正倉院宝物に見える黄銅材料

正倉院宝物に見える黄銅材料
成
瀬
正
和
1.はじめに
銅と亜鉛の合金、すなわち黄銅(真鍮)はかつて中国、朝鮮半島あるいはわが国において「鍮
石」と表記されていた。その材料の用法は特に東アジアでは濫觴期において不明な点が多い。
そのもっとも大きな原因は、該期の伝世品・出土品について金属材についての化学的調査が不
充分だったからである。
正倉院では、蛍光X線分析による調査によって1983年以来、柄香炉や塔鋺形合子の主材料と
して黄銅が用いられていることを確認していた。このことについては、正倉院の銅製品全般に
関わる議論の中で、若干の総括を行ったこともある(成瀬 1999b)。ところが最近これらの用法
に加え、黄銅を線(ワイヤー)あるいは粉として使用するという、8世紀について言えば従来
知られていなかった用法が確認された。そこで本稿では黄銅が確認された宝物全てについてそ
の用法を示し、また関連する日本における黄銅製品の化学的調査事例や日本、中国、朝鮮半島
の黄銅に関する記事の見える文献史料をあわせて紹介することにより、東アジアにおける黄銅
の歴史を見直すうえでの資料を提供したい。
2.黄銅材略史
黄銅は紀元前1世紀頃、南コーカサス周辺で発見され、その製造法が東西に広まったと言わ
れる(R.J.Forbes 1
96
4∼1
9
74)
。ローマ帝国ではアウグストゥス時代(B.C.2
7∼A.D.14)から黄
銅製の貨幣が使われている。中国の青銅器時代の青銅製品の中にときおり亜鉛の含有量が大き
いものが見受けられる(北京鋼鉄学院冶金史組 1985)が、それらが製造されたのはどうやら偶
然的な結果によるものであり、意図的な結果ではなかったようである。中国では、晋の王嘉の
撰になる『拾遺記』
(巻9)に「鍮石」の語が見え、後趙の石虎(∼349)が!の宮殿の風呂に
鍮石を用いたことが記されている。
『魏書』
、
『周書』
、
『隋書』
、
『北史』
、
『大唐六典』などには波
斯の特産品として「鍮石」が見え、またわが国11世紀の源順の『倭名類聚抄』にも「鍮石似金
西域以銅銕雑薬合為之」とあるので、文献史料から見れば、中国を中心とする文化圏の中で、
黄銅は4世紀頃以降しばらくはペルシャ地域で製作されたものに頼っていたものと理解できる。
亜鉛は加熱すると9
30℃付近で蒸発するため金属を得るのが難しく、人類が亜鉛を純粋の金
属として手にすることになるのは、金、銀、鉄、銅、錫、鉛に比べてかなり後になってからの
ことである。それは1
0∼1
6世紀頃のことと考えられているが、このことについても詳しい時期
は特定できていない。中国・明代の宋応星による『天工開物』には亜鉛の単離に関する記載が
(62)
見え(宋応星 1
6
37)
、中国においてもこの頃までに亜鉛が製造され、またこれに銅を混ぜ、黄
銅を製造する方法が確立されていたことがわかる。人類が金属亜鉛を得る技術を獲得するまで
は、黄銅製造は基本的には溶融した銅に炭酸亜鉛をはじめとする亜鉛鉱石を直接加える方法に
よって行ったと考えられている。
3.実験方法
目的の金属材が黄銅であることの確認、およびその半定量は蛍光X線分析法によって行った。
装置は"フィリップス社製全自動X線回折装置 X' pert Pro MRD の文化財用改造仕様に "
EDAX社製半導体検出器を附属させ、エネルギー分散型蛍光X線装置の機能を持たせたものを
用いた。X線対陰極はクロムである。
黄銅に含有される主成分元素あるいは副成分元素の半定量は化学組成が既知の黄銅標準試料
などとの比較によるものである。
4.黄銅が用いられた正倉院宝物
4.
1 主材として黄銅が用いられている例
4.
1.
1 黄銅合子(南倉3
0)
(挿図1)
高さ1
5.
9!、最大径8.
5!で、五重の相輪を有する塔鋺形合子。蓋本体、塔の部材(宝珠、相
輪、刹、基部)
、身本体、身脚部などを別々に鋳造し、それぞれに応じて線刻や点刻を施し、組
み立てている。ほとんどは黄銅製の部材であるが、一部銀製の座金も用いている。塔の組み立
て方は複雑で、X線写真の検討や模造製作の
際の試行錯誤によって、宝珠形を片方の先端
とし、もう片方の先端を筒状(雌形)にくぼ
める長い芯棒が、相輪、刹、座金、基部など
五十数枚の部材を貫き通して、蓋内面に頭を
出し、この先端に蓋内面より雄形たる鋲の間
に黄銅製や銀製の座金を挟んで差し込み、留
めていることが明らかとなった。いっぽう身
と脚の接合には、身の内側から半球形の頭を
持つ鋲を、座金を挟んで脚底裏に刺し通し、
かしめ付けて留めている。刹にはひとつおき
に各6個のガラスの荘玉が嵌められていたが、
現在残るのはただひとつである。
蛍光X線分析の結果、黄銅の部材によって
その化学組成はやや異なるものの、身の本体
や蓋は銅
(Cu):亜 鉛
(Zn)≒7
5:2
5で、他 に
(63)
挿図1
南倉3
0 黄銅合子
約3%の鉛(Pb)および約2%のスズ(Sn)と、銀(Ag)、ヒ素(As)、鉄(Fe)
、ニッケル
(Ni)などを含むことが明らかとなった。
本品は当時の命名法にならえば「鍮石塔鋺」というべきものであったと考えられる。
法隆寺玉虫厨子の扉絵には僧侶が柄香炉と塔鋺を捧持する姿が見え、それらがセットで用い
られていたことがわかる。本品は次に述べる黄銅柄香炉とセットで使用された可能性がある。
なお中国における、塔鋺の出土はその状況が不明なものを含めれば少なくない。正式な発掘
により江西省瑞昌県で出土した塔鋺は相輪の数が四重で本品と異なり、また材質も青銅とされ
るものの、作域が非常に良く似ており(張 1992)、本品が唐製である傍証となるものである。
4.
1.
2 黄銅柄香炉 第1号(南倉5
2)(挿図2)
長さ3
9.
6!、炉の高さ7.
1!の柄香炉である。黄銅製の炉、炉座、心葉形、長柄、獅子形鎮な
どを別々に鋳造し、各部の接合は、黄銅製および銀製の座金とともに黄銅製の鋲で留めている。
柄の上面には錦を貼っている。当初の内炉は逸し、現在明治時代に新補されたものが付属して
いる。
蛍光X線分析によって、本品の台座は銅(Cu):亜鉛(Zn)≒75:25で、このほか約5%の鉛
(Pb)と、鉄(Fe)、ニッケル(Ni)、コバルト(Co)などを含んでいることが明らかとなった。
本柄香炉については明治年間の考証を経て材質は白銅すなわち高錫銅合金と考えられ、
『正
倉院御物目録』では「白銅柄香炉」の名が与えられた。しかし、御物整理掛による修理の際に
取り交わされた書類には「黄銅柄香爐」とあり(東野 2002)、また実際このとき、既に失われ
ていた内炉は黄銅製のもので新補されていることから、御物整理掛は本品が黄銅製であること
を見抜いていたことがわかる。東京帝室博物館時代に正倉院宝物の調査にあたっていた石田茂
作もやはり本品を黄銅と考え、石田の手によると思われる本品の調書(
『正倉院御物調書
昭
和9年1
0月』
)には、この白銅柄香炉の項に材質について「黄銅製?」と注記しており、さらに
挿図2
南倉5
2 黄銅柄香炉
(64)
第1号
石田の編集になる『正倉院御物図録』では本品を積極的に「黄銅柄香炉」と命名し、紹介して
いる(帝室博物館 1
9
3
8)
。このように本品はその材質の正体をめぐり、二つの考えがあったが、
蛍光X線分析による調査によって決着がついた。
なお本品と似た形態を示す柄香炉は中国では河南省洛陽の神会和尚身塔(洛陽市文物工作隊
1
9
9
2)をはじめとする出土例があり、本品の製作地が唐である可能性を示唆している。
4.
2 部材として黄銅が用いられている例
4.
2.
1 赤銅合子 第3号(南倉2
9)(挿図3)
高さ1
5.
0!、最大径8.
8!の塔鋺形合子
である。本体の主材は赤銅、すなわち純銅
に近い材質であるが、塔の部分は黄銅を主
体として銀の座金などが用いられている。
また蓋内部や身内底部の鋲頭も黄銅製であ
る。前述の黄銅合子と相輪の数は異なるも
のの、構造はよく似ている。塔は黄銅製の
宝珠と一体の心棒に、黄銅製の相輪、刹、
基部に黄銅製と銀製の座金を重ねて組み立
てている。かつては塔の部分や座金の部分
には金製と銀製の部材を用いていると考え
られていたが、蛍光X線分析により、一種
は推定どおり銀であるものの、もう一種は
黄銅であることが明らかになった。塔頂の
黄銅は銅(Cu):亜鉛(Zn)≒90:1
0で、ほ
かに鉛(Pb)、スズ(Sn)、銀(Ag)、ヒ素
挿図3
(As)、鉄(Fe)
、ニッケル(Ni)などを含
南倉2
9 赤銅合子 第3号
んでいる。部材によっては亜鉛(Zn)の割合がこれよりもさらに低いものもある。他の成分と
して鉛(Pb)は15%程度、スズ(Sn)は5%程度含まれている。
4.
2.
2 柄香炉の内炉(南倉1
78−6
9 器
物残材のうち柄香炉内炉C)
(挿図4)
本体が失われた柄香炉の内炉である。内
炉は高さが5.
7!、最大径は10.
2!であり、
本来黄銅柄香炉 第1号(南倉5
2)と同じよ
うなサイズの柄香炉の一部であったことが
挿図4
わかる。蛍光X線分析により、内炉本体の
(65)
南倉1
7
8−6
9 柄香炉 内炉
材質が銅であることと、炉の内側に向かって鎮座する獅子の材質が黄銅であることが明らかに
なった。この黄銅は銅(Cu):亜鉛(Zn)≒8
0:20で、このほか約7%の鉛(Pb)と、スズ
(Sn)、銀(Ag)、ヒ素(As)、鉄(Fe)などを含んでいる。
寺院の資財帳などでは、仏具などについて記す際、物品名に普通主材のみを記すため補助的
に用いられる材は省略されてしまうが、8世紀頃には本例や先の赤銅合子第3号(南倉29)の
例が示すように、赤銅に黄銅を組み合わせて用いる例もかなりあったことが推定できる。
4.
3 部材の金属線として黄銅が用いられ
ている例
4.
3.
1 螺鈿紫檀五絃琵琶(北倉2
9)
(挿図5)
『国家珍宝帳』記載の品であり、現存する
8世紀唯一の五絃琵琶の遺品である。全長
1
0
8.
1㎝、最大幅3
0.
9㎝。唐からの舶載品と考
えられている。槽、海老尾、転手は紫檀材。
腹板はヤチダモかシオジで、捍撥には玳瑁を
貼る。また螺鈿や玳瑁で全面を装飾している。
玳瑁地の捍撥には琵琶を奏でる人物を乗せ
た駱駝を螺鈿で表現しており、駱駝の手綱に
は暗赤色を呈する総長5∼6㎝、幅約1!の
金属線を象嵌している(挿図6)
。蛍光X線分
析の結果、その部分が黄銅製であることが明
らかになった。銅(Cu):亜鉛(Zn)≒65:3
5
であり、このほか鉛(Pb)が1%程度含まれ
る。ヒ素(As)など他の元素も検出している
が、これについては金属線の周囲の部分に由
来するものと区別がつかなかった。
本品は明治3
1年(1
8
9
8)に御物整理掛によ
る大がかりな修理を受けており、部材の新旧
の見極めについては細心の注意を払う必要が
あ る が、問 題 と な る 手 綱 部 分 は 明 治5年
(1
9
7
2)の蜷川式胤による『壬申検査社寺宝
物図集』所載の拓影図(挿図7)にもみえ、
オリジナルな部分であることが確かめられる。
(66)
挿図5
北倉2
9 螺鈿紫檀五絃琵琶 捍撥面
挿図6
北倉2
9 螺鈿紫檀五絃琵琶 捍撥 黄銅線部分
挿図7
『壬申検査社寺宝物図集』同左部分
4.
3.
2 螺鈿紫檀阮咸(北倉3
0)
(挿図8)
『国家珍宝帳』記載の品であり、胴の背面や棹、頭などを螺鈿などで装飾する阮咸である。
全長1
0
0.
4㎝、胴径3
9.
0㎝。唐からの舶載品と考えられている。紫檀製の棹や頭には螺鈿等によ
る装飾を施しているが、そのうち花葉文の茎の部
分には現在黄色から赤色を呈す金属線を用いてい
る。金属線は太さ約1!で、1本は全長6㎝ほど
であるが、これを繋げて茎を表している(挿図9
・1
0)
。金属線は一部に明治期の修理が見られる
ものの、大部分はオリジナルと認められる。オリ
ジナル部分について蛍光X線分析を行ったところ、
黄 銅 で あ る こ と が 明 ら か に な っ た。黄 銅 は 銅
(Cu):亜鉛(Zn)≒8
0:2
0で、ほかに約3%の鉛
(Pb)とスズ(Sn)、ニッケル(Ni)、鉄(Fe)な
どを含む。
なお紫檀製の胴部背面にも螺鈿等による装飾が
施されており、琥珀や玳瑁による花文の輪郭、あ
るいは胴部縁辺の覆輪に後補の黄銅線が嵌められ
ている。花文の輪郭の一部にオリジナルの金属線
が残っていたため、修理を担当した御物整理掛が
これを棹や頭などに用いられていたのと同じ材質
の黄銅と理解し、修理が行われたものと考えられ
るが、胴背面の琥珀、玳瑁のオリジナル部分の金
属はスズ(Sn)、亜鉛(Zn)、銅(Cu)を主成分と
する金属で、黄銅とは言い難い。また胴側面の花
(67)
挿図8
北倉3
0 螺鈿紫檀阮咸 背面
挿図9
北倉3
0 螺鈿紫檀阮咸 部分(背面頭上方)
挿図1
0 同左(棹側面)
文の輪郭に用いられた金属は位置的に調査が難しく、分析には至らなかったが、この部分は全
て後補である。肉眼で判断する限り、他の後補箇所と同じく黄銅が使用されているが、本来金
属が用いられていたとしてもそれが黄銅であったかどうか、定かではない。
本品も明治までに螺鈿等の剥落が著しく、御物整理掛による修理を受け、現在ある姿になっ
た。幸いなことに明治5年の蜷川式胤による『壬申検査社寺宝物図集』所載の拓影図にみえ、
それを検討することによってオリジナルの部分を見極めることができた。
4.
4 金属粉として黄銅が用いられている例
4.
4.
1 円鏡 平螺鈿背 第9号(北倉42)(挿図11)
『国家珍宝帳』記載の品。直径2
7.
3!の平螺鈿背円鏡である。鏡背に象嵌されたトルコ石、
ラピスラズリ、ヤコウガイ、赤い琥珀などの材料の世界性に加え、蛍光X線分析調査(注1)の
結果、鏡体が銅(Cu)7
0.
2%、スズ(Sn)24.
0%、鉛(Pb)6.
0%の化学組成を有することが
明らかとなり、これが唐鏡の一般的な化学組成と一致することから、本鏡も唐からの舶載品で
あったことが裏付けられている(成瀬 1
999a)
。
鏡背装飾の樹脂地の部分には金色の金属粉がちりばめられている。蛍光X線分析によりこの
金属粉は黄銅であることが明らかとなった
本品は鎌倉時代の寛喜2年(1
2
3
0)に盗難事件に遭い、その際大破し、そのままで保存され
ていたのを、明治3
0年(18
9
7)
5月に御物整理掛による修理を受け、今ある姿に復元されたもの
である。ただし鏡背部分について言えば現在残されているオリジナルな部分は全体の12%程度
(68)
である。オリジナルの部分と新補の部分
とは、後者が地を漆と推定できる材料で
補っているため、肉眼でも細部を丁寧に
検討すれば、識別は可能である。また365
!に中心波長をもつ紫外線ランプを用い
て鏡背部分を照射すると、オリジナルな
部分の樹脂はオレンジ色の蛍光が見られ
るのに対し、新補の漆地の部分には蛍光
がほとんど認められず、両者は明確に識
別できる。
黄銅粉はオリジナルの樹脂地部分と新
補の漆地部分のいずれにも認められるが、
挿図1
1 北倉4
2 円鏡 平螺鈿背 第9号
両者には形状・サイズに違いが見られる。
もちろん同じ様なサイズや形状を示すも
のも少なくないが、オリジナルな部分に
は「C」の字の形状を示すものや、ある
いは細長いものが2列に並んだ状態を示
すものが見られる(挿図12・1
3)。これは
もと円筒を半裁したような形状の粉が縦
あるいは横になって樹脂の中に鏤められ、
その表面が研がれた結果によるものでは
ないかと考えている。新補と思われる部
挿図1
2 同上 樹脂地上 黄銅粉 その1
(×6)
分にはこのようなタイプのものは認めら
れず、このことからもオリジナル部分に
当初から黄銅粉が用いられていたことが
わかる。しかし新補部分の粉にも黄銅を
用いていることは、御物整理掛が金色の
金属粉の正体が黄銅であることを見抜い
ていたことを示す。ちなみに御物整理掛
の手により鏡背の片隅に修理年月が記さ
れているが、こちらには他の修理された
螺鈿背鏡と同様に金粉が用いられている。
挿図1
3 同上 樹脂地上 黄銅粉 その2
(×6)
黄銅粉は樹脂様物質の中にある程度入
り込んでおり、実際いかなる方法で粉が鏤められたのか、樹脂様物質の正体の解明とともに今
後の課題となっている。
(69)
黄銅粉の化学組成は、その部分だけを狙った蛍光X線分析が困難で、鏡体である高スズ青銅
部分からの元素情報も拾っているため、正確には求められないが銅(Cu):亜鉛(Zn)=85:15
よりもさらに亜鉛(Zn)の比率が高いものであることが明らかになった。ちなみに新補の部分
もほぼ同様の化学組成を示している。
4.
4.
2 円鏡 平螺鈿背 第5号(北倉42)(挿図14)
『国家珍宝帳』記載の品。推定直径3
7!の平螺鈿背円鏡である。寛喜2年(1230)の盗難事
件のため大破し、破片1
4辺が残されたものの、全体を復元するには面積的に少なすぎて修理が
諦められたと考えられる鏡である。
鏡体は蛍光X線分析調査の結果、銅
(Cu)
69.
3%、スズ
(Sn)
23.
9%、鉛(Pb)
6.
2%の化学組成を有することが明らか
となり、これが唐鏡の一般的な化学組成
と一致することから、本鏡も唐からの舶
載品であったことが裏付けられている
(成瀬 1999a)
。
鏡背の一部にはわずかに樹脂地が残さ
れ、そこにはヤコウガイ螺鈿とトルコ石
なども残されている。樹脂地の一部に平
挿図1
4 北倉4
2 円鏡 平螺鈿背 第5号
螺鈿背円鏡第9号(北倉42)と同様な形
態を示す金属粉が認められた。蛍光X線分析によりこの金属粉は黄銅であることが明らかにな
った。
平螺鈿背円鏡第5号、同第9号は鏡背装飾に黄銅粉を用いた確実な事例であるが、実は螺鈿
背円鏡第1
0号(北倉4
2)にも同様な装飾が用いられていた可能性がある。第10号鏡も鎌倉時代
の盗難事件の被害に遭い、現在鏡背の螺鈿装飾はごくわずかの部分をのぞきですべて新補であ
る。オリジナル部分については金色の粉は認められないが、鏡背の新補部分の蛍光X線分析調
査により、銅(Cu)、スズ(Sn)、鉛(Pb)などの鏡体の成分の他に亜鉛(Zn)が検出される部
分があり、新補の漆で覆われた一部にオリジナルの黄銅粉が残されている可能性がある。
以上紹介した宝物について、黄銅材料の蛍光X線スペクトルとその化学組成をそれぞれ巻末
の表と図(第1図∼第8図)に示した。
5.考
察
5.
1 文献に見える黄銅の用途
正倉院宝物に見える黄銅材料について論じる前に、文献史料によって当時の黄銅材料の使い
(70)
方を見ておく。黄銅は冒頭で述べたように、当時中国、朝鮮半島、日本いずれにおいても「鍮
石」と表記された。
5.
1.
1 唐
『新唐書』には鍮石の具体的用途を記す箇所がある。
『新唐書』
(儀衞志下)は、太皇太后、皇太后、皇后の行列に関連して、その中に「鍮石装横
刀」を持つ武人がいたことを、また皇太子の行列に関連して、その中に「鍮石装儀刀」を持つ
武人がいたことを記す。ちなみに『新唐書』
(儀衞志上)には皇帝の行列に関連して、武人の中
に「金装」
「銀装」
「金銅装」の刀剣類を持った武人がいたことが記されているが、
「鍮石装」の
刀剣類を持つ武人は見当たらない。
また『新唐書』
(車服志)には八品、九品の帯飾りには鍮石のものを用いるべきことが記され
ている。ちなみにこれより上位の六品、七品の帯飾りには銀を、またこれより下位の流外官や
庶人の帯飾りには銅または鉄を用いるべきことが記されている。
また同じく『新唐書』
(車服志)には文宗代の車騎に関する規定として、度支、戸部、塩鉄門
官等の用いる馬具の鞍、轡、銜、鐙を鍮石でもって作るべきことが記されている。
中国ではこの時期、文献史料的には鋳造品を主体に鍮石製品が製作されていたことが窺える。
また当時の鍮石の装飾素材としてのランクは、銀より下位、銅・鉄より上位ということが確認
できる。
以上は正史に記載された規定に関することであり、材質に関する記述も正確と考えられるが、
このほか管見にふれた鍮石に関する唐代の史料には以下のものがある。
『酉陽雑俎』
(続集巻五・寺塔記上)には長安の安邑坊にあった玄法寺華厳院に納置されてい
た廬奢那像が鍮石であったことが記されている。
『全唐詩』
(巻4
1
8)に収載された元!(779∼831)の楽府「估客楽」には「鍮石打臂釧」と
あり、鍮石の腕飾りを製作したことが記されている。
また唐領域内のことではないが『大唐西域記』には、玄奘が梵衍那(バーミヤン)国、羯若
鞠闇(カーニヤグブジャ)国、波羅"斯(バーラーナーシー)国などで鍮石製の仏像を実見し
たことが記されている。
これらの全てが果たして本当に黄銅であったかどうかについて、今は確かめる術もないが、
少なくとも鍮石が当時それほど珍しい金属ではなかったことが窺える。
5.
1.
2 朝鮮半島
朝鮮半島の鍮石の用法については、
『三国史記』(雑志二)の「車騎」「器用」「屋舎」の項に、
新羅におけるそれらの素材についての細かい規定が見える。車騎に関して言えば真骨以下は馬
車の装飾に鍮石製の歩揺を用いることが禁じられ、また真骨および真骨の女以下の馬具は銜、
鐙に鍮石を使用することが禁じられている。また器用に関しては四頭品以下が鍮石製を用いる
(71)
ことが禁じられており、屋舎に関しては真骨以下が鍮石で飾ることを禁じられている。屋舎の
装飾が具体的にどのようなものをさすのか不明であるが、馬具や器は鋳造品が主体で、歩揺に
は鍛造品が含まれる可能性がある。新羅における鍮石の金属としてのランクも唐とほぼ同様と
考えられるが、真骨という階級的に上位の者に関わる装飾の多くに鍮石の使用が禁止されてい
ることから、唐に比べ、貴重品であったことを窺わせる。
5.
1.
3 日 本
わが国では天平1
9年(74
7)
『法隆寺伽藍縁起并流記資財帳』
、天平19年(747)
『大安寺伽藍縁
起并流記資財帳』
、天平勝宝4年(7
5
2)「買新羅物解」、貞観13年(8
41)『安祥寺伽藍縁起資財
帳』
、天暦4年(95
0)
『仁和寺御室御物実録』
、天禄3年(972)
『天台座主良源遺告』、長保2年
(1
0
0
0)
『東寺宝蔵焼亡日記』、
『興福寺流記』
、
『濫觴抄』など、現存する奈良・平安時代の寺院
資財帳などに鍮石製の柄香炉があったことが記されている。わが国のこの時期の文献に見られ
る鍮石製文物で、柄香炉以外のものは承和14年(8
47)『僧円仁将来目録』に記された「鍮石印
仏一面」のみである。金属としてのランクは、これを示すような史料がなく、不明である。
5.
2 香供養具に見る黄銅の利用
上に述べたように、わが国の古代の文献史料に記された黄銅製品のほとんどは柄香炉である。
正倉院にも黄銅製の柄香炉が1点、部材として黄銅を用いた柄香炉の部品が1点あることが明
らかになっている。また塔鋺形の合子は、柄香炉とセットで用いられる香供養具であるが、そ
のなかで黄銅製が1点、部分的に黄銅が用いられているものが1点ある。
法隆寺献納宝物には黄銅製の柄香炉が三柄伝わる。近年早川泰弘によって三柄とも蛍光X線
分析が行われた(早川 2
005)
。各柄香炉は数箇所ずつの測定が行なわれ、そのほぼ平均として、
典型的な鵲尾形で鍛造製のもの(N280)は銅(Cu)79%、亜鉛(Zn)20%、また退化した形式
の鵲尾形柄香炉とも言われる鋳造製のもの(N281)は銅(Cu)
71%、亜鉛(Zn)
28%、鉛(Pb)
1%程度[そのほか若干の鉄(Fe)が含まれる]
、また瓶鎮型のもの(N283)は銅(Cu)70%、
亜鉛(Zn)27%、鉛(Pb)3%[そのほか若干の鉄(Fe)
、スズ(Sn)が含まれる]であるとの
結果が示された。鵲尾形の2例は正倉院のものより古式と考えられている遺品である。
大阪府羽曳野市の野中寺跡において7世紀の製銅に関わる炉状遺構より出土した金属小片を
久野雄一郎が発光分光分析により調査したところ、それは銅(Cu)76.80%、亜鉛(Zn)
21.
0
3%で、そのほか少量のスズ(Sn)、鉛(Pb)、鉄(Fe)などを含む材質であることが明ら
かになった(久野 1
9
8
9)
。奈良県明日香村の飛鳥池遺跡の発掘事例などからもわかるように、
わが国の古代の寺院ではそこで使用する仏具を通常、寺院建築現場の近くで製作した。金属原
料としては一次素材(成分金属)や二次素材(合金のインゴット)が用いる場合の他、スクラ
ップを用いることもあった。黄銅について言えば唐でさえ素材を輸入に頼っていたと考えられ
る当時、わが国ではこれを製造する技術はとてもなかったはずであり、また唐から素材が輸入
(72)
されたことも考えにくい。野中寺の金属片は黄銅製の柄香炉、塔鋺などのスクラップであった
可能性も充分考えられる。
5.
3 黄銅線の利用
螺鈿紫檀五絃琵琶(北倉29)
、螺鈿紫檀阮咸(北倉30)には黄銅線の象嵌が確認された。これ
らは、蛍光X線分析調査を通して明らかになったごく最近の知見である。これまでの正倉院宝
物調査において、木画の材料として錫が普遍的に用いられていることが明らかになっているが、
これに対し、たった2例ではあるが、黄銅線は木地螺鈿と関係が深い素材であったことが示さ
れたことになる。
正倉院宝物以外で黄銅を針金のような線として工芸材料に用いる例としては、時代は下るが、
朝鮮半島の高麗螺鈿漆器(1
0∼1
4世紀)や李朝螺鈿漆器(14∼20世紀)、あるいは中国・明代の
螺鈿漆器(1
4∼1
7世紀)などに認められる。正倉院宝物に見える黄銅線が縒りのない線である
のに対し、これらはいずれも縒線であり、しかも正倉院に伝わる作品群と、これら作品とでは
製作時期的に隔たりがあるため、その関連性は今のところはっきりしない。今後、この点をふ
まえ、その間を埋めるような遺例が発見されることを期待したい。
5.
4 黄銅粉の利用と蒔絵
平螺鈿背円鏡第5号および同第9号(北倉42)には黄銅粉が用いられていることを確認した。
不確実な平螺鈿背円鏡第1
0号の知見も合わせると、平螺鈿背鏡においては全てに採用されるわ
けではないものの、かなり一般的な技法であった可能性が出てきた。
これら黄銅粉の表面には研ぎ足も見られることから、地は漆ではないものの、蒔絵様の技法
と言えよう。わが国において一般には蒔絵粉における黄銅の普及は江戸時代頃からと考えられ
ている。しかし漆工における蒔絵粉の素材については未解明の点が多く、ここ40年ほどの科学
的調査によって江戸期より前の作品に金、青金(金にわずかに銀を加えた合金)
、銀、白!(錫
あるいは錫鉛合金)など以前から肉眼観察などにより存在が確実視されていた金属素材のほか
に、銅、黄銅、銅銀合金など従来予測されていなかった金属素材が確認されている。
黄銅粉が見つかったのは鎌倉時代とされる出雲大社所蔵の秋野鹿蒔絵手箱(国宝)である。
同箱の蒔絵粉について蛍光X線分析調査を行う機会があった。蒔絵の主体は金粉や銀粉による
ものであるが、蓋表や上懸子内面および下懸子内面や蓋裏の平塵部分の金色蒔絵粉には、銅
(Cu)と亜鉛(Zn)の比率が90:1
0∼80:20の黄銅粉が用いられていることが明らかになった
(北村 1
9
88)
。今のところ江戸時代を遡る黄銅粉を用いた蒔絵漆器の実例はこれが唯一である
が、粉にできそうな金属材は何でも粉にしてこれを加飾に使うという発想が古くからあったと
すれば、類似の蒔絵の手箱などをさらに調査することによって、ほかにも黄銅粉の使用例が見
つかる可能性は高い。
蒔絵の源流については諸説ある。平安時代以降に蒔絵はわが国で非常な発達を見ることと、
(73)
古代における蒔絵の遺例が正倉院宝物・金銀鈿荘唐大刀(北倉38)、法隆寺献納宝物の利箭、奈
良県平城宮出土金銀蒔絵八角棒断片、京都府西野山古墓出土金沃懸地漆断片など、わが国にし
か残っていないことから、蒔絵をわが国固有の漆工技術とみる考えが優勢である。いっぽう中
国には遺品は残されていないものの、正倉院の金銀鈿荘唐大刀は製作・装飾技法ともに優秀で
あり、また宝物名に「唐大刀」と明記していることからこれを素直に唐製と捉え、したがって
蒔絵の源流は中国にあると考えることも可能である。この中国源流説は彼の地で蒔絵の遺例が
知られていないことが最大の難点であった。しかし平螺鈿背円鏡第5号および第9号(北倉
4
2)は鏡体の化学組成などから確実に唐製とみなせるものであり、金属粉を蒔きつけて加飾す
る技法が、これらの鏡に認められると言う事実は、劣勢である中国源流説にとって若干ではあ
るが有利な物証となろう。
6.まとめにかえて
本稿では正倉院宝物の黄銅材の利用例として8点の宝物を紹介した。肉眼観察に基づけば、
黄銅が主材として用いられている宝物は黄銅合子(南倉30)、黄銅柄香炉第1号(南倉5
2)のほ
かには無く、また部材、装飾材として利用されているものも、紹介した5点以外には無いよう
に見える(注2)
。もしあったとしても、ごくわずかであろう。したがって、わが国の8世紀に
おいて黄銅材はやはり珍材のひとつであったことは間違いないようである。
黄銅を用いた8点の宝物の製作地については、黄銅材使用の事実をひとまず別にしても、そ
れらは大陸で作られた可能性が高い。
螺鈿技法は間違いなく中国で生まれた技法であるが、8世紀半ば頃までにはわが国の製品に
も取り入れられていた。楓蘇芳染螺鈿槽琵琶(南倉101‐1)は、わが国独自の顔料と考えられる
塩化物系鉛化合物(成瀬1
99
2)が使われていることなどから、本邦製と考えられる宝物である。
しかし螺鈿紫檀五絃琵琶(北倉2
9)
、あるいは螺鈿紫檀阮咸(北倉3
0)は洗練された意匠が施さ
れ、また精巧でかつ確かな製作・装飾技術が採用されている点などから見て、これを唐製の代
表作と考える従来の説を踏襲したい。
また平螺鈿背円鏡第5号および第9号(北倉42)は、美術史的な判断に加え、鏡体の化学組
成からも唐製と断言できるものである。
柄香炉や塔鋺は類品の出土状況(張 1
992、洛陽市文物工作隊 1992)からみてやはり唐製の
可能性が高いものであろう。
以上から、正倉院宝物に見える黄銅の用法は中国のものと言うことができる。すなわち黄銅
は中国において8世紀には多様な方法で利用されていたことがわかる。黄銅が中国で当時すで
に比較的卑近な金属になっていたことは、
『新唐書』儀衞志下、あるいは車服志などの記載から
窺える。唐以前の時代(注3)から西域より輸入され、唐代には広く普及していたのであろう。
今回は考察の対象にできなかったが、法隆寺献納宝物として伝わる承盤類の中には最近蛍光
X線分析調査によって黄銅製であることが確認されたものもある(早川 2004)。これについて
(74)
の製作年代や製作地の検討は、もちろん初期黄銅製品を考える上で欠かせない。
大阪市長原遺跡より出土し1
0世紀代の金属鋺の破片は銅(Cu)、スズ(Sn)が主成分であっ
たが、ほかに約5%ほどの亜鉛(Zn)を含んでいる(成瀬 1993)。原料として青銅に混じって
黄銅などのスクラップが用いられたとしか考える他なく、この時期わが国でも黄銅製品がある
程度普及していたことが推定できる。
中国では4世紀頃より「鍮石」に関する記載があり、また正倉院宝物や法隆寺献納宝物の中
に黄銅製品があることが、比較的早くから知られていたにも関わらず、金工史分野ではそれは
特異な例であり、黄銅材は東アジアでは比較的、新しい素材であるとの認識が大勢を占めてい
るように思える。ここで紹介したようにわずかずつではあるが古い時代に用いられた黄銅材の
調査例はふえており、わが国で当時黄銅が珍材であったことは間違いないものの、「特異な
例」とはいえない状況になっている。美術品、美術工芸品の真贋判定の際、黄銅材の確認をも
ってその製作時期を限定することはできなくなりつつあり、慎重な対応が求められる。
(注1)平螺鈿背鏡の鏡体の蛍光X線分析については!フィリップス社製波長分散型蛍光X線分析装置
PW2
4
0
0の文化財用改造型を用い、銅(Cu)
、スズ(Sn)
、鉛(Pb)
3成分系の青銅標準試料の測
定によって得られた各元素の検量線を利用して、定量を行なった。
(注2)正倉院にはこのほかに、佐波理皿第7
8号−2、同3、同4(南倉4
6)には黄銅の使用が認められ
る(成瀬他 1
9
9
5)
。いずれの皿も口縁に4つ孔が開けられ、そこに通した環に黄銅が用いられて
いることを確認している。黄銅の輪には繋がれた紐が切れて残っているものもあり、その紐は江
戸期以前のものではあるが、天平時代のものではなく、したがって環も当初のものではないと考
えられるので、今回の議論からは除外した。
(注3)最近、3
5
9年前後の年代が与えられる前燕の奉車都尉墓(遼寧省)から出土した金象嵌銅製!具に
ついて、3つに分けられる部材のうち二つが、それぞれ別材質の黄銅製であることが明らかにさ
れた(肥塚等 2
0
0
6)
。中国における黄銅の最古例としてはもちろん、年代的に冒頭に紹介した後
趙の石虎に関する記事の真実性を裏付ける証拠としても重要である。
【引用・参考文献】
井上秀雄訳(1
9
8
6)
『三国史記3』平凡社
小此木忠七郎(1
9
1
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北村謙一(1
9
8
8)国宝秋野鹿蒔絵手箱(出雲大社蔵)の模造制作、月刊文化財3
0
0
宮内庁正倉院事務所編(1
9
7
6)
『正倉院の金工』日本経済新聞社
久野健他(1
9
8
0)古彫刻の構造・材質・技法に関する科学的研究方法『考古学・美術史の自然科学的研
究』
久野雄一郎(1
9
8
9)日本古代非鉄金属について、日本金属学会会報2
8巻−7
張翊貨(1
9
9
2)析江西瑞昌発見的唐代仏具、文物1
9
9
2−3
帝室博物館(1
9
3
8)正倉院御物図録1
1
肥塚隆保・高妻洋成・脇谷草一郎・万欣(2
0
0
6)古代墳墓副葬品の蛍光X線分析調査結果『東アジア考古
学論叢』奈良文化財研究所・遼寧省文物考古研究所
(75)
宋応星(1
6
3
7)
『天工開物』
(藪内清訳(1
9
6
9)東洋文庫1
3
0、平凡社)
東野治之編(2
0
0
2)東京国立博物館蔵正倉院御物修繕還納目録
―開題と翻刻―
奈良大学文学部文化財
学科
成瀬正和(1
9
9
2)奈良時代の鉛系白色顔料、正倉院年報1
4
成瀬正和(1
9
9
3)長原遺跡出土金属性容器の蛍光X線分析調査
『長原・瓜破遺跡発掘調査報告書Ⅴ』
(財)
大阪市文化財協会
成瀬正和他(1
9
9
5)年次報告
宝物の調査、正倉院年報1
7
成瀬正和(1
9
9
9a)正倉院鏡を中心とした唐式鏡の科学的調査、
(杉山洋『古代の鏡』日本の美術 3
9
3、所
収)
成瀬正和(1
9
9
9b)正倉院銅製品の製作地等に関する検討―化学組成等から―、古代文化5
1巻−8
早川泰弘(2
0
0
4)法隆寺献納宝物の蛍光X線分析結果『法隆寺献納宝物特別調査概報
供養具1』東京国
立博物館
早川泰弘(2
0
0
5)法隆寺献納宝物の蛍光X線分析結果『法隆寺献納宝物特別調査概報
供養具2』東京国
立博物館
北京鋼鉄学院冶金史組(1
9
8
5)中国早期銅器的初歩研究、中国古代化学史研究
段成式『酉陽雑俎』
(今村与志雄訳(1
9
8
1)東洋文庫
平凡社)
森本芳行(1
9
8
6)
『黄銅の歴史』
洛陽市文物工作隊(1
9
9
2)洛陽唐神会和尚身塔塔基清理、文物1
9
9
2−3
R.J.Forbes(1
9
6
4∼1
9
7
4)Studies in Technology Ⅰ∼Ⅸ[フォーブス『古代の技術史』上(金属)
(2
0
0
3)
平田寛、道家達将、大沼正則、栗原一郎、矢島文夫訳
表
倉別番号
宝物名
朝倉書店]
正倉院宝物に用いられた黄銅材料の化学組成
黄銅使用部位
Cu:Zn
その他の主な金属元素
南倉3
0
黄銅合子
全体
7
5:2
5
Pb(3%)
、Sn(2%)
、Ag、As、Fe、Ni
南倉5
2
黄銅柄香炉第1号
全体
7
5:2
5
Pb(5%)
、Sb、Fe、Ni、Co
南倉2
9
赤銅合子第3号
塔部材
9
0:1
0
Pb(1
5%)
、Sn(5%)
、Ag、As、Fe、Ni
南倉1
7
8
‐
6
9 柄香炉残材 内炉C
獅子つまみ
8
0:2
0
Pb(7%)
、Sn(3%)
、Ag、As、Fe
北倉2
9
螺鈿紫檀五絃琵琶
黄銅線
6
5:3
5
Pb(1%)
北倉3
0
螺鈿紫檀阮咸
黄銅線
8
0:2
0
Pb(3%)
、Ni、Fe
北倉4
2
円鏡平螺鈿背第5号 黄銅粉
不明
不明
北倉4
2
円鏡平螺鈿背第9号 黄銅粉
不明
不明
(76)
Energy(keV)
第1図
南倉3
0 黄銅合子
身側面
蛍光X線スペクトル
Energy(keV)
第2図
南倉5
2 黄銅柄香炉
第1号
炉上面
蛍光X線スペクトル
Energy(keV)
第3図
南倉2
9 赤銅合子
第3号
(77)
塔先端
蛍光X線スペクトル
Energy(keV)
第4図
南倉1
7
8
‐
6
9器物残材のうち
柄香炉内炉C 獅子つまみ部分
蛍光X線スペクトル
Energy(keV)
第5図
北倉2
9 螺鈿紫檀五絃琵琶
捍撥
駱駝手綱金属線部分
蛍光X線スペクトル
Energy(keV)
第6図
北倉3
0 螺鈿紫檀阮咸
棹金属線部分
(78)
蛍光X線スペクトル
Energy(keV)
第7図
北倉4
2 円鏡
平螺鈿背
第9号
鏡背
樹脂地部分
蛍光X線スペクトル
第8図
北倉4
2 円鏡
平螺鈿背
第5号
鏡背
樹脂地部分
蛍光X線スペクトル
Energy(keV)
(79)