2015/10/01 関係各位 Far East Group 会長 大嶋 謙嗣 今月の会報の前に、皆に訃報を伝えなくてはなりません。 Far East Group の顧問で、私の親友でもある松本 征勝 様(享年 78 歳)が、去る 8 月 30 日に亡くなりました。 「木の大きさは切り倒された時に初めて分かる」と言われます。が、おじさんに関す る限り、この言葉は当てはまりませんでした。どこが良いとか悪いとかいうレベルでは なく、おじさんの存在そのものが、全く別次元のレベルでした。 そんなおじさんの存在は、いつもデカい山となって私の目の前にありました。事に際 しても、「こんなもんじゃない。おじさんだったらもっと自分に厳しかった。もっと人 に優しかった。もっともっと人間としてデカかった」と、常に私の目標でした。 おじさんは私たちに、ふたつの大きな遺産を遺してくれました。 「人生は豪快に笑いながら、力強く切り拓くものだ」。 そして、 「人間は絶対に愛する価値がある」と。 今まで、本当にありがとうございました。 心より御冥福をお祈り申し上げます。合掌 1 Copyright(C)2012 Far East Group All Rights Reserved. 夢より目標より、生き様 先月と先々月は、悪魔との対話形式で話しを進めた。が、ぶっちゃけてしまえば、あ の対話や、そこから得られる知識は余興みたいなものだ。雑学と同じように、遊戯の域 を出るものではない。重要な問題ほど、知識や理(「これも一理、あれも一理」。どんな 立場からでも理屈はついてしまう)では解決しないものだ。 例えば、我々の知り合いにもひとりやふたり、どうしても悲しい人生を選択してしま う男や女がいるだろう。先月までのインタビューから、 「悪魔システム」に取り込まれ、 そういうリズムを本人が生み出し、否定的環境でしか生きていけなくなったからだと説 明することはできる。 しかし、それだけのことだ。悲しい人生を選択した彼が、それで不幸なのかといえば、 その判断自体が余計なお世話なのだ。そんなことは他人が考えることではない。幸福と 不幸の関係とは、不幸から遠ざかれば、それだけ幸福に近づいているという単純なもの ではない。何が幸福で何が不幸か。それは本人が決めるものだ。「何故、そんな選択を するのか?」と彼に聞いてみたところで、 「私はそういう男なのだ」と本人が答えれば、 それ以上続ける言葉はない。 結局、 「悪魔システム」 「逆襲システム」等の知識や技術は、我々を木に例えるならば、 あくまでも「葉っぱ」なのだ。我々の「根っこ」にあるのは、気魄・負けじ魂・元気溌 刺という生きるエネルギーである。もしも我々が、ひらめきや好奇心、感動を忘れて、 臆病・卑怯・怠惰・無関心になってしまうなら、生きるエネルギーは無くなり、心は疎 く、恍惚になり、すぐに枯れてしまうだろう。 我々は、生きるエネルギーをもとに、生き様という「幹」を、「成長・共栄・調和」 という大空へ向けて太く高く伸ばしていく。それは、節目節目において義勇仁礼をいか に貫くかということだ。そして、理想や夢、目標という「枝」を四方八方に広げ、目標 達成に資する専門知識や技術という「葉っぱ」を茂らせたり間引いたりしながら、大輪 の花を咲かせ、実を結ばせる(事を成す)のだ。その後、ある実は鳥の餌となり、ある 花は地面に落ちて地面を養い、再び根っこを養う・・・。 これは自然の摂理であり、従って、因果律(原因→縁→結果)という自然の法則に基 づいて、変化(成長)し、循環していく。 もちろん、人は千差万別だし(先日のオカマバーでは、オカマとオナベとレズとドМ と同席。ママもオカマ。しかも、オカマとオナベは両方「彼氏」を連れてるし・・・) 、生 き方も千差万別。私は昨日までの自分を殺し、オカマ・・・ではなく、前向きに挑戦する 生き方を選ぶ。積極的な生活に努力することを選ぶ。そのために、道理に従って自らを 2 Copyright(C)2012 Far East Group All Rights Reserved. 処遇できる精神(義)を持つ。それは、心の内に恥じ、畏れる所が有り、物事を行った あと自らの心に納得できるということでもある。 閑話休題。最近の TV もネットのニュースもつまらないものばかりに思えるのは、自 分がつまらなくなったからかもしれない。しかし、それにしても些細なことやどうでも いいことに騒ぎ過ぎのような気がする。芸能人が髪型を変えたり、犬猫が変わった芸を したりするだけでバカ騒ぎするなんて、どうかしている。自分の内側に確固たるものを 養っていないから、外の事象に過敏に反応して、目的もなく流されるのではないか。 「歩くべきは、天の道でも獣の道でもない。我々は人であるから、人の道であるべき。 人は長年の歴史の中で真善美を理解し、これを願い、絶え間無い成長・共栄・調和を目 指すものとして存在しているとすれば、我々は人間に対し自ずから敬虔に温かく寛容で あるべきだろう。それが人の道ではないか。その上で、できるだけ荘厳で雄大な理想を 抱き邁進してゆかなければならない」。俺たちだけでなく、政治家や芸能人もこんなこ と言ってくれないかな。 もちろん、我々の掲げる義や、成長・共栄・調和という価値以外にも、意義ある思想・ 哲学は沢山ある。それらをどんどん復興することが大切だ。そこにこそ、敬意・謙虚さ・ 寛容さが必要だ。しかし今は、価値観は多様だと言って、いたずらに異端や邪説を認め てみたり、そこから何か面白いものが出てくるかもしれない等と、どこに向かうかも分 からない無責任な流れに身を任せているように思う。大きな理想に基づき、思想・哲学・ 信念を増強させて行動する勇気や責任感の無さ、無関心。その虚無を埋めるためのその 場限りの遊戯ばかりがメディアから流れてくるように思う。 確かに、知識や技術や文化は浸透し、生活全般の活動・・・移動手段もコミュニケーシ ョン手段も多様になり便利になった。一方で、便利さは我々の能力を衰えさせる。特に 消費社会は、我々の自制心や克己心(ブレーキ)の価値を、創造力や実行力(アクセル) の価値よりも低く判断するという愚を犯した。「回るコインの裏表」というバランスや 調和を軽視し、目に見える実や花に価値を置きすぎて、根っこを軽視する教育になった。 結果、「人が人として気高く生きる」のではなく、便利さや快楽に矜持を売り渡す輩が 増え、厚顔無恥な連中がのさばるようになった。その中で、 「若者は無気力になった」 「馬鹿になった」と言われ続けている。そりゃそうだ。例えば、強力なブレーキを持た ない車の運転席に座ったとして、その車のエンジン性能ギリギリまでアクセルを踏み込 めるだろうか。結局、エンジンの大きさは、ブレーキの性能に比例させなければ、その 性能を活かしきることはできない。 我々も同じ。我々の根っこは、生きるというエネルギー(気魄・元気溌刺・負けじ魂) 3 Copyright(C)2012 Far East Group All Rights Reserved. だ。それが、理想や目標に向かうエンジンになる。北極星(理想・目標)は動かずとも、 そこへ至る道が一直線である保証はどこにもない。時には曲がらなければならない。時 には坂の上り下りもある。それをコントロールするハンドルも必須だが、優れたブレー キ(忍耐力・自制心・克己心等)が無ければ北極星に向けてアクセルを全開にすること はできない。いつしか、使われないエンジンの性能は落ちていく。生きるエネルギーが 小さくなるということだ。もちろん、自制心ありきと言っているのではない。まずは生 きるエネルギー、まずは理想・目標だ。それら無くして自制心を鍛えても、理想や目的 を持たない我慢だけが得意な、退屈な男が出来上がるだけだ。 そんな退屈な連中では、あっという間に環境に支配される。我々は絶えず学び、自分 たちの尊厳に相応しい環境を作り、そこでまた学び成長する生き物であるはずだ。環境 の堕落は、そこに住む人間の罪ではないか。堕落した環境をそのままにしておけば、ま すます自己を堕落させることになる。V 字回復には、どうしてもその環境の中に住むひ とりひとりが過去の臆病・怠惰・無関心な心を殺し、日々新たにして、 「自力主体」 「力 闘向上」「感謝報恩」等の FEG 綱領と、成長・共栄・調和へ向かうことが必要ではな いか。身近な環境と言えば、トイレ掃除、最近自分でやったのはいつだ? 環境を変えていく力は、結局のところ、教育・学問に行き着く。「馬鹿になった」と 言われるのは、大人が若者にロクな指導をしてこなかったからかもしれない。自ら進ん で立ち上がれる若者が少なくなったからかもしれない。 学問は、良き師、良きライバル、活きた人物からの感化が第一だ。次に古典や歴史書。 特に古典は、才能や人格を鍛え上げた人間が生み出した叡智の結晶だ。これに対して、 抽象的な理論や一面的な理論は大した役に立たない。 人物、古典、歴史から学んだ教養は、良心の発達と社会的経験に応じて、四方八方に 伸びて大きな体系を作り上げていくものだ。これらと並行して、各人の特性や興味に応 じた様々な知識・技術を鍛え上げる。そこに義があれば、自己と環境・社会は「成長・ 共栄・調和」へと向かうだろう。 環境に流されるのではなく、環境を作り変え、主体的に生きてゆく我々にとって、生 きる力・理想・義・教養等、自分の内側から鍛え上げて、根っこをよく養うことが、当 たり前だが、新しい花や実をならせる一番の近道だ。 つまるところ、人間は「人」ではなく、容易に「獣」へと堕落できてしまう。それが 人間の本質だろうか。仮にそうであったとしても、私は人の「尊さ」を信じる。 その「尊さ」とは、人間の存在自体にあるのではない。各人に与えられている無限の 知性・脳力・徳性を見出して練磨することで人格を高め、自己と社会の「成長・共栄・ 4 Copyright(C)2012 Far East Group All Rights Reserved. 調和」へ貢献する「努力」にこそある。我々が「努力」できる能力を持っているのは、 むしろ、怠惰に流される生き物だからかもしれない。努力と怠惰、どちらに舵を任せる べきか。義を掲げたら、それは自明のことだ。 人と人との交流においても、損得や打算で付き合うのでない限り、余程お互いに修養 し薀蓄(うんちく・・・長年に渡って蓄えた深い知識)を持たなければ、長続きするもの ではない。修養しない者同士では、不平不満や愚痴を言い合う、傷の舐め合いのような 人間関係に堕落していくのがオチだ。 ・・・好き放題に言ってしまった。スッキリした。 さて、道場の合宿の最終日、門下生たちと確認したことがある。それは我々FEG が 共有するメッセージでもある。再度確認しておきたい。 「我々は卑屈な利己心に甘んじてはいないか。怠惰な傍観や逃避で日々を過ごしてい ないか。無益な批評をして得意になっていないか。まずは己に活を入れろ。自分の職域 に新しい価値・使命・感動を生み出せ。そして、勇気を持って、ひとりひとり足跡を残 そう。仕事は作品だ。お前の仕事はお前のものであり、俺の仕事は俺のものだ。悪にも 善にも強くあれ。仕事は、私たちひとりひとりの作品だ」。 「例えば、もし我々が、胃が痛い、頭が痛い、眠れない等と言って、ひとつひとつの 痛みを和らげる薬ばかり飲んでいたら、身体は壊れてゆくばかりだ。そうではなく、そ もそも大切なことは、全身・心身一如の健康であるように、組織も国家も、悪いと思わ れる部分に拘っていては全部がダメになる。必要なことは、哲学・信念、義であり、皆 を奮起させるようなビジョンだ。FEG の掲げる哲学・信念のキーワードは、 「義勇仁礼と 成長・共栄・調和」 。ビジョンとは、我々の掲げる義(人が人として気高く生きること の美しさ)をひとりひとりがそれぞれの持ち場で実践しながら、「成長・共栄・調和」 を指向する社会へ向けて努力し続けることだ。理不尽や矛盾の存在は当たり前だ。そこ に悲嘆するのではなく、矛盾を和らげ治めていく力(忍耐力・実行力・調和力等)こそ、 日々の稽古で鍛えているはずだ。理不尽や矛盾に負けず己の目標を達成していこう」 。 「我々の社会とは、あくまでも我々人間の天地であるべきだ。人が人として気高く生 きることで、人が出会い、人を愛し、志を知り、赦し、楽しめる・・・成長・共栄・調和 の社会であるべきだ。 そのために、まず我々が、頑張ろう。現状の理不尽を嘆き不満を言うのではなく、ま ず己の心に義(理想・道)の一燈を灯す。そして各自の周囲の闇を照らす一燈になろう。 手の届く範囲の至るところに明かりを灯そう。一人一燈、その燈火が周囲に飛び火すれ 5 Copyright(C)2012 Far East Group All Rights Reserved. ば万人万燈になる。社会は明るくなる。 負けじ魂・気魄を養い、義勇仁礼に基づいて己を練磨し、理想・目標を掲げ、各自の 本質・適正に合う仕事に全身全霊で取り組む。その一燈が、成長・共栄・調和の社会を 構築していく。我々ひとりひとりは、常に最も活き活きとした現実に己の人生を、そし て社会を動かしていく「力」であり続けよう」。 「①負けじ魂を持ち、元気溌刺としている。②義勇仁礼を胸に、理想を掲げて邁進し ている。③「成長・共栄・調和」の一燈を周囲に広げている。この 3 つが FEG のリーダ ーの条件だ。道着を脱いでスーツや作業着に着替えたら火は消えたという軟弱さは許さ れない。明日からまた各自の立場・役割でそれぞれの仕事に邁進していこう」。 6 Copyright(C)2012 Far East Group All Rights Reserved.
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