彼は
夕方も駅で彼女を待ち、朝と夕方に彼女の顔を見ることになった。
彼女がどういう服を着ているのか興味を持った。どんなデザインか、どんな
色彩か、その服装や持ち物をもとに彼女の性格を推察した。ささやかな情報で
も、 彼女のことがわかるような気がした。 いつも地味な色のツーピースを着て、
明るい茶色のショルダーバッグを肩に掛けている。ショルダーバッグにはガラ
3
ス製のウサギのアクセサリがぶら下がっている。脱毛のせいか、目立ちたくな
いという主張を服装から読み取れた。
次は、彼女に自分の存在を知ってもらおうと、毎日同じ服を着て、同じカバ
ンを持って、同じ場所に立った。彼女は彼の存在に気付かないまま
、それとも、
気付かない振りをしたまま、そばを通り過ぎた。彼女がそばを通る時、彼は話
しかけようと思うのだが、言葉が出て来ない。彼に話をする機会も勇気も訪れ
なかった。
そんな彼の希望が叶うのは、彼女を初めて見てから半年近く経ってからだっ
た。七月一週目のある朝、彼女は駅でハンカチを落とした。私鉄の改札を出た
後、ハンカチで額の汗をぬぐった。そのハンカチをバッグに戻そうとしたが、
スルリと滑り落ちた。ハンカチを落としたことに気付かず、彼女はいつものよ
うに歩いていった。彼はそれを拾い上げ、彼女を追いかけようとしたが、彼女
は多くの人達に紛れて地下鉄の改札を抜けて行き、彼は追いかけることが出来
なかった。それで彼は、夕方彼女が戻ってくるのを待とうと考えた。昼休みに
弁当を食べながらそのハンカチを取り調べた。ありふれたハンカチと思ってい
たが、ウサギのイラストが刺繍されている。ウサギの下にM.S.というイニ
シャルの描かれている。生地も高級な物らしく、厚手で肌触りが良い。ハンカ
チをもてあそびながら、彼は彼女とどんな話をしようかと考えた。
夕方、仕事を終えると大急ぎで駅に向かった。急がなくても時間のゆとりは
あったが、期待と不安が彼をせきたてていた。地下鉄の改札の前にいて、彼女
が改札から出て来ると、ハンカチを差し出し話しかけた。
﹁今朝、このハンカチ、落とされたんでは・・﹂
﹁いいえ、違います・・﹂
彼女はそのハンカチも彼の顔も見ることなく、 素っ気なく答えて立ち去った。
彼はその場で呆然と、彼女の姿が見えなくなるまで見つめていた。しかし、彼
4
はあきらめなかった。半年がかりで見つけたチャンスだったから。彼女に言葉
をかけられたことを喜びとして、彼は希望をつないだ。彼は名案がないかと思
案し、そのハンカチを駅前の交番に届けることにした。しかし、ハンカチだけ
を届けることは出来ないので、 ピンクの小銭入れを買い、 小銭を幾らか入れて、
交番に届けた。そして、駅の掲示板に﹃拾ったハンカチ、交番に届けたので、
取りに行ってください﹄と書いた。掲示板のメッセージは、数時間後駅員の手
によって消されるが、彼は毎日の朝夕、掲示板にメッセージを書き続けた。彼
女は掲示板の前を通らないが、彼は掲示板の前に立ち、通り過ぎる彼女に視線
を送った。
彼女は前々から彼の存在に気付いていた。毎日、朝夕、同じ服を着て、同じ
カバンを持って、同じ所に立っている人間が、嫌でも自分の視界に入る。それ
を意識しないでいられなかった。その意識は友好的なものではなく、不愉快な
ものだった。毎日掲示板の前に立ち自分に視線を投げかける彼を、彼女はスト
ーカーのように思っていた。しかし、彼のそばを通らなければ地下鉄の改札に
行くことは出来ない。彼女はいらだちと不安で彼のそば通り過ぎていた。
彼が掲示板の前に立ち始めて二週間が過ぎたある日、彼の元に郵便物が届い
て、小銭入れと礼状が入っていた。文面は簡単で﹃ハンカチ受け取りました、
ありがとうございました﹄とだけ書いてあった。住所も名前も何もなかった。
それでも、彼は歓喜した。彼女が掲示板を見たことがわかったからだ。
次の日から彼は掲示板に﹃あなたと話したい、ハンカチを拾った男﹄と書き
続けた。もちろん毎日朝夕彼女の顔を見たが、彼女は全く知らん振りをしてそ
ばを通り過ぎる。七月四週目のある夕方、いつものように掲示板にメッセージ
書いていると、後ろに彼女が立っていた。彼が彼女に話しかけようと思った瞬
間。
﹁そんなこと書くのは止めてください﹂
5
彼女は怒ったように言い捨てて、すぐにその場を立ち去った。彼女の不機嫌
な怖い顔を見て、彼はそれを消し、次の日から書かないことにした。そして、
駅で彼女も待たないことにした。翌日もその翌日も、その週も次の週も駅を避
けて回り道をして仕事場に行った。会わなくなると、彼の彼女への想いは消え
かけていった。
彼女の視界から彼の姿が消え、彼女は清々しく思えた。もとの自分の生活が
戻ったとも思えた。それなのに、なぜか。昼食後、彼女はコーヒーを飲みなが
ら恋愛小説を読む。その主人公が駅で出合う男と重なってしまう。彼女はそれ
を否定し、その男の記憶を消そうとする。消そうとすればするほど、その男の
記憶は大きくなる。彼女は彼の存在を認めるようになっていた。しかし、彼の
姿はもう見えない。彼の住所と名前を知っているから、電話をかけようか、手
紙を書こうか、考えた。彼女は決心出来ないまま、憂うつは日々を過ごしてい
た。
八 月 三 週 目 の 月 曜 日 の 朝 、彼 は 回 り 道 す る こ と を 忘 れ て 駅 を 通 っ た 。 す る と 、
彼女が掲示板を眺めていた。彼女が去った後、彼は掲示板を見に行ったが、そ
こには何も書かれていなかった。その夕方は、彼は駅で彼女を待った。柱の陰
に隠れて掲示板の方向を見ていると、彼女が掲示板の前までやって来た。何も
書かれていないのを確かめると、すぐに立ち去って、彼が隠れている柱の方に
歩いていった。そして、二人は鉢合わせした。彼はすかさず、用意していた言
葉を発した。
﹁もう掲示板に書いていないよ、でもあなたと話したい気持に変わりはない﹂
彼はそう話しかけたが、彼女は一瞬立ち止まったものの、やはり彼を無視し
て歩き続けた。彼は彼女の後ろ姿を見送りながら、思っていたことを言えたの
を喜んだ。
次の日から、彼は再び駅で彼女を待つことになった。彼女が来る前から駅で
6
待ち、彼女が地下鉄の改札を入ってから彼は職場に行く。顔を合わせても一言
も話をしない。彼女はうつむいて彼のそばを通るだけ。それでも、彼は満足し
て、その日一日幸せな気分で過ごせた。
八月末頃の朝。いつものように彼女を待っていると、彼女がやって来て、彼
の目の前にハンカチを落としていった。彼はそれを拾って追いかけようと彼女
に視線を送ると、彼女が振り返って自分を見ていることに気付いた。彼は彼女
を追いかけるのを止め、夕方まで待つことにした。
その日は、彼女のことばかり考えていたため、彼は仕事のミスをして、二時
間残業をしなければならなかった。五時三十分に駅を通るのにその日は八時前
になった。彼は明日彼女にハンカチを渡そうと思ったが、駅を通ると、彼女が
立っていた。彼が彼女に近付いて行くと、彼女は彼を見つけて彼が来る逆の方
向に早足で歩き始めた。彼は彼女の後を追ったが、建物の狭間に見失った。彼
が辺りを見渡していると、彼女が柱の陰で柱に向かって立っていた。彼は彼女
にハンカチを手渡そうとした。 そのハンカチをふと見ると、 刺繍がされている。
彼がそのハンカチを広げると、 ﹃あなたと話したい、ミユキ﹄と書かれていた。
彼女にハンカチを返そうとしたが、彼女は受け取らない。彼が彼女の顔をのぞ
き込むと、彼女は涙を流していた。そのハンカチで、彼は彼女の涙をふいた。
﹁僕も君と話したい、コーヒーでも飲まない?﹂
﹁・・・・・﹂
﹁じゃあ、そこの公園に行こうよ﹂
彼が歩き始めると、彼女も後を付いて来た。恥ずかしそうに歩いている彼女
を見ると、彼は彼女を可愛く愛しく思えた。彼は自販機で缶コーヒーを二つ買
い、公園のベンチに座った。その小さな公園は、周囲は植木に囲まれていて、
真ん中に大きく丸い花壇があり、花壇を取り巻くようにベンチが設置されてい
る。
7
﹁今日は待っててくれたの、ごめんね、長い間待たせて、仕事でミスをして残
業になってしまったんだ﹂
﹁いいの﹂
﹁お家、この近く?﹂
﹁いいえ、まだ私鉄に乗らないと﹂
﹁駅、幾つ先?﹂
﹁二つ﹂
﹁近くだね﹂
﹁うん﹂
﹁いつも仕事に行ってるの﹂
﹁うん﹂
﹁仕事は楽しいの﹂
﹁うん、お金くれるから﹂
﹁そうだ、缶コーヒー飲んでよ﹂
﹁いらない﹂
﹁僕は飲むからね、仕事が終わって缶コーヒー飲むのが楽しみなんだ、この公
園もよく来るんだよ、春夏秋冬のいろんな花が植えられていて、花の香りが楽
しいんだ﹂
﹁両親が心配するから帰らないと・・﹂
﹁そうだね、もう遅いし、私鉄の改札口まで送るよ、今日は君と話せて楽しか
ったよ﹂
﹁わたしも・・﹂
﹁ホントに?﹂
﹁うん!﹂
二人の会話は十分で終わり、公園を出て、私鉄の改札の方へと歩いた。改札
8
の前まで来ると、彼女は彼の顔を見た。彼は彼女が何か言ってほしいのだと思
って言葉を探した。
﹁明日も公園で話そうか﹂
彼の言葉に応えるように彼女は軽くほほえんで、改札の中に入っていった。
改札の中に入っても、彼女は何度も振り返って、彼に視線を送った。
高野は家に戻った。彼の家は安アパートの二階の2LDK。奥の部屋が母親
礼子の部屋、手前が彼の部屋。生活に必要な最小限度の物しかない質素な住居
だ。自分で鍵を開け、家の中には入ると、母親の礼子がテレビを見ていた。
﹁母さん、ただいま﹂
﹁遅かったね﹂
﹁忙しくて残業だったんだ、残業代二千円稼いだよ・・もう御飯食べたか﹂
﹁食べたよ、お前は食べたのかい﹂
﹁社長の奥さんが弁当を持って来てくれたから﹂
﹁いつも良くしてくれているんだね、社長さんは・・﹂
﹁ちゃんと病院に行ってるか﹂
﹁ 毎 日 毎 日 う る さ い ね 、 行 っ て る よ・ ・若 先 生 、
二人目の子供が出来るんだよ、
お前も好きな人がいたら、母さんなんか放っておいて、さっさと結婚しなよ﹂
﹁はいはい、彼女が出来たら結婚するよ﹂
二人がテレビを観ながら話していると、ドアがノックされた。そのノックの
しかたで、二人は誰が来たかわかった。
﹁開いてますよ、こんな所に泥棒なんて来ないから﹂
﹁入りますよ、残業だったんの、丹後屋のおはぎ買って来たから、一人で六個
も食べられないし・・どうぞ・・二個づつね﹂
﹁嬉しいな、いつもありがとう・・そんな所に立ってないで入って座れよ、お
9
茶入れるから﹂
﹁おはぎぐらいで、そんなに喜ぶの?﹂
﹁お茶が入ったよ・・甘い物、好きだけど、自分で買ってまで食べようと思わ
ないから、こうして差し入れがあると有難いんだな・・今度競馬でもうけたら
何かご馳走するからね・・今日はお店休みなのか﹂
﹁今日は休みよ、週二日は休まないと、あの仕事も結構大変だから・・またお
店にも来てね、競馬に勝ってからでいいから﹂
﹁必ず行くよ、競馬でもうけたらね﹂
鈴木エリもテレビの前のちゃぶ台に座り込んだ。三人で二時間ドラマの批評
をしながら、家族団らんごっこを楽しんでいた。彼女は中学の二年先輩だ。三
年前転居した際、あいさつに行ったら顔見知りの人だった。何度も話すうち、
彼はエリから名刺を受け取り、彼女が勤める風俗店に通うようになった。
﹁エリさんは彼氏いないの﹂
﹁母さん、そういう事は聞くなよ﹂
いいわね、でも、とにかく今は、親父の残した借金返さな
隣りだから、このまま成り行き結婚なんてどう?﹂
﹁いいわよ、聞いても・・彼氏なんていないわよ﹂
﹁優二はどう?
﹁成り行き結婚?
いと、どうにもならないの﹂
﹁借金っていくらぐらいあるんだね﹂
﹁母さん、やめろよ・・エリさん、ごめんね、母さんが失礼なことを聞いて﹂
﹁いいわよ、気にしてないから・・おばさんも体を大事にして、孫の顔見ない
とね﹂
﹁あたしなんかとっとと死んでしまえばいいんだよ、生きていても足手まとい
になるだけだよ﹂
﹁おばさん、そんなことは言わないで、優二さんが可哀想よ﹂
10
﹁いいんだよ、僕はもう慣れっこだから﹂
﹁あたしが死んだら生命保険金が入ってくるから、それで借金を返して優二と
結婚しておくれよ、あんただったら安心して優二を任せられるから﹂
﹁ありがとう、おばさん、そうさせてもらうわね﹂
三人は九時から始まったドラマが終わっても、雑談をしていた。彼女が来る
と部屋がにぎやかになり、彼も礼子もいつもより夜更かしをする。
佐藤美雪の家は地下鉄から私鉄を乗り継いで二駅目だ。裕福な人達が居住す
る閑静な住宅街だ。周辺には大きな池がある公園と名門私立学校と有名な神社
がある。線路沿いには、おしゃれなカフェやアクセサリやファッションの店が
並ぶ。その中で、広い庭と高い垣根を持つ三階建ての建物が彼女の住居だ。一
階は、あらゆる料理器具が揃った台所、広々とした居間、来客用の和室、それ
とホテルのようなバスルーム。二階の三部屋は家族の個室。三階はかつて彼女
の祖父母がいたが、現在は空室になっている。屋上は温室になっていて、家族
みんなで菜園作りを楽しんでいる。温室の片隅にある天体望遠鏡は祖父の趣味
だったが、今はカバーが掛かったままだ。
彼女は両親と三人暮らしをしている。父親はビール製造会社の管理職、母親
は服飾デザインの内職をしている。 彼女は母親の影響でデザインに興味を持ち、
CADで機械や部品の設計の仕事をしている。
彼女は門にあるチャイムを押し、門をくぐった。いつものように、ドアの中
から母親の美咲の声が聞こえてきて、ドアが開いた。
﹁ただいま﹂
﹁美雪、今日は遅かったのね、残業だったの﹂
その目、赤いわよ、会社でいじめられたの、嫌
﹁違うけど、ちょっと・・遅くなるって電話したでしょ﹂
﹁それより・・どうしたの?
11
なことあって泣いてたの﹂
﹁ううん、嬉しいから泣いたのよ、わたしだって一生に一度くらい嬉しい日も
あるわよ、いじめる人間ばかりじゃないんだから、優しい人間もいるんだから
ね・・お風呂入るから用意してよ﹂
彼女は明るく弾んだ声で言い放つと、照れ臭くなって二階にある自分の部屋
に駆け込んだ。彼女が入浴を終えて食卓に付くと、父親の幸夫が野球中継を見
ながらビールを飲んでいた。
﹁美雪、何かいい事あったのか、今夜は楽しそうじゃないか、風呂で歌ったり
して﹂
﹁別に何もないけど・・ウフフ﹂
彼女はそう言うものの、口元はほころんでいた。嬉しそうな顔を見られたく
ない彼女は、父親から顔をそらしていた。今日あった事を話したいけれど、話
すとその幸せがどこかに飛んでゆきそうな気がして、彼女は話せなかった。
﹁美雪、ビール飲むか﹂
﹁うん、自分のビール飲む、お父さんのビール高いから・・どっちが勝ってる
の﹂
﹁エンジェルスが勝ってるぞ﹂
その頃、美咲は洗濯をしていたが、彼女のハンカチの刺繍を見て、娘が男性
と話していたと想像した。食事を終えた美雪が自分の部屋に入ると、美咲は幸
夫にそのハンカチを見せた。
﹁土曜日ミシンを持ち出して、ゴソゴソしていると思ったら、このハンカチに
刺繍していたのね﹂
﹁このハンカチには何か深い意味がありそうだな、ハンカチに書いたラブレタ
ーかな﹂
﹁美雪に彼氏が出来たのかしら、美雪が話したい人ってどんな人かしらね﹂
12
﹁美雪は利口だから、いい人でいい男に決まってるよ﹂
﹁父さんはのんきなんだから・・わたし心配だわ、美雪、世間知らずだから﹂
その日から、幸夫は喜びを胸に、美咲は不安を脳裏に持つことになった。そ
れでも二人の願いは同じだった。早く美雪の彼氏に会うこと。
次の朝も彼は彼女を待ち、彼女と会った。軽くあいさつを交わし、彼は彼女
が地下鉄の改札の中に入るまで付き添い、彼女の姿が消えてから自分の職場に
向かった。夕方は地下鉄の改札前で待っていた。彼女が改札から出て来ると、
彼は手を挙げて彼女に合図した。彼女は恥ずかしそうにうつむいて、彼に近付
いていった。二人は昨夜の公園の同じベンチに座り、缶コーヒーを片手に話を
した。
﹁名前、ミユキさんというの﹂
﹁うん﹂
﹁僕、高野優二・・知ってるよね、郵便物送って来たから﹂
﹁うん﹂
﹁ミユキって、どういう字書くの﹂
﹁美しい雪﹂
﹁きれいな名前だね、多分一月か二月生まれかな﹂
﹁クリスマス﹂
﹁クリスマスに生まれたの、素敵だね、でもクリスマスプレゼントとバースデ
イプレゼント一緒にされるから損だよね﹂
﹁プレゼントもらったことないの﹂
﹁そう、今年は僕がプレゼントするよ、ちゃんとクリスマスとバースデイと二
つするからね﹂
﹁プレゼントなんかいらない﹂
13
﹁どうして?﹂
﹁欲しい物があったら自分で買うから﹂
﹁そんなの寂しいよ、じゃあ、お金で買えないものプレゼントするよ﹂
﹁何?﹂
﹁何がいいかな、僕が作ったサンタクロースの絵本﹂
﹁どんな話?﹂
﹁ミユキというサンタクロースを信じている女の子が、イブにサンタクロース
を探すという話﹂
﹁わたし、サンタクロースなんて信じないから﹂
﹁クリスマスは嫌い?﹂
﹁大嫌い!﹂
﹁どうして?﹂
﹁いつもひとりぼっちで、寂しいから、今年も一人ぼっちだし、生まれて来な
ければよかった﹂
﹁今年のクリスマスは絶対君のそばにいるから、もうクリスマスは寂しくない
よね﹂
﹁今言った言葉、このハンカチに書いて﹂
﹁いいよ、でも字は下手だよ﹂
彼女が差し出すハンカチに、彼はいつも仕事で使っているサインペンで先の
言葉を書いた。彼女はそのハンカチを握りしめたまま、うつむいていた。
﹁どうしたの?﹂
﹁泣いていい?﹂
﹁いいよ﹂
﹁・・・・・﹂
﹁・・・・・﹂
14
﹁もう六時だから帰らないと・・﹂
﹁改札まで送って行くから・・﹂
彼女はしばらく泣いていたが、彼に涙をふいてもらい、二人は公園を後にし
た。 改札の前まで来ると、彼女は彼の顔を見た。彼女が何を言ってほしいのか、
もう彼にはわかっていた。
﹁また明日会おうね﹂
翌日の夕方も二人は公園で会った。その公園のそのベンチは、二人の指定席
になっていた。この時期は、公園から西の空に夕日が落ちて行くのが見える。
﹁西の方を見て、夕日が見えるだろ﹂
﹁うん、きれいね﹂
﹁ここのベンチが一番きれいに見えるんだ﹂
﹁こんな大きな夕日を見るのは初めて﹂
﹁ショルダーバッグの中、何が入ってるの﹂
﹁お弁当と本と、女性の必要なもの、ハンカチとかティッッシュとか﹂
﹁お弁当は自分で作ってるの﹂
﹁うん、早起きして自分で作ってるのよ﹂
﹁本は誰の作品かな﹂
﹁ハーレクイーンロマンス﹂
﹁そんなの読んでるの﹂
﹁うん、嫌いなの、そういう本を読んでる人は﹂
﹁読んだことないからわからないけど、恋愛ものだろ、いいんじゃないの﹂
﹁恋愛したことがないから、本で体験してるの﹂
﹁わかるよ、僕も本が好きだから﹂
﹁高野さん、好きな人いるの?﹂
﹁いないよ﹂
15
﹁どうして、顔はいいし、気は優しいし、お世辞もうまいし、絶対女の人に好
かれてるはずよ、本当は彼女いるんじゃないの﹂
﹁僕ね、高校三年の時、結核になって、高校五年間行ってるんだ、高校を卒業
して印刷会社で働いたんだけど、両親揃って病気になって、両親は離婚して、
父親は病死して、今は病気の母親と二人で貧乏暮らし、今まで女性と付き合う
余裕なんてなかったよ﹂
﹁可哀想!﹂
﹁美雪さんは好きな人いるの﹂
﹁いない、わたしなんか誰にも相手にされないから、男の人と話したことない
の、職場で仕事の打合せで話すぐらい、だから人と話すのすごく苦手なの﹂
﹁ちゃんと会話出来てるよ、それに美人で可愛いし、好かれないことないよ﹂
﹁高野さんこそ、本当に好きな人、いないの、今までもいなかったの﹂
﹁以前は、片想いの女性ならいたよ、結局一度もデートしなかったけど﹂
﹁へえ、どんな人?﹂
﹁缶コーヒー買ってくれたら、話してあげるよ、今日はお金がなくて缶コーヒ
ー買えないんだ﹂
﹁いいわよ、おごってあげる、八十円のでいいでしょ﹂
彼女は缶コーヒー二つ買って来ると、また彼の隣りに座った。
﹁僕が二十二歳の時、六月十七日、ある喫茶店に入ったんだ、その喫茶店は女
性がやっていて、僕は一目見て彼女のことを好きになったんだ、それから毎日
その喫茶店に通ったよ、毎日通っていると少しづつ親しくなって、いい感じだ
ったんだけど、彼女から借りた本を盗まれてしまって、絶交されたんだ﹂
16
六月十七日、日曜日。彼はきのう開店したばかりの喫茶店に入った。カウン
ターとテーブル二台だけの小さな店。カウンターの中に背の高い美しい女性が
いた。彼は一目見てその女性を好きになった。彼はカウンターの右端に腰掛け
た。彼女の顔がよく見えるからだ。彼はコーヒーを飲みたかったが、緊張して
コーラを注文してしまった。
﹁あのう、コーラでいいんですか﹂
﹁ええ、コーラでいいんです﹂
彼は毎朝その喫茶店の前を通った。そして時々入るようになり、そうして七
月には毎朝行くようになっていた。彼は彼女に話しかけることができず、いつ
もコーヒーを飲みながら見つめているだけだった。
秋の日曜日、美術館に印象派の展覧会に行った帰り、その喫茶店に寄った。
コーヒーを飲みながら買ってきた目録を何気なく見ていた。すると、彼女が話
しかけてきた。
﹁絵を見に行って来たんですか﹂
﹁そうですよ、大丸百貨店のギャラリーまで﹂
﹁絵が好きなんですか﹂
﹁好きですよ、ミレーとかシャガールとか﹂
﹁わたしも・・後で目録を見せてもらえますか﹂
﹁どうぞ、遠慮なく﹂
思いがけないことがきっかけで、彼は彼女と話すことができた。それから、
彼は展覧会を見つけては出かけて行き、目録を買って帰っては彼女に見せてあ
げ、絵の話をした。彼女と話すうち、彼女の魅力が益々伝わって来て、彼の彼
女への想いは日々募っていった。しかし、十一月、彼女に二人の子供がいるこ
とを知った。彼は彼女が独身と思っていたので、彼はショックを受けた。そし
17
て、彼女の夫を見てみようと、六時から店の前で夫が出てくるのを待った。い
つまでたってもその店から男性が出て来ることはなかった。
年が明け、春になった。彼は朝だけではなく、夜も時々行くようになってい
た。彼は彼女と絵以外のことも話すようになっていた。喫茶店の食器棚には彼
専用のこーヒ−カップやティカップが置かれた。店は7時半に閉店するが、彼
は閉店時間が過ぎても帰らず、店の後片付けを手伝ったりした。彼が彼女を好
きなことを、すでに彼女もわかっていた。
ゴールデンウィークが終わった日の夜、彼は意を決して彼女に告白をしよう
とした。しかし、彼女は彼の気持を察して、先に言葉をかけた。
﹁わたしね、短大を出てすぐに見合い結婚をしたの、最初の一年間は楽しかっ
たけど、後の九年間は悲しい毎日だったの、離婚しようかずっと迷っていて、
父親が亡くなったのを機に、離婚してこのお店を始めたの、もう結婚なんて懲
り懲り・・﹂
そう言われて、彼は何も言えなかった。そして、翌日からもその喫茶店に通
い続けた。彼と彼女の心は少しづつ近付いていった。そんなある日のこと、彼
女は彼にこう言った。
﹁今度、トラの童話、貸してあげる、わたしはその本を読んで離婚を決意した
のよ、トラは子供ができても自分一人で子供を育てて、ずっと一人で生きてゆ
くのよ・・大切な本だから絶対無くさないでね﹂
彼 は 彼 女 が 自 分 に 本 を 貸 す 意 図 を 考 え た が 、 彼 に は わ か ら な か っ た 。か
しし 、
彼女の大切なもの貸してくれるという事を、彼は素直に喜んだ。彼が彼女から
本を借りたのは、その言葉から半年ほど経ってからだった。本を彼に渡す時、
彼女を顔を赤くしていた。彼は思った、彼女が本を貸すのは気持の告白なのだ
ろうか。
一月十七日、彼は本を盗まれてしまった。その夜、彼は彼女に謝りに行った
18
が彼女は許さず、彼は絶交されてしまった。彼は同じ本を捜し出して、手紙を
添えて送ったが、彼女から返事はなかった。
缶コーヒーを飲むのも忘れ、 それを
握りしめたまま、 彼は無心に話しをした。
彼女も熱心に聞いていた。
﹁本を盗まれたぐらい、わたしだったら許してあげるのに﹂
﹁ありがとう、美雪ちゃんは優しいから﹂
﹁あっ、もう六時過ぎてる、帰らなくては﹂
﹁今夜は少し遅くなったね、行こうか、遅くなるとご両親が心配するんだろ﹂
﹁うん・・わたし、こんなだから、両親の苦労の種なの、わたしが普通だった
ら、恋愛して結婚して子供が授かって、両親は安心出来るのに﹂
﹁美雪さんは普通じゃないよ、普通以上だ、美人で可愛くて、心が純粋で、き
っときっと幸せになれるよ﹂
﹁わたしでも、普通に幸せになれるかな﹂
﹁なれるよ、きっときっと﹂
公園を後にしても、 二人は改札までの道程を遠回りをしながら会話を続けた。
やがて私鉄の改札の前まで来た。二人の別れる時の言葉は決まっている。
﹁また明日会おうね﹂
﹁うん、また明日ね﹂
次の日のその次の日も、夕方は公園のベンチで話をした。彼はデートに誘い
たかったが、毎日の缶コーヒー代も苦しいくらいお金がなかった。しかし、彼
19
女にはわからない。彼女はデートに誘ってほしかったが、自分の容姿のせいで
デートに誘ってもらえないと思っていた。しかし、二人は公園で話しているだ
けでも十分楽しかった。いつも二人は缶コーヒーを手に公園で六時まで一緒に
過ごした。二週間ぐらいそういう日が続いた。そして、木曜日の夕方。
﹁昨日の﹃スパイダーマン﹄の映画見た?﹂
﹁もちろん見たよ、僕は主人公より新聞社の編集長が好きだね﹂
﹁わたしはやっぱりスパイダーマン、メリージェーンのことひたむきに愛する
から﹂
﹁主人公は貧乏過ぎるよね﹂
﹁高野さん、どんな映画が好き?﹂
﹁僕は、 ﹃インディジョーンズ﹄とか﹃パイレーツカリビアン﹄とか、宝探し
の映画が好きだな、人生って宝探しみたいなもんだよね﹂
﹁ わ た し は 恋 愛 映 画 が 好 き 、﹃ め ぐ り 逢 え た ら ﹄ と か ﹃ ユ ー ・ ガ ッ ト ・ メ ー ル ﹄
﹃恋におぼれて﹄とか、メグのDVDみんな持ってるのよ﹂
映画館に﹂
﹁僕もメグ・ライアン好きだよ、でも映画は映画館で見ないとね﹂
﹁行かない?
﹁えっ・・﹂
﹁別に、何でもない・・もう帰らないと﹂
﹁まだ六時になっていないのに・・帰るの・・送ってゆくよ﹂
彼は彼女の機嫌が悪くなったのがわかった。その理由も察しが付いた。二人
は私鉄の改札へと向かった。その途中、彼は立ち止まった。彼女は振り向いて
彼を見た。
﹁実は、僕、お金がないんだ、給料が安くて、お金があったら美雪さんをデー
トに誘うんだけど、一緒に映画を観たり、カフェテラスでカプチーノを飲んだ
り、レストランで食事したり・・﹂
20
﹁女性をデートに誘いたかったら、給料のいい所に変わればいいのよ、お金を
稼げばいいのよ、いつデートに誘ってくれるか心待ちにしているのに、わたし
を寂しくさせないで、ウサギは寂しいと死んじゃうのよ﹂
彼は彼女にデート代を出させようと思っていたが、怒ったような彼女の言葉
を聞いて、それはあきらめた。しかし、お金を用意してデートに誘おうと思っ
た。翌朝、彼は彼女にデートを申し込もうとしたが、彼女は機嫌が悪く、彼を
無視して通り過ぎた。彼は唖然として彼女を見ていた。しかし、仕事を終える
と、愛用のパソコンをリサイクルショップに売って、デート代を用意した。い
つもの時間より三十分遅くなったが、彼女は待っていてくれると信じて、駅に
行ってみたが、駅のどこにも公園にも彼女の姿はなかった。いつもの時間に彼
がいないから、彼が怒っていると思って、彼女は六時まで待ったけど帰ったの
だった。
彼女は門をくぐり、自分で鍵を開けて家に入った。彼女が帰ってきたことに
気付いた美咲が玄関まで急いできた。
﹁ただいま﹂
﹁お帰りなさい・・今日はチャイム押さなかったの﹂
﹁あっ、忘れてたわ﹂
﹁何かあったの、今日は彼氏と会わなかったの﹂
﹁会ったけど・・彼氏じゃないわよ、まだデートしてないもの・・わたしが昨
日余計なことを言ったから、怒っているのよ、今夜は会えなかったの﹂
﹁何て言ったの、話して聞かせて﹂
﹁デートに誘いたいけどお金が無いというから、仕事を変われとか、もっとお
金を稼げとか、彼の怒ることいろいろ・・﹂
﹁そういう言い方、ひどいわ・・わたしがお金を出すからデートしようと言え
ばいいのよ、そしたらデート出来たのに﹂
21
そんなの
﹁デート代は男が出すものよ、どうしてわたしが出さないといけないの、わた
しがこんなハゲだから、自分がお金を出してデートしてもらうの?
惨めよ、一生誰ともデートしないわよ・・﹂
﹁何もそんなこと言ってないでしょ﹂
﹁どうせわたしがハゲだから一緒に出かけるのが恥ずかしいのよ﹂
彼女は怒って部屋に入っていった。入浴も食事もしないで、トイレ以外は朝
まで部屋から出てこなかった。
次の日、彼はいつも時間にいつもの場所で待っていたが、彼女は彼を無視し
て通り過ぎた。本心は謝りたかったが、彼女にはどうしても出来なかった。そ
の夕方も彼はいた。彼女は朝と同じように彼を無視して通り過ぎ、私鉄の改札
口に行ったが、しばらく改札の辺りをウロウロしてから引き返して自分一人で
公園に行った。遠くから彼女の姿を目で追っていた彼は、彼女の後から公園に
行った。彼女はいつものベンチに座り、彼もその隣りに座った。視線をそらす
彼女の顔をのぞき込んで、彼は話しかけた。
﹁日曜日デートしようか、映画に行こうよ﹂
﹁無理しなくていいわよ、お金ないんでしょ﹂
﹁お金あるからデートしようよ﹂
﹁わたしみたいな女と歩いていたら恥ずかしいでしょ﹂
﹁そんなことないよ、君の美しさや可愛さは僕にしかわからない、君は僕の自
慢のガールフレンドなんだよ﹂
﹁今言った言葉、このハンカチに書いて﹂
﹁いいよ、相変わらず字は下手だよ﹂
彼は彼女が差し出したハンカチにその言葉を書いた。彼女はそのハンカチを
バッグの中に入れた。彼がふとそのバッグをのぞくと、この前のハンカチも入
れてあった。
22
﹁どうしたの?﹂
﹁泣いていい?﹂
﹁いいよ、悲しいの?﹂
﹁嬉しいから﹂
﹁じゃあ、笑えばいいのに﹂
﹁泣き方しか知らないから﹂
﹁・・・・・﹂
﹁・・・・・﹂
彼女はしばらく泣いていた。いつもどうして彼女が泣くか、今まで彼にはわ
からなかったが、その時何となくわかりかけた。
十月第一日曜日。彼女にとって待ち遠しい初デートの日がやって来た。彼女
は平日より早く起きた。両親もすでに起きていて、食卓で新聞を読みながらコ
ーヒーを飲んでいた。
﹁美雪、もう起きてきたの、まだ六時過ぎよ﹂
﹁目が真っ赤じゃないか﹂
﹁夕べほとんど眠れなかったから・・お父さんもお母さんも早いじゃないの﹂
﹁美雪の初デートだから、わたしも落ち着かないのよ﹂
家族中が今までと違う日曜日を迎えていた。彼女もトーストと野菜ジュース
と目玉焼きの朝食を終え、コーヒーを飲みながらスーパーの折込チラシを見て
いた。
﹁お母さん、今日はカンパチが安いわよ﹂
﹁美雪、今日は何を着ていくの?﹂
﹁お母さん、今日は冷凍食品が四割引、かぼちゃコロッケ買って来てね﹂
﹁あなた、人の話聞いてるの?﹂
﹁聞いてるわよ・・ワンピとデニムとどっちがいいかな?﹂
23
﹁パープルカラーのジーンズにしなさいよ、それでエンジェルスのキャップか
ぶって行ったら、可愛いわよ﹂
﹁嫌よ、帽子なんて、髪の毛がペッタンコになるから﹂
﹁いいじゃないの、それぐらい﹂
﹁いいのよ、このままで﹂
﹁あなたはいいけど、彼氏が恥ずかしいでしょ﹂
﹁それどういう意味よ、どうして恥ずかしいのよ、はっきり言ってよ、わたし
がハゲだから、お父さんもお母さんもわたしと一緒に歩いていたら恥ずかしい
ん で し ょ 、い つ も そ う 思 っ て い る ん で し ょ 、 生 ま れ て 来 る ん じ ゃ な か っ た ・ ・ ﹂
﹁そんなこと言ってないわよ﹂
﹁もういいわよ、デートなんか行かないから、死んでも行かないから﹂
彼女は怒って部屋に入り鍵をかけた。出かける時間が来ても彼女は部屋から
今日は行けないからと断るから﹂
出てこない。彼女は部屋の隅にうずくまって音楽を聞き始めた。父親の幸夫が
彼女の部屋のドアを叩いた。
﹁美雪、相手の人の電話番号は?
﹁電話番号なんて知らないわよ﹂
﹁じゃあ、どこで待ち合わせているんだ﹂
﹁乗り換えの駅の前の公園よ﹂
﹁デートを断りに行っていいんだね﹂
﹁好きにしなさいよ、絶対に行かないから﹂
父親は車で駅のそばまで行った。車のガラス越しに公園を見ると、一人の男
性がいた。父親はその男が娘のデート相手だとわかった。二人の約束の時間ま
で三十分近くあったが、彼がすでに来ていてベンチに腰掛けて缶コーヒーを飲
みながらスポーツ新聞を読んでいた。父親はしばらく彼を観察した。娘の彼氏
がどういう男か興味があった。彼は見られていることに気付かず、ひたすら競
24
馬の予想をしていた。それは休日一番の彼の喜びだ。いつも持ち歩いているサ
インペンで、ニコリと笑いながら新聞紙面に印を書き込む。それは子供がいた
ずらで落書きするようだった。父親はそんな彼のあどけない仕草に何となく好
感を抱き、近付いていって声をかけた。
﹁高野さんですか﹂
﹁そうですけど﹂
﹁佐藤と言います、美雪の父親の・・﹂
﹁そうですか・・﹂
高野は父親がデートに反対していると思って、困惑した。反対する理由を予
想 し 、 反 論 を 考 え た 。考 え て い る 一 分 間 、 彼 の 鼓 動 は 緊 張 で 高 鳴 っ た 。し か し 、
彼の困惑と緊張は徒労に終わる。
﹁実は、娘が食あたりを起こして来られなくなって、こうして私がお断りに来
てるんですが﹂
﹁そうですか、良かった!﹂
﹁ところで、今日は他に予定でもありますか﹂
﹁別に予定なんてありませんけど、夕方になったら家に帰るぐらいで﹂
﹁よければ、家に遊びに来ませんか、娘も喜ぶし、家内も高野さんに会いたが
っているし、いつもどんな人かなってうわさしているんですよ﹂
﹁はい、ぜひ・・それで、そのうわさはいいうわさですかね﹂
言葉では説明できないが、二人はお互い気が合うように感じた。二人は車に
乗り込んで、車は走り出した。彼は予期しない展開を幸運に思った。
﹁高野さん、聞いてもいいかな﹂
﹁どうぞ﹂
﹁内の娘のどこがいいんだ﹂
﹁彼女を美人で可愛いと思っているんですけど﹂
25
﹁内の娘はご存知の通りのハゲだが﹂
﹁佐藤さんは娘さんのそういうところばかり見ているのですか﹂
﹁とんでもない、娘がどういう姿をしていようと、可愛くて可愛くてどうしよ
うもない﹂
﹁僕もです、彼女がどういう姿をしていようと美人で可愛いと思っています、
不思議でしょうか﹂
彼がさっき考えた反論が役に立った。車が家の前に止まり、二人は下りた。
父親は門のチャイムを押すと、家のドアが開いた。
ほう!
どうぞ上がってください、 ごめんなさいね、
﹁母さん、ただいま・・お客さんだ、高野さんだ﹂
﹁この人が美雪の彼氏?
今日は娘が約束をすっぽかして﹂
﹁上がらせてもらいます、失礼します﹂
﹁美雪、高野さんよ、出てらっしゃい・・今からデートに行きなさいよ﹂
﹁彼女、食あたりじゃないんですか・・ウソというのはわかってましたけど﹂
﹁父さん、高野さんにそう言ったの?﹂
﹁いい年をした娘がダダをこねているなんて言えないだろ﹂
三人は居間に入って、コーヒーを飲みながら世間話を始めた。応援している
野球チームとか熱中している趣味とか世間を賑わせている事件とか。普段とは
違う話し声が部屋中に響く。しかし、美雪が部屋から出て来る様子はない。
﹁大きなお家ですね﹂
﹁古いけどね、結婚する時、親父が建て替えたんだ、これからたくさん家族が
増えるからって、でもあの時より家族は減ってしまったよ﹂
﹁でもこれからきっと増えますよ﹂
﹁そうだと嬉しいね﹂
﹁高野さん、お昼ご飯食べて行ってくださいね、お寿司の出前頼みますから﹂
26
﹁いいんですか、すっごい嬉しいな﹂
﹁わたし達こそすっごく嬉しい、美雪の彼氏が来て、こんなに嬉しいの何年振
りかしら、ねえ、父さん﹂
﹁そうだな、美雪が大学を卒業した時以来だな、美雪はハゲだから学校でいじ
められてよく泣きながら帰って来たよ、辛かったら学校に行かなくてもいいと
言ったけど、それでも休まず毎日学校に通ったよ、無事に大学を卒業した時に
は大喜びしたよ﹂
﹁美雪が彼氏を連れて来てみんなで食事をする・・いつも夢に見ていたことよ
ね・・お寿司、何を召し上がります?﹂
﹁かっぱ巻きと鉄火巻き﹂
﹁それで・・﹂
﹁僕はそれでいいです﹂
﹁どうしてですか、遠慮なんかしないで、ウニとかトロとかエビとか食べれば
いいのに﹂
﹁かっぱ巻きと鉄火巻きが好きですから、出来ればビールと枝豆があると最高
なんですけど﹂
﹁じゃあ、みんなかっぱ巻きと鉄火巻きにしようか・・高野さんがビールが好
いいですね、じゃあビールは全てただですか﹂
きだとは益々嬉しいね、私はビール会社に勤めているんだよ﹂
﹁ビール会社?
﹁そういうわけではないが、社員割引で少しは安いけど・・﹂
昼になると、三人は寿司を食べながらビールを飲み始めた。母親は再び美雪
を呼びに行った。
﹁美雪、お寿司の出前を取ったから、出てらっしゃい﹂
﹁いらないわよ、三人で楽しくしてればいいのよ﹂
美雪はイライラして部屋の中を歩き回っていた。 三人の所に出て行きたいが、
27
ばつが悪いと思っていた。その時、高野もドアを叩いた。
﹁美雪さん、出ておいでよ、いつまでもすねていないで・・お母さんが帽子か
ぶれと言えばかぶればいいじゃかいか、そんなつまらないことでデートをすっ
ぽかすなんて、相手に失礼だと思わないか﹂
すると、ドアが開いて怒った顔で彼女が姿を見せた。
﹁あなたなんかにわたしの気持はわからないわよ、帽子をかぶろうがかぶるま
大きなお世話よ、誰にも関係ないわよ、わたしといるのがは恥ずかしかったら
デートなんかに誘わなければいいのよ、髪の毛がたくさんある女とデートすれ
ばいいのよ・・﹂
彼はじっくりと彼女の言葉に耳を傾けた。
﹁ほら、出て来たね、次の日曜日デートしよう・・お寿司が君に食べられたい
と言ってるよ﹂
彼の顔を見ると、彼女は機嫌が良くなった。彼は彼女の手を引いて居間に入
った。すでに缶ビールが五つ開いている。四人で食事を再開した。
﹁高野さんには驚いたわ、美雪がトラからネコになるんですもの﹂
﹁美雪さんは素直だから自分の感情をごまかせないんだ﹂
﹁もうやめてよ、わたしの心理分析は・・何よ、きゅうり巻きばっかりじゃな
いの﹂
﹁高野さんの好みなの、美雪のは別にしてあるから﹂
﹁お母さん、わたし用のホワイトビール持ってきて!﹂
﹁母さんも一つもらうわね﹂
﹁一つ一五八円、この間の分も入れて三一六円、お金でちょうだいね﹂
﹁じゃあ、この寿司代も払ってよ﹂
﹁この寿司は生活費で払ってるでしょ﹂
﹁美雪、いいかげんにしなさい、母さんも﹂
28
﹁いつもこうなんですか﹂
﹁ごめんなさい、高野さん、美雪はお金が全てだと思っているから﹂
﹁いいじゃないですか、楽しいですよ﹂
﹁お母さん、早く、ビールとお金!﹂
DVD
みんながビールを飲み出して、食事はより賑やかになった。まるで一つの家
族のように笑い声が響いた。
﹁まだ帰らなくていいんでしょ、ご飯食べたらわたしの部屋に来る?
見る?﹂
﹁うん、見るよ、何があるの?﹂
﹁高野さん、美雪と仲良くなったきっかけを話してよ﹂
﹁父さんも聞きたいな﹂
﹁話します・・僕は二月から今の会社で働き出したのですが、あの駅を歩いて
いる時、彼女を見かけたんです、一目見て彼女が気になって、毎日見ているう
ちに彼女を気に入って、何とか彼女と話したいと思っていてチャンスを伺って
いたんです、そして半年後、彼女が落としたハンカチを拾ってチャンスを見つ
けたんです、でもずっと彼女に無視されて、ところがひと月後彼女がもう一度
ハンカチを落として、公園で話しすることになったんです﹂
﹁それが刺繍されたあのハンカチか﹂
﹁土曜日、ミシンを持ち出してゴトゴトやっていたもんね﹂
﹁そんな話、もういいから、早く部屋に行こう﹂
食事を済ますと、美雪と高野は彼女の部屋に入った。広々とした彼女の部屋
には、和ダンス洋ダンスはもちろん、液晶テレビもパソコンもオーディオもピ
アノも書棚も最新のマッサージ器もミシンもあった。書棚にはハーレクィーン
ロマンスの文庫本が並んでいる。ビデオラックには、DVDやCDがビッシリ
と重なっている。
29
﹁すごいね、この部屋、何でもあるね、僕の家よりずっと広いよ﹂
﹁高野さん、パソコンあるの﹂
どうしたの、壊れたの﹂
﹁あったけど・・﹂
﹁あったけど?
﹁今日のデート代のために売ったんだ﹂
﹁バカね、いいわ、わたしが新しいのを買ってあげる﹂
﹁ちょっと待っててね﹂
彼女は部屋を出ると、居間で昼寝をしている父親の所に行った。
﹁お父さん、明日返すから五万円貸してよ﹂
﹁何に使うんだ﹂
﹁高野さん、今日のデート代のためにパソコン売ったんだって、だから新しい
のを買ってあげるの﹂
﹁へえ、恋をすると変わるんだな、しまりやの美雪がパソコンを買ってあげる
というのか、いいとも、五万円でいいのか﹂
﹁わたし今五万円あるからお父さんの五万円と足して、十万円を彼に貸して、
二十三%の利息を取るの﹂
﹁デートをすっぽかしたお詫びに、買ってあげるんじゃないのか﹂
﹁世の中そんなに甘くないわよ、お金と愛は別ですからね﹂
彼女はそう言いながら部屋に戻った。
﹁ここに十万円あるから貸してあげる、出来るだけ安いのを買って、残りはデ
ート代に置いといて、このパソコンで借用証書を書いてね、それと、ちゃんと
領収書を見せてね﹂
﹁買ってくれるんじゃなかったの﹂
絶対約束守っ
﹁どうしてわたしが貢がなければならないの・・それで来年のクリスマスに利
息二万円と一緒にあの公園でわたしに返すこと・・わかった!
30
てね、約束守らないとわたし死ぬから﹂
﹁利息まで取るの・・パソコンがないと困るから、ありがたいけど﹂
﹁ハイ、わたしのメールアドレス教えてあげる、毎日メール書いてね﹂
彼女はパソコンで作った名刺を彼に渡した。
﹁可愛いウサギのイラストだね、あの落としたハンカチの刺繍と同じのだ﹂
﹁うん、雪ウサギって言うの、わたしのトレードマーク、佐藤家のトレードマ
ークはエンジェルだけど﹂
﹁このイラスト、自分で描いたの?﹂
﹁フォトショプとイラストレーターで描いたの、お母さん、デザイナーしてい
るから、子供の頃に教えてもらったの﹂
﹁いつも誰とメールしてるの﹂
﹁内緒よ﹂
﹁当ててあげようか、作家にメール送ってるんだろ﹂
﹁違うわよ﹂
﹁新進作家を誘惑しようと考えてるんだろ﹂
﹁違うわよ﹂
﹁作家が理想の人なんだろ﹂
﹁うん、作家で冒険家が理想の恋人像だけど﹂
﹁ハーレクインロマンスの世界だね﹂
﹁それより、いつもパソコンで絵本作ってるの﹂
﹁全然、作ったことないよ﹂
﹁絵本作ってないの、なあんだ、作家じゃないんだ﹂
﹁もちろん作家じゃないよ、美雪ちゃんこそイラストうまいから絵本作ったら
いいのに、才能あると思うよ﹂
二人はとりとめのない話を楽しんだ。
31
﹁今日は晩御飯も食べて帰ってね、何か食べたい物、ある?﹂
﹁ごめんね、せっかくだけど、五時ぐらいには帰らないといけないんだ、母が
一人で寂しがるからね﹂
﹁いいわよ、せっかく楽しい気分なのに・・だったらもう帰りなさいよ、わた
しといるよりお母さんといる方が楽しいんでしょ、五時までたっぷり時間ある
からパソコン買って帰りなさいよ﹂
彼女に追い払われて、彼は帰ることにした。彼は両親に見送られて帰って行
った。彼女はこっそりと彼の姿が見えなくなるまで窓から見ていた。
﹁美雪、どうして追い返したの﹂
﹁わたしが追い返したんじゃないわよ、彼の方がパソコン買って帰るからと言
ったのよ、だから帰りなさいって﹂
﹁せっかく晩御飯も食べて帰ってもらおうと思ってたのに﹂
﹁今夜はすき焼きにしようよ、わたしがお肉代五千円出すから、千円のお肉を
五〇〇グラム、わたしが二〇〇で、お父さんお母さんが一五〇づつ﹂
﹁何言ってんの、お父さんが二〇〇で、美雪とお母さんが一五〇づつ﹂
﹁わたしがお金を出すんだから、わたしが二〇〇でしょ﹂
﹁父さんは一五〇でいいよ、美雪の嬉しそうな顔を見ているだけで胸が一杯だ
よ﹂
﹁わたしも帽子をかぶって一緒に買い物行こうかな、お母さんに任せると八百
円の肉を千円と言ってごまかすからね﹂
﹁美雪、お父さんの車で行こうね、ガソリンもったいないから﹂
二人は車に乗ってショッピングセンターに出かけた。母娘で買い物に行くの
は年に何度もないことだ。すばらしき一日に花が添えられる気分だった。
﹁お母さん、彼のことどう思う?﹂
﹁優しくて理解があっていいんじゃないの、ちょっと変わり者だけど、美雪の
32
取り扱い方法も心得ているし﹂
﹁でもお給料安いから、それが唯一の弱点よね﹂
﹁あれで高給取りだったら彼女いたわよ、お金がない方がいいわよ、婿養子に
来てもらえば、高野さんにもっとたくさんお金を貸しなさいよ﹂
﹁お母さんったら、すぐそれなんだから、悪キツネよね﹂
﹁いいわよ、悪キツネで、娘のためならキツネでもタヌキでもなるわよ﹂
﹁それより、クリスマスにホテルにお泊りしてもいいかな?﹂
﹁嫁入り前の娘が男の人と外泊するなんて絶対ダメよ﹂
﹁なんだ、もう・・みんなお泊りしてるのに﹂
﹁少なくても結婚の約束をするまではダメよ﹂
次の日、彼女はいつもより早く起きて、台所に入った。台所では母親が朝食
の支度と昼弁当を作っていた。
﹁どうしたの、こんなに早く起きて﹂
﹁弁当を作ろうと思ったの﹂
﹁いつも作ってあげてるでしょ、母さんのじゃご不満?﹂
﹁自分のじゃなくて、彼氏の分よ、わたしのはお母さんが作ってね、なんだっ
たら彼氏の分も作ってくれてもいいわよ﹂
﹁作ってもいいわよ、いくらくれるの﹂
﹁がめついわね、お母さんは・・自分で作るわよ﹂
朝食と弁当ができた頃、父親は起きてきた。二人が台所で並んでいるのを見
て驚いた。
﹁お父さん、彼氏のお弁当作ったのよ、彼氏の愛に応えなくてはね﹂
﹁へえ、すごいじゃないか﹂
﹁お父さん、これよ、三百円じゃ安いかな﹂
﹁美雪、彼からお金を取るのか・・母さん、娘にどういう教育をしてるんだ﹂
33
﹁お金が一番大事、次に両親、次に彼氏・・﹂
そう言われて、父親は納得するしかなかった。弁当を入れた小さなカバンを
下げて、彼女はいそいそと通勤路を急いだ。乗り継ぎの駅にはいつもより十分
早く着いた。広場を見渡すと、すでに彼が柱にもたれて文庫本を読んでいた。
自分より早く来ていた彼に、彼女は小躍りして喜んだ。
嬉しいな﹂
﹁ごめんね、昨日は・・お詫びの印にお弁当作ってきたの、食べてね﹂
﹁本当?
﹁ハイ、これ・・三百円﹂
﹁えっ、三百円って﹂
﹁お弁当代三百円、コンビニで買ったらもっと高いでしょ﹂
﹁お金取るの、まあいいけど・・僕も自分で弁当を作っているんだよ﹂
﹁こらからはわたしが作ってあげる、その三百円貯めておいて、デート代にす
る
のよ、いい考えでしょ﹂
﹁じゃあ、三百円・・それとパソコンを買った領収書﹂
﹁余ったお金はデート代に置いといてね、勝手に使ったらだめよ﹂
﹁わかってるよ﹂
﹁日曜日、絶対デートだからね・・行ってらっしゃい、仕事でドジしたりケガ
したりしないようにね﹂
彼女は嬉しそうに何度も何度も振り返って彼の姿を確認して、地下鉄の改札
の中に紛れ込んでいった。
日曜日のデートは、彼女は約束通り現れた。私鉄の改札の中から、彼女は小
さく彼に手を振った。彼は彼女の可愛さに改めて驚いた。ジーンズにエンジェ
ルスのキャップをかぶった彼女はおしゃれで清純で活き活きとしていた。もっ
と早くデートすべきだったと彼は後悔した。いつも彼女が入ってゆく改札の中
34
へ今日は彼が入って行った。電車の座席に隣り合わせに座って、彼女の横顔を
まじまじと眺めた。
﹁あまり見つめないで、恥ずかしいから﹂
﹁よく似合っているね、そのキャップ﹂
﹁ハゲが隠れるから﹂
﹁そういうわけではないけど﹂
﹁いいの、もう気にしないから﹂
彼は自慢気に彼女と連れて歩いた。二人はスターバックスのテラスでコーヒ
ーを飲んみながら、ボウっと青空を眺めていた。そして時々視線を合わせて、
微笑み合った。 空を眺めるにも飽きた頃、 映画を見ようと繁華街を歩き出した。
デパートの前の大きな陸橋を上ると、共同募金の街頭募金が行われていた。彼
は五百円玉を入れようとすると、彼女はその手をつかんで止めた。
﹁もったいないことしなでよ﹂
﹁どうして?﹂
﹁あなたも貧乏なんでしょ、人なんか助けている場合じゃないんでしょ、今日
のデート代も大事なパソコンを売ったお金なんでしょ、それも五百円も、どう
しても寄付したかったら十円にしておきなさいよ、わたしは絶対寄付しないわ
よ、だってそうじゃない、困っている人を助けるのは税金でやればいいのよ﹂
そう言われても、彼はそのまま五百円玉を入れた。今まで機嫌が良かった彼
女はたちまち不機嫌になった。彼女は彼と並んで歩かず、少し遅れて歩いた。
怒ってるの?
何の映画観るの?﹂
いつの間にか映画館の前まで来ていた。
﹁どうしたの?
﹁・・・・・﹂
﹁ ﹃招かれざる恋人﹄ ・・この映画でいいね﹂
﹁・・・・・﹂
35
﹁コーヒーとポップコーンいるかい﹂
﹁・・・・・﹂
﹁コーヒー二つに、ポップコーン一つでいいかい﹂
﹁・・・・・﹂
﹁何とか言えば﹂
﹁・・・・・﹂
映画館に入り席に着いて、彼は彼女の手を握ろうとしたが、彼女は腕組みを
したまま、彼に触れさせようとしない。二人は映画を観終わって、映画館を出
た。
まだ機嫌直さないの・・パスタのおいしい店知ってるん
﹁映画、おもしろかったね﹂
﹁お昼、何食べる?
だけど、それでいい?﹂
﹁・・・・・﹂
繁華街を抜けて、公園を横切った所にスカイビルがある。そのビルのレスト
ランに彼は彼女を案内した。
﹁三十三階だよ、景色がいいだろ﹂
﹁どうしてこんな所知ってるの、他の女性と来たんでしょ﹂
﹁誰だって知ってるよ、雑誌で紹介されていたから、パスタのおいしいお店っ
て﹂
二人は眺めのよい窓際の席に座って、食事を始めた。
﹁大阪城が見えるね﹂
﹁・・・・・﹂
﹁中学の頃、高橋と中野という友達と大阪城の石垣に必死によじ登ったよ、一
番上まで登って下を見てみると、団体客がいて僕らの写真と撮っていたよ﹂
﹁おもしろくないから、もう帰る﹂
36
﹁いきなり帰るの、どうして、まだ昼過ぎなのに﹂
﹁地下鉄の駅はどっちよ﹂
﹁家まで送ってくよ﹂
﹁一人で帰れるから﹂
駅の方に向かって歩き始める彼女を、彼は追いかけた。二人は彼女の家に着
いた。
﹁お母さん、ただいま﹂
﹁あらっ、もう帰ってきたの、ケンカでもしたの﹂
﹁・・・・・﹂
﹁高野さんも一緒なのね、上がってくださいな﹂
﹁この人はもう帰るのよ、お母さんが待っているから﹂
そこに心配そうな顔で父親が現れた。
﹁高野さん、時間があるんだったら上がってくださいよ、ここは私の家だから
ご遠慮なく・・将棋を指せるんだって﹂
﹁はい、やりますよ﹂
父親はクローゼットから大きな将棋盤を持ち出してきた。彼は父親と居間で
将棋を指し始めた。
﹁いい将棋盤ですね﹂
﹁いい将棋盤があっても相手がいないとね、宝の持ち腐れだよ﹂
﹁僕よければ、時々お相手させていただきますよ﹂
﹁よく将棋をするのかね﹂
﹁家でパソコン相手にしているだけですが、自分では強いつもりですが﹂
﹁聞いてもいいかな﹂
﹁どうぞ﹂
﹁どうしてケンカしたんだ﹂
37
﹁別にケンカなんてしてませんよ、僕が五百円募金をしたから彼女が怒ってる
だけで・・﹂
二人の話を立ち聞きしていた彼女が、居間に入ってきた。
﹁給料が安くて貧乏しているのに五百円も寄付するのよ、身の程知らずよ﹂
彼女は怒ってそう言い放つと、自分の部屋に戻って行った。
﹁ 美 雪 、そ ん な 失 礼 な 言 い 方 は よ せ ・・ す ま な い ね 、高 野 さ ん 、口 の 悪 い 娘 で ﹂
﹁いいんですよ、気にしてませんから・・将棋は僕の勝ちですね﹂
﹁懲りずにまた美雪とデートしてやってくれるかな、娘はボーイフレンドどこ
ろか今まで誰も友達がいなかったから﹂
﹁もちろんですよ﹂
彼は帰ることにした。 玄関に行く前、 二階に行って彼女の部屋をノックした。
﹁美雪さん、帰るからね、また明日ね﹂
彼女は部屋から出てこなかったけど、窓から彼の姿が見えなくなるまで見つ
めていた。そして、彼の姿が消えると、部屋から出てきた。
﹁いつもすぐ帰るんだから﹂
﹁美雪が帰れと言うからでしょ﹂
﹁いてほしいのに、女心がわからないのかしら﹂
﹁何て勝手な言い分、女らしく﹃帰らないで﹄と言えばいいのに﹂
玄関先で、美雪が母親に今日の出来事を話していると、チャイムがなった。
ドアを開けると、彼が立っていた。
﹁ケーキ買って来たんだけど、どうぞ皆さんで食べてください、じゃあ、僕、
帰りますから﹂
母親はひじで彼女をつついた。
﹁帰らないで、お父さんとお母さんが寂しがるから、わたしは寂しくないんだ
けど﹂
38
﹁じゃあ、もう一度上がらしてもらおうかな﹂
﹁わたしの部屋に行っててね、コーヒー入れたらすぐに行くから、今日は絶対
晩御飯食べて行ってね﹂
彼女は台所にコーヒーを入れに行った。母親もお茶の支度をしていた。
﹁良かったわね、戻って来てくれて﹂
﹁ウフフ・・お母さん、部屋のぞかないでね﹂
彼女はコーヒーとケーキを持って、自分の部屋に行った。
﹁何して遊ぶ?﹂
次の日、美雪は昼の休憩時間ににトイレに行った。しばらくすると、小林真
弓が二人の女子社員と一緒にトイレに入って来た。
﹁真弓先輩・・昨日、美雪のヤツ、男と映画に来ていたわよ﹂
﹁へえ、どんなヤツ﹂
﹁相手もハゲだったりして﹂
﹁普通の男よ、貧乏そうな冴えない男だったけど、美雪のヤツ、ずっと帽子か
ぶったまま﹂
﹁SEXの時も、パンティ脱いでも帽子はかぶったままだったりして﹂
﹁それにしても物好きな男もいたもんね、あんなハゲと一緒に映画に行くなん
て﹂
彼女達は二十分余り話し込んでいた。彼女達の自分への悪口を聞いて、美雪
はいつもの事かと思ったが、トイレの個室から出れないでいた。個室に誰かい
ることに気付いた彼女達は声をかけた。
﹁もしもし、どうかされましたか﹂
しかし、美雪は返事することが出来なかった。セキ払いをしてごまかそうと
したが、緊張してセキも出ない。
39
﹁ひょっとして誰か倒れているんじゃないかしら﹂
﹁警備員の人、呼んで来ようか﹂
美雪をその事を聞いて、個室から走って出ようと考えた。そして、ドアを開
けて走り出した途端、足を取られて転び、顔から洗面台にぶつけてしまった。
額から目を辺りを強く打ち、出血してしまった。彼女達の大笑いする声が美雪
の胸に突き刺さった。美雪はハンカチで顔を押さえながら医務室に行った。美
雪が手当てを受けていると、中島専務が様子を見に来た。
﹁どうしたんだ、佐藤君、大丈夫か﹂
﹁トイレで転んだんです、すみません、心配かけて﹂
﹁いじめられたんじゃないのか﹂
﹁いいえ、自分で転んだんです﹂
﹁それならいいけど・・昨日ゴルフの打ちっ放しでお父さんに会ったよ、彼氏
が出来たんだって、良かったね・・先生、彼女は病院に行かなくって大丈夫で
すか﹂
﹁大したケガではないんですけど、頭部打撲してますから、病院に行ってレン
トゲン撮ってもらった方がいいんでしょうけど﹂
﹁わたしは大丈夫ですから、仕事に戻ります﹂
﹁佐藤君、 今日は帰りなさい、 入社してから有給休暇一日も使ってないんだろ、
車で送ってあげるから、お母さんの顔も見たいしね﹂
彼女は早退することになり、中島の車で送ってもらうことになった。
﹁小林にいじめられているんじゃないのか﹂
﹁子供の頃からいじめられているから平気です﹂
﹁会社に戻ったら叱っておくから﹂
﹁大丈夫です、彼氏が優しくしてくれるから﹂
﹁ そ う か・ ・何 度 も 聞 い た と 思 う け ど 、 お れ と 佐 藤 は 高 校 の 時 か ら の 親 友 で ね 、
40
大学の時にどちらも君のお母さんに一目ぼれして、おれの方が金持ちでいい男
でスポーツも出来たんだけど、アイツの下向きさにはとてもかなわなかった、
美雪ちゃんの彼氏もそんな男だったらいいのにな﹂
﹁優しいしか取り得がないみたい、カッコ悪くて貧乏で、いつも九百八十円の
ジーンズはいているの﹂
﹁いいじゃないか、それで・・どこで知り合ったんだ﹂
﹁駅のコンコース、今年の二月、わたしは気が付かなかったけど、毎日わたし
のことを見ていたんだって、仲良くなったのは秋からだけど﹂
﹁益々いいね・・着いたらお母さんにコーヒーでも入れてもらって、美雪ちゃ
んののろけ話でも聞かせてもらおうかな﹂
中島が車をガレージに入れている間に、彼女はチャイムを鳴らし門をくぐっ
た。
﹁お母さん、ただいま、専務さんも一緒よ﹂
﹁どうしたの、今頃帰って来たりして、その顔の傷、いじめられたんでしょ﹂
﹁本当に自分で転んだの﹂
﹁悪い悪い、おれがいながらこんな事になって﹂
﹁中島さん、いらっしゃい、久し振りね、遠慮しないで時々遊びに来てよ﹂
﹁嫌だね、仲のいい所を見せ付けられるのは・・コーヒー入れてくれるかな、
美咲の手作りクッキーあるかな﹂
﹁クッキーあるわよ、クッキーがないと美雪の機嫌がわるくなるから﹂
三人は居間で雑談を始めた。
﹁美雪ちゃん、彼氏出来たんだって﹂
﹁そうよ、もう、大変なのよ﹂
﹁別に大変じゃないわよ﹂
﹁彼氏のお弁当作ったり、パソコンまで買ってあげたり、二度も家に来てくれ
41
たのよ、いい人みたいで安心したわ﹂
﹁美雪ちゃんは美人だから今まで彼氏がいなかったのが不思議だよ﹂
﹁どうせわたしはハゲですから、今まで彼氏は出来ませんでしたよ﹂
﹁美雪、そういう言い方はダメよ﹂
﹁いいのよ、もう気にしていないから、高野さんはハゲでも好きだと言ってく
れているから﹂
三人の雑談は三時間も続いた。
金曜日の夜、中島は行き着けのバーに寄った。そこでは、小林真弓が待って
いた。繁華街の裏道にあるカウンターだけのその小さなバーは、中島と真弓の
密会の場所である。バーを出れば、ホテルが連なる通りに出られるから。真弓
は先に来ていて、マティーニを飲んでいた。
﹁最近誘ってくれないから、他にいい人できたのかなって思ってたのよ﹂
﹁おいおい、会うなり嫌味を言うなよ、わかってるだろ、仕事が立て込んでい
ただろ﹂
﹁缶コーヒーを持って社内をウロウロしているくせに、忙しいの﹂
﹁あれは社員とのコミュニケーションを取っているんだろ﹂
﹁女子社員ばかりに話しかけて、何がコミュニケーションよ、わたしの後釜を
物色してるんでしょ﹂
﹁おれはそんな男じゃないぞ、若い頃はそうだったがな﹂
﹁突然呼び出したりして何の用?﹂
﹁別に用なんてないけど、ただ真弓の顔をゆっくり見たくなっただけだ﹂
﹁いつも会社で見てるでしょ、今日はゆっくり出来るの﹂
﹁妻が旅行に行ったからな・・ところで、佐藤君の・・﹂
﹁わたしのせいじゃないわよ、あの女、勝手に転んだのよ、医務室に連れて行
42
ってあげようと思ったのに走って出て行ったのよ﹂
﹁わかってるけどさ、もっと優しくしてやれよ、彼女、かわいそうだろ﹂
﹁ハゲだから、わたしもハゲになれないかしら、もっとあなたに優しくされる
のに﹂
﹁手厳しいね・・美雪ちゃんは親友の娘さんなんだ、彼女に何かあると佐藤に
顔向け出来ないだろ﹂
﹁昔の恋人の娘だからでしょ、何度も聞いたわよ﹂
﹁じゃあ、優しくしてあげてくれよ、一緒に昼弁当を食べてあげたり、井戸端
会議の仲間に入れてあげたり、飲み会に連れて行くとか﹂
﹁わたし、お昼は外食なの、彼女とは部署が違うから話せないの、誘っても彼
女 は 行 か な い の・ ・ 言 っ て お き ま す け ど 、 わ た し 、 い じ め て な ん か い な い わ よ 、
誰だって人の陰口くらい言うわよ、特に珍しい人の陰口なら﹂
﹁わかったから、その陰口、彼女の耳に入らないように頼むよ・・ところで、
真弓、好きな男いないのか﹂
﹁バカにしないでよ、お金のためにあなたと付き合っているんじゃないのよ、
一応愛なんですからね﹂
﹁嬉しいね﹂
﹁でも、この会社に来る前は、彼氏いたのよ、金持の息子でね、玉の輿なんて
思ったけど、家柄が違うとか言って両親に反対されて別れたの、アイツより金
持を見つけてやると思って、あなたを見つけたのよ﹂
﹁真弓の恋物語、話してくれよ﹂
﹁わたし、経理学校を出て会計事務所に就職したのよ、そこにピザ屋の店員が
やってきてデートに誘われたの、わたしと一緒にピザ屋をやろうって口説かれ
たんだ、そのピザ屋の店員、実はピザのチェーン店の社長のの三男坊で金持だ
ったから結婚することにしたんだけど、両親に家柄が違うって反対されて、駆
43
け落ちしようと言ったんだけど、結局捨てられちゃった﹂
小林真弓は経理学校を卒業すると、会計事務所にに就職した。会計士は収入
が良いと考えたからだ。 若くて美人の彼女は先輩からよくデートに誘われたが、
応じなかった。 自分の理想にパーフェクトな相手が見つかるまで、 待ち続けた。
しかし、彼女の注目を引いたのは、ピザの配達人だった。みんなで残業してい
て、夜食にピザを取ろうということになった。ピザが届いて彼女が受取りにい
った。茶髪ののんきそうな男が立っていた。
﹁ピザのお届けに参りました、代金は三千五百円です・・いつも店の前を通り
ますよね、ここに勤めていたんですか、こうして合うなんて偶然ですよね﹂
﹁そうですけど、じゃあ、これ、三千五百円ちょうどお支払いします﹂
﹁ありがとうございました、また、会いましょうね﹂
﹁結構です・・﹂
真弓は変な男だと思ったが、あの端正な顔立ちにあの微笑は印象に残った。
外観は彼女の理想に近かった。残業を終えて駅まで行く途中、何となく目でピ
ザ屋を探してみると、確かに例のピザ屋はあった。そっと店内をのぞいてみる
と、四、五人の店員が雑談していたが、先ほどの男もその中にいた。その男は
彼女が見ていることに気付いてお辞儀をしたが、彼女は知らん振りを通り過ぎ
た。
真弓は葛藤した。彼女には金持と結婚するという夢がある。ピザ屋の店員な
んかに惹かれてはいけない。そう思えば思うほど、彼の事が気になった。しか
し、彼女はピザ屋を避けて通勤した。しばらく会わないと、すっかり彼の事は
44
忘れてしまった。
ある日の午後、あのピザ屋の店員が会計事務所にやってきた。彼は客室に通
され、彼女は担当の会計士と彼のお茶を出した。一時間ほどして二人は笑いな
がら客室から出てきた。彼は真弓を見ると、微笑してあいさつした。
﹁名前、真弓さんというんですね・・また、会いましょうね﹂
﹁会いたくないわよ﹂
真弓は小声でつぶやいた。彼女は彼が帰ると、その担当の会計士になぜ彼が
きたのか尋ねた。
﹁あのピザ屋、何の用で来たんですか﹂
﹁そういう言い方は失礼だぞ、これからはクライアントさんだから・・いやい
や、内の事務所と顧問契約するためだよ﹂
﹁何の契約なんですか、そもそもあの人誰なんですか﹂
﹁ピザ屋さんだよ、これから夜食はピザだからね、半額にしてくれるって﹂
年度末、仕事が忙しくて残業が続いた。夜食は決まってピザ屋に注文した。
決まってあの店員が配達に来た。ピザを届けに来ると、いつもオフィースの中
まで入って来て、気安く彼女に話しかけてきた。この日もそうだった。
﹁今日も残業なんですね、真弓さんは働き者なんですね﹂
﹁そうですよ、あなたもこんな所で油売っていないで一生懸命働いたら﹂
﹁こんなに忙しくては日曜日も休めないですよね﹂
﹁休日はちゃんと休めますけど﹂
﹁じゃあ、僕とデートしてください、僕は高橋辰彦と言います﹂
﹁あなたとデート?﹂
﹁お茶飲むぐらいだったらいいでしょ・・お願い・・お願いします﹂
﹁お茶飲むぐらいだったらいいですけど﹂
﹁じゃあ、日曜日、正午、そこの駅で﹂
45
﹁行くかどうかわかりませんけど、多分行かないと思うけど﹂
﹁真弓さんが来るまで待ってますから﹂
﹁そんなこと言われても・・﹂
真弓はそう応えたけれど、日曜日は嬉しそうに駅まで行った。すでに彼が待
っていて、明るい声で出迎えてくれた。
﹁来てくれてありがとう・・ 約束通り、お茶を飲もうよ﹂
﹁いいわよ、飲みましょう﹂
二人は駅近くの喫茶店に入った。店内は何組かの客が飲食していた。店の真
ん中のテーブルに掛けると、彼は彼女を見つめた。
﹁それで、どうするの・・﹂
﹁そうだ、何か注文しよう、コーヒーでいい?﹂
﹁いいわよ﹂
ウエイトレスが水を運んできて、彼はコーヒーを二つ注文した。
﹁それで、どうするの・・﹂
﹁プロポーズしていい?﹂
﹁あなた、バカじゃないの、初めて会って五分も経っていないのに﹂
﹁そうか、僕は毎日あなたを見て、想っていたから、すごく親しく感じている
んだ﹂
﹁あなた、変人じゃないの!﹂
すぐにコーヒー二つが運ばれてきた。二人の会話にウエイトレスは微笑して
いた。真弓に失笑されても、彼はひるまなかった。
﹁二人でピザ屋をやろう、あんな宅配ピザじゃなく、本物のピザ屋を・・イタ
リアで三年間修行してきたんだ、まだまだだけど・・でも味には自信がある﹂
﹁プロポーズの次は、二人でピザ屋をやろう・・あなたったら突然何を言い出
すの、わたしと付き合いたいの、それとも、わたしとピザ屋をやりたいの﹂
46
﹁僕の夢は美しい女性と結婚して、二人でピザ屋を経営することなんだ﹂
﹁そう?﹂
彼女はコーヒーを味わいながら、しばらく考え込んだ。彼もコーヒーを飲み
ながら彼女の反応を待った。彼女はデートに来る前から彼に恋していることに
気付いた。
﹁お店を出すお金はあるの﹂
﹁全然ないけど、親父に借りるんだ﹂
﹁親父って・・﹂
﹁今のピザ屋のチェーン店、親父が社長なんだ、会社は兄達が継ぐから、僕は
自分の好きな道を生きて行こうと思って・・﹂
﹁あなた金持なの﹂
﹁そんな事どうでもいいよ、君が好きなんだ、結婚を前提に付き合ってくれな
いか、二人で日本一おいしいピザ屋を作ろうよ﹂
﹁でも、わたし、母と二人暮しで、母を一人で置いておけないし﹂
﹁一緒に住もうよ、そうだ、お店も手伝ってくれればいいし、帳簿を付けてく
れるとありがたいな﹂
﹁いいわ、考えておいてあげる﹂
﹁オーマイゴッド!﹂
真弓は突然降って沸いた幸運に戸惑ったが、喜び一杯だった。それから休日
の度に二人はデートした。彼の夢のある計画に彼女も次第に関心を持っていっ
た。
﹁初めてデートしてから半年になるね、そろそろプローポーズの返事聞かせて
くれないかな﹂
初めてのデート日からいつも指輪を用意していたんだ、豪華なダイ
﹁いいわよ・・イエス・・﹂
﹁本当?
47
ヤじゃないけど、デザインはいいよ﹂
﹁これ、すごいダイヤよ、ありがとう、本当に嬉しいわ﹂
﹁今度、両親に会ってくれないか﹂
﹁それも、イエスよ﹂
しばらくして、真弓は彼の両親と会うことになった。日曜日の午後、彼女は
彼と共に彼の実家に行った。今まで足を踏み入れたことがないような屋敷に、
彼女は入っていった。応接間に案内され、彼女は大きなソファーに腰掛けた。
しばらく彼と二人で待っていると、両親が応接間に現れた。彼女は両親に歓迎
されると思っていたが、違っていた。両親の顔には笑顔がなかった。
﹁辰彦、彼女がお付合いしているお嬢さん?﹂
﹁ただの付き合いじゃなく、婚約したんだよ﹂
﹁美しいお嬢さんね﹂
﹁辰彦、わしらはこのお嬢さんと結婚するのは反対だ、確かに美しくて賢そう
なお嬢さんだ、でもお前はわが社の後継者の一人だ、それに相応しい女性と結
婚すべきだ﹂
﹁親父、僕にはやりたい事をやらせてくれる約束だろ﹂
﹁そうだ、だからイタリアにも遊学させてあげただろ、ピザの配達もさせてあ
げているだろ、 誰と付き合っても文句は言わないだろ、 しかし結婚だけば別だ、
辰彦の結婚相手は美しくて賢いだけではだめなんだ、実業家の妻に相応しい女
性じゃないと﹂
﹁お父様、わたしのどこがだめなんですか﹂
﹁あなたはだめなんかじゃない、ただ環境が違うだけなんだ﹂
﹁わかりました、失礼します・・辰彦さん、帰りましょう﹂
彼女は彼に一緒に帰るように促したが、彼は立ち上がらなかった。彼女は失
望して一人帰って行った。
48
中島はバーボンを飲みながら、彼女の話に耳を傾けていた。
﹁そうか、おれだったら家を飛び出して一緒になるけど、その男はそれだけの
愛情しかなかったんだろ﹂
﹁あの男、親のすすめるの女と結婚して、今は自分の店をやっているわ、一度
彼のピザ屋に行ったのよ、でもわたしのことなんて知らないって顔で接客して
きたわ、悔しいけど、ピザはすごくおいしかった!﹂
バーボンのボトルはほとんど空になっていた。二人は話が終わると、バーを
出てホテルに足を向けた。
美雪は大学を卒業すると、すぐに中島工業に入社した。中島は経理部で働く
ように勧めたが、彼女は男性ばかりの設計部を選んだ。一人でコツコツ手掛け
る作業が彼女は性格に合っていた。いい仕事が出来るように、彼女は自費で最
高の設計ソフトを購入したりした。彼女の設計する部品は女性らしい細やかな
気配りがあり、たちまち売れ筋商品になった。二年目から彼女は男性と同じ給
料を得られるようになった。
美雪より三年先輩の小林真弓は、自分より収入が多い彼女を嫌っていた。美
雪の顔を見る度に、一言二言嫌味を言った。また、仲間にも美雪に意地悪する
ことを求めた。いじめられる事に慣れている美雪は、大して気にしなかった。
その事が益々真弓を苛立たせた。
美雪のデスクは壁に面して配置された。彼女は他の社員達にいつも背中を向
けて仕事していた。出社と退社のあいさつと仕事の打合せ以外は彼女は誰とも
49
会話をしなかった。忘年会や社内旅行という会社の行事にも一度も参加しなか
った。彼女は変人というレッテルを貼られたけれど、楽しく仕事をしていた。
真弓の美雪に対する悪意は日に日に強くなっていった。いつか総攻撃をしよ
うと、真弓は彼女の情報収集をしていた。
十月第三土曜日、美雪と高野はUSJに行く約束だ。彼は自転車に乗って、
七時に彼女の家に迎えに行く。彼が門のチャイムを鳴らす時には、すでに彼女
は身支度を整えていた。白いジーンズとジャケットに着て、スヌーピーのキャ
ップをかぶった彼女は、USJのキャラクターの一人のように可愛らしい。背
中にある小さなリュックには、彼女の手作りのサンドイッチとコーヒーとクッ
キーが入れられていた。
電車に乗っている時から、二人はずっと腕を組み手をつないでいた。彼が彼
女の横顔を見つめると、彼女は恥ずかしそうに下を向いた。
﹁可愛いね﹂
﹁あんまり見ないで、恥ずかしいから・・ハイ、缶コーヒー﹂
﹁ありがとう、これ、新発売だね、そうか、お父さんの会社のだ﹂
﹁さすが缶コーヒー研究家ね・・今日は七時まで一緒にいたいなあ、でも高野
さんのお母さんが心配するから五時で帰らないといけないのね﹂
﹁土曜日は十時までだよ、五五〇〇円も出したんだから最後までいないともっ
たいない﹂
﹁ヤッター!﹂
﹁会社でデジカメ借りて来たから、撮ってあげるね﹂
﹁ヌードも撮ってくれるかな﹂
﹁えっ?﹂
﹁わたしも楽しい時は冗談を言うのよ﹂
50
﹁驚いた、本気にしたよ﹂
二人は楽しい時間を過ごした。
夜の十一時頃、タクシーで二人は帰り着いた。
﹁ただいま、お母さん・・死にそう﹂
﹁どうしたの!﹂
﹁お腹空いた!﹂
﹁何も食べなかったの﹂
﹁昼御飯に持っていったサンドイッチとクッキーを食べただけ﹂
﹁僕は食べようと言ったんですが、美雪ちゃん、一時間も並ぶの嫌だと言うか
ら﹂
﹁ごめんなさいね、高野さんもお腹空いてるでしょ、すぐカレー温めますから
ね、ビールも飲むでしょ﹂
﹁はい、いただきます、枝豆もお願いします﹂
ご機嫌みたいだ
二人は食卓に着いた。そこに二階の寝室から父親もやって来た。
﹁母さん、私もビールくれ・・美雪、デートはどうだった?
が﹂
﹁うん、楽しかったよ﹂
﹁キスぐらいしたか﹂
﹁お父さん、もう、変なこと聞かないでよ・・すぐビール持ってくるからね﹂
彼女は台所に行くと、後ろから母親に抱きついて、その背中にほおずりをし
た。
﹁どうしたの、この子は﹂
﹁お母さん・・気持よかった﹂
﹁経験したの?﹂
﹁うん・・ずっと彼に手をつないでもらっていて、すごく気持よかった﹂
51
﹁それだけ?
手をつないだだけ、キスもしなかったの?﹂
﹁うん・・嬉しいから、帽子もかぶらなかったの﹂
﹁ダメね、この子ったら・・こんな時間だからラブホテルにでも行ってのかな
って楽しみにしていたのに﹂
﹁お母さんが結婚が決まるまでダメと言うから、でもね、やっぱり初体験はク
リスマスのお楽しみに取っておくのよ﹂
﹁まあ、いいけど・・料理運ぶの手伝って﹂
四人は食卓に集まって、今日の出来事を話し合った。食事を済ますと、彼は
タクシーで帰った。彼が帰ると、美雪は真顔で父親に尋ねた。
﹁お父さん、結婚していい?﹂
﹁プロポーズされたのか﹂
﹁いいえ、まだだけど、来年のクリスマスに挙式するつもりだから、早く式場
を確保しないといけないから﹂
﹁プロポーズもされていないのに、式場予約してどうするの﹂
﹁でもわかるのよ、女の感で、絶対結婚するって﹂
﹁私は賛成するよ、母さん、いいじゃないか・・美雪、式場予約していいぞ﹂
﹁わたしの予定では、クリスマスにプロポーズしてもらって、初体験をして、
バレンタインに正式に婚約して、結婚の準備に入るの﹂
﹁そんなにうまく行くかしらね、高野さんの家庭の事情もあるし﹂
﹁絶対うまくゆくわよ、相思相愛なんだから・・お父さん、どうしたら彼に結
婚したいと思わせることが出来るの﹂
﹁夜明けのこーヒー一緒に飲むことかな﹂
﹁夜明けのコーヒーもロマンチックだけどね、海辺で夕日を見ながらコーヒー
飲むのもロマンチックよね﹂
﹁美雪、夜明けのコーヒーの意味わからないの﹂
52
﹁朝日を見ながらコーヒー飲むんでしょ﹂
﹁バカね、この子は・・二人で朝を迎えるってことよ﹂
﹁あっ、そうか、わかったわかった・・じゃあ、お父さん、クリスマスにお泊
りしていい?﹂
﹁いいよ、美雪は大人だし、高野さんもいい人だし﹂
﹁じゃあ、お泊りした時、性行為していい?﹂
﹁それは結婚するまでダメだな﹂
﹁一緒に泊まって夜明けのコーヒー飲むだけか、それでいいわ、早速今からホ
テルの予約と結婚式場の予約をしよう・・そうだ、婚約指輪も買わないとね、
お母さん、来週婚約指輪見に行くから付き合ってよ﹂
﹁婚約指輪はな男性が買うものよ﹂
﹁そんなこと言ってたら来年のクリスマスに間に合わないでしょ、高野さんは
貧乏なんだから、わたしが用意してあげないと﹂
﹁母さん、いいじゃないか、思う通りにさせてやろう・・仲人は中島に頼むと
いいよ﹂
﹁父さんまで悪乗りして、何言ってるの﹂
﹁それで、結婚費用は親が出してくれるのね﹂
﹁自分で出しなさいよ、だいぶ貯め込んでいるんでしょ﹂
﹁親が出しなさいよ、老後の面倒はわたし達がちゃんと見てあげるから、新婚
旅行も一緒に来てもいいわよ、とりあえずお金は立て替えておくからね﹂
彼女は嬉しそうに部屋に入っていった。そして、インターネットで明け方ま
で結婚式場の探索を始めた。
﹁父さん、どうするの、あの二人、本当に結婚するのかしら﹂
﹁あんなに幸せそうな美雪を見るのは初めてだ、後は神様に任せておこう﹂
﹁いいわね、あなたはのんきで、わたし、心配だわ﹂
53
二人の交際は順調に続いた。毎週いろんな所でデートした。デート代は全て
彼女が支払うようになっていた。寒くはなったものの、夜はいつもの公園で話
をした。いつも彼女は彼のダッフルコートにくるまっていた。彼のほのかなに
おいがするそのコートに包まれることが彼女のお気に入りだった。
﹁わたし、クリスマスが誕生日なの﹂
﹁知ってるよ、このひと月で、一日二回だから六十回ぐらい聞いたから﹂
﹁今年の誕生日は何かいい事あるかな、いつもは両親と近くの教会にミサに行
くのよ﹂
﹁じゃあ、一人ぼっちじゃないよね﹂
﹁クリスマスに両親と一緒なんて、一人ぼっちと同じよ、自分がみじめで可愛
そうよ﹂
﹁それなら僕も今までずっと一人ぼっちだよ、クリスマスも正月も誕生日も、
母と二人きりだから﹂
﹁わたし達、一人ぼっち同士ね、一人ぼっち同士でイブにお泊りしようか、も
うホテルも予約してあるから﹂
﹁気が早いね、でも、いいよ、クリスマスと誕生日は一緒に過ごすと約束した
からね、少しだけど社長が賞与を出すと言ってたから、もらったら美雪ちゃん
に全部預けておくよ﹂
﹁レストランでお食事して、バーでカクテルを飲んで、それから部屋で・・﹂
﹁朝まで・・﹂
﹁夜明けのコーヒー一緒に飲もうね﹂
﹁タマゴとトーストも付けといてね﹂
﹁ワハハハハハ・・今のおもしろい!﹂
﹁最近よく笑うようになったね、笑い方も覚えたの?﹂
54
彼は彼女を抱き寄せてキスをした。二人にとっても、彼女にとっても初めて
のキスだった。彼女はキスの仕方も知らず、彼にくちびるを重ねるだけだった
が、身も心も酔わせていた。
高野優二が派遣されている印刷会社は従業員八名の小さな会社だった。彼は
その中で印刷の仕事をしている。以前の仕事も印刷で、高校卒業後、その印刷
会社に就職し、そこで五年間働き、三年前に退職した。それから、人材派遣会
社に登録し、現在の職場で働いている。
会社は、六十代の社長・山村英治、五十代の社長婦人・山村明子、五十代の
社長の弟・山村史郎、二十代の社長の次女と三女、三十代の営業の河合茂、四
十代の印刷職人の藤原茂喜、そして、二十代の高野優二の八人だ。
山村英治は親の後を継いで二代目の社長になった。会社は小さいが、社長が
優良企業の社長と大学の同輩だった理由でその企業から受注を得ている。社長
は娘ばかり四人いる。長女の松子、次女の竹子、三女の藤子、中学生の四女の
桜子。社長の娘、松子、竹子は高野の出身校の後輩であるため、彼はこの印刷
会社を気に入り、もう一年近く勤めている。気に入っている理由は、他にもあ
る。営業の河合や職人の川崎に、仕事帰りご馳走してもらえるから。派遣会社
で働くようになってから、自費でビールを飲めなくなった彼にとって、それは
大きな楽しみの一つだった。
十二月第一金曜日の夜、高野は山村社長に呼び止められ、夕食を共にするこ
とになった。会社の近くの寿司屋に行った。その三階建ての大きな寿司屋は、
一階に幾つかのいけすがあり、いけすを出たかにが楽しく歩き回っている。二
階は全て個室になっているが、 一階もグループ用の座敷が十席用意されている。
週末は大勢の来客者でにぎわっていた。二人は一階の座敷に案内された。その
テーブルには山村様という札が飾られている。
55
﹁どうだい、仕事の方は?
わが社に来て一年か﹂
﹁十ケ月ですけど、もうすっかり慣れました﹂
﹁今夜はゆっくり飲んでくれ、三九八〇円で飲み放題食べ放題だから、すごく
飲みっぷりがいいそうだね、噂は聞いてるぞ﹂
﹁いつも河合さんや藤原さんにおごってもらっています﹂
﹁そうか、みんなと仲良くしてくれて嬉しいよ・・もうすぐ家内と娘が来るん
だが・・来た来た﹂
山村は二人を見つけると、嬉しそうに手招きした。四人は座敷に着いた。
﹁ごめんなさいね、遅くなって﹂
﹁私達も今来たところだよ﹂
﹁失礼な事を聞くけど、派遣会社からいくら給料をもらっているんだね﹂
﹁税込みで十五万円ですね﹂
﹁それは少ないね、会社は二十五万円支払っているんだが﹂
﹁派遣会社って、そういうシステムですから仕方ありません﹂
﹁どうだい、当社の正社員にならないか、出来るだけ厚遇するけど﹂
﹁しばらくは無理です、母の病気のせいで、僕もいつ働けなくなるかわからな
いから派遣会社にいるんです、いつでも辞められるように﹂
﹁お母さん病気だと言っていたね、お母さんに何かあった場合、その時はそれ
で考えればいいし、正社員の件はぜひ考えておいてくれ﹂
﹁ありがとうございます、前向きに考えてみます﹂
﹁それはそれでいいとして、知っての通り内は娘ばかり四人もいるんだ、どう
だね一人、一番下はまだ高校生だが、上の三人はもう働いている、今ならより
どりみどりだぞ﹂
﹁僕が良くても娘さんの方がどう言うか、わかりませんよ﹂
﹁高野さんは優しいし顔もいいから、娘達も気にしているみたいよ﹂
56
﹁高野君が娘と結婚して会社を継いでくれたら私は万々歳だがね、この藤子な
んかどうだ、料理もうまいし、家事も手伝ってくれるし、娘の中では一番家庭
的だし、お似合いだと思うんだが﹂
﹁ お 父 さ ん 、止 め て よ 、押 し 売 り は 、高 野 さ ん が 可 哀 想 よ ・・ ね え 、高 野 さ ん 、
好きな人いるんでしょ﹂
﹁別に好きな人はいません・・いつも藤子さんとは一緒に仕事しているし・・
無口な僕も藤子さんだったら話し易いし・・藤子さんもよく映画館に行くそう
だし・・﹂
﹁じゃあ、藤子に決まりだな、母さんもそれでいいね﹂
﹁お父さん、何が決まりなのよ﹂
四人の会食は遅くまで続いた。
十二月は印刷の仕事も忙しく、残業が続いていた。残業の時は、一旦五時で
終り、美雪と公園で会い、帰宅して母親の様子を見てから職場に戻り、藤原の
仕事を引き継いで十時ぐらいまで仕事をする。そして、ある夜。いつものよう
に彼は藤子と最後まで社内に残っていた。
﹁藤子さん、もう仕事片付いたの﹂
﹁ええ、終わったわ、今帰る支度していたところよ﹂
﹁じゃあ、僕は先に帰るからね、裏口の扉は閉めておくから﹂
﹁ちょっと待って、シュークリームあるけど、食べる?﹂
﹁ホント、食べる食べる、駅前のサンタのシュークリーム好きなんだ﹂
﹁高野さんって、おやつがあると言うと、すごく嬉しそうにするわね・・内の
タロウと一緒、内のタロウもわたしがおやつを食べるのを見ると、嬉しそうに
飛んで来るのよ・・すぐにコーヒー入れるから、二階に来て・・﹂
他の従業員は全て帰り、藤子と彼はいつものように二人きりになっていた。
そして、藤子の入れるコーヒーを飲み始めた。
57
﹁高野さん、本当に彼女いないの?﹂
﹁いないよ、母が死にかけているのに、それどころじゃないよ﹂
﹁じゃあ、デート誘うの迷惑かな﹂
﹁そんなことないよ、母の病気のこと、わかっててくれたら﹂
﹁クリスマスイブは?﹂
﹁いとこ会で忘年会なんだ、そのいとこらと次の日は、日帰りで母を有馬温泉
に連れて行くんだ、後はずっと予定なしだけど﹂
﹁わたしもいとこ会があるし、じゃあ、二十六日ね、それでいい?﹂
﹁いいよ、二十六日の仕事が終わってから﹂
﹁えっと・・わたし、この間まで付き合っている男性いたの、でも相手の両親
がゴチャゴチャ言うから別れたの、ごめんね﹂
﹁別に謝らなくても・・僕も以前好きな女性がいたから﹂
﹁へえ、それでどうしたの﹂
﹁小学生の頃だから忘れた﹂
﹁高野さんって、時々おもしろいこと言うのね﹂
彼の手が藤子の方に触れると、藤子は彼に体を預けた。彼はシュークリーム
でベトベトになったくちびるで藤子にキスをし、藤子を抱き上げると、ソファ
まで運び抱擁を始めた。彼がセーターの上から彼女を愛撫していると、彼女は
自らセーターを脱いだ。すると、彼は彼女のスラックスを脱がせ、下着姿にな
った。彼は自分も下着だけになり、彼女の体に重なってゆく。
十二月二週目の夕方、美雪を私鉄の改札まで送って、高野は階段を下りてき
た。すると、勢いよく飛び出してきた女性とぶつかった。彼女はマクドナルド
のコーヒーを持っていて、彼のシャツに一面にかかってしまった。
﹁ごめんなさい、慌てていて、シャツがびっしょりだわ﹂
58
﹁いいんですよ、五百円のワーキングシャツだから・・急いでるんでしょ、ど
うぞ、行ってください﹂
﹁いいんです、もう快速に間に合わないから・・それより汚れたシャツ、弁償
させてください﹂
﹁本当にいいんですよ﹂
﹁お願いします・・あそこのジーンズショップでいいでしょうか﹂
﹁そこまで言うのなら、買ってもらおうかな、五百円のシャツあるかな﹂
二人は駅前のジーンズショップに行った。 彼女はいろんなシャツを見ながら、
気に入ったのを探した。
﹁これ似合いそうですね、これでいいかしら﹂
﹁二八〇〇円か、こんな高いの買ってもらったら困りますよ﹂
﹁お願い、わたしの気に入ったのを買わせて﹂
﹁そう、じゃあこれに決めた!﹂
彼はシャツを着替えて、二人でジーンズショップを出た。
﹁あのう、マクドナルドに行きませんか、せっかく買ったコーヒ飲めなかった
から﹂
﹁そうですね、今度は僕が出しますね、日曜日競馬でもうけたから﹂
﹁ 競 馬 す る ん で す か 、 わ た し も す る ん で す よ 、 余 り よ く わ かな
らい ん で す け ど 、
職場の上司がするからお付き合いで、GⅠって言うんですか、そのレースしか
馬券を買わないんですけど﹂
二人はマクドナルドの店に入り、奥の隅に席を取った。彼はダブルチーズバ
ーガーセット、彼女はコーヒーだけ。
﹁競馬でたくさんもうけたんですか﹂
﹁千円が一万円になっただけなんだ﹂
﹁でも会社員にとって一万円は大金よね、わたしの上司は十万円で馬券を買う
59
のよ、結構当たってるみたい、わたしも便乗させてもらうの﹂
千円が一万円なら十万円が百万円になるのよ、喜びも百倍じゃ
﹁十万円か、でもうらやましいとは思わないな、バカだとも思わないけど﹂
﹁どうして?
ないの﹂
﹁ポテト、食べる?﹂
﹁ありがとう﹂
﹁お金の量で幸せを量るのが嫌なんだ﹂
﹁お金があったら、欲しい物何でも買えて、食べたい物何でも食べれるのよ﹂
﹁そんな人生つまらないよ、宝探しに行って簡単に宝物が見付かったら興醒め
してしまうよ﹂
﹁人生は宝探しなの﹂
﹁そうだよ、苦労して苦労してやっと手に入れるから幸せだなあと実感するん
だ﹂
﹁苦労しても苦労しても死ぬまで手に入らなかったら﹂
﹁自分の宝探しを子供や弟子に託すんだよ﹂
二人はたわいのない事で時間が過ぎるのを忘れて会話を弾ませていた。
﹁もうこんな時間だ、母が待っているからもう帰らないと﹂
﹁お母さんと暮らしているの﹂
﹁弟と妹がいるけど、今は母と二人暮らしなんだ﹂
﹁えっ、ホント、わたしも母と二人暮らし、わたしは一人っ子よ﹂
﹁ホント、信じられないな、話が合い過ぎだよね﹂
彼女はそう言うと携帯電話を取り出して、自宅に電話した。二、三度呼び出
﹁じゃあ、信じてもらえないなら、信じさせてあげる﹂
し
音がなると、受話器が取られた。
60
﹃ お 母 さ ん 、 わ た し・ ・ 今 会 社 の 人 と マ ク ド ナ ル ド で ハ ン バ ー
ガー食べてるの、
競 馬 で 勝 っ た か ら っ て お ご っ て く れ て い る の 、ち ょ っ と 電 話 替 わ る か ら ね ・ ・ ﹄
彼女は彼に携帯電話を渡した。 彼はためらいながらも携帯電話を手に取った。
﹃こんばんは、高野と言います﹄
﹃いつも娘がお世話になってます﹄
﹃ええ・・もうすぐ帰りますから、お母さん一人で寂しいでしょ﹄
﹃寂しいもんですか、家にいても口やかましだけで、テレビの前でゴロゴロし
て、
何にも手伝わないんですよ﹄
﹃そうですか、僕も母と二人暮らしだけど、結構家事しますよ﹄
﹃娘にそう言ってやってくださいよ、自分の事ぐらいは自分でしろって﹄
﹃わかりました、僕が叱っときます・・じゃあ、失礼します﹄
彼は彼女に携帯電話を返した。
今度競馬場に行きましょうか﹂
﹁本当に本当に二人暮らしなんだね、ごめん、疑ったりして﹂
﹁いいのよ・・そうだ!
﹁そうだね、行こうか、三年ぐらい競馬場には行ってないんだ﹂
﹁電話番号、教えてもらえる?﹂
﹁メールでもいいかな、電話があると母のチェックがうるさいから﹂
﹁いいわよ・・じゃあ、帰りましょうか、今日は楽しかったわ、いっぱい笑っ
ちゃった﹂
﹁僕も・・じゃあね﹂
二人はマクドナルドの店を出ると、別々の道を行った。彼は彼女の後ろ姿を
見つめた。 彼女が自分を振り返るかどうか気になったから。 彼女は振り返らず、
柱の陰に消えた。彼が帰ろうと思った瞬間、彼女は柱から顔をのぞかせて笑い
ながら小さく手を振った。彼も手を振って、彼女に応じた。そして、二人は別
61
れて行った。
十二月第三日曜日、彼は美雪に仕事だとウソを付いて、先日出会った女性と
競馬場に行った。いつも通る駅で、彼女に指示された所で待っていると、彼女
が車で迎えに来た。
﹁さあ、乗って、競馬場までひとっ走りよ﹂
﹁いい車、乗ってるね﹂
﹁このポンコツ、これ、上司に借りてきたのよ、古い軽四だけど、余り乗って
ないからよく走るのよ、わたし、車なんて持ってないから﹂
﹁いい上司だね﹂
﹁お人好しよ、誰にでも親切よ、車が要る時、言ってね、借りてあげるから﹂
﹁ところで、君、名前何ていうの﹂
﹁わたし、真弓、あなたは高野優二さんね、あっそうそう、競馬場に行くと言
ったら指定席取ってくれたの、Aシートと言ってたわ、その方がゴール前がよ
く見えるんだって﹂
﹁そりゃすごいよ、楽しみだね﹂
﹁そうそう、サンドイッチ作ってきてあげたわよ﹂
﹁えっ、すごい、サンドイッチ、どこどこ﹂
﹁何よ、その驚き方、サンドイッチ食べたことないの﹂
﹁あるとも、去年残業の夜食で出てきたよ﹂
﹁競馬場に着いたら、お馬さんのぬいぐるみ買ってね、一番大きなヤツね﹂
﹁そんなの欲しいの、いいとも、君って結構可愛いね﹂
﹁あっ、ホント、可愛いなんて言われたことないわ、職場で意地悪おばさんっ
て言われてるのよ、ひどいでしょ﹂
﹁意地悪おばさんか、意地悪ばあさんよりましじゃないか﹂
彼は彼女といると妙に話が弾んだ。いつの間にか競馬場に着いていた。そし
62
て、電話で予約していた指定席券を買い、場内に入って、オグリキャップのぬ
いぐるみを買い、指定席に着いた。
﹁いい天気で、温かくて、良かったね﹂
﹁そうよね、天気がいいとお馬さんも気持よく走るんでしょ﹂
﹁そりゃそうだよ、馬も人も一緒で、気候がいい方が実力を発揮するよね﹂
﹁今日は百万円持って来たの﹂
﹁ウソだろ、どうするの、そんな大金﹂
﹁あなたに任せるわ、負けてもいいから、勝負しよう﹂
﹁怖いなあ、君は・・わかった、勝負しよう!﹂
二人は競馬を楽しんだ。一レースに十万円づつ馬券を買い、10レースが終
わって百二十万円になっていた。
﹁どうしてこんな大金持ってるの、不思議だな﹂
﹁真面目に働いていたらこれぐらい貯まるわよ﹂
﹁真面目に働いて貯めたお金を競馬で使うとはね﹂
﹁わたし、上司の愛人やってるの、好きだから付き合っているんだから愛人と
いう言い方は嫌なんだけど、お金もらっているのは事実だから、要らないと言
うんだけど、どうしても受取れって言うから仕方なく受取って、使わず貯めて
いるわけ﹂
﹁なるほど﹂
﹁軽蔑する?﹂
わたしは正直に言ったんだから、あ
﹁いいや、軽蔑しないよ、自分が良かったらいいんじゃないか﹂
﹁それで、高野さんは好きな人いるの?
なたも正直に答えてよ、でないとフェアじゃないわよ﹂
﹁いるよ、社長の娘と付き合っているんだ、社長公認で・・﹂
﹁ラッキーじゃないの、一人だけ?﹂
63
﹁そうだよ、一人で充分だよ﹂
﹁そう言いながら今日はわたしとデートしてるじゃないの﹂
後のお楽しみは﹂
﹁競馬がやりたかったからだよ﹂
﹁それだけ?
﹁もうかったらレストランでも行く?﹂
﹁とぼけたりして・・次はメインレースね、何がいいの?﹂
﹁次は絶対堅いレースなんだ、武豊が乗るファインモーション、負けるはずが
ない、一番人気でいいかな﹂
﹁わかったわ、一番人気を百万円買うわ、買って来て﹂
﹁ちょっとそれは止めといた方がいいよ、二十万円程プラスだから、今まで通
り、11レースと12レース十万円づつ買えば、負けても百万円残って損はし
ないだろ﹂
﹁そんなの嫌よ、お願い、百万円で﹂
﹁じゃあ、こうしよう、一番人気と二番人気を五十万円づつ買おう、それと1
2レースは堅くもないから三連複を五点ボックス買おう﹂
﹁それでいいわ、外れても恨みっこなし・・﹂
当りましたね、幾らになったの﹂
そして、11レースは彼の予想通り、的中した。
﹁やった!
﹁六百五十円が五千枚だから、三百二十五万円﹂
﹁高野さん、すごいじゃいの﹂
﹁みんな勝っているレースだよ﹂
﹁やっぱりもうかると嬉しいもんね﹂
﹁僕、嬉しいどころじゃないよ、冷や汗もんだったよ、 ﹂
12レースの結果はみないで、二人は大金を手にして、車に乗った。
﹁高野さん何を買ってたの、見せてよ﹂
64
﹁恥ずかしいけど、見せるよ﹂
﹁一レース、千円づつ買ってたの﹂
﹁笑うなよ、お金がないんだ、でも三万円もうけたよ﹂
﹁これ、今日もうかった分は山分けね・・ハイ、百万円﹂
﹁いいよ、真弓さんのお金で勝負したんだから﹂
﹁その代わり、今夜は返さないと言いたいところだけど、十二時まで付き合っ
てね﹂
﹁お金もらってそういう事するのは嫌だよ﹂
実は前からやりたいことがあるんだ、百万円あるとそれが出来る
﹁本当に要らないの﹂
﹁欲しい!
んだけど﹂
﹁じゃあ、こうしましょうよ、このお金やりたい事のために使って、それでい
いじゃないの﹂
﹁ありがとう、もしもうかったら真弓さんにも利益の分配するから﹂
﹁契約成立ね・・何食べる?﹂
﹁世界一おいしいステーキが食べたいね﹂
﹁いい店を知っているから、早速予約するわね﹂
彼女は車を止め、携帯電話を取り出してレストランを予約した。二人が乗っ
た車は、繁華街の地下駐車場に入った。駐車場から出て表通りをしばらく歩け
ば、ゴージャスなレストランがあり、彼女にその中に案内された。扉をくぐれ
ばウエイターが二人をテーブルに案内した。彼はもの珍しくてレストランの中
を見渡した。
﹁すごく高そうなレストランだね、こんな所に来るのは初めてだよ﹂
﹁わたしも上司と初めて来た時は感動して、お店の中をキョロキョロしたもの
よ・・ワイン飲むでしょ﹂
65
﹁飲むよ、ワインでもシャンパンでも﹂
﹁シャンパンを頼んで祝杯しましょうよ・・それであの百万円何に使うの、ど
うしてもうけるの﹂
﹁それは秘密、というより、やりたい事はあるけど、どうするかまだわからな
いんだ・・それで、真弓さんはやりたい事あるの﹂
﹁特にないわ、普通でいいかな、結婚して、子供を産んで、家族で遊園地に行
ったり・・でも普通の幸せも無理かな、このまま愛人ごっこしてお金を貯めて
自分の会計事務所を持とうかな、すると大学に行かなければならないわね﹂
﹁いいね、自分の会計事務所、来年から勉強を始めれば﹂
﹁結婚は諦めてキャリアに生きるの?﹂
﹁そうじゃないよ、結婚もキャリアもやりたければやるんだよ﹂
﹁この間言ってたわね、 ﹃お金の量で幸せを量るのが嫌なんだ﹄って、良く考
えたんだけど、わかるような気がするわ、 ﹂
二人の話はいつまでも続いた。酔った二人はレストランを出た後、ホテルに
行った。
翌日、仕事を終え、美雪と駅で別れ、家に戻り、母の給仕を終えた高野は、
繁華街に出た。裏通りにあるロイキングという風俗店に入って行った。
﹁あら、優二さん来てくれたの﹂
﹁約束通り、競馬でもうけたから、ご馳走するよ﹂
﹁今日は忙しかったから、こっちももうけたわ﹂
﹁ボーナスが出た後は忙しいんだったね、来てお邪魔だったかな﹂
﹁優二さんはいつだって大歓迎よ・・用意するから、缶コーヒー飲んでて﹂
そうしてくれるとありがたいけど﹂
﹁今日はいいよ・・僕は最終の客だろ・・店を出て焼肉食べに行こうよ﹂
﹁どうして?
66
﹁理由はないよ、ただ早く焼肉食べたいから・・掃除手伝うよ・・ここを掃除
するのが楽しみなんだ、僕しかやらないだろ﹂
﹁相変わらず変わってるわね・・フロントに連絡するわね﹂
掃除を終えると、二人はロイキングを出た。そして、近くにあるカウンター
だけの焼肉店に入った。
﹁何だか嬉しそうね﹂
﹁わかるか・・昨日友達と競馬場に行って百万円もうけたんだ﹂
﹁えっ、ホント、すごいじゃないの﹂
﹁生まれて初めて、最初で最後かな・・でもその友達、今日は百万円で勝負す
るというから、プレッシャー大変だったよ・・僕の資金の三万円も八万円にな
ったかな﹂
﹁じゃあ、もっと、いいレストランに連れってくれたら﹂
﹁この店も安くておいしいんだよ﹂
﹁知ってるわよ、わたしが教えてあげたんでしょ・・ロイキングのおすすめ店
よ﹂
﹁あの百万円は他に使うことがあるんだ・・母の葬式代さ﹂
﹁あなたのお母さん、そんなに病状が悪いの、元気そうなのにね﹂
﹁肝臓が悪くて働けないけど、元気だよ、家事もちゃんとやっているし・・一
人でいると寂しいから、かまってもらいたくて、死ぬとか死んだらとか言うん
だよ﹂
﹁でも、もしだよ、もし母が死んだら生命保険金でエリの借金返してあげるか
でもどうして?﹂
ら、がんばるんだぞ﹂
﹁嬉しい!
﹁僕みたいな男が大金持ったってどうせ無駄使いするに決まってるからね・・
エリさんに貸して少しづつ返してもらった方がいいかも﹂
67
﹁そうかもね・・それでわたしと結婚するの?﹂
﹁今、社長の娘と付き合っているんだ﹂
﹁ラッキーね・・好きなの﹂
﹁好きだよ、もちろん﹂
﹁それで最近お店に来ないのね﹂
﹁そういうわけではないよ、僕の給料と母の障害者年金足しても月十六万円の
収入だろ、退職金も使い果たしたし、遊んでる余裕はないだな﹂
﹁あなたって甲斐性がないのね、もっと給料のいい所で働けばいいのに﹂
﹁今の職場を気に入っているんだ、それに派遣だから母がもしもの時いつでも
辞めれるし﹂
﹁やっぱりお母さん、大部悪いのね﹂
﹁もしもの時だよ、入院したらずっと付き添ってやろうと思うんだ、もしもの
時だよ﹂
﹁わかったわよ﹂
二人は焼肉店を出ると、タクシーでアパートに戻った。そして、エリの部屋
のエリのベッドで眠った。
クリスマスイブ、美雪はいつもの公園で彼を待った。彼女は赤いコートで身
を包み、グリーンの帽子をかぶっていた。午後から雪が降り始た雪が、粒の大
きさを増していた。彼女が空を見上げて落ちてくる雪を見つめていると、雪の
中から高野が現れた。
﹁美雪ちゃん、どうしてこんな寒い所で待ち合わせするの、君の家まで迎えに
行くのに﹂
﹁この公園は二人の大切な思い出の場所でしょ、これでいいの、雪が降ってて
ロマンチックでしょ、神様がわたし達のために雪を降らしてくれたのよ﹂
68
﹁そう、雪が降るのは低気圧のせいだと思ってた﹂
﹁今日はスーツとコートを着てるの、そのコート秋物じゃないの﹂
﹁ コ ー ト も ス ー ツ も 秋 物 だ け ど 、 こ れ し か な い ん だ・ ・寒 い か ら 早 く 行 こ う よ 、
タクシーで行く、それとも地下鉄で・・﹂
﹁地下鉄よ、わたしがクリスマスにデートしているところを世界中のみんなに
見せびらかすの﹂
﹁どうしたの、今日は、テンション高いね・・おいで、雪の中でキスしよう﹂
彼は彼女を抱き寄せると、 キスをした。 二度目のキスはディープキスだった。
﹁これが本当のキスだよ﹂
彼女はボウとなって彼を見つめていた。彼は彼女の手を握ると、地下鉄の改
札へと歩いていった。地下鉄に乗ると、多くの人が振り返って彼女に視線を送
った。彼女はいつもにも増して美しく、喜び一杯の笑顔をしていた。目的地の
駅で降り、ライトアップされた街路樹の中をホテルまで歩いた。
ホテルのレストランは盛況だった。 どの席もカップルや家族で埋まっている。
明る過ぎない照明の中で、笑い声や話し声が響いている。二人は窓辺のテーブ
ルの席だった。
﹁いい席ね、星空がきれいね﹂
﹁夜景は見えるけど、雪で星は見えないよ﹂
﹁そんなことを言ってロマンチックな気分を壊さないで﹂
﹁ごめんごめん・・あれがオリオン座のペテルギウスという星、あれがおうし
座のスバル、あれがうさぎ座、美雪ちゃんの星・・ロマンチックかな﹂
﹁うん、ロマンチック﹂
﹁シャンパンと前菜が来たよ﹂
﹁あまり飲まないでね、二人で夜明けのコーヒーを飲むんだから、日の出の時
間は六時半頃だから、インスタントのコーヒーとお揃いのコーヒーカップ持っ
69
て来たからね﹂
﹁手回しがいいね﹂
レストランでのディナーが終わると、彼は彼女の手を握ってホテルの部屋に
行った。部屋はダブルベッドとソファーと一面鏡が置かれている。二人はベッ
ドに腰掛けた。
﹁ハイ、僕が作ったサンタクロースの絵本、クリスマスのプレゼント﹂
﹁ありがとう・・お誕生日のプレゼントもくれるんでしょ﹂
﹁そうだったね﹂
﹁お誕生日のプレゼントは、わたしにプロポーズすること・・いいでしょ、指
輪も用意しているから・・わたしのこと好きなんでしょ﹂
﹁もちろん、好きだよ﹂
﹁じゃあ、プロポーズして、結婚しようと言って﹂
﹁・・・・・﹂
﹁どうして黙ってるの﹂
﹁もちろん、好きだけど、母が病気だから、まだ結婚出来ないんだ﹂
﹁じゃあ、いつ結婚出来るの、それとも、ずっと結婚出来ないの﹂
﹁返事は出来ない、ウソを付きたくないから﹂
﹁どうしてよ、結婚しようと言ってよ﹂
﹁言えないよ・・﹂
﹁ウソでもいいから、結婚しようと言ってよ﹂
﹁・・・・・﹂
﹁わたし、帰るわ、夜明けのコーヒー、一人で飲んでよ﹂
﹁待てよ、こんな時間に﹂
彼女は自分の荷物を残して、部屋を出て行った。彼は慌てて荷物を抱えて、
彼女を追いかけた。タクシー乗り場で、彼女は柱に向かって立っていた。
70
﹁プロポーズしてわたしを抱いてくれたらいいのに、生まれて初めての二人で
迎えるクリスマスなのに﹂
﹁わかったから、部屋に戻ろうよ﹂
﹁もういいわよ、生まれて来るんじゃなかった・・﹂
タクシーに乗り込んだ彼女に続いて、彼もタクシーに乗った。タクシーが家
の前に止まると、彼女は門のチャイムを押した。すると、母親が驚きながら飛
び出してきた。
﹁どうしたの、泊まらなかったの、ひと月も前からクリスマスのお泊り楽しみ
にしていたんでしょ﹂
﹁・・・・・﹂
彼女は彼を門の外に残して門扉を閉め、無言で家の中に入っていった。彼は
門の前で立ち尽くしていた。そして大きな声で母親に声をかけた。
﹁お母さん、入っていいですか﹂
﹁どうぞ﹂
門が開くと、彼は家の中まで入って行った。父親も二階から降りて来た。
﹁何があったの?﹂
﹁ごめんなさい、今夜は僕が悪いんです、ちょっとした行き違いで﹂
﹁ 何 が あ っ た か 知 ら な い け ど 、今 夜 は 泊 ま っ て い っ て い い の よ 、 美 雪 の 部 屋 で 、
夜明けのコーヒー一緒に飲みなさいよ、タマゴとトースト付けおくから﹂
彼 女 は 部 屋 に 入 っ た ま ま 、 出 て来 な い 。 し か し 、 鍵 は か け ら れ て い な か っ た 。
彼が部屋に入ると、彼女は部屋の隅でひざを抱えて座り込んでいた。
﹁勝手に入って来ないでよ﹂
﹁約束しただろ、クリスマスは絶対一人にしないって、今夜は泊まるから﹂
﹁あなたの約束なんて知らないわよ﹂
しばらくすると、母親がパジャマを持って来てくれた。そのお揃いのシルク
71
のパジャマは二人の名前が刺繍されている。
﹁このパジャマ、父さんがあなたへのクリスマスプレゼントに買ってくれたの
よ、正月ぐらいに泊まるだろうって、美雪とお揃いよ・・美雪のことお願いし
ますね、わたし達、クリスマスのミサに行って来ますから﹂
﹁お母さん、ありがとう﹂
母親が部屋を出ると、彼は美雪と並んで座った。
﹁美雪ちゃん、パジャマに着替えていいかな﹂
﹁勝手にしなさいよ、そのパジャマはシルクで高いんだから汚さないでよ﹂
﹁美雪ちゃんも着替えたら、クリスマスが終わってしまうよ﹂
﹁怒らしているのはあなたでしょ・・着替えるから向こう向いててよ﹂
パジャマに着替えた二人は、ベッドに腰掛けて手持ちぶささにしていた。い
つのまにかベッドがダブルベッドになっていることに、彼は気付いた。
﹁何か話してよ、気まずいじゃないの﹂
﹁・・・・・﹂
﹁もう寝るわ﹂
﹁どうしてツンツンしてるの﹂
彼女はベッドに入って彼に背中を向けた。彼は彼女の寝姿を見つめていた。
そして自分もベッドに入った。
﹁美雪ちゃん・・﹂
﹁抱いていいよ・・﹂
彼は彼女に寄り添ってくちづけをした。パジャマのボタンを一つづつ外して
ゆくと、彼女の乳房が見えた。
目覚ましのアラームが鳴って、彼女は目覚めた。夜明けのコーヒー入れるた
めに台所に行った。母親がすでに起きて、朝食の準備をしていた。彼女は母親
に抱き付いた。
72
﹁あら、もう起きて来たの﹂
﹁お母さん、産んでくれてありがとう・・夜明けのコーヒー入れないとね﹂
﹁うまくいったの?﹂
﹁ウフフ・・彼が帰ってから、お母さんにだけ話してあげる、お父さんに話す
と卒倒するから﹂
﹁何よ、その笑い方﹂
﹁お母さん、ごめん、シーツ汚しちゃった、洗濯しておいて、クリーニングに
出さないでね、恥ずかしいから﹂
﹁そういう時はシーツの上にバスタオルを敷くのよ﹂
﹁それで彼、バスタオルはないかと聞いたんだわ﹂
﹁美雪の部屋にあったでしょ﹂
﹁こっちはパニックでそれどころじゃなかったから・・ウフフ﹂
彼女は出来上がった朝食を部屋に持っていった。彼も起きていた。窓のカー
テンを開けて朝日を眺めている。
﹁夜明けのコーヒー、入りましたよ、タマゴとトーストとサラダが付いてるわ
よ﹂
﹁ありがとう・・朝日がきれいだよ、こっちにおいでよ﹂
﹁わたし達、今日から本当の恋人同士ね・・わたし、お母さんの病気が治るま
でいつまでも待ってるから・・この指輪、預けておくから﹂
﹁・・・・・﹂
彼は何も返事をしないで、その指輪をパジャマのポケットに入れ、彼女と並
んで夜明けのコーヒーを飲んだ。飲み終えると、再びベッドに入った。
翌日、高野は藤子とデートの約束をしていた。仕事を終えて、いつものよう
に公園で美雪と会った。
73
﹁昨日はありがとう、最高のクリスマスだったわ﹂
﹁僕の方こそ、 ﹃ありがとう﹄ 、あの指輪、大切に保管しているからね﹂
﹁うん﹂
﹁今夜はまだ仕事が残っているんだ、美雪ちゃんを家まで送って行ってあげた
いんだけど﹂
﹁いいのよ、ちゃんとお仕事しないとね・・そうそう、大晦日はいつも家族で
料 亭 に 行 く の よ 、そ の 後 新 年 の ミ サ に 行 く の 、お 父 さ ん が 優 二 さ ん も 誘 え っ て ﹂
﹁ぜひ、行くよ・・カニかな、フグかな﹂
﹁その日のお楽しみ!﹂
﹁改札まで送って行くね﹂
﹁うん﹂
彼は彼女と腕を組んで改札まで送ると、急いで会社に戻った。藤子はまだ請
求書の作成をしていた。
﹁もうすぐ終わるからね、あらっ、着替えて来なかったの﹂
﹁ここで着替えるから、 藤子さんに買ってもらったジャケット、 ピッタシだよ、
タータンチェックの模様、大好きなんだよ﹂
﹁そう、良かったわ、気に入ってくれて、でもタータンチェックじゃないのよ、
そのジャケットの柄は﹂
高野は仕事を仕舞って着替えを始めた藤子を背後から抱きしめた。
﹁ダメよ、ここでは、二階に行きましょう、どうしたの、今夜は﹂
﹁欲しい﹂
急いで性行為を済ました二人は、会社のシャッターを閉めると地下鉄の駅の
方へと歩き出した。
﹁今日はわたしに任せてね、ジャズは好き?﹂
﹁あまり聴かないけど、音楽は好きだから﹂
74
﹁うそっぽい返事・・冷えるわね、今夜も・・後で暖めてね﹂
﹁コンビニでポケットカイロ買ってあげようか﹂
﹁ワハハハ・・今のおもしろいわよ﹂
彼は藤子にクラブハウスに連れて行かれ、ジャズを聴いた。
ジャズの曲って知らないからわかるかなって思ってたけど、知っ
﹁どうだった?﹂
﹁驚いた!
てる曲が多かったから、この曲がこんな感じになるのかと思って﹂
﹁そうでしょ・・わたしも初めて彼に連れられて聴きに行った時、行くまでは
取っ付きにくいと思ってたんだけど、行ってみて印象がガラッと変わったの、
今では月二回ぐらい聴きに行くのよ﹂
﹁ジャズにはまる気持よくわかるよ﹂
﹁ジャズを聴くと感じるの・・今夜泊まりましょうね﹂
﹁そのつもりだったけど﹂
﹁でもお腹空いたわ、今日忙しかったから昼は何も食べてないの﹂
﹁今夜は僕がごちそうするよ、昨日有馬記念で十万程もうけたから﹂
﹁それで今日はニコニコ嬉そうにしていたの、わたしとデートするのがデート
するのが嬉しいのかなと思っていたのに、じゃあ、フレンチごちそうしてよ、
この近くでいいお店知ってるから﹂
﹁藤子さんとデートも楽しいよ、初めて出来た彼女だからね﹂
二人は夜の街を歩き出した。食事を終え、二人はホテルに入った。
大晦日、高野は美雪の両親と料亭で食事することになっていた。大晦日にそ
の料亭で食事するのが、 佐藤家の恒例だった。 彼も家族の一員として招かれた。
料亭の主は、佐藤の小学校時代の同級生であり、現在のゴルフ仲間でもある。
料亭に行くと、三人が揃って不機嫌そうな顔をしていた。
75
﹁食事を始める前に、聞きたい事があるのだが・・﹂
﹁どうぞ、何でも答えますけど﹂
高野は父親の顔を見てただならぬ気配を感じた。彼にはいろいろやましい事
があり、何が発覚したのか判断しかねた。
﹁社長の娘さんと付き合っているのか﹂
﹁いいえ、同じ場所で働いていますから、残業の時なんか一緒に食事したりし
ますけど﹂
﹁そうか、二十六日の夜、二人でホテルに泊まっただろ﹂
﹁調べたんですか・・はい、泊まりました﹂
﹁調べたりしたりしないよ、信じていたからね、おととい写真と手紙が送られ
て来たんだ﹂
彼は必死になって言い訳を考えた。しかし、美雪はその写真を一枚づつ彼に
見せた。
﹁藤子さんとホテルに入って行く写真・・競馬場で大金で馬券を買っている写
真・・消費者金融でお金を引き出している写真・・風俗店に入って行く写真﹂
﹁言い訳があったら聞きたいもんだ﹂
﹁これは誰かの陰謀ですよ﹂
﹁この写真は全て偽造なのか﹂
﹁いいえ・・そうだ、今消費者金融のカードを持ってます、この前の給料で借
入金をゼロにしてますから、明細書を見てください、病人がいるからお金の遣
り繰りが大変なんです﹂
﹁お金の事はわかった、風俗店に行くのはどうなんだ﹂
﹁僕は高校の時から両親が病気がちで、女性とは交際することが出来なかった
から時々行ってました、でも今はアパートの隣りの女性が働いているから、差
し入れを持って行ったりするんです、彼女は昼間母の様子を看に寄ってくれた
76
りするから﹂
﹁そのこともわかった、じゃあ、社長の娘さんと付き合っているのはどうなん
だ﹂
﹁それは・・二人の人を好きになって悪いですか?﹂
﹁悪くはないよ、ただ結婚出来るのは一人だ、美雪のことを本心はどう思って
いるんだ﹂
﹁初めてお会いした時に話したことが本心です﹂
﹁昨日三人で話し合ったんだが、社長の娘さんと別れて、美雪と結婚してやっ
てくれないか、美雪は知っている通りハゲだ、その事を理解して愛してくれる
男は世界中で高野さん一人だと思う、お金がいるのならこちらで出そう、美雪
にとって高野さんは救世主なんだ、美雪だけじゃない、私達もだ・・三人の心
からのお願いだ﹂
両親は畳に手を付いて頭を下げた。
﹁お父さん、お母さん、頭を上げてください﹂
﹁社長の娘さんと別れて、美雪と結婚してくれるか﹂
﹁わかりました、そうします、来年からプライベートで会いません﹂
﹁信じていいんだね﹂
﹁ウソを付いたら、わたし、死ぬからね、絶対死ぬからね﹂
﹁大丈夫、約束は守るから﹂
﹁こうしたらどうだろう、私の敷地に離れを建てるからそこにお母さんと一緒
に住んではどうかな、お母さんも高野君に結婚して欲しいと思っているんじゃ
ないのかな、仕事も給料のいい所を紹介するから﹂
﹁至れり尽せりですね、ちゃんと考えておきます﹂
﹁次のクリスマスまでたくさん時間があるからね・・ウフフ﹂
冬の嵐は過ぎ去って、何事もなかったように晩さんが始まった。
77
﹁今日はクエ鍋なのよ﹂
﹁知ってますよ、さっき水槽に泳いでるのを見ましたから、クエは養殖出来な
いからみんな天然なんですね、白浜とか勝浦辺りで獲れるんですね﹂
﹁詳しいね﹂
﹁魚釣りしますからね﹂
﹁お父さんも来年から魚釣りしなさいよ﹂
﹁そうよ、年が明けたらみんなで勝浦温泉に行きましょうよ、優二さんのお母
さんも一緒に﹂
﹁いいですね﹂
高野は適当に話を合わせていた。晩さんを終えて料亭を出た。帰り道を歩き
ながら、高野と美雪は並んで歩いた。
﹁お正月はどこに連れて行ってくれるの﹂
﹁正月は家にいるよ、母一人にしては可愛そうだろ﹂
﹁うまいこと言って、誰かと出掛けるんじゃないの﹂
﹁約束した以上、そんなことしないよ﹂
高野が家に帰ると、紅白歌合戦が始まっていた。母親の礼子はコタツに入っ
て暖まっていた。
﹁ただいま﹂
﹁早かったね、忘年会の二次会は行かなかったのかい﹂
﹁今の会社は小さい会社だから二次会なんてないよ・・母さん、ご飯は?﹂
﹁少しだけね、一人じゃおいしくないから、今夜はエリさんもいないし﹂
﹁エリさんは年末年始忙しいから・・僕もお腹が空いたからうどんでも食べよ
うよ﹂
彼は手際よくうどんを作ると、コタツの上に運んだ。
78
﹁昨日富浦病院にあいさつに行って来たよ、ちょうど若先生の赤ちゃんが来て
いて可愛かったよ・・母さん、先生も言っていたけど、入院したらどうだ﹂
﹁母さんが邪魔なんだろ﹂
﹁そんなわけじゃないよ﹂
﹁絶対入院なんかしないからね、肝臓の病気は良くなることがないんだよ、だ
から言ってるだろ、母さんなんか見捨ててどっかにお行きよ﹂
﹁じゃあ、もし僕が結婚するとしたら同居するか﹂
﹁嫌だよ、子供の足手まといになるのは真っ平だよ﹂
﹁わかったよ・・どうだ、てんぷらうどん﹂
﹁この麺、おいしくないね、麺に腰がなくて﹂
﹁そうか、四つ百円だけど、値段の割にはうまいよ﹂
﹁正月はどこも出かけないのかい、高橋君と釣りに行くとか﹂
﹁高橋も結婚して引越ししたからしばらく会ってないよ﹂
﹁お前にお願いがあるんだけどね﹂
﹁いいよ、何でも﹂
﹁明日、信貴山に連れて行って欲しいんだよ﹂
﹁何年か前に行ったお寺か﹂
﹁そうだよ、天辺に八体の龍が奉ってあるんだと、そこにお参りに行きたいん
だよ﹂
﹁いいよ、じゃあ、今夜は早く寝た方がいいな﹂
﹁うどんを食べたら寝るから、頼んだよ、お前も小説なんか書いていないで早
く寝るんだよ﹂
﹁わかったよ、除夜の鐘を聞いたら寝るよ﹂
翌日、前日までの寒さが和らぎ、好天と暖かさに恵まれた。彼は母親を連れ
て信貴山に出かけた。本山までの道程は軽やかだったが、そこから頂上へと向
79
かう道は険しく、坂道が続いた。その道には何箇所もの休憩所が設けられ、道
の険しさを物語っている。若者も年寄も、たくさんの人が頂上を目指して登っ
て行く。彼は母親が苦しそうなのを見て何度も引き返そうた言ったが、母親は
絶対に行くと言い張った。普通の人が一時間余で登る道を三時間近く掛けて頂
上にたどり着いた。頂上には小さな社があり、たくさんの人が参拝している。
彼は母親に一番高価な御守を買った。
﹁いいのかい、こんな高いのを、お金も無いのに﹂
﹁たかが御守ぐらい﹂
﹁嬉しいね﹂
﹁長い間手を合わせていたけど、何を頼んでいたんだ﹂
﹁子供の足手まといになりたくないから早く死なせてくれるように頼んでいた
んだよ﹂
﹁何を言ってんだよ﹂
﹁お前、好きな人がいるんだろ、隠していてもわかるよ、今のわたしが出来る
ことは一つだよ、早く死んでやることさ﹂
﹁バカなことを言うなよ、年金もらえるまで長生きして、孫に小遣いをたくさ
んやってくれよ﹂
﹁今までありがとう﹂
帰り道、母親は信じられない程、元気そうに歩いていた。彼は安堵しながら
その後に付いて行った。
﹁母さん、何か食べたい物あるか、帰り百貨店に寄って帰るから﹂
﹁そうだね、ヒラメのお造りが食べたいね﹂
﹁わかった、ヒラメとタイを買って帰ろう﹂
百貨店で買い物を済ませて、夕方にアパートに帰ると、隣りのエリの部屋に
電灯が灯っていた。彼はそのドアをノックした。
80
﹁まだ仕事に出かけないの﹂
﹁今日と明日は休暇なの、わかるでしょ﹂
﹁ ち ょ う ど い い 、タ イ ち り し よ う と タ イ を 買 っ て 来 た ん だ 、一 緒 に 食 べ よ う よ ﹂
﹁なんだあ、すき焼きしようとお肉買って来たのに﹂
﹁すき焼きは明日でいいじゃないか、入れよ﹂
﹃釣りバカ﹄の最新作﹂
﹁ありがとう、DVD借りて来たのよ﹂
﹁何?
﹁いいね、まだ観ていないのだ﹂
﹁おばさん、どこに連れて行ってもらったの﹂
﹁信貴山だよ、天辺まで登ったんだよ﹂
﹁良かったね、何をお願いしてきたの﹂
﹁内緒だよ﹂
﹁すぐ支度するからね、コタツに入ってて﹂
高野の部屋は夜遅くまで灯りが消えることがなかった
一月五日、仕事始めの日。朝、高野は駅でいつもより早い時間に美雪を待っ
ていた。彼女も少し早く出て来た。
﹁喫茶店に入ろうよ、今日は少し寒いね﹂
﹁うん、三が日どうしていたの﹂
﹁家でゴロゴロ﹂
﹁電話ぐらいくれればいいのに﹂
﹁大晦日にああいう事があったから、合わせる顔が無くて、でないと美雪ちゃ
んの家に挨拶に行ったけど﹂
﹁誰も気にしていないのに﹂
﹁日曜日デートしようか﹂
81
﹁うん﹂
﹁どこに行きたいの?﹂
﹁ホ・テ・ル・﹂
﹁そうだ、 ホテルのケーキバイキングに行こうよ、 死ぬほどケーキ食べたいね、
二十個は食べれるかな﹂
﹁ケーキも好きだけど・・そんなホテルと違うホテルに行きたいの﹂
﹁ああ、そうか、いいよ、ケーキバイキングの後でね・・デート代あるかな﹂
﹁またお金がないの、わたしが出してあげる﹂
﹁美雪ちゃんもケーキ十個はいけるよね・・十個以上食べないと元が取れない
そうだよ﹂
﹁日曜日の十時ね﹂
彼は彼女を抱き寄せてキスをした。
一月五日、 小林真弓は仕事を終えると、 美雪と高野が会う公園に行ってみた。
柱の陰から二人を観察する彼女は、破局していないことを知って、さらに憎し
みを増した。真弓は再び二人を破局させる方法を模索した。
数日後の夕方、 真弓は高野が勤めている会社を訪問した。 事務所にいたのは、
社長と夫人だった。
﹁いらっしゃい、何か御用ですか﹂
﹁高野さんという方、この会社にいると聞いたんですけど﹂
﹁五時で帰りましたけど、急用でした連絡しましょうか﹂
﹁いいえ、実は・・大晦日、繁華街で三人の男達に襲われたんです、殴られて
車に連れ込まれようとしていたところを、通りがかりの男の人に助けられたん
です、一緒に警察に行って被害届を出して、わたし、まだ独身でしたから、こ
れが運命の出会いかなって思って、その男の人をお茶に誘ったんですけど、
82
自分は一緒に働いている女性と付き合っているからと断られたんです﹂
﹁そうですか・・私はこの会社の社長で山村英二と申します、高野君が付き合
っているというのは内の娘ですよ﹂
﹁母さん、コーヒーの出前でも取ってあげなさい﹂
﹁コーヒーとケーキ、取りましょうか﹂
﹁どうぞお構いなく﹂
﹁私達も高野君には前々から目を掛けているんですが、真面目で良く働いてく
れる男だと知っていましたが、そういう勇ましいところもあったとは感心しま
した﹂
﹁その事を両親に話したんですけど、改めて御礼に行くように言われて、こう
してお邪魔に上がったんです﹂
﹁ありがとう、いい話を聞かせてくれて﹂
﹁社長さん、高野さんを絶対放してはダメですよ・・これ、つまらないもので
すけど﹂
﹁わざわざご丁寧に﹂
﹁わたし、これで失礼いたします﹂
真弓はいとまを告げると、逃げるように帰って行った。
翌日、高野が職場に行くと、社長がいつもより早く出社していた。
﹁おはようございます﹂
﹁高野君、モーニングを頼んでおいたから、飲んでくれ・・ところで、大晦日
何をしていた﹂
﹁大晦日ですか、繁華街でいとこと飲んでいました、帰ったのは十時ぐらいで
す﹂
﹁そうか、昨日君が帰った後、女の人が訪ねて来て、今更私が話すまでもない
が、暴漢に襲われているところを助けられたと御礼を言っておられた﹂
83
﹁僕は心辺りはありませんけど﹂
﹁わかっているとも、人助けを自慢するような男では器が小さい、娘達には話
しておいたから、手土産、預かっているから開けてみるといい﹂
彼は社長に言われて饅頭らしき物の包装を解いた。中から純白の封筒が出て
来て、礼状と現金十万円が入っていた。彼はこれも誰かの陰謀だと察した。
﹁ところで、藤子とは仲良くやっているのか﹂
﹁はい、いつも藤子さんにデート代出してもらっていますから、このお金、藤
子さんに預けておいてください﹂
﹁もう年始の仕事も落ち着いただろ、週末ぐらいデートしたらどうだ﹂
﹁はい、そうします﹂
真弓の思惑は功を奏して、高野は窮地に立つことになった。藤子と別れよう
と考えていたけれど、社長達の喜びようを見るととても言い出せなかった。
第二日曜日、美雪と高野はヒルトンホテルのケーキバイキングに行った。ケ
ーキをいっぱい食べて、二人は散歩に出た。晴天の小春日和の遊歩道を、二人
は手をつないで歩いた。
﹁今日も暖かいね﹂
﹁うん﹂
﹁この角を右に曲がると、ホテル街だよ、行くの?﹂
﹁うん﹂
二人はホテルに入って行った。
﹁部屋に着いたよ﹂
﹁すごい部屋ね﹂
﹁美雪ちゃんは初めてなの﹂
﹁高野さんはいつもこういう所に来ていたのね﹂
84
﹁いいえ、僕も初めてだよ﹂
﹁いるだけで楽しいよね、カラオケもあるし、プロジェクトもあるし、DVD
観ようか﹂
﹁カラオケもDVDもいらない﹂
﹁じゃあ、これは・・﹂
彼は彼女を抱きしめて、ベッドに寝かせた。そして、二人は夕方まで愛し合
った。
上機嫌で彼女は帰った。
﹁お母さん、ただいま﹂
﹁まだ五時なのに、もう帰ってきたの、まるで高校生のデートね﹂
﹁いいの、これで、彼はお母さんが病気だから﹂
﹁美雪、今日はどこに行ったんだ﹂
﹁ヒルトンホテルのケーキバイキング、彼、本当にケーキ二十個食べたわよ、
驚いたわ﹂
﹁それからどこに行ったの﹂
﹁その後ウィンドウショッピングして、それで終りよ﹂
﹁彼は本当に社長の娘さんと別れたの﹂
﹁別れたわよ、そう言ってたわよ﹂
﹁別れたのに、まだ同じ会社で働くの﹂
﹁急に辞めるわけにいかないのよ、生活や会社の都合もあるし﹂
﹁わたしは怪しいと思うわ、良く監視しておくことね﹂
月曜日から彼女は彼を監視することにした。私鉄の改札まで送った後、彼女
は彼の姿が見えなくなると、改札から出て、彼の後を付けた。次の日も、次の
週も、彼の後を付けた。彼はまっすぐ自分の家に帰って行った。しかし、金曜
日、彼は彼女を私鉄の改札まで送った後、会社に引き返した。彼女は彼の後を
85
付けた。会社に行く彼を見て藤子と出かけると直感した。そして、車の陰に隠
れて彼が出て来るのを待った。
彼は後片付けをしている藤子の所に行った。
﹁何の映画観るの?﹂
﹁ハリーポッター観た?﹂
﹁まだだよ、藤子さんと一緒に観ようと思って・・僕、お金ないけど・・﹂
﹁またお金が無いの、社長に言って正社員にしてもらったら﹂
﹁そうだな、正社員になって結婚でもするか﹂
﹁何よ、そのふてくされた言い方!﹂
﹁ふてくされてなんかいないよ、怒るなよ﹂
﹁怒るわよ、年が明けてからずっとふてくされているじゃないの﹂
﹁そういうつもりはないんだけど、気に障ったんだったら誤るよ・・実は﹂
﹁何よ、実はって﹂
﹁元旦に母を連れて信貴山に初詣に行ったんだ、母がどうしても行きたいと言
うから、何を願ったか聞くと、お前の足手まといになりたくないから早く死ね
るようにって言ったんだ、やりきれないよ﹂
﹁そんな事があったの、お母さん、そんなに悪いの﹂
﹁重度の慢性肝炎なんだ、入院するように勧めるんだけど、絶対嫌だって、掛
かり付けの病院で簡単な治療を受けているだけで、検査もしないからどれだけ
悪いのかもわからない﹂
﹁そうなの、でも辛いのはお母さんよ、弱音を吐かないで、暗い顔しないで、
ちゃんと面倒看てあげなさい﹂
﹁ありがとう、絶対長生きすると信じて看病するよ﹂
彼は彼女にそう言われて少しは気分が晴れた。そして、二人は笑いながら会
社から出て来た。
86
会社の横のガレージの車の陰に隠れて見張っていた美雪は、二人は腕を組ん
で出て来るのを見た。二人は仲良く腕を組んだまま駅まで歩いて行った。彼女
は二人の姿を見ていて、泣きながら家に帰った。
﹁どうしたの、美雪、泣いて帰ったりして﹂
﹁彼の会社に行ったら、彼、社長の娘と出かけて行ったの、笑いながら話して
たの、どう見てもお似合いの恋人同士だった、わたしといる時よりすごく楽し
そうで・・﹂
﹁やっぱり別れていないのね、別れられないのよ﹂
﹁いいの、彼のこと、もう諦めるから・・わたしの方が遊び相手だったのよ﹂
﹁美雪、父さんまだだけど、ヤケビール飲もうか﹂
彼女は入浴を済ますと、母親とビールを飲み出した。
それでどうなったの?﹂
﹁わたしねえ、最初は中島さんと付き合っていたのよ﹂
﹁本当?
﹁それで、父さんが中島さんが他の女性とホテルから出て来るところを見て、
聞かせてよ、その話﹂
わたしをかけて決闘したのよ・・わたしからすれば自分勝手な話だけど﹂
﹁お父さん、すごい!
﹁父さんが大学三年の時、 わたしは新入生、 しばらくしてテニス部に入ったの、
初めて会った時、中島さんに日曜日に映画に行こうと誘われたの、それから付
き合うようになったの、その時父さんも一緒にいたのよ、でも余り話さなかっ
たの、それで一年ぐらい付き合った頃、中島さんが他にも彼女がいる事がわか
って、わたしよりも父さんが怒って、なぜか決闘することになったの、中島さ
んが勝ちそうだったのを、わたしが中島さんを突き飛ばして右手を骨折させて
父さんに勝たせたの﹂
87
テニス部部室の前で、中島と佐藤は雑談していた。そこへ一回生の岡崎美咲
がやってきた。
﹁あのう、テニス部に入りたいんですけど﹂
﹁そう、入部したいの、今女子部は練習しているから見学するといいよ、連れ
て行ってあげるよ﹂
三人は女子が練習しているテニスコートに行った。最初に美咲に言葉をかけ
たのは中島だった。佐藤は美咲の可愛さに見とれていて、何も言えなかった。
﹁君、名前は何て言うの﹂
﹁岡崎美咲と言います﹂
﹁大学はもう慣れたかい﹂
﹁はい、慣れました﹂
﹁警察の事情調書じゃないから、そんなに硬くならなくていいのに、おもしろ
いね、君﹂
男性にちやほやされることに慣れている美咲だが、おもしろいという誉め言
葉に心開いた。
﹁高校でもテニスやってたのかい﹂
﹁はい、へたなんですけど﹂
﹁ お れ も へ た だ・ ・ と こ ろ で 、 日 曜 日 映 画 に 行 か な い か 、 チ ケ ッ ト が あ る ん だ 、
ちょうど一緒に行ってくれる相手を探していたところなんだ﹂
中島は気軽に美咲を映画に誘った。男らしくて快活な中島に好感を持った美
里はその場で映画に行くと返事した。二人の会話を佐藤は苦々しく思いながら
聞いていた。
夏休みが来る頃には、美咲と中島は恋人同士になっていた。大学内でも、大
88
学外でも、一緒にいる事が可能な時間は、二人はいつも一緒にいた。講義がな
い時間、昼の休憩時間、放課後の自由時間。
中島と佐藤は、少しづつ別行動をするようになっていた。佐藤は自分の前で
美咲と中島が親しく話しているのを見ると、不愉快でならなかった。講義とテ
ニス部の活動以外は、佐藤は中島から離れていた。やがて一年が過ぎた。
ある日、佐藤が大学を出て歩いていると、美咲が追いかけてきた。彼女に声
を掛けられて、佐藤は振り向いた。
﹁佐藤先輩、今帰りですか﹂
﹁そうだよ﹂
﹁今日は中島先輩休みみたいですね﹂
﹁そういえば一度も合わなかったな﹂
美咲には気付かない振りをしたが、 佐藤は中島がいないことを気にしていた。
彼が彼女と出かけたと思ってしっとしていた。大学から駅までの道程を二人は
肩を並べて歩いた。二人で歩くのは初めてだった。
﹁中島先輩がいないと寂しいわね・・クレープ食べたいわね・・のども渇いた
し・・﹂
美咲の言葉を聞いて喫茶店に誘いたかったが、佐藤はためらっていた。美咲
のことが今以上に好きになるのが怖かった。
﹁いつもの所でお茶しましょうよ﹂
美咲から誘われて、佐藤は断ることができなかった。二人は三人でよく行く
駅前の喫茶店に入った。
﹁ごめんなさい、無理に引張ってきて﹂
﹁いいけど﹂
﹁いつものでいいですか、今日はわたしがごちそうさせていただきます﹂
﹁どうして、僕が払うよ﹂
89
﹁佐藤先輩はもう就職が決まったんですか﹂
﹁ 決 ま っ て る よ 、ビ ー ル 会 社 の 宣 伝 部 だ よ 、ポ ス タ ー と か C M と か の 製 作 か な ﹂
﹁いい会社ですね・・中島先輩は親の会社に入るそうですよ﹂
﹁知ってるよ、楽して生きるのが中島の人生観だから、何もしないで将来重役
だよ、僕にも来いと誘ったけど、ヤツのペットはごめんだ﹂
﹁ペットだなんて言い方したら、中島先輩が可愛そう、一緒にいたらいつも佐
藤先輩の話をするんですよ﹂
佐藤は中島をねたんでいることを自分でもわかっていた。
﹁折角コンサートのチケットもらったのに、中島先輩いないから﹂
﹁自宅に電話したら﹂
﹁電話したけど、大学に行ったというから﹂
﹁夜遅くならいると思うよ﹂
﹁コンサート、今日の七時からなんです・・一緒に行ってもらえませんか﹂
﹁いいよ﹂
二人はコンサートに行くことになった。コンサートの帰り道、二人は女性を
連れた中島に出会った。
翌日、中島と佐藤はテニスコートで決闘することになった。中島は前日大酒
を飲み二日酔いだった。テニスコートの周囲にはテニス部はもちろん、他のク
ラブの者達も二人の闘いを見に来ていた。しかし、美咲はテニスコートに来て
いなかった。第一セットは、中島が二日酔いのせいで佐藤が取った。
﹁中島、お前わざと負けようとしてるんじゃないか、二日酔いで来やがって﹂
﹁どうしておれがわざと負けなきゃならないんだ、お前を負かすのに二日酔い
で十分だ﹂
第二セットも佐藤が優勢にゲームを進めた。
﹁中島、本気で闘え、お前はわざと負けて彼女を僕に譲ろうと思っているんだ
90
ろ、そんな浪花節みたいなことは止めておけ﹂
佐藤にそう怒鳴られて、中島は本気でゲームをした。第二セットは逆転して
中島が取った。
﹁佐藤、これだけは約束しろ、おれが勝ってもおれを恨むな、おれは好きだ、
ずっとおれの友達でいろ﹂
﹁わかった、約束する﹂
﹁絶対に美咲は渡さん﹂
第三セットが始まり、汗をかいて二日酔いから抜け出した中島は次々とゲー
ムを連取し、5−0となった。6ゲーム目は中島のサービスゲームだった。中
島がファーストサーブを打とうとした瞬間、どこからともなく美咲が現れて、
自分のラケットで彼の手首を力一杯叩いた。
﹁わたしは中島さんの所有物ではないわ、誰を愛するか、誰に愛されるか、自
分で決めるわ・・佐藤さん、一緒に帰ろう?﹂
﹁僕は中島を病院に連れて行くよ、手首が骨折しているみたいだから﹂
三人は病院に行った。 二人が並んで歩く後ろを、 美咲は荷物を持って歩いた。
﹁決闘は中島の勝ちだ、僕は彼女をあきらめるよ﹂
﹁試合はおれの勝ちだが、佐藤のひたむきな人間性にはかなわないよ、美咲の
が好きになるのも、わかるよ、おれもお前が好きだもんな﹂
﹁男二人で何こそこそ話しているの﹂
美咲は二人に近付いていった。
二人は居間のソファーでビールを飲みながら話していた。
91
﹁お母さんはその時どっちの方が好きだったの﹂
﹁中島さんよ、その時は・・父さんは付き合うようになってから好きになった
の よ・ ・テ ニ ス の 試 合 中 、 父 さ ん の ひ た む き な 姿 を 見 て い る と 涙 が 出 て
来たの、
気が付いたら中島さんを突き飛ばしていたの、自分でも驚いたわ﹂
﹁ふうん・・﹂
﹁美雪、恋愛ってね、男女の関係ってね、ロマンチックできれいなことばかり
じゃないのよ、時には泣いたり、時には泣かしたり、時にはだましたり、時に
はだまされたり、時には奪ったり、時には奪われたり、生まれてきて良かった
と思うこともあれば、死んでしまいたいと思うこともあるのよ・・美雪も彼が
好きなら社長の娘から奪えばいいのよ﹂
﹁わたしなんか、どうせ誰にも愛されないから、一人でいいのよ、生まれて来
るんじゃなかった﹂
﹁彼は美雪のこと愛してくれてなかったの、いつもデートしていてどう感じて
いたの﹂
﹁いつも優しくしてくれたけど、お父さんの言う通り、浮気者はダメよ﹂
﹁そうかしら、どちらも本当に好きで迷っているのかも﹂
﹁何人も好きだなんて、そんなのひどいわ・・お母さんはどっちの見方なの﹂
﹁わたしは美雪の見方よ、だから、美雪、闘わないと・・﹂
﹁もういいの、彼のこと忘れるから﹂
次の日から、美雪は駅で彼と会わないことにした。会社に近くに駐車場を借
りて車で通勤した。彼がいつものように駅で待っているのかと思うと、彼女は
心が痛んだ。しかし、彼からの電話やメールがないので、彼女は自分は愛され
ていなかったと考えて自分からも連絡しなかった。
美雪が車で通勤するようになったことを知った真弓は、二人が別れたことを
92
直感した。真弓は愉快でならなかった。そのことを会社の同僚達に言い触らし
た。美雪もさすがに彼女に腹を立てた。
一月四週目、仕事が終わると、彼女は真弓から送られてきた手紙と写真を持
って、経理部に行った。彼女は思っていることを言ってみようと考えたが、真
弓の前に立つと口が動かなくなった。
﹁どうしたの、佐藤さん、そんな怖い顔をして﹂
﹁・・・・・﹂
﹁佐藤さん、何か言いたいことあるんじゃないの﹂
﹁この・・意地悪おばさん!﹂
言葉に詰まった彼女がそう叫ぶと、経理部のみんなが大笑いした。さらに、
彼女は手紙と写真を彼女のデスクに投げ付けた。
﹁失礼ね・・ああ、これね、わたしはあなたがだまされていたから、警告して
髪の毛以外だったら、わたしの方が勝ってるわよ、顔もわたしの
あげたのよ、あなたみたいなハゲ、誰が本気で相手にするのよ﹂
﹁ひどい!
方がきれいよ、スタイルもわたしの方がいいわよ、ケンカだってわたしの方が
強いんだから、お金だってわたしの方があるんだから・・﹂
﹁それがどうしたと言うの、あなたなんか、いつもみんなの笑いものよ﹂
部屋内がざわめいているところに、中島がやって来た。
﹁二人とも、どうしたんだ、通路まで聞こえているぞ﹂
﹁専務、缶コーヒー飲みながら社内をウロウロしないでください!﹂
﹁おれに当るなよ﹂
中島は二人から事情を聞いて、ある事を考えた。
﹁じゃあ、こうしよう、どっちが美人か、社内投票で決めよう﹂
﹁専務、そんなの不公平よ、わたしはみんなから﹃意地悪おばさん﹄と言われ
て嫌われているのに、負けるのに決まっているわよ﹂
93
﹁だったら、この際、 ﹃意地悪おばさん﹄から﹃親切おばさん﹄になればいい
じゃないか・・佐藤君は意義ないか﹂
﹁わたし、みんなに嫌われていないから、意義ありません﹂
﹁では、投票は月末の金曜日だ、昼休みに投票してもらって、仕事終了後に発
表だ・・早速ポスターを作ろう!﹂
月末の金曜日、投票が行われた。相手の名前と長所を書く投票だった。仕事
が終ると、 美雪は専務室に呼び出された。 彼女は自信満々で中島の所に行った。
﹁中島専務、結果はどうでしたか、もう掲示板に発表したんですか﹂
﹁美雪ちゃん、発表はまだなんだ、発表するのは止めようと思ってるんだ﹂
﹁どうしてですか、理由を言ってください﹂
﹁結果は九十対五なんだ、もっと接戦になると思っていたんだけど﹂
﹁小林さんはみんなに嫌われているから仕方ありませんよ﹂
どうしてなんですか﹂
﹁小林君の方が勝ちなんだ﹂
﹁ウソ!
﹁自分で見てみるといいから﹂
彼女は投票用紙を一枚一枚読んでみた。
﹁小林真弓、明るい・・小林真弓、楽しい・・小林真弓、仕事でミスした時励
ましてくれる・・小林真弓、彼女が室に入ってくると雰囲気が明るくなる・・
小林真弓、声がセクシー・・小林真弓、オッパイがでかい・・小林真弓、口は
悪いがおもしろい・・小林真弓、いつも笑顔であいさつしてくれる・・小林真
弓、女らしい・・﹂
﹁美雪ちゃん、そうがっかりするなよ、よく考えたら、みんなは美雪ちゃんの
事余り知らないんだ、だから発表は止めにしよう﹂
﹁ちゃんと発表してください、小林さんはどこですか﹂
﹁今日は残業のようだ﹂
94
﹁わたし、謝ってきます﹂
﹁謝らなくてもいいじゃないか﹂
彼女は専務室を出て行って、経理部に行った。そこでは、五人が残業をして
いた。彼女は真弓の所に行った。
﹁ごめんなさい﹂
﹁あらっ、佐藤さん、自分は美人だと自慢に来たの﹂
﹁九十対五で小林さんの勝ちです、小林さんは明るいし楽しいしおもしろいし
女らしいし、みんなを励ましているし、もちろんきれいでスタイルもいいし、
嫌い嫌いも好きのうちよね﹂
わたしなんか、ハゲじゃなくても、とても小林さんに勝てません﹂
﹁えっ、嫌われ者のわたしが勝ったの?
﹁泣いていい?﹂
﹁どうしてなくの!﹂
﹁・・・・・﹂
﹁佐藤さん、泣いてるの、泣かなくていいのに﹂
﹁ありがとう、慰めてくれるんですか、本当は﹃意地悪おばさん﹄じゃないん
ですね﹂
﹁そんなことないわよ、月曜日からまた意地悪するからね、覚悟しておきなさ
いよ﹂
﹁許してください﹂
﹁ 許 し て ほ し か っ た ら 、 わ た し の 仕 事 手 伝 い な さ い 、 パ ソ コ ン出 来 る ん で し ょ ﹂
﹁簿記二級なんです﹂
﹁そう、ちょうどいいわ、七時まで手伝ってね、後で﹃意地悪おばさん﹄がワ
インおごってあげるから﹂
﹁うん﹂
﹁ う ん と い う 返 事 の 仕 方 、可 愛 い わ ね 、わ た し の 家 来 に し て あ げ て も い い わ よ ﹂
95
﹁えっ、本当ですか﹂
﹁それより早く手伝って﹂
﹁母に遅くなるって電話していいですか﹂
﹁いいわよ﹂
残業を終えると、二人は真弓と中島の行き付けのバーに行った。カウンター
の端に腰掛けて、二人はワインをボトルで注文した。
﹁このお店は誰にも教えたらダメよ﹂
﹁ここは専務と父が学生の頃からよく来るお店ですよ、わたしも何度か来まし
たよ﹂
﹁なんだ、知ってたの・・ここのブルーチーズは最高なのよ﹂
﹁オランダ産のクラッカーもおいしいですよ、パリッとサクサクで、フランス
のワインと良く合うんですよ﹂
二人は仲良くワインを飲み始めた。
﹁高野さん、わたしのこと、何か言ってた?﹂
﹁社長の娘のことは聞いたけど、美雪のことは一言も言わなかったわ﹂
﹁やっぱり、わたしのことなんか相手にしてなかったんだ、ハゲだからダメな
んだ、やっぱり社長の娘と結婚するんだ﹂
﹁そうかなあ、そうだとしても、美雪、負けたらダメよ、社長の娘から略奪す
るのよ﹂
﹁略奪って、どうするの﹂
﹁もうすぐ、バレンタインデイでしょ、命懸けでアタックしなさいよ、それと
ももう嫌いになったの﹂
﹁まだ好きだけど、信用出来ないし﹂
﹁そうよねえ、浮気者って最低よね、もう忘れなさいよ、わたしがいい男を紹
介してあげるからさ﹂
96
﹁うん、真弓さんって、本当は優しいんですね﹂
﹁今はわたしの家来だから優しくしてあげる﹂
二人がワインで酔い始めた頃、中島がやって来た。
﹁珍しいな、ライバルの二人が一緒とは﹂
﹁勘違いしないでよ、仲良くなったわけじゃないから﹂
﹁それでも、結構﹂
﹁専務、元気ありませんね﹂
﹁美雪ちゃんにもわかるか・・今家庭の中が大変なんだ、家内が若い恋人を作
って、離婚してくれと言い出してるんだ﹂
﹁自業自得よ、浮気ばかりしているからよ、離婚すれば﹂
﹁専務の奥さん、二人目でしょ、まだ若くてきれいから彼氏出来たんだ、うら
やましい﹂
﹁それが慰謝料一億円と言うんだ、そんな現金ないしな﹂
﹁家と土地を処分したらいいのよ、一億円以上あるでしょ﹂
﹁小林さん、専務の事に詳しいですね・・ひょっとして不倫関係?﹂
﹁違うわよ、ただの飲み友達よ﹂
女の闘いはどうなったの?﹂
﹁美雪ちゃん、ここに来たこと、おれと会ったこと、佐藤には内緒だぞ﹂
﹁ますます怪しい?﹂
彼女は中島にタクシーで送ってもらった。
﹁美雪、遅かったのね、会社で何かあったの?
﹁九十対五でわたしが負けたの、でも﹃意地悪おばさん﹄と仲良くなって、ワ
インをご馳走になったの、いい男も紹介してくれるって﹂
﹁ こ の 子 っ た ら 酒 臭 い ・・ ﹃ 意 地 悪 お ば さ ん ﹄っ て 、い つ も
美雪をいじめる小林
さんのことよね、仲良くなれて良かったわね﹂
﹁でもわたし、やっぱり会社で人気ないの、ハゲではダメなのかしら﹂
97
﹁たくさんの人に好かれるより、 一人の人にたくさん愛された方が幸せなのよ﹂
﹁今はそんな人いないし・・生まれて来るんじゃなかった﹂
彼女はベッドの中で悶々とした。酔いのせいで理性のたがが外れ、感情が全
身を包み込んだ。彼女はバレンタインデイに彼に告白することを決意した。愛
の告白の絵本を作って、 チョコレートと一緒に渡そうと考えた。 そう考えると、
彼女に闘志がわいて来た。翌日から彼女はパソコンでイラストを描き始めた。
平日も会社から家に帰ると、毎夜パソコンに向かった。
﹁美雪、父さん帰って来たから御飯にしよう﹂
﹁うん、すぐ行くから先に食べててもいいよ﹂
彼女は二階から一階に向かって叫んだ。しかし、一段落すると、食卓に向か
った。
﹁毎日何してるの﹂
﹁ウフフ・・愛の告白の絵本作って、バレンタインデイにプレゼントするの﹂
﹁誰にプレゼントするの・・後で母さんにも見せてね﹂
﹁絶対に誰にも見せない﹂
﹁美雪、まだあんな男に未練があるのか﹂
﹁誰が何と言おうと好きなのよ﹂
や が て 、 絵 本 は 完 成 し た 。 バ レ ン タ イ ン デ イ 、美 雪 は 初 め て 有 給 休 暇 を 取 り 、
朝からチョコレートを作った。そして、五時に彼の職場に行った。彼は仕事を
終え帰るところだった。彼が会社のガレージに出て来た時、彼女は彼に近付い
ていった。そこに、藤子も出て来て、彼と腕を組んだ。彼は彼女がいることに
気付いた。
﹁美雪ちゃん、来ていたの﹂
﹁この人、高野さんの知り合い?﹂
98
﹁そうだよ、時々駅で会うんだ﹂
﹁これ、バレンタインデイのチョコレートとプレゼント﹂
﹁ あ り が と う 、 チ ョ コ レ ー ト 大 好 き な ん だ ・ ・ 美 雪 ち ゃ ん 、元 気 に し て る の ・ ・
駅で見かけなくなったけど﹂
﹁うん﹂
﹁わざわざ自分でチョコレート作ってくれたの﹂
﹁うん﹂
﹁この絵本も自分で作ったの﹂
﹁うん﹂
﹁クリスマスに僕が絵本をプレゼントしたから﹂
﹁うん﹂
﹁ちゃんと読むから﹂
﹁うん、わたし帰るね﹂
﹁美雪ちゃん、待ってよ!﹂
美雪は彼が止めるのを無視して、寂しい顔をして帰って行った。彼は後を追
いかけたかったが、藤子に遠慮して動けなかった。
﹁あの人、どういう人、高野さんのこと好きみたいね﹂
﹁去年の夏、駅で彼女が落としたハンカチを拾って渡してあげたんだ、それか
ら時々話すようになったんだ﹂
﹁なんかうそっぽい説明、まあいいけど・・彼女はハゲなの?﹂
﹁そうみたい﹂
﹁どうしてヘアピース着けないのかしら、かっこ悪いのにね﹂
﹁ハゲでも愛してくれる人、探しているんじゃない﹂
可哀想だから仲良くしてあげただけだよ﹂
﹁そんなもの好きいないわよ、ひょっとして高野さん、気があるの?﹂
﹁とんでもない!
99
﹁そうよね!﹂
﹁早く食べに行こうよ、駅の向こう側に中華屋さん出来たよね、ギョウザがお
いしいらしいよ﹂
﹁ギョウザ食べるの、今夜はやめてよ、ピザ屋さんに行こうよ﹂
彼は美雪からのバレンタインプレゼントを持って、藤子と出かけた。その夜
のデートは少しも楽しくはなく、早く家に戻りたかった。
﹁どうしたの、そわそわして﹂
﹁夕方家に遅くなるって電話をしたら、母が辛そうにしていたから﹂
﹁うそっぽい言い訳、あの女のプレゼントが見たいんでしょ、不愉快よ、帰っ
ていいわよ﹂
彼は大急ぎでアパートに帰った。そして、自分の部屋でチョコレートを食べ
ながら彼女が描いた絵本を読んだ。クリスマスに彼と彼女が再会するという内
容だった。最後のページには、自分のことが好きだったら手紙をくれというメ
ッセージが残されていた。彼は早速手紙を書き、ポストに出した。翌日から、
彼は以前のように駅で彼女を待った。しかし、彼女の姿は現れなかった。彼は
何度か手紙を出したが、彼女が駅に来ることもなく、返事もなかった。両親が
彼の手紙を処分していたからだ。
美雪は絵本を読んだ彼から手紙が来ることを期待した。昼と夕方、母親に電
話を入れ、手紙が来ていないか確認した。しかし、彼女の期待は毎日裏切られ
た。その期待は二週間で絶望に変わった。彼のことを忘れようと、彼女は三度
目の誓いをした。それから、彼女は彼と知り合う以前の生活に戻った。ただ以
前と違うことが一つあった。彼女は絵本を創るようになっていた。仕事を終わ
って家に帰ると、部屋に閉じこもってパソコンでイラストやストーリーを創っ
た。それに熱中することは傷付いた心をいやすことになった。
佐藤美雪と高野優二の恋は終りを告げた。
100
三月第一日曜日、佐藤は中島と会った。
﹁美雪ちゃん、彼氏と別れたんだって﹂
﹁ああ、そうだよ、あの男、美雪と社長の娘と天秤に掛けていたんだ﹂
﹁それで、だから悪い男なのか、若いんだからしようがないんじゃないか﹂
﹁私もそう思って一度は許したんだ、私達の方から頭を下げて社長の娘と別れ
て美雪と結婚してくれるよう頼んだ、あの男は承知してくれたが、社長の娘と
は別れなかった﹂
﹁ひどい男だな﹂
﹁美雪のことで相談があるんだが﹂
﹁いいとも、いい男はいないか、だろ、いるよ、取引先の社長の息子だが、材
料の納品によくやって来る、仕事一途の男で、顔もまあまあだし、気立てもい
いし、親もしっかりしてる、無口で無愛想で面白みが足りないけど、その点だ
け我慢してくれ﹂
﹁ありがとう、そういう男が美雪にお似合いなんだ、恩に着るよ﹂
﹁ 水 臭 い こ と 言 う な よ 、 次 の 日 曜 、 ゴ ル フ 練 習 所 に 来 い よ 、昼 ぐ ら い で い い な ﹂
﹁ああ、わかった﹂
﹁電車で来いよ、ビール飲むから﹂
三月第二日曜日、佐藤はゴルフ練習場で中島と会った。中島は熱心にボール
を打っていた。
﹁やあ、お前は打たないのか﹂
﹁今日は止めておくよ﹂
﹁後十球程で終りだ・・六月に会社で親子コンペを開催するんだ、お前も美雪
ちゃんと参加しないか﹂
﹁ああ、考えとくよ・・相変わらず打球はまっすぐ飛ばないな﹂
101
﹁大きなお世話だ・・さあ、終わったぞ、車じゃないよな、ビール飲もうぜ﹂
二人は練習場内のレストランに行った。中島はカバンから写真を出して、佐
藤に渡した。
﹁どうだ、写真だが、中々誠実そうな男だろ﹂
﹁そうだな﹂
﹁美雪ちゃんの写真見せたら乗り気だったよ﹂
﹁美雪は・・﹂
﹁そのことは話してある、彼は別に気にしないと言っていた、ヘアピースを着
けるという条件なんだけど﹂
﹁私も美雪に前々から言っているんだけど・・とにかくそれで美雪に話してみ
るよ﹂
﹁きっとうまくゆくさ﹂
佐藤は自宅に戻ると、居間に行った。
﹁母さん、美雪は?﹂
﹁あれから絵本作りが趣味になったみたいで、パソコンやってるわよ・・それ
で、どうだったの﹂
﹁いい人みたいだ、とにかくみんなで相談しよう﹂
﹁呼んで来るわね﹂
お父さん、ケーキでも買って来てくれたの﹂
美咲に呼ばれて、美雪は居間に行った。
﹁何?
﹁ケーキよりいいもんだ・・縁談だ、美雪さえ気に入れば﹂
それ﹂
﹁ バ カ ね 、 お 父 さ んハ
、ゲ の わ た し な ん か と 見 合 い す る 男 性 な ん か い な い わ よ 、
いたらさっさと結婚するわよ﹂
﹁それがいるんだな﹂
﹁いたら会ってみたいわ・・ホント?
102
﹁本当だとも、これが写真だ﹂
﹁いい男じゃないの﹂
﹁ただし、条件があるんだ﹂
﹁何よ、条件って、大体わかっているけど﹂
﹁冷静に聞いてくれ、ヘアピースを着けるということなんだ、相手の男性は気
にしていないんだ、ただ世間体というのがあって・・﹂
﹁美雪、わたしもその方がいいと思うわ﹂
﹁そうよね、ハゲのままでは誰も相手してくれないものね、いいわ、ヘアピー
スを着けるわ﹂
﹁美雪、怒らないのか﹂
﹁いつまでも親に心配かけてられないしね、わたしも恋を経験して大人になっ
たことだし、わがままは止めて、妥協しましょう、一人ぼっちは寂しいから﹂
﹁本当か、美雪、ありがとう﹂
﹁ただし、ヘアピース代はお父さんが出すのよ﹂
﹁全てのお金は出すから・・新婚旅行は一緒に行っていいか﹂
﹁今年のクリスマスに間に合うかな、式場予約したままだし﹂
﹁あなた達、何バカなこと言ってるの、式場はキャンセルしなさいよ、話が決
まってからにしなさいよ、相手の希望もあるでしょ﹂
彼女のヘアピースが完成して、四月第一日曜日、彼女はホテルで見合いする
ことになった。二人ともお互いを気に入って、そのまま二人で映画に行った。
映画を観て、お茶を飲んで、二人は駅で別れた。
﹁美雪、デートはどうだったの﹂
﹁疲れた!﹂
﹁どうして疲れたの﹂
﹁前の彼は、向こうからいろいろ話しかけてくれて、それに﹃うん﹄とか﹃え
103
え﹄で答えたら会話が成立して、とても楽だったけど、今の彼は無口だから、
わたしも話せないし、あの気まずい雰囲気、困ってしまったわよ、来週もデー
トしようと言うから、用事があるとウソを付いて次の週に延ばしてもらったの
・・やっぱり結婚式場キャンセルしようかしら﹂
﹁普通は、始めのうちはそうなのよ、お互い恥ずかしくてうまく話せないもの
よ、前の彼と比較しないようにね﹂
﹁おしゃべりのお母さんもそうだったの﹂
﹁そうよ、父さんと初めてデートした時なんて、金縛りに合ったみたいよ﹂
とにかく、彼女は西山とデートを続けた。デートは映画やコンサートばかり
だった。鑑賞している間は、会話の心配がいらないからだった。
﹁今日のデートはどうだった?﹂
﹁いつもと同じ、退屈で詰まらなかった!﹂
﹁だったら、この縁談断ろうよ﹂
﹁でも、彼と結婚して子供が出来たら、お父さんもお母さんも肩の荷が降りて
安心するでしょ﹂
﹁美雪、そんな事考えてるの、バカね、自分のために結婚するのよ、親のこと
なんて心配しなくていいのよ﹂
﹁どうせ、わたしはハゲでバカですよ﹂
﹁やっぱり縁談断るわ﹂
﹁待ってよ・・西山さんは悪い人じゃないのよ、それはわかってるの、ただ女
性の扱い方を知らないのよ、わたしも我慢してもらってるから、わたしも我慢
するの・・わたしも退屈だけど、西山さんも退屈だと思うわよ、そういう点で
は、西山さんはわたしとお似合いかも﹂
﹁へえ、美雪も少しは大人になったのかな﹂
﹁そうだ、西山さんにメール送ってあげよう、 ﹃今日は楽しかった!﹄なんて
104
ね・・﹂
﹁それはいい考えね・・そうそう、今度家に来てもらったら﹂
﹁家に呼んでもいいけど、わたしの部屋には絶対、絶対、絶対入れないわよ﹂
﹁どうしてよ、高野さんの時はすぐ部屋に入れたでしょ・・まあいいわ、いつ
来てもらう﹂
﹁二週間後のデートの時、きっとお父さんもお母さんも閉口するわよ、これは
楽しみだわ・・早速メールで連絡しておこう﹂
二週間後の日曜日、西山は佐藤家を訪ねた。
﹁いらっしゃい、西山さん、美雪の相手するのは大変でしょ、無口で無愛想で
わがままだから﹂
﹁はい、こんな無口で無愛想な人は初めてです、でも、だいぶ慣れました﹂
﹁西山さん、コーヒーと紅茶、どちらにします?﹂
﹁紅茶の方が・・﹂
﹁美雪・・﹂
﹁わたしも紅茶でいい﹂
﹁何言ってるの、美雪がみんなのお茶を入れなさいね﹂
﹁わたしが入れるの・・お母さん手伝ってよ、どこに何があるかわからないか
ら﹂
普通じゃないの﹂
お母さん、参ったでしょ、西山さんには﹂
彼女と母親は台所に行った。
﹁どう?
﹁どうして?
﹁そんなことはありません、とか、一緒にいるだけで楽しいです、とか、お世
辞 を 言 え な い の か し ら 、 高 野 さ ん だ っ た ら き っ と 、﹃ 無 口 で 無 愛 想 で わ が ま ま
な と こ ろ が 美 雪 ち ゃ ん の 魅 力 な ん で す よ 、ワ ハ ハ ハ ﹄ な ん て言 っ て く れ る の に ﹂
﹁おしゃべりしてないで、お茶の入れ方ぐらい覚えなさいよ・・西山さんの前
105
でもそういう風に話したら﹂
﹁わたし、お父さんとお母さんとしか会話出来ないから﹂
彼女は紅茶を入れると、居間に運んだ。
﹁紅茶入りました、西山さん、どうぞ﹂
﹁美雪さん、ありがとう・・いつもバンダナしているんですか﹂
﹁うん・・﹂
﹁バンダナ外したところが見たいな﹂
﹁うん・・﹂
﹁そうそう、美雪、ピアノ弾いてあげなさいよ﹂
﹁最近弾いてないから弾けないの﹂
﹁ ﹃虹の向こうに﹄でいいじゃないの、得意でしょ﹂
﹁うん・・﹂
彼女は居間に置いてあるピアノを弾き始めた。
﹁西山さんはビールは飲むのかな﹂
﹁僕は全然飲めません﹂
﹁そうか、内は三人とも酒飲みなんだ、美雪も結構飲むんだよ﹂
﹁アルコールは体に悪いから、僕は飲みません﹂
父親は言葉に詰まった。美雪も曲の途中でピアノを弾くことを止めた。
﹁美雪、ピアノ、もう止めたの﹂
﹁誰も聴いていないから﹂
母親は場を盛り上げようとするが、 西山も美雪も父親も黙り込んでしまった。
﹁今日は夕食何にしましょうか、西山さん、食べたいものはありますか﹂
﹁別に、ただ肉は嫌いなんです﹂
﹁どうしましょう、今夜はお肉料理なんですよ、じゃあ、お寿司でも頼みまし
ょうか﹂
106
お母さん、西山さんには参ったでしょ﹂
母親は電話をするために席を立ち、台所に行った。美雪も後から母親の所に
行った。
﹁どう?
﹁何を喜んでるのよ・・正直でいいじゃないの﹂
﹁高野さんだったら、嫌いなものでも大好きだという振りをして食べるわよ﹂
﹁あの人はウソつきだからね・・それより、西山さんの好みぐらい覚えておき
なさいよ、恥をかくでしょ﹂
﹁一緒に食事したことないから、わからないわよ﹂
﹁お寿司頼むけど、特上なんていらないわね・・父さんはどうしてるの﹂
﹁不機嫌そうにテレビでゴルフを観てるわよ・・日本茶を入れて、おかきを持
って行ってあげるわ﹂
美雪はお茶を入れて運んだ。居間では男二人が黙ってテレビを観ていた。
﹁西山さん、お父さん、お茶を入れましたよ、それとお父さんの好物の手焼き
のおかきです﹂
そこに母親もやって来て、西山に話しかけた。
﹁西山さんはゴルフされるんですか﹂
﹁しますよ、接待ゴルフですけど﹂
﹁内は三人ともゴルフするんですよ﹂
﹁そうですか・・﹂
﹁西山さんの趣味はなあに?﹂
﹁特にありません﹂
﹁じゃあ、休みの日はなにを?﹂
﹁美雪さんとデートしない時はゴロゴロしてますね﹂
﹁美雪も何か話しなさいよ﹂
﹁うん・・﹂
107
そうこうしているうちに、寿司が届いて、夕御飯が始まった。
﹁美雪さん、食事の時はバンダナ外したら﹂
﹁そうよ、美雪、外したら﹂
﹁うん・・﹂
美雪がバンダナを外すと、西山は驚いた。
﹁美雪さん、ヘアピース着けた方がいいんじゃない﹂
﹁西山さん、わたしの本当の姿はこれなんです、通勤の時も会社でもこれなん
です﹂
﹁どうしていつもヘアピースを着けないんですか﹂
﹁西山君、もういいじゃないか、そんなことは・・﹂
﹁すみません、でも・・﹂
﹁美雪は生まれつきのハゲなんだよ、 私達もヘアピースをするように勧めたが、
ヘ ア ピ ー ス も 帽 子 も 拒 否 し た 、ハ ゲ て い る の が 本 当 の 自 分 だ か ら と 言 っ て ・・ ﹂
﹁お父さん、わたし、明日から外に出ている時はずっとヘアピース着けるわ、
人並みに結婚して子供産んで幸せに暮らしたいもの、西山さんと二人で幸せに
なるの、わたしがハゲだと西山さんが恥をかくことになるから﹂
﹁そうよ、美雪はヘアピースを着ければ女優やモデルにも劣らないわよ﹂
美雪と西山の交際は順調に進んでいた。そして、美雪の希望通り、クリスマ
スにホテルで挙式することに決まった。
夏が過ぎ、秋になった。ある日、会社に行くと、みんなが彼女をジロジロ見
つめた。自分のデスクで仕事を始めると、真弓が経理部からやって来て話しか
けてきた。
﹁美雪、書店に行ってみた?﹂
﹁いいえ、いい本があるのですか﹂
108
﹁自分で見て来たら、おもしろい新刊が出てるわよ﹂
仕事が終わると、彼女は珍しく書店に寄り道をした。店内を歩き回っている
と、一冊の本が目に付いた。 ﹃雪のクリスマス 高野優二﹄と印刷されていた。
彼女はその本を買って帰った。
﹁ただいま・・お母さん、大変だ、この本見てよ﹂
﹁お帰りなさい・・どうしたの﹂
﹁わたしの事を恋愛小説にしたのよ、ひどいわ﹂
﹁本の中を読んでみたの﹂
﹁いいえ、まだだけど、恥ずかしくて読めない﹂
﹁美雪は作家が好きなんでしょ、いいじゃないの、ちゃんと読みなさいよ﹂
﹁お風呂入ってから読んでみるわ﹂
入 浴 を 終 え る と 、 彼 女 は 居 間 で 本 を 読 み 始 め た少
。し だ け 読 も う と 思 っ た が 、
結局最後まで読んでしまった。
﹁美雪、読んだの﹂
﹁ざっと読んでみた﹂
﹁それで、どうだったの﹂
﹁悔しいけど、よく書けてる﹂
﹁ラストシーンはどうなってるの﹂
﹁クリスマスの日にお金を返しに来た彼と抱き合って仲直りするの、ハッピー
エンド!﹂
﹁美雪の好きなハーレクインロマンスよ、いいじゃないの﹂
﹁でも、小説を書くためにわたしに近付いて来たのかしら、それとも、わたし
のことを好きで小説を書いたのかしら﹂
﹁そんなこと、どうでもいいでしょ、美雪は彼が好きなんでしょ、だったらそ
れでいいじゃないの、本のようにハッピーエンドになるわよ、クリスマスが楽
109
しみね、去年みたいにホテル予約しておいたら﹂
二人が話していると、父親も帰ってきた。
﹁美雪、いい本見つけてきたぞ﹂
﹁高野さんの本でしょ、今読んだところよ﹂
﹁おもしろく書けているな、これで謎が解けた、この小説を完成させるために
社長の娘と別れなかったんだ﹂
﹁何だか馬鹿にされているみたい﹂
﹁いいじゃないか、ハッピーエンドだから・・去年みたいにホテル予約してお
いたらどうだ﹂
﹁お母さんと同じ事言わないでよ、わたしは西山さんと結婚するんだから、そ
う決めたんだから﹂
﹁西山さんと結婚して後悔はしないのよね﹂
﹁恋愛と結婚は別ですから、素敵な恋愛して思い出も出来たし、わがまま言わ
ずに結婚します・・ウフフ﹂
高野優二は兼ねてから夢だった単行本の出版をした。いろんな書店を回って
書店に置かれた自分の本を見て、彼は心から満足した。
翌日会社に行くと、 藤子を怖い顔をして待ち受けていた。 彼の顔を見るなり、
彼の本を彼の胸にぶつけた。
﹁これはどういうこと﹂
﹁だから、小説書いて出版するって言っただろ﹂
﹁わたしとの事を本に書いたりして、あのハゲの美雪という女性のこと好きな
の、わたしを捨ててあのハゲと結ばれるの﹂
﹁これはあくまでも小説なんだ、実際の話とは違うんだよ、小説に出て来るの
は、僕でもないし、藤子さんでもないし、美雪ちゃんでもないんだ、架空の人
110
物なんだよ、創作なんだよ﹂
﹁その言い訳、何かうそっぽいわね・・社長も母さんも怒ってるわよ﹂
﹁藤子さんから説明しておいてくれよ、あれは小説だって﹂
﹁しかたないわね、もう紛らわしい小説は書かないでよ﹂
﹁はい、わかりました・・新聞に広告出したから結構売れているんだよ﹂
﹁百万部ぐらい売れるの﹂
﹁発行部数五千部だよ、完売すると思うよ﹂
﹁千五百円が五千部で七百五十万円、まあまあね、分け前くれれば許す!﹂
﹁完売して二百五十万円の利益があるんだ﹂
﹁あの本に五〇〇万円もかけたの、バカね、そんな大金どうしたのよ﹂
﹁百万円は自己資金で、足りない分はあちらこちらで借りたんだ、でも、映画
化されたらすごくもうかるよ﹂
﹁サラ金とかでお金を借りたんでしょ、あなたって大馬鹿ね、映画になったら
・・そんな夢みたいなこと考えてるなんて﹂
﹁もっともっと宣伝して増刷したいんだ、 お金があったら貸してくれないかな﹂
﹁何よ、どさくさ紛れにお金貸せだなんて﹂
夏が過ぎ、秋が来た。十一月十七日、高野が三年間恐れていた事が現実にな
った。いつもと変わらず、食事を済ませ、床に着いた母の礼子だったが、真夜
中にトイレで転倒した。ギャーという叫び声が部屋中に響いた。彼は熟睡して
痛い!﹂
いたが、驚いて飛び起きた。
痛い!
﹁どうした?﹂
﹁痛い!
礼子はそう繰り返すばかりだった。母親の顔を見ると、左眼の周囲が青く腫
れ上がっている。彼はすぐに救急車を呼んだ。救急隊員が三人やって来て、母
111
親の状態を確認した。
﹁目の周りが内出血してるけど、眼球は大丈夫ですよ、不幸中の幸いですよ﹂
彼はしばし安堵した。高速道路の下を、救急車は駆け抜けた。病院に着くま
では十分だったが、彼にはとてつもなく長い時間に思えた。救急病院に着くな
り治療室に入った。彼は待合室で缶コーヒーを飲みながら、治療に当たってい
る医師が出て来るのを待った。一時間近くが過ぎて、ようやく医師が説明に現
れた。
﹁先生、どうなんですか、母のケガの様子は﹂
﹁眼球には異常が無かった、一週間程すれば自然と腫れも治まるから手術する
必要もないでしょう、ただ、血痰を吐いたので胸部のレントゲンも撮ってみま
した、両方の肺全体がガンに侵されています、どうしてここまで放置しておい
たのですか﹂
﹁母は慢性肝炎で通院していたんですが、三年余り前、主治医から肝ガンの疑
いがあるから入院するように言われました、母を入院させようとしたんですけ
ど、 ﹃寿命がないのはわかっている、死ぬ時はお前
のそばで死なせてくれ、絶
対病院には入れないでくれ﹄そう言って入院を拒否しました﹂
﹁お母さんの心情はさておいて、三年前、首に縄を付けてでも入院させておく
べきでしたね、とにかく今日から入院して明日から検査に入りましょう、今か
ら看護士と病室に行ってください﹂
﹁わかりました﹂
医師が再び治療室に入ると、寝台に乗せられた母親が看護士に付き添われて
出て来た。
﹁うち、このまま死ぬんか﹂
﹁トイレで倒れただけで、どうして死ぬんだ﹂
﹁退院出きるんか﹂
112
﹁出来るよ、ケガは大したことがないから、ただ、肝臓の治療をするからしば
らく入院してもらうそうだ﹂
﹁うちは絶対入院しないと言っただろ﹂
﹁そばに付いていてあげるから、ひと月だけ我慢してくれ﹂
﹁入院するお金あるのか、仕事もどうするんだ﹂
﹁この間、本を出しただろ、売上七〇〇万円あるんだ、生活費も治療費も心配
いらないから﹂
﹁それならしばらく入院するよ﹂
﹁看護士さん、わがままな母ですけど、よろしくお願いします﹂
﹁高野礼子さん、部屋は三階ですよ、点滴で鎮静剤投与してますから、朝まで
ゆっくり眠ってくださいね、朝食は六時半ですから、その頃起こしに行きます
から﹂
その日から、彼は一日の大半を母親の病室で過ごした。ベッドの横の折りた
たみイスで、母親の苦労話に耳を傾けた。輸血や抗ガン剤や酸素吸入など治療
が聞いて、母親の体調は良くなっていった。しかし、ガンは急速に進行してい
った。左右の肺はふさがって、呼吸が困難になっている。十二月二十三日、つ
いに母親は意識不明に陥った。
美雪と西山が交際を始めて半年余りが過ぎた。月に二度のデートは、自然に
二人のきずなを結び付けていた。十一月二十二日、西山は美雪をリーガロイヤ
ルホテルのレストランに案内した。平日のデートはそれが初めてだ。仕事帰り
の美雪は地味なビジネススーツでホテルに現れた。西山はロビーの喫茶室でコ
ーヒーを飲んでいた。美雪の姿を見ると、彼は彼女を出迎えた。
﹁今夜は大切な話があるんだ﹂
﹁うん、どんな話ですか﹂
113
﹁レストランに席を取っているから、行こうよ﹂
﹁食事するんだったらおしゃれして来たのに﹂
﹁その地味なビジネススーツ、よく似合っているけど﹂
二人はレストランに入った。偶然にも、去年のクリスマスに高野と座ったテ
ーブルだ。
﹁話って何ですか、大体想像は付くけど﹂
﹁今日は十一月二十二日で﹃いい夫婦の日﹄だろ﹂
﹁うん、でもわたし達、夫婦じゃないから﹂
﹁だから、ちゃんとプロポーズしようと思って・・美雪さん、結婚してくれま
すか﹂
﹁いいよ、でも・・﹂
﹁何か問題でも﹂
﹁もうホテルの結婚式場を予約してあるの、クリスマスに﹂
﹁気が早いね、でもいいよ、クリスマスで、美雪さんの誕生日だよね、一生の
思い出になるよね・・そうだ、指輪買ってあるんだ、一カラットだけど、ダイ
ヤなんだ﹂
﹁ありがとう、大きさなんて関係ないから﹂
﹁僕、今は実家の近くの3LDKのマンションにいるんだ、新居はそこでいい
かな﹂
﹁うん、家具も調度品も使っているのでいいよ、無い物だけ買えばいいから﹂
﹁そう言ってくれるとありがたいね、社長の息子っていっても小さな会社だか
ら﹂
﹁うん・・お腹空いたから、早く食事にしようよ﹂
﹁僕でもシャンパンぐらい飲めるよ、ボトルごと注文しようか﹂
﹁うん・・酔っ払ってもいいよ、介抱してあげるから﹂
114
それから、二人は楽しい時間を過ごした。
高野優二﹄ ・・
十二月になり、美雪の結婚式が近付いてくる。日曜日、美雪と西山はデート
した。
﹁いよいよ結婚式だね﹂
﹁うん﹂
﹁美雪さん、おもしろい本を見つけたよ、 ﹃雪のクリ
スマス
美雪さんのことが書かれているよ﹂
﹁これはただの小説だから・・﹂
﹁この小説がたとえ本当の事でも、僕は美雪さんと結婚したい、クリスマスに
はこの男に会いに行かないでくれ、僕達の結婚式だろ﹂
﹁いいえ・・これはただの小説だから、心配しなくていいの、でも、そう言っ
てくれてありがとう、今日は遅くなってもいいから﹂
﹁本当にいいの﹂
﹁うん、結婚が決まっているんだから、いいよ、今日は新しい下着、着けて来
たから﹂
二人は食事をした後、ホテルに入って愛し合った。
結婚式が間近に迫り、美雪は動揺していった。例年クリスマスが近付くと、
彼女は孤独の寂しさが最高潮に達する。しかし、去年のクリスマスは違った。
至高の幸福感に包まれていた。今年は去年より幸せなはずなのに、心が底なし
沼に沈んで行くようにゆううつに思える。そういう感覚はマリッジブルー、彼
女もそう思い込もうと努力した。結婚式を終わると、幸せな気分になれると、
信じた。
佐藤夫婦も美雪のゆううつを感じ取っていた。結婚式を翌日に控えた夜。最
後の食卓を囲んでいた。テーブルには彼女の好物が全て並んだ。
115
﹁佐藤美雪として御飯を食べるのはこれで最後ね﹂
﹁そんな寂しいこと、言うなよ﹂
﹁うん﹂
﹁とにかく乾杯しよう﹂
﹁美雪、顔色悪いわよ、結婚したくないんじゃないの﹂
﹁そんなことないよ、西山さんと結婚して幸せな家庭を持つのよ、お母さんみ
わたしが父さんと結婚したのは、父さんが真面目だから
たいな人生を選ぶの、浮気者の高野より、真面目な西山さん、お母さんと一緒
よ﹂
﹁バカね、美雪は!
じゃないのよ、世界中で一番好きだったからよ、父さんがわたしのことを世界
中で一番好きになってくれたからよ・・美雪はどうなの?﹂
﹁うん﹂
﹁このまま結婚して後悔しないの﹂
﹁今更結婚式は中止できないし﹂
父親は飲み掛けていたグラスを置いた。
﹁美雪、いいんだ、後のことは父さんと母さんに任せなさい、明日は世界中で
一番好きな人の所に行くんだ﹂
﹁心配ばかりかけてごめんなさい・・高野さんに会いに行っていいかな﹂
﹁いいとも、結婚式出席者のリストをもらえるかな、連絡しておかないと﹂
美雪は父親に抱きついて泣いた。それから、三人は楽しく食事を続けた。美
雪が部屋に行くと、父親は西山のもとに破談の電話を入れた。そして、次々と
結婚式中止の連絡を取った。その二時間余り、父親は人生最大の屈辱を味わっ
た。しかし、心は晴れ晴れとしていた。
美雪はクリスマスイブを迎えた。彼の本のラストシーンを信じて、朝から公
園で待つことにした。
116
﹁お父さん、お母さん、行ってきます﹂
﹁美雪、今日は寒いからカゼ引かないようにね﹂
﹁美雪、こまめに連絡してくるんだぞ﹂
﹁うん、世界一幸せになるからね﹂
公園に着くと、美雪はいつも座っていたベンチに座った。ベンチの冷たさが
彼女の体に伝わってゆく。それでも、彼女の心は熱く、寒さを寄せ付けなかっ
た。しかし、午後になっても彼は現れなかった。
﹁美雪、まだ彼は現れないの﹂
﹁あっ、小林さん、ありがとう、見に来てくれたの﹂
﹁ありがとうじゃないわよ、急に中止だなんて、十万円も出して新しい服買っ
たのに、どうしてくれるの、でもおもしろいけど、男が不幸になるって楽しい
わね、美雪、もう絶対高野を逃がしたらだめよ﹂
﹁うん﹂
やったわね!﹂
﹁ そ う そ う 、 わ た し 、結 婚 す る か も 、 ま だ 内 緒 ね 、 美 雪 だ け に 教 え て あ げ る わ ﹂
﹁中島専務と?
﹁じゃあ、わたし、クリスマスデートだから行くわね・・来たら、電話ちょう
だいね・・きっと来るわよ﹂
真弓は帰り、彼女はまた一人になった。しかし、寂しくはなかった。時々両
親に電話をし、励まされていた。夕方になっても彼は現れなかった。 それでも、
彼女は八時まで待ってみた。夜になると父親が迎えに来た。
﹁美雪、彼は来なかったのか﹂
﹁うん、クリスマスに会えると信じていたのに﹂
﹁美雪、今日は二十四日だぞ、まだクリスマスイブだけど﹂
﹁そうよ、二十四日よ、二十四日なのよ、彼はクリスチャンじゃないから明日
がクリスマスだと思っているのよ﹂
117
﹁御飯まだなんだろ、何か食べて帰るか﹂
﹁いいの、帰って食べるから、今夜はミサに行くの、彼に会えるように神様に
お祈りするの﹂
美雪は両親と共に教会のミサに行った。明日こそは会えると信じて疑わなか
った。ベッドに入ると、二人が再会する光景が映画のように浮かんできた。
翌日、彼女は昨日と同じように朝から出かけた。
﹁お父さん、お母さん、行ってきます、今日こそは必ず会えるからね、今夜は
お泊りかも・・ウフフ﹂
﹁行ってらっしゃい、ちゃんと御飯を食べるのよ﹂
﹁お父さん、お母さん、ごめんね、心配かけて﹂
﹁いいんだよ﹂
美雪は出かけて行った。しばらくして、父親は出かけようとした。
﹁父さん、どこに行くの﹂
﹁あの公園だ、遠くから美雪を見守ってあげるんだ﹂
﹁わたしも同じことを考えてたわ、一緒に行くから、美雪の感動的な名場面を
ビデオに撮るの﹂
二人は車に乗って公園に向かった。近くの駐車場に車を預け、公園がよく見
える駅前の喫茶店に入った。
美雪はいつものベンチに腰掛けた。公園の周りを何度も見渡しながら、時が
過ぎるのを待った。時間が過ぎれば過ぎるほど、彼と会えるのが近付くと信じ
ていた。正午になると、西山がやってきた。
﹁西山さん、ごめんなさい﹂
﹁どうして僕ではダメなんですか﹂
彼の質問に美雪は答えることが出来なかった。自分でもわからなかったから
だ。
118
﹁もしあの男がいなかったら、僕と結婚してくれてましたか﹂
慰謝料いっぱい取ってやる﹂
﹁ううん・・きっと結婚しなかった、西山さんのこと好きだけど、世界一好き
お前なんか死んでしまえ!
になれなかったから﹂
﹁バカヤロー!
西山はそう叫んで帰って行った。美雪はばとうされても悲しくも辛くもなか
った。もうすぐ最高の幸せが訪れると信じていたから。しかし、夕方になって
も夜になっても、彼はやって来なかった。八時になると、両親が喫茶店から出
て来て、公園に行った。
﹁美雪、今日も来なかったな、もう帰ろう﹂
﹁美雪、高野さんの家に行ってみましょうよ﹂
﹁うん、そうする﹂
三人は車に乗って、彼のアパートに行ってみた。階段を上って、三軒目の部
屋が彼のすまいだった。行ってみても、明かりは点いていなかった。父親は隣
りの住人を訪ねた。
﹁夜分すみません、隣りの高野さんはお留守ですか﹂
﹁はい、そうですね、随分と前から帰っていないみたいですよ﹂
﹁引越しされたんですか﹂
﹁急にいなくなったみたいですね、荷物はそのままみたいですよ﹂
﹁そうですか、失礼しました﹂
﹁美雪、もうあきらめましょう﹂
﹁会社の方にも行ってみていい﹂
﹁父さんが親戚の振りをして、昼頃電話したけど、会社も辞めたそうだ﹂
﹁ 美 雪 、も う あ き ら め ま し ょ う ・・ き っ と 借 金 に 追 わ れ て 逃 げ 回 っ て い る の よ ﹂
﹁もともと信用できない男だからな﹂
美雪は返事出来なかった。信じる気持と信じられない気持が振り子のように
119
行き来していた。三人は車に戻って、家に帰ることにした。
﹁お父さん、お母さん、明日も待っていい?﹂
﹁行ってもいいけど、昼からにするんだね、それで美雪の気がすむんだったら
・・どうせ正月が明けるまで休暇取っているしな﹂
﹁世界一好きなのよ・・彼だけがわたしの心をわかってくれたの・・世界中探
し回ってもきっと見つけるから﹂
彼女は明日も彼を待つことにした。ベンチに腰掛けながら空を仰ぎ、彼が来
ることを祈り続けた。しかしその日も彼は来なかった。そして、次の日もその
次の日も彼は現れなかった。父親は彼の家に何度も何度も電話をしたが、電話
はつながらなかった。
クリスマスを過ぎた頃から、大気は乾燥し、気温も下がり、 風も強くなった。
それが容赦なく彼女を攻めている。彼女は体調を崩し始めた。失望を抱きつつ
ある彼女に、それに打ち勝つ生命力は無かった。大晦日の夜、ついに彼女は高
熱が出て血を吐いて倒れた。喫茶店で見ていた両親は彼女に駆け寄った。
﹁美雪、大丈夫か、すぐ救急車が来るからな﹂
﹁ お 父 さ ん ・・ お 母 さ ん ・・ 親 不 孝 で ご め ん ね ・・ 結 婚 出 来 な く て ご め ん ね ・ ・
孫の顔見せてあげられなけてごめんね・・心配ばかりかけてごめんね・・わた
しに髪の毛があったら・・普通に恋愛して・・普通に結婚して・・子供も生ま
れて・・みんなで楽しく暮らして・・親孝行出来たのに・・神様がわたしの髪
の毛を奪ったから・・﹂
﹁神様が、人から何かを奪うのは、もっといいものを贈るためなんだよ﹂
﹁でも・・わたし・・一生懸命彼を愛したから・・もう・・死んでも悔いはな
いの・・絶対に彼を責めないでね・・天使が迎えに来たから・・行くね・・﹂
遠くからサイレンの音が聞こえて来る。美雪は大勢が見守る中、公園から救
急車で運ばれて行った。
120
クリスマスも年末年始も、高野の母親は昏睡状態だった。彼は病院に泊まっ
た ま ま 、 自 宅 に 戻ら な か っ た 。 そ し て 、
一月九日十五時に彼の母親は永眠した。
十一日葬儀と初七日を終え参列者が帰ったのは、すでに夜だった。誰もいな
い家で、 彼
は彼女のことと彼女との約束、 自分の本のラストシーンを思い出し、
彼女の家を尋ねた。彼女に会えると信じ、チャイムを鳴らした。
﹁すみません、美雪さんはいますか﹂
﹁高野さん、本当に高野さんなの﹂
﹁はい・・﹂
﹁父さん、高野さんが来たわよ﹂
幸夫が居間から駆け寄ってきた。
﹁高野さん、来てくれてありがとう、美雪も喜ぶよ﹂
﹁早く会わせてください、誤らないと・・﹂
﹁美雪は亡くなっただんだ﹂
﹁心からお詫びします、会わせてください、意地悪しないでください﹂
﹁美雪は死んだんだ、意地悪をしているわけではない、納得ゆくまで家捜しし
てくれていいよ、私達も信じられないんだ、高野さんが家中を探し回れば美雪
が出て来るような気がする、ぜひ探してくれ﹂
彼は家に入って隅々まで彼女を捜したが、彼女はいなかった。彼女の洗濯物
も彼女の食器も使われた様子はなかった。そして、彼女の部屋は大きな花瓶で
花が活けられていて、ベッドも白いシートが掛けられていた。
﹁本当に死んだんですか、どうして?﹂
﹁クリスマスイブからあの公園で毎日あなたを待っていたんですよ、そして大
晦日に倒れて・・胃潰瘍の上に、肺炎を起こして・・悲しみやら苦しみやらで
病気に打ち勝つ気力もなくて・・もっと早く病院に行けば良かったのに、あな
121
たが来ると信じて公園から動かなかったのよ﹂
﹁全て僕のせいだ﹂
﹁あなたのせいではない、美雪は自分が信じた事を貫いたんだ、絶対あなたを
責めないでくれ、それが美雪の最後の言葉だった﹂
美咲は高野の手を取って、居間に上がるようにすすめた。
﹁あなたはどうしていたの﹂
﹁母は三年前にガンを宣告されて・・﹂
﹁・・・・・﹂
﹁・・・・・﹂
﹁十一月十七日に母の病状が悪化して動けなくなったので入院させ、十二月二
十三日に意識不明になって、一月九日に永眠しました、今日葬儀と初七日を済
ませ、ここに来たんです、美雪さんのこと、考える余裕もなかったんです﹂
﹁そうだったのか﹂
﹁あなたも大変だったのね﹂
﹁美雪さんを愛していたことは本当です、彼女を愛している証に彼女の事を小
説に書き本を出版しました、感動的な作品にするために演出をして彼女を傷付
けてしまった事も事実です、それでも、クリスマスに再会してハッピーエンド
にするはずだったのに、それで本が売れて大もうけして実生活もハッピーエン
ドになるはずだったのに、僕がバカなばかりに彼女を死なせてしまった﹂
﹁ありがとう、天国の美雪も喜んでいるよ﹂
﹁父さん、彼に美雪の最後の姿見てもらいましょうよ・・高野さん、こちらに
来てくださらない﹂
三人はテレビであのビデオ録画を見た。美雪が血を吐いて倒れ、救急車で運
ばれてゆく様子が生々しく写されていた。高野はそれを見てがく然とした。目
前で最愛の人が死んで行く。高野は今更ながら、後悔の念にさいなまれた。
122
﹁明日三人で美雪の墓参りに行ってくれるか﹂
﹁はい、ぜひ﹂
﹁今夜は朝まで飲まないか、とにかく来てくれて嬉しいよ﹂
翌日、高野は悪酔いで昼近くまで起きられなかった。午後から三人は彼女の
墓参りに行った。郊外にあるその墓地は、西洋にあるような十字架の墓石が並
ぶ墓地だ。彼女の墓は天使の図柄が彫られた純白の墓石だった。高野は彼女の
墓の前にひざま付いた。
﹁美雪、高野さんが来てくれたよ、彼のお母さんが危篤だったから来れなかっ
たんだ、これも神様の思し召しだ﹂
﹁美雪、貸したお金、彼からまだもらってないけど、きっともらってあげます
からね、利息も遅延金もちゃんと取っておくからね﹂
﹁美雪ちゃん、ごめんね、悔やんでも悔やみ切れないよ、あの指輪今も大切に
持っているからね﹂
三人は涙があふれて止まらなかった。
﹁高野さんに一つお願いがあるんだ、 これからも美雪の魂は公園に行くだろう、
しばらくあの公園に行ってあげてくれないか﹂
﹁はい、わかりました、明日から公園に行きます﹂
翌日から、彼は毎日公園に行った。いつものベンチに座り、気が済むまでそ
こにいた。缶コーヒーを飲みながら原稿を書き、天国にいる彼女に読んで聞か
せた。そして、八日目、夕方から雪が降り始めた。見ているうちに雪は激しく
な っ て い っ た 。今 日 は 帰 ろ う と 思 っ た 彼 は 、 ベ ン チ か ら 立 ち 上 が っ た 。 そ の 時 、
声が聞こえてきた。
だまされた人間の気持ち、よくわかっ
あなたって本当に最低の人間よね、あなたのせいで肺炎になって胃潰瘍
﹁待つ人間の気持ち、よくわかった?
た?
になって、血を吐いて倒れて入院してたのよ、今まで一度も病気になったこと
123
なかったのに、あなたのせいで散々ひどい目にあったのよ﹂
声の方に彼は近付いていった。赤い帽子と赤いコートを着た彼女がそばにい
た。
﹁美雪ちゃん、生きていたんだ、ありがとう、生きていてくれて﹂
﹁一度死んだのよ、だからお父さんが墓石を注文したの、でも天使様が・・﹂
彼は彼女を抱き寄せてキスをした。そして、二人はいつも座っていたベンチ
に腰掛けた。
﹁そうそう、約束のお金返してよね﹂
﹁ごめん、君が死んだと思ったから、競馬とお酒と夜遊びで使ってしまったん
だ﹂
﹁本が売れてもうかったんじゃないの﹂
﹁売上はほとんど借金の返済、増刷したいから二百万円ぐらい貸してくれない
生まれて来るんじゃなかった﹂
かな、映画化されると絶対もうかるから﹂
﹁ひどい!
二人が抱き合って何度もキスしているところに、両親がやって来た。
﹁今のラブシーン、ばっちり撮れたぞ﹂
﹁お父さん、お母さん、美雪さんと結婚させてください﹂
﹁美雪と結婚したかったら約束してくれ、 美雪を幸せにしてくれとは言わない、
苦労をさせてくれるなとも言わない、ウソを付くなとも言わない、ただいつも
一緒にいてやってくれ﹂
﹁随分簡単な約束ですね、わかりました﹂
﹁結婚式はクリスマスの日ね、そしてわたしのバースデイ、お父さん、お母さ
ん、新婚旅行一緒に来ていいわよ﹂
﹁さあ、病院に戻ろうか﹂
﹁ねえ、夜明けのコーヒー一緒に飲んでくれる?﹂
124
﹁いいよ、タマゴとトーストと・・美雪ちゃんの笑顔、付けといてね﹂
125