えんそくvol.8 志 - ytaiyo.com

志
KOKOROZASHI
理系文芸誌
え ん そ く
v o l . 8
2008.8.3
案西稿志君のご結婚を祝して
——
Contents
夕暮れ時は寂しそう........ ヨ
漫 画 パンダ入店お断り!
小 説 モ ギ 草......004
〜 No pandas allowed! 〜......... 星 裕 一 郎...... 011
リロード............................. 鈴木菜見子......031
小 説 生活にカクテルを............ 佐 藤
陽 輝......040
引用の引用......................... 惣 津
弘 一......043
コラム 小 説 昼休み、第二美術室で...... 須田茉利江......049
小 説 座談会@千葉...........................................060
座談会 離婚指輪
リレー小説 第 1 章....................... 小 野 本
洋......079
第 2 章....................... 住 田
翔 星......087
第 4 章....................... 荒 川
史 朗......109
第 3 章....................... 山 崎
マイナースポーツあれこれ..... 鎌 田
コラム 東の夜、女と革命と.......... 落
小 説 智 大......120
雅 季 子......125
這入るものと迫りくる闇......... 案 西
小 説 太 陽......095
稿 志......133
004
夕暮れ時は寂しそう
005
夕暮れ時は寂しそう
006
夕暮れ時は寂しそう
007
夕暮れ時は寂しそう
008
夕暮れ時は寂しそう
009
夕暮れ時は寂しそう
〜
No pandas allowed!
パンダ入店お断り!
〜
星
裕一郎
012
序
とにかく待ち合わせの時間までもう少し。
彼女は比較的時間に律儀な人間である。約束の時間に遅れる
ことはきっとないだろう。そんなことを思いながら、昨夜から
ずっと考えている告白の台詞をもう一度頭の中で確認する。
緊張してしまってどうも落ち着かないのでパンダに視線を向
パンダ。
ける。
すぐ近くにパンダ。
すぐ近くにパンダ。
パンダ。
パンダのこんなにすぐ側で愛の告白をする男も珍しいだろ
何も考えていないような顔をしながら。
ぼぅっと座って。
う。
たぶん。
のんびりとしている。
存在では決してないパンダ。
普段パンダのことなどほとんど考えないし、そもそも身近な
他の人たちが普段どんなところで告白するのかなんて、よく
知らないけれど。
少し恥ずかしいなと、自分の現状を素直にそう評価した。
彼ら、きっと雌のパンダもいるだろう、彼ら彼女らパンダた
ちのずっしりと鈍重なのんびりがこちらに伝染してしまうのも
しかし。
皆に協力してもらったからには後には引けない。
まずい。
ずっと待っていた女性、来栖景が入園する姿が見えた。
くるすけい
そう考えて、パンダからふと入り口の方に顔を向けると。
これで告白を完遂しなければ皆に何を言われるかわからない
のだ。
腕にはめている時計をちらりと見る。
十三時少し前。
約束、というよりいろいろと画策した末の今日のこの待ち合
わせなので、約束といって良いものかよくわからないけれど、
パンダ入店お断り!
013
5
「パンダ強奪大作戦……、ですか?」
あさかみきお
いる琴野、そしてその朝霞の目の前に立つ来栖の三人だけ。
講義を終えて来栖が部室に訪れると、部長である朝霞と副部
長である琴野がすでに部屋にいた。部員は来栖を含めてもたっ
たの五人なので、彼女の入室をもって、部員の過半数が部室に
集まったことになる。
何を言って良いかわからなくなった来栖が朝霞の手元に目を
めの書類の作成であろう。何やら種々の申請のための書類仕事
向けると、彼は机の上で書き物を行っていた。きっと学祭のた
「そのとおりだ」
が大変だと不満を口にしていたのを思い出す。しかし学祭はも
来栖景がそうきき返すと朝霞幹生はすぐに答えた。
「強奪……、ですか……?」
うすぐ、今日は学祭の五日前である、なのだ。ここに来て今更
は、朝霞の迷いのないその返答を聞いて黙ってうんうんと頷い
は、部室ができて以来ずっとそこに鎮座しているのであろう、
助けを求めるつもりで今度は琴野に視線を向ける。しかし彼
提出する書類などあるのだろうか。
「そのとおりだ」朝霞は再び同じ台詞を口にした。
ことのまもる
ている。この部屋にいるときの彼は大抵あのようにソファに横
つまりは来栖よりもずっと大先輩なのだ、そのソファの上で読
部室の隅に置いてある茶色のソファに横になっていた琴野衛
になっているのだ。あのソファの上で横になるなど、来栖には
書をしていて、来栖の視線には一向に気がつかない。
「あの……」目の前の朝霞に来栖は恐る恐る声をかける。
再び来栖は部長席の朝霞の方に顔を向けた。
真似できない。自分のことをそれほど潔癖性だとは認識してい
ないが、しかし、いつからそこに置いてあるのかわからない、
きっと部室ができたその当時からあのソファはあそこにあるの
彼は黙って顔を上げた。
「あの……、パンダ強奪って……、何のことですか?」来栖は
であろう、あのソファの上で横になるなんて、彼女には決して
真似のできない芸当なのだ。
少し質問を変えた。
「パンダを強奪するのだ」真面目な顔で朝霞は言った。いつも
「はあ……」来栖は溜息とともにそう呟いた。
現在部室には部長席に着いている朝霞とソファに横になって
パンダ入店お断り!
014
と変わらない強い調子である。今日の彼はマスクをしているの
だが、それでもはっきりと聞き取れる明瞭な口調。
縦縞でなければパンダに見えないこともないかもしれないの
に。
「いえ、強奪の意味は知ってたんですよ、実は、わたし」来栖
来栖は何度目かの大きな溜息をついた。
「もしかして来栖さんは強奪の意味を知らない?」朝霞は尋ね
は言う。
「まあそうでしょうね」来栖は頷いた。
た。「琴野」
かける。
「琴野」来栖の返事に小さく頷いてから朝霞は琴野に再び声を
朝霞のすぐ側に近づいていた。しかし琴野のこの瞬間移動には
「いや、パンダの意味もわかります」来栖は慌てて言った。
朝霞が「琴野」と言い終わるか終わらないかの時点で琴野は
もう慣れてしまった来栖はそんなことでは驚かない。琴野は朝
「これ」
書があるのだろう。部員の岸良輔と、先日二人で部室の掃除を
を止めた。彼の手元には再び辞書。この部屋には一体何冊の辞
案の定すぐ側まで近づいていた琴野は、来栖のその声で動き
「ありがとう」朝霞は手渡された本に視線を向けたまま琴野に
したのだが、そのときには部室に辞書など一冊もなかったはず
霞に、開いたままの厚い本を手渡した。
礼を言った。そして、何かを見つけたらしく、本の一部を指差
なのに。
そのソファのすぐ脇には。
そして。
琴野はもうすでにソファの上で読書に戻っている。
来栖は呆れて大きく溜息をついた。
強引に物を奪うこと。暴力によって奪いとること。
強奪。
朝霞の示す部分を覗くとそこには。
「風邪をひいたんだ。まだ病み上がりでね」
るマスクを指差して言った。
「朝霞さん、それ、どうしたんですか?」来栖は朝霞のしてい
わからない?」朝霞は尋ねた。
「それで、強奪の意味もパンダの意味も知っているのに、何が
ほとんど変化はない。
「なんだ」がっかりしたという口調で琴野は言うが、表情には
「そうか」言いながら朝霞はうんうんと頷いた。
きしりょうすけ
しながら言う。
「これ」
縦縞の黒い模様が入ったシマウマのような着ぐるみ。
パンダ入店お断り!
015
「ここのところ、寒いですからね。今日も雨で寒いですし」
それはそうだ。
か?」恐る恐る、しかし単刀直入に尋ねる来栖。
「それで……、朝霞さんは風邪で頭をやられてしまったのです
来栖の所属する部の学祭での出し物。
つい先日。
そうなのだ。
「パンダの必要性は先日あれほど説明したじゃないか」
「いや、風邪の影響は頭には来ていないと思う。もちろん検査
そこで、
部長である朝霞がパンダが必要だと言い出したのだ。
「ああ」
をしたわけではないが」
「とにかく我々にはパンダが必要なのだ。しかしペットショッ
プにはパンダは置いていない。となると、どうする?」
「はあ……」来栖は言った。
「まあ……、そうですよね……」
それはそうなのだ。
「どこかで買えばいいじゃないですか」
「ペットショップには置いていなかった」
この人の言動が理解できないという事態に陥いることは、今
に始まったことではない。この状況を彼の体調不良に求めた自
「ペットショップじゃなくてもどこかで……」
「本当?」
「それにしたって、パンダ強奪は犯罪です」
わたしだってない。
「パンダを売っているところなど見たことがない」
分が甘かったと来栖は大いに反省した。
それにしても。
朝霞が風邪をひいたなどという話は、彼と知り合ってからの
かくらん
この一年半で初めて聞いた。鬼の霍乱とはまさにこのことであ
ろう。違うかもしれないけれど。
ているわけですよ、はい、実は」
が、何故にパンダ強奪大作戦なのでしょうか、
という疑問を持っ
「はい、強奪の意味もパンダの意味も知ってるわたしなのです
「じゃあそうお願いすればいいじゃないですか」
い。学祭が終わったら速やかに、そしてきちんと返す」
「強奪が目的ではない。本当は学祭の間だけ貸してくれれば良
「はい」来栖は力強く頷いた。
それはそうだろう。
「パンダが必要だからに決まっている」
「そんな主張が通ると思うか?」
「それで、何?」朝霞が尋ねた。
「はあ……」
パンダ入店お断り!
016
「でもお願いだけでもしてみれば……」
「パンダの名前はアドゥナップなんですね」溜息と共に来栖は
「さて」いつもの口調に戻った朝霞は言った。
「どう思う?」
プ」と一層芝居じみた調子の膳所。
「そんなことを言ったら強奪したときに真っ先に疑われるじゃ
言った。
まあ通らないだろう。
ないか」朝霞は当然だという口調で言った。
「ある者が動物園
「パンダを逆から読んでみました」膳所が答えた。
「動物園の職員さんは女性だったのですね」
「それだけ?」朝霞が尋ねる。
職員にこう尋ねました。すいません、おたくのパンダを数日お
借りできませんか?」
すると、部室の入り口の方から突然、聞き慣れた女性の声が
「そのとおり」朝霞は頷く。「そしてその冷たい女性職員さん
「もちろんですとも」膳所は言う。
「どうしても駄目ですか?」芝居じみた声で朝霞は続ける。
「はあ……」
以上、我々は動物園にそのような懇願をすることはできない」
「というわけでね、貸してくれないことがほとんど明白である
で言った。
聞こえてきた。
こ
は我々にパンダを決して貸してはくれないわけだ」
き
「 そ ん な こ と は 無 理 に 決 ま っ て る じ ゃ な い で す か。 何 を お っ
と
「どう考えても僕たちが疑われる」ソファの上から琴野が小声
ぜ
しゃっているのです、お客さん」
ぜ
「ちゃんと餌はやりますから」
「とにかく、明日、動物園の、パンダの前に集合だ」
声の主は部員の膳所登喜子だった。
「お客さん、パンダの餌が何かご存知で?」
彼の言っているのは京都市内にある動物園のことであろう。
「動物園ってどの動物園ですか?」来栖は一応尋ねる。
「そうですか。わかりました。それでは諦めましょう。変なお
来 栖 た ち の 通 う 大 学 か ら そ の 動 物 園 ま で、 自 転 車 で 十 分 か ら
「いえ、知りません。でも本を読んで調べます」
願いをしてすいませんでした」朝霞は言う。
「それから数日後、
二十分程度だ。
「市内の動物園といえばあそこしかないだろう?」
動物園から何者かがパンダを盗んでいきました」
「とにかく」
「読書と哲学の過剰な摂取は人生に毒ですよ」
「あらら、いないわぁ、どこに行ったの、わたしのアドゥナッ
パンダ入店お断り!
017
朝霞は言い聞かせるように断言した。
「明日の十五時にパンダ前集合」
3
「パンダの……、模様ですか?」
もうすでにちょっと待っています、と口にしそうになったが、
相手は一応先輩なので、どうにかそれを押さえた。
沈黙。
「知らない?」再び膳所は尋ねた。
「パンダの模様」
「えっと……」来栖は天井の方に視線を向けて考えた。
「パン
ダは白地に黒が入ってるんですよね……」
部室には来栖景と膳所登喜子と岸良輔の三人。部長である朝
霞幹生と副部長である琴野衛はまだ部室には来ていないよう
を除いた部員三人だけが部室に集まっているというこの状況は
だ。部長副部長の二人はこの部屋にいることが多いので、二人
「うん、景なら知ってるかなと思って」
比較的珍しいものだといえる。
来栖景がそうきき返すと膳所登喜子は答えた。
「どうしてですか?」
「ん?」膳所は首を傾げる。
「どうしてだろうね……?」
だなと来栖は思った。
しれないと思ったのかなと思って」言いながらややこしい質問
「あ、いえ、どうしてわたしならパンダの模様を知ってるかも
最中に膳所は尋ねた。
「縦縞だったっけ?
横縞だったっけ?」来栖が思案している
ないのだが、強烈な三回生トリオに弱いのだ。
ようにただ黙って傍観している。岸は、来栖も人のことは言え
る。岸は先ほどからの来栖と膳所の会話には参加せず、怯えた
膳所は朝霞や琴野と同じ三回生、岸は来栖と同じ二回生であ
「はあ……」こういった状況での適切な反応の具体例が思い浮
「そもそもどうしてパンダの模様なんて知る必要があるんです
「どうしてですかって何が?」
かばなかったので、仕方がなく膳所に合わせて首を傾げた。
か?」至極もっともな質問だと我ながら大いに感心しつつ来栖
「邪悪は死をもって償うべし。しかしパンダに死は望んでいな
は尋ねた。
「えっとね……」
黙って待つ来栖。
「ちょっと待ってね」
下を向いて何やら考え事をしている膳所。
パンダ入店お断り!
018
い。だから横縞ではない気がするんだよね……」ぶつぶつと呟
「はあ……」
カリの葉は食べないけれど、クマじゃないんだよね、これが」
これ」と言っている。
そこで岸が何かを指差しているのに気がついた。口で「これ
く膳所。
来栖が助けを求めるように岸に顔を向けると、彼は目を大き
くしてぶるぶると首を振った。
岸が示しているのは部長席のすぐ後ろ。来栖の立っている位
置からは見えないところを指差す岸に、別に声を出したって膳
「膳所さん……」
小さく溜息をついて来栖は膳所に声をかける。
「何?」と膳所。
所は取って食わんぜよ、などと思ってしまった来栖である。
シロクマ、たぶんこれはシロクマなのであろう、真っ白いク
そこには。
の近くまで歩いた。
膳所が一人ぶつぶつと言っているのを横目に、来栖は部長席
「どうしてパンダの模様なんですか?」再び来栖は同じ質問を
した。
「それがね、困ったことに衛がクマを持って帰って来たんだよ
ね」うんうんと頷くように答える膳所。
意味がわからない。
「衛がクマじゃないって、今、知ったの?」
「はあ……」
きたの」
「ううん。衛がクマなんじゃなくて、衛がクマを持って帰って
膳所はこれをパンダにするつもりなのだ。
それでパンダの模様、か。
ああ、そうか。
ここにはシロクマ。
必要なのはパンダなのに。
マのような着ぐるみが置いてあった。
「いえ」来栖は首をぶるぶると振った。
来栖が一人納得すると、部室の扉が小さな音を立てて開いた。
「琴野さんがクマってどういうことですか?」
「そうだよね」膳所はうんうんと頷く。
「クマはユーカリの葉
「こんにちは」来栖はそう声をかけたが返事はない。彼は目だ
入室してきたのは副部長の琴野衛であった。
「そうなんですか?」来栖は尋ねる。
けで来栖に挨拶を返して、いつものソファに横になった。
を食べない」
「たぶんね」膳所はにっこりとした表情で答える。
「衛もユー
パンダ入店お断り!
019
「やっぱり一人?」膳所が尋ねる。
なく琴野は言った。
「昨日、来栖さんがバイトに行ってからい
「いろいろって……」来栖は肩をすくめた。「つまりはパンダ
ろいろあってね、そういう話になったんだ」
「朝霞さんは?」来栖は尋ねた。
「朝霞さん、
今日はまだいらっ
ではなくシロクマが手に入ったと」
それに琴野は頷いた。
しゃってないんですよ」
ようかって話してたところなんだ」岸は部長席のすぐ近くに置
……、来栖さんが来るまで、膳所さんと二人で、これをどうし
「 今 日 は 部 長 も い な い し、 膳 所 さ ん と 二 人 き り だ っ た か ら
「違う?」
「そういう問題ですか?」
い」
と降ってた雨もあがってこんなに天気がいいのに、もったいな
「ほんとに」膳所はそう言って部室の窓を開けた。
「昨日ずっ
来栖は言った。
「朝霞さんが風邪なんて……、
そんなことありえるんですね?」
と朝霞は同じ学科なのだ。
「うん、今日は講義でも見なかったよ」膳所が補足した。膳所
が悪化したとか。それで、今日は大学にも来ていないらしい」
答えた。友人の体調不良はあまり心配ではないようだ。
「風邪
「パンダがどんな模様だったか知るためだけに高い図鑑を買う
「じゃあ買います。買いましょう」
てとんでもない」
「立ち読みは犯罪的な行為よ。本を買わずして本を楽しむなん
す」
「じゃあ図書館じゃなくても……、本屋で立ち読みでもいいで
……」
「うん……」岸が頷いた。「なんか工事してるみたいだったよ
「え?
そうなんですか?」
「付属図書館は現在閉館中」膳所が言う。
か?」
来栖は我ながら惚れ惚れするほど妥当な意見を口にした。
「図書館に行って本でも見て確認すればいいじゃないです
模様を知らないかなと思って、さっきから尋ねてるってわけ」
して不可欠なのよ」膳所が説明する。
「それで、景がパンダの
「シロクマパンダ化計画にはパンダの模様を知ることが必要に
琴野は黙って頷いた。
いてあるシロクマを指差して説明した。
のも何でしょ?」
「体調不良だって」何でもないという感じの軽い調子で琴野は
「この際、シロクマをパンダにするしかない」悪びれた感じも
パンダ入店お断り!
だったらパンダを諦めれば良いではないか。
「琴野さんが言ってくださいよ」来栖はお願いする。
「わたし
挟んだ。
「そう……、なんですかね……?」来栖は首を傾げた。
要性を暗に認めているからよ」
「それは」横から膳所が口を挟んだ。「つまり景もパンダの必
じゃ朝霞さんの説得なんて無理です」
その点がどうしても納得いかない来栖は言った。
「あの……、そもそも、どうしてもパンダは必要なんですか?」
琴野と膳所が、またか、という顔で来栖の顔を見た。
「パンダなんて必要ないと思います」琴野に向かってそこまで
言うと、同意を求めるために来栖は岸の方を向いた。
「ねえ?
「あ、え、いや……」何故だか少し慌てたような調子で岸は答
「はあ……」
だわ」
「本当にパンダの不必要性を信じているならば説得できるはず
えた。「まあパンダがいてもいいんじゃないかな……」
「パンダは必要」膳所は断言した。それから岸の方を向いた。
「パンダ入店お断り」
「何て?」
「張り紙」
「何を?」
「もうさ、この際、朝霞さんがいない内に貼っちゃおう」
「それはそうなんだけど……」
し考えたらわかるでしょう?」
「だってパンダを手に入れることがどんなに大変なことか、少
いた。
よ、景」膳所は声量を落としてそう言うと、今度は来栖にウィ
が必要で、いないと困るという人間もいるんだってことなんだ
いろいろな人がいていろいろな考えがある。そこには、パンダ
「結局ね、世の中いろいろなのよ。そのいろいろな世の中には
「そうですか……?」再び同じ台詞を口にする来栖。
で膳所は言った。
「いや、必要なのよ」子どもに言い聞かせるような優しい口調
うではないだろうと思った来栖は、思わずそう口にした。
「そうですか……?」岸の表情の意味がわからなかったが、そ
「は……、はい……」岸は何故だか恥ずかしそうに頷いた。
「ね、良くん?」
「そう思うなら朝霞を納得させるしかない」琴野が横から口を
「うん、まあ、そうかもね」歯切れの悪い口調で岸は力なく頷
「いてもいいけど……、いなくてもいいでしょ?」
岸くん?」
020
パンダ入店お断り!
021
ンクをしてみせた。
まったく意味がわからない。しかし膳所と一緒にいるとこう
「何ですか?
それ?」つられて琴野の方を見た来栖は尋ねた。
琴野は黙ったまま頷いている。
た。
「ま、シロクマだったのが救いだよね」軽い口調で琴野は言っ
らないジェスチャを気にしないことにした。
「来栖さん……、そうじゃなくて……」岸が言った。
ゲームセンタにはパンダはいないと思います」
「えっと……」仕方がないので再び来栖は口を開いた。
「普通
しと判断したようだ。
どうやら質問自体はそれで完結していて、何の補足も必要な
「そうね」膳所は頷いた。
「どういうこと?」来栖は尋ねる。
いったことはよくある。来栖はいつもどおり、膳所のよくわか
「そうですか……?」
「東京にはクレーンゲームはないのか?」
であった。
屋に置かれた椅子に座って、三人で何かを話し合っている様子
も「この大学の」であろうか、大先輩のソファ、そして岸は部
いつもどおり部長席、琴野はいつもどおり部室の、というより
まり、男性メンバ三人が集まっていた。部長である朝霞幹生は
講義を終えて部室に向かうと、そこには膳所以外の部員、つ
「いえ……、東京にもクレーンゲームはありますけれど……」
部長席からそういう声が聞こえた。
「まあ結局よくわからないけれど……、
とりあえず縦縞に決定」
楽しそうに膳所は言った。
「パンダイズ縦縞。縦縞パンダ万歳」
2
「パンダがいるゲームセンタ……?」
来栖は東京出身である。大学生になってからこの京都で生活
を始めた人間である。来栖以外の部員四人は皆関西の出身、朝
来栖がそうきき返すと岸良輔は同じ質問をくり返した。
「うん、パンダがいるゲームセンタの場所、知らない……?」
霞と膳所が大阪、琴野と岸が奈良の出身である。なので、関西
についての知識は大抵他の四人の方が多い。
岸はそう言いながら助けを求めるように副部長琴野衛に顔を
向けた。
パンダ入店お断り!
022
クレーンゲームについての知識は決して関西についての知識
ではないけれど。
いつもどおりの良い姿勢でいつもどおりに部長席に座る朝霞
はいつもどおりの口調で先を続けた。
「それで、膳所さんにホームセンタに行ってもらったの。だけ
ど、パンダの着ぐるみはなかったって。さっきそう連絡があっ
て。大きな縫いぐるみはあったけど着ぐるみはなかったって」
そもそもホームセンタにパンダの着ぐるみを求めて行く人間
「パンダ、着ぐるみでもいいんですね?」来栖は尋ねる。
も珍しいのではないだろうか。
当然覚えているね?
皆で話し合っていたんだ。我々が必要と
「もちろん本物が望ましいが、本物のパンダの入手方法はパン
「学祭でどうしてもパンダが必要だという説明を受けたことは
する機動性の高いパンダはどこに行けば手に入るのだろう、と
ダの着ぐるみの入手方法よりも見当がつかない」
まあそれはそうだろう。
ね。しかも、我々に残された、今度の学祭のための部費はそろ
そろ底をつく」
あろう。その三人で何か議論をして、岸が積極的に意見を口に
「動かないといけないんですか?」
「縫いぐるみは動かないだろう?」
「縫いぐるみじゃ駄目なんですか?」
できるとは思えない。きっとこの部長副部長コンビが決めたこ
「来栖さんは機動性という言葉の意味を知っている?」
話し合っていた皆というのは当然、朝霞と琴野と岸のことで
となのだろう。
「ゲームセンタのクレーンゲームで大きい縫いぐるみが景品に
「クレーンゲーム?」
「クレーンゲームなんだって」岸が答えた。
「そのとおり」朝霞は断言する。
小さな声で来栖は言った。
「ああ、はい、機動性の高いパンダが必要なのですよね……」
の定位置で読書をしていた。
来栖は反射的に琴野の方に顔を向けた。しかし、彼はいつも
なってるのがあるでしょ?
それで、パンダの着ぐるみがない
「そもそもパンダって機動性の高い動物でしたっけ?」少々嫌
「それで、ゲームセンタって何ですか?」来栖は尋ねた。
かなって……、さっきから先輩たちと話してたの」
みを込めて来栖は言う。
そのとき、部長の机の上に置いてあった携帯電話が震えた。
「ふうん」
「さっきまで膳所さんも部室にいたんだよ」
岸が説明を続ける。
パンダ入店お断り!
023
ていてほしい」
……、よし、わかった……、ありがとう。とりあえずそこで待っ
……、ウサギ……、シロクマ……。シロクマが敵……。そうか
「ああ……、ご苦労さま……、ん……、あったのか?
ふうん
それに朝霞が対応する。
つもりである。なので、ゲームセンタに行っている時間はない。
ちょっと。今日は晴れているのでバイト先には自転車で向かう
う言って来栖は腕にはめた時計を見る。バイトまであと三十分
「あ、えっと……、わたし、これからバイトなんですけど」そ
ている。
「これから皆で行こう」
か」朝霞は岸と琴野の方を見た。
「そうか、わかった。じゃあ我々三人だけでも行こうじゃない
てから口を開いた。
「それじゃあ、また明日。失礼します」
そう言って朝霞は電話を切ると、部員三人の顔を一通り眺め
「トキからの連絡」朝霞は自分の携帯電話を示して説明した。
出ていこうとする来栖に朝霞は声をかけた。
「ちなみに、その台は『動物クレ園』というそうだ。クレには
トキとは膳所登喜子のことである。「ホームセンタの近くのゲー
ムセンタにあったそうだ」
括弧がついて」
部室のドアノブに手をかけていた来栖を軽い目眩が襲った。
動物(クレ)園。
「あったってパンダの着ぐるみが入ったクレーンゲームがです
か?」
来栖の質問に朝霞が頷く。
琴野がソファから立ち上がる。
「衛、どうやらそのクレーンゲーム、パンダ入手を目的とする
「何やら、
ウサギやシロクマの着ぐるみも入っているようだが、
「へえ……、あった……、んですか?」岸が呟いた。
場合、シロクマがなかなか邪魔なポジショニングをしているよ
朝霞は近づいてきた琴野に向かって言った。
「はあ……」来栖は溜息をつく。
うだ」
確かにパンダの着ぐるみもあるって」
「あるもの……、ですね……」再び岸が呟く。
な口調で先を続けた。
そこで一旦言葉を切った朝霞は、少しだけ間を置くと、真剣
ね。困ったことに」来栖は岸に向かって小声で言った。
「しかし……、ここは必勝パンダだ」
「わたしたちの想像以上に世の中にはいろんな人がいるんだよ
「よし、これでとりあえずは一安心だ」朝霞がうんうんと頷い
パンダ入店お断り!
024
1
「パンダ駄菓子屋ですか?」
の面目は保たれるんですか?」
「 面 目 な ん て 気 に し ち ゃ 駄 目 」 膳 所 は 言 っ た。
「そういう妙な
プライドが人生を滅ぼすのよ」
「じゃあ面目じゃなくてもいいですけど……、とにかく甘口カ
レー研究部には甘口カレー研究部たる何か……、プライドとい
うか……、何と言うか……、とにかくそういうものはないんで
「まあ……、そうだよね……」岸良輔が弱気な助け舟を出す。
すか?」
「違う」
「皆さん、どうしてここにいるんですか?」来栖は続ける。「皆
来栖景がそうきき返すと琴野衛は首を振った。
「動物園駄菓子屋だ」朝霞幹生が補足をした。
すべきものはカレーなんですよ、カレー」
「そこはカレー屋さんでしょう。甘口カレー研究部が学祭で出
「というと?」
んですか?」
「それなのにどうして学祭で駄菓子屋をやらなくちゃいけない
「それで?」膳所登喜子が尋ねる。
甘口カレー研究部なんですよ」
は部長席のすぐ近くまで歩いてから言った。
「そもそもうちは
「だから、どうして駄菓子屋に動物が必要なんですか?」来栖
「まあカレー屋よりは楽だね」
苦していると言っていたのを思い出す。
「駄菓子屋だったら楽なんですか?」朝霞が先日書類に四苦八
答えた。
「調理系の出し物は許可を取るのが面倒なのだよ」
「だから何度も説明しただろう」やれやれという口調で朝霞は
えた。
「まあそれはそうなんだけどね」膳所がにこにことしたまま答
ないんですか?」
が集まってできたのが、この、甘口カレー研究部だったんじゃ
ですか?
カレーは好きだけど辛いものが苦手。そういう同志
さん、辛いカレーが食べられないからここにいるんじゃないん
「ふうん。まあ、そうだね」
「じゃあ……、それでは、駄菓子屋はいいとして、そこでどう
部室には部員の五人が集まっていた。
「そうでしょう?
甘口カレーを出さずして甘口カレー研究部
パンダ入店お断り!
025
む。
「駄菓子屋はいいとしたんじゃないの?」膳所が横から口を挟
「キリンカレーとか作ればいいじゃないですか?」
「ただ駄菓子屋をやっても芸がない」
して動物園なんですか?」
思う?」
なった。
「動物園にかかせない動物ナンバワンといえば何だと
野は、そう言ってから、彼にしては珍しく呆れたような表情に
「あのね、来栖さん」来栖と朝霞の会話を黙って聞いていた琴
う?」
「そうですか?」
「サルは気が長い」
「サルは?」
「ウサギは耳が長い」
「ウサギは?」
「キリンは首が長い」
「キリンは?」
「ゾウは鼻が長い」
「ゾウは?」
「そうだ」
「そうですか?」
言った。
「動物園といえばパンダだろう?」当然だという口調で朝霞は
「そう?」
「だいたい、普通パンダは駄菓子屋には入れませんよ」
「カレーねえ……」
いの努力はしましょうよ」
「じゃあ甘口カレー研究部の意地をかけて、カレーを出すくら
「それくらいの努力はするべきだと考えている」
「パンダを用意する方がどう考えたって面倒ですってば」
て充分に面倒だったというのに」
理となると、申請が駄菓子屋以上に面倒になる。駄菓子屋だっ
「まあそれはそれ」朝霞は言う。「さっきも言ったけれど、調
「景、なかなか言うね」膳所は笑った。
か?」
行事でかかせない料理ナンバワンといえば何だとお考えです
「 じ ゃ あ お き き し ま す け れ ど、 甘 口 カ レ ー 研 究 部 の 行 う 学 祭
その質問に誰もがパンダと答えるだろうか。
「気の長いサルもいる」
「ペットは食べ物屋さんには入れられないでしょう?」
「しかもどうしてパンダなんですか?」
「はあ……。それにしても、別に、諸々、長くたっていいでしょ
パンダ入店お断り!
026
か?」朝霞はソファに横になっている琴野にそう尋ねた。
「パンダがそのような条約の適用の対象かどうか知ってる
当な口調で言った。
「ワシントン条約か何かに引っかかるんじゃない?」膳所が適
「パンダをペットにしている人を見たことがない」
「してるか?」と朝霞。
ることくらい、パンダはしっかり覚悟してますって」
パンダなんですよ、パンダ。駄菓子屋さんで多少の差別を受け
「 い い ん で す、 い い ん で す よ 」 来 栖 は 言 っ た。
「 い い で す か、
「差別はいけないよねぇ」と膳所。
「してないんじゃない?」と膳所。
「はい、そりゃあしてませんよ……」と来栖。
「さあ」こちらに見向きもしないで琴野は答える。
「知らない」
「とにかく、
普通ペットは駄菓子屋に入れられませんって。ペッ
「うん……、してないと思うな……」と岸。
「まあしてないだろうね」と琴野。
ト入店お断り」
「とにかく」
「ワシントン条約でも何条約でもいいんですよ」
来栖は言った。
「だからパンダはペットじゃない」朝霞が言った。
「横暴だな」と朝霞。
ンダに駄菓子屋で差別を与えるわけにはいかない。我々こそが
「パンダが駄菓子屋での差別を覚悟していない以上、我々はパ
部員たちの顔を見つめながら朝霞は言った。
「横暴だよね」と膳所。
甘口カレー研究部パンダ親善大使隊となって、
明日の学祭では、
「パンダ入店お断り」
「横暴ですか?」と来栖。
パンダと仲良く駄菓子屋を楽しもうではないか」
パンダ。
終
「横暴ではないんじゃないですか?」と岸。
「横暴かどうかはこの際問題じゃない」と琴野。
「ですよね?」来栖は琴野に言う。
「それはパンダ差別だ」
「はあ……」来栖は溜息をついた。
「ええ……、差別ですよ差
別……」
「差別はいけない」と朝霞。
パンダ入店お断り!
027
すぐ目の前を何匹も小さいパンダが動いている。
学祭初日の朝。
「なんとか間に合った」
うろうろと歩き回っているパンダたちを見つめながら来栖景
は呟いた。
「そうだね」
すぐ近くに立っていた岸良輔が、来栖の独り言にそう返事を
その日は前日から続いた雨だったのだが、全員はちゃんと集
合時間に集まった。
「雨の方が強奪にはかえって都合が良い」
朝霞が入り口のところでそう力強く頷いていたのを思い出
す。
しかし。
京都の動物園にパンダはいなかったのだった。
仕方がなく五人は動物園を出た。
動物なんてほとんど見ないまま五人は退園した。
した。彼も足下を動くパンダたちを見つめている。
昨日のあの話し合いから。
それから来栖はバイトに向かったのだが。
シロクマの着ぐるみだったのだ。
その帰りがけに琴野が見つけて買ったのが。
後から聞いた話では。
部員全員で大慌てで作った大量のゼンマイ仕掛けのパンダた
ち。
一部、より高い機動性を追求して、
部長である朝霞幹生が作っ
たゴムで動くタイプのパンダも混ざっている。
見つめている朝霞に来栖は話しかけた。
「そうそう、五日前で
「えっと……、いつでしたっけ……?」やはり近くでパンダを
目の回りが黒いシロクマだったのだ。
部室に帰ってよく見てみると。
顔の部分しか見なかった、らしい。
全員気落ちしていたのでよく確認しなかった、らしい。
すね。五日前に朝霞さんがパンダ強奪なんて言い出したときは
学祭三日前に皆で、朝霞は動物園に行く前日からひいていた
小さなパンダたちが部室中を動き回っていた。
どうしようかと思いましたよ」
霞を除く部員四人でパンダの模様について話し合ったのを思い
風邪が悪化したとのことで大学には来ていなかったのだが、朝
朝霞がパンダを強奪しようと提案した翌日。
出した。先輩である膳所登喜子にパンダの模様について問われ
「まさか動物園にパンダがいないなど、
想像もしていなかった」
部員全員で京都市内にある動物園に向かったのだ。
パンダ入店お断り!
028
た。
「それが何でしょう?」
「まあ、わたしたちのお仲間ね」膳所はうんうんと頷きながら
たことを思い出した。
そして。
それだけ言って膳所は来栖の側から離れてしまった。
言った。
「わたしたちの、特に、幹生のお仲間ね。ウダンさん」
て、パンダが縦縞でないことを必至に説明したことを思い出す。
わたしがウダンさんなら岸くんは。
部室にずっと置いてあったシマウマのような着ぐるみを見せ
「そうそう、
そう言えば……」
来栖は膳所に向かって言った。「わ
まいました」
んですよ。この前皆さんで動物園に行ったときに思い出してし
作って来栖は言った。
「琴野さんが間違えてシロクマの着ぐる
「そうですよ、ほんとにお疲れさまですよ」悪戯っぽい表情を
「昨日はお疲れさま」
そんなことを考えていると、副部長の琴野衛が近づいて来た。
「ふうん」
みを買ったり、ゲームセンタでパンダをゲットしてくれなかっ
たし、高校時代、動物園のパンダの前で告白されたことがある
「みんなも一緒って聞いてたんですよ」来栖は説明する。
「そ
たのがいけないんですからね」
学祭二日前。
の前の日なんかに、一緒に動物園に行くはずだったみんなとか
と話しても、ああ明日楽しみだね、みたいなことを言ってたん
クレーンゲームの中にパンダの着ぐるみが入っているのを膳
かったのだが。
その日来栖はバイトだったのでゲームセンタには同行できな
所が見つけたのだった。
ですよ。それなのに、動物園に……、というか、待ち合わせ場
所が動物園のパンダの前だったんですけど、そこに行ってみた
ら、彼一人しかいなくって……」
「なんて人?」膳所が唐突に尋ねる。
「どうしてそんなこときくんですか?」
「だから、その、景に告白した人。なんて人?」
「まあこの小さいパンダでもいいんじゃない?」琴野はあっさ
で四人で部室まで帰ってきたそうだ。
パンダの着ぐるみどころか、何一つ入手できないまま、手ぶら
翌日、つまり昨日大学に来て岸から話を話を聞いたところ、
「いいからいいから」
りとした口調でそう言った。
「え?」
「高山くんっていう人ですけど……」来栖は苦笑しながら答え
パンダ入店お断り!
029
「まあそうなんですけどね……」来栖は言う。
「でも、これ作
「もういいって?」
「これだけパンダがいるんですから、もういいですよね?」
「だから、もうこれ以上パンダはいいですよね?」
るの、めちゃくちゃ大変だったじゃないですか」
結局学祭前日までパンダを用意できなかった。
「え?」
来栖は朝霞の返事を待たずに鞄から紙切れを取り出した。
そこで。
パンダを手作りすることになってしまったのだ。
もうだいぶ前から用意しておいたその張り紙。
(了)
そして。
「これです」
そう言って来栖は朝霞に紙を見せた。
昨夜から続いたその作業が終わったのがついさっき。
「お客さん、来てくれますかね?」岸が琴野にそう言っている
そこには。
パンダ入店お断り。
のが聞こえる。
部室の前の看板には。
大きな文字で。
動物園駄菓子屋。
そのすぐ脇には小さく。
甘口カレー研究部。
平均以上の頭脳の持ち主ならば、きっといくつもの疑問を抱
くであろうその看板を、昨夜膳所がさらさらと書いていたのを
思い出した。
四人に気がつかれないように来栖は小さな溜息をついた。
そして。
「あ、そうだ」突然思い出して来栖は言った。
「どうした?」すぐ近くにいた朝霞が来栖に尋ねる。
パンダ入店お断り!
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鈴木
菜見子
032
つまらない超つまらない景色つまらない温度つまらない人間つまらない世界。
ああいますぐ死にたいほんとうに死死死死死。ああ、ほんとは別にいま死ななくて
も死んでもどっちでもいいし。
と、こう、ここ一か月、自室に戻る瞬間を決まった気分でやりすごすユキの視界に
この日だけ突然現れた違和感。
一瞬ぶわりと頭上に遠ざかった意識をぐうっと元に戻して、その原因を探すが探す
までもなくベッドの上に渦巻いていた。
今朝思いきり足元に追いやったはずの分厚い布団が枕のところまできちんと上がっ
ている。だけならともかく布団の下にはズんぐゴロりと何かが埋まっているらしいこ
とがわざとらしいくらいに見て取れる。
無駄に疲れきって頽廃的さでいっぱいのユキの脳と全身の細胞が時空を超えて勝手
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033
に空想する。
あの布団をはがせば知らない人間が横たわっていてそいつは呼吸の仕方もすっかり
忘れ去った変死体。しかも知らないおっさん。あたしのベッドなのに。不潔。ありえ
ない。気持ち悪い。もうそこで寝れないなァ。
なんて思う逆側の脳と細胞もまた思っていた。こんな状況っていうのは大抵が母親
が持ってきた洗濯物とかとにかく得体の知れるものがたまたま布団をかぶっていると
かなんだ、けっ。
そんなやっぱりありきたりなつまらないオチが転がっていることを少しでも遠ざけ
るため、一旦はベッドのことを忘れることにした。
だがそのためにパソコンの前に腰かけてスイッチを入れて面白い情報を求めイン
ターネットエクスプローラを起動するという一連の動作だって皮肉にも毎日毎日毎日
同じありきたりでつまらないものであるのだ。
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034
あーあ
死に向かう死に向かう毎日だつまんなー
おもしろー
つまんなーい
つ
まんない
つまる
つまんない
おもしろくない
つまってる
おもしろい
つまん
ない
おもしろくなくない
つまんない
超つまんない
超超つまんない
苛々苛々。ヒステリック。そんな単語が頭をよぎる。あの何かの衝動を未然に抑え
るため机上段の引き出しを勢い良く開け、取り出した白い錠剤をギチリと噛み砕く。
ヒステリックグラマーなんてブランドが流行ってたなァ。
まだあんのかな。
どうでもいいけど。
苛々苛々。錠剤の噛みごたえが失せて失った力の矛先を布団に向き変え、それをガ
バと右腕で舞い上げた
瞬間、ユキはイキをのんだ。
「わぁ…」
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035
思わず出たのが悲鳴ではなく感嘆だったのはなぜだろう、でも確かに綺麗に見えた。
そこにいたのは紛れもなくユキだった。すやすや安らかな顔で死んでいるユキ。
あたしはもう死んだのだっけ?
いつ、どうやって?
その晩は庭で鳴くコオロギの声を聞きながらぼーっとすごした。考えようにも、思
考がそれを受け付けるはずはなかった。
翌朝、窓際の穏やかな光を感じる。午前六時半。
寝付いた のが何時だったの か分からないが、いつも通りの時間に目覚 めた自分に
ガッカリしつつ、左を見やれば、横たわる自分。
新しいあたしだ。
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036
不思議とそう思い浮かび、脳裏に閃光が走った。
ちょうど一年前、このベッドの上で目覚めたユキは希望に満ちていた。ここのとこ
ろかかる暗雲のひとかけらも想像させない、真っ青に澄んだハレゾラそのもの。
始まる新しい今日。
素晴らしい今日。
輝かしい未来。
そんな強烈な希望。なのに、どうしたことか、その部屋にはあたしが二人いたのだ。
向こうにしてみても、自分が二人いるっていうのに、驚きもせず、しれっとして、無
気力だけどちょっと微笑んでて、その顔にあたしはもっとイラっとした。
抵抗ひとつされなかったわけだ……
ああ、なんでだろうな、この一年間、一度も思い出すことはなかった。
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037
ユキは机の裏から古びたロープを取り出し、枕元に据えた。
広いウォークインクローゼットの隅の荷物たちを押しのけ、もう一人分のスペース
を確保する。好きな香りをつけておこう。カルバンクラインのエタニティ。椎名林檎
が使ってるって聞いたから買ったけど、ほんとかどうかは分からない。
さて、何人目だろう……クローゼットの奥を見つめつつ、数える気にはならない。
ユキが振り返ったとき、狂喜とも、逆上とも見える興奮状態の女がベッドの手前で
こちらを凝視していた。
身の毛もよだつ、ぞっとする眼光。
これが殺意……
リロード
038
女はロープを手に立ち上がる。
二人もいらないでしょ?
——
そう、今日からあなたが頑張ってくれればいい。
ギリギリと首元に食い込む感覚もすぐに消え、ユキの意識は遥かに遠のいた。
(了)
リロード
039
リロード
佐 藤 陽 輝
「結婚をイメージしたカクテルで、お薦めはありますか?」
「そうですねぇ、ウェディング・ベルはいかがでしょうか」
ということで、今回紹介するカクテルはウェディング・ベル
通常のレシピではデュポネ(キナの樹皮等で香りを加えたワ
です。
ご結婚おめでとうございます。謹んで、お喜び申し上げます。
イン)とチェリーブランデー(蒸留酒にチェリーを漬け込んで
作ったリキュール)を使用しますが、馴染みの ない 方 も 多 い
だろうと考え、本コラムではそれぞれ赤ワインと杏露酒で代用
します。また、シェイカーも今回は使用しません。
紹 介 し た い と 思 っ て い ま し た。
結婚をイメージしたカクテルを
・杏露酒(1/6)
・赤ワイン(1/3)
・ジン(1/3)
★材料
しかし結婚やお祝いのカクテル
・オレンジジュース(1/6)
い か 困 っ て い ま し た。 そ こ で、
①材料をよく冷やす(赤ワイン、杏露酒はお好みで)
このお店のバーテンダーさんに
お 薦 め を 聞 こ う と 思 い、 足 を 運
④ 回かき混ぜて、出来上がり
③グラスに材料を入れる
②グラスに氷を入れる
さっそく聞いてみましょう。
んだ次第です。
★作り方
は 多 数 あ り、 ど れ を 紹 介 し て 良
本 コ ラ ム を 書 く に 当 た っ て、
気さくな店員さんが出迎えてくれます。
て き ま し た。 地 下 一 階 の 店 内 に 入 る と、 落 ち 着 い た 照 明 と、
先日、渋谷センター街沿道の「八月の鯨」というバーに行っ
幸せな貴方にぴったりのカクテルを紹介したいと思います。
案西君へ
生活にカクテルを
040
19
生活にカクテルを
041
アル コー ル 度数は約
%で す。 ジン と オ レン ジ の 爽 やか な
香り と、赤 ワ イン と杏 露酒 の豊か な香り が 素晴ら しい 一 品 で
「 八 月 の 鯨 」 の 特 徴 は、 映 画 の タ イ ト ル の カ ク テ ル が 多 数 メ
ニューにあることです。「マトリックス」
、「世界の中心で、愛
を叫ぶ」
、「千と千尋の神隠し」など他にも多数あります。
このカ クテル には結婚にちなんだ 名前が 付けら れてい ます
はありませんが、イメージして作ってみますよ」という答えが
情熱のあいだ』はありませんか?」と尋ねれば、「メニューに
メニューにないカクテルも注文できます。例えば「
『冷静と
が、 実 は 材料 にも 結 婚 に ち なんだ 物 が 使 用 さ れ てい ま す。 そ
返ってきます。こんな風に、気軽にオリジナルカクテルを頼む
す。アルコール度数の割に口当たりが良く飲みやすいです。
れ は、 オ レン ジで す。 オ レン ジ の 花を 皆 さん は見 た こ とが あ
ことができます。
映画に限らず、小説などでも作ってくれるそうなので、今度
る で し ょ う か?
果実 の鮮 やか な 色 と は 対 照的 な、 白 い 花を
咲 か せ ま す。 花 言 葉 は「 純 潔 」
「花嫁の喜び」
「 清 純 」 で す。
世界に幾千とあるカクテルは、その一つ一つが人生のように
お店に行った時、「えんそく」をイメージしたカクテルを作っ
カ ク テル の 楽 しみ 方 の一 つ に、 バ ー テン ダー さん に オ リ ジ
多様です。今回紹介した「ウェディング・ベル」のような幸せ
オ レン ジジュー ス を使う ことで、 これら の花言葉に乗せ た想
ナ ル カ クテル を 作っても らう ことが あり ます。一 人一 人のた
を願うカクテルにも、色々な過去や想いが詰まっているのかも
てもらおうというのが密かな私の楽しみです。
め に 作 ら れ た オ リ ジ ナ ル カ ク テ ル は、 こ の
しれません。
いをカクテルに込めたのでしょう。
世界 でたった一杯 のカ クテルだ と言っても
少しずつ変わっていくものかもしれません。そんなカクテルを
時には苦く、時には渋く、時に甘く。ありふれた毎日の中で、
と は 言 え、 通 い な れ た お 店 で な け れ ば い
二人で一緒に作っていくことが、幸せへと続く道だと私は思っ
過言ではありません。
け な い の で は と い う 遠 慮 や、 ど ん な 風 に 頼
)を。
Originally cook tale
ています。
二人だけの、オリジナルカクテル(
め ば 良 い か 分 か ら な い な ど の 不 安 か ら、 敷
居が高いと感じる方が多いでしょう。
生活にカクテルを
20
引用の引用
惣津
弘一
044
日 中 の 暑 さ が 急 に 去 り、 日 傘 を 差 す 婦 人 が ふ さ わ し く な く
て い る と、 ど れ も こ れ も 引 く 手 あ ま た で、 不 景 気 や 就 職 難 と
まま、細かすぎるインクの滲みを雑に読み流した。こうして見
やぐら
ふと自分を呼ぶ懐かしい声に、小田は読みかけの本を閉じて
ものがあった。
になる頁に目印をつけた。履歴書は以前に書いたまま使わない
一度、今度は少し大きく見える文字に目を通して、いくつか気
暫くすると、小金でも稼いでやろうという気になった。もう
た非正社員への雇用の流動化が起こっているだけのことだ。
に伴って、正社員からパート、アルバイト、派遣、請負といっ
いった問題が全く嘘のように思われる。しかし終身雇用の終焉
なった。盆踊りの櫓は解体されて、確実に夏が片づけられてい
く。
小田は講義に必要な古本を数冊仕入れて、自室の棚に並べて
いたところ、旧友が東京から戻ったとの知らせを受けた。広告
業界を目指すといって単身上京して以来、漸く休みがとれたの
で近い内に顔を出すとのことだ。
気が向けば連絡をとって会うこともできた。今日まで会うこ
とがなかったのは、互いに何もしなかっただけのことだ。また
いつか会えたらと、中途半端な希望をもちながら、いざ会うこ
とになれば億劫なものだ。それでも、今こうして互いの消息を
田の部屋がある。普段から整然とした部屋は、来客があれば一
門を跨ぎ、玄関から二階に上がるとすぐに、西日の当たる小
た。
の表情は正しく精悍であった。清島はまたひとつ男を上げてい
りつける。一夏分の光を吸収した肌は焼け焦げて、見上げる男
二階から顔を出した。終わりかけていた夏は、旧友を眩しく照
層念入りに整頓され、さらに玄関までの道程を遡って、塵や埃
「よぉ、久しぶりやな。早う開けてくれ」
知る上には、気まぐれにも縁が絶えていない。
の余地を許さない。終いには飼い犬を小屋から連れ出して、石
「随分早かったな。開いとるから上がって来いや。犬、外に出
さんようにな」
鹸で洗ってやることもある。
そこまでしたら、布団に転がって部屋を見渡して満足した。
袖で汗を拭いながら戸を開けようとしたところ、大型犬が清
「なに、この暑さやからそう出て来たがらんやろ」
た求人誌を手に取った。駅前での配布を無表情で通り過ぎるの
島に飛びかかった。無論、噛みついたり吠えかかったりはしな
これといってやりたいこともなかったので、そこら辺にあっ
に失敗して、つい受け取ってしまったものである。横になった
引用の引用
045
身で喜びを表現する。少し清島は意表を突かれたが、その歓迎
いが、気に入った客が出入りすると立派に巻いた尾をたてて全
ある。こうした背景には、家庭環境の違いが影響しているのか
た。好きな作家も違えば、人生に対する意欲はほど遠いものが
小田は富裕層にあたる両親のもとで育てられた。土地を貸す
もしれない。
と次第に尾の興奮は醒めて、犬は品のある澄ました目を清島に
だけでもまとまった収入があり、父親が働いた成果で生計をた
を受け入れて手慣れた仕草で愛撫する。首筋辺りを撫でてやる
向ける。清島は、そこで決まって犬の頭を二遍ほど軽く叩いて
てているという感覚はあまりない。生活に余裕があるからこそ、
まくやっていくことを徳と思い込めばいい。
曲がった論理を振りかざすのはやめにした。周りと同調してう
杯で、それなりに充実した日々に満足した。小田はすっかり、
それはそれでよかった。目前の日常をやり過ごすことに精一
島の上京で容易く途切れた。
いつまでも続くように思われた生活も、小田の大学進学と清
ために自立心があり、何となく生きることを嫌った。
清島も決して貧しくはなかった。ただ、両親が共働きであった
この国の多くが中流だと考える中で、
その範囲は広いものの、
た。
文化や芸術といったものに時間を費やし、教養として身につけ
玄関を上がってくる。
同じ目の高さで再会した二人は、自分の過去を知る相手の懐
かしさに照れ笑った。友人の無邪気な表情に、久しく忘れてい
た感動を呼び起こした。
「最近、どうや?」
小田は何を聞いた訳でもなく、不用意に感動を取り上げてし
まったことを後悔した。あまりの積もる話に、何から切り出せ
ばいいのか全く見当がつかなかった。
それでも記憶を巡らして、
近況を余すことなく語りあった。
清島とは中学時分からの親友で、高等部を出るまでよく遊ん
だ。多感な時期を共に過ごし、世の中の矛盾を思春期特有の論
「おまえ、バイトでもするんか?変わったもんやなぁ。昔の小
理でぶつけあった。小田の部屋に泊まっては、夜遅くまで目頭
を熱くして胸の内を曝し、友情を深めた。くだらないことも面
田やったら、意地でも金のために仕事なんかせんかったやろ。
まぁ、その必要もないんやろうけど」
白がって、その瞬間だけを生きていればよかった。
気が合ったのだろうが、二人は意見が分かれることも多かっ
引用の引用
046
もう疾うに日は落ちていた。時間は容赦なく流れるが、その
覚悟のもと、
小田はこれからどうしたいのかは判然としていた。
清島は机の上に置かれた履歴書を取り上げた。右肩に添付し
た証明写真は、現在の小田からすると少し幼く見える。大学の
「折角やからゆっくりしていけ。どうせ帰ったって仕方ないや
ろ」
入 学 試 験 の 折 に、 清 島 が 働 い て い た 写 真 屋 で 撮 影 し た も の で
あった。
学に行った。真剣な眼差しで光量の調整を行っていた清島を、
趣味で酒屋をしているので、飲み物には十分な用意がある。ど
て、半端な誘いに失敗した経験がそうさせているのだ。父親が
こういう場合、小田は少し強引な口調になる癖がある。かつ
今でも鮮明に記憶している。
こうした類いの記憶というものは、
ちらでもない態度をとったせいで、相手に遠慮されてしまうの
近くにいくつか写真屋はあったが、わざわざ清島の労働を見
写真に焼きつけるよりも鮮やかに残る。写真は他人に見られて
は勿体ない。
象を受けた。それはウォーホルのポップアートに匹敵する。ど
て確信に変わった。それぞれが全く別の、多様な、無機質な印
に並んで少しずつ違って見えた。その錯覚は、小田の中でやが
に就職の実感を持てないままに、大学院へ進学を決めた。これ
的には変わらない高等教育を当たり前のように選択した。さら
小田は何か特別するべきことがなく、とりあえず以前と根本
小田と清島は離れてからもう五年ほどになる。
田の計画に一致した。
懸念はかくも容易に解かれて、清島の予定は当然のごとく小
「なに、その気でおるわ」
も持ちあわせている。
そんな不安を抱えつつも、小田は否定された時の構えをいつ
しまうが、記憶は誰にも探られることなく、自分だけのものに
仕舞っておける。
随分ふざけた撮影であった。でき上がった写真を見ると、無
表情であるべきなのに、笑いを堪えるのに必死で顔が歪んでい
る。この瞬間が自分の記憶から切り取られ、事務的な処理を受
けて公的な意味をもってしまったことを、
小田は残念に思った。
れもが自分であって、どれもが自分ではない感覚。あまりの無
も特に学問を究めるためでもなかった。
清島が店長に内緒でおまけで印刷してくれた小田の顔は、縦横
意味さに戦いて、全てを切り分け、束ねて仕舞い込んだ。
高校の卒業式は、それぞれに向かうべき道が異なる。じゃあ
引用の引用
047
都合のいいように塗り替えていくことだろう。そしてキレイな
人と別れた。退屈に時間を持て余す日も、
憂鬱に向きあう日も、
な、ともう二度と会うことがないだろうと思いながら多くの友
を指摘することもないだろう。ある程度の距離を保って深く干
全てを許容できないからといって、いちいち気に入らないこと
全てを打ち明ける必要もないし、報告する義務もない。相手の
清島は友人である。友人であるから、何から何まで起こった
小田においても、隠し事のひとつやふたつは心当たりがあっ
かったからといって、どうでもない。
渉しない方が、長く付きあえる。だから、清島が事実を告げな
ままの思い出は、学生生活での充実感さえ感じさせる。
楽しかった記憶も、大切だったものも、過ぎてしまえばきっ
と過去になる。けれど、曖昧な記憶を辿っても、つい過去を変
えてしまう。過去を大切にするには記録しかない。
た。物心がついたころから書きはじめた日記が、引き出しに隠
されている。そこには当時の感情が生々しく、言語化されて記
い。読み返してみると『この記録は最も私の核心に近く、個人
「じゃあ、嫁もうちで待たせとるし、そろそろ退散させてもら
そうか、と冷静に返答するが、小田は急な展開に愕然とした。
的なものであるかと思うが、そうでもない。大なり小なり、い
録 さ れ て い る。 こ れ だ け は 清 島 に だ っ て 見 せ る こ と は で き ま
嫁。彼女に対して大袈裟にヨメと呼ぶそれではなく、はっきり
ずれ他人の目に触れることもあろうかと意識したものにちがい
うわ」
と既婚者の貫禄を示していた。
全くその通りである。子供がいたとしても不思議ではないくら
ら、私の一部であることは確かだ。だが、実際に日常に感じる
われては困る。私が思考し、誠意をこめて書いたものであるか
ない。だから、これを覗くことで私が全て見えてしまったと思
いだ。他の友人の結婚の噂も少しは耳にしている。しかし、合
ものと、机に向かって文章にしたものでは明らかに性質が異な
無論、小田は清島の結婚を知らない。適齢期と言われれば、
点がいかない。
る。本当に内奥にある悩みについては言及することはないし、
も混乱してしまう。
実はそれほど悩んでいる訳でもない』とあるので、自分自身で
「別に、隠しとったわけでなくて」
怪訝な顔を察せられたことに、小田は後悔した。敢えて話す
ような機会がなかった、という次の言葉があたまを過った。
さらに無意識に語らないでいることもあるだろうから、だん
引用の引用
048
だん怪しく思えてくる。相手の欺瞞を見過ごすかわりに、どう
か自身の矛盾も許してもらえないだろうか。
しかし、それでも小田にとって清島は特別だったことに違い
ない。すでに深い部分まで認識している積りである。きっと清
島にはこうした思考さえ見透かされているだろう。清島は、自
分の内奥の課題を共有している、大切な人である。自分のこと
は棚上げしたって、清島には誠実でいて欲しい。
「なんや、水くさいな。めでたい時くらい連絡よこせよな」
小田は、清島の友人としての自分を素直に表現すればいい、
という気持ちになった。くだらない深読みから抜け出し、漸く
いつもの調子を取り戻したようだ。これまで散々に言いあった
相手に、今更遠慮することもないであろう。小田は自分こそ水
くさいなと振り返り、ふっと笑ってみせた。
「いろいろあって、タイミングを逃してもうてな。報告せんで
も知れ渡ってるような気がして。どうも自意識過剰でいかん」
後頭部を掻きむしりながら、清島は語った。
(了)
引用の引用
昼休み、第二美術室で
須田
茉利江
050
理不尽な、気がする。
一体どうして、世の中の誰が悪いという訳でもないのに、あ
る人間が身を切られるような苦い思いをするハメになるんだろ
う。まあ、この場合、私がその「ある人間」であって、だから
こそひどく理不尽な思いが募って仕方ないのだけれども。
「本当にごめん。矢崎の気持ちはすごく嬉しいんだけど、俺、
好きな奴がいるんだ」
布団の中で、もう一度あの時の彼の台詞をごもごもと反芻し
*****
矢崎佐和は、幼稚園から中学校までを、ある私立の女子校で
過ごした。中高一貫校というエスカレータから降り、受験勉強
をして共学の公立進学校に入学したのには、それなりの理由が
あった。
別に女子校でのいじめが陰湿だった訳でも、構成員の変わら
ぬ閉鎖的空間に嫌気が差した訳でもない。ましてや出会いが欲
しかった訳でもない。彼女が、長い付き合いの友人らとの別れ
を惜しみながらも、受験の道を選んだのは、ひとえに志望大学
の指定校推薦枠の存在だった。その学校でコンスタントに学年
てみる。
凡庸だ。
といっても、県の内外から優等生が集まるその高校では、かな
二十位以内にさえ入っていれば、
入学は約束されたようなもの。
しい。そうして、こんな使い古された言の葉に、ずっと泪が止
りの努力を要するものであったのだが。
一字一句、あまりにも凡庸で安っぽく、薄ら寒くて馬鹿馬鹿
ま ら な い 私 だ っ て、 あ ま り に も 凡 庸 で 馬 鹿 な 存 在 に 思 え て く
る。時計を見ると、蛍光塗料を塗られた針が示すのは、午前三
通算九時間近く泪をこぼしていたのに、ちっとも水分が枯れ
し、
夢追い人の実感こそ、
彼女の矜持だった。所謂友人らの「恋
て、それは望み通りの生活に他ならない。彼女には夢があった
勉学の為に入った高校。
大学進学を軸にした生活。佐和にとっ
ないのは、きっと夕食代わりにミルクティなんて飲んでしまっ
バナ」は楽しく拝聴するが、自分のこととなると時間の無駄と
時二十八分。
たせいだろう。
しか思えなかった。しかしまた学業に精を出す一方で、悪くな
昼休み、第二美術室で
051
い容貌や物怖じしない性格から、
男女問わず人気のある自分を、
少なからず誇りに思っていた。
矢崎佐和は、そんな少女らしい幼稚な高慢さの残る、優等生
だった。
*****
採光性の高い大きな窓硝子。その硝子越しに葉桜の影がざわ
ざわ揺れる、日差しの強い昼休みの美術室。
「ヨーケン?」
ああ、洋画研究会のことか。会員数の減少及び美術部との兼
合いにより、存続が疑問視されているっていう。口に出してみ
てから気が付いた。
「先生ご自慢の優等生、矢崎さんでもご存じないか。我が弱小
洋画研究会は」
自嘲的で不躾な言い方。でも不思議と嫌悪感は少なかった。
この感覚は、何と言うか、かつて何処かで誰かに言われた時の
ような。
「ちょっと、やめてよ。知ってるってば。私は帰宅部だけど、
佐和は、前方の視界を遮る程の、自分の身の丈半分以上の高
さの直方体を両手で抱え、その空間へと戻った。
去年文化祭の展示を観に行ったもの」
すっかり教室に戻り辛くなったこの状況だが、佐和は馴染み
描いてるの?」
「少しだけ。それより、寺島君っていつも昼休みはここで何か
「へえ、絵、好きなのか」
「先生、ゴミ捨ててきましたー。……え?」
突然今までの重量感がなくなる。
「お疲れさん。先生はもう昼飯食いに職員室に行ったからさ」
逆光の中、
眼前に現れた長身の男子……と思しき大柄な人影。
寺島清一と矢崎佐和が初めて言葉を交わしたのは、その時だっ
のないクラスメイトに一抹の興味を抱いていた。この機会に、
「一応会長だからな。まあ、文化祭直前以外には誰も来やしな
た。
面食らいつつも、呼び慣れないクラスメイトの名を挙げてみ
いんだけど。自由気ままさが売りのヨーケンですからねえ」
話してみるのも面白いかもしれない。
る。彼はゴミ箱を片付けながら、ああ、俺はヨーケンだから、
「ほとんど一人で?」
「あ、ありがと。寺島君……だよね?
教室に戻らないの?」
とからりと答えた。
昼休み、第二美術室で
052
「いや別に」
「寂しくない?」
「まあ」
「は?」
「ねえ、私もここでお昼食べてもいいかな」
「……」
「老け顔っぽいし?」
「誰がいようといまいと、関係ないんでしょう?」
は何言っているんだ、とでも言いたげに。
彼女を見つめた。無礼な言葉をぶつけた二の句に、一体コイツ
清一はパレットナイフを右手に持ちながら、間の抜けた顔で
「一人が、好き?」
佐和が神妙な面持ちで尋ねると、彼は用具準備の手を休め、
げらげらと笑い出した。目尻に出来る皺が、端正でやや神経質
そうに見えた顔立ちに温かみを添える。
「違う違う。そんなクールなキャラに見えないだろ?
放課後
だけじゃ、制作時間が足りないから居るだけだって。誰がいよ
になった。グループの友人らとの他愛ないさえずりは、昼休み
その翌日から今日まで、佐和は美術室で昼休みを過ごすよう
あまり効率良くないんだけどな。特に油絵描きにとっちゃ」
以外の時間でも十分だ。幸い、彼女たちは嬌声をあげて佐和を
うといまいと関係ないさ。どっちにしろ、
短い昼休みだけじゃ、
「ふうん、今時の男子高校生にしちゃ、少し達観してる気がす
送り出してくれた。まさか佐和が ‘
おとーさん〟みたいなのが
タイプだったなんて、などと囃しつつ。
る」
思い出した、この感じ。この話し方。この男、確かにあの男
ガララッ。
していた。絵の具の成分なんて解らないが、きっとここでお弁
に似ている。
ているよね?」
当を食べるのはたいそう身体によろしくないことだろう。ただ、
佐和が扉を開けると、いつも先客による油絵具の匂いが充満
「……ああ、
変なとこだけ知ってんな。
立振舞やら発言が父親っ
不愉快な油絵具の匂いすら、目に見えぬシェルターのように感
「そうだ、寺島君ってたまに男子に ‘
おとーさん〟って呼ばれ
ぽいんだと。つまりオヤジくさいってことじゃないか?」
昼休み、第二美術室で
053
じられるのは何故だろうか。
何だ、気付いたんじゃないのか。佐和はほっとしながら、慌
そして自分が熱心に鉛筆を走らせていようと、物思いに耽って
室。密閉された部屋の癖に、何故かそこには開放感があった。
「ああ、今は写実をやりたいんだ。自分の画風を確立させる前
もちょっと地味なんじゃない?
画題も静物ばかりだし」
「どう、って……。優しくて、静かで私は好きだけど。あ、で
てて取り繕う。
い よ う と、 気 に も 留 め な い 落 ち 着 き す ぎ た 男 の 存 在 が 心 地 良
に、俺は土台が出来ちゃいないから。今はなるたけ基本に忠実
限られたクラスしか使用することのない、狭苦しい第二美術
かった。
に描いときたい」
清一の横顔を盗み見る。こっそり思う。私とこの男は、多分同
ふと奥の席で、林檎やら馬の頭蓋骨やらを、じっと睨んでいる
だとか。特にドラクロワの芸術への衝動とも……」
だ。ジェリコーだとか、ドラクロワだとか、アイワゾフスキー
「他人(ヒト)の絵はさ、結構激しいのが好きだったりするん
「そうかな、上手だと思うけど」
類だ。高校生が昼休みに群れもせず、かと言って怯えもせずに
「へえ、なるほどね。よく知らないけど」
さて、次はこの間の模試の解き直しでもしようかな。佐和は、
堂々と一人でいるなんて、この世界では罪に決まっている。と
は思わず苦笑する。
まだ語り足りない言葉を悪びれずに遮る奔放な少女に、清一
いる紅いねちゃねちゃしたものは、あの林檎に塗る為の猛毒で
「矢崎は?
シャガールとか、マグリットとか、ルノアールと
すれば私たちは共犯者で、先刻から彼がパレットの上で練って
……。
か、その辺か?」
こちらを向いた。彼は、勉強が忙しくなければちょっと訊いて
自分の下らない想像が見透かされたのだろうか、清一は突然
かって意味じゃなくて、精神の高潔って言うか、清廉って言う
「……いいでしょ別に。単にキレイな絵が好きなの。きらびや
「おいおい、えらく時も所もバラバラだな。というか、渋いな」
「私は……松本竣介と、ユトリロが」
みたいのだけど、と前置きしてから続けた。
か。
『画家の像』って絵、知ってる?
特に竣介ではあの絵が
「あのさ」
「俺の絵さ、どう思う?」
昼休み、第二美術室で
054
「で、それを自分自身に重ねている」
やるって感じがして」
好きなの。無秩序の汚い世の中だけど、自分は誇り高く立って
も。
はいたが)そして、それが自分にとって耐え難いということに
を感じていた。
(本来は彼女こそが部外者であることも知って
いずれにせよ、私も彼も進級して受験生になれば、この穏や
かな場所に居られなくなる。その前に、確保しなくては。ただ、
「……」
「悪い悪い、変な意味じゃないんだ。矢崎らしいと思ってさ。
それだけだった。同じ空間に居たというだけで、同類だと思い
*****
傷付く準備なんて、していなかった。
込んでいた。だから、告げた。
でも勇ましいな、
俺はあんなに自己主張の強い絵は描けないよ」
清一の真顔が人懐こい笑顔に変わる。
「 ——
矢崎はさ、何の為にガリ勉してんの?」
「 笑 わ な い で よ?
○ 大 学 に 行 き た い の。 検 察 官 に な り た く
て。ほら、○大学って、法律関係が強いし、法科大学院もある
それなのに。
し……」
「笑ったりなんかしないって。矢崎にピッタリだと思う。いい
まさか ‘おとーさん〟に好きな人が居るなんて。何故だか、
呟いて目を閉じた。
「……気持ち悪い」
とてつもなく不潔。
夢だ、頑張れよ」
「 ——
寺島だって、今年出品するつもりのコンクールがあるん
でしょう?
もっと、口じゃなくて手を動かしなさいよっ」
どうして全部解ってしまうんだろう。
共犯者だからだろうか。
‘おとーさん〟だからだろうか。熱い頬を押さえながら、佐和
は少し緩んだ口元を隠した。
そして、文化祭を一月半前に控えたある日。佐和はこの小さ
なアジトにも、これからは頻繁に他人がやって来るだろう気配
昼休み、第二美術室で
055
*****
廊下が、
曲がりくねっている気がする。眠いような気がする。
……?
——
言っている意味が解らない。
「ただ、
矢崎のこと、
人間として好きだっていう気持ちは嘘じゃ
「俺は矢崎の気持ちに応えてやれない」
速やかに帰宅して泣いていたい。心の中で、膿が出尽くすま
ない。嘘じゃないけれど、言葉にすると、嘘みたいだろ。どん
五感が鈍い。ふらふらと足を一歩一歩地につける。結局、昨夜
で彼を罵倒していたい。どうせ学校に居たって、授業なんて今
な奴にだって、一秒で言えるだろ。だから、俺に出来ることっ
「……」
日は頭に入らない。矢崎佐和、今日の課題は寺島清一に出くわ
て言ったら」
はほとんど眠れやしなかった。
さないこと、それだけ。
「同情のつもり?
馬鹿じゃないの。振った女の子に、情けを
かけて楽しいの?
寺島はいいわよね。傷付かない安全地帯で
キ レ イ ご と ば か り 言 え て。 ど う せ 優 越 感 に 浸 っ て る ん で し ょ
そう思っていたのに、
顔を上げて愕然とした。何でわざわざ、
追いかけて来たりするの。
う?
自惚れないで。もう放っておいて」
行かなくなった理由は、文化祭が近づき、居づらくなったとい
友人らに何があったかを説明するのも億劫だ。急に美術室に
性格を知ってか、もう謝ることはしなかった。
清一は哀しそうに少し顔を歪め、黙って立ち去った。彼女の
醜いものが詰まっていたのか、と愕然とする。
佐和は早口で一気にまくしたてた。自分の心の中にはこんな
「矢崎」
止めて、貴方は一言だって発しちゃいけないの。私が哀れに
なる。惨めになる。苦しくなる。私のこのやっかいな性格を、
知らないなんて言わせない。だから……。
しかし、ぐっと俯き、教科書を抱きしめた佐和に与えられた
言葉は、全く予期せぬもので。
「俺さ、絵ェ描くよ」
昼休み、第二美術室で
056
が付かないふりをしてくれる彼女たちに、ひたすら感謝した。
うことにしておいた。自分が軽視したにも関わらず、失恋に気
「ねえ、もういいよ」
「二枚描けばいいだろ?」
「何が」
とでそうしてきた気がする。でも、手遅れだ。私と彼は同じと
何時だって自分の意のままにならないものは、努力で越えるこ
「だって、最近ずっと描いてるんでしょう?
授業中もぼうっ
「解って欲しいのは、そこじゃあないかな」
に、解ったから」
「もう寺島が真面目なのは解ったから。だから休んでよ。本当
いう認識が、もう脳の奥深くにこびりついてしまった。私が私
としてるし。そんなに気合い入れてどうするの」
忘れよう。いっそ憎んでしまおう。むしろ蔑んでしまおう。
を憎み蔑んだら、一体どうやって生きていけば良いだろう。
「矢崎にやるモノだから、ちゃんと描かなきゃ失礼だろ」
「誰も欲しいなんて言ってないけど」
清一は急に真面目な声になった。変な男。こんな奇妙な失恋
*****
あれから一ヶ月近くが経過した。もう、傷は癒えたのかもし
話、友人からだって聴いたことない。佐和はそう思いながら、
「俺がやりたいんだって」
れない。清一とも、教室でクラスメイトとしての会話をするく
自分が取るべき態度を模索していた。
休みの第二美術室。
絵が完成した、との知らせが入った。集合は例によって、昼
「よお、出来たぜ」
*****
らいなら出来る。問題集に打ち込むことは、心の平静に少しば
かり役立ったようだ。誰かが作った問題には、必ず模範解答が
あったから。
しかし、今も清一は何かを描いているようで。一体どうして
終わりにさせてくれないのだろうか。
「文化祭、近いんでしょ。そっちを描かなきゃいけないんじゃ
ないの」
昼休み、第二美術室で
057
「はい、お披露目」
きの階段の踊り場で、自分の為だけに描かれた絵をもう一度見
二人がアジトで毎日見ていた風景が、ただ静かに佇んでいた。
具が塗り込められていた。幾重もの筆で、あの林檎も存在感を
そこには線の細いタッチながら、病的なまでにびっちりと絵
る。ここなら屋上の光が入ってよく見える。
「俺さ、この絵を描いている時ずっと、矢崎とのことだけ思い
際立たせられている。本当にお節介極まりない、私の為にこん
それは何の変哲もない絵であった。
小さなカンバスの中では、
出してた」
な時間をかけた絵を描くなんて。
迷いのない単調な筆の運びを見る。この一筆一筆が、彼の私
「おとーさん、何だか前より口が上手くなったんじゃない?」
「かもな。……もう、ここには来ないのか?」
謝や励ましも込められていると考えるのは、自惚れだろうか。
に対する、誠実で真摯な気持ちなのだろうか。そこに私への感
「そろそろ受験勉強に集中しなくちゃ。だから、もう行かない
劣等感だとか妬み恨みの残滓が、少しずつ消えていくのが解っ
清一は穏やかに尋ねる。
んじゃないかな。図書室に籠ると思う」
た。
分だけが辛くて理不尽だ、なんて。
時間は、痛みに耐える苦渋の時間だったかもしれないのに。自
を傷付け、卑屈にさせる痛みを想像したことが。長い長い制作
私は一瞬でも彼の痛みを考えたこと、あっただろうか。友人
「あっ」
佐和はふと気が付いた。
る。絵具の細かな反射が、清一の執念を物語る。
窓からの光がきらきらと揺れ、カンバスの表面を乱反射させ
「そうか、あんまり肩肘張りすぎるなよ。まあ、またゆっくり
したけりゃ来ればいいよ。待ってるからさ」
「うん、ありがとう」
何て果てしなくお節介で、失恋少女に対してデリカシーのな
い言葉。ついでに少々上から目線ときたものだ。でも、やっぱ
りこれでこそ、私が好きになった ‘
おとーさん〟だ。佐和は深
く安堵した。確かに失敗したけれど、私は決して間違ってはい
なかったんだ。
タッタッタッ。
カンバスを隠すように抱え、人気のない所へと走る。屋上行
昼休み、第二美術室で
058
もうあの場所に行くことはないだろう。
でも、また真直ぐ歩ける気がする。
今度はもっと肩の力を抜いて。
もしかすると、また誰かを好きになれるのかもしれない。
何の根拠もないけれど、そう思えた。
(了)
昼休み、第二美術室で
059
昼休み、第二美術室で
060
座談会@千葉
星(翔)
、小野本洋(小)
、福富平記(福)
山崎太陽(太)
、荒川史朗(荒)
、住田翔
しい集団。それは、
星裕一郎(以下、
星)
、
テープレコーダを乗せて長時間居座る怪
雑したファミリーレストランの卓上に
二〇〇八年二月十七日の昼下がり。混
て、読もうと思っているけど読んでない
言った「彩雲国物語」の続編を借りてい
荒
ま だ 読 ん で な い で す。 あ と は 前 に
星
まだ読んでない?
れたね」を買いました。
に な っ た 」 で す。 あ、 こ の 前、
「φ は 壊
読んだ本は、森さんの「そして二人だけ
という状況です。
の六人であった。
§1
自己紹介
1ー③山崎太陽
太
編集長の山崎です。森さんの「Gシ
太
では、自己紹介しましょうか。
翔
あと三冊出ます。
してるのか、よく分からないですけど。
1ー①星裕一郎
星
えんそく顧問の星です。最近は再読
太
そうなんだ。
でも最近出てないので、
リーズ」を六冊読みました。あれで完結
の期間に入っていて、岡嶋二人さんと島
森さんをお休みして、意識的に他の作家
太
うん、まだ。それで、村上春樹を何
「Xシリーズ」の略)は読んでない?
荒
「X」(森博嗣の長編シリーズの一つ、
さんを読んでいます。
田荘司さんのお二人を読んでいます。
1ー②荒川史朗
荒
荒川です。社会人一年目です。最近
座談会@千葉
061
荒
文体の事を言ってるんですか?
太
それなら納得できるかも。
らないけど。
チルドレンなわけでしょ?
詳しくは知
星
それに、
もっと言えばサリンジャー・
太
そうですね。
る可能性はあるよね?
星
一人が入れば、他も引きずられて入
太
そうですか?
星
まあ、そうなっちゃうのでは?
で すよ!
内の三人が、西尾・佐藤・舞城だったん
たった十人ですよ?
それなのに、その
十人くらいネットで紹介されていて……
「春樹チルドレン」として日本の作家が
たんだろうと思っていたんですが、主な
で村上春樹を読んだ時に新鮮味がなかっ
内にそういう人たちを読んでいて、それ
と呼ぶそうですが、僕はきっと知らない
を 受 け て い る 作 家 を「 春 樹 チ ル ド レ ン 」
冊か。最近驚いたのが、村上春樹の影響
すよね?
翔
「陽気なギャングが地球を回す」で
荒
「ギャング」は、すごく面白い。
太
他はもっと面白い?
の作品には劣る。
荒
うん、その通り。面白いけどね。他
出だしが一番良いまま終わった。
太
出だしが素晴らしかったです。
でも、
星
良かったよ、あれ。
坂幸太郎の「重力ピエロ」を。
ん(荒川史朗の実弟の真成)お薦めの伊
太
あ、そうだ。もう一冊だけ。まあく
星
そっかあ。
藤・舞城が挙げられるのかなと。
とは感じます。でも、どうして西尾・佐
太
悪 く 言 え ば ダ ラ ダ ラ 書 い て あ る な、
荒
へえ。
平易な文体で難しい内容を扱う事です。
としてよく言われるのが、
明喩の多用と、
太
それが分からないです。春樹の特徴
星
そうなんじゃない?
んでいて、作中のビルとか、場所が分か
太
東北大出身の友達が伊坂幸太郎を読
小
「重力ピエロ」も仙台ですよ。
荒
へえ、そうなんだ。
よく舞台を仙台にします。
小
でも、仙台だよね?
伊坂幸太郎は
星
「世界観」言い過ぎ(笑)。
観で!
なんですけど、読んだら入り込める世界
福
現実世界からかけ離れている世界観
荒
すごい興奮してる(笑)。
かけ離れてるのに!
福
世界観がもう明らかに現実世界から
界観」とか聞くと恥ずかしい(笑)
。
星
ふっくん(福富平記)の口から「世
しっかりしていて。
福
はい、あれは最高ですよ。世界観が
荒
「ギャング」より面白いの?
デュポンの祈り」が最高です。
福
「ギャング」
は大好きです。
でも「オー
太
ああ、あのシリーズか。
座談会@千葉
062
太
いや、鴨川とかでしょう?
かるよ。
星
僕も、西尾維新の作中の場所なら分
るそうです。
太
今のは太字だ(笑)
。
(一同笑)
小
(大声で)あれは良かったです!
んだから。
太
もっとハキハキ喋って。録音してる
声で)あれは良かったです……。
翔
「F」です。
太
「M」?
翔
きっかけは「F」です。
太
きっかけは?
翔
えんそくのお陰です。
荒
それは、えんそくのお陰?
(一同笑)
荒
誰でも分かります(笑)
。
星
いつもその発言は出るけど、太字に
1ー④小野本洋
太
「S」?
翔
「すべてがFになる」です(笑)
。
太
ああ(笑)。
ので。
行人の「暗黒館の殺人」が文庫化された
小
すごくヨガに嵌ってて。あと、綾辻
荒
小説じゃなくて?
近読んだ本は、ヨガの本を。
翔
前は、読んだ本を訊かれたら「サン
星
そうだね。
で、久々の座談会です。
業で、
来年から某損保会社に就職します。
翔
はい。住田翔星です。僕も今年で卒
荒
じゃあ、翔星。
て、 止 ま り ま し た。 そ れ で「 V 」( 森 博
と博士たち」の略)読んだら面白くなく
翔
次 に「 冷 密 」
( 森 博 嗣「 冷 た い 密 室
もあるのかなと。
星
ごめん。きっかけがあるなら、爆発
1ー⑤住田翔星
はならないよね(笑)
。
太
じゃあ次、小野本。
小
小野本洋です。本年で無機材料工学
星
あの上下巻の?
デー」とか「ジャンプ」とか言ってたん
嗣の長編シリーズの一つ、「Vシリーズ」
翔
きっかけは「F」で……。
小
そうです。
あれが文庫では全四巻で、
で す け ど、 小 説 を 読 め る よ う に な っ て
の 略 ) を 読 ん だ ら 面 白 く て 全 部 読 ん で、
科を修了して、来年から社会人です。最
今は三巻まで読んでます。村上春樹だっ
……。
そ れ で ま た「 笑 数 」
( 森 博 嗣「 笑 わ な い
星
爆発は?
た ら、「 世 界 の 終 り と ハ ー ド ボ イ ル ド・
星
おお。
(一同笑)
ワンダーランド」
を最近読みました。
(小
座談会@千葉
063
ズの一つ、
「Gシリーズ」の略)
「X」も
た。あとは「G」も(森博嗣の長編シリー
ここでストップというか、ちょっとお腹
翔
「 魍 魎 」 は 面 白 か っ た ん で す け ど、
星
「魍魎の匣」
。
星
一気に読んだの?
太
調子に乗った?(笑)
福
すみません、調子に乗りました。
荒
じゃあ、一冊じゃないじゃん(笑)
。
福
全部読みました。
読みました。
一杯になったんですよ。また今度読むと
福
いえ。月に一冊のペースで出るので、
「姑獲鳥の夏」と、次の……。
星
一 番 読 ん で る ん じ ゃ な い?
僕も
思います。あとは小野本の薦めてくれた
数学者」の略)に戻ったら全部読めまし
「 X 」 は ま だ 読 ん で な い。 ま あ、 他 の は
月の最初にブワーってツタヤに行って。
星
ブワー?(笑)
「葉桜」
(歌野晶午「葉桜の季節に君を想
読んでるけど。
うということ」の略)とか「 %の誘拐」
とか「ハサミ男」とか「流星ワゴン」と
太
「M」とか?
星
そう(笑)
。
か……。
福
面白いです。
福
で、買って読む感じでした。
太
あれが最高です。
星
おお、読書家だね。
荒
「戯言シリーズ」よりも?
荒
面白い?
小
「サイミツ」ってなんですか?
翔
えんそくのお陰です(笑)
。
福
ああ……、どっこいどっこいです。
星
どっこいどっこい?(笑)
太
じゃあ、福富。
うけど、悪いイメージがあるね。
太
恐らく本来はニュートラルなんだろ
1ー⑥福富平記
荒
「レイミツ」
。
星
惜しい(笑)
。
荒
「冷たい密室と博士たち」の略称。
翔
うーん……。
福
福富です。今は修士一年で、就活中
星
ふ っ く ん、 昔 は 本 読 ま な か っ た よ
翔
それ、良い意味なの?
星
地味なんだよね。「F」
とかと比べて。
です。
最近は本を読んでないんですけど、
小
あまり面白くないんですか?
荒
普通の小説としては面白いんですけ
ね?
なんで読むようになったの?(笑)
(一同笑)
福
えんそくのお陰です(笑)。
去年に一冊だけ読んだ本が、西尾維新の
荒
シリーズ?
全部読んだの?
「刀語シリーズ」です。
ど、「 冷 密 」 の 森 さ ん 的 タ ッ チ は、 そ こ
まで好きじゃないです。
翔
あ、京極さんも読みました。最初の
座談会@千葉
99
064
福
でも本当に、えんそくがなかったら
§2
趣味の変化
翔
なるほど。
荒
だから、趣味ですよね?(笑)
星
いやいや(笑)。
俺は本読んでないですね。
荒
僕も、太陽がいなかったら本読んで
翔
上手いんですか?
星
手で回し始められるよ。
荒
森さんを知ってる方もいらっしゃっ
星
そうなんだ。
識も大事ですね。
になりました。社会人になると、本の知
白いって思ったから、それから読むよう
から読んでみって言われて、読んだら面
しか趣味がなかったのね。
星
僕は……ない。そもそも数学と読書
太
うん。
荒
本とは関係ないよね?
りませんか?
太
じゃあ、なにか新しい趣味とかはあ
荒
一周したね。
太
暗い(笑)。
荒
趣味は数学とパワーボール。
星
いやいや(笑)。
味はパワーボールという事で。
太
すごいですね。じゃあ、星さんの趣
2ー①星裕一郎の場合
ない。
翔
僕もです。
て、職場とかで付き合いの幅が広がるの
荒
パワーボールは?(笑)
太
荒川は?
翔
紐なしで?
で、 大 事 な 事 な ん だ な と 実 感 し ま し た。
翔
あれ?
なんでパワーボールを知っ
荒
高校時代の仲間と毎週テニスをやっ
荒
太陽が西尾維新を読んでて、面白い
そういう意味でも、えんそくはやってて
てるんですか?
ています。それが一番変わった事かな。
太
僕は学生時代も運動はしていたけ
2ー③山崎太陽の場合
2ー②荒川史朗の場合
良かったです。
荒
太陽がつっちー(えんそくメンバの
土田晃大)の家に持ってきて、僕も星さ
んもつっちーの家でやって回せなくて悔
しくて、買って家で練習して回せるよう
になった。
座談会@千葉
065
うになりました。ジムは効率良く筋肉を
ど、社会人になってからはジムに行くよ
小
メタファです。
ろうって思ってた(笑)
。
つっこまず流れたけど、なんだったんだ
荒
どんなまとめ方だよ(笑)。
2ー⑥福富平記の場合
太
じゃあ、福富。
福
趣味はゲームですね。ちょっと昔は
ニンテンドーDSをやっていたんですけ
ブヨ系だよね」って言ったら「柔軟系で
荒
昨日、お風呂で小野ちゃんに「ブヨ
いちな反応だね(笑)
。
星
ジャストな表現だと思うけど、いま
小
そう……ですね。
太
医者の不養生みたいな感じ?
かしいなと思ったんで。分かります?
くのに、自分の体がボロボロなんて恥ず
でかっていうと、骨とかを作る仕事に就
翔
はい。北海道で美味いイクラを食っ
太
イクラって美味しいのは甘いよね?
翔
寿司屋に行った時です。
太
どういう時に食べるの?
した。
くて。だけど最近は嫌いじゃなくなりま
翔
イクラ、ウニ、明太子が好きじゃな
荒
キャビアとか?
の食べ物があまり好きじゃなくて。
翔
僕は昔から、しょっぱい小さい粒々
福
そうですね。間違いないです。
まり、よりアキバ系に近付いたって事。
うな感じで、DSは広く誰でもやる。つ
荒
PSPは基本的にはゲーマがやるよ
太
どう違うの?
(一同失笑)
PSPになっちゃったんですよ。
2ー⑤住田翔星の場合
(一同笑)
太
違う。
鍛えられて良いです。以上です。
2ー④小野本洋の場合
小
さっき触れたんですけど、趣味の変
す」って言ってたのは、ヨガを始めたか
て か ら、 食 え る よ う に な っ た と い う か、
ど、 最 近 ち ょ っ と 趣 味 が 変 わ り ま し て 、
らって事?
美味さが分かったというか。
化という事で、ヨガを始めました。なん
小
そうです。
太
じゃあ、趣味は回転寿司ね。
(一同笑)
荒
ああ、やっと意味が分かった。誰も
座談会@千葉
066
§3
案西君について
太
変態だな(笑)
。
て。
かのベジェ曲線を頭でイメージしてるっ
太
そうだね。
いんだ。
てるくらいじゃ、絶対に挨拶したりしな
荒
でも案西君は、バレーでちょっと話
すだけなのに、コンビニとかで会っても
と、既存のフォントをその環境で使える
例えば携帯電話の新しい機種が作られる
太
新 し い フ ォ ン ト も 生 ま れ て る け ど、
んですか?
小
今あるフォントに改良の余地がある
うためのソフトを作ってるようです。
フォントは作ってなくて、フォントを使
社に勤めています。ただ、案西君自身は
太
そうですね。フォントを作ってる会
星
フォントを作ってるんだよね?
小
案西さんってなにしてるんですか?
荒
え?
いなかったらまずいな。
でも、
太
案西君もいたの?
だったよね?
育のバレーボールが一緒で、太陽も一緒
荒
僕は大学一年の時に会っていて、体
友達」という認識でした。
んだなあと。だから「荒川とつっちーの
てきたのが案西君で、珍しい人がいたも
張していて、実際にそうで、それで連れ
つっちーは数学科に友達がいないって主
星
第一印象というよりは……、荒川と
荒
そうだ。
案西君の第一印象を言おう。
一回顔を合わせて、次に会った時には既
年 か な?
そ れ ま で は 一 切 知 ら な く て、
京都に行ってからなんだよ。案西君は四
い?
案西君と初めて会ったのは、僕が
星
言 い 忘 れ て た ん だ け ど、 言 っ て 良
てくれて、それで仲良くなったんだ。
な感じだったんだ。でも気さくに挨拶し
荒
確かロン毛で、すごく勉強してそう
荒
間違ってたら案西君に謝ろう。
太
本当に?
翔
ロン毛?
親しみが持てた。当時はロン毛で……。
3ー②第一印象
ようにソフトをカスタマイズするらし
確かいた(笑)
。
にうちに泊まりにきたんだよ。院試かな
3ー①お仕事
い。正確な所は知らないけどね。
太
へえ。
にかで。
「 お う 」 っ て 言 っ て く れ た ん だ。 だ か ら
翔
この前、案西さんに、暇な時はなに
荒
で、東工大の人って、ちょっと知っ
(一同笑)
し て る ん で す か っ て 訊 い た ら、
「あ」と
座談会@千葉
067
プな趣味をお持ちで、音楽にも詳しい。
て。良い意味で変態というか、
結構ディー
太
でも段々と変態っぷりが見えてき
星
ああ、分かる。
太
外見は狐目?
荒
はっちゃけた?(笑)
。
ドライな人だなと感じた。
ちゃけた二人(荒川と土田)と比べると、
川の友達の人」という認識で、このはっ
太
そ れ は 覚 え て な い( 笑 )
。 僕 も「 荒
荒
体育一緒だったよ。
めて会ったのが四年の時。
太
僕は同じ学年で同じ学部なのに、初
荒
滅多にない展開ですね。
星
しかも二人きり。
たのは泊まりに来たんですね。
荒
それしか話してないのに、次に会っ
星
いや。一言、二言。
で すよね?
荒
一回目に話したのって一時間くらい
(一同笑)
小
世捨て人?
君を端的に表したね(笑)
。
荒
一番知らないはずなのに、一番案西
星
なるほど。
サッパリしてるし、実家にも帰らない。
小
世捨て人っぽい。考え方も理論的で
荒
俗世に興味がなさそうだよね。
した。サバサバしてるというか。
小
見た目は数学科っぽいなあと思いま
星
実家に帰らないキャラ?(笑)
強いです。
帰ってない」って言ってて、その印象が
会って、その時に案西さんが「実家には
すね。多分えんそくの打ち上げで最初に
サークルも違うし、全然からみがないで
小
僕 は 学 科 も 違 う し、 学 年 も 違 う し、
に行った事があります。
荒
あ、僕、案西君が主催してるライブ
星
ライブにも定期的に行ってるの?
聴いてる。
荒
そんな仲良いんだ?
誘ってくれました。
るんです。サッカー観に行こうよ、とも
どのラーメン屋が美味いとかメールくれ
ロ グ に、 例 え ば 博 多 に 行 く っ て 書 く と、
翔
読書マラソンを開催したり。僕がブ
荒
ライブを開催したり。
動力もあります。
翔
あとは、面倒見が良いですよね。行
荒
世捨て人だからね。
翔
影響されないって事ですかね?
かすら考えてないと。
てないと思う。変える必要があるかどう
荒
いや、逆なんじゃないかな。気にし
て感じで。
翔
徹底してますよね。絶対変えないっ
星
ああ、訛ってるね。
に会って、方言を喋るじゃないですか。
んに勉強を教えてもらってたら案西さん
翔
僕は数学科学生室で荒川さん土田さ
(一同笑)
荒
そうだね。邦楽も洋楽も色んなのを
座談会@千葉
068
荒
そう、スッと来るよね。しかも、そ
いう意識がそもそもないのかも。
離の詰め方が……いや、距離を詰めると
急に泊まりに行ったし、つまり人との距
人で飲む事になったし、星さんの家にも
カーに誘われたんでしょ?
僕も急に二
太
そこまで仲良くないのに、急にサッ
翔
そんな仲良いというか……。
福
嘘です。
翔
え!
そうなの?
福
「アンポン」
「ヒロポン」の仲です。
荒
でも
「アンポン」
って呼んでるよね?
そんなでもなく。
があったんですけど、でも皆と比べたら
てのが第一印象です。それから付き合い
の時に案西さんに会って、勉強家だなっ
取っていまして、幾何学第二かな?
そ
い順序はどうなの?
星
ところで、この中で案西君と仲が良
荒
で、ジーパン。脚が長い。
小
夏場はTシャツですよね。
太
オレンジ言い過ぎ(笑)。
翔
オレンジ!
太
モコモコは言い過ぎた。ややモコ。
3ー④仲の良い順序
れ が 不 快 じ ゃ な い ん だ。
「ほほう」って
(一同笑)
荒
一位は太陽でしょう。
星
まあ、そうだろうね。
星
ふっくんと荒川を超えて翔星君?
3ー③服のイメージ
感じ(笑)
。
翔
「ほほう」ってなんですか?(笑)
太
分かる(笑)
。
太
案西君の服のイメージって、オレン
荒
僕は最近はからみがないですね。
荒
二位は翔星?
翔
どっちが「ほほう」って言ってるん
ジですよね?
星
分かるね(笑)
。
で すか?
福
僕も、そこまで仲良いって感じじゃ
と比べると。
荒
オレンジ!
(一同笑)
星
二位は分からないね。少なくとも僕
星
僕ら。
れたら「うわあ!」ってなるのに、案西
太
オレンジのモコモコ。
は、案西君に飲みとかライブとか一切誘
ないですね。太陽さんと案西さんの関係
君だと「ほほう」
(笑)
。
荒
いや、モコモコは分からない。
われた事がない。
翔
オレンジ!
オレンジ!
太
正に、そう。プレッシャがない。
翔
オレンジ!
荒
普通、いきなりパッて目の前に来ら
福
僕は学部一年の時に三年の授業を
座談会@千葉
069
荒
「ほほう」で。
翔
皆、一緒の所まで詰め寄られる。
太
段階というのがなくて……。
星
そうかも。
が急に来るからじゃないですか。
やって順序が分かりにくいのも、案西君
太
今聞いてて思ったんですけど、こう
(一同笑)
てるんでしょうか?
福
僕も誘われた事はないです。嫌われ
星
ああ、そうかな。
太
年上だからじゃないですか?
荒
私小説の定義はなに?
適当に書い
小
あれは、私小説です。
リかどうかは微妙だけど。
星
そ う、 そ う。
「ハムの女」がミステ
荒
小説が嫌いな人でも読めるように。
の小説だと思う。
星
えんそくで一番ポピュラなのは荒川
太
あ、そっか。
星
荒川のもミステリだよね?
と、星さんだけがミステリでは?
太
純文学かミステリかって大別する
星
僕が違うの?(笑)
では?
太
はい。むしろ、星さんが皆と違うの
君に近いとは思うけど。
星
そうなっちゃうんだろうけど。
太
いつもとは違いましたね。
馴染みのあるタイプの小説だった。
い う か、 分 か る っ て 変 な 言 い 方 だ け ど、
レーで初めて案西君の小説が分かったと
か れ て い る か ら 分 か ら な く て ……。 リ
るけど、案西君は僕の知らない世界を書
星
でも、太陽君のはまだ分かる気がす
太
理解しようってのも違いますが。
星
そう。
太
読んでも理解できた気がしません。
るのかも分からない。
も案西君のはそうじゃなくて、いつ終わ
て、苦悩して、最後に犯人が分かる。で
くて、簡単な訳よ。最初に事件が起こっ
よく分からない。僕は推理小説の方が多
3ー⑤作品
(一同笑)
た小説?(笑)
星
えんそくの小説の中では、他の人と
星
僕、案西君が書かれてるような小説
太
僕と案西君はいつも私小説ですね。
楽しいです。
僕とは違う視点から書いていて、最高に
く 面 白 い と 思 い ま し た。 同 じ シ ー ン を、
太
僕は、案西君のリレー小説はすっご
違う。ジャンルというか。
を、つまり読まれてるような小説と同義
福
僕は、太陽さんの小説が一番好きで
(一同笑)
太
そうですか?
だと思うんだけど、あまり読まないから
太
案西君の作品について話そう。
星
まあ、誰に近いかって言えば、太陽
座談会@千葉
070
太
おい!
福
最初のしか読んでませんけど。
太
あ、本当?
すね。
星
「ドッカン」が分からない(笑)
。
たんですけど。
太陽さんだけが持ってる特徴だと思って
翔
そ う で す か?
「ドッカン」は唯一
荒
「ドッカン」みたいな所も一緒だ。
星
判定できないね。
メージが植え付いてるから。
し ょ う か?
で も、 も う 明 る く な い イ
翔
そうです。
に、二人は互いに似てる?
太
太陽似も案西似もあまりいないの
いんです。その割には、二人は似てる。
翔
二人に似てる人間ってあんまりいな
太
理解、理解(笑)。
カン」する。
太陽は全然しなそうなのに、突如「ドッ
荒
皆 は い つ で も「 ド ッ カ ン 」 し そ う。
3ー⑥山崎太陽と案西君
(一同笑)
荒
僕と翔星の共通認識です。太陽には
荒
太陽と案西君って、性格的に似てる
荒
勿論、
違う所は山ほどありますけど。
星
え、そう?
翔
確かに。分かります。
荒
例えば、昨日も飲んでて突如あんな
太
「ドッカン」ってなに?(笑)
荒
ああ、しないな(笑)
。
翔
案西さんは「ドッカン」しない。
通じゃない」の更に「普通じゃない」で、
荒
でも太陽の「普通じゃない」は、「普
いっぱいいるよ。
太
でも、普通でない人なんてここにも
そ、結果的に似てるってのもある。
荒
二人とも普通の人とは違うからこ
翔
太陽さんはなかなか、一般人から離
……(正拳突きのジェスチャ)
。
うちらは「普通」寄りの「普通じゃない」
「ドッカン」がある。
れ気味じゃないですか。
太
テンションが高くなる事?
なんだ。
よね?
荒
そう、間違いなく世捨て人だよね。
翔
いや、もうたがが……。
翔
そう、そこに収まってます。
0
翔
ほら、もう一緒。
荒
外れるんだ。
0
太
それだけ?(笑)
荒
星さんは「普通じゃない」の真ん中
星
なんでやねん(笑)。
くらいにいますけど。
翔
バーン!
太
誰でも「ドッカン」するでしょ?
(一同笑)
荒
あと、パッと見、全然明るくない。
星
どっちが?
荒
あ、太陽ってパッと見は明るいんで
座談会@千葉
071
があるじゃないですか。
小
でも、異常な人ほど、色んなタイプ
翔
正にその通り。
荒
右同士。
翔
で、案西さんも一番右。
太
右?(笑)
翔
はい、そうです。
太
で、太陽は
「普通じゃない」
の一番右。
翔
普通に非常識(笑)
。
荒
意外!
ふっくんは「普通」だ。
翔
でしょ?
荒
あ、
「常識的じゃない普通」だ。
……「普通」か?
翔
ふ っ く ん は「 常 識 的 」 じ ゃ な く て
福
ちなみに俺は「常識的」ですよね?
すよね?
どちらが平均的かです。
た ら、
「 常 識 的 」 は「 普 通 」 で は な い で
りし過ぎだよ。
荒
結婚についてって言っても、ざっく
太
お、良い事言うね(笑)。
小
結婚について話しましょう。
4ー①星裕一郎の場合
§4
結婚について
荒
勿 論、 軸 は 色 々 あ る。 で も「 普 通 」
荒
非常識で、アホだ。
星
それに、結婚記念号だから結婚につ
ついて話していく事になるよね。
(一同笑)
軸に投射して横だけで見た時に、二人は
似てる。
こ こ で、 用 事 が あ る た め 福 富 が 帰 っ た。
荒
でも、結婚観っていうのは、変わっ
いて話すのであれば、今後も毎回結婚に
で、案西さんは
「普通じゃない冷静」
です。
決して、非常識でアホと言われていじけ
てくと思うんですよ。
翔
太陽さんは
「普通じゃないドッカン」
星
なるほど。
て帰ったのではない。
翔
「俺は絶対結婚しない」って言って
荒
星さんは自分の事、普通だと思って
ますか?
たのに、次に結婚してたり。
星
ごめん、僕はどちらでもない。結婚
緒に言おう。
したいか、したくないか、その理由も一
荒
そういうのも面白い。じゃあ、結婚
星
極めて常識人です。
(一同笑)
翔
常識とは違います。
常識は知識です。
「常識的」は「普通」じゃないんです。
荒
平均で「常識的じゃない」
人が多かっ
座談会@千葉
072
思ってる。どちらかがトータルでマイナ
だ か ら、 結 婚 し て も し な く て も 良 い と
しないのとで、
どちらがプラスかはない。
はプラスだよね。ただ結婚するのと結婚
るファクタはマイナスで、あるファクタ
星
色んなファクタがあって、当然、あ
しれないですよね?
荒
でも、マイナスの方向に変わるかも
星
どういう生活をするかに依存する。
事はプラスですか?
荒
変わっても良いんですか?
変わる
るでしょ。
星
なんで今の話でそうなるの?
変わ
とかはあまり変わらないですか?
荒
じゃあ、結婚しても今の自分の生活
いとか、そういうのはない。
したいとか、子供が欲しいから結婚した
はある。例えば、老後が心配だから結婚
ど、この人となら結婚したいと思った事
したいとも、したくないとも思わないけ
荒
そうですね。
ないよね?
きて、マイナスの方が多かったら結婚し
星
結婚におけるそういう総量を計算で
荒
ああ、なるほど。
婚しないって事だよね?
イナスの総量の方が多かったら絶対に結
星
だよね?
でも、今言ったのは、マ
と思います。
だろうなって思って結婚する人が普通だ
はいます。結婚したら楽しい事ばっかり
荒
マイナスの方が多くても結婚する人
星
なんで?
翔
うん。
荒
それは絶対に違うと思います。
星
そりゃそうでしょ。
ですか?
で、マイナスの方が多ければ結婚しない
イ ナ ス 要 素 が 多 い な と か 考 え ま す よ ね。
荒
結婚すればプラス要素が多いな、マ
う決定するじゃん。
だったら、しないと思います。
小
相手が自分の事を負担に思ってるん
ても良い?
星
相手に負担だったら、してもしなく
ばしても良いのかなと思います。
いともなくて、相手に負担にならなけれ
的じゃないんですよ。だから、特にした
小
僕は恋愛などにおいて、あまり主体
少ないと思います。以上です。
せだと思っています。結婚して困る事が
老後の問題もあって。二人でいる方が幸
とという事もなく。寂しがりやなんです。
翔
昔から、僕は結婚したい方です。誰
はどっちでも良いと思う。
星
総量は計算できないんだ。だから僕
4ー③小野本洋の場合
4ー②住田翔星の場合
スだったら、そっちを選ばないから、も
座談会@千葉
073
荒
なんとか結婚しようと説得しない
の?
小
そうですね。頑張ってそうならなけ
ね。もっとしっかり意見を持たないと。
をするじゃん?
ぼんやりするかな?
太
結婚したかどうかの事実は、はっき
りするでしょうね。
小
上げなければと思うんですけど、上
荒
え?
努力するって事?
上げなければなと。
小
そうですね。もうちょっとレベルを
まで努力する気はないんだ?
荒
どちらかと言えばしたいけど、そこ
めます。
なると思うんですけど、相手が嫌なら諦
寂しがりやなんで、結婚した方が幸せに
小
はい、僕は受身ですから。基本的に
が提案したらするの?
星
どうなったら結婚するの?
向こう
小
あまり頑張らないですね。
荒
ああ、頑張りはするんだ?
いの境界も曖昧かなと。
曖昧になってる気がする。結婚するしな
付き合う付き合わないの境界って昔より
色 ん な 人 を 巻 き 込 む し。 だ け ど 例 え ば、
太
いや、
それなりに真剣だと思うんだ。
荒
「結婚してみようか」って事?
れども、もっとライトな……。
太
もう一つは、離婚が前提ではないけ
荒
所謂、真っ当な結婚だね(笑)。
当な結婚です。
たいなっていう相手がいて、つまり真っ
思っています。一つは、ずっと一緒にい
し た ら、 二 つ パ タ ー ン が あ る だ ろ う と
いと思います。で、もし僕が結婚すると
太
僕は、基本的には星さんの考えに近
適齢期ってありますよね?
そこで「結
太
じ ゃ あ 同 棲 し て い る と し ま し ょ う。
来ないじゃん。
星
クリスマスは必ず来るけど、結婚は
トに乗っかるだけです。
す。その時期を迎えたから、そのイベン
キンとか食べますよね?
あれと同じで
リスト教徒でもないのにクリスマスにチ
太
例えば、僕は食べませんけど、皆キ
星
結婚する必要ないでしょ?
ような仲で。
少なくとももうしばらくは一緒にいたい
じ ゃ な く て も 良 い ん じ ゃ な い か な っ て。
人の中では一生一緒にいようという結婚
太
境界はきちんとあるんですけど、二
りと結婚に突入できるかは疑問。
4ー④山崎太陽の場合
げるかは……。
星
付き合う事に関してぼんやりしたも
婚というイベントをやろう」と。勿論そ
星
それに周りを巻き込むから、ぼんや
荒
じゃあ、上げないんだ?
のがあるって賛成するけど、結婚は契約
れば仕方ないなって。
小
上 げ な い ん で す か ね?
駄目です
座談会@千葉
074
からない。
星
なんでそんな状態で提案するのか分
手に彼氏がいたりとか。
太
もっと極端な例で、僕の結婚する相
結婚は別。
星
それは、僕は太陽君に近い。子供と
い?(笑)
荒
え?
それは、別のパターンじゃな
太
もう子供もいるから、とかね。
てみよう、なら分かる。
うが結婚したがってるからプロポーズし
いけど少なくとも一緒にいたくて、向こ
荒
太陽はそこまで結婚したいと思わな
きるかは僕は疑問に思う。
ね?
その時に、ぼんやりとしたままで
い。やっぱり、どちらかが提案をするよ
星
言葉では分かるけど、想像はできな
るんじゃないかなと思います。
うな結婚が、もう一つの解としてありえ
んな事は言いませんけど、それに近いよ
翔
どっちですか?
幸せを避けて生き
太
僕が?
るために生きてるんですよね?
翔
それは幸せそうですか?
幸せにな
自信もないけど。
太
そうとは限らないよね?
維持する
ンは切れるんじゃないですか?
翔
結婚した時点で彼女とのコネクショ
ないんだから。
太
いや、知らないよ。そんな状況じゃ
方が一緒にいたいんですか?
じゃないですか。恋人よりも結婚相手の
翔
分かりません。彼女と別れれば良い
くない。紙切れ書いて出すだけ。
太
そうしたら、いつ結婚してもおかし
荒
今のでちょっと分かった。
としてそれくらいあるようなものです。
は思っていませんが、一番極端なケース
するとか。実際に自分がそんな事すると
のに一緒にいたい仲で同棲していて結婚
りませんが、互いにそれぞれ恋人がいる
きっとなにかあるんでしょうね。
荒
理 解 で き な い で す け ど、 太 陽 に は
太
そうですね。
せを少しでも見出せるからでしょ?
選択を許容できるのは、それに対して幸
星
誰にだって可能性はあるけど、その
翔
分からないのも分かりますけど。
太
今は想像できないが、可能性はある。
翔
じゃあ結婚しなければ良いのでは?
太
できない。
るって想像ができますか?
翔
そういう状況で結婚して幸せになれ
太
うーん……まあ、そうだね。
翔
でも、幸せな方を選びますよね?
翔
え?
太
でも、幸せって怖いね。
(一同笑)
星
そんな奴はいない(笑)。
ていく?
(一同笑)
太
今はそんな状況でないので僕も分か
座談会@千葉
075
荒
さっき星さんに、トータルでマイナ
星
面倒臭いなあ(笑)
。
荒
はい、でも多分するんです。
ドな理由だよね。
星
それは、したくない派のスタンダー
きるのが好きなんだ。
はそういうなんでも色々と好き勝手にで
荒
そう。マイナスが拭いきれない。僕
翔
マイナスのイメージがある?
荒
怖いに近いのかもしれない。
翔
変化が怖い?
トが非常に大きいと。
くなると思ってるんです。そのデメリッ
れます。でも、結婚したらそれができな
す。今は、やろうと思ったらなんでもや
ば、したくないです。今が楽しいからで
荒
結婚したいかしたくないかで言え
翔
その内結婚したいんですけど、それ
だから、するんじゃない?
荒
いつかは結婚しなきゃいけないもの
翔
うーん……。
のプラスは?
しくない。じゃあ、翔星に訊こう。結婚
荒
子供はいずれは欲しいけど、今は欲
翔
子供ができるとか。
プラスになる事なんて考えられる?
だって、付き合ってるのと比べて新たに
荒
今 の 彼 女 が ど う と か じ ゃ な い よ。
(一同笑)
だ。見えないんだ。
荒
そ う!
それを見てないからなん
あるはずで。
のマイナスを犠牲にしても良いなにかが
るような気がします。結婚する事で、そ
ですか?
マイナスのファクタだけ見て
翔
それはプラスになってるんじゃない
あるんです。
か。表面上マイナスに見えてもする事は
荒
やり辛くなる。例えば一週間で三日
翔
できます。
思うじゃん。それもできなくなる。
行って面倒臭いから帰るのやめようって
荒
こ う い う 旅 行 も そ う。 普 段 飲 み に
ですか?
小
例えばどういう事ができなくなるん
だと思ってる。捉え方の違いなんだ。
荒
僕は、結婚はお互いに制限するもの
翔
そうですね。
れで安心できると思ってるんだ?
荒
結婚はお互いに約束するもので、そ
安心だからです。
翔
そうですね。お互いに約束した方が
不安だから?
荒
なんで約束するの?
約束しないと
婚をするんです。
です。一緒にいるための約束として、結
るんだったら、別に結婚しなくても良い
すよ。もし結婚しなくても一緒にいられ
以前に一緒にいられたらそれで良いんで
4ー⑤荒川史朗の場合
スでも結婚するって言ったじゃないです
座談会@千葉
076
は 七 十、三 十 く ら い。 い つ か 逆 転 す る と
いのが百、したいのが〇だったのが、今
婚したくなってるんです。結婚したくな
かってきてるから、昔よりはちょっと結
見つからないんです。でも、徐々に見つ
荒
方法はあると思うけど、今探してて
騒ぎされたら(笑)
。
星
その方が嫌だよ。三日間ドンチャン
例えば、うちで飲み会するとか。
翔
改 良 の 余 地 は あ る と 思 う ん で す よ。
う。今までの生活ができなくなる。
飲んで帰らなかったら怒られるのって思
もできなくなるのが気持ち悪い。なんで
飲んで三日オールする。これがひとつで
太
僕はしないと思う。ただ、もしする
(一同笑)
星
だから……。
小
したいです。
想としては、結婚する?
荒
結婚しない事は考えてないの?
予
ので、そうすると三十過ぎるかな。
かりしてから僕に乗っかってきて欲しい
いんですよ。
だから向こうにも、
僕がしっ
どうなるか分からない人って信用できな
小
僕は、ギャンブラみたいな、明日が
太
願望じゃなくて予想として?
小
するなら三十過ぎてからですかね。
翔
二年後くらいですかね。
ら、いつ結婚すると思う?
荒
ジャストですか?
星
じゃあ、三十で!
ますよね?
荒
前ですか?
後ですか?
大分違い
星
まあ、三十前後ですかね。
荒
いつぐらいですか?
する。
星
分かんないけど、まあ結婚する気は
太
はい。
間違いなく客観でなく主観だよね?
星
太陽君が断っていたように、これは
らいです。以上です。
荒
なんだかんだ言って、翔星と同じく
荒
僕はすると思います。一年から二年
うる。以上。
星
今後もよろしくお願いします。
かメッセージを。
太
じゃあ皆さん、最後に案西君になに
§5
案西君へ
(一同笑)
思います。そうしたら結婚します。
なら、さっき言った前者のパターンなら
太
客観的に予想すると……まあ、客観
の間でします。
翔
僕が結婚する時には、結婚記念号に
結構遅くなって、後者なら来年でもあり
的になんて無理なんだけど、自分は結婚
星
早いんじゃん(笑)
。
4ー⑥予想
すると思う?
しないと思う?
するな
座談会@千葉
077
星
誰も言ってなかった(笑)
。
荒
結婚おめでとうございます。
小
もっと仲良くなりたいです。
なにか書いて下さい。
翔
僕もすぐ産休します。
荒
そうしたら、皆、産休しますよ。
て、意味が分からない(笑)
。
けど、休んでて単位が勝手に取れるなん
ないね。産休って制度はよく分からない
(一同笑)
荒
僕は直接言われてなかったんで、初
めて聞いた時はすごく吃驚しました。お
めでとうございます。末永くお幸せに。
太
案西君の人生は案西君のものなの
で、幸せにとか僕が言う事ではありませ
んが、僕が関与する範囲の事として、
時々
一緒に飲みましょう。これからもよろし
くお願いします。では皆さん、今日はお
疲れ様でした。
一同
お疲れ様でした。
太
ところで、案西君の奥さんって現役
の東工大生なんですよね?
小
単位取るの大変そうですね。
星
そ う だ ろ う ね。 お 子 さ ん が い ら っ
しゃる訳だから、
普通の学生さんよりは。
小
産休とか取れないんですかね?
星
産休?
まあ、休学中は単位は取れ
座談会@千葉
リレー小 説
離婚指輪
第
第
第
第
章
小野本
洋
章
荒川
史朗
章
山崎
太陽
章
住田
翔星
4 3 2 1
年齢を重ねるにつれて服装や髪型など自分の外見を飾るため
の選択肢は増える。そういった一つ一つの選択の全てを自由に
行なう香苗に対して、珠絵は常に香苗と違ったものを意識して
選んできた。普段話す声すらも、香苗が少し落ち着きのない高
い 地 声 で 話 す の に 対 し、 珠 絵 は 低 い 落 ち 着 い た 声 を 意 図 的 に
得られた充実感は例えようもない幸福感となった。そのことで
全てを途中で投げ出してきた珠絵にとって、そのことによって
見間違えられては香苗がかわいそうだ」という、自分を卑下し
た。それは香苗に対する嫌悪感からではなく、「自分なんかと
珠絵が香苗と間違えられるのを嫌っていたのには理由があっ
作って出していたのにはこうしたわけがあった。
香苗がどう思うか、なんてことはその時点では全く考えられな
香苗を尊敬する気持ちからである。
香苗は何でもよく出来る才能人だった。逆上がりやお手玉な
ど幼稚園で行なうほとんどの遊戯を、香苗は全く練習しなくて
の両親も見分けることが出来ないほどで、周囲からはよく見間
ほくろなどの特徴も目立つ位置にはない二人の顔は、彼女たち
香苗はとても顔が似ていて、
そして二人ともとても美しかった。
珠絵は氏を中西といい、香苗という双子の妹がいた。珠絵と
がんばって勉強しても、珠絵の成績は学年二位止まりで、香苗
学校の成績においても、二人の差は強く見られた。どんなに
中学校と学校が上がるにつれて珠絵の中で強くなっていった。
は才能がある、私と違って何でも出来る、という思いは小学校、
やっとみんなと同じ程度に出来るようになるのだった。香苗に
も誰よりも上手く出来た。一方、珠絵は何度も何度も練習して
違えられたものだった。こういった経験が珠絵の性格の形成に
とは珠絵も充分に承知していた。しかし同じ遺伝子を持つ双子
珠絵は決して平均よりも出来ない子ではなかったし、そのこ
を抜くことはなかった。
く嫌った。
由人の香苗とは対照的に、珠絵は香苗と見間違われるのをひど
影響を与えたのだろう。他人の目を気にしない開けっ広げな自
たされたのであった。
進んだという、珠絵にとって初めての経験により彼女の心は満
かった。ただそのときは、自分の望んだシナリオ通りにことが
言ってしまえば、生まれてこのかた幸せや希望といったもの
第1章
080
離婚指輪 -1
081
の存在が、何をやっても自分の方が劣るという強い劣等感を珠
『かえっこ』の最中は二人が服を文字通りかえっこする。そう
て珠絵が緑色の服を、香苗が赤色の服を着ていた。
違えられたら香苗に悪いと思っていた珠絵には思いつかなかっ
この遊びは香苗が考え出したものだった。当時から自分と間
香苗だと思って話しかける。二人がお互いを演じあうのだ。
すると友達も先生も香苗のことを珠絵だと思い、珠絵のことを
絵に強く植えつけたのであった。
珠絵は香苗を妬んだりはしなかった。自分は香苗に敵わない
という気持ちは妬みでなく、むしろ諦めに近かった。自分自身
を諦めると同時に、香苗の選んだものを選択肢から除外するこ
とで二人の違いを強調しようとした。
したかった。それに、努力も放棄して本当に何も出来ない自分
いかは問題でなく、自分は努力しているということを周りに示
上に努力もしない」とは思われたくなかった。出来るか出来な
「香苗は努力しなくても何でも出来るが、珠絵は何も出来ない
はしなかった。
どに全く練習しないで臨んで運動音痴を演じようといったこと
成績を収めて馬鹿を演じようとか、マラソン大会や球技大会な
けはしなかった。例えば、テスト前に全く勉強しないでひどい
演じあっていたことを周りにばらしてしまうのだった。言い出
ら「
『かえっこ』やーめた」と言って、服を交換してお互いに
し、香苗は珠絵の真似を続けることが嫌になり、いつも自分か
『かえっこ』の最中に見破られることは一度もなかった。しか
く真似することが出来なかった。
とは少なかった。そのため、香苗は珠絵の話し方や仕草を上手
く観察していた珠絵と違い、香苗の興味が珠絵に向けられるこ
こ』だけは珠絵に勝てなかった。普段から香苗のことを注意深
他のどんな遊びもよく出来ていた香苗だったが、この
『かえっ
た遊びである。
になってしまったら、そんな双子の姉を持つ香苗がかわいそう
しては途中で嫌になる香苗がいる一方で、この遊びを楽しんで
ただし珠絵は、努力を放棄して香苗との差別化を図ろうとだ
だという気持ちもあった。
いる珠絵がいた。
だった。普段は香苗と間違えられることを嫌った彼女であった
珠 絵 に と っ て、 香 苗 を 演 じ て い る 時 間 は と て も 楽 し い も の
当時、彼女たちの髪型は母が切ったおかっぱで、容姿から二
が、演じている最中は、二人のことをこのままずっと間違えて
『かえっこ』とは幼稚園時代に二人がよくやった遊びだ。
人を判別するのは不可能であった。
そのため、
幼稚園では決まっ
離婚指輪 -1
082
と提案することをいつも願っていた。
いて欲しいとすら思うのだった。香苗が『かえっこ』をしよう
へ行きたがる珠絵に対し、
中学三年時の担任は猛烈に反対した。
の進学者が多いことは、中学校にとって名誉であった。女子高
珠絵は遥に対して強い憧れを抱いている。遥とは、彼女が大学
珠絵には双子の妹である香苗の他に、
四つ上の姉の遥がいる。
だが、これは担任の説得によるところではなく、憧れの姉であ
たほどだった。結局、珠絵は青弦高校を受験して合格したわけ
それでも納得しない珠絵に対してその日の夜に電話をかけてき
三者面談のときには親の前で青弦高校の素晴らしさを力説し、
に通うために上京して以来会っていない。
愛のことなどが包み隠さず書かれていた。
どの内容についても、
みにしていた。手紙には東京での生活のこと、勉強のこと、恋
活を面倒見てもらっては悪い」とだけ説明して、現にアルバイ
をあまり話したがらなかった。両親には「いつまでも自分の生
香苗は、珠絵にも遥にもそして両親にも、高校を辞める理由
る遥が、彼女の母校たる青弦高校を珠絵に薦めたからだ。
遥がどのように感じたのか、しっかりと記されていた。一つ一
トで月に十五万円以上稼ぎ、家にそのおよそ半分を納め、残り
約三ヶ月に一度送られてくる遥の手紙を、珠絵はとても楽し
つのことに関して自分の意見をしっかり持つ遥のことを、珠絵
は大検を受けるために貯めていた。両親は香苗を信頼し、あれ
当なら、道理で家族に話したがらないわけだと思った。
り、その噂は姉の珠絵の耳にも届いた。珠絵は、もしそれが本
香苗が高校を中退した本当の理由について、学校内で噂にな
これと詮索しなかった。
は深く尊敬した。
遥の手紙は香苗にも届いているようだが、香苗はあまり返事
を書いていないようだ。遥が香苗を心配していることが手紙か
ら伝わった。珠絵は、香苗を羨ましく思った。
遥が香苗のことを心配していたのは、単に香苗が筆不精だっ
珠絵と香苗は、県内でも有数の進学校である青弦高校に入学
いる社会科教師だ。本名を鶴田正輝という。彼はまだ二十五歳
青弦高校の野球部の監督は、ツルマサという愛称で呼ばれて
噂の内容はこうだ。
した。入試の直前まで近所の女子高を志望していた珠絵であっ
の新米で、年も近く話しやすいために、男女問わず生徒に人気
たからではなく、香苗が高校を中退したことも一因であった。
たが、彼女の中学での成績がそれを許さなかった。青弦高校へ
離婚指輪 -1
083
合いの喧嘩をした。謹慎処分を受けた後に、二人とも野球部を
二股はたちまち白日のもとにさらされ、エースと四番は殴り
ツルマサは香苗の社会科を受け持っていた。そして、どちら
辞めた。部内の空気は悪くなり、退部する者が続出した。一年
があった。
が引き寄せ、どちらが引き寄せられたのか、真相は分からない
ツルマサの解雇までは香苗の予想の範囲内であったが、究明
生の人数は半分以下になってしまった。学校側は事態を深刻に
ている女性がいた。それを知った香苗は、直ぐにツルマサと別
された原因が噂となって広がることまでは予想していなかっ
が、香苗とツルマサはただの教師と生徒の関係を超えて親密に
れた。ツルマサとしてはほんの遊びのつもりだったようだが、
た。ツルマサを擁護する生徒たちからひどい仕打ちを受ける前
受け止め、顧問のツルマサを解雇し、原因の究明を求めた。
香苗は相当に本気だったらしく、軽い気持ちで扱われていたこ
に、香苗は高校を辞めた。
なっていったそうだ。しかしツルマサには香苗の他に付き合っ
とにひどく憤慨したそうだ。
『二股』だ。ツルマサには遊ばれてしまった香苗だが、同学年
香苗は同学年の野球部の生徒二人と同時に付き合った。所謂
珠絵には『男の子』がよく分からなかった。そのきっかけとな
く気が付かなかった。そもそも男女の話題に疎い珠絵であった。
同じ高校に通っていたのに、その噂を耳にするまで珠絵は全
そこから香苗の復讐が始まった。
の男の子を弄ぶ術については心得ていた。二人とも香苗の誘惑
休み時間中に珠絵がクラスの女の子たちとおしゃべりをして
る事件は小学二年生のときに起こった。
のエースと四番になるに違いないと強く期待されていた。そし
いると、珠絵の後ろ頭にクラスの男の子の投げた紙飛行機がぶ
に簡単に乗ってきた。付き合った二人の生徒は、将来は野球部
て、その時には青弦高校の十年ぶりの甲子園出場も夢ではない
つかった。珠絵はぶつかり地面に落ちた紙飛行機を拾い、投げ
力はこんなにも離れているものなのかと痛感した。そして、そ
一瞬の出来事であったが、そのとき珠絵は男の子と女の子の
子はひどく憤慨し、珠絵を思いっきりひっぱたいたのだ。
てきた男の子に渡した。それに対して紙飛行機を渡された男の
とも言われていた。
二人の香苗への思いが相当に膨れ上がった頃に、香苗はわざ
と二人に二股がばれるような行動を取った。エースの携帯に四
番 に 送 る は ず の メ ー ル を、 四 番 の 携 帯 に エ ー ス に 送 る は ず の
メールを、といった具合に間違ったメールを故意に送った。
離婚指輪 -1
084
たいた男の子の気持ちを理解することが出来なかった。
のありったけの力の差を利用して理不尽に自分のことをひっぱ
ぶりの再会ということになる。珠絵はその日をとても楽しみに
そうだが、珠絵は遥が上京して以来会っていないので、約二年
していた。
一方、香苗は折角遥が帰ってきてくれるというのに、土日の
なぜ男の子が憤慨したのかは後で分かった。紙飛行機の先端
が珠絵の後ろ頭に当たったせいで凹んでしまったことと、珠絵
二日ともイタリアンとは名ばかりのファミレスでのアルバイト
らそれは仕方のないことだった。このとき、香苗はアルバイト
が紙飛行機を拾った際に飛行機の翼が折れ曲がってしまったこ
それ以来、珠絵は男の子に対して漠然とした苦手意識を持つ
先のファミレスの店長に恋をしていた。もっとも、香苗は常に
の予定を入れていた。香苗はいつも自分のことに夢中だ。だか
ようになっていった。高校入試の頃、女子高を志望していたの
誰かに恋をしているのであった。
とが原因であった。
にも、そんな背景があった。
香苗が高校を辞めたのは、高校一年生の七月の、もう夏休み
などが離れたために、香苗は自分の近くにあるものについて珠
なった。高校を辞めることで珠絵との行動範囲や精神的な距離
香苗は高校を辞めてから、珠絵に恋愛の話をよくするように
に入ろうかという時期だった。遥からの手紙には、香苗のこと
絵に話しやすくなったようだ。
香苗の話によると、彼女の恋する店長は二十八歳ですでに結
を気にする内容が多くなった。そして珠絵は、香苗と違って遥
に心配かけていないことを誇りに思うと同時に、相手にされて
珠絵が高校一年生の二月、三学期も終わりに近づいた頃に、
相談を同僚である二十歳の大学生のミキヤにしていたところ、
うことに香苗は若干のチャンスを感じているらしい。この恋の
婚もしているが、子供はまだいないそうだ。子供がいないとい
遥から、香苗が高校を辞めてから三回目の手紙がやってきた。
関係が深くなり、
付き合うことになったそうだ。しかし香苗は、
いないのではないかと不安になるのであった。
いつもの内容に加えて、珠絵にとってとても嬉しいことが書い
ミキヤをものにしつつも器用にも店長に恋をしていた。つまり
ということになる。
香苗はミキヤと更なる高みを見据えつつの付き合いをしている
てあった。
三月の第一週の土日に、久々に遥が帰ってくるのだ。今やフ
リーターの香苗は先日東京に遊びに行ったついでに遥と会った
離婚指輪 -1
085
をしているミキヤを見ることは出来た。鼻筋のしっかりした好
長は調理場にいたために顔を見ることは出来なかったが、接客
一度、両親と一緒にその店に行ったことがあった。そのとき店
香苗がそのファミレスでアルバイトをするようになってから
てきたのだった。
ときは、常に香苗と対比することでその存在を浮かび上がらせ
とが分からない、といった具合に、自身の存在について考える
能があるが珠絵にはない、香苗はもてるけど珠絵は男の子のこ
たことがなかったからだ。香苗がいて珠絵もいる、香苗には才
しかし今目の前にいる友人たちは、自分のことだけを見て友
青年といった印象であったが、アルバイト中、視線をずっと香
苗に向けていた点に関しては悪印象であった。
達でいてくれているのだ。それが何より嬉しかった。
「珠絵、どうしたの?」普段から口数の少ない珠絵が更に口数
「確かに、
テストも終わったしね。これから春休みだと思うと、
いよいよ明日遥が帰ってくるという日の夕方、珠絵はクラス
その日はカラオケにも行った。珠絵は本当は香苗と同様に地
嬉しいっていうかすごく楽しい気分になるよね」仲間の一人が
を少なくしているのを気にして、
友達の一人が声をかけてきた。
声が高く、高音が綺麗に出せるのでカラオケは得意だった。恥
珠絵の気持ちを充分に理解出来ないながらに話を拾った。
メ ー ト 数 人 と 喫 茶 店 に い た。 そ の 日 は 学 年 末 テ ス ト の 最 終 日
ずかしがって自分から曲を入れることは滅多にないが、友達の
「でもクラス替えって、少し寂しくない?
私は二年生になっ
「何でもないの」と珠絵は答えた。「ただ、嬉しくてね」
入 れ た 曲 を 一 緒 に 歌 っ た り、 ハ モ っ た り す る の は と て も 楽 し
てもみんなと一緒のクラスがいいなぁ」
だったので、放課後に仲のいい友達と遊んでいたのだった。
かった。
「私はサッカー部のミッチー先輩が卒業しちゃうのがショック
だなぁ」
喫茶店で友達と話をしているとき、珠絵は涙が出そうなくら
い幸せな気持ちに包まれた。香苗のことをあまり知らないこの
「ミハル、ミッチー先輩のファンクラブ会員だもんね」
誰の耳にも届くことはなかった。
口から自然と「ありがとう」という言葉がこぼれたが、それは
そんな他愛もない話が続いた。そんな話を聞きながら珠絵の
友人たちの前では、香苗とは違う自分を演じなくてもいい。あ
りのままの自分を見せればいいのだ。
だが、そのときふと、ありのままの自分というものが分から
ないと思った。今まで自分という存在を香苗の存在抜きに考え
離婚指輪 -1
086
そのまま喫茶店に長居し、
家に着いたのは六時半過ぎだった。
中西家では最近、香苗が夜遅くまでアルバイトをしていること
と、父が単身赴任中であることから、夕食は珠絵と母の二人だ
けでとるようになっていた。その日は金曜日で、いつもなら父
も帰っているのに、
翌日も仕事があるそうで帰っていなかった。
珠絵は家に着くと、台所で夕食の用意をしていた母に「今日
ご飯少なくていいよ」と言った。
「珠絵もどこか具合が悪いの?」と母が聞いた。
「ううん。さっきまで友達と喫茶店にいて、少し食べたからあ
んまりお腹空いてないんだ。それより『珠絵も』って?」
「香苗がね、最近働き過ぎで体壊しちゃったみたいなのよ。今
日も夜までアルバイトの予定入ってたんだけど、無理言って早
退させてもらったみたい」
「じゃあ今、和室で寝てるんだ?」
中西家では、病人は一階の和室で寝ることが慣例となってい
た。各自の寝室は二階にあって、トイレの度にいちいち一階に
降りてくるのが面倒だからだ。
「そうなの。今日は早退出来たけど、明日はもうアルバイトの
予定入ってるから無理して行くって言ってるの。土日はお店が
混むから欠員出すわけにはいかないんだって」
そんな会話をした後で、珠絵は香苗の様子を見に和室に行っ
た。香苗は眠っていたが、ひどくうなされていた。珠絵は、香
苗が明日アルバイトに行くことは不可能だろうと悟った。
離婚指輪 -1
「え
」あまりに突然で、過激な注文に珠絵は驚いた。のび太
ると、香苗の様子が気になり和室に向かった。戸を開けると香
眠ることができなかった。眠い目を擦りながら階段を降りてい
「髪型も違うし、バレるよ」珠絵はまだ食い下がった。
ちゃえば何とかなるよ」
「じゃあ病み上がりを理由にレジ打ちだけやるように交渉し
ら。私も研修とか受けたことないし、適当な店だから大丈夫」
苗は起きていた。
「髪は私みたいに縛れば、長さの違いもわかりにくくなるよ。
土曜の朝。
「どう、調子は?」と聞いてみたが、香苗の顔は赤らんでいて、
化粧も私のを使えば良いし。珠絵は昔から私の身代わりは超一
「でも心配。飲食店のバイトとかしたことないし」
明らかに調子は悪そうだと珠絵は思った。
流じゃない。いけるって。お願い」
「でも、そんな状態で行ってもなおさら迷惑でしょう?」珠絵
迷惑掛けちゃうし」
「うーん。今日は予約も入ってて大変そうなんだよね。休むと
「バイト休みなよ。無理することないよ」
く、珠絵は言った。
「うーん、しょうがないなぁ。じゃあやろうか?」迷ったあげ
すぐった。
の代わりをするということに対する懐かしい高揚感が珠絵をく
リンゴが地球に引っ張られるくらい常識的だと思ったが、香苗
しばらくの間、珠絵は考えた。普通に断ってしまうことは、
はわざと厳しい口調で言った。
びっくり。珠絵は断ると思ったのに」
「え
がるように笑った。
「悪化気味かな。まいったね」しゃべるのがつらそうだが、強
前日、珠絵はいよいよ遥に会えると思って胸が躍って、深く
「大丈夫大丈夫。注文取って、料理運んで、レジ打つだけだか
「無理無理無理。そんなことできないよ」
た。
がジャイアンに思い切りビンタするくらい無理なことだと思っ
!?
「あ」香苗は何かを思いついたように言った。
「そうだ、珠絵
が代わりに行ってくれないかな? 」
!?
「何よ、自分で提案しておいて」笑いながら香苗の頬に手を当
離婚指輪 -2
第2章
087
088
てた。ホッカイロみたいに温かい。
るよ。じゃあお願いね」
珠絵は香苗の部屋に入り、身支度をした。香苗の服を着て、
「じゃあ本当に行ってきてよ。後で何があったかとかちゃんと
教えてね。なんか面白いね。元気になったらなんか奢るから」
二人でひとしきり笑った後、
香苗は店のことを説明し始めた。
自分が買うことのない趣味の服がズラリと並んでいるからだ。
身支度が終わってもついつい香苗の洋服ダンスを見てしまう。
香苗のように髪を縛り、香苗の化粧道具で香苗風の化粧をした。
店のレイアウト、制服が入ったロッカの番号、レジの打ち方、
珠絵はウインドウショッピングが好きだ。
「おっ。じゃあその時はすごい食べちゃおうかな」
バイトでのルールや同僚について要領良く説明した。
「そういえば、店長さんとミキヤさんはどうすれば良いの?店
そうだと思った。
子をありありと思い描くことができた。自分は代わりが務まり
それよりも何倍も速いことだろう。珠絵はバイト中の香苗の様
わかりやすく知ることができた。お互いの意思疎通は他人との
ので、心配によるものが含まれているかは判断できない。
「気をつけてね」香苗の表情は曇り気味だが、もともと病気な
「じゃあ、行ってくるね」珠絵はVサインを返した。
香苗は珠絵の『香苗ファッション』にOKサインを出した。
「うわぁ、そうすると本当に私みたいね。鏡を見てるみたい」
の最終チェックを受けるべく、急いで和室に向かった。
「いけない。遅れちゃう」洋服ダンスを簡単に片付けて、香苗
長さんは見たこともないよ」
「香苗もお大事に。早く治すのよ」そう言って珠絵は足早に玄
やはり双子であるせいか、聞きたいことが聞きたい順番で、
「体調悪いことにして、あんまり関わらないで、うまくかわし
関に向かった。
絵の心中を表すかのようだった。不安ではあったが、久々の
『か
外は小雨が降っていたが、雲の隙間から光が差していた。珠
て。店長は一番カッコ良い人だからすぐわかるよ」
「もう、メロメロね」
「ええ、メロンメロンよ」
そうな顔をしてはいけないな、と自分を戒めて、自分の表情を
えっこ』に珠絵の心は弾んでいた。病み上がりなのだから嬉し
「大丈夫?香苗」
ガラスでチェックしながら香苗のバイト先に急いだ。
珠絵と香苗は吹き出した。香苗は咳き込んだ。
「大丈夫大丈夫。店長だけゴールドの名札だから、それでわか
離婚指輪 -2
089
別人なのに『今日も』なんて言って良いのか、と内心思いな
がら、
「うん、うふふ」と笑っておいた。
「病み上がりなんだから無理すんなよ、じゃあまた」と言って
従業員専用の入り口前に珠絵が到着した。腕時計を見ると八
時五十八分、間に合った。
ミキヤはテーブルセッティングに向かった。
店長に関しては、以前に両親と店に訪れた時には見ることが
にした。
ないだろうと珠絵は思った。そしていよいよ、店長を探すこと
とりあえずバレなかったようだが、注意してし過ぎることは
「おはようございまーす」と、
傘を閉じながら店の中に入った。
珠絵はバレないか内心ドキドキで様子をうかがった。
食 材 倉 庫 も 兼 ね た 休 憩 室 に は、 す で に バ イ ト 仲 間 が 数 人 集
まっていて夢中で話をしていた。
「おはよう」
とその中の一人が珠絵に気づいてあいさつをした。
「ううん、でも休めないし。店長にレジ打ちだけやるってお願
けないようにしないと、という気持ちと、ちょっと面白くした
珠絵は全く把握していなかった。珠絵の中で、香苗に迷惑を掛
できなかったし、
香苗がどのくらいアプローチを掛けているか、
いしようと思って」珠絵は咳き込むフリをして言った。
いな、という気持ちがぶつかり合っていた。
「もう大丈夫なのかい?」
「ああ、それが良いかもね。着替えたらすぐ店長に言ってきな
「はい、わかりました」と答えると、珠絵はそそくさと更衣室
と、やはり 胸 に「
男性を見つけ、珠絵は彼が店長かもしれないと思った。近づく
ホールに向かうと、ダンディなひげを蓄えたきびきびと動く
に向かった。更衣室に入ると、珠絵は深いため息をついた。ど
することができた。珠絵の鼓動がテンポアップした。
よ」
う や ら バ レ な か っ た よ う だ っ た が、 か な り の 緊 張 感 が 珠 絵 を
「店長、おはようございます」
「おはよう」店長はわざわざ手を止めて珠絵にあいさつをして
」と書かれたゴールドの名札を確認
ITSUKI
襲っていた。
白 い ブ ラ ウ ス、 黒 い ス カ ー ト と ベ ス ト に 着 替 え、 胸 に
くれた。それまで真剣だった顔が一転し、爽やかな笑顔になっ
た。
」 と 書 か れ た シ ル バ ー の 名 札 を 付 け た。 休 憩 室
NAKANISHI
に戻るとミキヤが声を掛けてきた。
「あの、店長。今日はまだ体調が思わしくないのでレジ打ちだ
「
「おはよう、香苗ちゃん。今日もかわいいね」
離婚指輪 -2
090
けではだめでしょうか?」珠絵は香苗をイメージしながら上目
づかいで言った。
たので、かなり疲労した。
準備室でひと安心していると、
店長がやってきた。「中西さん、
ちを……あれ?」
香苗が働いてくれるだろうか、と心配になった。
「は、はい、お疲れ様でした」と応えながら、明日はちゃんと
お疲れ様。
また明日もよろしく」
店長は、白い歯を見せて笑った。
「え!何ですか?」珠絵は動揺した。
「それじゃあ」と店長は鼻歌まじりに部屋を出ていった。
「ああ、病み上がりなのに来て貰って悪いね。じゃあ、レジ打
「なんか髪の感じが違う気がするけど、昨日切った?いや、早
珠絵は急ぎ足で着替えに向かった。帰る頃には遥が到着して
いるだろうと期待に胸が膨らんだ。
退したからそんなわけないか」
「え、と、ちょっと結び方を変えたんですよ。それでは」珠絵
「おつかれさまでしたー」とバイト仲間に手を振ると、三つの
るごとに、香苗に扮する珠絵にアイコンタクトを送っていた。
も礼儀正しく接していた。それとは対照的に、ミキヤはことあ
さのギアが一つ上がった。珠絵が台所に入ると、エプロン姿の
ていた。足下に見慣れない大人っぽいブーツを見つけた。嬉し
「ただいまー」珠絵が玄関に入ると、おいしそうな香りが漂っ
差さずに小走りで帰ろうと決めた。
を急いだ。雨は霧のような小雨になっていたため、珠絵は傘を
「おつかれー」が和音で返ってきた。早く帰ろうと珠絵は帰路
はその場を立ち去った。自分では完璧だと思ったのに、店長は
結構鋭いかもしれない。珠絵は気を引き締めた。
開店すると、すぐに客が流れこんできて満席状態が続いた。
店長は店内を所狭しと動きまわり、的確な指示を出していた。
ミキヤの不真面目な印象は、店長の素晴らしさを引き立たせる
母と遥が料理をしていた。
トラブルが起きても決して声を荒げることはなく、誰に対して
結果となった。
「遥ちゃん、おかえりなさい」
ニコッと笑いかける遥はまた一段と綺麗になっているよう
「あ、珠絵おかえり。早く着替えてらっしゃい」
珠絵と香苗は遥をチャン付けで呼んでいた。
「百五十円のお返しです。どうもありがとうございました」
最後の客が帰り、
珠絵は無事に仕事を全うすることができた。
レジ打ちだけとはいえ、香苗のフリをし続け、終始緊張してい
離婚指輪 -2
091
人っぽいと珠絵は思った。
だ っ た。 ツ ヤ ツ ヤ し た 黒 髪 の ミ デ ィ ア ム シ ョ ー ト が す ご く 大
「ええ!本当に?まだ学生なのに?」珠絵は素直に驚いた。
話したんだけど、今付き合ってる彼と結婚しようと思って」
「うん。向こうは社会人だし、私もしっかり頑張るから。ちゃ
んと卒業もするつもり。卒業したら、
家庭に入っちゃって、
パー
遥に夢中になっていたが、香苗に今日のことを報告したいと
珠絵は思い出した。
トとかしながらのんびり生活しようかなと。お父さんにはこれ
幸せが女を綺麗にするとよく聞くが、その確固たる証明が珠
「あ、そういえば、香苗の体調はどう?」
着替えて居間に入ると郷土料理が豪華に並んでいた。母より
絵の目の前にあった。自分のことみたいに嬉しい、と思えた。
から言うつもりだけど」
も遥の方が料理が上手だ、と珠絵は評価していた。もちろん遥
「実は指輪も貰っちゃった」遥は今まで隠し気味だった左手を
「熱が下がらないの。ついさっき寝ついたから、起こさないよ
と話がしたかったのだが、遥の料理も楽しみの一つだった。
珠絵の目の前に差し出した。ダイヤの指輪が誇らしく薬指に輝
「へー。おめでとう」
「食べてきてないでしょう?久々の遥スペシャルなんだから、
いていた。
うにね」母は心配そうに言った。
ちゃんと味わいなさいよぅ」いたずらっぽい話し方は変わって
「香苗にもさっき見せたら、ちょうだいって言われちゃった。
「うわぁ、良いなぁ」珠絵はうっとりした。
遥が作ったであろう、煮付けを一口ほおばると幸せで一杯に
元気なフリしちゃって。治ったらあげるって言ったら笑ってた
いなかった。
なった。どうやらまた腕を上げたようだ。遥の料理の評価をま
よ」
「香苗は彼氏がいるみたいだけど、珠絵はどうなの?」
心配してもらった香苗に、珠絵は少し嫉妬した。
た上方修正せねば、と珠絵は思った。
「こんなおいしいのが作れれば今お嫁に行っても大丈夫だよ」
「はは、ありがと」
「珠絵も彼氏作らないとね。
かわいいから大丈夫だと思うけど」
「ぜーんぜん。なんにもなしです」
と感心した。
「そのうちそのうち。お腹一杯、ごちそうさま」珠絵はなんだ
照れ笑いが愛らしい。なるほど、
こういう女性がモテるのだ、
「実はね」恥ずかしそうに遥が切り出した。
「母さんにはもう
離婚指輪 -2
092
か恥ずかしくなってごまかして、居間を出て、香苗が寝ている
「ただ、姉が帰郷しているのであまり長くは……」
しまった。
「ああ、そんなに時間は取らないようにするから。じゃあいつ
和室に向かった。
そっと戸を開けると、香苗はまだ眠っているようだった。香
いつものスタバ?珠絵の頭はフル回転した。珠絵は近くに一
ものスタバで」そう言うと店長は最後の片付けに向かった。
今日の報告をしたかったし、もしまた自分がバイトに行くこと
軒スタバがあるのを知っていたが、店長に確認するわけにはい
苗の顔は赤く、
明日までに全快しそうにないと思えた。珠絵は、
になるなら、何かアドバイスを貰いたかった。しかし、起こす
かなかったので、とりあえずそこに行ってみようと思った。
好奇心を胸に秘めて身支度をした。
珠絵は、香苗でないことがバレないかという不安と、少しの
のはよそうと思い「おやすみ」と小声で言って部屋を後にした。
日曜日。前日とは打って変わっての快晴で、とても気持ちが
良い。香苗は苦しそうにしていたので、看病を母と遥に任せ、
二日目ともなるとずいぶん慣れ、効率的に仕事ができるよう
際の席に座り、大通りを眺めていると、猫が毛づくろいをして
キャラメル・マキアートを注文した。これは香苗の好物だ。窓
最寄りのスターバックス・コーヒーに入り、ダブル・トール・
になったので、香苗を演じることを純粋に楽しめた。客は予想
いた。将来は猫を飼いたいな、などと考えていると、私服に着
珠絵は二日目のバイト代理に出かけた。
通り多かったが、何事もなく仕事をこなした。
「おまたせ」店長は珠絵の側に来るとコートを脱いで椅子の背
替えた店長が入ってきた。
きされた。
もたれに掛けた。
仕事が終わり、珠絵が着替えに向かおうとすると店長に手招
「中西君、ちょっとこの後良いかな?」と店長が真面目な顔で
「全然待ってないです」
も真似になるのだな、と少し可笑しかった。
珠絵は思わず目を見開いてしまった。何も考えずに行動して
「ああ、本当にこの席が好きなんだね」
聞いた。
珠絵の緊張感が急激に増した。
この誘いに乗って良いものか、
珠絵は一瞬迷った。断る方が無難だったが、純粋に面白い展開
だと思ったし、店長への興味もあったので、とっさにOKして
離婚指輪 -2
093
「前からいろいろと相談に乗ってもらったけどね、どうやらう
珠絵が返事に窮していると、店長が言葉を続けた。
もちろんこれは香苗に対して向けられた言葉であって、珠絵
「つまり、ちゃんと付き合って欲しいんだ」
話が見えなかった珠絵はとぼけてみようと思って、自分の頭
自身そう認識していた。しかし、あたかも自分が告白されたよ
まくいかなそうだよ」と、店長は恥ずかしそうに言った。
の上に「?」のオブジェを想像して、首を三十度くらい横に傾
うな錯覚をして、嬉しくなってしまった。
珠絵は、店長と付き合ってみたいと思った。香苗の代理とし
けて、ニコリとしてみた。
「いや、妻の誕生日プレゼントのこととか、女心のこととかい
ての二日間で、恋をしていると言えるに充分な好意を抱いてい
もちろん、店長が好きなのは香苗であって、自分が珠絵とし
ろいろ話したけどね、結局離婚することになりそうだ」店長は
照れる時のクセなのだろうと珠絵は分析した。急な話の展開
て付き合えないのはわかっていた。だから、今後も香苗のフリ
た。
に珠絵は店長にどう対応すれば正解であるかを見失いかけてい
をして店長と会いたいと考えた。
罰が悪そうにこめかみを掻いた。
た。
今回、香苗抜きで自分のために行動した背景には、前日の遥の
以前ならば、香苗のために行動すれば、珠絵は幸福であった。
「誰と浮気したんですか?」珠絵は聞いて、
しまったと思った。
話の影響が少なからずあった。
「元はといえば僕の浮気が原因なんだけど」
つい、気になって口をついて出た。
「ええ、あの、仲良くしたいと思います」珠絵は店長をまっす
しかし、これから先の良い作戦は思いついていなかった。自
「いやいや。そういう冗談が流行っているのかい?」店長は笑
話の流れから判断すると、香苗と店長は既に深い関係になっ
分が香苗でないことを店長にバレないようにして付き合い、し
ぐに見て答えた。
ているらしかった。そんなことになっていたとは、と珠絵は驚
かも店長と付き合っていることを香苗にもミキヤにも隠さなけ
いながら言った。
いた。
ればいけない。
珠絵が悩んでいると店長が口を開いた。
「そういうわけで、これからはもう少し仲良くというか、ええ
と、会う時間を増やしたいと思うんだけど」
離婚指輪 -2
094
「あの、離婚するんだったら、結婚指輪を頂けませんか?」
「え、どうして?」
「じゃあ、連絡先を教えてくれないかな?」
しめた!珠絵はうまい方法を思いついた。
「いや、なんとなくです」
貰った指輪をポケットに入れて、珠絵は歩き出した。心臓は
て店長は去っていった。
店長は二人分の会計を済ませ、「それじゃあ、また」と言っ
された。
の中指でもぶかぶかしていた。昨晩の遥の婚約指輪が思い起こ
店長の指は男のわりにはほっそりとしていたが、指輪は珠絵
「まぁ、良いよ」
どうやら今まで香苗は連絡先を教えずに、バイト先でしか店
長と会っていなかったようだ。妻がいる手前、浮気がバレない
ようにという配慮だろう、と珠絵は考察した。
珠絵は、テーブルの上の紙ナプキンに自分の携帯の番号をメ
モして店長に渡した。
「付き合いたいんですが、相談したいことがあります」
「なんだい?」
「実はミキヤさんに言い寄られているんです。でも、バイト先
長と付き合っていることは隠したいので、お店では仕事の話以
光っていた。渋滞気味の国道は自動車の強いライトにあふれて
空を見上げると、月はほぼ新月で、暗い夜空に星達が美しく
早鐘を打っていた。思い切った行動に自分でも驚いていた。
外はしないようにしたいですし、会うのも店長がお休みの時だ
いた。どちらも綺麗だな、と珠絵は思った。
の雰囲気を壊したくないので、うまくかわしているんです。店
けにしていただけませんか?」
「なるほど。
僕も職場の雰囲気は大事にしたいから協力するよ」
「ありがとうございます」
「じゃあ、これで恋人同士だね」
珠絵は、恥ずかしくなって照れ隠しにキャラメル・マキアー
トを飲んだ。自分には甘過ぎると思ったが、
香苗を演じる以上、
これからも飲まなければいけないのかな、なんて想像した。
ふと、珠絵は思いついた。
離婚指輪 -2
章
香苗は店長の事を格好良いと形容していたが、珠絵はそうは
思わなかった。
弱冠二十八歳でレストランの店長を務め、スタッフからは男
女問わず慕われている。容姿も平均以上で、きっと彼に憧れて
いるのは香苗だけではないだろう。結婚もしていて、自分と比
嬉しさのあまり、口笛でも吹きたいくらいだった。夜に口笛
生と浮気をし、それが原因で離婚の危機に直面している。珠絵
しかし、自分の店のスタッフの、しかも一回り年下の女子高
べればずっと大人だ。
を吹かないよう躾けられた珠絵は、代わりに、車道と歩道を仕
には、彼のその不完全さが可愛いと思えた。
だからこそ、香苗よりも自分の方が相応しいのではないか、
るように歩を進めた。たまに、すぐ脇を走る自動車のドライバ
光と音は急減した。少し遅れて、肉眼で確認できる星の数が増
寂しい県道との交差点を右に折れ、国道から離れるにつれて
とさえ考えた。
と目が合ったが、珠絵は気にしなかった。ただ、この、どこか
した。
自分の方が相応しい、というセンテンスが不可視体として浮
して知っている事よりも、知らない事の方がずっと多い。趣味
私は、店長とは、まだ二回しか会っていない。当然、店長に関
抗心が築かれていて、それに起因するのではないかと不安にな
だけではないかと疑う自分と、或いは無意識の内に香苗への対
それが私の本心だと信じている自分と、スリルに酔っている
き上がり、身体を包むイメージ。
も故郷も信条も知らない。名前だって、名字しか知らない。そ
る自分と、複数の存在を意識し、珠絵は揺れた。
今なら、まだリスクは低い。
れなのに、どうして私は、こんなにも彼に惹かれているのだろ
だが、浮かれる一方で、状況を冷静に分析する珠絵がいた。
浮かれている事を自覚した。
象徴的な行為がどうして口笛の代わりになるのか疑問に思い、
幅二十センチ程度のブロックの中心とスニーカの中心が重な
にした。
切る細いブロックの上を、バランスを取りながら歩いてみる事
賑やかな星空の下を、珠絵は軽い足取りで家に向かった。
3
うか。
離婚指輪 -3
第
095
096
勝手に承諾した。香苗にそう説明して手を引けば、香苗を裏切
香苗だと思われたまま店長に呼び出され、告白を受けたので
感は集積し、疑念は月のように満ちて明確な輪郭を表すだろう。
け嘘を貫いて店長と会おう。鋭い彼の事だから、たちまち違和
ンスだとも言える。その後に正体を明かし、どちらと付き合う
しかし、それは同時に、香苗とは違う自分の魅力を伝えるチャ
知っているのだから、そこまで不自然な行動ではないだろう。
か選んでもらおう。
り 掛 け た 事 を 誤 魔 化 せ る は ず。 店 長 に 対 す る 香 苗 の 気 持 ち を
むしろ、香苗には感謝すらされるかもしれない。
メールを作成した。
珠絵は、あまり使い慣れていない携帯電話を操作して、返信
のメロディが流れた。店長からのメールだ。
《こちらこそ、よろしくお願いします。今度のお休みの日に、
その時、バッグの中で、ビートルズの「イン・マイ・ライフ」
《こんばんは。イツキです。OKしてくれてありがとう。これ
もしもお暇でしたら、どこかに連れてって下さい。》
が、
何度も読み直してから思い切って送信ボタンを押した。メー
珠絵にとって、まるで自分で作ったとは思えない文面だった
からも、よろしくお願いします。気を付けて帰ってね。
》
珠絵はハッとした。
そうだ。店長と連絡先を交換したのだ。しかも、嘘を吐いて
れば、まず香苗にも知られる。そうなれば、その行動の意味す
の男性で、おまけに自分から誘ってしまった。珠絵は心拍が高
生まれて初めての異性とのデート。しかも相手は一回り年上
ルの送信が完了するまで、画面をじっと見詰めた。
る所を確信されて、
香苗に嫌われるかもしれない。少なくとも、
まっていくのを感じた。やがて送信完了を知らせる画面を確認
自分の番号とアドレスを教えたのだった。その事が店長にバレ
不信感を抱かれる事は免れないだろう。後に引けないと言った
すると、多様な感情の織り混ざった溜め息を漏らした。
「ただいま」
少し温かくなった。
薬指にはめた。そして、店長の顔を思い浮かべると、胸の奥が
珠絵は店長からもらった指輪をポケットから取り出し、左の
ら少し大袈裟だが、決してノーリスクではない。
それならば……。
珠絵は決心した。いつまでも店長を騙し続け、更に香苗にも
隠し続けるのには無理があるだろう。それならいっそ、バレる
よりも先に、自ら店長に打ち明けよう。
一週間。珠絵は直感的に、期限を一週間に決めた。一週間だ
離婚指輪 -3
097
ていた。
出来だと珠絵は思った。
作りだった。味は勿論の事、見た目も可愛らしく、素晴らしい
夕食はハンバーグだった。出来合いのものではなく、遥の手
「お帰り」
「本当に美味しいわ」母も遥の料理を褒めた。
珠絵が帰宅すると、玄関には夕食の美味しそうな匂いが漂っ
「お帰りなさーい」
「どうだった?
誰にもバレなかった?」
「ううん」
「そっか。日曜だもんね。二日間もありがとね」
当の理由を隠し、曖昧に返答した。
「えっと、まあまあ込んでたよ」珠絵は、帰りが遅くなった本
「遅かったね。今日、店込んでた?」香苗が尋ねた。
だ少し顔が赤いものの、
香苗の風邪は随分と良くなったようだ。
「まだ残りが冷凍庫にあるから、快復したら焼いて食べなよ」
詰を開けてもらった。
「うーん、まだ食欲ないよう」そう言って香苗は、母に桃の缶
自然な感じで遥は言った。
「一つくらい食べてみたら?」決して無理に勧める風ではなく、
うらやましそうに言った。
「いいなあ。私も遥ちゃんのハンバーグ食べたいなあ」香苗が
謙遜した。
「ありがとう。でも、まだまだお母さんには敵わないよ」遥は
「うーん……」
「うん、ありがとう」香苗は嬉しそうに言った。
エプロン姿の遥と、パジャマ姿の香苗が出迎えてくれた。ま
「こらこら、
君達」
遥が割って入った。
「ご飯が冷めちゃうから、
は思った。
香苗は風邪を引いていても私より明るいし、可愛いなと珠絵
「はーい」
香苗は元気に返事をして、
台所に向かう遥の後を追っ
「香苗、おかゆなら食べられる?
作ってあげよっか?」遥が
早く食べよう」
た。
後で詳しく教えてよね」
「じゃあ、林檎でも剥こうか?」
「ううん、いい」香苗は首を横に振った。
言った。
「うん……」珠絵は気が乗らなかったが、避けて通れまい、と
「うーん……」今度は少し迷ったようだが、香苗は結局断わっ
珠絵も続こうとすると、
急に香苗が振り向いて言った。「珠絵、
腹を括った。
離婚指輪 -3
098
「何よ、楽って?
食べるだけの身分で」
た。「良いや、桃缶で。楽だし」
がらないように見えたら不審に思われるかもしれない。
いたが、それは甘かった。とぼけるだけ無駄だし、妙に話した
珠絵は、母のいる所では切り出されないのではないかと考えて
「結局、誰にもバレなかったの?」
香苗に感謝されると、珠絵は素直に嬉しくなった。
「そうだよね。ほんと、ありがとね」
香苗の振りしてたからもう本当に大変だった」
て、ただでさえ初めてのアルバイトって緊張すると思うのに、
「もう、
ドキドキだったよ」珠絵は観念して説明を始めた。「だっ
「えへへー」
小さな笑いが起こった。普段が暗い訳ではないが、遥がいた
方が家族の会話が盛り上がる。
漫才に例えると、香苗がボケで遥がツッコミに近い。母と珠
絵は観客だ。遥がいない時は、香苗が単独で会話をリードして
珠絵や母から話題を引き出し、おかしさを見い出せばすかさず
切り込む。
いしてレジ打ちにしてもらったから、何とかなった」
「うん……、多分、大丈夫だったと思う。仕事も、店長にお願
頭も良く、遥は美人でしっかりしていて料理もできる。それに
「そう。さすが珠絵。『かえっこ』のプロね」
私には真似できない、と珠絵は思った。香苗は明るく活発で
比べて私は……。劣等感を抱く事にはとっくに慣れたと思って
「なあに?」母が口を挟んだ。
「もしかして、珠絵に代わりに
アルバイトに行かせたの?」
いたのに、今日はやけに意識してしまう。原因は明らかだ。
自分に自信を持ちたい、と珠絵は強く思った。
「うん」
香苗が答えた。「今後も私が休みたい時は、
代わりに行っ
ローテーブルを挟んで向かい合って座り、脇のソファに香苗が
う?
ちゃんと、あなたが行きなさい」
「駄目よ」母が反対した。「アルバイトでも、
香苗の仕事でしょ
てもらおっかな」
寝そべっていた。遥は自室で帰り支度をしているようだ。
「むう」香苗は口を窄めた。
「明日からちゃんと行くようだ」
食後に珠絵は、母と二人で居間でお茶を飲んでいた。二人は
「さてと、
それでは聞かせてもらいましょうか」
香苗は寝転がっ
「じゃあ今日は早く寝なさい」母はそう言い残して、茶碗と急
須の乗った盆を持って居間を後にした。
たまま、さも楽しそうに言った。
勿論、二日間の「かえっこ」の報告を要求しているのだろう。
離婚指輪 -3
099
それが自分では当たり前って感じなのに、他のバイトの人が何
寧になぞった。「すごく大人だったよ。
テキパキと仕事ができて、
「そうだなあ……」珠絵は、用意しておいた言葉を頭の中で丁
「そう、私がメロンメロンの店長」香苗はすぐに答えた。
余裕があった。
「店長って、あの、香苗がメロメロの店長?」
「店長?」予想していた質問だったので、珠絵には軽口を叩く
「店長はどうだった?」
「うん?」
「ねえ、珠絵?」
を利いた。
れたの」
「うん」珠絵は頷いた。「それでね……、店長さんにお願いさ
「うわ!
本当?」
そうなんだってさ」
「店長さんね、香苗との関係が奥さんにバレちゃって、離婚し
「で、話って何?」
苗だと信じ込んでだよ」
「店長さんが、私に話があるからって。あ、勿論、私の事を香
「え!
何で?」香苗は驚いた表情を見せた。
「実は、店長さんにスタバに呼ばれたの」
「うん、少しね。どこかに寄ってたの?」
帰りが少し遅かったでしょ?」
かとちっても、怒ったりしないで適切に対処してて……」それ
「何て?」
母が去ってしばらくすると、香苗が待ちかねていたように口
は正直な感想だった。嘘はなるべく吐かない方が安全だろう、
でしょ?」
「うん、うん」香苗は満足そうに頷いた。
「それに、格好良い
らない。
長と香苗を遠ざけるために、香苗の方にも手を打たなければな
そのはず、ここまでは本当の事だからだ。問題は、この後。店
香苗はすっかり信じているようだ、と珠絵は感じた。それも
「えっと……」珠絵は、香苗の自尊心を傷付けないように、そ
「今はまずい時期だから、
少しの間、距離を置いて欲しいんだっ
と珠絵は判断した。
れでいて褒め過ぎて疑われないように、慎重に言葉を選んだ。
「距離を置くって?」香苗は眉間に皺を寄せた。
て」珠絵は緊張のあまり、手に汗をかいた。
「えー、それだけ?」香苗は少し不服そうな声を上げた。
「プライベートでは勿論会えないし、バイト先でも、仕事上の
「私、男の人の事、よく分かんないけど、素敵な方だと思ったよ」
「あ、そう言えばね」珠絵は意を決して口を開いた。
「私、
今日、
離婚指輪 -3
100
最低限のコミュニケーションだけにして欲しいって」
「ねえ、香苗、珠絵!」
に遥が飛び込んできた。
「指輪がないの……」
「……本当なの?
本当に、店長がそう言ってたの?」香苗は
「……うん」珠絵は、一拍置いてから力強く頷いた。
「え?」
「怖い顔してどうしたの、遥ちゃん?」香苗が尋ねた。
「そんなあ……」香苗は悲しそうな声を漏らした。
「彼からもらった指輪が見付からないの!」
真剣な眼差しを珠絵に向けた。
「でもさ、考えようによっては喜ぶべき事じゃないの?
だっ
て、今だけ我慢すれば、浮気じゃなくて、正式に付き合えるか
翌日の月曜日、珠絵はクラスメートの京子と菜穂江と一緒に
教室で昼食を取っていた。
もしれないんだよ?」
「……そっか、そうだね」
「珠絵のお弁当っていつも美味しそうね」京子が言った。
をして見せた。
「ほんと、美味そう!」菜穂江は涎を手の甲で拭うジェスチャ
「きっと、そうだよ」
珠絵は、香苗を励まそうとしたのではない。香苗に納得させ
るための方便であった。珠絵の中で、香苗の存在の重要性が相
欲が増す気がする。きっと、ポイントは緑と赤の二色を配置す
毎日、母が作ってくれるお弁当は彩り豊かで、見るだけで食
「ねえ、珠絵」香苗は急に突っ込んだ質問をした。
「正直な所
る事だろう。プチトマトとブロッコリが弁当箱の隅に仲良く並
対的に低くなっていた。
さ、珠絵から見ても、店長って男性として魅力的?
付き合い
んでいる。
が、珠絵は美味しく食べた。
遥の作ったハンバーグも入っている。昨日の夕食の残り物だ
たいって思ったりする?」
珠絵は返事に窮した。イエスともノーとも言えず黙り込んで
し ま っ た。
「もう、何言うのよ」などと言って受け流してしま
遥は外出しておらず、指輪が家の中のどこかにある事は確実だ
遥といえば、昨日の慌てようといったらなかった。昨日一日、
かった。これ以上沈黙を続けるのは流石に不自然で、ひょっと
そうだが、四人で手分けして探しても見付からなかった。明日
え ば 良 い と 頭 で は 分 か っ て い る の に、 何 も 言 葉 を 発 せ ら れ な
して勘ぐられるのではないか、そう珠絵が考え始めた時、居間
離婚指輪 -3
101
線で東京に戻った。
の一限の授業は絶対に休めないからと言って、遥は最終の新幹
一日空いているので、どこか遊びに行きましょう。行きたい所
眠れなくて、遅くまで部屋でワインを飲んでいました。明日は
ありふれたデートの誘いだが、珠絵にとっては特別なメール
はありませんか?》
い。お願い、見付けたらすぐに教えて。そう懇願する遥の姿は
だった。珠絵は何度も読み返し、その度にメールの内容が頭の
指輪をなくしたなんて、とてもじゃないけど、彼には言えな
真剣そのもので、有無を言わさぬ迫力さえあった。やはり、そ
中で店長の声で再生された。
談して適当なデートスポットを紹介してもらうのだが。
いのか分からなかった。相手が店長でさえなければ、香苗に相
珠絵はすぐに返信したかったが、どこに行きたいと言えば良
れほどに大切な指輪なのだろう。絶対に見付けてあげたいな、
と珠絵は思った。
甘い卵焼きに箸を伸ばした時、京子に話し掛けられた。
「珠絵。今日は何だかぼうっとしてるね」
は友人達に尋ねた。
平らげたお弁当を鞄にしまい、リスクを計算した後に、珠絵
「さっきピカデリーに当てられた時も、返事もしないでさ。ピ
「ねえ、今度、年上の男の人と出掛けるんだけど、どこに行っ
「……うん?
そう?」珠絵は覇気のない返事をした。
カデリー、怒ってたよ」
たら良いのかな?」
「……え?」
「ああ……、あれは本当に気が付かなかったの」
ピカデリーとは、頭の薄い数学教師の渾名で、菜穂江が名付
二人は一瞬呆気に取られたが、珠絵の表情から真面目な話だ
と察すると、茶化したりせずに真剣に応じてくれた。
けた。由来は、頭がピカピカしているからではなく、
「頭頂部
にピカデリーサーカスをお持ちだから」だそうだ。なお、ピカ
「珠絵、どういう事?」京子が首を傾げた。
あるレストランに何度か通う内に、そこの店長と仲良くなっ
され、珠絵は赤面しているのを自覚した。
珠絵は、部分的にではあるが、正直に話した。友人達に注目
「うん、実は……」
デリーサーカスとは、ロンドン市にある円形広場である。
午前中は珠絵の得意な数学と物理だったが、店長の事ばかり
考えていて授業に身が入らなかった。というのも、今朝、店長
からメールが届いたからだ。
《おはようございます。昨夜は眠れましたか?
僕はなかなか
離婚指輪 -3
102
の大人で、
一方の自分は男性とデートした経験などない事。
デー
た事。近々、初めてデートに出掛ける事。相手は一回りも年上
「誰?」
「オレ、ウレシイ……」
「どうして片言?」
「まあ、
あれだ」菜穂江は急に真面目な口調に切り替えた。
「あ
珠絵と京子は噴き出した。
トの目的地を提案したいのだが、どこに行けば良いのか分から
ない事。珠絵は、それだけの情報を、慎重に言葉を選び、十分
近い時間を費やして友人達に伝えた。
思う場所に、連れて行ってもらうのが良いのではないのかね?」
んまり背伸びしようとしないで、素直に、珠絵が行きたいって
ろめたいし、得意でないからだ。香苗を演じて人を騙す事には
「どこか、行きたいとこないの?」京子は言った。
嘘は吐かない、という点に珠絵は注意した。嘘を吐く事は後
抵抗がないが、
「かえっこ」は遊びに過ぎない。そして、これ
「うーん、海かな」珠絵は気軽に答えた。同じ質問でも、相手
「うん、いいんじゃない?」京子は菜穂江を無視して話を進め
は遊びではない。
込み入った事情があって正確には自分と付き合っている訳で
た。「彼は、車持ってるんでしょ?
海沿いの道をドライブして、
によってこうも重みが違うものかと驚いた。
はない、なんて言えず、珠絵は黙り込んだ。すると、それ以上
どこかお洒落なレストランでご飯食べながら、海に沈む夕日を
「珠絵、その人と付き合ってるの?」珠絵の話が一段落した所
は追求されなかった。照れ故の沈黙、と解釈されたのかもしれ
二人で見詰めていたら素敵じゃない?」
「オレ、オヨゲナイ……」菜穂江はうなだれた。
ない。
「うん、良いね」素敵だなと珠絵は思った。
で、京子が尋ねた。
「そうか、
そうか」
うんうん、
と頷きながら菜穂江は言った。
「つ
「だって今、春じゃーん」菜穂江は威張るように言った。
「何よ、文字通りって?」京子は目を細めた。
「うん、そうする」そう言って珠絵はバッグから携帯電話を取
「じゃあ、早速メールしたら?」京子は再び菜穂江を無視した。
カナシイ……」
菜 穂 江 は 寂 し そ う に 言 っ た。「 キ ョ ウ コ、 ム シ ス ル。 オ レ、
「そうだけど、
違和感があるなあ……」京子は口先を尖らせた。
り出したが、重大なミスを犯そうとしている事に気付いて手を
いに珠絵に春が、文字通り、春が来たかあ」
菜穂江は低い声で「タマエニ、ハルガ、キタ……」と呟いた。
離婚指輪 -3
103
止めた。
「どうしたの?」珠絵の様子を見て、京子が尋ねた。
「今、仕事中だから、後にするよ」
「ふうん、そう?」
火曜日の放課後、日本海に臨むログハウス調のレストランの
窓辺の席に珠絵はいた。
西側の窓の外では、水没する前に、余剰なエネルギィを吐き
出そうとするかのように、太陽が強烈な輝きを放ち、全てを赤
く染めている。遠くの海面は、粉々に砕けた鏡のようにチラチ
珠絵は、あくまで香苗として店長に接している。そして今、
当の香苗は、店長と一緒に働いているはずだ。タイミング次第
ラと細かく揺れている。
スを着ている。一度家に帰り、遥の部屋の箪笥から拝借したの
珠絵はジーンズの上に、黒地に白百合の柄の入ったワンピー
照らされている。
いる。店長の髭が似合う白い顔も、清潔な白いシャツも、赤く
珠絵の向かいの席には店長が座り、メニューを熱心に読んで
では、どうして香苗がメールを送る事が可能なのか不可解な状
況かもしれない。
それに、運良くその問題がクリアされても、珠絵からの返信
をきっかけに、店長の方から香苗にデートの話をしてしまうか
もしれない。仕事中に二人が近付かないよう、両方に手を打っ
たが、決して安全ではない。
しまう。そのため、店長とは放課後に会う事になるが、店長は
家には母も香苗もいるはずだから、たちまち休んだ事がバレて
勿論、珠絵は学校がある。もし学校を休めば家に連絡が入る。
メニューを捲る手を止め、顔を上げて珠絵に尋ねた。「あ、苦
パスタにしようかな。それで、二人で分ければ良いか」店長は
「うーん……、サラダとリゾットと……、ピッツァと迷うけど
言われた。
であった。そのためか、店長に「いつもより大人っぽいね」と
自分の事をフリータの香苗だと思い込んでいるのだから、昼間
手な物って、あった?」
また、別の問題もある。明日、店長は一日中休みだそうだが、
から会うものと考えている可能性が高い。急用が入ったなどと
「いえ、特には」珠絵は首を振った。
「もう、全部、お任せします」珠絵は、香苗を意識して少し声
「そう?」
嘘を吐いて、待ち合わせを夕方以降にする必要があるだろう。
こうして、一つの嘘を貫くために、次々に嘘を重ねていかな
ければならない。それが億劫だし、心が痛む。
離婚指輪 -3
104
「そう、分かった」店長は爽やかな笑顔を浮かべた。
「じゃあ、
のトーンを上げて言った。
ぱい生えてるでしょ?」
どなあ」店長は言った。
「ほら、
そっちの窓の向こうに木がいっ
中 学 時 代、
「ドルチェ」という渾名の社会科教師がいたが、ど
「ドルチェ?」珠絵は、
その単語の意味が分からず首を傾げた。
スパゲティにしよう。ドルチェは?」
絵は思わず、高い声を出した。
「え?
もしかして、ここでワインを作ってるんですか?」珠
「あれ、ぶどうの木なんだよ」
にくいが、背の低い見慣れない木が格子状に並んでいる。
珠絵は、店長の指差す方向を振り向いた。少し暗くて分かり
う考えても今は関係がない。
「うん」店長は嬉しそうに笑った。
カプレーゼと、ゴルゴンゾーラのリゾットと、渡り蟹のトマト
「最後のページにあるよ」
絵はクレームブリュレを選んだ。
ミスなどの知った名前が並び、デザートの事だと分かった。珠
と書かれ、その下にパンナコッタ、クレームブリュレ、ティラ
か、こんな、家から車で数十分の所で、ぶどうの栽培から本格
部の地域でしか作られていないと思い込んでいた。それがまさ
ランスの片田舎か、国内ではぶどうの産地として有名なごく一
珠絵は素直に感心した。ワインというものは、イタリアやフ
「へえ、すごい」
「車じゃなかったら、ワインを頼むんだけどなあ」店長は残念
的に作られているとは思ってもいなかった。
自 分 の メ ニ ュ ー を 捲 っ て み る と、 最 後 の ペ ー ジ に「 dolce
」
そうに言った。
言った。
「僕は、この風景を見て育ったから、世界中どこでも、太陽は
おもむろに言葉を紡いだ。
店員を呼び付けて注文を済ませると、
店長は窓の外を見詰め、
「あ、ごめん。そういう意味じゃないんだよ。ここ、アクセス
海に沈むものって思い込んでたんだ」
「ごめんなさい、私がドライブを希望したから」珠絵は慌てて
が良くないから、車でしか来れないから」
「ほんと?」店長はしばし珠絵を見遣ったが、また、ゆっくり
「あ、私もです」珠絵は相づちを打った。
バス停などは全く見掛けなかった。
と 視 線 を 戻 し た。
「僕の場合、確か小学校に上がる前だったと
珠絵は黙って頷いた。確かに、ここに来る途中、線路や駅、
「是非、一度、ここのオリジナルワインを飲んでみたいんだけ
離婚指輪 -3
105
思うけど、親父に連れられて仙台に釣りに行った時に、日の出
味に珠絵は感動した。
や遥の作る素朴な家庭料理も好きだが、それとは違った上品な
食後に、二人並んで浜辺を歩いた。
から離れなかった。
しかし、料理を堪能しつつも、直前の店長の話がしばらく頭
前から糸を垂れてて、段々と明るくなってきて、やがて太陽が
海から昇るのを目にして、それまでの常識が覆されたんだ。何
だか、あの時は、怖いって思った。当たり前だった事が、グラ
グラと崩壊する感じが……」
珠絵は何と言って良いのか分からず、黙って店長の横顔を見
「君に、こんな事を言うのもどうかと思うけど、妻の存在も、
トを広げて寝転びたくなった。
歩を進めた。波音と潮風が心地良く、珠絵は砂上にレジャシー
日は落ち、辺りに明かりは少なく、細い月と星の光を頼りに
僕にとって当たり前で……、いや、当たり前だった。もう、僕
「気持ち良いね」店長は言った。
「僕、夏の夜って好きだなあ。
詰めていた。
と妻とは、本当におしまいで……、別れるしかなくて、僕とし
シートか何か敷いて、ここに寝転びたいくらい」
珠絵は店長の方を見て「本当?
私もです」と言った。
ては未練もないつもりだけど、あの時のように足元がグラグラ
として、耳の後ろがザワザワとして……」そう言うと店長は、
をしているのかは分からなかった。
背景との境界がぼんやりと見えるだけで、店長がどんな表情
珠絵は、どうして笑うのだろう、と不思議に思った。
「あの岩の所まで歩こう」
顔をクシャクシャにして笑顔を作った。
その時、最初の料理が届いた。
珠絵が目を向けると、二百メートルほど前方に、周囲の闇から
店長が腕を上げてそちらを指差した事が、気配で分かった。
ただきまーす」そう言って、今度は自然に笑った。
明確に切り分けられた漆黒の塊が確認できた。
「ごめんね。変な話をして。さ、
食べよう」
店長は合掌した。
「い
「はい、いただきます」つられて珠絵も手を合わせた。シリア
「階段から道路に上がって、さっきの駐車場に戻れるから」
も、夏の日中でさえなければ、駐車できる場所など、いくらで
食事の前に車を停めた、レストランの駐車場の事だろう。尤
ス な 空 気 と の ギ ャ ッ プ が 少 し お か し か っ た が、 う ま く 笑 え な
かった。
店長が取り分けてくれた料理を、珠絵は味わって食べた。母
離婚指輪 -3
106
もある。
しばらく歩く内に暗さに目が慣れ、交互に砂を踏みしめる自
「 あ の ……、 皆 は 店 長 の 事、 格 好 良 い っ て 言 っ て ま す け ど
……」珠絵は一気に言い切ろうとしたが、緊張のあまり、つい
やがて珠絵が少し肌寒いと感じ始めた頃に、ふと、肩が布状の
初めは快適だったが、
夜風がむき出しの腕から熱を奪い続け、
見せた。
……」そう言って、店長は肩を落とし、落ち込んだ振りをして
「けど……?
君は格好良いって思わないって事?
そっかあ
言葉に詰まった。
物で包まれるのを感じた。店長が手に持っていたジャケットを
「あ、いや、そうじゃなくて……」演技だろうと分かっても、
分の足の輪郭を、しっかりと目で捉えられるようになった。
羽織わせてくれたのだと分かった。
て思います!」
不慣れな状況に、珠絵は慌てた。「私は、店長の事、可愛いっ
り、珠絵は下を向いて礼を言った。
「え?」店長は驚いて立ち止まった。「可愛い?」
店長の方に目を向けると、近距離で目が合って恥ずかしくな
「寒そうだったから」店長は照れながら言った。
思い切った事を言い過ぎただろうかと心配し、フォローを入れ
珠絵も足を止めた。店長の反応が予想外に大きかったので、
好感を持った。それでも、後で照れている所が、また可愛いと
た。
「いや、格好良いとも思いますけど、その……、可愛い一
店長の、こういった気遣いが当たり前にできる所に、珠絵は
思った。
の偽物」になってしまう。彼が抱く香苗に対するイメージから
で、正体を明かした時、或いはバレた時に、私は単なる「香苗
尋ねた。
「あ、嫌ですか?
可愛いって言われるの?」珠絵は心配して
た口調で言った。
面もお持ちだなって思うんです」
の差に一定の傾向を与え、
「香苗ではない他の誰か」の存在を
「……ううん、逆」店長は首を横に振った。「僕、格好良いっ
そうだ、それを伝えよう。珠絵は思い立った。
少しずつ感じさせるしか、術はないだろう。そのためには、瑣
て言われるよりも、可愛いって言われる方が、実は嬉しいんだ。
「……どうも、ありがとう」しばしの沈黙の後に、店長は畏まっ
末な事でも、自分で考えた事や感じた事を正直に伝えていかな
男なのに……、変かな?」
このままでは、ただ漠然とした違和感が店長の中で募るだけ
ければならない。
離婚指輪 -3
107
「ははは」笑うだけで何も言わず、店長は再び歩き出した。
した。「変かどうかは分かりませんが、今の発言も可愛いです」
「えっと……」珠絵は返答に困ったが、感じた事を素直に口に
「どうしたんですか?
何かあったんですか?」
話を切ると、店長は溜め息を吐いた。
ちで何とかする。うん……、うん……、じゃあ、お大事に」電
いんだって。何だろ、風邪、流行ってるんかな?」
「ミキヤ君が、風邪引いたから、明日のバイトを休ませて欲し
れに沿って設けられた角度のある狭い階段が、道路に向かって
「そうですか……」そう言って珠絵は心配そうな顔をしたが、
しばらくすると、黒岩が目前に壁のように立ちはだかり、そ
伸びていた。店長が先に上り始め、珠絵が後を追った。
ミキヤに対してあまり良い印象を抱いていないため、本当は何
とも思っていなかった。
珠絵が上りにくそうにしていると、店長が振り向いて手を差
し出してくれた。珠絵は迷わずその手を取った。店長の手は大
「それで、
本当に悪いんだけど……」
店長はばつが悪そうに言っ
「え、明日ですか……?」
た。
「明日、入ってくれないかな?」
きく、厚く、温かいと珠絵は思った。
階段を上りきった後も、二人は手を繋いだまま、駐車場に向
珠絵は困惑した。期待に応えたいとは思ったが、勿論、明日
「そう、明日。お願い!」
グリーンのミニクーパに乗り込むと、突然、店長が助手席の
も学校がある。珠絵としては、仮病を使って一日くらい休んで
かって歩いた。
背後に手を回し、顔を近付けてきた。不意を衝かれ、珠絵は目
も構わないのだが、休めば学校から家に連絡が入り、家には母
も香苗もいるのでサボった事がバレてしまう。
を瞑って体を硬くした。
その時、ビートルズの「ホワイル・マイ・ギター・ジェント
ているのだろうから、またレジ打ちだけにして欲しいとは頼め
それに、昨日、香苗がバイトに復帰して、既に本調子で働い
の着メロだ。
ない。かと言って、注文を取ったり料理を運んだりする事は、
リー・ウィープス」のメロディが鳴り響いた。店長の携帯電話
「やれやれ、タイミングが悪いな」店長は苦笑いを浮かべ、珠
私にはまだできない。
そうだ、この事を香苗に伝えて香苗が働けば良いのでは……
絵 か ら 離 れ て 電 話 に 出 た。
「 も し も し?
あ あ、 こ ん ば ん は。
うん……、
うん……、
え?
うーん……、
分かった。良いよ、
こっ
離婚指輪 -3
108
いや、駄目だ。それを私が知っているなんて、どう考えてもお
「うん、じゃあシートベルトして」
「はい、お願いします」
したが、つっかえって、うまく引き出せなかった。
かしい。一体どうすれば……。
「えっと……」珠絵は、とりあえず保留する事にした。
「多分、
「貸して」そう言うと、店長は助手席の方に身を乗り出し、手
「はあい」珠絵は元気良く返事してシートベルトを締めようと
大 丈 夫 だ と 思 う ん で す け ど ……、 何 か 予 定 が あ っ た 気 も し て
伝ってくれた。
「どう?
駄目かな?」
……、一応、家に帰って、スケジュールを確認してから返事を
店 長 の 顔 が す ぐ 目 の 前 に あ り、 珠 絵 は 緊 張 し て 礼 も 言 え な
かった。更に、店長に頬を触られ、心拍が激しさを増して心臓
しても良いですか?」
「うん、分かった。無理言ってごめんね」
が痛いとさえ思った。
珠絵は再びを目を瞑った。
「いいえ。こちらこそ、即答できなくてすみません」珠絵は丁
寧に謝った。
すると、店長は珠絵を見詰めたまま黙り込んだ。
「どうしました?」珠絵は気になって尋ねた。
「どうも、さっきから……、というか今日ずっとかな。何か、
雰囲気が違うんだよね。服装も言葉遣いも大人っぽいし」
「そうですか?」
珠絵は、ひやりとした。確信はされていないようだが、確実
に疑念を抱かれている。まだバレるには時期尚早だろう。
「日々、成長する年頃なんですよ」珠絵は、香苗を演じて軽口
を叩いた。
「そっか。まあ、そうなんだろうね。……じゃあ、そろそろ帰
ろうか」
離婚指輪 -3
章
すぎな感もあるが、礼儀を重んじる中西家にとってはさほど不
自然なことではなかった。
新郎新婦は既に会場入りしており、今頃はヘアメイクや着付
けの最中だろう。両親ともに、娘の花嫁姿を早く見たくて仕方
なかったが、この場所で他の娘達と落ち合う約束をしていた。
「それにしても、二人とも遅いわね。花嫁が待っているという
のに何をしているのかしら」
を家族全員で過ごしたいという気持ちから、そんな台詞を発し
母は呆れるように言った。娘が嫁に行くまでの限られた時間
り響いている。
たのであった。
と書かれた案内板が、色鮮やかな花で飾られた門の脇に立て
かけられ、今日が特別な日であることを示している。
式が始まるまで時間は十分にあり、教会の入り口はまだ閑散
音だけ。頬に触れる店長の手が温かかった。この先の展開を期
珠絵は目を瞑っていた。聞こえるのは自分の心臓の音と波の
時刻は午前十一時。
としている。暑苦しい制服を着た式場のスタッフを除けば、一
待する一方で、冷静な自分がいた。
苗として食事に誘われ、香苗としてデートをし、香苗として…
自分は何を期待しているのだろうか?今の自分は香苗だ。香
「そうだね。三人とも、もういい歳だし、覚悟はしていたけれ
顔を背けながら店長に言った。いや、言ってしまったという
「ごめんなさい…」
愛されている。
二人は中西家の両親であった。父はモーニングコートを、母
ど淋しいものだね」
「とうとうあの子も結婚か。…早いものですね、お父さん」
組の夫婦らしき男女が門のすぐ傍に佇んでいるだけであった。
***
「大谷家
中西家
結婚披露宴会場」
教会の鐘の音が、長く続いた雨の余韻を拭い去るかのように鳴
ないが、その日は梅雨の晴れ間と呼ぶに相応しい晴天だった。
ジューンブライドの最大の欠点が雨であることは言うまでも
4
は留袖を着ている。身内だけの結婚式の割には少々かしこまり
離婚指輪 -4
第
109
110
涙がこぼれた。
方が正しいのだろう。その台詞と同時に、珠絵の目から大粒の
「私は香苗の姉です。双子の姉なの。今まで隠しててごめんな
その言葉の中には明らかに動揺が混じっていた。
「どういうことだい?」あやすような声は変わらなかったが、
さい…」
「ごめんなさい…ごめんなさい…」珠絵は何度も呟く。他の言
葉が出ない。涙が膝の上に落ちるのを、ただ眺めることしかで
気持ちを抑圧することにかけては一流だと自負していた珠絵に
珠絵は、
自分の感情の変化についていくことができずにいた。
としたこと。店長にはすぐに打ち明けるつもりだったこと。ま
魅力的だと思ったこと。だからこそ香苗に話さずに付き合おう
邪を引いて自分が代わりにバイトに行ったこと。店長に会って
珠絵は胸につっかえていたものを全て吐き出した。香苗が風
とって、それは恐怖にも近かった。
すます店長に惹かれていく自分がいたこと、などを包み隠さず
きなかった。
「落ち着いて」店長は珠絵の頭を撫でると、子供をあやすよう
話した。
分かってもらおうとは思わなかった。怒鳴られても仕方ない
に言った。
その声が優しくて、その手が愛おしくて、それが自分に向け
と思った。それでも、これ以上隠し通すことはできなかった。
中西珠絵はそんな人間だった。
られたものではないことが悲しくて…珠絵はますます涙が止ま
らなくなった。
を珠絵は恥じた。やはり自分は駄目だ。こんな自分は誰にも好
りをすることで大胆な自分を演じられる、と錯覚していた自分
かえっこは外面だけであり、内面は何も変わらない。香苗の振
思ったからだ。今は我慢しなくてはいけない、そう自分に言い
は 流 さ な か っ た。 自 分 の 罪 を 涙 で 帳 消 し に す る の は ず る い と
た。その沈黙に珠絵は胸が押し潰されそうになったが、もう涙
最後にもう一度謝って話を締めくくると、車内に沈黙が流れ
「本当に、ごめんなさい」
きになってもらえない。余計なことをして香苗に申し訳ない。
聞かせると、珠絵は凛とした表情で店長を見つめた。
香苗なら可愛く甘えることができたのに、と珠絵は思った。
そんな思いと劣等感から、珠絵は告白した。
「煙草を一本吸ってもいいかな?」
珠絵が頷くと、店長はフィリップモリスの箱を持って車の外
「私は…香苗ではないんです」
それを聞いた途端、店長の表情が困惑から驚きに変わった。
離婚指輪 -4
111
に出た。
珠絵は手持ち無沙汰であったが、さすがに外に出るのには抵
抗があったため、煙を空に吐き出す店長の後姿を眺めていた。
珠絵は先ほど店長に羽織わせてもらったジャケットを返そう
としたが、店長はそれを制した。
「寒いから着てなさい」振り返ってそう言うと、店長は海に目
「こんなことを言える立場ではないんですが…今日はありがと
を戻した。
るだろう。それは当然のことだ。しかし、一番気になるのは、
うございました。楽しかったです」
店長は何を考えているのだろう。きっと、自分には呆れてい
このことを誰かに話すかどうかだ。できれば香苗には自分から
珠絵は素直にお礼を言った。事実、最後は気まずくなったが、
それを差し引いてもお釣りが来るほど楽しかった。
言いたい。許されることではないとしても、自分で話したい。
そう思い、珠絵は身を乗り出して、運転席の少し開いた窓から
「それは良かった。これでも結構考えたからね」
ひとしきり笑った後、店長はそう言うと車の方へ向かった。
「夜も遅いし、もう帰ろう。送っていくよ」
笑い出した。
その返しに珠絵は吹きだしつつ「はい」と答えると、二人で
「可愛い?」
「そういうところが…」
そう言って、店長は微笑みながら煙草の火を消した。
いるように見せながら、内心ドキドキしてたんだよ」
「あまりエスコートするのは得意じゃないんだ。しれっとして
いた。
デートスポットの引き出しは山ほど持っているタイプに思って
珠絵は意外に思った。全くそんな素振りを見せなかったし、
店長に話しかけた。
「香苗には私から話します。それまで、何も言わないでもらえ
ませんか」
店長はそれには答えずに、
「少し外に出てみないかい?」と
珠絵に提案した。
少し戸惑ったが、珠絵は言われたとおりに外に出た。
駐車場を照らしていたレストランの灯りは消え、辺りはすっ
かり暗闇に包まれていた。月と星の光は雲に遮断され、海辺に
いる釣り人の懐中電灯の光がよく目立つ。
その光を追いかけるように眺めている店長の斜め後ろに珠絵
は立った。その位置が珠絵の後ろめたさを表していた。
「これ、ありがとうございました」
離婚指輪 -4
112
珠絵は小走りで助手席に回り、それに従った。
珠絵の家の近くまで来たとき、
時刻は既に九時を回っていた。
「遅くなってしまったね。本当にここで大丈夫?」
「おかえりー。随分遅かったね。何してたの?」
香苗は尋ねた。
珠絵は思わずドキッとしたが、
何事もなかったように振舞う。
「友達とご飯食べてたら、遅くなっちゃって」珠絵は咄嗟に嘘
をついた。
「そう?香苗は今からご飯なの?」珠絵は話を逸らした。
「ふーん。それにしても、こんなに遅いのは珍しいね」
れた国道沿いだった。
「テレビ観てたらこんな時間になっちゃったの」香苗は舌を出
車が停まっているのは、珠絵の家のある通りから二本ほど離
「はい。誰かに見られるとまずいので」
りた。珠絵が家に向かって歩こうとしたとき、背後で車の窓が
ないんだから」母はぶつくさと文句を言いながらも、香苗のた
「ホントよ。早く食べなさいって言ってるのに、なかなか聞か
して、可愛く笑った。
開く音がした。
めにシチューを温めているところだった。
珠絵は苦笑いをしながらそう答えた後、お礼を言って車を降
「明日のバイトの件は気にしないで。
僕のほうで何とかするよ。
「これから遥ちゃんのハンバーグを食べるんだ。お母さん、ま
だ焼けないの?」
暗いし、気をつけて帰ってね。おやすみなさい」
そう言って、店長は車を走らせた。
「はいはい。今できましたよ」母はハンバーグを皿に盛りつけ、
口食べた香苗が眉間にしわを寄せていた。
突然、背後で衝撃音が響いた。振り向くと、ハンバーグを一
ガチッ。
珠絵が手を洗いに洗面所に向かったそのときだった。
「いっただっきまーす!」と言った。
香苗はそれを見ると満面の笑みを浮かべながら、大きな声で
テーブルまで運んだ。
珠絵はその光景を見ながら、ブレーキランプが五回点滅する
シーンを思わず想像したが、
当然車は何事もなく去って行った。
思わずそんな都合のいいことを考えた自分を恥ずかしく思うと
同時に、現実に戻って悲しくなった。
珠絵の人生初デートはこうして幕を閉じた。
「ただいま」
重い足取りでキッチンに向かうと、
そこには香苗と母がいた。
離婚指輪 -4
113
「どうしたの?何か変なものでも入ってた?」母は心配そうに
あれは嘘だね。そんなことを考える余裕もないよ」
「娘が嫁に行くときの父親の気持ちは複雑だとか言うけれど、
「お父さんは緊張しいだからなー。今日はともかく、私のとき
かしいと遥は思った。
に相応しくないほどの汗をかいている父の姿は、何だか気恥ず
父はハンカチで額を拭いながら軽く息を吐いた。初夏の気温
香苗を見た。
***
「お待たせ。お父さん、お母さん」
ない」母が少し膨れる。
「かわいい妹の晴れ舞台だというのに、ずいぶん遅かったじゃ
着た遥の指には、ダイヤの指輪が輝いていた。
加勢するように言った。
「ホントよ。もう、あんな騒ぎはごめんですからね」母は父に
らないようにね」父はすかさず言い返す。
「遥こそ、結婚前に指輪をなくして婚約破棄なんてことにはな
は失敗しないでね」遥が軽く悪態をついた。
「まさか妹に先を越されると思わなかったから、家で少しふて
「二人ともそうやって意地悪言って!
あのときはお騒がせし
そう声をかけたのは遥だった。シンプルな黒いワンピースを
くされていたら、電車に乗り遅れちゃって」そう言うと遥は悪
ました。ごめんなさい!」
遥が困ったように言うと、両親は顔を合わせて笑った。
戯っぽく笑った。
「あなたももうすぐでしょ。ほとんど変わらないじゃない」母
時計の針は十一時二十分を指していた。そんなほのぼのとし
「大丈夫?どうしたの?」珠絵も心配した。
「あいたたた…」香苗は口元を押さえた。
***
た会話をしながら、両親と遥は最後の一人の到着を待った。
の言うとおり、遥の結婚式は目前に迫っていた。
遥が遅れた本当の理由は直前まで自分の式の準備で時間を取
られていたからだが、そんな様子は微塵も見せなかった。自分
のことは置いておいて、
今日の主役を精一杯祝福しようという、
遥なりの優しさだった。
「お父さん、緊張してる?」
遥は、先ほどからそわそわしている父の顔を覗き込んだ。
離婚指輪 -4
114
「いや、フォークを…」香苗は顔を歪めて言った。
どうやら、慌ててハンバーグを食べようとするあまり、思わ
ずフォークを噛んでしまったようだ。
「そんなに急いで食べるからよ。もっと落ち着きなさい」そう
電話の向こうで肩を撫で下ろす遥の様子が目に浮かぶ。指輪
が見つかって本当に良かったと珠絵は思った。
「うん。私、今週は土曜日までバイトがないから届けてあげる
よ。新幹線代はもちろん遥ちゃんの財布からね」
一方的に約束を取りつけて香苗は電話を切った。
と思って理由を尋ねてみた。どうやら、もともと東京観光に行
言いながら、母は温めたシチューの鍋を運ぼうと、鍋つかみに
「…あら?何かしら、これ」母は鍋つかみの中を探り、それを
こうと予定を空けていたらしい。電車代が浮いて喜ぶ香苗を尻
珠絵は、香苗がそんなに長い間バイトに入らないのは珍しい
取り出した。
目に、珠絵は洗面所へ向かった。
手を入れた。と、そのとき。
「あー 」
たが、マスカラが少し取れている他は特に何もなく、ほっと胸
珠絵は鏡に映る自分の顔をじっと覗き込み、涙の跡を確認し
「そんなところにあったんだ!」
を撫で下ろした。
「私がシチューを温めてもらったおかげだね!」香苗は威張る
二人ともニキビのない綺麗な肌であることに加えて、化粧をし
ぜい目元を少し手入れするだけであった。
それは香苗も同じで、
そもそも、珠絵はそんなに化粧をするタイプではなく、せい
ように言った。
なくても十分美人であったからだ。
なり、今日一日の出来事について考えようとした。しかし、疲
そそくさと化粧を落とすと、珠絵は自分の部屋に戻って横に
「香苗、遥に連絡してくれない?きっと心配してるだろうから」
れていたため、すぐに眠ってしまった。
「もしもし?遥ちゃん?うん、
香苗だよー。あのねあのね…な、
な、何と!指輪が見つかったんだよ!」
珠絵は、ドアがノックされる音で目を覚ました。
「はーい」香苗は軽く返事をし、すぐに電話をかけた。
しばらく盛り上がった後に、母がまとめるように言った。
「もう、調子いいんだから」珠絵は呆れた。
「あの子は意外と抜けてるんだから…」
「きっと料理してるときに外れたんだろうね」
三人は一斉に声を上げた。それは遥の指輪だった。
!!
離婚指輪 -4
115
「珠絵?入っていい?」
それは香苗の声だった。珠絵は寝ぼけた頭を強引に覚まし、
落ち着いた後にドアを開けた。
表情で言うと、
「遥ちゃんによろしく言っておくね」と言って
自分の部屋に戻った。
香苗がドアを閉めると、珠絵は静かになった部屋で一人考え
た。頭の中で次々と意見が飛び交う。主な議題は、香苗に打ち
らかというと後者の方が重要だと珠絵は考えた。事実を伝える
「 さ っ き 聞 い て た と 思 う け ど、 明 日 か ら 遥 ち ゃ ん の と こ ろ に
香苗は、ただ珠絵と話に来ただけのようだった。ひょっとす
のはいつでもできるが、自分の気持ちも分からずに行動したら
明けるタイミングと、自分の本当の気持ちの二点である。どち
ると今日の帰りが遅かったことで、何か勘づかれているのでは
後々後悔すると思ったからだ。
行ってくるね。お土産、何がいい?」
ないかと心配したが、それは杞憂だった。
『香苗』ではなく、『珠絵』に向けられた言葉。店長が何を思っ
店長との会話を思い出す。
「東京ばな奈ね。了解。浮いた旅費で買ってくるね」香苗はそ
て話していたかは分からないが、その中に自分を責める気持ち
「うーん…。東京ばな奈とかかなぁ」あまり東京のことを知ら
う言って笑顔を見せた次の瞬間、
急にシリアスな表情で尋ねた。
はないと思った。ただ、自分を『珠絵』として扱ってくれたこ
あの告白の後、短かったけれど、他愛もない話だったけれど、
「…珠絵、何だか元気ないんじゃない?」
とに、こんなにも喜びを感じるとは思わなかった。
ない珠絵は、典型的なお土産を例に挙げた。
「え?」
多分、自分の気持ちをここまで察せられるのは、世界広しとい
ら貰った指輪が入っている。だが、珠絵は引き出しを開けるこ
てもらったお揃いの学習机だ。その引き出しの中には、店長か
ふと、机を見る。珠絵と香苗が中学校に入学するときに買っ
えども、香苗の他にはいないだろう。
とすらせずに、自室を出て香苗の部屋へと向かった。
珠絵は驚いて香苗を見た。
双子というのはつくづく恐ろしい。
「ううん、元気だよ。何で?」
「どうしたの?やっぱり他のお土産にする?」香苗は、珠絵が
珠絵が声をかけると、香苗は少しドアを開けて用件を尋ねた。
を感じながらも、今は何も言葉にすることができなかった。
来たのを不思議がった。
香苗に正直なことを言えないのが辛い。珠絵は、もどかしさ
「それならいいんだ。私の気にしすぎかな」香苗はほっとした
離婚指輪 -4
116
ろに向かうの?」
「いや、そうじゃなくて…明日って、何時頃に遥ちゃんのとこ
に受け入れていた。
一度もなかった。諦めることが癖になっていた自分を、無意識
それに初めて気づいた珠絵だったが、
しかし、嘆きはしなかっ
た。自分は、諦めていても、努力を怠ろうとはしなかった。だ
「特に決めてないけど…お昼くらいかな。どうして?」
「じゃあ、明日の朝には返すから、それまで遥ちゃんの指輪を
からこそ、嘆くのは過去の自分がかわいそうだと思った。
出会いからしてめちゃくちゃなこんな恋なんて、うまくいく
くない。
だけど…自分らしくないかもしれないけれど…今回は諦めた
貸してくれない?」
香苗はきょとんとした。そんな提案をされるとは思ってもい
なかったのだろう。
「こんな立派な指輪を見ることなんて滅多にないから、最後に
て、できるかもしれない。けれども、一度くらい、心の赴くま
はずがない。このまま、何もなかったように誤魔化すことだっ
香苗は腑に落ちないようだったが、珠絵は気にしなかった。
まに好き勝手にやってみたい。その先に待っているのが後悔だ
もうちょっと眺めておきたいなって思って」
「珠絵もそんな年になったんだね。妹として嬉しいよ」香苗は
としても、何もしなければ悔やむことすらできない。
の部屋へと向かった。
珠絵は、今日二度目の告白に向けて心の準備をすると、香苗
まっていた。
ぶ。しかし、それを手に取ることはない。初めにやることは決
店長の指輪の入った引き出しを見つめる。彼の顔が頭に浮か
そして、珠絵は決心した。
ニヤニヤしながらそう答えると、
「朝、私が寝てたら机の上に
でも置いといて」と言いながら珠絵に指輪を渡した。
珠絵は香苗にお礼を言うと、指輪を持って部屋へと戻った。
自室に戻ると、珠絵は遥の指輪をじっと見つめた。そうした
まま、どのくらいの時間が経っただろうか。珠絵は自分が涙を
流していることに気づき、ふと我に返る。
珠絵は、これまでの人生で、自分のやりたいことを貫き通し
たことがなかった。周りに流され、自分の主張は後回しにして
きた。そんな、香苗とは正反対の自分に、疑問を抱いたことは
離婚指輪 -4
117
***
「ごめん、お待たせー。ようやく主役の登場だよ」香苗が遅れ
「みんな今日は…今日は来てくれてありがとう…」珠絵は涙を
こぼしながらお礼を言った。
「まだ泣くのは早いでしょう。困った子ね」母はそっとハンカ
チを差し出した。
「あんたは主役じゃないでしょ」母は冷たくあしらった。
んでいた自分を励まし、相談に乗ってくれた遥。そして…香苗。
に結婚すると言った自分を、温かく受け入れてくれた両親。悩
今日までの日々が珠絵の頭の中を巡る。高校を卒業してすぐ
「もう!こんな大事な日に遅刻するなんて」遥は言った。
大喧嘩して口を利かない時期もあったけれど、仲直りできて本
てやって来た。
「あんたも人のこと言えないでしょ」母はすかさずつっこむ。
て来れた。こんなに尊敬できる妹は他にいないと、胸を張って
当に良かった。
いつも自分の前を行く香苗を見て、ここまでやっ
父がその場を仕切り、全員を式場の中へと促した。
言える。
「まあまあ。やっと揃ったんだし、
早く珠絵のところに行こう」
スタッフに案内され、四人は新婦の待つ控え室に向かった。
結婚という言葉に憧れ、盲目的にここまで来てしまったのかも
珠絵は、花嫁としての自分に、自信を持てずにいた。ただ、
辺りの花が珠絵を彩り、まるで魔法をかけられたシンデレラの
しれない。そんな不安が、
頭の片隅に残っていた。今の自分は、
控え室のドアを開けると、
純白のドレス姿の珠絵が目に入った。
ような美しさだった。
思い描いてきた理想像と、決して同じではないと分かっていた。
ることを誇りに思う。せめて今日くらいは、自分を褒めたい。
いい。完璧じゃなくていい。ただ、今自分がこうしてここにい
それでも、珠絵の心に劣等感はない。自信なんか持たなくて
「うわー!珠絵、綺麗だね!いいな、いいなー」香苗がはしゃ
いだ。
「うん。本当に綺麗」遥は感慨深く言った。
両親は満足気に頷くだけで、言葉も出ないようだ。
「それじゃあ、後で彼と挨拶に行くから、みんなは親族の控え
感慨に耽った後、珠絵は涙を拭いて家族に言った。
いた自分に、勇気を与えてくれる家族がいることを、心から幸
室で待っててくれる?」
珠絵は家族の賞賛を嬉しく思った。式の直前で不安になって
せに思った。
離婚指輪 -4
118
斉唱に続いて聖書の朗読が終わり、いよいよ結婚の誓いへと
進む。新郎が名前を呼ばれ、返事をしている。
「あら、『彼』だって。本当は何て呼んでるの?」遥が冷やか
し気味に言った。
「珠絵、ちゃんとつっかえずに言えるかな」香苗は緊張した面
持ちで珠絵の後姿を見つめた。
「ほらほら、珠絵もいろいろと準備があるんだから、うちらは
ここらで退散しよう」
香苗が「私もそろそろ結婚しようかな」なんて発言をして、両
「新婦タマエさん」神父が片言の日本語で珠絵の名を呼んだ。
差しで珠絵を見守った。
「ほら、珠絵の番だよ。静かに」そう言う遥も、心配そうな眼
親を驚かせている様子が微笑ましかった。いつもの家族の光景
「はい」珠絵は返事をした。
父の提案で全員はしぶしぶ部屋を出ることにした。去り際に
が、珠絵の緊張をほぐした。
「いよいよだね。何だかわくわくするね、遥ちゃん」香苗は珠
いときも、これを愛し、これを敬い、これを慰め、これを助け、
ときも、喜びのときも、悲しみのときも、富めるときも、貧し
「あなたは新郎イツキさんを、その健やかなるときも、病める
絵の結婚を自分のことのように喜び、満面の笑みを浮かべた。
その命ある限り、真心を尽くすことを誓いますか」
珠絵は少し間を置き、精一杯答えた。
「はい、誓います」
幸せと希望に溢れた、その言葉を。
(了)
「そうだね。もうそろそろ始まるのかな」そう言って前を向く
と、祭壇に立つ神父の姿が目に入った。遥が慌てて指に人差し
指を当てた次の瞬間、結婚式の開始が宣言された。
パイプオルガンの音が会場を包み、新郎が介添人と共に入場
し、祭壇前の右側に立つ。続いて現れたのは、緊張した面持ち
の父と、堂々とした珠絵の姿。まるでドラマのワンシーンのよ
うに、二人がバージンロードを進む。父から新郎へと珠絵が引
き渡されると、二人は神父の前へ進み、そこで音楽が止まった。
神父の合図を受けて、全員が立ち上がり、結婚式の定番である
賛美歌三百十二番を歌い始めた。
離婚指輪 -4
119
離婚指輪 -4
120
マイナースポーツあれこれ
鎌田
智大
夏季五輪競技の一つ。
最も有名なセーリングのレースとして、アメリカスカップが
大会としては世界最古のものだ。レース名に「アメリカ」とあ
ある。一八七〇年から現在まで続いている、現存するスポーツ
古今東西には、実に多くのスポーツ競技がある。しかし、数
るが、二〇〇八年現在、カップ保持国はアメリカではない。な
多ある競技の中で、我々の目に日常触れるものは案外少ない。
この競技の特徴として、競技終了後に結果が確定するまで非
んと、海無し国のスイスがカップを防衛している。
(特にチベットやフランス)にて話題騒然となっているが、そ
常に長い時間を要する場合がある、ということが挙げられる。
例えば今夏開催予定の北京五輪が開催前から早くも各方面
こで行われる全二八競技について御存知の方はほとんどいない
ゴール後に順位が変動することが往々にしてあり、その審議に
レース中、進路妨害や艇同士の接触などの事故(ケースとい
のではないだろうか。クレー射撃や近代五種などはテレビ中継
本コラムでは、普段は日の目を見ることのない、マイナーな
う)が発生した場合、責任のある側の艇にペナルティが課せら
時間を費やすためだ。
部類のスポーツ競技をいくつか挙げ、その興味深いポイントを
れる。被害者側に救済が与えられる場合もある。しかし、広い
もあまりされず、競技を見たことさえない方が多いと思う。
ピックアップして紹介したい。
レース海面上の全艇に審判の目が届くわけではないため、ケー
トレースのことであるが、ヨット以外にもサーフボードを使っ
得る、雄大で爽快なスポーツである。
平たくいってしまえばヨッ
ス競技を、セーリングという。大自然の力を利用して推進力を
海上において風を帆(セール)で受けることにより進むレー
とになる。プロテスト委員会の審問とは、さながら簡易的な裁
競技者たちから証言を聴取し、その真偽を吟味して審問するこ
録映像がなかった場合には、抗議者・抗議対象者・周辺にいた
委員会での審問を経て処置が決まる。近くに審判艇がおらず記
場合、レース後に抗議や救済要求が申し立てられ、プロテスト
スがあってもそのままレースが進行することが多々ある。その
たボードセーリング(ウインドサーフィン)も競技種目に含ま
判のようなものなのだ。
【セーリング】
れるため、
近年ではセーリングという競技名で統一されている。
マイナースポーツあれこれ
121
の件数はレースが終わってみないとわからない。そのため、競
汲んでいるため、見栄えの派手なエアーが好まれる。それに対
モーグルは、アメリカのエクストリームカルチャーの流れを
クな競技である。
技結果の発表時間を予想するのは不可能である。抗議がなく、
してエアリアルでは、シンプルで精密な美しさを持つジャンプ
審問に要する時間はケースによって異なり、抗議・救済要求
すぐに結果が確定することもあれば、夕方の一六時に終わった
が評価対象となる。体操やトランポリン、水泳の飛込種目など
台での試技による技術認定を受けなければ、雪上では練習にさ
危険だ。トランポリンで練習を積んだ後にウォータージャンプ
競技特性上、初心者が練習なしにジャンプをするのは極めて
に近い競技といえる。実際、体操出身の選手の割合が高い。
レースの結果が深夜二時に確定することもざらにある。
また、風力の影響を強く受ける競技のため、開始時刻も気象
条件に左右される。競技の安全性を考えれば、風が強過ぎても
弱過ぎてもレースは開始できないのだ。
そういったことから、セーリングという競技は、いつ始まり
そういった敷居の高さのためか、冬季オリンピック競技種目
え参加できない。
ミ泣かせな競技であるといえる。この競技特性を揶揄して「航
の一つであるにもかかわらず、競技人口は極めて少ない。日本
いつ終わるか全くわからない、競技記録担当者泣かせ・マスコ
海先に立たず」としばしばいわれるが、セーリング関係者の前
においては、数名の男子プレイヤーはいるものの、逸見佳代選
よ
でうっかり口にすると彼らを激しく怒らせることになるので気
手がトリノ五輪後に引退して以降、女子選手数がゼロになって
びふかちょう
へんみ か
をつけたい。
しまった。
て、空中回転をするスポーツ。回転数、高さ、空中姿勢・着地
あと、キッカーと呼ばれるジャンプ台からほぼ垂直に宙に舞っ
モーグルと同じフリースタイルスキー競技の一種。直滑降の
導者を町へ招いている。競技はなんでもいいからどうしても息
いう計画だ。最高級の練習環境を整え、国内トップレベルの指
アルのクラブチームを作り、地元から五輪選手を輩出しようと
二〇〇五年にエアリアル・プロジェクトを立ち上げた。エアリ
こ の 競 技 人 口 の 少 な さ に 注 目 し た 北 海 道 美 深 町 で は、
姿勢の美しさで採点され、その得点を競う。初めて目にした際
子・娘をオリンピックに出したい、という野望をお持ちの保護
【エアリアル】
には「危ない!」
と思わず目を覆いたくなるほどアクロバティッ
マイナースポーツあれこれ
122
方は多くないだろう。日本発祥である男子新体操は、世界的に
ポーツである。だが、新体操に男子種別があることを御存知の
エアリアルの有名な選手を一人紹介しよう。トリノ五輪に参
は普及していないため国際大会で行われることもなく、新体操
者の皆様には、美深町への移住を強くお奨めしたい。
加したアルゼンチンのクライド・ゲティ選手(当時四四歳)だ。
ファン以外の目に触れる機会は少ない。
男子新体操と聞くと、男子がレオタードを着てリボンを回す
なお、オーストラリアとニュージーランドを除く南半球の国々
はウィンタースポーツ後進国である。
顔面で着地した上にスキーが脱げてしまうという大失敗ジャン
は二回転用の小さなジャンプ台を使った。しかも彼の試技は、
て、男子では宙返りやバック転など(タンブリングという)の
女子では華麗さや柔軟性を強調した動きに特徴があるのに対し
だが、男子新体操には、女子とは違った美しさ・迫力がある。
といった少し気色悪い様子を想像する方もいるかもしれない。
プだった。それにも関わらずゲティ選手は、試技の後に晴れ晴
力強くアクロバティックな動きが特徴的だ。また、手具も女子
若い選手たちが三回転の試技を次々と成功させる中、彼だけ
れとした満面の笑みで、場内に向けて大きなガッツポーズのパ
と異なり、縄や棒など、どことなく和風テイスト漂う手具が用
いられる。筆者がこの競技を初めて見た時には「もし忍術に演
フォーマンスをしてのけた。
場内の観客は、彼を讃えて大きな喝采を上げた。テレビ中継
において年齢や環境はそれほど重要でなく、その環境の中でど
具は用いず、チーム(六人)で同時に演技が行われる。徒手(動
最も注目すべき種目は、何といっても徒手団体であろう。手
武の型があればこんな風だろうか」と感じたものだ。
れだけ頑張るかが重要なのだ、ということを身をもって堂々と
き)の同時性の美しさもさることながら、六人同時タンブリン
の実況や解説者までもが感動で言葉を失った。彼は、スポーツ
示した偉大なアスリートである。
グのダイナミックな躍動感などは筆舌に尽くしがたい。
新体操については皆さんもよく御存知であろう。英語ではリ
知られている。しかし、日本体育協会は「国際性がない種目」
がそれぞれ春・夏・秋に行われ、男子新体操の三大大会として
現在、高校生の国内大会は、全国選抜・インターハイ・国体
ズミック・ジムナスティクスという。その名のとおり、音楽に
として、今年の大分国体を最後に国体種目から外すことを決定
【男子新体操】
合わせてボールやフープなどの手具を用いて体操演技を行うス
マイナースポーツあれこれ
123
声が上がっているが、現時点において認知度が低く国際性に欠
した。それに対して日本体操協会や体操ファンから強い反対の
過酷な状況でアイロンをかけることが、なおエクストリームで
自然環境下で服にアイロンをかけるスポーツだ。そして、より
トと呼ばれる)たちは、岩山をロック・クライミングしながら
あり、良しとされる。このスポーツのプレイヤー(アイロニス
そんな逆境にある男子新体操だが、苦しい状況に対して指を
のアイロニング、激流を下るカヌー上でのアイロニング、潜水
けることは否めない。
くわえているだけではなく、海外遠征を行っての国際普及活動
ある天気の良い日、フィル・ショウというイギリスのロック・
しながら海中でのアイロニングなど、常識では考えられないよ
この大会は、全国の高校の男子新体操部が演技をビデオ撮影
クライマーが、自宅の裏庭でアイロンをかけた。これが、エク
など、様々な取り組みが行われている。最近の普及活動の中で
し、その録画を見て公認審判員が採点することで行われる。応
ストリーム・アイロニングの発祥とされている。一九九九年、
うな極限状況でのアイロンがけに挑戦する。その様は勇敢で、
募のあった全演技の動画は、動画投稿WEBサイト・YOUT
彼はこの極めてエキサイティングな競技を広めるため、世界中
興味深いものに、
「男子新体操全国WEB選手権大会カルピス
UBEにおいて公開される。また、上位チームから一般WEB
を旅しながら普及活動を始めた。その功績を讃え、フィル・ショ
かつ馬鹿で、人々に大きな感動と笑いを与える。
投票などにより特別協賛賞を選出し、表彰の対象とする。WE
ウは世界中のアイロニストたちから尊敬の意をこめて「スチー
ソーダカップ」がある。
B上での競技会は、日本体育協会加盟の中央競技団体が主催す
ム」と呼ばれている。
世界のトップアイロニストたちの記録をいくつか紹介しよう
るスポーツ大会としては、他に類を見ない新しい試みだ。ぜひ
この大会が成功して、男子新体操の普及発展につながるように
①二〇〇四年一月、アイロニスト「アイロンマン・カリック」
②海中における最深深度アイロニング記録は、
「ダイブ・ガー
ロニング記録である。
ル)でのアイロンがけを達成した。これは現在の最高高度アイ
がアルゼンチンのアコンカグア山の頂点(高度六九五九メート
と願う。
【エクストリーム・アイロニング】
最後にとびっきりマイナーなスポーツを取り上げよう。
エクストリーム・アイロニングは、山、川、砂漠、海などの
マイナースポーツあれこれ
124
一三七メートル。
ル」ことルイーズ・トレワバスがエジプト沖で達成した、深度
上での単独無酸素軽装備エクストリーム・アイロニング」だそ
でのアイロニングを達成している。彼の夢は、
「エベレスト頂
本 コ ラ ム を 読 ん で、 だ ん だ ん と こ の ス ポ ー ツ に 挑 戦 し た く
うだ。
に出走し、アイロンをかけながらフルマラソンを四時間八分で
なってきた方もいるだろう。エクストリーム・アイロニングは、
③クリース・ライトニンは、二〇〇四年のロンドンマラソン
走破するという記録を打ち立てた。無論、アイロンがけに必要
誰にでも容易に始められるスポーツだ。場所は、創始者の「ス
チーム」同様、まずは自宅の裏庭から始めるのがいいだろう。
な道具は全て持ったまま走ったのだ。
④二〇〇七年一月、チームN2iの一員、ヘンリー・クック
そうして屋外でアイロンをかけていれば、あなたも立派なエ
初心者がいきなり山頂などでアイロニングを行うのは危険を伴
世 界 大 会 も こ れ ま で 何 度 か 開 催 さ れ て い る。 第 一 回 大 会 は
クストリーム・アイロニストである。だが、
「なぜこんなバカ
ソンは、南極の到達不能極においてユニオン・ジャックの旗に
二〇〇二年九月にドイツのミュンヘン郊外で行われ、思いのほ
げたことを?」と人に問われることがあるかもしれない。その
うため、あまりお勧めできない。道具は、アイロンとアイロン
か多数集まった観衆・マスコミの喝采を得て成功裏に終わった。
時には、こう答えるのがアイロニストたちのお約束となってい
アイロンをかけた。彼らは、全行程一六〇〇キロ以上を徒歩と
今年九月にも世界大会を予定していたようだが、北京五輪と時
る。
台、あとは洗濯物がいくつかあればいい。
期が近いために注目が得られないという理由で、来年に延期さ
「そこにシワがあるからだ」
カイトスキーの使用のみで踏破した。
れてしまったようだ。
ここまで読んでも、まだ冗談だと思っている方もいるかもし
れない。だが、国際統括団体(EIB、エクストリーム・アイ
ロニング事務局)も存在する、れっきとした国際的スポーツ競
技である。日本事務局(EIJ)も存在し、少ないながらも日
本人アイロニストがいる。そのうちの一人、松澤等は富士山頂
マイナースポーツあれこれ
東の夜、女と革命と
落
雅季子
126
辻森は温めた焼酎をグラスに半分ほど注ぎ、そこに梅干しを
士だった。
ら家に泊めてくれないかと頼まれたのだった。彼は一言「雑煮
そんな彼から先日急に電話があり、新年を日本で迎えたいか
ながら言う。
を食いたいから」という理由をあげて辻森を呆れさせた。辻森
入れた。はるばる日本を訪ねてきた古い友人に、その酒を勧め
「記念すべき統一後の初の新年を、ドイツで迎えなくていいの
がもう一度理由を尋ねると、今度はやや真剣に「新しいドイツ
辻森の向かいに座っていた女が微笑む。もっとも、彼女の言
の、楽しみだったの」
「いらしてくださってうれしいわ。キョウイチの友達に会える
を外から眺めたいんだ」と低い声で言った。
か?」
食していた蕎麦の器に箸を置き、友人は答える。
「ああ、特に拘ってはいないよ」
ミハエル=リヒターは、辻森と同い年のドイツ人である。正
確には、旧西ドイツ人と言うべきだろうか。長きにわたる冷戦
葉も日本語ではなかったのだが。
イリア=ディアコヌ、辻森の婚約者のルーマニア人である。
の象徴であったベルリンの壁は崩壊し、今年の十月、ついに東
西ドイツは統一を果たしている。世界中を湧かせた歴史的一年
辻森が知人を通してイリアと出会ったのは、二年前に遡る。
当時ルーマニアを支配していたのは、共産党のチャウシェス
ている。
色の髪と、何かに怯えたような緑の瞳が印象的だったのを覚え
拙いドイツ語で、彼女は確かにそう言った。まっすぐな亜麻
「ルーマニアから亡命してきたんです」
が正に暮れんとしている夜、国籍を違えた三人の男女が、日本
のとあるアパートの一室に集っていた。
「さすがは独り者だな、自由を謳歌しているというわけか」
辻森恭一、二十九歳。父の海外転勤について、中学校から高
校にかけてを西ドイツで過ごし、大学時代にも留学していた経
験を持つ。某出版社を退職して、現在はフリーの翻訳家の仕事
ミハエルは辻森の十年来の親友で、西ドイツ国籍を持ったス
に政治的・言論の自由はなく、自らの保身のために盗聴や密告
ていた。東欧の多くの社会主義国がそうであったように、国民
ク大統領であり、その不透明な国内情勢は世界中の不信を買っ
ラヴ系の混血である。東欧と極東。全く異なる人種でも、西洋
が日常の出来事となっていた。疑心暗鬼がいりみだれ、友人や
をしている。
の文化の中では、同じ『東』というキーワードで結ばれた者同
東の夜、女と革命と
127
肉親でさえ信用できない恐怖。極端な社会主義は農村の貧困を
い。
された血の意義を見い出せないなら、彼女が帰国する意味はな
イリアにも理解できるよう、ドイツ語と英語を交ぜながらの
生み、耐えきれずに逃亡を企てる者も多かったと聞く。
正規の方法でパスポートを手に入れたのなら、余程の金がか
会話が続く。
「頂上にあるものを破壊すれば、すべては変わってゆけるのか
辻森は、ひび割れてごわごわになった女の
―――
手を見つめながら、そんなことを思っていた。辻森は、イリア
な」
かっただろう
の亡命生活の面倒の一切を見てやった。彼女から直接聞いた東
「ルーマニア大統領のことか?それとも、ベルリンの壁?」
に、秩序がもたらされるはずもない。革命から一年が経った今
恙なく革命は成し遂げられた。しかし、舵を取る者がおらぬ国
雄だったはずなのだ。月日と権力は、人間を歪めてしまう。
れた独裁者だったが、彼とて元は大国からの独立を目指した英
チャウシェスクは四半世紀ものあいだルーマニアを恐怖に陥
「リーダーが狂うと、独裁者と呼ばれるんだよな」
れを無言で肯定し、
ふたたび気まぐれに思いの端を言葉に紡ぐ。
辻森の呟きに、ミハエルが心得たように問い返す。辻森はそ
欧の状況には、体験という裏付けがある分、残酷なリアリティ
があった。
昨年の年末、民衆の暴動から始まった革命で、大統領夫妻は
処刑され、
チャウシェスク政権は倒れた。時代の流れに乗って、
も、ルーマニア国内の状況は混沌として低迷し、依然暗雲が立
「独裁者か…ドイツ人には耳の痛い単語だね」
つつが
ちこめたままである。
指輪を見て、ミハエルが辻森にささやく。
中身が、何やら滑稽でもある。
肘掛け椅子に腰を下ろした。欧米人の風貌に似合わぬグラスの
ミハエルが皮肉っぽく笑う。先ほどの梅焼酎を一口すすり、
「彼女、もうルーマニアには戻らないのか」
「キョウイチ、お前は何かに命を懸けられるか?」
イリアが席を立ち、食卓を片付け始めた。彼女の薬指に光る
「俺と結婚するっていうことは、
たぶんそのつもりなんだろう」
昧な問いかけなど有り得ない。単刀直入な質問に、辻森は一瞬
唐突なミハエルの言葉に、辻森は我に返った。ドイツ語に曖
今思えば、祖国の革命が彼女に日本永住を決意させた理由なの
反応が立ち後れた。
今年に入ってから、イリアは積極的に日本語を学び始めた。
だろう。数多の命を吸い取った祖国の航路に希望を持てず、流
東の夜、女と革命と
128
「命、と言うと?」
憂国の士。テレビで観た東欧の人々には、そんな形容が似合
う。彼らは皆、瞳に光を宿していた。自由、富、正義。何かを
真剣に求め、絶望から這い上がろうとする人間の瞳はなんと美
複数の言語を使い分ける者特有の、言葉に対する敏感さとい
うものがある。辻森は眉根を寄せ、彼の次の言葉を待った。
しいのだろうと、辻森は場違いな感動を覚える。同時に、日本
く胸に迫るのだった。辻森が先ほど思い浮かべた作家は、恐ら
「そうだな。もし『国の未来のために死ねるか』と尋ねたら?」
を突かれる思いがした。そのような問いは、すでに日本では消
く日本中でそのきらめきを有していた最後の人種であろうと思
人は彼らの持つ光をとっくに喪失している事実が、やけに寂し
滅している。いや、戦後の日本はそれを抹消すべく突き進んで
われた。
イリアがかすかに眉を動かした。それを見た辻森は、ふと胸
きたのではないか。今もその問いが現実に機能している国があ
「 お 前 は 国 や 信 念、 何 で も い い。 何 か の た め に 死 ね る と 思 う
ミハエルは表情を変えずに、更に続ける。
済大国で安穏に暮らす自分たちに、革命指導者の心理は理解し
か?」
ることのほうが、辻森にはどこか夢のように思える。東洋の経
がたい。しかし、辻森はどこかで彼らを羨ましく思うのだ。自
「たとえば、日本には切腹して死んだ作家がいただろう?何と
う何処かへ消えてしまってる」
「この国は、平和すぎるよ。命を懸けるなんていう考えは、も
辻森は考え込み、自分を弁護するようにゆっくり答え始めた。
いう名前だっけ?俺は、彼の死に方は非常に日本的であるし、
「だが、日本人は死を美徳として捉える傾向があるだろ?」
らの手で、国の未来を変えたと実感できる東欧の人々を。
信念に支配されていたと思うんだよ」
辻森は、自衛隊市ヶ谷駐屯地のバルコニーに軍服姿で立って
ミハエルが言っているのは、そうした日本人の美意識のことで
敗れることで自らを弔い、
自分の死に意味を持たせようとする。
運命に抗い、それでも敗北を悟ったとき、人はせめて美しく
いた男の最期を思い浮かべた。そのニュースは日本で見た記憶
あろう。
「ああ」
があるから、当時自分は中学にも上がっていなかったはずだ。
「うん…まあ、そうかもしれないな」
そ ん な 自 分 の 答 え す ら も、 や は り 曖 昧 で 日 本 的 だ と 辻 森 は
しかし三島由紀夫を持ち出してくるあたり、
日本通の彼らしい。
「変革を求める人々は、みんな同じ瞳をしているね」
東の夜、女と革命と
129
思った。
「お前は、ドイツ語で話していても日本人なんだなあ」
ミハエルが苦笑して言う。たった今考えていたことを見抜か
れて、辻森は反論できずに肩を竦めた。彼が常に抱えているコ
ミハエルはいたずらっぽく笑ってみせた。
「俺にも一本くれないか」
「いいよ」
ミハエルは箱を一振りして、器用に煙草を差し出した。それ
かし、辻森は故郷と言える場所を持たず、日本にもドイツにも
つ人間を羨む心境に似ている。祖国を愛さない者はいない。し
それはちょうど、東京に生まれ育った者が、地方に実家を持
な、静かな夜だった。今は闇に閉ざされていても、明日になれ
に星はなかった。じりじりと煙草の燃える音まで聞こえるよう
気と煙が肺を満たして、しんと痛んだ。空を見上げても、そこ
梅焼酎の酔いが、ふわりと醒めてゆく。深く息を吸うと、冷
をくわえて火を点けると、寒さを承知で辻森は窓を開けた。
完全には溶けこめない自分の存在を掌握しかねてきたのだっ
ば太陽は東から昇る。辻森は、そう信じたかった。
ンプレックスを、ミハエルは鋭く指摘してきたのである。
た。
「煙草、吸っていいか」
「失われた祖国に乾杯」
言いながら、イリアがテーブルに湯飲みを置いてくれた。
ミハエルが、胸ポケットから煙草のソフトパッケージを取り
出す。
が、ミハエルもイリアも、虐げられ続けた輝きを覚醒させ、成
今夜ここに集った者は、皆、祖国を持てずに迷っている。だ
辻森は灰皿を探して、押しやった。ミハエルはクリーム色の
就させた国の人間である。その点で辻森は、与えられた環境に
「ああ」
箱を叩いて、中身を一本取り出し、マッチを擦って火を点けた。
甘んじてきた自分と、開拓者である彼らとの隔たりを強く感じ
湯飲みに口を付けた。温かい。イリアの日本茶の煎れ方も、ず
黙って窓を閉めると、ため息ともつかぬ息を吐いて、辻森は
疎外感に敏感なことを自覚していた。
るのだ。辻森は、常に客観的であろうとするがゆえに、自分が
「珍しい物吸ってるな」
辻森はその銘柄に目を留めた。
「そうか?きれいだと思って買ったんだが」
「日本じゃ、いいオヤジが吸うような銘柄だぜ」
「名前が気に入ったんだよ」
東の夜、女と革命と
130
いぶんと上達したものだ。
言え、独身働き盛りは忙しくて困るよ」
鞄から書類を取り出したミハエルを、辻森は「おい」と呼び
止めた。
「俺だってドイツ国民だからな。国の行く末は案じているさ。
国民の犠牲に意味があったとするなら、その代償は今後の平和
「明日の朝は、雑煮だからな」
ミ ハ エ ル が 寝 室 へ 去 っ た 後、 日 本 茶 を 飲 み な が ら イ リ ア が
「キョウイチの友達、とてもいい人ね」
その言葉に彼は
「楽しみにしてる」と笑って、
居間を後にした。
と安定で示してもらわなくちゃならない」
それまで装っていた無関心を打ち消すように、低い声でミハ
エルが呟いた。彼の瞳はきらきらと情熱的な、しかし静かな色
を湛えていた。
「ああ、やっぱり煙草は、冬がいちばんうまいな」
言った。
「そうかい、言うことの堅い男だろ」
ミハエルは、すぐさま表情を崩して茶化してみせたが、辻森
は友人の口調に秘められたエネルギーを感じ取っていた。思い
「あなたとよく似てるからよ」
い年の、始まりだった。
気がつくと、時計はいつのまにか十二時を指していた。新し
表情を緩める。
イリアはうれしそうに、声を立てて笑った。辻森もつられて
を馳せる先は違えども、イリアも彼と同じ気持ちに違いなかっ
た。彼女は椅子に座ったまま、ときおり緑の瞳をつむり、不安
定な今宵の暗闇に耐えているようであった。ミハエルは、そん
なイリアをじっと見ながら、二本目の煙草をふかしていた。
やがて灰皿に煙草を押しつけて消すと、ミハエルはイリアの
「明けましておめでとう」
辻森は時計を見ながらイリアに声を掛けたが、返事がない。
方を向いた。
「あなたの国にも、朝が来るように祈っていますよ」
ふと見ると、イリアはミハエルが置きっぱなしにした煙草の
極めてシンプルで、普遍的な単語を見つめ、イリアは遠い何
Peace.
箱を手にとって、じっと眺めていた。
「ええ、ありがとう…」
イリアは噛みしめていた薄いくちびるを解き、目を細めて答
えた。薬指の指輪を、セーターの袖口で磨きながら。
「よし。それじゃ、これから部屋で一仕事するかな。休暇とは
東の夜、女と革命と
131
処かのことを思っているようだった。
「イリア」
もう一度呼びかけると、彼女ははっと顔を上げた。
「何を考えていたの」
イリアは無言で首を振ると、立ち上がった。静かに辻森に近
づき、両腕で強く抱きしめた。
「私、この国で生きていきたい」
丁寧な発音の日本語で、イリアは確かにそう言った。そこに
は、先ほどまでイリアを支配していた危うさは、もうなかった。
辻森はそっと身体を離すと、イリアの瞳を見つめ返し、深く
頷いてみせた。
たぎ
今、イリアの薬指で清楚なきらめきを放っている宝石は、改
革者たちの荒々しい命の滾りとは異なる、安らかな光を持って
いた。辻森は、その光をとても美しいと思う。そして彼にはそ
れが、混沌とした東欧の未来よりも、遙かに確実な幸福である
ように思えるのだ。
(了)
東の夜、女と革命と
這入るものと迫りくる闇
案西
稿志
134
気が付くと隣で彼女が寝入っている。薄暗い室内に吹く初夏
の風は少し涼しく、少しベトついていた。
網戸越しは薄曇りで、
五分も歩けば汗が噴き出してきそうな、
そろそろ夕飯の時間かな。お隣さんはどうやらカレーみたい
だ。逆のお隣はオーソドックスに和食か。鯖の塩焼の香りがす
る。
斯く云う我が家は何だろうか。アラカブの煮付けかはたまた
いかにも梅雨入り直前といった雰囲気である。
上半身を起こし枕元に目を遣ると生まれたばかりの小さな
豪華に鴨鍋か。まだ家主は帰宅してないようだ。腹が減ったの
なめくじ
蛞蝓が畳の上を這っていた。その後ろには、這ってきた道筋通
に催促できないときってのは居候の肩身の狭さをひしひしと感
空想に浸っていよう。
じる。でもまあまだ死にそうな程でもないし、もう少し楽しい
りに彼の体液がてかてかと不気味に輝いている。
暫く観察していると、蒲団からはみ出した彼女の指から掌へ
と這い上った。無数に分岐した支流からその源流を辿るように
とは、
明日は雨かもしれない。そういえばさっき用水の傍を通っ
もう日が暮れようとしているのにこんな蒸し暑さだというこ
やがて左袖へ這入っていく素振りだったので僕は立ち上がり
たときに水面を覗き込むと、くすんだ色の真鯉も色鮮やかな錦
指先から掌、掌から手首へと進んでいく。
彼を摘まみ上げて、
放り投げようと網戸を開けた。すると、
ねっ
鯉も仲良く水草の茂みに身を寄せていた。
海の向こうのでっかい国の南の方じゃ、丸揚げにして餡を掛け
ところなのに。いや、
鯉こくか洗いもいいかな。聞いた話では、
水が苦手でなけりゃ直ぐにでも取っ捕まえて齧りついてやる
とりと湿った空気の中で一匹の猫と視線がぶつかったのであ
る。餌を求めるでも僕の行動を咎めるでもなく、事の成り行き
をじっと見守るような目で佇んでいた。
猫の足元に彼を放り投げても微動だにせず、只こちらに視線
て食べるらしいじゃないか。考えるだけで涎が垂れそうだ。
あとはあれだな、この時期南国っぽい枝の分かれ目に薄橙色
を向け続けていた。
そんなことが起こったのに彼女は起きる気配もなく、死体の
の実を付ける、琵琶とかいったっけ。あれも美味い。何年か前
にここの家主が近所で貰ってきたのを、当時まだ元気にこの辺
ように寝息も立てなかった。
僕は猫と視線を逸らせないでいた。
と、そんな夢を見た。
りを仕切っていた婆さんと綺麗に並んで庭先で食べたっけ。
這入るものと迫りくる闇
135
あの婆さん、この頃姿を見掛けないところを見ると、あの歳
橋の下をうろうろしていると、少し茂みの開けた場所で四脚台
将をしているらしい。こんなシチュエーションで、オツだなぁ
に真剣な面持ちで向き合う四人の老夫を見た。何やらこの国の
これだけ待ってもまだ帰ってこないってことは家主さん、今
と思った記憶がある。近寄っていくとそのうちの一人が手招き
だしそろそろ天に召されたのかな。新参者の自分にも、最初か
日は外食かな。諦めて他の宛を廻るとするか。商店街まで行け
をし、少しの割き烏賊をご馳走してくれた。卓上の状況が気に
ものではない言葉と大量の爪楊枝らしき棒から推し量って、麻
ば何かしらで腹は満たせるだろう。それが駄目でも一食抜いた
なったが、自分の身長ではどうにもならないし飛び乗る場所も
ら世話を焼いてくれたのを覚えている。
くらいで息絶える程この身体はヤワにできてない。
なさそうなのでその場は諦めた。
い。こんな調子にこんな天気じゃ昼飯前には睡魔が襲ってきそ
ててあったレバニラにありつけた。お陰で今日は頗る調子がい
る。結局昨日は商店街のチェーンの中華料理屋で裏口に打ち捨
昨日の予想とは裏腹に、今日は朝から日差しが照りつけてい
血が出ない程度に引っ掻くけれど、すぐに痒さは蘇ってくる。
で、ある割合を越えると耳の裏辺りが異常に痒くなってくる。
が掛かり、徐々に湿気も増してきたみたいだ。この湿気が曲者
人がバターロールと蟹蒲をくれた。快晴だった上空には薄い雲
はまだ大分時間があるというのに早くも晩酌に入った二人の釣
結局昼食は食べ損ない川辺でうとうとしていると、夕暮れに
うだ。ふと眼前の道路に目を遣ると、陽気に誘われて地面から
蚤なんかが付いていた日には我を忘れて掻き毟ってしまう。結
みみず
這い出てきた蚯蚓が午前中の紫外線に晒され身を捩ってのたう
果、毛は禿げ落ち皮膚には血が滲み、全くいいところがない。
頃になるともう夕餉の香りもなくなり、あちらこちらから団欒
ゆうげ
蝙蝠達が巣に戻って暫くすると、漸く腹が減ってきた。この
こうもり
持ちいいのに。
いっそのこと雨になってくれれば、身体の汚れも落とせるし気
ち回っている。残念ながらお前に助かる術はない。
死が怖い訳ではないが、身を焼かれるのは嫌だな。こんなと
きは体毛があって良かったと切に思う。我々の祖先に感謝。
うたたね
こんな日は多摩川の河川敷に限る。生い茂った草叢でのんび
り転寝でもしようか。野苺探しってのもいいかな。
昨秋のある晴れた日、枯葉の舞い始めた頃に東海道新幹線架
這入るものと迫りくる闇
136
の笑い声が響いてくる。
いつもの家までてくてく歩いていくと、庭先に鯵の開きを乗
せた紙皿がぽつんと置いてあった。網戸越しに洩れる光の先に
は男が一人、畳の上にごろんと身体を横たえてる。顔は見えな
れらしく逢魔が刻を演出する。
空にはまだ輝き切らない半分の月が浮かんでいる。
今 ひ と つ 冴 え な い 天 気 と 連 動 す る よ う に、 こ こ 最 近 地 元 の
場には不釣り合いな年老いたシベリアンハスキーに出迎えられ
比較的新しい家の立ち並ぶ砂利の路上に入ると、どうにもこの
情を主張している気がする。小学校への道とは反対側に折れ、
に広い校庭と、その脇にある平屋の児童館がこの土地の田舎風
な三階建ての校舎でも充分にランドマークたりうる。建物の割
学校の校舎が見えてくる。元々農村であったこの一帯ではあん
緩やかな坂を上り、小さな小さな蜜柑畑を過ぎたら右手に小
がりだからであろう。それに付けても今ひとつサッカーに興味
なのは、家主が健康に気を遣っているからではなくて単に安上
飯に時季外れの秋刀魚の塩焼き半身である。白米ではなく麦飯
もの家に着くといつものように飯が用意されていた。今日は麦
こんなときこそ帰る家があるってのはいいってもので、いつ
気にしない者、
精神衛生上どちらが良いのかは一目瞭然である。
るのは試合そっちのけの小さな子供達ばかりだ。気にする者と
をうろついても、そうそう飯にはありつけない。元気に走り回
いが、後ろ姿からここの家主であることが分かる。
サッカークラブも冴えない試合続きのようで、スタジアム帰り
る。それを過ぎて徐々に右へ湾曲する道を進むと、突然目の前
のなさそうな家主に感謝、である。
の観客も一様に表情が冴えない。こんなときはスタジアム周辺
に切り立った崖が姿を現すのだ。赤茶けた表層には殆ど植物の
姿はなく、いま大きな地震でも起これば根元から崩れ落ちそう
な気さえする。その崖の端と右手に広がる森の間に、小さな沼
真夏みたいに暑かったり春先みたいに冷え込んだりするこの
時期、結構な数の知り合いが引越したり何なりで姿を消す。偶
が鎮座している。周囲を囲うものは二本の有刺鉄線しかなく、
こんな場所では年に一、二度は事故が起こると言われても疑う
に何処かへ足を伸ばしたらばったり、なんてこともままある。
ひきがえる
余地がない。夕方になると蟇蛙が不気味に咽を鳴らし、正にそ
這入るものと迫りくる闇
137
段を一気に走り上るかである。後者の方が明らかに自分の性に
の方法がある。緩やかな坂道でゆっくりと迂回するか、急な階
南方の小高い丘へ行ってみることにした。丘へ上るには二通り
その日は珍しくからっと晴れ、風が心地良かったのでふらりと
えて、
その行為を本人達がどう思っているのか興味は尽きない。
れたのか、それとも旨い具合に共食いしたのかは謎である。加
るのだ。減った分は何処か遠くへ連れていかれたのか野に放た
かと思っていると、秋が近づく頃にはまた最初の数に戻ってい
合っているようだ。
折角の休日を無駄にしたくない、などという程の思い入れは
坂道を上りきったところに開ける芝生の上には近所から遊び
に来たらしい幼稚園児達と、若者に連れられたいかにもそれ風
でも探しに通り向かいの古本屋に来てみただけのことである。
なく、この怠い身体をどうにかしようなどとも思っていない。
この丘には幾つかの神社やお寺、墓地と共に非常に小規模な
全ての本棚を一通り眺め、気になった本を左手に抱えて入り口
の老人達しか見えない。それから考えるに、どうやら今日は所
動物園が存在する。色鮮やかなインコから余りにも地味な山羊
付近のレジに向かおうとしたら硝子扉の向こうは何時の間にか
古いRPGのレベル上げにも飽きたので読みたくなるような本
や鹿まで多分三十種くらいの動物が檻に入れられている。一番
雨になっていた。
そろそろ十五時を回ろうかという時刻である。
謂平日らしい。
の人気を誇るのがペンギンで、小さな子供達はその水槽に釘づ
傘を持ち合わせておらず、濡れて帰るのも気が進まないので
外の様子が見える位置で手に持った本を立ち読みすることにし
けだ。氷山を模したコンクリートの陸で俯せに寝そべるのもあ
れば、素早い動きで水中を駆け回り観る者を喜ばせるのもいる。
い。タイトルにある「ピタゴラス」が物語りにどう関係してく
た。ツチノコの捕獲を企てた高校生達が奈良某所に集まり、そ
でもやっぱり自分が一番好きなのはモルモットの檻である。
るのかが気になるところである。もう一冊は前々から読もうと
子供達はそれに飽きると次は大抵象亀のエリアに行き、余りに
冬場は寒々と身を寄せ合っていた数匹が春先になると倍に、更
思っていて読んでいなかった吉田修一「春、バーニーズで」だ。
こで事件に巻き込まれる、というドタバタ劇を描いたものらし
に初夏を迎える頃になるとその四倍くらいに数を増やす。まる
「最後の息子」の主人公のその後の話ということで無条件に期
のろのろした動きを食い入るように見詰める。
で白と薄茶の絨毯みたいに犇めき合って息苦しそうにしていた
這入るものと迫りくる闇
138
した。クーラが効いていたのにも関わらず、釣り銭を渡すレジ
最寄り駅の駅ビル内にあるファストフード店で読書することに
どうにも止みそうにない雨なので、一度家に戻り傘を持って
と温かいらしく、こちらに縋りついてきた。まだ世渡りの術を
している。近づいていくと一瞬ピクリとするが、身体を寄せる
ブルブルと震わせ、いかにも腹を空かせた響きで細い鳴き声を
だ生まれて間もなさそうなちびっ子である。雨に濡れた身体を
る。その日お気に入りの場所へ行くと、既に先客があった。ま
打ちの青年の掌が妙に湿気を帯びていたのが不思議でならな
身に付けていないようで、からがらここへ辿り着いたらしい。
待が持てる。
い。
家族連れが占拠し、若い恋人達は肩を寄せ合ってカウンタ席に
クーラの冷気でキンキンに冷えた店内では全てのテーブル席を
で、一杯のブレンドコーヒーを受け取るまでに十分を要した。
雨天の休日の夕方ともなるとファストフード店は物凄い混雑
してやろう。
あった。今日こいつに会ったのも何かの縁。うちの家主を紹介
り食事にはありつけない。何日も食べ物を口にしないのは常で
大きな奴に先を越され、余程心優しい人が近くで見ていない限
餌を見つけても、飛びつこうかどうか考えているうちに大抵
自分も小さいときはそうだった。
押し込められている。
こういう場合、カウンタ席が大抵奇数で区切られているのは
の隙間にヘコヘコ頭を下げながら滑り込み、熱々のコーヒーを
学生らしきカップルと結婚間近に見える三十代らしきカップル
み終えたのはあと五分で二十時という時間で、すっかり日も暮
間を気にせず読書に没頭してしまった。先程購入した二冊を読
周りが煩いと何故か集中できるという変な特技のお陰で、時
設計の妙で、一人分の席を発見するのは容易い。今が盛りの大
啜りながら読書を始めた。
れ心持ち雨は小降りになっていた。
夏が近いとはいえ、雨の日の夕方は冷え込むもので、こんな
ちに飯をねだりに来る茶猫と、その隣に初めて見る焦茶の仔猫
で我が家、というところにあるマンションの駐車場でいつもう
のろのろと駅からの帰り道を歩いていると、あと二ブロック
ときは雨の当たらないちょっと高級なマンションの駐車場に限
這入るものと迫りくる闇
139
が肩を寄せ合っているのを見つけた。どうやら仔猫の方はすや
すやと眠っているらしい。
素通りするのも何なのでそちらへ近寄っていくと、足音で気
が付いたのか仔猫はビクッと身体を強張らせ、茶猫の後ろへ隠
余程腹を空かせていたらしく、既に最初に出した分を食べ尽
くしてしまった仔猫は恨めしそうに茶猫の食べる姿を眺めてい
る。自分の分と決めたものは分け与えないところを見ると、ど
うやらこいつの子供ではないらしい。
「 お 前 の 子 供 か?」 返 事 は 期 待 せ ず に 聞 い て み た が、 案 の 定
には仔猫は満腹感から睡魔に襲われたらしく、ニャーニャーと
御飯をやり、残った御菜で自分も一通り腹を満たした。その頃
おかず
結局食べ足りない様子だった仔猫にもう一パック余っていた
ニャーと鳴くだけだった。
鳴きながら耳の裏辺りを後ろ足でボリボリと掻く茶猫の横で
れた。
「折角やからうちで飯でも食ってくかい?」そう言って今度は
ぐっすりと寝入っていた。
まあ何にせよ、一人暮らしの自分にとって、こいつらは生活
返事を待たずに傘を差して歩き出す。
茶猫は僕の直ぐ後ろだが、
仔猫はその茶猫の三歩後を恐る恐る付いてくる。
スコンロで焼いて持っていくと、喜んで礼を言っているとも早
ウンサによると九州から四国に掛けて停滞している梅雨前線の
一時は弱まったかに見えた雨は再び盛り返し、ラジオのアナ
に意外性と少しの安堵を齎してくれる大切な存在なのである。
く出せとせっついているともつかない鳴き声で仔猫は首を伸ば
影響で大雨や土砂崩れの被害が拡大しているらしい。
すぐにうちに着き雨の当たらないベランダ側に誘導すると、
して覗き込んでくる。僕が皿から手を離すと、いつもなら独り
「雨、止まんみたいやから今日はそこで寝てっていいぞ」そう
しかし、こう毎日来られてはいつまで食費がもつか分からない
占めの筈の茶猫はどうぞといわんばかりの落ち着きで、仔猫の
告げて網戸を閉めようとすると、左側の桟に丸々と太ってその
二匹とも姿勢を正して食事が運ばれるのを待つ姿勢を作った。
食べる様子を眺めている。
身体を粘液でテラテラと鈍く輝かせた蛞蝓が張りついていた。
今日この頃である。
「お前は食べんでいいんか?」心配になって聞くと、ニャー。
摘み上げて茶猫の目の前に差し出すと、不思議そうにじっと見
昼の余りの味噌汁と夜に食べようと思って解凍していた鯖をガ
可哀想なので冷蔵庫にある冷御飯をレンジで温めて持っていっ
詰めている。その横ではまるで火燵で丸くなるのと同じ形で死
こたつ
てやると、安心した様子でゆっくりと食べ始めた。
這入るものと迫りくる闇
140
んだように仔猫が眠っている。そしてその鼻先には小指の先程
度しかない雨蛙がじっとこちらを見詰めていた。
(了)
這入るものと迫りくる闇
141
這入るものと迫りくる闇
志 理系文芸誌えんそく vol.8
KOKOROZASHI
編集後記
ある意味において、これは本誌が誇るべき編集後記と言えよう。編集後記界に一石を
投じる異端児にして高校球児的存在。しかも、いまだ成長中で、イニングを重ねるにつ
れて、ますます珍妙奇天烈摩訶不思議になっている。しかし、編集作業が完了する前に
書き上げているこの怪文(回文ではない)を、果たして編集後記と呼んで良いものか、
私は首を傾げる。すると相対的に景色も傾いて、地軸も傾く。編集後記道五段の私とも
なると、銀河系の回転さえ感じるね(急に馴れ馴れしい口調)
。体内のヘモグロビンは
渦巻き、やがて濃厚な深紅のバターに変わり果て、キツネ色のホットケーキにたっぷり
塗って、さあ一口で、この大いなる宇宙を、ああ、私のビッグバン!
さて、久々の発行である。vol.7 の座談会にて提案された「メンバの冠婚葬祭を記念
しての発行」が早速実現してしまった。案西稿志君のご結婚を祝しての vol.8 発行である。
おめでとう。そして、発行の機会を与えてくれてありがとう。
案西君は不思議な方で、こっちの世界とあっちの世界をあっさりと繋いでしまう。果
たして本人はどちらの住人なのか、私は首を捻る。すると相対的に景色も捩じれ、不完
全なる私の体内のデオキシリボ核酸もついに螺旋構造の形成を果たし、四種の塩基は
……、そうそう、思い出した、発行を延期して申し訳ありませんでした。
友人である案西君には是非幸せな家庭を築いて頂きたいと願うが、それが私の個人的
満足のための勝手な願望である事を私は自覚しており、案西君の人生に口出しする権利
を私は私に定義しない。あくまで他人である。だが、特別な他人である。仮に彼が不幸
になろうが、何かの間違いで私が幸せになろうが、我々の関係性はこれに依存しない。
これからも、変わらぬお付き合いの程よろしくお願いします。
2008 年 8 月 3 日 えんそく編集長 山崎太陽