オイレンシュピーゲルと謝肉祭の愚者 2010 年 11 月 20 日 朝日カルチャーセンター立川 岡部由紀子 ボーテ著『ティル・オイレンシュピーゲルの退屈しのぎ話』 1510 年に出版され、ベストセラーとなった民衆本で、おどけ者の悪戯行脚 96 話からなる。 ヘルマン・ボーテ Hermann Bote(1463-67 年生れ、1520-25 年没)が、匿名で執筆。 賤民身分で障碍者だったボーテは、オイレンシュピーゲルと内的な繋がりを感じて、その伝記を創作。 古くから流布していた伝承や先行する文芸作品から、多くのエピソードを拾っている。 物語の設定は 14 世紀前半だが、ボーテの生きた中世末期の世情を色濃く反映している。 経済の停滞と頻発する争乱、カトリック教会への批判など近世への過渡期の混乱した世相の中で、機転や言葉遊 びで、実在の人物を思わせる高慢な相手の鼻をあかす滑稽話がうけた。 聖職者や貴族をも嘲笑するこの書物の人気を恐れた法王は、禁書目録に加えた。 大人向けの諷刺笑い話だったが、19 世紀になると無難な話が選ばれ子供向けの本に書き換えられた。 メルン市参事会堂にか 現在のオイレンシュピーゲ けられていたオイレン ルは、子供向けの話にでてく シュピーゲルの絵(15 る愉快な道化のイメージ。 世紀後半?)立派な美 名前にちなんで、鏡(Spiegel) 青年に描かれている と梟(Eule)を持っている。 が、愚か者が詰め込ま 鏡…自己愛の象徴、真実を突 れた籠と小さな道化の きつける道具。 入ったジョッキを持 梟…知恵の象徴と悪霊の使 ち、不気味である。 いという両面性を持つ。 民衆本に描かれたオイレンシュピーゲル像 中世の伝説上の人物。ボーテの書いた「伝記」では 1300 年に生まれ 1350 年に亡くなったことになっている。 放浪の旅で職人や司祭、学者や医者などと偽って悪戯をし、常識的な生活をしている者たちをやりこめた。 すべての階層に入り込みいたずらをするが、特定の階層に受け入れられることを拒否する。 アウトサイダー 普通なら素直に理解される命令や言動を、わざと曲解していたずらのきっかけにする。 あまのじゃく スキのある者を騙して、ろくでもないものをつかませる。 詐欺師 ありえない場所や食べ物に排泄行為をして、相手を困惑させやりこめる。 スカトロジー 綱渡りの特技、逃げ足のはやさ。 軽業師 うけをねらった行動をとる。 エンターテイナー 醒めた観察眼を持ち、機転をきかせて窮地から脱する。 洞察力と悪知恵 生きるための金をだましとるが、蓄財に興味はない。 金の呪縛から自由 ばかにされると、必ず倍かそれ以上にしてやり返す。 プライド 勧善懲悪の話ではなく、秩序をかき回しものを壊す話が多い。耳に残るのは道化の高笑いである。 オイレンシュピーゲルは Narr Narr(ナル):愚か者、阿呆、おどけ者、道化(師) 人のすること、するべきことはせず、してはいけないことをする。 一般的に Narr に付随するとされるもの 裸: 1350 年以前の聖書の彩色写本には、裸で棍棒を持つ人物として描かれている。 道化服: 14 世紀から、次第に着飾った道化が主流となる。 ロバの耳のついたかぶり物、先に鈴のついた長い耳つき頭巾。 左右で色の違う服。布の切れ端をつぎはぎした服。服の鈴飾り。つま先が尖った靴。 鏡・道化棒: 自惚れ、自己愛を象徴している。自分の似姿を彫った道化棒から鏡へと発展した。 膀胱: すべては空虚であるという寓意。fool の語源 狐のしっぽ: 不誠実のシンボル カトリックのふたつの Narr 観 聖書、詩篇 53(52)篇 「愚か者は心の中で神はいないといっている。」 Narr は神を否定する。罪深い悪魔に近い存在。 隣人愛ではなく自己愛。うつろいやすさの象徴。→ 死神 生まれつきの Narr … 教会は好意的 精神的、身体的障碍は、罪や悪行の結果の罰とされた。 だが、生まれつきの痴呆は無垢で神に近い存在とも考えられた。 ハンセン病や麦角病で手足を失った者や盲人も Narr であった。 → Brügel の足萎えの絵 救済される対象でもあった。 施療院、聖アントニウス修道会 Narr の真似をするもの … 教会から忌み嫌われた 神への冒涜、罪深い者、悪と断罪された。 道化、障碍者をかたる者、芸人、ばか騒ぎする愚か者 オイレンシュピーゲルは聖職者の愚かさを暴いた 賢い愚者(道化)⇔ 愚かな聖職者 悪徳に耽る聖職者、教会内でのばか騒ぎ、贖宥状 (11 話 12 話 13 話 37 話 38 話 71 話など) Narr や、愚か者を描いた絵画や諷刺文学が中世末期に一世風靡 印刷術の発明(1450 年)、社会階層の力関係の変化 → 民衆が読者層 セバスチャン・ブラント『阿呆船』Das Narrenschiff 1494 年 ヘルマン・ボーテ 『狐ラインケ』Reinke de Vos エラスムス 『痴愚神礼讃』Moriae encomium 1498 年 1511 年 右図は、世俗的な放埒に耽っている修道士と修道女、飲食をむさぼる 農民たち。右上の枝に座る道化は船の中で繰り広げられる不道徳の象徴 として描かれながらも、乱痴気騒ぎに距離をおいている。 醒めた道化 ヒエロニムス・ボス 「愚者の船」1500 年頃 道化を職業とする者 宮廷道化師 皇帝、貴族、聖職者、富裕層などに仕える職業道化がいた。 障碍者も多く、そのような者を囲うことは美徳でもあった。 おどけぶりや芸で宴会の座持ちをつとめる。 王に死すべき運命や、人間としての不完全さを思い出させる。 「無礼御免の特権」主人のあやまちを指摘する大切な役割。 凱旋するローマ皇帝 ベラスケス「ラス・メニーナス」 1656 年 → 宮廷道化師は、宮廷の主と不即不離の ヴェルディのオペラ「リゴレット」1851 年 関係にあった。15 世紀末の木版画 (23 話 24 話) 芸人・祭の音頭取り 市の立つ広場は、自由な開放的な雰囲気が支配していた。 自由な人間関係の支配する世界 ⇔ 世俗権力のヒエラルキーに支配された世界 広場は見せ物や芝居、祭の行われる場所。さらし台もある。 都市には祭の音頭を取ったり、娯楽を提供する道化がいた。 オイレンシュピーゲルも、広場でパフォーマンスをしている。 (14 話 70 話 87 話) 16 世紀には、広場の即興劇の中でハンスヴルストという道化役が生まれる。 イタリアでは、コンメーディア・デラルテのアルレッキーノなどが登場。 『職業尽くし』1568 年 職業道化師を悪とする中世の考え方も次第に変化 → ピエロ、クラウン 宮廷道化 Schalknarr 版画:ヨスト・アマン 謝肉祭は愚者の祭 中世の広場で繰り広げられた祝祭空間は、年中行事の中にも無礼講、ばか騒ぎとして現出した。 最大の祭は、カーニヴァル、ファスナハト、ファッシングなどと呼ばれる冬から春への移行期の祭。 ラテン語 carne vale(肉よさらば) → ドイツ語 Fasten(四旬節の断食) Nacht (前夜) → ドイツ語 vaseln(繁殖する、実を結ぶ) Karneval, carnival Fasnacht, Fastnacht → Fasching 不毛の冬を追い出して、新しい生命や豊穣を呼び込む祭 … 土着の民間信仰、古代の異教的伝統 四旬節とカーニヴァル 四旬節:イエスの 40 日にわたる荒野の断食→ 復活祭前の 40 日間の精進潔斎の期間(現在は 46 日間) 肉食や飲酒を禁じ、すべてにおいて禁欲的に過ごすことが求められた。 灰の水曜日:四旬節が始まる日。ミサで「枝の主日」の浄められた灰で額に十字架を描いてもらう。 「お前は塵であり、塵へと帰っていくのだということを思いなさい。」 カーニヴァル:クリスマスの期間が終わる1月6日から灰の水曜日までの期間 特に最後の 1 週間(3 日間)乱痴気騒ぎは最高潮に達する。皆が Narr になり、狂う。 仮面仮装、踊りや跳躍、騒々しい音、性的放縦、性や身分の転換(さかしまの世界) スカトロジー、風刺劇、シャリバリ、権威を揶揄、痛飲飽食、蕩尽、破壊、火あぶり → ブリューゲルは、「謝肉祭と四旬節の戦い」1559 年で両者を擬人化して描いた。 船の山車 船は代表的なカーニヴァルの山車のモチーフであった。 古代ローマの農神サトゥルヌスの収穫祭(12 月 17 日~24 日)では、船の山車を引き回した。 祭の期間主人と奴隷の立場が逆転した。 中世にも愚か者と船のイメージは結びついていた。 阿呆船 Narrenschiff で地獄へ旅する愚者 ⇔ 十字架のマストをつけた幸福の船で天国へ向かう人々 中世都市のカーニヴァル カーニヴァルは、市参事会の許可を得て手工業者組合ツンフトが 主催する職人の祭であった。後に富裕層も金を払って仮装に加わった。 異教の伝統から発した祭だが、見せ物の要素が強まった。 「ニュルンベルクのシェムバルトラウフ」1449 年 – 1539 年 ニュルンベルクでは、肉屋と刀鍛冶のツンフトが主催。 先導は仮装した複数の道化で、クルミを撒いたり棒を振り回した。 ブラント『阿呆船』挿絵 各ツンフトの練り歩き、剣の踊りなどが披露された。 しんがりは地獄(Hölle)と名づけられた山車。祭の最後に燃やされた。 宗教改革運動や疫病により一旦中止となり 16 年ぶりに再開された 祭では、船の形をした地獄の山車の上に、改革の旗振り役の人物の 仮装を悪魔の仮装と一緒に並べた。 これにルターらが抗議し、盛大な祭はその年で終りとなった。 他の中世都市でも似たようなカーニヴァルが行われていた。 祭の先導役の道化がクルミをまく 農村、山村での謝肉祭 農民は単調な生活の中の彩りとしてさまざまな祝祭を奔放に楽しんだ。 Narr になって踊りうかれる。 農村では、日常生活と祝祭、労働ときばらしの娯楽が一定のリズムで交替した。 → ブリューゲル「農民の踊り」 「野外での農民の婚礼の踊り」 謝肉祭は冬を送り出し、春を迎える豊作と健康を祈願する祭 祖霊の来訪を具現化するような仮装 … … 古代の異教の伝統を色濃く残す。 彼岸と此岸を軽やかに行き来するのも道化 → アルプス地方の村のファスナハトには、古い祭の要素が見られる。 カトリックの教義に敵対する愚者の祭だが… 聖職者の道化祭 … 中世には、下級聖職者が上級聖職者たちから権利を奪い楽しむ慣習があった。 教会の中での信者の不道徳な遊びも黙認。教会に足を運ばないよりまし、とされた。 宗教改革のなかで、カーニヴァル的な祭は不道徳とされ、プロテスタントの地域では廃れた。現在では、 スイスのバーゼルのファスナハトの祭だけが残っている。カーニヴァル風のパーティは別である。 カーニヴァルの祝祭空間では、日常生活の常識は否定され、キリスト教徒であることを忘れ、身分や地位が 逆転し、節度を越えた悪ふざけも許される。道化によって先導され、皆が愚者に変身していく。 現在まで連綿と続く愚者の祭に身を投じてみると、ヨーロッパ文化は、土着の民間信仰、キリスト教、近代 合理主義が三つ編みのように絡まっていると感じられてならない。
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