映像環境の修辞学とユビキタス,その規範理論 - SOC

映像環境の修辞学とユビキタス,その規範理論
金井 明人
法政大学社会学部
ユビキタス映像
1
1.1
映像環境とその修辞の変化
携帯機器やコンピュータがあらゆる場所に偏在し,インターネットにアクセス可能になるなど,
情報をめぐる環境が変化してきているが,これに伴い,映像を取り巻く環境とその修辞に関して
も様々な側面から変化が生じている.これは,情報に関する技術の進歩や一般化によって,倫理
的・法律的観点や画質の良し悪しなどを抜きにして考えれば,論理的には,どのような空間,ど
のような時間においても,またどのような媒体に対してであっても,ありとあらゆる種類の映像
をそこに関係させることが可能になってきているためでもある.
映像はプロジェクターなどによって投影させることもあるし,モニターなどの画面内の映像で
あっても良い.その映像自体も,ディスクとして持ち歩く場合もあれば,インターネットなどを
介して配信される場合がある.そしてそれらを,移動中に見ることもあれば,自室など定まった
環境で見る場合もある.インターネット環境の変化を除けば,音楽に関してはウォークマンの登
場以降,持ち歩くこともあれば,固定の環境で接することもあるという,いつでもどこででも接
することのできる状況が長く続いているのであるし,映像でも,ヴィデオアートや実験映画の作
品などでは,様々なモニターや映像の投射に関する探求は,そのごく初期から行われていたわけ
ではあるが,テレビモニターやパソコンに留まらず,ゲーム機や携帯電話,ポータブル音楽プレー
ヤーなどでも映像が再生可能になり,それと同時にインターネット上のサーバーにアクセスして
映像を見ることも可能になっているため,映像環境に関しても,認知的な環境の変化が生じ,そ
れが実験やアートの内部に留まらず,広く一般化してきているわけである.
とはいえ,筆者が担当する 2 ∼ 4 年生の法政大学社会学部の,メディア社会学科を中心とする
学生を対象とした 2010 年度の認知映像論の授業内で 12 月 16 日に調査を行ったところ,映像に
関して関心の高い学生が多いはずであるにも関わらず,ユビキタス的な「どこでもアクセスでき
る映像」について肯定的な学生は, 167 人中 50 人と, 1/3 に満たないものであった.否定的な
理由としては,画面の解像度の低さや,ノイズの混入の可能性,集中できない,移動視聴に最適
化した映像が少ないことなどが挙げられ,多くがワンセグなども非常時を除けば,ごくたまにし
か見ないという結果だった.また,積極的に映像を持ち歩いている・外で映像を見ている学生は
29 人に留まった.学生という制約があるため,限定的な側面からのデータではあるが,映像とユ
ビキタスをめぐる状況は,映像の受け手側からすれば,まだまだ過渡期であり,ユビキタス化し
た映像が浸透してきているとはいえ,問題が多く,発展途上であると言うことができるだろう.
121
本論文では,以上のように過渡期にある,映像環境に関する修辞学を,規範理論および認知と
の関係から,特にユビキタス的な映像を題材に論じ,様々な問題を考察してみたい.
1.2
映像の偏在
近年では,様々な情報がサーバーに集積され,その集積された情報に種種の携帯可能な機器に
よって,インターネットなどを介して接続可能になるなど,情報科学の発展と共に,日常の認知
的な環境が変化してきているのであるが,これによって,まず単純に,任意の時間,任意の場所
で,接触できる情報の量が増えていると言える.インターネットへの接触可能性は,年月と共に
上昇し,アクセスできる機器も多種多様な広がりを見せている.これは全ての情報がユビキタス
化していると言い換えることもできよう.だが,その環境の変化が真に受け手の認知まで変化さ
せているか,と問われれば,その答えは,不明であるともいえる.またその中でも映像に関する
認知の場合はどうだろうか.映像も,情報科学およびネット環境や機器の発展にあわせ,いつで
もどこでも好きなものに接触できることで,いわばユビキタス映像化している.だが,それによっ
て,人の映像の認知やその効果は変化してきているのだろうか.本論文ではこの点を特に,受け
手の映像認知とその規範の観点から論じる.
映像の偏在は,インターネットを介して接続するタイプの映像の可能性が増していることに留
まらず,環境の中に溶け込んでいる映像自体もまた増えている.例えば,電車内でもドアの上な
どにディスプレイが埋め込まれ,映像が表示されている車両は,もはや珍しいものではなくなっ
ている.地下鉄などの駅のホームでも,多くの映像が流されている.街中においても,例えば,
ターミナル駅付近では,見回すだけで,多数のディスプレイが存在し,映像が流されている.個
人が任意の映像を持ち歩く場合では,携帯電話やパーソナル・コンピュータ,スマートフォン,
ゲーム機などを持ち歩き,その中で映像を再生することができるし,映像自体を持ち歩かない場
合でも,任意の機器から, YouTube を始めとする映像のサーバーにインターネットを介し接続
し,再生させることができる.インターネットだけでなく,ワンセグなどを用いて,テレビ番組
の視聴もできる. Ustream などの既存のサーバーの仕組みを用いた映像発信もできるし,それ
以外でも,ソニーのロケーションフリー(現在では生産中止であるが, Slingbox など同種の機
器が発売されている)のような機器を用いてシステムを構築すれば,著作権などに違反しない範
囲内であれば,任意のテレビ番組・映像ソフト・テレビカメラから,個人的に任意に映像を発信
し,様々な携帯機器からアクセスすることも可能である.本論文では,新たに顕在化してきてい
る映像環境の修辞とその規範に関しても,受け手の映像認知を基に論じる.
また,本論文では,多様化した映像環境の修辞,それ自体を,規範理論から捉える.そもそも,
規範という用語は,社会学に留まらず,修辞学でもグループμ (1970) を始め,頻繁に用いられて
いる用語であり,映像の分析にも適用可能である.また,認知との関係からも分析することがで
き,認知修辞学 (内海・金井, 2007) などで研究がなされている.たとえ明示的に規範という用語
が用いられていない場合でも,映像の文法自体が,もし成立しているとするならば,それは,あ
る種の規範としてのみ成立しているといえるので,規範的な概念は,映像の修辞の分析において
は広く有効な概念である.
その一方で,ストーリーを語るための,ハリウッド的な映像の文法の代表例ともいえるイマジ
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ナリーラインの設定を,あえて無視する映像もまた,小津安二郎監督の映画など,歴史的に数多
く存在するなど,規範からの逸脱も同時に存在する.とはいえ,この逸脱は,後にまた論じるが,
単純に規範からの偏差として捉えて良いのかは不明である.さらに突き詰めていけば,「偏差こ
そが規範である」という立場も存在する (グループμ, 1970).文学,さらに大きく芸術一般で,
「偏差こそが規範である」という立場が成り立つのである.
以上の観点から更に,本研究プロジェクトの中心的な課題である公共圏において,芸術作品が
どのように位置づけられるかについても,改めて論じるべき問題として浮上する.特に映像との
関係で言えば,映画館がそもそも歴史的には加藤 (2006) などが論じているように,公共圏的な
存在だったわけだが,現在その特質は失われつつあり,映画祭の公共圏的役割が増大してきてい
る.これについては論文の最後に論じる.
1.3
本論文の構成
本論文ではまず,主に認知科学的な観点から,まず映像の修辞と規範理論と受け手の認知の関
係を探った後に,その規範と映像環境の修辞の関係を論じる.特に,映像環境の修辞の一つとし
てユビキタス的な環境を採り上げる.
本論文では,クライアント側 (映像を見る機器)の変化として,ユビキタス的な機器に基づく
認知の特質を,テレビやプロジェクター上映との差異などから論じる.さらに,本論文ではユビ
キタス的な環境の例として,ニコニコ動画上の映像とそのコメントおよびコメントを入力しなが
らの映像認知について考察し,サーバー側の変化による映像認知の変化も分析する.そして,こ
れらをふまえ,ユビキタス環境と,映像の関係,その規範理論について,修辞学および認知科学
の観点から考察する.
環境の捉え方は,認知科学でも近年は,大きく変化している.ロボット研究などの発展ともあ
わせ,身体的な制約から環境を捉えるアフォーダンス的な考え方が,広く取り入れられてきてい
る.これらについても,合わせて考察していく.
映像と規範理論
2
2.1
認知科学との関係
映像と規範理論,ユビキタス環境の関係を論じるにあたって,その前提となる,認知科学と映
像の関係について,特に映像の受け手の観点から,まず簡単にまとめておきたい.これが,映像
の規範の基盤にもなっているためである (金井, 2010).
映像を見るにあたって,人はその全てを認知することは不可能であるため,その一部をある視
点から見て,そしてその見た中の一部を記憶し,関連付けを行っている.そのプロセスには,ス
トーリーと,それに関連したスキーマ,志向性が関わっている.中には,ストーリーが完全に存
在しない映像も存在するが,その映像もストーリーとの距離を無意識的に探った後に受け手は認
知を行なう.受け手は,ストーリー的な処理を切断または緩和することで,ストーリー以外の観
点から認知的な処理をするのである.さらに,たとえ映像にストーリーがほとんど存在していな
123
い場合でも,ゼロ秒でない映像には時間的構造が必ず存在するため,そこに広義の物語が生じる,
そしてその広義の物語も受け手の認知的制約との関係から捉えることができる (金井, 2001a).
受け手には映像を「見る瞬間」のプロセスと「見た後」のプロセスがあり,それが同時に成立
しつつ,相互作用していくことで映像認知は成立する.時には,そのプロセスの連続性が切断さ
れる.見る瞬間のプロセスが切断される場合も,見た後のプロセスが切断される場合もある (金
井, 2005).
映像の認知科学的分析においては,受け手の視点設定と処理の制約および認知的効果と,映像
の(広い意味での)物語構造および修辞の関係がその中心テーマとなる.特に,その関係に変化
や強度を与える要因となる修辞技法を「切断技法」とすることで,ストーリーの弁証法的な力と,
その切断を中心に捉えることができる.これによって,映像の非伝達的な側面も含めた様々な可
能性と認知的効果を論じることができるのである (金井・小玉, 2010).
この「切断技法」は,映像環境にまで拡張することで,一つの映像に留まらず,広く認知活動
を捉えることが可能になる.
映画の切断技法は, 3 つのアプローチが存在する (金井・小方, 2004; 金井, 2005; 金井・吉
川, 2010).まず連続するショット間の要素の間に差異 (非連続性) を設けることによる場合 (ア
プローチ 1) がある. 連続するショットの要素間に非連続性が一切見られなくても,同一ショッ
トにおける要素間に非合理的関係が存在する場合がある.起こっている事象と,映像または音の
間に非合理的関係が存在する場合 (アプローチ 2),音と映像の間に非合理的関係が存在する場合
(アプローチ 3) である.
多くの映画で見られるのは,例えば以下の技法であり,ストーリー以外の側面が強調される.
アプローチ 1 の例としては,事象の連続性を壊すことにより,編集そのものを強調する場合を挙
げることができる.アプローチ 2 の例としては,対象を極端な構図から撮影することによってイ
メージそのものを強調する場合を挙げることができる.アプローチ 3 の例としては,音声・視覚
相互間の関連性をなくすことにより,音そのものを強調する場合を挙げることができる.
それ以外にも,例えばアプローチ 2 では,色を極端に強調させることや,舞台装置の仕組みを
意図的に明らかにすることによって,物語内容を強調しない演出や撮影が適用されている場合が
ある.また,極めて特異な音を用いる場合もある.またアプローチ 3 では,一つの場面に別の場
面の音が被せることや,音声を中途で遮断する場合など,音とイメージの関係によって連続性を
切断している場合がある.
映画においては,映像と音に関する大きく二つのメディアが存在しているので,この二つのみ
をまず考えたが,原理的には,これら以外の他のメディアを導入する場合や,画面の分割,さら
には複数のディスプレイなど映像環境を変化させることによる切断もありえる.アプローチ 1 は
映像の要素の時間的関係における切断技法,アプローチ 2 は映像の要素そのものによる切断技法,
アプローチ 3 は映像の要素の空間的関係における切断技法,と言いかえることができるので様々
な応用が可能であり,映像が単体のみで認知されるのではなく,様々な環境に組み込まれつつ,
同時に複数共存する状態の分析において,特に重要になる.これについては,映像環境一般に拡
張して,また後に論じる.
124
2.2
修辞学との関係
前節でも触れた「切断技法」は映像の修辞の規範からの逸脱として,まずは捉えることができ
る.逆に言えば,規範理論と,映像およびその認知の理論は大きく関係している.
例えば,映像の修辞を,グループμ (1970) のように,規範とそこからの偏差で捉える立場があ
る.この立場からは,映像の詩学的生成メカニズムは,送り手と受け手による規範からの偏差の
設定と還元のモデルとなるのである.その一方で,偏差ではなく,新たな規範の生成を目指す立
場もあり,これによってこそ,既存の映像に囚われない修辞が可能になる.
では,その映像の修辞の規範を生成していくことは可能なのであろうか.規範の生成は,「新
しい」作品や,映像環境の変化を捉えるうえで重要な観点である.映像には,そもそも文法が無
く,何をどのように組み合わせていっても良いとも言えるので,規範の生成を意図すること自体
は,本来ならば自由に行えるはずではある.だが,前節でも記したように,映像には,時間的構
造が必ず存在するため,受け手の認知が関わると,そこに広義の物語が生じる.それ故.逆に言
えば,受け手の認知的制約から逸脱することが難しい.
送り手にしても認知的制約からの逸脱が難しいのは同様である.特に映画の場合,ある一定以
上の時間の長さが求められることもあり,送り手の多くは,受け手のストーリー構築を前提にし
て映像を制作している.映像中でショットを分割したとしても,受け手にその内容が伝わるのは,
受け手のスキーマなど,様々な認知的能力のためである.これによって,なぜ多くの受け手に同
じ様に伝わる映像が存在するのかを説明できる.一貫したストーリーが,送り手にとっても,受
け手にとっても,ある種の規範の基盤になっている.そしてそれが,映像の文法ともいえる映像
編集 (金井・丹羽, 2008) にも結びついている.映像の規範は,認知との関係で生じるため,映像
の規範の生成を新たに行うことは容易ではないのである.
なお,個々の作品の観点からの規範の生成については,公共圏との関係で,論文の最後で再考
する.次章ではまず,映像環境の変化に伴う,規範の変化について考察する.
映像環境の規範と修辞学
3
前章では,映像の技術や環境を除外し,固定した環境を暗黙的に想定して規範について論じた
が,技術や環境の変化も,規範に影響していく.映像は,白黒サイレントの時代から,音がつき,
カラー化された.それが,テレビなどによって,ヴィデオが用いられるようになり,インターネッ
トを介しても配信されるようになり,映像自体もデジタル HD 化し, 3D の映像も普及してきて
いる.この流れによっても,規範は変化してきている.そして,ユビキタス化された映像は,固
定した視聴場所を設定することができない,という制約があるため,今後に向け,更に新たな規
範が求められているといえる.
3.1
映像環境の規範?
筆者は,金井 (2001a, 2001b, 2005b) や内海・金井 (2007) などで,同一環境で見ることを前提
に,映像間の修辞の差に関する認知と構成について,主に物語の連続性の切断の観点から研究を
125
行っているが,これらの研究では,映像環境を無視した認知的制約のみを規範として捉えていた
とも言える.
とはいえ,映像環境の異なる全ての条件で,一つの映像素材を全て同じ映像として扱うことは
できない.その修辞の効果は,条件によって大きく変化することがあるためである.その効果の
差を論じるためには,単なる映像の修辞学を超え,映像環境の修辞学が必要である.では,環境
も含めた修辞学を構想すると,そこでの規範はどうなるだろうか.
映画を見る環境の規範として,まず挙げることができるのは映画館であるが,現在では,既に
その,映像を見る場所としての地位は微妙である.人数だけならば,現在は,テレビモニターで
映画を見る人の方がはるかに多い.野外上映も,映画初期では頻繁に行われていたであろうが,
現在は映画祭など,特殊な状況で行われるにほぼ留まる.
とはいえ,映像一般で考えれば,様々なディスプレイやプロジェクタの氾濫やインターネット
環境の変化によって,今や,野外も含め,いたるところで映像に接することができる.今後は,
ネットを介して,家庭で,あるいはユビキタス機器を用いて任意の場所で,サーバ上に存在する
映画やその他の映像を見ることが,現状を超えて,更に進んでいくことになる.ここで,規範を
捉えるにはどのようにすればよいのであろうか.
3.2
映像の共通性と差異
映像環境の規範について論じるために,まず,同一環境を前提にした場合をあらためてまとめ
てみたい.
映像の修辞から直接生じる認知的効果の発生要因は,以下の 4 つに分類できる (金井・小方・
篠原, 2003).
・ 一つ一つのショット上の要素
・連続したショットにおける,要素の共通性
・連続したショットにおける,要素の差異
・映像全体における,ショット上の要素間の関係
以上の,映像の修辞の要素に関する 4 つの要因を基にすれば,ストーリー的な修辞,ストーリー
以外に関する修辞,ストーリーの切断に関する修辞のいずれをも捉えることができる.さらに,
規範や素材となる映像を想定し,そこからの操作として,映像内の修辞の構成を捉えることもで
きる.
映像の修辞の要素に関する 4 つの要因が,想定していたものや規範と異なり,非ストーリー的
側面を強調するタイプの映像の修辞が用いられている場合,受け手に違和感が生じる.そしてこ
の違和感により,受け手の物語内容の処理が中断されるので,映像の非ストーリー的側面に関心
が向かう場合もある.受け手の認知を分析するにあたっても,規範の観点からの映像の修辞の分
析が必要になるわけである.
126
3.3
映像環境の共通性と差異
前節で論じた映像の共通性と差異は,受け手がテレビや映画館で,集中して映像を認知したと
きに生じるといえる.携帯やゲーム機, iPod や,その他のユビキタスコンピュータで映像を見
る場合はどうなるのであろうか. YouTube やニコニコ動画などではどうか.メディア環境自体
も一つの要素とし,映像と合わせた新たな分析が必要になる.
前節の,映像内の共通性と差異で,逆に抜けているには,映像のスクリーンや画面などのフレー
ムそのもの,および,映像のフレーム外の環境についてである.
映像のフレームや映像のフレーム外は,その境が曖昧であり,お互いが混ざりあっている部分
もあるし,さらには,映像内に侵食してくることもあるだろう.これらを全体として,映像環境
として扱うわけである.映像を見る際には,フレームもフレーム外も全く意識されないことも有
り得るであろうし,映像がフレーム外と混在して認知されることもある.そのような境界の曖昧
さと多様性が映像環境の特徴である.そして映像的空間の広がりを大きく左右するのも映像環境
であると言える.
同一環境を前提とした映像認知の場合,フレームそのもの,映像のフレーム外は固定して考え
ることができる.だが,理論的には,フレームそのものも,映像のフレーム外も,時間的に変化
することがありえる.
これらを,映像内の要素と同一に捕らえることが可能なのではないだろうか.フレームとフレー
ム外に関する要素もショットの要素と同様に扱い,映像環境の修辞として捉えるわけである.こ
れにより,映像内の修辞の認知的効果の 4 要因や構成方法を,映像環境にも適用することができ
る.
映像フレームや映像フレーム外を一定のものとして処理すれば,映像フレームや映像フレーム
外の修辞は,映像内の処理には影響しなくなる.受け手は処理の方略によっては,映像フレーム
や映像フレーム外の影響を受けずに,映像内の修辞の処理を行うこともできる.この場合は映像
内の要素が強く顕在化することになる.だが,映像フレームや映像フレーム外を定常状態として
処理できなくなれば,映像環境全体の修辞が認知的効果に大きく影響することになる.映像フレー
ムと映像フレーム外の修辞について,細かく見てみよう.
3.3.1
映像フレームの修辞
映像フレームの修辞とは,映像を見るにあたって用いる機器,およびスクリーンやモニターに
関する修辞になる.
アート作品ならば,フレームの大きさや数,投影する場所を随時変化させることもありえる.
そこまで極端でなくとも,パソコンの画面内で映像を見れば,その画面の大きさを,全画面にし
たり,元のサイズに戻して見ることを,短期間の間に繰り返しながら見ることは,よく行われて
いる.またパソコンでは,ブラウザなどのフレーム内にさらにフレームを作る場合もある.
あるいは,プロジェクターを複数台用いることなどによって,フレームにフレームを重ねる場
合もある.逆に,映像によっては,モニター上などの映像をさらに撮影している場合もある.
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3.3.2
映像フレーム外の修辞
映像フレーム外の修辞とは,映像を見るにあたっての,周囲の場所や時間についての修辞にな
る.
実験室環境ならば,フレーム外の変化を無視して分析をすることになる.周りを暗くしてみる,
映画館のような環境でも同様であろう.だが,例えば, iPod で映像を屋外で移動中に見ること
を想定すれば,映像のフレーム外は,刻々と変化していくだろう.そして,その変化自体に新規
性が有る場合と無い場合がある.
映像のフレーム外の修辞の要素としては,例えば,以下のものが考えられる.「周囲にどれく
らいの人物が,どのような状況で存在するか」「屋外か,屋内か,なども含めた空間構造」「時
間が朝なのか,昼なのか,夜なのか」「天候や気温」「見ているのが,一人なのか,複数人なの
か」など.また,これらが,時間とともに変化することもあるだろう.
さらには,映像フレーム外に,他の映像が存在することもある.同時に複数の別の映像に接す
ることもあるためである.
時間によって,フレーム外の映像がフレームやフレーム内に侵食してくることもあるだろう.
スクリーンなどに上映する場合は,その幕や壁自体についての修辞もありえる.
3.4
映像環境と切断
ある映像環境に,適合した映像と適合しない映像がある.本来は,映像環境を考慮して,映像
制作を行うべきであろう.とはいえ,そういったことにおかまいなしに今や映像は氾濫し,複数
の環境で見られている.固定した環境を想定することは,もはや難しい.
映像環境の修辞を操作しても,変わらない効果もあれば,大きく変化する効果もある.それは,
映像環境の修辞学を通して明らかになる.また,映像環境の修辞学を考慮すれば,いまだ存在し
ていない映像環境の修辞を発見することにもつながる.
映像環境の修辞学は,インターネット上や,街中,列車内などの動画や広告の分析にも,関わっ
てくる.さらには,映像と,他のメディア,人生や歴史,政治や経済などとの接点を探り,それ
らを修辞として捕らえることにもつながっていく.
ここで問題になるのは,映像環境の修辞における切断技法とは何か,であろう.この場合の切
断技法は,先に論じた映像内の修辞における切断技法を拡張することで適用可能だろうか.
映像単体では生じない映像環境の効果が大きくなれば,映像内単体での切断技法の効果は薄れ,
映像環境の修辞も含めた切断が,より強い効果を生じさせることになる.これにより,映像内の
修辞の強度自体が,問い直される.
また,現在では映画館のような,上映された映像内の修辞に対し,暗い閉ざされた部屋で操作
可能性もなく,多くの人と共に接するという映像環境の修辞自体が,むしろ映像環境の規範から
逸脱した切断技法であるとすらいえるのかもしれない.
4
映像とユビキタス環境
ここまでの分析を基に,本章では簡単な調査・実験を交えながら考察していく.
128
4.1
4.1.1
ユビキタス映像環境の修辞
映像環境の差異に関する予備調査
映像環境の差異を調べるために,映画館での上映を前提に制作されている,白黒のサイレント
映画の代表作の一つであるカール・テオドア・ドライヤー監督の『裁かるるジャンヌ』 (1928) お
よびデイヴィッド・ウォーク・グリフィス監督の『散り行く花』 (1919) と,カラーでビデオ作品
でありテレビ放送を前提に制作されていて,国際的にも評価の高い,ジャン=リュック・ゴダー
ル監督の『映画史』 (1988-1998) (その中から特に, 2A と 4B のパートを用いた)を題材に,映
画館・野外でのプロジェクター上映・テレビモニター・ iPod touch (第一世代)・ロケーショ
ンフリーで発信した映像をプレイステーション・ポータブル (PSP-2000) で受信・ PC からイン
ターネットの 6 つの条件で,映像環境の差に基づく,認知的効果の差に関して,二人の女子大学
生の実験参加者に対し,自由記述させ,調査した.
まず.『裁かるるジャンヌ』と『散り行く花』に関して,新しいユビキタス環境の代表例とし
て,それぞれ, iPod touch を用い他人が周囲に存在し議論を行っている中で見る場合と,パソ
コンから個室で YouTube にアクセスして見る場合を設定し,全編を見せた.なお, YouTube の
制約により,『散り行く花』は 10 分ごとに分割されている.
続いて, iPod touch に加え,ユビキタス機器として,ロケーションフリーと PSP も用いて,
テレビ・映画館・野外で既に全編を通して見たことのある映像を全編あらためて見てもらい,比
較させた.
表 1 はその記述内容における特記事項を抜粋したものであり,比較した映像環境の条件も記し
た.
4.1.2
映像環境と身体
前章では,映像環境を映像と,そのフレーム,フレーム外の 3 つに分けて分析した.それらを
認知的に関連付けるにあたって,重要になるのは,予備調査結果からも窺えるように,受け手の
身体の大きさ,および姿勢である.座って見るか,立って見るか,寝て見るか,などで認知は異
なるし,深く腰掛けるか,前のめりでいるかなどでも異なる.また,視線の範囲が制約される条
件と,されない条件があるし,画面に身体が反映する場合としない場合がある.
表 1 の予備調査結果でも挙げられていたように,画面サイズが,身体に対して,大きいか,小
さいかなどの相対的な環境も影響する.また,画面を受け手が操作できるかも重要になる.ポー
タブル機器ならば,受け手との位置関係そのものを操作することができる.そのことが,フレー
ム外の修辞にも影響する.また,映像環境と身体の関係によっては,受け手の身体自体が,映像
環境にモニターに写りこむことなどにより,反映することもあり,それが修辞に影響する.
このような,映像環境と身体の関係を考えるにあたっては,生態学的視覚論におけるアフォー
ダンス (Gibson, 1979) や,それを発展させた議論 (Anderson, 1996; 佐々木, 2007) が参考になる
だろう.だが,アフォーダンスの定義自体は拡張する必要がある.受け手の身体と映像環境との
関係の中に映像環境の修辞がある,という意味では,アフォーダンスの概念を適用可能できる.
だが,アフォーダンスと「切断」の関係はどうなるか.修辞の議論では,その切断や,規範から
129
のずれや操作などに関する議論が重要になる.すなわち,「生態学的妥当性」が満たされなくて
もいいのであるし,「自然」とも「日常」とも異なって良い.修辞の切断の議論にアフォーダン
スの概念を,そのまま適用することはできない.とはいえ,アフォーダンスと規範の定義をそれ
ぞれ変更していくことによる可能性はある.
また,受け手がテレビモニターや映画館・プロジェクタなどで,集中して映像を認知した時と.
携帯電話やゲーム機・ iPod や,その他のユビキタス機器で映像を見る場合は違和感の位置づけ
は異なる.メディア環境自体も一つの要素とし,映像と合わせた新たな違和感についての分析が
必要になるのである.
メディア環境の要素が優位に立てば,それ以外の要素に関する効果が薄まっていく.周囲に人
がいて,そこに違和感があれば,映像の違和感よりも,そちらが強調される.
また,受け手は変化があると,共通性に注目する認知的性質があり,それに関連してストーリー
が映像の認知では重要になる.そして,ユビキタス映像でも,認知しやすいストーリーの役割が,
強化されていく可能性がある.ユビキタス的な映像環境では,映像の画面そのものは,映像環境
が様々に変わればそれに応じて変化する.映像のフレーム・フレーム外も含め,内外の境が曖昧
になる.その中で映像環境の共通性として残るのがストーリーであるため,その認知しやすさ,
「わかりやすさ」が求められてしまうのである,
130
表 1: 映像環境に対する特記事項
『裁かるるジャンヌ』
iPod touch
(参加者 A)
「手に持って見たことで身体的な密着度が増し,視覚的に入ってくるものは,
より集中度を増して入ってくる.」
「フレーム内・外がスクリーンよりもあいまいなので,構図があいまいになる.」
「周囲の雑音によって思考は映像そのものだけに集中できなかった」
「小さな画面で見ていると,迫力やつながりがあいまいになる」
「身体的な面での気持ち悪さがあった」
「手で持って見ていたので,自分のちょうど良い体勢を見つけられると
映像が入ってくる感覚がぐっと増す」
「耳は開いたままなので,雑音はシャットアウトできないが,視覚は画面から
ずれることはなかった」
「集中が周囲の雑音によって分散される」
『散り行く花』
YouTube でパソコンから
(参加者 A)
「画面の小ささ・映画が時間的に分割されていることに対するストーリー認知へのノイズは,
有ったと思うが,おもしろいと思って見てしまったのでさほど気にならなかった」
「自分の部屋で映画を見ていて,テレビの画面を見続ける,
というのと,ほとんど違いはない」
『裁かるるジャンヌ』 テレビと比較した PSP-2000
(参加者 B)
「画面が小さいということで,どうしても視界に映像以外の情報が入ってしまい,
100 %映像に集中できたとはいえない」
「ジャンヌのクロースアップショットに違和感を持ったと言えば持ったが,
強さでいうと弱まった」
「音による情報の補強がないと集中するのが難しい」
『映画史 2A』 映画館と比較した iPod touch
(参加者 A)
「自分の顔が反射してしまうため,重なり合うシーンの透明性が邪魔されてしまう」
「映画のスクリーンと見え方が全然違い,引っかかりが抜けてしまう」
「質感などが違ってくる」
『映画史 4B』 野外上映と比較した PSP-2000
(参加者 A)
「映像は野外で見ていた方が印象に残りやすい」
「チャップリンの顔にヒトラーの顔が重なる瞬間など動きやアクションは
PSP で見ると伝わりづらい」
「音に関しては PSP の方が没頭しやすい」
131
パソコンとユビキタス機器の映像認知における差異
4.2
ここまでで論じてきたように,現在,もはや映像に関する修辞は映像内におけるもののみでは
ないため,視聴環境という観点でも映像の認知を考えることができる.特に『裁かるるジャンヌ』
のようなサイレント映画は,著作権が切れている場合, YouTube などインターネット上の Web
サイトで接することができる場合もあり,多くの受け手も Web を介してそれらの映像に接して
いることが想定され,映像環境を考察する意味が大きい.
4.2.1
実験方法と結果
映像環境の違いが認知にどのように関わっていくかをさらに詳しく調べるために,『裁かるる
ジャンヌ』を素材として,エイゼンシュテインの種種の弁証法的なモンタージュ理論を,切断技
法を取り入れ拡張した理論に基づき再編集し,金井・小玉 (2010) で実験を行った,約 52 秒の 10
種類の映像(金井・小玉 (2010) では 16 種類の映像から,映像 1 ∼ 8 と,映像 13・映像 14 を実
験に用いている)について,映像環境による効果の差を調べる実験を行った.これらの映像は,
弁証法的にストーリー性を高めることを意図した映像(映像 1 ∼ 4)と,時間・空間を切断する
ことで,ストーリー以外の切断的側面を強調した映像(映像 5 ∼ 8, 13, 14)に二分することが
できる.また,メトリック・リズミックは,映像のショットの長さに関して規則性がある.そし
て,オーバートーンは,主要人物以外のショットが「異種ショット」として挿入されている.な
お,映像に関する詳細な情報は,金井・小玉 (2010) を参照してほしい.
実験では女子大学生の被験者一人に対し同一の部屋内で,デスクトップの 17 インチディスプ
レイのパソコンと iPod touch (第一世代)にて一回ずつ同じ映像を,パソコン画面, iPod touch
という順で見せ,「Q1. 映像の空間について思ったことを自由に述べてください」という質問を
それぞれの映像を見た後に与えた.更に両環境で映像を見終わった後に「Q2. 編集を意識したの
はどちらの環境で見ているときか」「Q3. どちらが集中できたか」と質問し,補足がある場合は
自由に発言してもらった.
実験結果の抜粋は表 2 にまとめた.
132
表 2: パソコンと iPod touch の認知差
映像
パソコン画面
映像 1
A1 異質さを感じる
ストーリー
A2 意識しない
iPod touch
A2 意識する
メトリック
映像 2
「画面が小さいから」
A3 集中しない
A3 集中した
A2 意識する
A2 意識しない
ストーリー
「比較的差は少ないが,
リズミック
どちらかといえばパソコン」
A3 集中しない
A3 集中した
「リズムの感じが」
映像 3
A1 「視線が広がる.散る」
ストーリー
A2 意識する
A2 意識しない
トーン
「画面が大きいから,
「映像の切り替えが,
ショットの変則を意識しやすかった」
後で気付く印象を持った」
A3 集中しない
A3 集中した
映像 4
A1 「なんか膨らんだ」
ストーリー
A2 意識する
A2 意識しない
オーバートーン
「水しぶきとか人の動きとかが印象に」
「視線が動かない気がする」
A3 集中しない
A3 集中した
「見やすいけどあまりできない」
映像 5
A2 意識しない
A2 意識する
時間切断
「テンポが速いから.切り替わり」
メトリック
A3 集中しない
A3 集中した
映像 6
A2 どちらともいえない
A2 どちらともいえない
時間切断
「前半だけで考えるとこっち」
「後半だけで考えるとこっち」
リズミック
A3 どちらともいえない
A3 どちらともいえない
映像 7
A2 意識しない
A2 意識する
時間切断
「顔のショットが気になった」
トーン
A3 集中しない
A3 集中した
映像 8
A1 「奥行きを感じる」
A1 「平面的」
時間切断
A2 意識する
A2 意識しない
オーバートーン
「流れちゃう.スーッと」
「際立つ.ショットの流さ?」
A3 集中しない
A3 集中した 「細部に対して」
映像 9
A2 意識する
A2 意識しない
空間切断
「ショットの代わり目にすぐ気付く」
「ショットの変化にすぐには追いつけない」
メトリック
A3 集中しない
A3 集中した「どちらかといえば」
映像 10
A2 意識する
A2 意識しない
空間切断
「変わっているリズムにすぐ気付く」
リズミック
A3 集中しない
A3 集中した
133
大きなフレーム・小さなフレーム
4.2.2
この実験では,映像が短いこともあり, iPod touch の方がパソコン画面よりも受け手を映像
に集中させる力が強いものとなっていた.表 2 の Q3 の結果では,十種類の映像中たった一種類
の「どちらともいえない」という回答以外,すべて iPod touch の方が「集中した」という結果
で,ほぼ全種類で iPod touch が集中しやすい環境を作っていた.
編集効果を強く感じるフレームを尋ねた Q2 において, iPod touch の方が強いとされた映像は
ストーリーと時間切断メトリックと時間切断トーンであり,差がほとんど見られないとされたの
は.ストーリーおよび時間切断リズミックであった.そしてこれらの理由について,特に「切り
替わりのテンポが速く感じられると iPod touch の方が編集の際立ちをより感じる」と供述して
いた.この種の編集に対しては,より集中して見ることができる小さなフレームでの視聴におい
て,編集の効果を高めながら映像を認知することができるのかもしれない.
逆に,空間切断がなされ,場所の連続性が切れたショット(異種ショット)が挿入されている
る映像すべてにおいて Q2 の回答でパソコン画面を選んだという結果も興味深い.「膨らみ」「奥
行きを感じる」というような発言から,映像的空間がより大きな広がりを見せていることが推測
される.これらの映像は iPod touch での視聴の際に「平面的で,ショットが流れてしまう」と
いう印象を抱かせていた.それ以外では空間に関する発言は見られないものの,編集の際立ちは
パソコン画面を選び,且つ「ショットの代わり目」「リズム」といった発言をしていた.これは,
異種ショットの影響を大いに受けながらも同時に映像の編集自体のリズムを感じていると解釈で
きる.
パソコン画面は,映像を見る場合,見るものが椅子に座って見る姿勢を取るのに対し, iPod
touch の画面は小さいため見る者が手に持つ点も,両者の大きな違いである.被験者は, iPod touch
にて映像を視聴するときに,自然と,画面と目の距離を近づけていた.被験者はスクリーンや比
較的大きなモニターでの映像経験が多いため, iPod touch のような小さな画面をそれに似た感
覚で見ようとするのが原因であると推測できる.パソコン画面との距離が約 60cm, iPod touch
では距離が約 20cm なので画面面積とほぼ比例していた.だが,ここでの 20cm と 60cm の距離
は受け手の視覚に差を生じさせてもいる.画面との距離があるほど視界に入り込む環境情報はお
のずと増え,それは映像的空間形成に大きな影響を与える.それがうまく働けばより多重的な映
像的空間が形成され,奥行きや広がりを生む.大きなフレームと組み合わせ,更なる相乗効果を
形作ることで,その映像体験の可能性は,より広くなるのである.
フィルムでのスクリーンへの上映などとの比較はできなかったが,大きなフレームと小さなフ
レームで,受け手の認知が異なることは示唆された.だが,この実験では映像が 1 分弱と短かっ
たこともあり,ストーリーよりも,それ以外の映像編集に関しての効果が際立っていた.
4.3
映像サーバーによる修辞
2000 年以後の映像環境の変化として,映像を見る機器の変化と共に重要なもの一つは,イン
ターネット上の映像の急増である.任意の場所で,映像のサーバーにアクセスすることで,多種
多様な映像に接することができるようになっている.そして,そこでは単純に映像を見るだけで
134
なく, Twitter や映像サーバー上のコメントなどと共に映像を見ることによって,受け手の認知
が影響されることになる.
その代表的なサイトの例として 2006 年 12 月から実験サービスが始まり,現在は生放送などに
も用いられるようになってきている「ニコニコ動画」を挙げることができる.ニコニコ動画など
では,最新の映像だけでなく,昔の映像も次々にアップロードされている.最近では,昔の映像
に,このような動画サイトによって,初めて接する場合も多い.ここでは,ニコニコ動画にアッ
プロードされている,ルイス・ブニュエルの 1929 年の作品であり,サイレント映画の短編では
最も有名な作品の一つである 16 分の作品,『アンダルシアの犬』を題材に,ニコニコ動画での
認知について論じる.
4.3.1
ニコニコ動画における映像環境
堀 (2009) は, 2007 年 7 月 30 日から 2008 年 1 月 15 日までのニコニコ動画への『アンダルシ
アの犬』に対する 262 のコメントを収集し,分類している.これを,表 3 では,再分類し,まと
めた.
これは,映像のフレーム自体の変化に関する分類でもあると言えるであろう.また,ニコニコ
動画では,全画面表示で見ている場合でなければ,コメントは映像画面上と同時に映像画面横に
も表示されるので,フレーム外の修辞も存在することになる.
映像そのものへ向けられた,感想的なコメント以外に,「映像を超えて」「他者へ」そして,
「システムへ」のコメントがみられる.これらは,ニコニコ動画で映像を見ない場合でも,潜在
的には映像認知の場には存在していたものであると言えるであろうが,それが,コメントを含め
た映像環境として,より強く顕在化しているわけである.
「映像を超えて」に関するコメントは,映像作品単体に留まらず,それを超えた創作や,他作
品との関連付けを行う場合である. 4) 登場人物の台詞創作,においては,『アンダルシアの犬』
の場合は一人しか見られなかったが,台詞の創作や「弾幕」といったものが,ニコニコ動画上で
はよく見られる.これらは作品自体の印象を変えることや違和感から笑いをとることが目的となっ
ている. 5) 他テクストへの言及,では,どの作品に似ているか等についての言及がなされてい
る.マンガのキャラクターと主人公が似ているというコメントも存在した.
「他者へ」に関するコメントは, 6) 投稿者への感謝,や
7) 投稿者への要望があった. 8) 既
見者等による解説,ではその映像作品そのものの見方を規定するようなものもある.さらに, 9)
他者に対するコメント,においては間違ったコメントを修正するということも見られる.ニコニ
コ動画では,従来は潜在的に存在していた認知時の映像に関する規範が,コメントによって,映
像環境の規範として顕在化しているのである.また,もともとは複数存在しているはずの映像の
受け手の規範を統合し,一つの方向性を作りだす場の力も存在している.
「システムへ」に関するコメントは.ニコニコ動画に『アンダルシアの犬』があることへの驚
きのコメントが非常に多く,映像の細部へ向けられたコメント(コメント数は合計で 55)に次ぐ
コメント数(コメント数は合計で 52)であった.この映像の場合は,ほとんどが冒頭におけるコ
メントで,投稿者への感謝とニコニコ動画の「凄さ」を表現していた.
なお,分類には含まれていないが,この映像は大学の映像の授業でよく用いられることもあり,
135
表 3: 『アンダルシアの犬』におけるコメント
コメントの分類
具体例とコメント時間
「映像へ」
1) 映像細部へ
ここらへん結構笑える (8:55)
なんかよくわからん (2:52)
2) 映像全体へ
もっと断片的かと想像してた (16:02)
3) 音楽へ
BGM のおかげでみれる (1:55)
「映像を超えて」
4) 登場人物の台詞創作
きたら殺すわよ (7:25)
5) 他テクストへの言及
絶対デヴィット・リンチこれに影響受けてるよね (7:57)
「他者へ」
6) 投稿者への感謝
うp主サンクス (0:55)
アプ主結婚して (0:52)
7) 投稿者への要望
誰かカリガリ博士上げてくれ! (1:05)
8) 既見者等による解説
最初は有名なシーンだね (0:55)
9) コメントにコメント
↑そんなこと言ってるのはお前だけ,もっと勉強してから書け (2:22)
「システムへ」
10) ニコニコ動画へ
検索したらあった・・・(0:25)
11) その他
腐ったらくだはいつでるの (8:25)
この分析後の 2011 年 3 月現在のコメントでは,授業など,見た環境や状況に伴う記憶や連想に
関連するコメントが多数登場している.
以上の分析でもわかるように,コメントには,送り手やその作品に対する認知的反応に留まら
ず,ニコニコ動画というアーキテクチャそのものや,投稿者や他者に対する認知的反応も多く存
在し,受け手の映像認知を変容させる可能性のある様々な視点を提供している.また,コメント
は,意味が不明な部分に対する反応や,さらにその部分を解説するものが多い.これによって,
受け手のストーリーや意味に関する視点を強化させていると言える.
4.3.2
ニコニコ動画による映像認知
前節のコメントの分析は,多数の認知的反応の集積であり,個人を深く捉えることができてい
ない.また,実際に,コメントにどのように影響を受けているかはわからない.そのため,堀・
金井・小玉・小野 (2008) では, A4 サイズのノートパソコンからアクセスした「ニコニコ動画」
上で,男子大学生 5 名にコメントをつけさせながら『アンダルシアの犬』全編を見せ,コメント
やネットによる環境についての効果を検証している.
136
この実験では,参加者 A は,「理解できないとコメントに助けを求める」と発言していて,
コメントによる映像認知における視点設定への影響を確認することができる.『アンダルシアの
犬』のストーリー認知への障害を,他者のコメントを参考にすることによって除去しているので
ある.実験参加者の中には操作を行いながら動画を視聴する人もいた.例えば,参加者 B は,コ
メントを書くにあたって動画を一度止めていた.参加者 C は,目を剃刀で切るシーン 2 度を視
聴した.これらは,ニコニコ動画によって,映像認知が変質してきていることの実証例ともいえ
る.
一方,『アンダルシアの犬』を見たことがなく,ニコニコ動画も初視聴の 50 歳女性にも同様
の実験を行った.その結果,「キーボードを打つのが大変で,映像だけに集中することができな
い」と発言した.このように,初見であっても,操作性を伴いながら映像作品を見る場合,ストー
リーを重視しない可能性がある.さらに,操作をさせずに再度『アンダルシアの犬』を見せた時
には,「映像に集中できる.コメントも読める」と発言し,操作という行為の映像認知への影響
が見られた.
映像環境とユビキタス,規範理論をめぐる論点
5
- 特に「わかりにくさ」について
これまでの議論を基に,映像環境とユビキタス,規範理論をめぐる論点を,特に「わかりにく
さ」の観点からまとめてみたい.
映像に関しての研究は「理解」に関するものが多く,また昨今では「わかりやすさ」があらゆ
る意味で追求される傾向にある.つまり,映像の規範は認知的に処理が行いやすい,「わかりや
すさ」に向けられている.だが,その一方「理解できないこと」についても探求する意義がある.
映像作品の美しさや強度が,必ずしも「わかりやすい」作品に宿るというわけではない.むしろ,
映像の「奥深さ」や「リアリティ」は「わかりにくさ」も影響する,受け手は「わかりにくさ」
による「理解できないこと」をそのまま認知し,それによって作品の強度を感じる場合もある.
そもそも「わかりやすさ」を追求する映像がある一方で,「わかりにくさ」を追求する映像もま
た多数存在している.
「わかりにくさ」は違和感などを通し,受け手の認識を変えるような力を持ち得るなど,様々
な映像の,また認知の可能性の源に成りえる.人間の認知能力を中心としない,小方・金井 (2010)
で中心的に論じられている,非中枢的な側面に関わる物語や映像の論理に接近するためにも,「わ
かりにくさ」は避けられない.さらには,映像において,より強いリアリティを生じさせること
にも「わかりにくさ」は関わる (堀・金井, 2007).つまり,「わかりくさ」に関する規範もまた,
必要になるのである.
5.1
「わかりにくさ」の定義
まず,「わかりにくさ」の定義を行う. Bordwell(1985,1988) は,映像における話法の理解を
スキーマとの関連で論じているが,本論文ではこれらをふまえ,「わかりにくさ」が生じる映像
認知を,関連するスキーマを利用することが十分にできない場合として定義する.
なお,スキーマを適切に利用できたとしても,なおかつ「わかりにくい」作品が有りえる.例
137
えば,あまりに「わかりやすい」作品であるため,それが逆説的に「わかりにくさ」につながっ
ている作品がハリウッド映画などには多くみられる.だが,まずはそれらは除外して考え,「わ
かりにくさ」の存在自体は「わかりやすい」映像の修辞について扱う.また,歴史的・社会的文
脈などの影響で,作品の「外」から「わかりにくさ」がもたらされる場合もあるがこれも除外す
る.
5.2
「わかりにくさ」と映像作品の構造
「わかりにくさ」と映像作品の構造との関係性について,金井・小方・篠原 (2003) と金井 (2009)
を基にまず分析する.映像作品を受け手が認知するにあたって,「わかりにくさ」は 3 つの部
分に存在し得る.映像そのもの(点),物語言説(線),物語内容・世界観(面)である.以下
で,その構造について説明する.
映像そのもの(点)
単一のショット内に内包する全ての要素.点として捉えることができる.
物語言説(線)
ショットとショットの連続によって作り出される.共通性と差異が関係する.時間の概念
がある.点と点の繋がりとしての線として捉えることができる.
物語内容・世界観(面)
物語言説を基に認知的に生成される物語内容,および過去・現在・未来をすべて内包した
物語世界,そしてそれらを構築する全ての事物やルールである世界観である.受け手によっ
て世界観は異なることもあるため,一つの映像でも異なる複数の世界観と関連することが
できる.また,背景知識に関する特性上,時間の概念に囚われない.
さらに,これらを映像環境にまで拡張することで,ユビキタス映像の「わかりにくさ」を捉え
ることができる.映像そのものを,映像環境そのものに拡張し,映像のフレームと映像のフレー
ム外も含めて捉えるわけである.映像環境自体に関連する連続性(線)や世界観(面)も生じえ
る.
5.3
「わかりにくさ」の要因
「わかりにくさ」が生じる要因となる映像の修辞について,次に考察する.
ジャン=リュック・ゴダール監督の『映画史 2A』を題材に行った調査の結果を基にわかりに
くさの分類を堀 (2009) は行っている.『映画史 2A』は,調査では,「理解できなかった」とし
た被験者が 156 人中 145 人にのぼっており,「わかりにくい」映像の典型として考えられるため
である.堀 (2009) は,プロジェクターによってスクリーンへ投影させた映像を視聴後に「映画中
に感じた主な感情効果が何かを記しなさい」という質問を調査票を用いて行い,それに対する答
えを集計し,その中から「わかりにくさ」に関わるものを取り上げ,その要因となっている映像
の修辞を基に「わかりにくさ」を分類している.
138
これを基に,金井・堀 (2010) では,「わかりにくさ」を,大きく分けて,「選択不可能性」「解
釈不可能性」「非親和性」の 3 つから生じるとしている.これらは,映像そのもの(点),物語
言説(線),物語内容・世界観(面)の 3 つ全てに関連しえる.
適切なスキーマを用いるにあたって情報量が極端に多い場合などに「選択不可能性」が生じる.
また,情報量が少なすぎスキーマを充足できない場合などに「解釈不可能性」が生じる.また,
これらとは異なり,スキーマ自体は適用することができるが,そこに何らかのずれがある場合に
「非親和性」が生じる.
この 3 つの状態に至る要因となる映像の修辞は更に細かく分類することができる.
「選択不可能性」に関しては,多量,複雑,反復,多重という 4 つの映像の修辞の要因がある.
「解釈不可能性」に関しては,少量,新規,抽象,非共有,無意味という 5 つの映像の修辞の
要因がある.
「非親和性」に関しては,知覚困難,非連続,不気味の谷,質感,色彩,規則の 6 つの映像の
修辞の要因がある.
5.4
ユビキタス映像の「わかりにくさ」
以上のように,「わかりにくさ」には,大きく分けて二つの方向性がある.情報が過少か過多
であるなど「極端である」場合と非親和的であり「ずれがある」場合である.これらは映像の規
範からの逸脱であり,映像の要素や要素間の関係を非合理化する方法の二つの側面として捉える
ことができる.
これらの「わかりにくさ」は違和感と関係している.違和感が「わかりにくさ」に結びつく場
合もあれば,逆に違和感が「わかりにくさ」をもたらす場合もある.だが,「わかりにくさ」が
違和感を生じさせない場合や,違和感が「わかりにくさ」をもたらさない場合もあり,その関係
の追求は今後の課題となる.持続時間や反応時間が異なることも想定される.
「選択不可能性」と「解釈不可能性」による「わかりにくさ」が結果として違和感をもたらす
一方,「非親和性」は違和感が生じた結果として「わかりにくさ」をもたらす,ということは言
えるかもしれない.
こららの「わかりにくさ」をユビキタス映像を含めて考えた場合,ユビキタス映像はまだ普及
段階であるため,映像環境も含めたこの種の「わかりにくさ」はまだ十分に顕在化していないと
いえよう.だが,ヴィデオ・アートや映像のインスタレーションなども含めていけば,むしろ,
映像環境による「わかりにくさ」は,理論的には単体の映像よりも多く存在する.特に,複数の
スクリーン・複数モニターが存在する場合は,スクリーン間・モニター間の関係性において,「選
択不可能性」「解釈不可能性」「非親和性」が存在する場合がほとんどであるため,「わかりに
くさ」が大いに関わってくる.
これに加え,新たな「わかりにくさ」も,浮上してきている.堀 (2009) は映像に加え,ゲーム
を取り上げ,「選択不可能性」,「解釈不可能性」,「非親和性」の 3 つの「わかりにくさ」以
外に「非操作性」に関する「わかりにくさ」があることを示している.この,「非操作性」によっ
て,その映像環境の特質が強調される.
昨今では映像とゲームの映像環境が近づいてきている.例えば,操作性があるためゲーム的で
139
ある映像環境として前章で論じたニコニコ動画がある.ニコニコ動画のような操作性のある映像
環境においては,『アンダルシアの犬』に関する実験でも見られたように,コメントや繰り返し
視聴,一時停止などによって「わかりにくさ」が低減する一方,「非操作性」に関する「わかり
にくさ」が発生している.「わかりにくさ」の質や量が変質しているのである.
様々な映像環境が新たに登場し,既存の映像環境と混在している現在のユビキタス映像の状況
をふまえれば,ゲーム以外の映像に関しても,スマートフォンや様々な機器における「非操作性」
も踏まえ,「わかりにくさ」を考察していく必要がある.
「わかりにくさ」は,ユビキタス環境においては強調されにくい.存在したとしても,「わか
りにくさ」を減少させるユビキタス映像的な規範がまずは存在する.例えば,ワンセグなどでは,
電波的な影響で,画面にノイズが入りやすく,また解像度の関係などで認知時に画面そのものを
を十分に認識できない瞬間もあるため,テロップによる補足も行われている.固定環境に劣る瞬
間をできる限り減らすことが求められているわけで,「わかりにくさ」を減少させる規範になっ
ているといえよう.ニコニコ動画のコメントも,同様の効果がある.だが,「わかりにくさ」を
減少させる方向だけでなく,それをより増幅し,顕在化していく方向性もまた有り得る.例えば,
ヴィデオ・アートであれば,意図的なノイズが混入されることもある.「わかりにくさ」を擁護
する規範も有り得るわけである.ユビキタス映像でも,アート作品と絡めていくにあたっては,
この種の「わかりにくさ」の規範を無視するわけにはいかないであろう.
映像環境と規範,公共圏
6
最後に,映像環境と規範を公共圏との関係から再考してみよう.
6.1
映像と規範の再考
ドゥルーズ (1991) が示したように「映画はコミュニケーションとはいかなる関係も持たない」
ともいえ,均一的な伝達とは異なる側面も,映画では重要である.全ての映像には適用できない
とはいえ,映画に限らず,多様性や多重性に代表される「わかりにくさ」を追求する映像,さら
にはドゥルーズ (1991) 自身が論じているように芸術作品一般にも当てはまる.なお,ここでのコ
ミュニケーションは,情報科学的な,ある種のプロトコル (規範) を前提にしているものであるた
め,前述の文は,「映画は規範とはいかなる関係も持たない」と言い換えることもできる.
とはいえ,「映画は規範とはいかなる関係も持たない」と言う場合,規範の存在自体は前提に
しているのであるが,映像中のある部分,または全体に関する,認知と物語の強度や固有性を扱
う (金井, 2010) ためには,そもそも,始めにまず規範を前提にすること自体ができないのかもし
れない.規範が存在するから強度や固有性が生じるのではなく,強度や固有性が生じるから規範
が成立する.秩序をあらかじめ前提としない,河本 (1995) などが論じたオートポイエーシス的な
システム理論の観点からも,同様なことが言える.映画の規範が結果として定まり,技法として
定着していくことはあるし,今後も新たな技法がそうして定着していくだろうが,それは事後的
に定まっていくのである.
今後も認知的制約がその規範の基盤になること自体は変わらないにしろ,むしろ,何らかの「切
140
断」 (金井・小玉, 2010) やそれによる違和感そのものが規範との関係で重要になる.これは, 1
章でも記した「偏差こそが規範である」,という立場や,前章の「わかりにくさ」を擁護する立
場とも関係する.この立場からすれば,「映画は規範とのみ関係を持つ」ことになるのかもしれ
ない.そして,映画に留まらず,映像環境自体を,この種の規範から捉えていくこともできるで
あろうし,物語を小方・金井 (2010) のように情報学として論じることが可能になるのも,この観
点からである.
6.2
公共圏と規範の生成
規範をいずれの意味で扱うにしろ,映像の規範の生成や固定化に大きな影響を及ぼしている要
因は,まずは,売り上げや観客数,アクセス数,視聴率などの量に関する側面である.
だが,映像には質的側面も存在する.そしてこれこそが,公共圏と規範の議論と関連してくる.
映像に関する公共圏の筆頭として,映画祭や,映画に関する賞の存在を挙げることができる.特
に,アカデミー賞などの,一般公開後に賞が決定され,量的側面も影響する賞とは異なり,カン
ヌ・ヴェネチア・ベルリンの三大国際映画祭は,そのコンペティションにおいては, (例外はあ
るが)一般公開前の作品がそれぞれの映画祭ディレクターの責任の下に,ある種の傾向を持った
作品群が集められ, 2 週間前後にわたって,映画関係者が集まり,上映が行われると共に,審査
員の枠を超え,プレス関係者などもまじえ,様々な議論がなされるため,継続した規範の質的な
生成に,より大きな影響を持つ公共圏であると言うことができる.日本でも,山形国際ドキュメ
ンタリー映画祭では,映画祭が開催されると共に,その深夜に連日,監督や映画関係者が観客や
映画祭スタッフと共に議論する場が提供されている.映画の応募も公募であり,映画祭の参加も
広く一般に公開されているので,公共圏の高度な達成例ともいえるであろう.
これらの映画祭は,規範の生成に大きな影響を持っている. 1998 年のカンヌ国際映画祭にお
いて 2 本の映画が上映されたドグマ 95 (宣言は 1995 年だが,初作品は 1998 年から上映された)
の例 (e.g., Bjorkman, 1999) では,映像の修辞の規範自体を宣言しているといえようし,それ
によって,新しい規範の生成が意図されていた.映画の送り手がここまで極端に規範の宣言を行
うことは稀ではあるが,フランスのヌーヴェルヴァーグなどの映画の歴史上のムーブメントは,
ある種の映画の規範の生成を意図していた,あるいは映画祭などとの関係で結果としてそうなっ
た,と言いかえることができる.日本でも,東京国際映画祭などは,同等の役割を担う可能性が
あるし,山形国際ドキュメンタリー映画祭では,ドキュメンタリーの規範の生成を 20 年以上に
渡って行ってきている.
ハリウッドの映画作家であるティム・バートンは,審査委員長として参加した 2010 年のカン
ヌ国際映画祭で,その選考へのコメントの一部で映画祭の役割に触れ,価値の多様性の擁護を挙
げている.映画祭が存在しなければ,埋もれてしまう映画が存在するのであり,しかもその役割
は年々高まってきている.また,ヴェネチア国際映画祭では,実験映像やドキュメンタリーも含
め,映画・映像を長編,短編に関わらず意図的に並列させたオリゾンテ部門(2010 年度から改
編された)が存在し,映画に留まらず,映像一般をも射程に入れた編成がなされている.映画や
映像の規範を生成するとともに,その規範を作動させ続ける役割が映画祭には在るのだと言えよ
う.この種の映画祭の方向性には様々な批判もあるとはいえ,少なくとも,映画に複数の規範を
141
併存させる役割は果たしている.
これらの映画祭の役割は,世界の特定の場所の劇場で上映する,という性質上,ユビキタス的
な映像とは無縁であり,反ユビキタス映像の代表として捉えることもできるかもしれない.だが,
その一方で, 2010 年度のヴェネチア国際映画祭では,ワークショップにおいて YouTube と映画
の関係が議論された.量的な議論ではなく,質的な議論を映像に関する議論にどのように取り込
むかは,量的な側面からの映像の流通が盛んになればなるほど,逆に重要になるであろうし,そ
れは反ユビキタス的な映画とユビキタス環境の接点をどのように作っていくかに関わる.「映画
祭はユビキタス的な規範とは関係をもたない」からこそ,逆に,ユビキタス映像に関する議論に
おいても,公共圏として存在意義が有る.
映画祭は,ヴィデオ・オン・デマンドでの開催などもなされつつあり,映画祭自体がユビキタ
ス映像に接近することで,今後大きくその特質が変わっていく可能性がある.だが,反ユビキタ
ス性が強調される映像環境の重要性も,ユビキタス映像が広がれば広がるほど,逆に増していく
であろう.映画祭以外でも,近年は,会場でライブ的に上演される映像も注目されている.いつ
でもどこでも見ることが可能なユビキタス映像が広まることで,限定された時間・場所でライブ
的に生成・上映される映像の価値もまた際立ってくるのである.
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おわりに
映画に代表される映像は,その初期においては映画館などでしか見ることはできなかったが,
テレビ放映によって家の中で見ることができるようになり,さらにビデオなどよって見る時間を
選ばなくなり,次いでインターネット配信に代表されるようにデータとして扱われ,それらをさ
らに携帯機器で移動中でも視聴できるようになった.映像を巡る視聴環境は大きな変化を遂げて,
今に至っている.これは,劇場からユビキタスへという流れとしてまとめられる.そして今後も,
ありとあらゆる事物に映像を関連させていく,映像の偏在の流れは変わらないであろう.
ユビキタス映像に関する論題を,最後に改めてまとめてみたい.
1) ユビキタス化されない映像
映像がユビキタス化したとしても,そこに入らない映像が必ず存在する.またユビキタス化さ
れたとしても,検索や関連したリンク上では浮上しにくい映像が常にある.そして,その落とさ
れた映像が,重要でないとは言い切れない.別の規範の擁護のための公共圏として,映画祭や映
像ライブなどの存在が,今後更に重要になる.
2) 認知的効果の差異
映像環境によって,認知的効果は変化する.同じ映像を見たとしても,フレームやフレーム外
は異なる.ユビキタス映像の特質を捉えるためには,映像単体だけでなく,フレーム外や身体と
の関係やその切断・非操作性も含めた修辞分析が必要である.
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3) 映像の規範とその普遍性
映像の規範は絶えず,変化していく.そのため,固定化した規範以外に関する規範も必要にな
る.逆にいえば,現在の映像の規範を,映像文法という形で固定したものとして捉えられたとし
ても,それは仮のものでしかないという視点も同時に存在しえる.「偏差こそが規範である」と
いう立場こそが普遍的である.
ユビキタス映像は,今後,更に発展し,機器もサーバーも意識することなく,任意の映像を任
意の場所・時間に見ることが可能になっていくであろう.映像の各自の好みを意識しなくても,
視聴履歴や視聴ランキングに基づき,映像の候補は次々に提示される.この流れは不可避なので
あるが,本論文で論じた「わかりにくさ」なども含め,学術的にも映像的にも,そして認知的に
も多重で多様な規範を求めていく複数の公共圏を存在させていくことだけはできるはずである.
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