11章:ヨーロッパのモダニズム1917-1933

近代建築理論研究会2012年12月7日レジユメ(江本)
11章:ヨーロッパのモダニズム1917-1933
附・11章翻訳。訳書本文の読みやすさの実験のため、試案として以下の点を反映。
・書名・記事名・展覧会名の 原題をすべて括弧内 に入れる。
­「括弧内は読み飛ばして読みやすい」本文体裁がよいだろう、との判断です。
・書名以外の原文括弧内の斜体を適宜引用符に改める。
例:「単壁住宅」("Haus mit einer Mauer")システム
・カタカナにして原語の分かりにくい語は括弧内にて新たに原綴りを指示
例:ベルリンのサークル「デル・リン」("Der Ring"
※今回の暫定訳では"Siedlung"は「ジートルンク」、"Der Ring"は「デル・リン」としています。
発音の微妙な、については、日本語でのカタカナ発音のリズムを重視しています。
­なお、ドイツ語定冠詞"der"は"R"から始まる単語の前につく場合には「デル」、
それ以外の場合には「デア」と訳しています。
※なお、今回の訳では先回研究会で提案した「"Form" =『造形』」の訳をすべてに当てはめています。
独工作連盟の機関誌Die Formも、『ディー・フォルム」では字面も悪く、逃げているような印象に映る
ので、強気に 『造形』(原題: Die Form) と訳しています。
※チェコ語のグループ名、雑誌名等の訳(日本語化、カタカナ化)が難しいです(字面が悪い)。
"Devetsil" (「蕗」)などの固有名詞には、訳した上で原語にフリガナを振っています……。
他言語でも、"rappel a I'ordre"にはフリガナで"Novembergruppe"にはフリガナなしなど、
表記が定まらない状態です。うまい解決策ないでしょうか。
※余談:日本語化、カタカナ化した固有名詞を 括弧内に入れるかどうかは、マルグレイブの文章の主眼
がすっと理解できる日本語になることを判断基準としています。章が異なりますが、慣例として斜体で書
かれるRundhogenも、すべてを 括弧の「ルントボーゲン」とするのではなく、むしろほとんどの場合
括弧なし・斜体処理なしのカタカナ表記でよいだろうと判断しています。
・その他の工夫
・共同設計、共同執筆の作品について、英語で"and"と表記のあるところは「+」に改める
­特に著作の列挙、コンペ参加者の列挙等の場合を考えています。
ここで「"and"→『と』『および』」にすると日本語の文章が著しく読みにくくなります。
例)「〔…〕ここにはハンス・ホフマン、マックス・エアンスト・ハフェリ、パウル
アル タ リ ア + ハ ンス ・ シ ュ ミ ッ ト 、 ル ドルフ ・ シ ュ タ イ ガ ー ー ク ラ ウ フ ォル ト 、 ル ド
ルフ・プライスヴァークなどの作品が掲げられていた。
なお、"Stewart and Levett"、"Adler and Sullivan"など、一体の固有名詞として扱えるよ号
な場合については特別な配慮が必要かと思います。
例)「スチュワート.アンド・レヴェット設計¦、「スチュワート、レヴェット共著」
・余談:カタカナ化の判断について。
­なんとなく書籍全体の整合'性がとれるように判断しています。上記「デル・リン」については本文に
別途「『環』の意」の指定があるために"Der Ring"はカタカナ表記とし、タウト、ヒッチコックそれぞれ
の〃'odern Architect皿汐については6節節題を「モダンムーブメントの全幅」と訳したために『モダン.
アーキテクチャー』とカタカナ表記をとっています。この節題を「近代〔建築〕運動の全幅」とした場合
には『近代建築』と訳すのが適切かと思いますが、マルグレイブの意図を僕なりに酌むと、"Modern"も
"Movement"も(特別な場合を除いて)ファジーにカタカナとしておいたほうがよいような気がします。
1.シュペングラー主義vsテーラー主義
(↑※定訳となっている「テーラー主義」と人名の「テイラー」の混在、どうしましょう?
【第一次世界大戦の戦禍】
・全世界で5000万人が従軍、戦没者1000万人、傷演軍人2000万人。
・トルコ:成人男性の1/4を失う。
・ポーランド:死傷者、家を失った人間併せて400万入超。
・ロシア:ドイツ軍侵攻、大規模な飢餓。
・ドイツ:ヴェルサイユ条約により物的・経済的資源が奪われる。インフレによる経済破綻。
.「戦勝国フランス、アメリカも安泰とは言えなかった。」
一→さらに1929年恐慌。
­マルグレイブ「この戦争とその余波のために1920年代のヨーロッパ芸術は
特殊な発展を遂げることとなった。
・戦後ヨーロッパが直面した住宅供給問題。
­→建築理論は装飾、様式といった問題系を超え出る。
・建築家に強いられた無為のなかから建築理論が乱立。
­あからさまな政治色をとっていた点で従来の建築理論とは異なる。
【建築理論の背景としてのロシア革命、シュペングラー主義】
・1917年ロシア革命と共産主義への楽観論。
­「特に終戦直後の知識人や芸術家は共産主義が
ヨーロッパ全土に広がることは必定であると信じきっていた。
­ 社 会 発 展 の 新 ( 進 歩 ) 段 階 としての共産主義。
シュペングラー「西洋の没落』(1918年)(「当時ヨーロッパで最も広く読まれていた書籍」のペシミズム
・ヨーロッパのファウスト的魂〔科学的な知への固執癖〕の誕生を
ロシア革命以前、10世紀(「精神」の再発見、ロマネスク建築の発祥)に る。
==ルネサンス期の「アポロ的なもの」〔「ファウスト的魂」と同とみる〕への回帰、
­→バロック、ロココ(17,18世紀)における科学精神の衰退、
­→創造性を欠いた「精神」は「文明」の端緒に身をゆだねる。
・20世紀に残されているのは「金銭を転覆し無効にするのは血のみである」と認識すること。
・機械教の3種の高僧(起業家、エンジニア、工場労働者)への「宗教的」潔白性を呼びかける
【マルグレイブの対置方式】
「レーニンのマルクス主義/シュペングラーの保守主義」 「共産主義的世界観/資本主義的世界観一
・・・シュペングラーの信念は社会主義と相容れないものではない。
ドイツ人の科学・工業にかける楽観論に裏切られたと感じていただけ。むしろ
「科学的思考への疑念/科学的思考の極北」とし う対立関係を措定し ここI
「シュペングラー主義/テーラー主義」をあてはめたほうが有効である。
【フレデリック・ウィンズロー・テイラー】
・1911年『科学的マネージメントの原理」(「戦後おそらく2番目に広く読まれた著作」)
­「マネージメントの主目的たるべきは、被雇用者各人の最大限の財政的成功を加味した
かたちでの雇用者の最大限の財政的成功の確保である。』
・分析へのアプローチ
・生産プロセスの各段階の細目にかかる時間を計測、
.誤った動作、遅い動作、無駄な動作を取り除き、
・必要な場合には効率的な動,作を訓練。
・分析の目的
①最悪例の単調労働の解説に用いる。
②生産'性の向上による被雇用者の待遇改善。
Ex・ 瓦積みプロセス研究: r120個/人・時」→「350個/人・時」までの改善。
ボールベアリング検査研究:効率3倍、賃金∼2倍、作業時間2時間短縮、等
および、テーラーシステムによるヘンリー・フォードの成功。
・フォードの成功を介したテーラーシステムへの欧州の関心の例
一社会学者ヤーコプ・ヴァルヒャー『フォードかマルクスか。社会問題の実践的解決』(1925年)
2.ソビエトの合理主義と構成主義
­マルグレイブ「しかし、この時期『科学的マネージメント」の原理に頼ったリーダーはフォードひとりで
はなかった。すなわち、1918年時点で既にボレーニンもソビエト式工業化システムにテーラーのアイデアを
組み込む意,恩を公にしていたのである。」
←→ソビエトにおける工業合理化への障害
・1917年革命時点のロシア国内にはまだ封建制が根強かった。
・工業発展においても西欧諸国に遥かに後れをとっていた。
・レーニンの胸中においても生産問題は小さな割合しか占めていなかった。
・ボルシェヴィキによる土地、金融システムの国有化。
・内戦、情勢不安、大規模な凶作。
・1918年レーニン暗殺未遂事件一→1924年脳卒中により没。
­→ヨシフ・スターリンの独裁政治へ.
【ロシア・アバンギャルドの蕊明】
­マルグレイブ「ロシアには当時、こうした経済的・政治的に不安定な背景があった。それを考えると、こ
の状況の中にあって、この時期ソビエトの芸術家や建築家がいつときヨーロッパの主導権を握った事実は英雄
的なものとも映る。」
一同「なお、ここで道を拓いたのはある程度画家の功績であった。」
ロシア抽象芸術の歩み
1913年:カジミール・マレーヴイチの純粋抽象絵画実験開始。
1915年:「黒の正方形」出品。
∼1919年:シユプレマテイズム標傍。
1919年:ヴイテプスクの学校にシュプレマテイズム教育を採用。
1920年: UNOVIS (新芸術連合)組織。エル・リシツキーも参加。
1920年:自由芸術スタジオのナウム・ガボ、アントン・ペブスナー「現実主義者のマニフェスト
ー「物質的な実態としての色」、「静的な力やリズムの方向を示す線」、「単純な深さ」
­「我々はこれらの芸術のなかに、即時知覚の基本形である運動リズムにまつわる、
ひとつの新しい要素の存在をみとめている。」
・構成主義の成立前夜
1913∼4年:ウラジミール・タトリン「反レリーフ」。
1919∼20年:第3インターナショナル記念塔プロポーザル案。
1921∼22年:アレクサンドル・ロトチェンコのプログラム冊舎子2冊.
­「未来の芸術」としての構成主義。
テクトニクメ
ファクチュール
ー 結 構 法 、 素材.処理、
コンストラクシ昌】ン
構築の3原理を有した「科学的共産主義的」芸術。
←­用語法は政治色が強く難解。
「結構法」:「実用芸術を創作しながら最新素材および
最新工業技術を開拓する社会主義的行為。
「素材処理」:「素材の選択および取扱い(操作)。」
「構築」:「構成主義的な組織作用」、「最大限効率的なプロダクト製作」。
1920年:VKhUTMAS (国立高等美術工芸工房)、INKHUK (芸術文化協会)の組織
­この2組織が構成主義理念の普及・改良メディアとなる。
・VKhUTMASにおけるニコライ・ラドフスキー
・機械造形の合理主義的構文論、抽象造形法を教えヨーロッパが注目。
・上記授業はラドフスキー自身の感入研究を基礎とする。
・INKHUK
・芸術研究に予算をつけた。
・国外展を整備、バウハウス等姉妹機関とも交流を図る・
・州機関の取り組み
・プロレカルト(「プロレタリア文化・教育機関」)を陣頭に工業化を斡旋。
­マルグレイブ「ソビエト連邦では、建築と芸術ははじめから、
大きな経済機構・政治機構の延長として受け入れられていたのであった。
1923年、VKhUTMASを拠点とする合理主義建築家団体ASNOVA (振興建築家協会)の結成
一領域を超えた芸術家(リシツキー、マレーヴィチ、メルニコフ)らとも協力
ヴェスニン兄弟による「構成主義建築」の成立
・1923年の3人協働によるモスクワ労働宮のコンペテイションデザイン。
・同年、アレクサンドル+ヴィクトル協働によるレニングラード・プラウダ・ビルディング。
­しかし、これらの最新鋭設備(ガラスのエレベータ塔、サーチライト、
ドッキングポート、ラジオ塔、等)を備えた建物は現実での建設不可。
一→新しいソビエト建築の実現作は
1925年パリ装飾博のソビエト館(メルニコフ設計)を待つ。
【ソヒエトの建築理論】
・モイセイ・ギンズブルク
・エコール・デ・ボザール(パリ、トウールーズ)んだのち
未来派の時期のミラノ美術アカデミーに通い、4年のクリミア生活を経て
1921年からVKhUTMASで歴史と理論を教える。
・1923年『建築のリズム」:ダイナミックな造形、建築と経験の現象学的な関係を好む。
・1924年「様式と時代』:「ソビエト勢の理論をヨーロッパ思想の最前線に押しだした先駆的研究。」
・1925年、ヴェスニン兄弟と組みOSA (近代建築家協会、初の建築家構成主義グループ)を組織。
­ マ ル ググレイブ「ギンズブルクはただの建築家ではなく、知識人でもあった。彼は〔…〕
レイブ
ソビエト勢の理論にヨーロッパ的な視点を持ち込んだ。」
・ヴェルフリン史観。
・シュペングラーの絶望。
・テイラーの科学効率論。
・パウル・フランクル、ヴォリンガー、ル・コルビュジエの影響も指摘される
・ギンズブルクの「様式」(ヴェルフリン風):「希望するか否か、あるいはそもそも気付く
か否かにも殆ど拘わらず、大小問わず人間活動全ての表現に一定の特質を課す、ある種の現
象のようなもの。」様式は皆青年期(構造的)、円熟期(有機的)、老年期(装飾的)を経る。
・ギンズブルクの新様式観(サンーシモン的イメージ):過去の主要様式(グレコ=イタリ
ック様式およびゴシック様式)から生まれてくるはずだ。
・ギンズブルクの全般的史観(シュペングラー受容):ヨーロッパの実務は過去2世紀間衰
退の一途を るが、ロシア革命によってこれは現在とは切り離されている。
­しかし「モダニテイ」なる用語が実務に新しい進化段階を生じさせる、という
楽観論をとる。
・ヨーロッパに「完全なる衰退絵図」を見、アメリカの工業力を賛美。
・近代世界の筆頭課題は労働者住宅と工業工場の建設。
一新建築の造形パラダイムは工業工場から生じる、とする。
・新様式には「機械の持つ強い方向表現」が象徴として活かされる。
­ヴェスニン兄弟の労働宮をエンパシーカ場として図示。
「主要運動軸に対するシンメトリックな造形」を支持、アシンメトリ〔ピクチヤレスク?〕
造形の劣位を主張。
エノレ
リシツキー
・1920年代を芸術家および文化使節としてドイツ、スイスで過ごし、両国への影響もあった。
.『ロシア』(1930年)結語にみられる建築観とギンズブルク言説の比較
1)建築は単なる感 情的な事柄でも、個人主義的な事柄でも、ロマンチックな'情事でもない。
2)設計にはザッハリヒなアプローチをとらなければならない。
3)建築は方向を持った目標でなければならず、科学的でなければならない。
【ロシア・アバンギャルドの衰退】
・1929年結成VOPRA (プロレタリア建築家全連邦協会)と機械美学.西側世界観との対立。
・1931∼33年のソビエト・パレス・コンペテイシヨン。
・1932年スターリンによる「文学者・芸術家諸協会の改組に関する布告」
­→新古典主義の亜流としての「社会主義的現実主義」が国家様式となる。
・これはソビエト・パレス勝利案にも反映(戦争により建設は中止)。
­マルグレイブ「1930年代末にはソビエト建築のアバンギャルド期は途絶えて既に久しく、かつて「モダ
ン」であった建築家はほぼその全員が実務を降りるか強制労働収容所送りになっていた。一時盛隆を誇ったシ
ビエト建築は、かく一夜にしてスターリニズムなる漆黒の歴史の陥奔へと崩れ落ちた。」
6.初期モダンムーブメントの全幅
【モダンムーブメント史の語られ方や認識の変化】
・数人の第一人者を中心に全般的に語る­­→より広い実務を取り上げ、均質なムーブメントとしては語らない。
­マルグレイブ「そしてその通り、このムーブメントの持っていた多様な傾向には、実は
かつて考えられていたような改まった均質性を持つところは少ない。」
­「また、その中には見過ごされていたり忘れられていたりするものも幾つかある。」
【フランス】
­「ル・コルピュジエはこの国で決して単独でモダニズムを信奉していたわけではなく、
そのシーンで最も成功した建築家であるということさえも違っていた。』
・アンリ・ソバージュ
・1912年:ラ・メゾン・ア・グラダン(「段状住宅」)。
・1922年:アミロー通りの大型アパートメントビル(鉄筋コンクリート施工)。
・ロベール・マレ=ステヴァン
・1920年代のパリで最も有名な建築家。
・ウィーン分離派、キュビズム、オランダ人の作品に影響を受ける。
1913年:サロン・ドートンヌのための室内設計2作品。
1918年:作品集『現代都市』。
­上記二作はル・コルピュジエにも影響。
1923年:マルセル・レルビエ『人でなしの女』の映画セット。
1923年:ヴイコント・ド・ノエイユ邸、ポル・ポワレ邸にみられるモダニスト的意匠。
1927年:(現在の)マレ=ステヴァン通りの近代アパートメント。
­しかしこの近代アパートメントは翌年ギーデイオンに非難される。
←­マレ・ステヴァン式の著移モダニズム意匠のため。
・アンドレ・リュルサ
・ル・コルピュジエの建築および実業家へのアピールを非難。
・シテ・スーラのグループ住宅(1924∼5年)は当時ル・コルビュジエの作品より知られていた。
・ヒッチコック;「ル・コルビュジエよりも優れた建築家である。」
・ル・コルビュジエの作品よりも明らかに先進的。
・堅実な現実 性や尤もらしさが備わった設計をする。
・リュルサが「若い建築家たちに直接与えているまことに健全な影響」を評価。
­しかしリュルサは1934年にソビエト連邦に移り、スターリンの新古典主義に転向。
その後のテクストでは「ゴーデの古典主義の伝統」が蒸し返される。
・アイリーン・グレイ
・スレイド美術学校仕込み。
・家具・工芸からインテリアデザインへ、建築へと移行。
・1926年: E-1027
-ル・コルビュジエの「5つの要点」の完全再現となっていた。
【ベルギー】
・ヴイクトール・ブルジョワ
・1922∼25年:ラ・シテ・モデルヌの300戸住居ユニット(ガルニエの影響を指摘)。
・ルネ・マグリットとフェルナン・レジェの友人として前衛サークルを渡り歩く。
1927年:ヴアイセンホーフ展に参加
1928年: CIAM創設メンバー。
【イタリア】
・背景
、次大戦では戦勝国側であったが戦禍を被る。
・戦後のインフレ。
・1920年の政治混乱、ストライキ、武装コミュニストの暴動、
紅衛兵の革命裁判所、国粋主義者の抵抗。
・1922年ムッソリーニのローマ進軍。­当初は大いに支持を得た。
・戦後のイタリア建築
一「先の戦争によってイタリア国内の未来派は既に絶滅していた。
20世紀派(「ノヴェチェント」)の台頭。
・フランスの「秩序へのl呼びかけ」(「ラペル・ア・ロードル」)運動と関わりをもつ。
、アバンギャルド的題材に新古典主義的関心(秩序、バランス、キアロスクーロ、有彩色)
を化合したもの←
・ジョバンニ・ムチオの作品から建築に応用され始める。
・1921年:デイアーノ・マリーナの博覧会場。
­パラディアン風で遠近図法的。
・1920∼22年:力・ブルッタ。
­表層操作の過多によりほとんど壊れかけに見える。
・1922∼23年:ミラノのテニスクラブ。
­古典モチーフのポストモダン的処理。
・ジオ・ポンティ
・1924∼6年:ヴイア・ランダッキオの住宅(エミリオ.ランチアと協働)。
­バロック的。
・1927∼8年:カサ・ボルレッテイ
・1928年:『ドムス』創刊、同誌は20世紀派の主要機関誌となる。
・イタリア合理主義
・成立は1926年、ジュゼッペ・テラーニ率いるグルッポ7が中心となる。
・1926年:グルッポ7のマニフェスト。
.「ここで語られる彼らの『論理と合理性の厳守』の概念は、伝統を評価するラテン的観念
を介して受容されたグロピウスであり、ル・コルビュジエであった。」
・北ヨーロッパ的な社会主義言語や造形言語の存在の傍ら、
ここでの「razionalismo」にはファシスト(求心)体制文脈の「地中海文化尊重の
気風」や「エリート介入志向」が含まれていた。
・1928年:「イタリア合理主義建築運動」(MIAR)の設立。
一­第一回合理主義建築展覧会の開催にあわせる。
・初期合理主義建築の実例
・1928年:ジュゼッペ・パガーノ(「カサベラ」編集者)のトリノ博覧会作品。
・1927∼9年:ジュゼッペ・テラーニのノヴオコムーン・アパートメント。
その他の〔?〕対・抗馬
1933年:マリオ・リドルフィのピアッツァ・ボローニャ郵便局。
カルティエーレ・アヴェンティーノ郵便局(リベラ設計)。
1931∼3年:トレントの小学校(リベラ設計)。
1933年:シカゴ万国博覧会イタリア・パビリオン(リベラ設計)&
1933年:オスティア・リドのアパートメント群(リベラ設計)。
・イタリア・モダニズムの初期著作
一マルグレイブ「互いにそのアプローチが異なっており興味深い。」
・1930年:マルチェッロ・ピアチェンティーニ『今日の建築』。
・他国建築家の作品では、古典の影響の強いものに言及。
・国内建築に関しても、地方的性格や古典の伝統(イタリアの文化環境)を重視。
・1932年:アルベルト・サルトリス『機能建築の諸要素』。
.「ル・コルビュジエの影響の証のような書物。」
­タイトルの「機能的」の語にはル・コルビュジエの示唆があった。
­初版に序文を書いたのもル・コルビュジエ。
・建築と絵画、彫刻との関係を重視した最初期のモダンムーブメント史。
・イタリアの諸建築家とファシスト
.「イタリアの合理主義建築家はそのほぼ全員がある時期にファシストを支持。」
­「ドイツやソビエト連邦の政治独裁とは違い、
ムッソリーニとムッソリーニ下の文化委員は合理主義を受け入れることこそ
しなかったものの、モダニズムを拒絶することもなかった。
­しかし「1936年にムッソリーニが〔…〕ヒトラーと政治同盟を組み始めると、
この提携関係の雲行きは怪しくなる』=
【スペイン】
・背景
イタリア以上の政治不安定。
・1923年:ドン・ミゲル・プリモ・デ・リベラの右派クーデター以後の独裁政治《
・1930年代の共和国移行後の党派分裂、地方分裂。
­→ブランコ将軍の反乱、スペイン内戦(1936∼9年)へ。
スペインの近代建築
・スペインが古典時代と決別し始めるのは、『アルキテクトウーラー』誌創刊の192 7年を待つ
・ホセ・ルイ・セルト
・バルセロナに学んだのちル・コルビュジエの事務所に勤務。
・1930年帰国後GATCPAC組織、カタロニアの新建築推進の 矢となる。
・1932年:ガロバルト邸。
・1932∼6年:カサ・ブロック。
。』・マニュエル・アイズプルァ
ーセルト同様にル・コルビュジエのスタイルをとる。
【スイス】
・背景
「スイスで成立したモダンムーブメントは多少趣を異にしていた。」
.既にカルル・モーザーという「モダンの」巨匠がいた。
・ロベール・マイヤールに代表される進取的なエンジニアリングの伝統もあった。
・コンクリートという「土着材料」も、早い段¦砦から住宅の伝統に組み込まれていた。
ジークフリート・ギーデイオン
・1928年:『フランス建築』
・1929年:『住宅の解放」
・住宅の「永遠の価値」からの解放を試みる。
.また、法外な家賃、厚い壁、モニュメント 性、維持費、主婦の手間からの解放。
・当時のインターナショナル近代建築の最新 情報をいち早く掲載。
・モロッコのバナキュラー住宅の空撮、ショーツを いた女'性テニスプレイヤー、日光浴。
­マルグレイブ「すなわちギーディオンはカリフォルニアのリチャード・ノイ;、
ラと同じく、近代建築を美的ファッションとしてではなく、包括的なライフスタイ
ルとして売り出したのである。」
【デ・スティルと構成主義】
・1924年:主要メディア「ABC』創刊(ハンス・シュミット、マルト・スタム:編集ディレクター)
・厳格な機能主義を掲げた構成主義理念。
・VKhUTMASの学生作品も多く掲載。
・論争の主眼:理想の建設方式、機械の独裁。
・ハンネス・マイヤー
・もともと古典主義者。デ・スティルおよびブルジョワの原理に触れマルクス主義に転向。
・1926年:聖ペテロ女学校(ヴェットヴァーと協働)。
・スティールケーブル、カンチレヴァー・テラス。
・国際連盟コンペ三等入賞(ヴェットヴァーと協働)、名声を博す。
・1927年:デッサウ・バウハウス新設の建築学科長に専任。
・1928年、グロピウス退官とともにバウハウス校長となる。
­マルグレイブ「実現作のポートフォリオの薄いマイヤーがこのとき、
この世界一有名なデザイン学校の校長となってしまった。
・バウハウス内におけるマイヤーの立ち位置
・ムッヘ、ブロイヤー、モホリーナジは既に退任。
・反美学・機能主義論争でクレー、カンデインスキーを排斥。
­機関誌『バウハウス』を中心に。
・建築の全プロセスは機能のダイヤグラムと経済計画に還元される。
・建築は純粋に建設であり、本質的に非芸術的なものである。
・バウハウスの左派機関化を容認、国粋主義的社会主義党派からの激しい反対に遭う。
・1930年:デッサウ市町がマイヤーを解雇、公開書簡中でマイヤー抵抗。
・マルクス主義者のレッテルを貼ることに対して抗議するが、
・同年末、レッド・バウハウス7人でロシアに移る。
【オーストリア】
・背景
・国家解体からチェコスロバキア、ポーランド、ユーゴスラヴイア等が生まれる。
・オットー・ヴァークナーの遺産。
・住宅供給が戦後もっとも 迫した問題となっていたウィーン(「赤いウィーン」〉。
­→土地・不動産収容、市財源の.住宅供給プロジェクト多数。
ウィーンの「社会主義的都市計画実験」
・アドルフ・ロース:市住宅局のチーフアーキテクト(1921∼24年)
・菜園つき低密度単世帯・住宅(「ジートルンク」)を支持、プロトタイプ設計。
・アム・ホイベルクにおける「単壁住宅」構法。
­­側1面のみに基礎を打ち、前面・背面の壁は
左右壁全幅に渡した木造梁から吊る。
.しかし市職員は「ホープ」(中庭)解を支持し認可。
(ミニマルで労 働集約的なアパートメント+様々な共用施設で大きな団地ブロックを形成。:
.カール・エーン設計、カール・マルクス・ホープ。
­全1幅1キロ超の1400ユニット住宅。
­意匠的に「ウィーン自身の急進体制の体現」であった。
­→「アカの要塞」として1934年政局悪化の際には実際に戦場となるさらに巨大なザントライテン・ジートルンク(1924∼28年)。
【スロベニア】
・ヨジェ・プレチニック
・ヴァークナーの弟子、ルブリャーナ拠点。
・神秘主義的兆候の強いモダニズム。
・1928∼30年:'保険ビルディング。
・プラハ城、プラハ聖心教会(1928∼31年)。
【ハンガリー】
・ヨージェフ・ヴァーゴー
.「ヴァークナーすじの伝統にゆかりがある。」
・1912年工作連盟論争ではムテジウス側に立つ。
・1919年政府崩壊により政治亡命に追いやられる
ファルカシュ・モルナール
・バウハウス教育ののちグロピウス事務所。
.しかしドースブルフ理論から強い影響を受ける。
・6X6の家。
・ヨージェフ・フィッシェルとともに、のちにはル
コルビュジエの影響が顕著。
ラースロー・モホリーナジ
・1921年『デ・スティルj内での「元素主義者芸術」の定義:「純粋で、
1921年『デ・スティル』内での「元素主義者芸術」の定義:「純粋で、有用性や美しさから解放さ
れたもの、誰の中からも生じうる元素的なもの。」
ファン・ドースブルフとともにリシツキーのサークルとも交わる。
1923年バウハウス着任は「構成主義者としての評判」のため。
10
.「建築から材料へ」にみれらる空間観
.「建築の本質は空間問題への精通にある。」:ルドルフ・シンドラーに次ぐ言明。
.「単一の構造だけでは課題は終わらない。全方向の空間創造、連続体としての空間創造が
その次に続く。境界は流動的になり、空間は流れているものとして、無数の関係の連続とし
て着想される。」:ギーデイオンの『空間、時間、建築』の主要テーマのひとつ。
【ポーランド】
・シモン・セルクス
・デ・スティルサークルと接触。
【チェコスロバキア】
・背景
.「かつてハプスブルク帝国の一部として鉱脈の豊かだったこの新興国は、
戦後たちまち裕福な工業の中心地となった。_
・地理的にドレスデン、ベルリンに近く、これがゲルマン文化形成の軸となった。
・ヤン・コテラ
・ヴァークナーのもとで学び、ライトの作品に影響を受ける。
­→マルグレイブ「1906年には既に新たな建築空間概念に到達していた。…
チェニ
キュビストの拠点としてのプラハ
パヴェル・ヤナーク、ヨゼフ・ゴチヤール、ヴラステイスラヴ・ホフマン。
この短いムーブメントには「バロックの形式的な面、フランス・キュビズムの影響
および『感入理論』の知覚心理学が結び合わさっていたJo
・カレル・タイゲ
・詩人、芸術史家、過激派グループDevetsilのスポークスマン。
・チェコスロバキアにおけるアバンギャルド誌の乱立に関与。
・彼の宣伝戦略により、1925年以降のチェコスロバキア新建築は急速に進展。
・オルドジッヒ・テイル、ヤモミール・クレイツァール、ボフスラヴ・フックス、ヤソスラ
フ・フラゲール、エヴジェン・リンハルト、ヨゼフ・ハンレク、カレル・ホンジークら。
・チェコスロバキア新建築の極点は1928年、現代文化世界博覧会(ブルノ)および
チェコエ作連盟住宅団地("Novy dum")建設。
­前者はフックスの才能を世界に宣伝する役割を果たした。
­後者は前年のヴァイセンホーフ展の単なる焼き直し(ル・コルビュジエの模倣)。
1930年:『チェコスロバキアの近代建築』にみるタイゲの新建築観
・1920年代:「構成主義の10年」。
­タイゲの考える「構成主義」はソビエト連邦の成立、オランダの実践、
ロースとル・コルビュジエの作品群をルーツにもつ。
­またそれは「芸術家や建築家の『イズム』ではなく、万人の創造'性のためのガ
イドラインであり、全分野にまたがる作業の方法論であり、機能主義者の、弁証法
の、唯物主義者の、­一言で言えば社会主義者的一思考のための手段」である。
・現代の建築家の課題は改善ではなく、刷新であり、「I階級闘争とマルクス主義的世界観を
前提とした」革命である。
1
1
・終盤ではロースの章を作ったことを読者に詫びている。
←­「ロースは当時もはや、政治的に彼のめがねに適わぬ人物」であった。
共産主義革命を待ち望んだが、1948年革命では逆に中傷運動の標的に。
一→仕事もなく1951年に没。
【フィンランド】
・背景
・世紀末の国粋ロマン主義ムーブメント(ラーシュ・ソンク、エリエル・サーリネンら)の継続。
・上記および、ドイツをルーツとする新古典主義ムーブメント、バウハウスの影響との鼎立。
フィンランド初期のモダニスト
・エリック・ブリッグマン
・1927年のコンペテイシヨン・デザインで新古典主義からモダニストに移行。
­「フィンランドで初めてモダニストのボキャブラリーを実験した人物。­→年下のアルヴァ・アアルトに影響を与える。
アルヴァ・アアルト
・1924年:妻のアイノ・マルシオとともに開業(ユヴエスキユラ)。
1924∼5年:新古典主義の労働者クラブ。
1927年:西南部農業協同組合コンペ勝利、トウルクに移る。
1928∼30年:サノマト新聞社ビル。
1928∼33年:パイミオの結核サナトリウム。
←一ヒルフェルスムのサナトリウム(ヨハネス・ダウカー)見学の影響。
【スウェーデン】
・エリック・グンナール・アスプルンド
・1916年∼:森の墓地
一初期案では古典的要素とバナキュラーの要素が兼ね備えられていた。
・1920∼8年:「ルドウー風」のストックホルム公立図書館。
・1930年頃:インターナショナル・モダニズムに転向。
←­スヴェン・マルケリウスおよびウーノ・オレンの土台。
・1930年:ストックホルム・デザインエ芸博覧会。
­アスプルンドは企画立案監督およびパビリオンの設計に携わる.
­オレンの住宅セクションはヴァイセンホーフ展の影響をみせる.
・1931年:『アキセプテイエラ』(「受け入れよ」の意)の出版。
←­原書名および訳はマルグレイブの間違いか。本人に訂正の許可をとりたい。
(アスプルンド、オレン、マルケリウス、ヴォルテル・ガーヘン、
グレゴール・ポールソン、エスキル・スンダールによる共著。
­フォーディズム受容、工業化、社会全体の責任でのマスハウジング推進を説く。
【デンマーク】
・カイ・フィシュカー
・マーティン・ニューロプの弟子。
・
瓦と木材によるピュリスト造形
.『アルキテクテン』誌編集者。
1
2
・アルネ・ヤーコプスン〔ヤコブセン〕(※「ヤコブセン」は英語読みだが、「ヤーコプスン」では誰だか分からない…?
・フィシュカーの弟子。
.「未来の家」コンペ勝利案(フレミング・ラッセンと協働):
1929年コペンハーゲン博覧会で展示される。
・変形キューブの自邸。
【バウハウス以外のトイツの展開】
­マルグレイブ「当時、中央ヨーロッパと北ヨーロッパの小国の建築家の多くは理念上・建築設計
上の想源としてドイツの方を向いていたが、それはドイツが1922年から28年にかけて新建築の培
養にいまだ最喧 多様なアプローチをみせていた ためでこそあった。たしかにグロピウス独裁下のバウ
ハウスはこの時期(外国から)最も綿密にフォローされた機関のひとつであったのかもしれないが
ドイツ国内の大きい文脈でバウハウスを重く見るのは安易である。」
エーーヒ
リ・メンデルゾーン
ー「最も思索的とまでは言わずとも、ドイツ国内で最も才能に恵まれた建築家であった。」
・テオドール・フィッシャーのもとで修行、青騎士グループとの親交。
・作品
・1919年:従軍中に作成のスケッチがベルリン・ギャラリーにて展示。
・1918∼22年:アインシュタイン塔。
­上記2作品から「表現主義者」であるという定説があるが、それは誤り。
・メンデルゾーンはモダニズムの信奉者であった。
・空想的計画の反面、彼は「建て、かつ良く建てる方法を学んだ」
人物である=
・1921∼3年:ルッケンヴァルデのl帽子工場。
­「巧みな線と、骨格を思わせるコンクリート構造を有した
機能主義的設計の傑作。』
・1922∼3年:モッセハウス出版のリノベーシヨン・増築。
­「都市の角地に対する並々ならぬ先見の明が光っている。」
・商業ビルも数多く設計。
・1925年:ショッケン百貨店の設計依頼。
­マルグレイブ「メンデルゾーンのこうした作品やハンス・シヤロウン、フーゴー・ヘー
リンク、ハンス・ルックハルト、ヴァシリー・ルックハルトの類似の作品が革新的な設計と
して1920年代当時の誌上を席巻していたが、その後はほとんど関心を持たれなくなった。」
・理論
­「彼が1920年代で最も旅行をしたドイツ人建築家であることは確実である。」
・アムステルダム講義、パレスチナ旅行、アメリカ旅行。
­→1926年『アメリカ:建築家の絵本』。
・1925∼26年USSR旅行
一→1929年『ロシア=ヨーロッパ=アメリカ:建築の断面」における
「アメリカか/ソビエトか」問題への回答
.「ロシアとアメリカ」のテーマはそこに挟まれたヨーロッパの問題。
.「アメリカ」:「ただ野蛮で搾取的で機械に強い国であるばかりでなく
知的な深みを持ち始めた国」
1
3
­無限の富と工業における洞察の深さをもちながら、
さらにロマンチックに文化への'憧れを持っている。
­しかしアメリカにはまだ高層ビルを表現するための
豪胆な着想・精神が認識できていない。
。「ロシア」:「アジア、オリエント世界の継子」としての
神秘的で幻想的な文化。「新秩序の始まりに身を掴1つ実験場。』
←→科学技術上の後進性、貧困。工業に期待をかけすぎる。
ヨーロッパには「アメリカ」「ロシア」の中間の調停方法が塞がれている。
←­.「ヨーロッパの精神的張力が緩みすぎ、気候が穏やかすぎ、
統一ヨーロッパの実現が先すぎる」ため。
.「合理 性を好む性向や業師的な理論を振り回す傾向」のため。
­ル・コルビュジエ(ヴァイセンホーフ展の住宅)を論難。
メンデルゾーンはこの住宅が合理的な基礎を持っているかどう
かを疑問視するだけでなく、ル・コルビュジエの美学の基礎にあ
る形式主義を浮き彫りにもした。
­マルグレイブ「のちのインターナショナルスタイノI
の耽美主義に対する早生りの宣戦布告」。
・後年
・大恐慌とともに実務は1931年より破綻。
・ユダヤ人差別公認前に既に亡命、1933年オランダ。
一→イギリス、パレスチナ、1941年アメリカ-
・エアンスト・マイ
ー「戦後ドイツの住宅供給問題に関わりを持ったなかで最も目立っていた建築家。」
・テオドール・フィッシャーの弟子。
・レイモンド・アンウインのガーデンシテイ論に感化され、
ロンドンの大学在学中にはアンウィンのもとで働く。
・1918年:ブレスラウ、シユレジエン建築部技術監督。
・1920年代初頭:複数世帯用集合住宅。
­伝統材料および形式。ヘレラウの戦後の計画案の影響がみられる。
.その後色彩、プレファブ構法、高速アセンブリ法、コンクリートパネル、陸屋根などに関心。
・ブレスラウにおける規格化キッチン、規格化浴室の設計。
←一アメリカ想源。メアリー・パテイソン『住宅工学の原理』、
クリスティーン・フレデリック『住宅工学』。
・ガーデンシティ修正解。
・1925年:ブレスラウ郊外の公営住宅団地(フランクフルト都市計画主任就任の年)。
・マルガレーテ・リホツキー設計の「フランクフルト・キッチン」
.作りつけのアイロン台、収納。
­最少スペースで最大効率のエンジニアリング。
・マイによる「効率」コンセプトの敷術
・ドア、窓、家具、固定ライト、機械設備の規格化。
・建設プロセスの効率化。
­特にクレーン利用設置のプレキヤストコンクリート壁。
(初使用は1926年のプラウンハイム・ジードルンゲン。、
14
­しかしこれらの取り組みは20年代末の経済悪化のために頓挫。
­→1930年、16人の軍団でソビエト移住、第1次5カ年計画の補佐にあたる。
­→1934年ドイツ再入国を拒否され、ケニア、ウガンダ、南アフリカへ
その他の低コニ
低コスト住宅の取り組み
グロピウス、ブルーノ・タウト、マルテイン・ヴァークナーら。
グロピウスの失敗例:1926年テルテン村計画(デッサウ郊外)。
・テイラー理論により作業者とクレーンをアセンブリラインにまとめ、
.「軽量コンクリートブロック上にコンクリート床と屋根スラブ」のユニットを31戸建設。
­ し か し
・ユニットは極めて小さく、
・屋外トイレひとつのみで浴室はなく、
・構造分析が至らず壁面には亀裂多数。
­「次の段階ではこうした問題の幾つかを正したグロピウスで
あったが、彼のプロとしての評判にはもう傷がついていた。」
マルテイン・ヴァークナーとブルーノ・タウト
・ヴァークナー:「共産主義者であり、『デア・リンク』のオーガナイザー。」
・20年代前半:テイラーの原理に基づいた低コスト住宅への出資のため、
ギルドや共同組合の組織に心血を注ぐ。
­→経験・知識が買われ1926年ベルリン開発計画局の長に任命される。
・タウト
・1921∼24年:マグデブルク市の建築家。
・1924年?:『新しいすまい:デザイナーとしての女'性』。
・アメリカ人典拠に「挨のたまるオブジェをなくせ」、
「面倒な家事から主婦を開放せよ」を説く。
・テイラーの工場研究を連想させる家の理想のレイアウト案。
・1927年:ブリツツの馬蹄形団地の設計で協働。
一等、1920年代のタウトが他建築家と協働で設計した公営住宅は
当時圧倒的に質が高く、効率的な建設メソッドをとった点でも特筆される。
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7.ヴァイセンホーフとCIAM
­マルグレイブ「ドイツ・モダニズムの精製プロセスは、1927年にシュトウットガルトの丘の中腹で行た
れたこの住宅展〔ヴァイセンホーフ・ジードルング〕をもって始まる。
【ルートヴィヒ・ミース・ファン・デル・ローエ】
・戦前:ベーレンス事務所にてドラフツマン、個人ではベルリン郊外にシンケル風のヴィラを設計。
・戦中:終盤にブルガリア従軍、戦闘は経験せず1919年にベルリン帰還。
・1920年代初頭:アバンギャルド誌の『G』誌(リヒター、リシツキー、ドースブルフら)に参加。
・特定の芸術教義やイデオロギーに傾倒していたためではなく、リヒターとの交遊関係のため。
・1923年:「コンクリートのオフィスビルディング」、「コンクリート住宅」。
­先だつ摩天楼案との文脈で評価すべき。
・1921年:「フリードリヒストラーセのガラスタワー」。
­コンペティションの要綱に沿わず、構造、熱・冷寒現象のことが
全く考えられていなかった。
・1922年:曲線構成のタワー(初出:タウト編集『曙光』)。
­「ここでの『有機的な』ペリメータはこの時期ミースがヘーリンクと
事務所をシェアしていたからこそ出てきた案であるように思われる。」
­「ミースのコンクリートのオフイスビルディングはマイヤールが戦前に完成させたカン
チレバースラブの実践。」「ミースのコンクリートの田園住宅は、アルトウーア・コルンやフ
ーゴー・ヘーリンクの案に較べるとオリジナルでもなければ感動的でもない。」
・1920年代の警句風の発言と実作との矛盾。
­「性向としては古典主義建築家であり、余暇にはアバンギヤルデイストであった
1925年以前のミースは、明らかに道を模索している途中だったのである。」
・組織化、セルフプロモーションへの熱意。
.「アバンギャルドとのコネは自身が正当な芸術家として認められるためのいち手段」
。「猛烈な野心の証左として」、数々の国で「わずかな『幻視的』ドローイングを盛大に発表」。
・1923年:ドイツ建築家連盟の地区監督となるが、翌年にはヘーリンクと組み
反逆者組織「デア・リンク」(もとは別の目的を持ったグループであった)を組織。
・1923年:「新露同胞協会」加入。
­「政治的なシンパシーのためではなく、有力クライアントのご機嫌とりから。」
・1924年:「それまでずつと敬遠してきていた」ドイツエ作連盟への加入。
一→ヴァイセンホーフ展参画のきっかけ。
【フーゴー・ヘーリンク】
・1921年に拠点をベルリンに移し、ミースと事務所をシェア。
・1922∼26年:グート・ガルカウ。
­実務における有機的アプローチ、および農業経営の科学的マネージメントへの関心。
・1925年:「造形への道」
­現代社会は機能より造形が出しやばる「幾何学的」建築文化ではなく、
自然と人間の受容にもっと順応した新しい設計姿勢を望む。
・客観的・合理的な機能主義ではなく、表現的な機能主義を追求。
­→この有機観ため、グロピウスは1923年バウハウス展へのヘーリンクの出品を拒否。
­マルグレイブ「20年代末に顕在化することとなるドイツ・モダニズムの内部分裂は
グロピウスのこの決定が起源であるとみることができる。
16
【ヴァイセンホーフ・ジードルング展の開催】
・工作連盟ヴュッテンブルク支部長グスタフ・ストッツの企画。
・1924年:工作連盟企画展「装飾のない造形」。
・1925年初頭に於シュトウットガルトの大規模展覧会の企画。
・資金問題、市職員の合意問題に手こずり1年を要する。
­→1926年段階では「団地型宅地開発」、「ヴュッテンブルクの建築家の参加」
の予定であった
・1925年10月のサイトプラン初期案(ミース作成)は相当規模の縮小を蒙る。
、市は「小さく低コストの単世帯モデル住居」の建設を望んだが、
規格化構法の勉強のための複数世帯住居案は容認、
ミースは賛沢なユニットの建設を望んだが、
低コスト住宅の実演モデル建設には反対せず。
・建築家の選定について
- 1 9 2 5 年 9 月 ス トツ ツ 案
一→ミースはロース、ボナッツ、ヴァン・ド・ヴェルドの参加に反対。
一→11月案に反映。シユトウットガルト出身者も減(5→2)。
.「ミースとの親交のため」ヒルベルザイマー参加。
・ミースとのデル・リン内部対・立のために
「メンデルゾーン­→ヘーリンク」の人選。
.なぜかエアンスト.マイがどのリストにも挙がらない。
.割り当ての敷地について
・ミースの特権:「今回最も大きな、敷地頂上の3階建てアパートメント。」
・ル.コルビュジエの優遇:「一番目立つ敷地と群を抜いた予算。」
このときに始まるミースーコルブの関係は「一部は対・グロピウスであろう」。
、グロピウスの冷遇:「ル.コルビュジエの建物の影の小さな2ユニットにまで格下げ。」
【ヴァイセンホーフ展:建築作品としての成果】
­マルグレイブ「設計の観点から言うと、ヴァイセンホーフ展は
よく言われるような成功では決してなかった。」
・認可プロセスの遅れと建築家の遅刻による開催の遅れ(もとは1927年7月17日∼の予定)。
­8月になっても完成しないユニットも多くあった
。「粗悪な建て方で、ディテーリングはお粗末、コスト超過も蔓延していた。」
­内装仕上げがされていない場合も多々あった。
.「構成からしても美的観点からしても、互いを引き立たせる建物もまずなかった。」
­「総体でみれば、ここでのパフォーマンスは16人の建築家で
てんでんばらばらだった。』
【ヴァイセンホーフ展:新ムーブメントの火付け役として】
­マルグレイブ「このように建築では上手くいかなかったものの、この展覧会は
新ムーブメントの仕掛け役としてもっと重要な成功を果たしていた。」
「これほどまでにマスコミ報道に力を注いだ展覧会は未だ嘗てなかった。」
・展覧会自体もともと知名度に大きな関心を払っていた。
・早期段階でのミースによるヴェルナー・グラーフ起用。
­2点の公式出版物の準備。
1
7
­ヨーロッパ大陸、南北アメリカの特派員40人を含むキャンペーンの陣頭指揮。
「実質上、ヴァイセンホーフ展はこの展覧会の考えるモダニズムをはっきりとした
『モダンムーブメント』に変えたのである。【ヴァイセンホーフ展の余波】
.「このモダニズム観」への命名を施した出版物の氾濫。
ヴァイセンホーフ展の開会が念頭におかれたもの
・ヴァルター.クルト・ベーレント『新建設様式の勝利』(1927年)。
・今起こっている「この全面的な改革、この壮大なドラマは
我々の時代の造形の誕生のときである。」
.この変革には、「道具、機械、建設方式、建設材料、精神の変化を受け入れ、
デザインを通じてそれらを創造的に習得する」ことが含まれる。
・ここから帰結する様式(機能性、エンジニアリング、色彩、光、
空間の利用を特徴とする様式)を「技術的様式」と呼称。
、ルートヴイヒ・ヒルベルザイマー『国際新建築』(1927年)。
・世界各国のプロジェクトを紹介、新ムーブメントの国際的な性格を強調。
.「建築家の創造的な意志」のみが上位に置かれる、「機能的な特,性、
要素同士のバランス」に力点のある原理を提唱。
その他の著作
・グスタフ・プラッツ『最新時代の建築芸術』(1927年)。
­テクトニック、ダイナミクス、リズム、プロポーション、経済 性、
表層エフェクト、色彩、装飾の観点から新建築の分析を試みる。
・ヘンリー=ラッセル・ヒッチコック『モダン・アーキテクチャー』。
・ヴァルター・ミュラーーヴルクコフ『現代ドイツ建築』改訂版。
­先鋭的デザイナーと伝統的思考のデザイナーを結びつける。
・アルトウール・コルン『建物のなかのガラス、日用品としてのガラス』。
-1920年代のガラス利用にまつわるビジュアル事典として有用。
・ブルーノ・タウト『モダン・アーキテクチャー』。
­強い反米感情を持つイギリス聴衆に対する卑下の態度を直裁に表明。
・カレル・タイゲ『チェコスロバキアの建築」(1930年)。
・ヨーゼフ・ガントナー企画「世界の新建築』(1930年)。
­ギンズブルガー『フランス』、リチャード・ノイトラ『アメリカ』、
エル・リシツキー『ロシア』。
【CIAMの成立】
・背景
・ヒッチコックの画策
一「建築の七灯」の招集:ミース、グロピウス、アウト、スタム、ル・コルビュジエ、
シュミット、コルネリス・ファン・エーステーレン。
(ヘーリンクorメンデルゾーンの「灯」は消えた)
­オランダの『ilO』誌を傘下にする試み(アウトに打診) :失敗。
・第1回CIAM討論会(1928年初頭)
・ヴァイセンホーフ・ジートルンクにて開催。
18
・第1回大会(1928年6月末)
・ラ・サラ開催。
・フランス人、スイス人、ドイツ人参加者が殆どを占める。
・会議の目的
・現代における建築の綱領策定。
・上記綱領推進のためのメディア創設。
・ル・コルビュジエによる実施プログラム
・4部構成:現代の科学技術、規格化、一般の経済システム、都市生活。
・グロピウス、ミース不参加。主要発言者はル・コルビュジエ、マイ、スタム、シュミット、
マイヤー、リュルサ(※コルブ以外は皆のちにソビエトに向かった人物)。
.「ラ・サラ宣言」:「彼らはこの現代世界で自らに突きつけられた諸問題を調和に導き、社会的およ
び社会学的秩序を有し人間の役にたつことのみを考える本来のプログラムに建築を引き戻そうとい
う意図のもと一同に会した。」
­社会学的秩序の実現のためには「土地の分譲、売却、投機は保有不動産の再編を行う経
済活動がこれを破棄しなければならない」。:土地私有廃絶のための請願文。
.第2回大会(1929年10月)
・フランクフルト開催。
・司会はマイ、18カ国から130人の建築家・ゲスト参加。住宅供給の問題のみを焦点とする。
ユ:クシスチンツミニムム
ー「最低生活条件」(許容最小限の住宅床面積)スタンダードの策定。
・グロピウス論文「最小限住宅の社会学的基礎」(ギーディオン朗読)。
・人間の進化を「新族・部族法時代」、「家族法時代」、
「個人法時代」、「コミューン法時代」4段階で論ずる。
­第3段階は終局にある。コミューン社会の住宅解が「最小限住居」
(最大限の光、換気性能を有した狭小都市アパートメント)。
・結語:「個人の解放、および若者の家族からの早期別居の兆候となる大アパートメント
ビルは、現今の工場労働者の社会学的要求をより十分なかたちで満たしている。」
­ベルリンースパンダウーハーゼルホルスト団地の高層解を思わせる。
・マイ案はプライベートガーデン等のアメニティ、隣接緑地との直接的関係を有する低層解。
マイはCIAM公式発行物からグロピウスの高層好みの言及を削除。
­マルグレイブ「それまで長きにわたって徐々に進んできた分裂は、
今や避けられぬものとなった。」
・第3回大会(1930年11月)
・ブリュッセル開催。
.「低層vs高層」論争の途絶:マイらの軍団がソビエトに移り不参加。
・ル・コルビュジエ、「彼の忠実な副官」ギーディオン、グロピウスが会議を掌握。
・ル・コルビュジエ「輝く都市」+グロピウス論文「低層か、中層か、高層か?」の布陣。
・グロピウス論:「うまくまとめられた現代的な構想のアパートメント群は必要悪と看倣さ
れるべきものではない。それらは生物学的動機のある住居類型であり、正真正銘この時代の
副産物なのだ。」
←­リチャード・ノイトラの支持:
「アメリカの高層ビルは高級品市場をターゲットにしている。」
〔「高層ビルは必ずしも低生活環境を意味しない」との論旨か。〕
・第4回大会(1933年夏)
・アテネ開催。
19
­当初1932年モスクワを予定。一→ソ当局の反対。
同年ドイツでもヒトラーが政局につき、
ベルリン・バウハウス建築学科アネックスも閉鎖。
ウス、ミース、ブロイヤー不参加のなか
グロピウス
ル・コルビュジエ指揮で「アテネ憲章」を起草。
・憲章の公刊は1943年。
、住居、娯楽、労働、交通カテゴリの計95の建議を核とする。
・スラムの根絶、居住エリアと交通エリア・労働エリアの物理的分離、
および緑地エリアとの一体化。
・アンチテーゼとしてのアメリカ郊外:「高い建物を互いに十分に離れさせて
建てれば、草木に覆われた広いエリアを作れる空地ができる。」
・建築家に絶大な権力を付与している。
差し押さえられた土地は建築家に委任。「建築は都市の福利と美に責任をもつ。
都市の創生・改善を引き受けるのは建築である。互いに異なる要素を選択、配分し、
適切な関係をもたせ、調和的で恒久的な作品の一部となすのも建築である。建築は
すべての である。」
­マルグレイブ「人間の思考にこうした蒐溌菱遥iを起こさせることを使命と考えている
コルビュジエの自己イメージと完全に一致する。」
点において、アテネ憲章の内容はル・コルビュジエの自己イメージと
­「立ち残っていたのは預言者ル・コルビュジエただ1人だった。
20
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