2016 年 8 月 12 日 2016 年度 第 27 回中唐文学会大会のお知らせ(第2号) 残暑厳しき折、会員の皆様にはお元気でお過ごしでしょうか。第 27 回中唐文学会大会を以下の要領で開催 いたします。ふるってご参加くださいますようお願い申しあげます。大会は 10 月 7 日(金)の 13 時 20 分より、 奈良女子大学で行います。奈良女子大学は近鉄奈良駅から徒歩 5 分のところにあり、懇親会会場も大学内のラ ウンジですので、至極便利です。 会 場: 奈良女子大学 生活環境学部 会議室 (生環系 A 棟 1 階) (〒630-8506 奈良市北魚屋東町 TEL:0742-20-3204) 日 程: 10 月 7 日(金) 13 時 00 分 受付開始 13 時 20 分~14 時 10 分 研究発表① 「張祜の雨の詩について」 発表者:白石 尚史(長野県望月高等学校) 司 会:高芝 麻子(横浜国立大学) 14 時 20 分~15 時 10 分 研究発表② 「皮陸唱和詩に詠じられる『苦雨』について」 発表者:大山 岩根(亜細亜大学) 司 会:詹 満江(杏林大学) 15 時 20 分~16 時 10 分 研究発表③ 「劉禹錫の朗州左遷時における詩作行為について」 発表者:荒川 悠(筑波大学大学院) 司 会:大橋 賢一(北海道教育大学) 16 時 20 分~17 時 10 分 講演 「 『もの』と『こと』を越えて」 講演者:川合 康三(国学院大学・京都大学名誉教授) 司 会:赤井 益久(国学院大学) 17 時 20 分 総会 18 時 00 分 懇親会 於 大学ラウンジ(文学系 S 棟 1 階) (20 時 00 分閉会予定) ※懇親会の費用は 3500~4000 円を予定しております。 各問い合わせ先 大会関連:姜 若冰([email protected]) 会報関連:加藤 聰([email protected]) 会計関連:劉 小俊([email protected]) 会場へのアクセス: キャンパスマップ: 奈良女子大学へは、近鉄奈良駅から徒歩約 5 分です。 西門 学会会場:⑪生活環境学部会議室(生環系 A 棟 1 階) 南門 正門 懇親会会場:⑰大学ラウンジ(文学系 S 棟 1 階) お願いとお知らせ ※学会出張の手続き上、必要な書類がありましたら、幹事の姜([email protected])までお知らせください。 ※本会は、会費の納付で会員資格継続の作業を進めます。同封した振込用紙に金額をご記入の上、お振り込み下 さいますようお願いいたします。 【振込先】 口座番号 00100-8-631654 口座名称 中唐文学会 正会員 3000 円、準会員(会報の不要な方)1000 円 準備の都合上、会費振込(あわせて大会・懇親会の出欠確認)は、 9 月 16 日(金)までにお願いします。 研究発表要旨 張祜の雨の詩について 白石 尚史(長野県望月高等学校) 『張祜詩集校注』(尹占華校注・詩賦研究叢書・巴蜀書社・2007)の現存する詩中には「雨」 の文字が使われているものが50首余りある。もちろん「雨水」を指す別の表現も見られるが、 これらの詩を読んでいくとある特徴的なことが見つけられる。それは宋玉の「高唐賦」の背景が 見られること。それから多雨(長雨)に苦しんだり、日照りに「祈雨」するものがあることであ る。 張祜と交流があった劉禹錫にも「苦雨」や「祈雨」の詩などが見つけられるが、「處士」で終 わった張祜は劉禹錫よりもより庶民に近く、各地を巡る旅の中で祈雨の儀礼などを身近に見てい て、それが詩に反映した印象を受ける。巻九の「苦旱」・「苦雨二十韻」・集外詩の「憂旱吟」 などを中心に張祜の描く「雨」の諸相を見ることができたらと思っています。また劉禹錫の詩も 見られたらと思っています。 皮陸唱和詩に詠じられる「苦雨」について 大山 岩根(亜細亜大学) 『松陵集』10 巻は晩唐の皮日休と陸亀蒙が唱和した詩を中心に構成された詩集である。今日ま で伝わる皮陸両詩人の詩の過半数は『松陵集』に収録されているものであり、両詩人の詩風を考 察する上でも極めて重要な詩集とされる。その『松陵集』は皮日休と陸亀蒙がそれぞれ「苦雨」 をテーマにして唱和した詩を複数収める。こうした詩に見える、苦雨の様を奇抜な詩語を駆使し つつ多角度からの描写を連ねる手法について、先行する作品よりも勝るものであるという評価も なされている(清・余成教『石園詩話』)。苦雨の描写に対する評価としては無論正鵠を射たもので はあるが、例えば皮日休「呉中苦雨因書一百韻寄魯望」詩とこれに唱和した陸亀蒙「奉酬襲美先 輩呉中苦雨一百韻」詩のような長編詩になると全編これ苦雨の描写というわけではなく、むしろ 苦雨を一つの契機とした、入り組んだ論理の展開が確認される。表現の特異性も重要ではあるが、 皮陸両詩人が苦雨を通して描いたもの、訴えたかったものこそ問題にされるべきではないだろう か。 本発表では「呉中苦雨因書一百韻寄魯望」詩及び「奉酬襲美先輩呉中苦雨一百韻」詩を中心に、 皮陸両詩人が苦雨を詠じた唱和詩の特徴を探り、そこから個性やスタンスの相違を浮かび上がら せつつ、従来顧みられることの少なかった観点から両詩人の唱和という創作活動の一端を明らか にしたい。 劉禹錫の朗州左遷時における詩作行為について 荒川 悠(筑波大学大学院) 劉禹錫(大暦七年〜会昌二年)は、元和元年より九年間、朗州(現在の湖南省常徳市)司馬(閑職) への左遷を被る。先行研究の多くは、朗州左遷時の劉禹錫が諷刺性を含有する寓言詩を多く詠 じたことに着目し、そこから劉禹錫の批判精神を見出してきた。一方では、劉禹錫が朗州の風 俗・風土に関心を持ち、同時代の他の詩人とは異なって異文化を蔑むこと無く好意的に詠じて いたという側面も明らかになっている。ではこの二つの詩作傾向は劉禹錫という一人の詩人に とってどう関係しているのであろうか。そのことを朗州左遷時における劉禹錫の詩作行為の根 源となる部分を探ってゆくことによって明らかにする。朗州左遷時の劉禹錫詩を繙いてゆくと、 二つの詩作傾向の詩の他に、孤独の念を詠じた詩があることがわかる。ここから二つの詩作傾 向の背後には劉禹錫の孤独の念があったということができる。その孤独とは、劉禹錫の中央の 政治に参与することのできない欠如の意識に起因する。劉禹錫の朗州の異文化を詠じている詩 の一つである「采菱行」の序に、「俟采詩者」と述べられている点を鑑みれば、劉禹錫は経典 に基づく詩作態度を表出していることがわかる。劉禹錫は自身を左遷に追いやった当時の中央 に対して経典に基づき諷刺する一方で、経典に基づき「采詩の官」に採録されることを望む詩 を詠ずる。そのことが朗州の地において劉禹錫自らが見出した使命である。欠如の意識を克服 するために、劉禹錫は経典を拠り所にして自らに使命を課して朗州の地で詩を詠じ続けたのだ。 講演要旨 「もの」と「こと」を越えて 川合康三(国学院大学・京都大学名誉教授) ――文学の研究って、まるで見当もつかない。いったい何をどうするの? こんなことを理科系の友人からよく尋ねられる。方法論の定着している彼らから見たら、文学 研究なんて雲をつかむように捉え所がないのだろう。いちおうそれを専門としている我々自身、 わかっていないのだから、周りからいぶかられるのも当然のことだ。ことほどさように、文学の 研究はむずかしい。中国古典文学のように、作品のみならず、作品にまつわる言説にも長い歴史 がある場合、蓄積が多いだけにいっそう厄介になる。むずかしさを知ると、作品のなかに出てく る「もの」や「こと」 、作者の事迹やその時代のできごとをめぐる考察に向かう。しかしそれで は文学の周辺を探っているような、隔靴掻痒の思いがぬぐえない。作品の文学性そのものに立ち 向かおうとすると、己れを恃み、無手勝流で刀を振り回すほかない。 「もの」や「こと」を明ら かにした成果は、大切で役に立つものであるのに対し、恣意を垂れ流した「研究」ほど無意味な ものはない。これ無きに如かず、なのだ。無手勝流では手に負えないと知ると、何らかの「理論」 にすがりつきたくなる。二十世紀の初め以来、西欧では様々な文学研究の方法が唱えられてきた。 しかしそれにも問題がある。一つは西欧の文学理論の安直な借用を許すほど、中国の古典文学は やわなものではないこと、それは今更言うまでもない。それ以上に問題なのは、方法というもの はひとたび方法として定立されると、固定した、主体性を欠いた硬直に堕してしまうことだ。つ まり方法は模索しつつ、たえず打ち壊していかねばならない。ただ、そうしたもろもろの方法論 のなかに、原初的なかたちで潜んでいる、文学作品に向き合ううえでの或る種の「態度」 、それ はわたしたちの根底に据えるべきものではないだろうか。 文学そのものを対象とする探求は、いったいどのようにして可能なのか。その手がかりを求め て、一緒に考えて見たい。
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