読む 日本と世界の年表 ―現代から先史・地質時代へ― <二版>

読む 日本と世界の年表
―現代から先史・地質時代へ―
<二版>
特
1
色
逆引き年表
現代から過去(地質時代)へ遡る最新の「逆引き年表」。
記事には、適宜、「月日」・「月」を付するとともに、年紀内での順序は日常の便宜にしたがい昇順
としました。
「月日」や「月」は太陽暦(通常の暦)ですが、慶応3(1867)年以前の日本の記事は旧暦(太陰暦)
です。概ね、1ヶ月程後が太陽暦に換算した月に当たります。詳細は暦によりご確認下さい。
なお、明治5(1872)年から明治1(1868)年までは旧暦を併記しました。
2
日本史と世界史併記の比較年表
概ね、平成28(2016)年1月までの日本と世界の主な出来事を併記しました。
記事の選定では今に関わる「重大・異常・画期」な出来事を、江戸時代以前については、学習の参考
となる史実・事柄を中心に掲げました。
3
見て読む年表―表形式の一覧年表―
日本の記事には「○」を、世界は「◇」を付し、先史時代・地質時代での記事は「◆」を、更に、
記事の補足には「→」、用語の解説には「※」を記しました。
なお、補足・解説は「記事」を理解する上での参考、著者限りの見解・資料の引用です。
【表紙】
「華夷一覧図」文化3(1806)年 山村才助
時代別
目次
※お断り:年紀の区分は本書限りの便法です。また、時代区分の年紀と説明は日常の例に拠りました。
平成時代(1989 年~)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 10
昭和時代(1926年~1989年) ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 54
大正時代(1912 年~1926 年) ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・119
明治時代(1868 年~1912 年) ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・134
(王政復古から)
江戸時代(1603 年~1867 年) ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・173
―江戸幕府開幕から大政奉還まで―
戦国・安土桃山時代(1573 年~1602年)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・223
―室町幕府滅亡から江戸幕府開幕の前年まで―
室町・戦国時代(1493 年~1572年) ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・233
―明応の政変から室町幕府滅亡の前年まで―
建武の新政・南北朝・室町時代(1333 年~1492年)・・・・・・・・・・・・・・246
―建武の新政から明応の政変の前年まで―
鎌倉時代(1192 年~1333 年) ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 270
―鎌倉幕府開幕から幕府の滅亡まで―
平安時代(794 年~1191年)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 289
―平安京への遷都から鎌倉幕府開幕の前年まで―
奈良時代(710 年から 793年)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 323
―平城京への遷都から平安京遷都の前年まで―
飛鳥時代(593 年~709年)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 335
―聖徳太子の親政から平城京遷都の前年まで―
飛鳥時代以前~紀元 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・347
紀元前・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・362
―紀元~有史時代の始まりまでー
先史時代・地質時代・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 377
付録 年号・西暦対応表・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・381
トピックス
目次
※お断り:トピックスは著者限りの意見・推論を入れた論考です
◎国際法の未熟さを撞く「謀攻」と「策略(マニョーブル)
」・・・・・・・・・・・・・・・・・12
◎新生「未成年者選挙人」への反面教師たち
◎戦後日本の矜持
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・15
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・28
◎東シナ海ガス田を巡る日中の攻防・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・40
◎戦後略史Ⅱ―中 国―・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・46
◎「国民の知る権利への奉仕」を忘れた第四の権力、マス・メディアの傲慢と蹉跌・・・・・・・51
◎バブル景気を招いたプラザ合意・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・56
◎閑話休題―日本の人口いろいろ―・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・57
◎戦後略史Ⅰ―韓 国―・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・58
◎総理大臣の収賄事件、ロッキード事件・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・67
◎国を奪われたチベット族・ウイグル族を襲う種族同化・・・・・・・・・・・・・・・・・・・70
◎蒸し返される日韓国交樹立のスキーム・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・72
◎戦後史のタブ?―在日朝鮮人帰還事業と在日韓国・朝鮮人の永住資格―・・・・・・・・・・・77
◎大戦最後の蛮行、シベリア抑留・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・80
◎日本と韓国との国境を定めたラスク書簡・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・84
◎風化する占領下の暴力と無法の記憶・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・85
◎覇権主義への抵抗とテロ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・88
◎たんぼ1反、闇米1升・鮭3匹未満の強制買収、農地解放・・・・・・・ ・・・・・・・・92
◎日ソ中立条約を秤にかけたスターリン・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・95
◎第2次世界大戦の惨禍とその後
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・96
◎「ムーミンの国」フィンランドの沈黙・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・99
◎背より腹のチャーチルと渋るルーズベルト・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・104
◎独ソ不可侵条約へのスターリンの本音と誤算・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・105
◎大戦への道Ⅱ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・110
◎泥沼の日中戦争・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・112
◎児玉源太郎に助けられた満州の風雲児、張作霖・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・116
◎アメリカ阻止、孫文に近づくコミンテルン・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・122
◎膨張日本、包囲の始まりワシントン会議・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・123
◎第 1 次世界大戦の惨禍とその後・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・125
◎列強に使われたシベリア出兵・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・127
◎共産・独裁の実験国家の始まり、ロシア革命・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・128
◎強か・精力絶倫の袁世凱と軍閥割拠・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・129
◎大戦への道Ⅰ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・131
◎辛亥革命とチベット・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・132
◎植民地支配のすみ分け、協商・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・133
◎近代化への道Ⅱ―中国編(清朝の滅亡を早めた西太后)―・・・・・・・・・・・・・・・137
◎清国・ロシアからの防衛戦―日清・日露戦争―・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・138
◎孫文の妻たちと宋三姉妹・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・141
◎大中華主義に応えた孫文の三民主義・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・149
◎東学党の乱と日清戦争・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・150
◎「力は正義なり」マハン流、帝国主義侵略競争の始まり・・・・・・・・・・・・・・・・152
◎松方デフレと自由民権運動・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・155
◎近代化への道Ⅰ―朝鮮編(義父と嫁との亡国の大騒乱)―・・・・・・・・・・・・・・・160
◎初めての海外派兵―台湾派兵―・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・161
◎日本・清国・朝鮮、それぞれの開国とその後・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・163
◎明治日本のシルクロード、鉄道・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・166
◎昔もあった外交文書の受領拒否、書契問題・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・167
◎閑話休題―小・中華主義と事大主義―・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・169
◎歴史の偶然に助けられた明治維新・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・172
◎アヘン戦争・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・182
◎閑話休題―「為せば成る・・・」の上杉鷹山公と武田信玄公―・・・・・・・・・・・・・193
◎ナポレオンの大ばくち、ブリュメールのクーデター・・・・・・・・・・・・・・・・・・195
◎関東代官(郡代)、名族・伊奈家異聞・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 196
◎閑話休題-小判いろいろ-・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・207
◎ヨーロッパ最後の宗教戦争(三十年戦争)Ⅲーフランスの台頭とコモンウェルスー・・・・220
◎関ヶ原の戦いと「敗者」の血統・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・224
◎江戸の大火と治水・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・227
◎閉ざされた教団(日蓮宗と一向宗)と戦国大名・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・232
◎閑話休題―合戦の戦功は槍?―・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・236
◎ヨーロッパ最後の宗教戦争(三十年戦争)Ⅱ―大戦争への予兆、ユグノー戦争―・・・・・237
◎ヨーロッパ最後の宗教戦争(三十年戦争)Ⅰ―宗教改革と教会改革―・・・・・・・・・・243
◎カネと力の仁義なき時代の幕開け、応仁の乱・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・249
◎英仏の国境を決めた百年戦争Ⅳ―敗戦後のお家騒動、薔薇戦争―・・・・・・・・・・・・252
◎英仏の国境を決めた百年戦争Ⅲ―ジャンヌ・ダルクの殉国―・・・・・・・・・・・・・・255
◎二つの幕府、京の将軍と鎌倉公方・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・265
◎英仏の国境を決めた百年戦争Ⅱ―戦いとペスト(黒死病)―・・・・・・・・・・・・・・266
◎英仏の国境を決めた百年戦争Ⅰ―遺産を巡る王家の戦いー・・・・・・・・・・・・・・・268
◎閑話休題―倭寇の跳梁 元寇へのリベンジ?―・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・278
◎天下に目配りできた経略家、北条時頼・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・281
◎「承久の変」顛末―東国武士の西国進出と「関東・関西」の定着―・・・・・・・・・・・283
◎オスマン帝国の始まり・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・284
◎大敗北にマグナ・カルタ(大憲章)を迫られたジョン王・・・・・・・・・・・・・・・・285
◎南宋国の先兵、太行之義士―水滸伝の謂われ―・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・288
◎天皇家・摂関家のお家騒動「保元の乱」
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 296
◎亡国の「尚文軽武」
、―北宋国の光と影-・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 298
◎洋の東西、巨大化・世俗化する教団―叙任権抗争―・・・・・・・・・・・・・・・・・・299
◎二重政権を作った院政・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・302
◎源氏の大飛躍「後三年の役」
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 302
◎源氏、雌伏の「前九年の役」
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 304
◎ヨーロッパ中世の始まり・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・305
かとりのうみ
◎閑話休題―歴史ロマン、香取海―・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・313
◎蝦夷地の誕生・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・320
◎洋の東西、巨大化・世俗化する教団―僧兵の強訴―・・・・・・・・・・・・・・・・・・324
◎負け戦ばかりの「蝦夷征伐」
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 325
◎閑話休題―古代の公法、大宝律令―・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・336
◎政務を執ったキャリア女帝、持統天皇・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・337
◎閑話休題―百済と任那―・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・351
◎ゲルマン民族の大移動、ヨーロッパ史の始まり・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・353
◎日本と日本人の誕生Ⅲ 鉄と日本人・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・361
◎日本と日本人の誕生Ⅱ 蓬莱島を目指した大陸人・・・・・・・・・・・・・・・・・・・368
◎日本と日本人の誕生Ⅰ 穏やかな平和人、縄文人・・・・・・・・・・・・・・・・・・・374
平成時代(1989年~)
10
年号
西暦
平成28年
2016
1・2月
●首相 安倍晋三
日本
世界
○株価、年初より6日連続下落(1月12日)
◇中国、反テロ法、施行(1月1日)
→日経平均株価、年始から6営業日連続して下落、
→世界中で進むテロ撲滅への機運に乗じての中国国内
1,800 円以上下げる。中国経済の減速、原油安が背景
での「人権・自由」への新たな規制・統制法
○スキー・ツアーバス転落事故(1月15日)
◇サウジアラビア、イランとの国交断絶、通告
→長野県軽井沢町の国道でスキー場へ向かうツアーバス、 (1月3日)
崖下へ転落。乗客・乗員を含む15人死亡。
昭和50年以来の大きなバス死亡事故
→シーア派イスラム法学者ニムル師を含む47人の
死刑を執行(2日)。抗議するイランの暴徒らイラン
国内のサウジアラビア大使館を襲撃・放火(3日)。
○天皇皇后両陛下、戦没者慰霊へフィリピンご訪問
即日、サウジアラビア、国交断絶を通告
(1月26~30日)
◇北朝鮮、4回目の核実験、実施(1月6日)
○文部科学省、教科書選定での謝礼受領の実態調査
→「最初の水爆実験を行い、成功した」などと発表
結果を公表(1月28日)
→いわゆる「エリート教員」
・
「幹部教員」らによる不正。 ◇イランへの経済制裁、解除(1月16日)
小中学校の教科書会社22社の中10社が全国の教員
→核開発の放棄が確認できたとして、米欧6カ国、
ら3996人に謝礼を、また、謝礼を渡さぬも検定中の
イランに対する経済制裁を解除。一方、イスラエルと
教科書を見せるルール違反が9社で1151人、合わせ
同国に寄る米国内の懐疑論の台頭、サウジアラビアと
て5147人の不正行為があったと公表。
イランとの対立、中国・ロシアのイランへの急接近な
文科省、都道府県教育委員会に対し謝礼を受け取った
ど中東地域を巡る新たな外交課題が顕在化
教員の氏名と役職を通知、併せて実際の教科書選定で不
◇中国、AIIB、開業(1月16日)
正がなかったのか、調査を下命
→創設メンバー57カ国、総裁には中国の元財務次官、
○日銀、初のマイナス金利導入を決定(1月29日)
副総裁はドイツ・英国・韓国・インド・インドネシア
→2月16日から銀行が日銀に預けている当座預金の一
部の金利をマイナス(手数料発生扱い)とする追加の金
◇米国、パラセル諸島で「航行の自由作戦」
融緩和策導入を決める
(1月29日)
→米海軍、公海における航行の自由と権利を守るためと
※マイナス金利
して、パラセル(西沙)諸島のトリトン島の12カイリ
日銀に預けている市中金融機関の資金の一部分をマイ
内にイージス駆逐艦を派遣・航行
ナス金利とし、その部分の資金を民間へ還流させると共
に、金利体系全体で景気の下支えを狙う、日銀初の手法
◇北朝鮮、弾道ミサイル発射実験、実施(2月7日)
→実験毎に飛距離を伸ばす北朝鮮のミサイル開発に
○川崎、老人ホーム連続転落死事件(2月16日)
国際社会の懸念、深まる
→高齢者3人(86~96歳)の連続転落死から2年後、
ようやくに、転落死させた容疑などで職員を逮捕。
◇米国、重力波の初観測に成功(2月11日)
担うべきサービスの質を弁えず、資格ばかりの未熟な職
→カリフォルニア工科大学・マサチューセッツ工科大学
員に負担を押しつけるカネ儲け主義の施設経営者。時に
などの国際研究チーム、アインシュタインが一般相対性
議員・ヤクザが介入する福祉の現場、その危うさから保
理論で予言していた「重力波」の観測に成功と発表
身、事なかれ主義に堕ちた士気低い役人らの存在も背景
11
年号
西暦
日本
世界
<トピックス>
◎国際法の未熟さを撞く「謀攻」と「策略(マニョーブル)
」
コウキ
1689年、清朝4代康熙帝、ロシアとネルチンスク条約を結び、中国の王朝として初めて国境線を定めた。
シ イ
条約の締結まで紆余曲折があったという。周囲の異族・部族を「四夷」と侮蔑、他に「対等な国」を認めず「国境」
を識らない漢族の中華思想を、五族共和の下、満州(女真)族の清朝も容れていたからだ。
20世紀、東洋的専制から共産党一党支配の独裁政権に変わったが、共産党も伝統の中華思想を利用した。むろん、
ま
孔子以来の他者尊重の「礼」や「仁」「義」など至上の価値は捨て、枉げた。残ったのは、人心荒んだ、選民、拝金、
大国主義に墜ちた俗情の中華思想。今の中国人のナショナリズムをつくった。
だから、1968年、尖閣沖での石油の埋蔵が判ると、早速に、「尖閣諸島は、古来、中国領」などと主張。
10年後、二百艘余の武装漁船で尖閣沖の領海を侵犯、今に続く非行が始まった。
昨年(2014年)5月、突如、中国はベトナムと領有を争う西沙諸島海域で一方的な石油の調査掘削を開始、
せりふ
ベトナムと衝突。二ヶ月半後、国際世論の不評から捨て台詞を残し、掘削機を撤去。代わりに、今も、ベトナムの小さ
な漁船を追い回し、脅す。
そして、1988年以来南沙諸島へ侵攻していた中国は、今年(2015年)
、岩礁を埋め立てた人工島を幾つも完成
させ、軍事基地化で太平洋への進出を窺う。対する抗議へは、
「中国が発見・命名して2000年の歴史がある」などと
空疎な詭弁を繰り返し、「問題があれば、二国間の話し合いで解決」などと居直り、既成事実の積み重ねを急ぐ。
十倍すれば之を囲み
五倍すれば之を攻め
倍すれば之を分かち
●●●
その不審な外交は、孫子の説く「・・・十 則 圍 之 、五 則 攻 之 、倍 則 分 之・・・」との謀攻、国際法の未熟さを撞く
蛮行。
くびき
一方、モンゴル族の苛政「タタールの 軛 」が二百年余りも続き、民主主義の母体、中産階級を見ないまま、
ツ
ァ
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リ
ズ
ム
非民主・専制な王政、ロマノフ王朝が誕生(1613年)。モスクワ大公イヴァン4世(雷帝)没後の大動乱と空前の
大冷害で餓死者二百万人を出すなかでの建国だった。
建国後、折しも、始まったヨーロッパ最後の宗教戦争「三十年戦争(1618年)」を横目に、ロシアは出遅れた
ウ ラ ジ オ ス ト ク
植民地獲得に乗り出す。「東を制服せよ」とシベリアから極東を越え、北米大陸のアラスカからカリフォルニア半島へ。
南はバルカン半島、中央アジアのトルキスタン、ペルシャ(イラン)、アフガニスタンへと進出。その過程で先進の英仏
らに阻まれ、幾度も屈辱を味わいながら、軍事力と策略(ロシア語でマニョーブル)で、二世紀ばかりの間に大国へと、
のし上がった。
そうした建国以来の歴史が今のロシア人の自我、ナショナリズムをつくった。
1991年、共産主義革命で始まった独裁の政体を棄てた。しかし、過去に民主主義を識らず、権力者に従順な
ロシアの大衆は、自立と責任の民主政に疎く、鈍かった。だから、大衆は独裁の共産政権崩壊後も、専制な権力者た
ちの台頭を許した。
民主政と程遠い今のロシア政権も大衆のナショナリズムを利用する。狂気と愛国心が同居するナショナリズムは
保守的で排他、感情的で激発な俗情。俗情を煽るのは麻薬と同じ。独裁と専制な権力者たちにとって、体制維持な
ナショナリズムは手軽な大衆操縦の道具。
ウクライナへの侵攻、クリミア併合も、資源バブルがはじけ、専制な政権に目を向け始めた大衆の関心をナショナ
●
●
●
●
●
リズムの鼓舞で反らそうとのマニョーブルな侵攻、国際法の未熟さを撞く蛮行。
そして、2015年、テロリスト集団IS掃討の大義を掲げ、再び、ナショナリズムを煽る。
しかし、中国、ロシアの独裁、専制な権力者たちの未来は暗い。
「常に抑圧されないことを求める(マキアヴェリ「君主論」より」大衆が、通信、交通、経済の広がりで「抑圧」
されていることを、早晩、識るからだ。
12
年号
西暦
日本
世界
平成27年
2015
○トヨタ自動車、水素自動車関連の技術特許の無償
提供を公表(1月6日)
●首相 安倍晋三
◇フランス、イスラム教狂信主義者、政治新聞紙
「シャルリー・エブド」社を襲撃(1月7日)
→水素自動車(FCV)・水素ステーション関連の技術特
→2人の狂信なイスラム教テロリスト、ムハマドの風刺
許(5680件余)の公開により、燃料電池車メーカー
画を掲載したとして「シャルリー・エブド」社を襲撃。
の参入促進を促す。
12人を殺害、4人に重軽傷を負わす。事件後、逃走
水素自動車「ミライ」の生産を2月24日、開始。
した犯人、パリ市外の印刷所へ立て籠もり抵抗
当面年間生産台数700台(価格700万円)
◇フランス、女性警察官銃撃(1月8日)
○テロ組織「イスラム国(IS)」、拘束した日本人を
公開処刑
→新聞社襲撃事件に触発されての銃撃テロ事件。
女性警察官を銃撃後、パリ市内の食料店に押し入り
→テロ組織、昨年8月、10月に行方不明となっていた
4人を殺害
日本人2人の拘束を公表。1月20日、2億ドルの
身代金を要求。以後、ヨルダンで拘束されている死刑
◇フランス、銃撃テロ事件犠牲者追悼デモ
囚(テロリスト)の解放を要求。事態膠着のなか、人
(1月11日)
質となっていた日本人2人を殺害
→17人が犠牲となったテロ事件への抗議・追悼デモ。
パリ市内で120万人、フランス全土で370万人が
※イスラム国(IS)
参加。第2次世界大戦でのパリ解放(100万人)を
IS は国を名乗るが国家などではない。イスラム教狂信
越える史上空前のデモとなった
主義者たちの武装テロ集団。
アフガニスタンのアルカイーダ、パキスタンのタリ
バン、ナイジェリアのボコ・ハラムなどと同じ
◇ウクライナ、停戦合意(2 月 12 日)
→ウクライナ、独仏露の4カ国首脳がミンスクで16時
時間余りをかけた異例の停戦会議、15 日から発効と
○第二次世界大戦に関する歴史認識問題で日中応酬
同意。しかし、親ロシア派の武装勢力、停戦に応ぜず
(2 月 23 日)
東部ドネツク州北部の要衝デバリツェボへ侵攻、
→戦後70年と国連創設70年を記念しての国連安保理
17 日、武装占拠
事会公開討論会(議長国、中国)の場で、
「ファシズム
に対する戦争の歴史的事実を認めず、過去の侵略を
オウキ
否定しようとする者がいる」などと中国の王毅外相、
日本を中傷・非難、歴史戦をしかける。
◇ロシア、プーチン大統領、クリミヤ編入時での
核兵器使用準備を明かす(3 月 15 日)
→併合1周年を記念した国営テレビの特集番組の中で
「日本は戦後、第二次世界大戦の深い反省に立ち、
「(政変以来)クリミヤ編入の際、核兵器の使用の準備」
平和国家としての道を歩んできた」と日本の国連大使、
をしていたと発言。核兵器を弄ぶロシアに世界は衝撃
抗弁、歴史戦を退ける。
を受けた
戦後70年を機しての中国の反日プロパガンダの
◇フランス、ドイツ旅客機、遭難(3月24日)
始まり
→錯乱した副操縦士が旅客機をアルプス山中に激突させ
※歴史認識問題
た集団殺人事件。乗員乗客・犯人、150人死亡
過去における変遷(歴史)を自国の内政・外交に利用
しようとの政略。歴史学とは異なる非合理・恣意な史観
13
年号
西暦
日本
世界
平成27年
2015
○元総理鳩山由紀夫、ロシアのクリミヤ編入を賛辞
◇韓国、AIIB(アジアインフラ投資銀行)への
(3 月 11 日)
●首相 安倍晋三
参加決定(3月27日)
→私人としてロシアを訪問した鳩山由紀夫氏、前年の3月
に行われたロシアによるクリミア編入について
「民主的に行われた住民投票により領土問題が解決し
※AIIB
毎年7500億ドル(約90兆円)に上る融資が必要
たことは、世界史上、画期的な出来事だ」などと発言。
と言われるアジア諸国の開発。その資金需要への中国
内外の不審を招く
主導の国際開発金融機関。資本金1000億ドル、
本部、北京。アジア諸国での中国企業の商機拡大、
○海上自衛隊、ヘリ空母「いずも」、就役
中国シンパの拡大・取り込みが背景ともいう
(3 月 25 日)
→全長248m、排水量 1 万9500トン、ヘリコプター ◇ネパール、M7.8の大地震(4月25日)
9機の同時運用が可能
→ネパールとその周辺国で6700人以上が死亡、人口
の一割、280万人が屋外で避難生活
○天皇皇后両陛下、戦没者慰霊へパラオご訪問
(4月8~9日)
◇中ロ共同声明(5月8日)
→「トイツのナチズムと日本の軍国主義が引き起こした
○エロ校長、逮捕(4月8日)
第2次世界大戦は人類史上最大の悲劇だった」「ロシ
→フィリピン日本人学校の元教師・横浜市立中学校の
元校長(64歳)、25年間に同国で14~70歳までの
延べ1万2660人の女性を買春、弄ぶ。
アと中国は戦勝国として第2次世界大戦の歴史を
否定、歪曲、改ざんする試みに反対する」などと声明。
通説的には、1939年9月1日のナチス・ドイ
児童買春・児童ポルノ禁止法違反容疑で逮捕。
ツのポーランド侵攻が第2次世界大戦の始まり。
横浜地裁、
「卑劣で悪質」と執行猶予のついた有罪判決を
続いて、ナチスと結んだソ連、ポーランドへ侵攻(同
下す(12月25日)
月17日)、ポーランド国を分割、抹殺した
○安全保障関連法案、国会審議始まる(5月15日) ◇ロシア、対独70年戦勝記念式典・軍事パレード
→自民党が参考人として推薦した憲法学者3名、「集団的
自衛権」の行使を認める法案を憲法違反と陳述。
以後、衆議院での法案審査が紛糾。主要な論点が「集団的
(5月9日)
→中国のほか約20カ国(前回53カ国)の首脳と
国連務総長ら出席
自衛権の違憲性」へと移る。
7月16日、衆議院可決、参議院での審議始まる。
途中、一部閣僚の失言から審議がまたしても空転、
◇韓国国会、安倍首相の歴史認識を糾弾する国会決
議を採択(5月12日)
9月19日未明、参議院で可決、法案が成立した。
衆参両院で220時間余の異例の長時間審議。
法案の成立で、従来、安全保障面で不備のあった多く
が是正されることとなった。
◇中国、人工島を初めて公表(5月15日)
→フィリピンを追った南沙諸島海戦以来、南沙海域の
実効支配を開始。今、幾つもの珊瑚礁・暗礁を破壊・
一方、国会の内外で法案反対運動が活発化、盛り上がり
も見せたが、国会内外での野党議員とシンパの文化人ら
の過激・下品なアジテイトに多くの人が眉をひそめた
14
埋め立て、ファイアリー・クロス礁に3000m級
の滑走路などを建設
年号
西暦
日本
世界
<トピックス>
◎新生「未成年者選挙人」への反面教師たち
選挙権年齢を18歳以上に引き下げた改正公職選挙法が成立、新たに240万人の未成年者選挙人が誕生。
学校での政治教育が解禁され、主権者教育の必要が声高に叫ばれた今年、地方から、慶事に水を差す二つの出来事が
報らされた。
一つは、改正公職選挙法が成立した6月17日、初心の公約を違えた上田清司埼玉県知事の四選出馬。
12年前、知事の任期を三期までとする公約を掲げ出馬。当選後、公約を条例に格上げ、都道府県で唯一の多選自粛
条例を制定、県民に多選自粛を誓った。
そして、今年、鉄石の覚悟でつくったという条例を「心情が代わった」、「事情が変わった」、「私なら多選の弊害はな
い。だから、多くの人が推薦してくれている」などと弁解、出馬した。有力な対抗馬のいない中、埼玉県の有権者58
5万余、投票率27%、89万票(前回より△30万票)で再選。
再選後、初の県議会で多選自粛条例の廃止を画策したが、議会多数党の反対で断念。年末の県議会を前にした11月、
今度は、自粛条例の規定を分断解釈、
「任期を規定した第2条の実効性は(当選で)失われた。清新で活力ある県政の実
し
現という第1条を実現していくことが1番重要だ」などと裁判官然の「為たり顔」で居直る。
もう一つは、昨年11月、沖縄県の有権者110万、投票率64%、36万票を得て、現職知事に9万票余りの大差
お な が た け し
で知事に就いた翁長雄志知事の公正さを失った強引・独善な県政。
当選後、公約の普天間飛行場代替施設建設(辺野古沖への移設)阻止へ向け、早速に、前知事の承認処分を検証する
「第三者委員会」を立ち上げた(1月)。委員長は、移転施設の建設反対を表明していた弁護士会の元会長、その他の
委員も前知事の行った承認処分に対し異を唱えていた有識者らを任命。
一般に「第三者・・・」という場合、独立・公平な組織と人事、権限を思うが、これでは、誰が見ても、「お手盛り」
「出来レース」。委員会は6ヶ月余りで「承認処分には法的な瑕疵がある」などと報告(7月)、知事は埋め立て承認処
分を「取り消し」た(10月13日)。
以来、市街地にあって世界一危険と心配される普天間飛行場の全面返還を目指す国は、県に代わって、その「取り消し」
の撤回を求め裁判所に訴えを起こした。
県と国との対立は司法の場に持ち込まれた。しかし、第1回口頭弁論(裁判)の場で、知事は「取り消し撤回」の法的
な釈明をせず、沖縄の歴史と現状に関する持論を展開(12月2日)。法律上の紛争を扱う司法の場を反対運動宣伝の場
にした。革命家気取りのかつての左翼運動家たちと同じ手法だ。
4年前の茶葉放射能汚染隠し(2011年)の時と同様、県民不在・右寄りの政略で議会多数党へすり寄り、目の上の
瘤、多選自粛条例の廃止を目論む不審の埼玉県知事。
「公約の実現」を旗印に、現実・具体的な県民の安全と安心を怠り、その責任を国に転嫁、さらに、沖縄の地政を弄び、
日本の安全を脅かしかねない沖縄県知事。
公約に対する姿勢と行動が正反対の二人の知事だが、いずれも、反対票を投じた少数者、黙して語らぬ多くの県民を
忘れている。政治家の発言は重いはず。政治家は言行に不正なく、人々の暮らしの安全・安心・向上に努めねばならない。
専制・独裁と違い、民主主義(主権在民)は少数者・反対者の立場をも尊重する政体。
地方自治は民主主義を育てる学校、そして、首長は???・・・。
彼らは、これから始まる「主権者教育」の反面教師。
15
昭和時代(1926年~1989年)
54
年号
西暦
昭和64年
日本
世界
1989
~1月7日
昭和63年
1988
ノ ・ テ ウ
○青函トンネル(3 月 13 日)、瀬戸大橋(4 月 10 日) ◇韓国、盧泰愚、大統領に就任
開通
(2 月 25 日~1993 年 2 月 24 日)
●首相 竹下 登
○上海列車事故(3 月 24 日)
◇スプラトリー諸島海戦(3 月 14 日)
→修学旅行中の高知学芸高校の教師・生徒 27 人死亡
→スプラトリー(南沙諸島沖)で中国とベトナム戦う。
中国、勝利。西沙諸島全域を実行支配下におく
○「マル優(少額貯蓄非課税制度)」、廃止
(4 月 1 日)
◇ハラブジャ事件(3 月 16 日)
→イラク・イラン戦争でイラク、化学兵器を使用
○第 14 回先進国首脳会議(6 月 19 日)
◇ソ連、新ベオグラード宣言(3月)
○潜水艦「なだしお」と遊漁船「第一富士丸」との
衝突事故(7 月 23 日)
→ゴルバチョフ書記長、訪問先のユーゴスラビアで
「制限主権論」を否定、東欧諸国民主化への道を開く
→死者 30 人、負傷者 17 人
※新ベオグラード宣言
○昭和天皇病中により、イベント・放送の自粛
(9 月 19 日~)
①スターリンによるミフォルムからのユーゴスラビ
ア追放を謝罪
②制限主権論(ブレジネフ・ドクトリン)を否定
◇米軍イージス艦「ヴィンセンス」、イラン航空の
エアバスを誤射(7 月 3 日)
→乗客・乗員ら 290 人死亡
◇米国、レーガン大統領、「市民の自由法」へ署名
(8 月 10 日)
→戦前、強制収容された日系米国人への補償法成立
◇イラン・イラク戦争、停戦(8 月 20 日)
◇ソウルオリンピック(9 月 17 日~10 月 2 日)
55
年号
昭和62年
西暦
1987
日本
世界
○ルーブル合意(2 月 22 日)
◇中国、天安門で学生数百人、民主化を求めるデモ
→プラダ合意で始まった「ドル安」
「マルク安」是正へ
●首相 中曽根康弘
1982 年 11 月 27 日~
1987 年 11 月 6 日
(1 月 1 日)
の7カ国蔵相・中央銀行総裁会議。しかし、各国の
協調が十分図れず ドルの下落を止められなかった。
◇北朝鮮工作員、金賢姫、大韓航空機爆破事件
日本は一段の低金利・通貨供給量の増加策を執り。 (11 月 29 日)
バブル景気を招く
→乗客 116 人死亡
●首相 竹下 登
1987 年 11 月 6 日~
○公定歩合、 戦後最低の2.5%へ(2 月 23 日)
1989 年 6 月 3 日
キム ヒ ョ ニ
※金 賢姫
北朝鮮工作員、拉致した日本人になりすましての犯行。
○国鉄分割民営化(4 月 1 日)
日本人拉致事件の背景事情の一部が判明
→JR グループ 7 社、発足
◇韓国、16 年ぶりの大統領選挙(12 月 16 日)
○右翼、朝日新聞阪神支局を襲撃(5 月 3 日)
→盧泰愚、当選
○利根川進、ノーベル生理学・医学賞
○日本航空、完全民営化(11 月 18 日)
昭和61年
1986
○中野区立富士見中学いじめ自殺事件(2 月 1 日) ◇スペースシャトル、チャレンジャー号、爆発事故
→いじめによる自殺事件が全国的に注目されることと
●首相 中曽根康弘
なった初めての事件(「葬式ごっこ」と称したいじめ)
○第 12 回先進国首脳会議(5 月 4~6 日)
(1 月 28 日)
→発射から 73 秒後爆発、乗員 7 人全員死亡
◇ソ連、ペレストロイカ(4月)
→70年代からの経済不振打開のためのゴルバチョフ
○衆参同日選挙、自民党、勝利(7 月 6 日)
ソ連邦書記長による一連の社会・経済改革。
時を同じくして起こったチェルノブイリ原発事故
○三原山の噴火、全島避難始まる(11 月 15 日)
(4月26日)を機に始まったグラスノスチ(情報公開)
と共にソ連社会を覆すこととなった
○山陰本線余部橋梁、列車転落事故(12 月 28 日)
◇レーガン大統領とゴルバチョフ書記長、アイスラ
ンドのレイキャビックで米ソ首脳会議
(10 月 11 日)
<トピックス>
◎バブル景気を招いたプラザ合意
80年代前半の米国のインフレ抑制策(高金利・ドル高政策)は米国に双子の赤字(財政赤字・貿易赤字)をもた
らし、国際的な基軸通貨ドルの信頼を揺るがした。
このため、G5 (先進 5 カ国蔵相・中央銀行総裁会議)の場で「協調的なドル安」(専ら、日本の円高・ドル安)
が決められた。これがプラザ合意。
結果として、インフレ率の低下と公定歩合引き下げへの思惑から名目金利が低下、不動産や株式に資金が流れバブ
ル景気が始まった。
56
年号
西暦
昭和60年
1985
●首相 中曽根康弘
日本
世界
○日航ジャンボ機墜落事故(8 月 12 日)
→単独機の航空事故として当時史上最悪の航空機事故
◇米国、レーガン大統領、2 期目の政権
(1 月 20 日)
死者 520 人、生存者4人
◇ソ連、チェルネンコ、死去、ゴルバチョフ、
○中曽根首相、 靖国神社へ公式参拝(8 月 15 日)
書記長に就任(3 月 11 日)
○プラザ合意(9 月 22 日)
◇ソ連、東カザフスタンで核実験(4 月 19 日)
○国政調査、日本の人口 1 億 2100 万人
◇中国、南京大虐殺記念館、開館(8 月 15 日)
(10 月 1 日)
◇米仏の合同調査隊、タイタニック号の船体発見
○10・20成田闘争(10 月 20 日)
(9 月 1 日)
→中核派などの過激派が成田市内の三里塚交差点
付近で警官隊と衝突。翌月、国電へ同時多発ゲリラ
<トピックス>
◎閑話休題―日本の人口いろいろ―
人口を切口に日本の歴史を振り返れると、幾つかの出来事に目が止まる。
出発点は、いわゆる壬申戸籍、明治5年の全国戸籍調査だ。かつての身分社会の構成が判る点も面白いが、興味が沸く
のは3311万余の日本の人口だ。この数字を知って過去を振り返ると、何を差し置いても、元寇に恐怖する人々の姿が
思い浮かぶ。
舞台となった松浦半島、北九州、山口や長門にどれほどの人がいたのだろうか。大人は1年間に1石の米を食べるとい
うが、未開で農業技術が発達していない昔、食べ物に事欠く貧しい時代のこと、全国で 3000 万もいただろうか、2000
~2500 万人の間ではないか。この時、どれほどの人がこの戦役に臨んだのだろう。
こうらい
高麗の兵 4 万、江南の兵10万の大兵、水夫などを含め総勢 20 万が襲来。これを防いだのが台風であったとしても
「神風が吹いた」と神威に感謝したのは当然だった。
さらに、興味が沸くのは、生き残り捕らえられた敵兵はどうなったのか。
台風で7・8割が嵐で失われ、生き残った者はすべて斬り殺されたと高麗の史料にあるようだが、江南人に対しては
蒙古に虐げられているとの同情もあったようだ。九州や中国、四国の未開地で、戦利の品(労働力)として生かされた
のではないか。後にも記すが、当時の地理や季節、人口を思いながら年表を読むのは楽しい。
昭和59年
1984
●首相 中曽根康弘
○植村直己、マッキンリー山への単独登頂。成功
◇サラエボオリンピック(2 月 8~19 日)
(1 月 12 日)、翌日、下山途中に遭難
◇ロサンゼルスオリンピック
○グリコ・森永脅迫事件(3 月 18 日~1985 年 2 月) (7 月 28 日~8 月 12 日)
○北朝鮮帰還事業、終了(7 月 25 日)
◇フィリピン、マルコス大統領に対する50万人の
抗議デモ(8 月 21 日)
○全斗煥、韓国大統領として初の来日
(9 月 6 日)
◇インド、インディラ・ガンジー首相、暗殺
→以来、韓国人名の「現地語読み書き化」始まる
57
(10 月 31 日)
年号
西暦
日本
世界
<トピックス>
◎戦後略史Ⅰ―韓 国―
1943年、カイロ宣言で朝鮮の自由と独立が取り決められたが、現実には、最長5年を期限とした米・英・ソ・中、
4か国の信託統治の下に置かれた。米ソ両軍は朝鮮へ進駐、38度線を暫定的な境界線に半島は分断された。
大陸での国府軍と紅軍との戦いから2年後の48年、激しさを増した米ソの対立を背景に「暫定」とされた境界線は
凍結、韓国(大韓民国)と北朝鮮(朝鮮人民共和国)は、それぞれに建国を宣言。中国で中華人民共和国政府が誕生
した翌年の1950年6月25日、北朝鮮軍の奇襲で朝鮮戦争が始まった。その日のうちに安保理は即時の停戦実施と北
朝鮮軍の38度線への撤退を要求。米国は韓国への軍事援助を決定、27日、安保理(ソ連の欠席)の決議にしたがい
各国は韓国への軍事援助を表明、マッカーサーが国連軍の総司令官に就き、戦争が本格化した。
9月10日北朝鮮軍は釜山近郊90kmまで迫った。米軍を主力とする国連軍、仁川へ上陸し(9月15日)、反攻を
開始、12日間の戦いでソウルを奪還、9月末には38度線まで押し返した。10月8日国連での支持を得て越境、平壌
を占拠(10月19日)、11月には中国との国境・鴨緑江へ達し北朝鮮軍を追った(11月24日)。
事態は中国人民義勇軍(中国軍)の介入で一変。
ソ連製ジェット機に援護された中国軍と北朝鮮軍が反撃を開始。51年1月、一時、ソウルは中国軍・北朝鮮軍に占
拠。国連軍はこれを押し返し3月、奪還、6月、戦線を38度線へと押し戻し、以後、膠着、2年後の53年7月27日休戦
となり熱い戦争は止んだ。国連軍、南・北朝鮮、中国側合わせて450万人を超す戦死者を出し、半島の殆どを焦土と
化した。
休戦で表立った戦闘は止んだが、謀略と挑発・小競り合いは続き、韓国軍による済州島での島民虐殺事件を始めに軍
や右翼らによる虐殺事件が頻発、政府はこれに荷担。国民は大統領李承晚を恨んだ。国民の関心を外に向け保身を図ろ
うとした李承晚、国民に凝る反日(恨日)感情を利用した。それが李承晚ラインの設定。屈服させた日本の姿を示し国
民の溜飲を下げるためだった。3年前の49年1月、韓国は、対日サンフランシスコ講和会議への戦勝国側での出席と
対馬の割譲を要求。しかし、
「史実が違う」と米国は要求を容れなかった。その折の失策の挽回策が「李承晚ライン」の
設定と竹島の実力占拠(1952年1月)。
日本が主権を回復する講和条約の発効直前の侵奪だった(4 月)。
昭和58年
1983
○中曽根首相、韓国訪問(1 月 11 日)
◇ローマ教皇ヨハネ・パウロ2世、ガリレオ・
ガリレイへの異端審判の誤りを認める(5 月 9 日)
○NHK 連続テレビ小説「おしん」放送開始
(4 月 4 日)
◇ソ連、大韓航空機、撃墜(9 月 1 日)
→誤って領空侵犯をした大韓航空機へソ連戦闘機、
○東京ディズニーランド、オープン(4 月 15 日)
○日本海中部地震(5 月 28 日)
ミサイル攻撃。乗客・乗員 269 人死亡
◇米国、ユネスコから脱退(12 月 28 日)
→M7.7、つがる市に 14.9mの津波、死者 104 人
○昭和 58 年 7 月豪雨(7 月 20~23 日)
→山口・島根両県で死者・行方不明者 112 人
58
年号
西暦
昭和22年
1947
日本
世界
◇米国、「赤狩り」始まる(10月20日)
→下院の非米活動調査委員会、容共主義との被疑者へ
●首相 吉田 茂
の聴聞を開始。共産党の影響下にあると告発された
ハリウッドの映画界への聴聞を開始。
てつ
●首相 片山 哲
3年後に本格化する反共産主義攻勢(赤狩り・
マッカーシズム)の始まり
◇第1次印パ戦争
(10 月 21 日~1948 年 12 月 31 日)
昭和21年
1946
しではらき じ ゅ う ろ う
○天皇、「人間宣言」(1 月 1 日)
◇インドシナ動乱、始まる(~1954 年)
→明治維新以来の「神格化」を否定
→ベトナム、独立を求めフランスと戦う
●首相 幣原喜重郎
1945 年 10 月 9 日~
○富坂警察署襲撃事件(1 月 3 日)
◇米国、世界初のコンピュータ、ENIAC、
1946 年 5 月 22 日
→連続拳銃強盗事件の容疑者3名(在日朝鮮人)を勾留。
ペンシルベニア大学で完成(2 月 14 日)
約 80 名の朝鮮人、警察署を襲撃、容疑者を奪い、逃走
◇イギリス、元英国首相チャーチル、演説の中で、
●首相 吉田 茂
○マッカーサー、極東国際軍事裁判所の設置を宣言
米ソ間の冷戦緊張の状態を「鉄のカーテン」と
(1 月 19 日)
喩える(3 月 5 日)
1946 年 5 月 22 日~
1947 年 5 月 24 日
○熊沢天皇、出現(1 月 18 日)
◇ギリシャ内戦、始まる
(3月30日~1949年10月16日)
→南朝の子孫を自称
→ソ連に寄るユーゴスラビア軍の支援を受けた共産
○NHK「のど自慢素人音楽会」始まる(1 月 19 日)
○通化事件(2 月 3 日)
ゲリラ、国境を越えギリシャへ侵攻
◇国際連盟、解散(4 月 18 日)
→中共軍と朝鮮人民軍、満州国通化省通化市で日本人
3000 人余を虐殺。蒋介石の中華民国からの要請と
◇中華民国、南京に遷都(5 月 31 日)
欺かれ、蜂起した日本人を虐殺
◇中国、国共内戦、始まる
(6月26日~1949年10月1日)
→蒋介石、共産党駆逐へ総攻撃命令を発し、内戦本格化。
中国共産党、ソ連から引き渡された旧日本軍の装備と
農地解放を約束された農民大衆の支持を得て、蒋介石
を破る
90
年号
西暦
日本
昭和21年
1946
○公職追放令(2 月 28 日)
世界
◇米国、マーシャル諸島ビキニ環礁で初の原爆実験
(7 月 1 日)
●首相 幣原喜重郎
○漫画「サザエさん」連載、始まる(4 月 22 日)
→原爆の爆発としてはニューメキシコ、広島、長崎に
次いで史上4番目。以来、ビキニ環礁で水爆も含め
●首相 吉田 茂
○極東国際軍事裁判所、開廷
23 回の核実験を実施
(5 月 3 日~1948 年 11 月 12 日)
○長崎警察署襲撃事件(5 月 13 日)
→闇市の取り締まりで日本人 150 名、朝鮮人 26 名、
中国人 6 名を検挙。この直後、在日朝鮮人連盟や中国
人団体員約 200 名が警察署を襲撃。警官 1 人死亡、
10 人が重軽傷
○天皇、マッカーサーを訪問(5月31日)
○外務省、蒋介石の要求により「支那」の呼称を
「中国」へ改める通達、発出(6 月 6 日)
※中国
本来、世界の中心の国との漢族自尊の用字。
英語では「支那」の音写、チャイナ。
ロシア語では「契丹」の音写、キタイ
○警官のサーベルを廃止、警棒へ替える(7 月 15 日)
○全国中等学校野球大会、西宮球場で再開
(8 月 15 日)
○小平義雄事件(8月20日)
○新潟日報襲撃事件(9 月 26 日)
→新潟県村上市坂町で起こった朝鮮人の暴力事件の
報道巡り、在日朝鮮人連盟の朝鮮人 16 名、新聞社を
襲撃
○生活保護法、施行(10 月 1 日)
91
年号
西暦
昭和21年
1946
日本
世界
○自作農創設特別措置法(農地改革法)、公布
◇ベトナム民主共和国、フランスから独立を宣言
(10 月 21 日)、施行(12 月 29 日)
(9 月 29 日)
○日本国憲法、公布(11 月 3 日)
◇東トルキスタン:東トルキスタン共和国、分裂
●首相 幣原喜重郎
●首相 吉田 茂
→政府が進める憲法改正案は明治憲法の表現を変えただ
(9 月)
けの焼き直し、日本国家の基本的な性格を変えるもので
◇ドイツ、ニュールンベルグ国際軍事裁判、終結
はないと知ったマッカーサー。
GHQ 民政局に憲法草案の作成を命じ(2 月 1 日)、
(10 月 1 日)
草案を政府に逆提示(2 月 13 日)。
政府、草案の受け入れを決め政府案として発表(3 月
6 日)。5 月からの帝国議会(衆議院・貴族院)の審議・
テ グ
◇朝鮮半島、大邱10 月事件(10 月 1 日)
→民政の混乱に抗議した住民を南朝鮮警察が銃撃した
議決を経て、10 月 29 日枢密院で可決。
ことが原因。事件で住民 136 人が殺され、結果、
明治憲法の改正手続に則り公布、6 カ月後の 1947
皮肉にも共産勢力の伸張を許すこととなった
年 5 月 3 日、施行。
○埼玉県北足立郡蕨町、「青年祭(成人式)」始まる
(11 月 22 日)
○シベリア帰還第 1 船、舞鶴港へ入る(12 月 7 日)
○昭和南海地震(12 月 21 日)
→M8.0地震と最高潮位 5mを超す津波被害。
死者・行方不明者 1330 人
ともゆき
○山下奉文元陸軍大将、刑死(12 月 23 日)
<トピックス>
◎たんぼ1反、闇米1升・鮭3匹未満の強制買収、農地解放
自作農創設特別措置法により不在地主の小作地及び在村地主(北海道 4 町歩、その他 1 町歩を超える)の小作地な
どが、とても「正当な補償」といえない金額で国に強制的に買い上げられた。延べ 193 万町歩、237 万人の地主の
土地が買収、475 万人の小作人に売り渡され、自作農が誕生した。
戦後期の食料難の時代、相応に食料供給に効果はあったようだが、その後の高度成長期での大都市への人口流入で、
近郊の農家の多くは農地を手放し現金化。にわか成金が誕生。
土地を二束三文で手にした自作農たちは惜しみなく土地を手放し、ミニ開発と呼ばれた小宅地化でそれまでの
農村風景を一変させた。
今、税金対策・資産保有のための「農業」が都市近郊では一般化。
田畑は荒れ、秋、田の中に稲穂と稗草が交じる。
92
年号
西暦
昭和20年
日本
世界
1945
○東京大空襲、死者 8 万人余、被災家屋 27 万戸
く にあき
(3 月 10 日
陸軍記念日)
◇米国タイム誌、日本からの風船爆弾、モンタナ
に落下と報道(1 月)
●首相 小磯國昭
1944 年 7 月 22 日~
1945 年 4 月 7 日
イ ニ ン
○硫黄島 2 万 2000 人余の日本軍、玉砕(3 月 26 日) ◇東トルキスタン:伊寧事変起こる(1 月)
→オスマン・バアトルの反乱を機にウイグル人、
○沖縄戦(3 月 26 日~6 月 23 日)
モンゴル人らがクルジャで東トルキスタン共和国を
●首相 鈴木貫太郎
→米軍 18 万、沖縄本島へ上陸(4 月 1 日)、
建国。国民党政府からの独立を宣言
1945 年 4 月 7 日~
司令官・牛島満ら自決、抵抗止む(6 月 23 日)。
1945 年 8 月 17 日
県民の 4 人に 1 人、10 万人が戦闘に巻き込まれ
◇米軍、ルソン島へ上陸(1 月 9 日)
落命。日本兵 9 万 4000 人戦死
●首相
◇米国、フランクリン・ルーズベルト、4 期目の
ひ が し く に み や なるひこおう
東久邇宮稔彦王
○ソ連、日ソ中立条約の不延長、通告(4 月 5 日)
大統領に就任(1 月 22 日)
1945 年 8 月 17 日~
1945 年 10 月 9 日
○戦艦「大和」、遭難(4 月 7 日)
しではら
●首相 幣原喜重郎
◇ヤルタ会談―東西冷戦の始まり―
→沖縄特攻作戦(天一号作戦)の途上、米国機動部隊、「
坊の岬」沖で撃沈
(2 月 4~11 日)
→米国(ルーズベルト)・チャーチル(英国)・
1945 年 10 月 9 日~
スターリン(ソ連)、日本、ドイツ、東欧の戦後取扱
1946 年 5 月 22 日
○山の手空襲、死者 7400 人余、被災家屋 22 万戸
(5 月 25~26 日
海軍記念日(27 日)
いを協議
①日本に対しては、欧州戦終結後 60 日以内のソ連の
宣戦布告と日露戦争で日本に割譲した領土(千島列
○ひめゆり学徒隊(226 人)、惨慄な最期
(6 月 19~26 日)
島)の獲得を確認
②ドイツに対しては、賠償や国境線など多くは決まら
ず、ベルリンの共同管理を決める
○ポツダム宣言、拒否(7 月 28 日)
③しかし、新たに解放される東欧諸国の扱いについて
はソ連と米国が対立
○原爆投下(広島 8 月 6 日、長崎 8 月 9 日)
①広島、年末までの被爆死亡者約 14 万人
②長崎、被爆死亡者約 7 万 4000 人(1949 年調査)
○極東ソ連軍 174 万、満州へ侵攻(8 月 9 日)
93
◇米軍 11 万、硫黄島へ上陸(2 月 17 日)
年号
昭和20年
西暦
1945
日本
世界
○ポツダム宣言の受諾(8 月 14 日)
◇米国、ルーズベルト大統領、急逝。
→終戦の決定後(10 日)、陸軍急進派の一部がクーデター
●首相 小磯國昭
を画策。14 日、改めて御前会議を開き、天皇の聖断によ
ハリー・トルーマン副大統領、大統領に就任
(4 月 12 日)
り終戦が決まる。午後 11 時、ポツダム宣言の受諾を打
●首相 鈴木貫太郎
これちか
電。15 日早朝、阿南惟 幾 陸軍大臣、自決して陸軍の暴
◇イタリア、ムッソリーニ、銃殺(4 月 28 日)
発を抑える
●首相
東久邇宮稔彦王
◇ヒトラー、自害(4 月 30 日)
○終戦(8 月 15 日)
→戦没者 310 万人(海外での戦没者 240 万人)、戦災者
●首相 幣原喜重郎
◇ドイツ、ベルリン陥落(5 月 2 日)
1000 万人余
◇ドイツ、無条件降伏(5 月 8 日)
しゅむしゅとう
○占 守 島 の戦い(8 月 18~21 日)
→終戦後、千島列島の東端、占守島で行われたソ連軍との
戦い。その後、将兵の多くがシベリアに抑留
○大本営、戦闘中止を発令(8 月 19 日)
◇米国、ニューメキシコ州アラモゴードの実験場
で世界初の原爆実験(7 月 16 日)
◇ポツダム会談(7 月 17 日~8 月 2 日)
→ポツダム宣言を日本へ通告(7 月 26 日)
まおか
○樺太真岡郵便電話局事件(8 月 20 日)
→ソ連軍の侵攻により真岡郵便電話局の 19 人、殉職。
9 人の女性交換手、侵攻直前に青酸カリを服用、自決
○日本軍人・軍属をシベリアへ強制抑留
◇米国、B25 爆撃機、エンパイアステートビルに
衝突、死者 14 人(7 月 28 日)
◇英米仏ソ、国際軍事裁判所憲章(ロンドン憲章)
(8 月 23 日~1956 年 12 月 26 日)
調印(8 月 8 日)
→順次、解放をするが、11年余りの間 57 万 5000 人余
りの軍人・軍属らを抑留。抑留中に 5 万 5000 人が死去
→枢軸国の戦争犯罪を裁く根拠法。
「平和に対する罪(侵略戦争)」「戦争犯罪」「人道に
対する罪(民族・集団への虐殺)」の 3 つを新たに規
定。国際軍事裁判所で枢軸国を裁くための「犯罪」を
急きょ、作る。
米国憲法、フランス人権宣言などにある近代法の
法理(事後法の禁止)に反する憲章
◇スターリン、ソ連軍の北海道占領を
トルーマン大統領に要求(8 月 16 日)、
大統領、拒否(8 月 18 日)
94
年号
西暦
昭和20年
1945
日本
世界
○川口放送所占拠事件(8 月 24 日)
◇中国、重慶会談、始まる
→終戦に反対し徹底抗戦を主張する陸軍軍人ら川口放送
●首相 小磯國昭
所・鳩ヶ谷放送所(現在の SKIP シティの前身)を
占拠。関東一帯で約 9 時間、ラジオ放送、停波
●首相 鈴木貫太郎
(8 月30日~10月10日)
→蒋介石・毛沢東との国共和平・統一についての会談。
「双十協定」が結ばれ、蒋介石指導の下での統一国家
建設が確認されたが、中共軍の謀攻により忽ちに破綻
○松江騒擾事件(8 月 24 日)
●首相
→皇国義勇軍数十名による蜂起、県内の主要施設を
東久邇宮稔彦王
◇中国、国共内戦の幕開け、上党戦役、起こる
(10月10日)
襲撃、死者 1 人
→中国山西省上党地区(長治市)、鄧小平率いる八路
●首相 幣原喜重郎
エン・シャクザン
○敦化事件(8 月 27 日)
軍、 閻 錫 山 軍を先制攻撃、せん滅。
→吉林省敦化市で進駐ソ連軍により集団強姦を受けた
「日満バルブ製造会社」の女子社員・家族ら 28 人、
蒋介石、中央軍を山西省に派遣せざるをえなく
なり、「双十協定」は有名無実化
集団自決
◇米国、国共間の和解・調停に動く(11月)
○マッカーサー、厚木海軍飛行場へ降りる
(8 月30日)
→トルーマン大統領、元陸軍参謀総長ジョージ・マー
シャル元帥を全権特使として中国へ派遣。
が、半年余りにわたった働きかけは失敗
○東京湾上、米海軍戦艦「ミズーリ号」で降伏文書、
調印(9 月 2 日)
○戦犯容疑者 39 名に対し逮捕令(9 月 11 日)
○マッカーサー、「日本は四等国へ転落」と発言
(9 月12日)
○枕崎台風(9 月 17 日)
→死者・行方不明者 3700人余
<トピックス>
◎日ソ中立条約を秤にかけたスターリン
1945年8 月8日未明、ソ連(ソビエト)は日ソ中立条約を一方的に破棄、日本に対し宣戦布告し、翌日、参戦。
8月15日、ポツダム宣言の受諾により無条件降伏をした日本軍を襲い、満州、北方領土へと侵攻・占拠。
①
8月16日→南樺太へ侵攻
②
8月18日→千島列島へ侵攻
③
8月28日→北方四島へ侵攻、占拠
95
年号
西暦
昭和20年
1945
日本
世界
○文部省、教科書の軍国的表現部に黒塗りを指示
◇マッカーサー、北緯 38度線を国境とした
(9 月 20 日)
米ソによる朝鮮半島の分割統治、発表
●首相 小磯國昭
(9 月 2 日)
○昭和天皇、マッカーサーを訪問(9 月 27 日)
●首相 鈴木貫太郎
◇国際連合、発足(10 月 24 日)
○七尾警察署襲撃事件(9 月 30 日)
●首相
→石川県七尾市の警察署を中国人 400 人が襲撃
東久邇宮稔彦王
◇インドネシア、独立運動始まる
(11 月 10 日~1949 年 12 月 29 日)
○GHQ(連合国軍最高司令官総司令部)、設置
●首相 幣原喜重郎
(10 月 1 日)
◇フランス、シャルル・ド・ゴール、
フランス臨時政府の首班に就く(11 月 13 日)
◇ドイツ、ニュルンベルク裁判、始まる
(11 月 20 日)
◇ユーゴスラビア社会主義連邦共和国、建国
→チトー、首相に就任(11 月 29 日)
<トピックス>
◎第2次世界大戦の惨禍とその後
(1)特
徴
①ファシズムと民主主義とのイデオロギー戦争
②科学兵器の発達による未曾有の破壊と災害
③欧州での英国・米国・ソ連による新たなパワー・バランスの出現
④極東での米国の圧倒的なパワー・プレゼンスの出現
(2)被
害
①戦死・行方不明者(非戦闘員を含む)5000~8000 万人
②戦費は前大戦の 4 倍、1 兆 4000 億ドル、その他の物的損害は 13 倍
(3)その後への影響
①前大戦で萌芽した民族主義によるアジア・アフリカ諸国の独立
②米国・ソ連、 両陣営によるアジア・アフリカ諸国の取り込み競争の激化
96
年号
昭和20年
西暦
1945
日本
世界
○マッカーサー、幣原首相に5大改革と憲法改正を
指示(10 月 11 日)
●首相 小磯國昭
※5大改革
●首相 鈴木貫太郎
①婦人参政権、②労働組合運動、③教育改革、
④圧政な法制度の廃止、⑤経済の民主化
●首相
東久邇宮稔彦王
●首相 幣原喜重郎
○台湾の施政権、中華民国へ移管(10 月 25 日)
○第 1 回宝くじ、発売(10 月 29 日)
○日本社会党(委員長、片山哲)、結成(11 月 2 日)
○新日本婦人同盟(委員長
市川房枝)、結成
(11 月 2 日)
○GHQ、財閥解体を指令(11 月 6 日)
○日本自由党(総裁
○日本進歩党(書記長
鳩山一郎)、結成(11 月 9 日)
鶴見祐輔)、結成
(11 月 16 日)
○婦人参政権、付与(12 月 17 日)
○生田警察署襲撃事件(12 月 24 日)
→50 名余の武装朝鮮人、襲撃
昭和19年
1944
○政府、三綱領を発表(3 月 3 日)
◇ソ連軍、レニングラード、奪還(1 月 27 に日)
→学童給食、空地利用食糧増産、疎開の促進
●首相 東條英機
◇連合軍、ノルマンディーへ上陸(6 月 6 日)
○インパール作戦(3 月 8 日~7 月 3 日)
●首相 小磯國昭
→大陸戦での援蒋ルート遮断が目的。補給を考えない
◇米軍 6 万 6000、サイパン島へ上陸
(6 月 15 日)
杜撰な軍事作戦。
4カ月余りで戦死者2万6000、戦病者3万人余
97
◇米軍5万5000、グアム島へ上陸(7月21日)
年号
昭和19年
西暦
1944
日本
世界
○北九州の八幡市、B29 による初の空爆
◇連合軍、パリ解放(8 月 25 日)
(6 月 15 日)
●首相 東條英機
◇ドイツ軍、ロケット V2型、ロンドンへの空襲
1941 年 10 月 18 日~
○北海道、昭和新山、誕生
(9 月 8 日)
1944 年 7 月 22 日
(6 月 23 日~1945 年 9 月 20 日)
◇米軍2万9000、ペリリュー島へ上陸
●首相 小磯國昭
○サイパン島、3 万 1000 人の日本軍を含む
(9月15日)
1944 年 7 月 22 日~
5 万 5000 人余、玉砕(7 月 9 日)
1945 年 4 月 7 日
◇東トルキスタン:新疆の独裁者盛世才、国民党
○グアム島、1 万 8000 人余の日本軍、玉砕
に降り重慶に戻る。以後、新疆省、国民党政府
(8 月 10 日)
の直接統治となる(9 月)
○対馬丸事件(8 月 22 日)
◇アテネの戦闘ー英ソ「大同盟」亀裂の始まりー
→米国潜水艦、沖縄からの輸送船「対馬丸」を襲撃。
疎開する学童 700 人余と兵員 1500 人余、遭難
(9月~1945年2月12日)
→ドイツ軍撤退後のギリシャを巡って、対ドイツ共産
レジスタンスとイギリス軍との戦い。
○マリアナ・パラオ諸島の戦い
チャーチルとスターリン、モスクワで両勢力の
(9月15日~11月25日)
範囲を協議(10月)。翌年のヴァルキザ条約で
→パラオ諸島ペリリユー島の守備隊1万1000人、玉砕
以下を確認(2月12日)
①ギリシャの西側への帰属
○沖縄本土、空襲(10 月 10 日)
②ルーマニア・ブルガリアのソ連への帰属
③ハンガリー、ユーゴスラビアでのソ連勢力の
○レイテ島の戦い、始まる(10 月 20 日~終戦まで)
→兵力 8 万 4000 人のうち、死者 7 万 9000 人
容認を取り決め、停戦。
以来、スターリン、ドイツ全土の占領・ドイツ軍
撤退後の支配地の取り込みを本格化すると共に、
○新聞の朝刊、2 ページに削減(11 月 1 日)
○リヒャルト・ゾルゲ(ソ連のスパイ)と共犯の尾崎
秀実、死刑(11 月 7 日)
戦後、ギリシャの内戦を画策、介入を目論む
◇フィンランド、ラップランド戦争
(10月1日~1945年4月25日)
→継続戦争でソ連に敗れたフィンランド、ソ連の
○サイパン島米軍基地からのB29、東京を初空襲
要求によりドイツ軍と戦う
(11 月 24 日)
◇ドイツ軍、アルデンヌの攻勢ーバルジの戦いー
(12月18日~翌年1月25日)
→西部戦線(ペルギー、アルデンヌ)でのドイツ軍
最後の反攻作戦。戦死者、ドイツ軍1万6000、英米
2万。ドイツ軍の反攻作戦は失敗、敗戦を早めた
98
年号
西暦
日本
世界
<トピックス>
◎「ムーミンの国」フィンランドの沈黙
ムーミンとサンタクロースの国、フィンランド。1939年9月28日、スターリンとヒトラーはポーランド分割協
定を結びポーランドを抹殺。スターリンは、11月、フィンランドへ兵を向けた。突然の侵攻と理不尽さに国際連盟
はソ連を除名(12月14日)、しかし、これを無視、ソ連はフィランドへの侵攻を続けた。
戦争に巻き込まれることを恐れたスウェーデンとノルウェー、フィンランドへの米英の支援を妨げた。国際社会
から見捨てられたフィンランドは敗れ、この戦い(冬戦争)でカレリア地方とハンコ半島を奪われた(1940年3月
)。当然に、頼りにならない米英でなくドイツに近づいた。40年8月、ドイツと密約を結び軍の駐留を認めた。
独ソ戦が始まった1941年6月22日、フィンランドは中立を表明、ソ連からの攻撃を避けようしたが受け容れら
れず、ソ連は領内のドイツ軍を攻撃する名目でフィンランド国内を空爆。やむなくフィンランドはソ連へ宣戦布告
(6月26日)。一方、米英は国内にドイツ軍を駐留させるフィンランドを枢軸国と同視、「軍事同盟ではない」との
釈明を拒否。イギリスはフィンランドへ宣戦布告(12月6日)、フィンランドは枢軸国側として戦うはめになった。
そんな背景から、ソ連に宣戦布告して以来の対ソ戦をフィンランドは「冬戦争」の継続、「継続戦争」と呼ぶ。
1942年1月、ヒトラーと同罪の第2次世界大戦・侵略戦争の発起人スターリンのソ連、いつの間にか連合国の
四大国に収まり、フィンランドに挑んだ。なにも好んで、枢軸国側に立っての参戦でなかったフィンランド、早々
に講和の道を探し1944年9月ソ連と休戦。しかし、国内に残ったドイツ軍の掃討を要求され、ドイツ軍とラップラ
ンドで戦った。
第2次世界大戦後、戦勝国として国連の安保理の常任理事国に収まったソ連。ヒトラーとともにポーランドを侵
略・割奪した違法は問われず、戦勝国としての勝利の果実でフィンランドを従え領土的野心を遂げた。
以来、フィンランドは口を閉ざすムーミンの姿、そのままに黙った。
1995年、欧州連合(EU)へ加盟、しかし、対立の火種となるNATOには加盟していない。
穏やかで、静かな北欧の国
昭和18年
1943
○ニューギニア、ブナ・ゴナの戦い(1月21日)
◇米・英、中華民国の租借地を放棄・返還
(1月11日)
→日本軍、大敗
●首相 東條英機
→当時、日本に占領されていた大陸での租借地を返還、
○ガダルカナル島、撤退(2月1日)
反日の中華民国人の心情に応える
○山本五十六連合艦隊司令長官、戦死(4月18日)
◇スターリングラード(ヴォルゴグラード)攻防
戦でドイツ第6軍降伏(2月2日)
○アッツ島 2600 人余の日本軍、玉砕(5 月 29 日)
→ドイツ軍捕虜6万人が役務賠償を名目に強制労働。
戦後、生還出来た生存者は5000人余
○呉港沖の桂島に停泊中の軍艦「陸奥」、爆発事故に
より沈没(6 月 8 日)
◇米国陸軍のアイゼンハワー将軍、ヨーロッパ戦
線での連合国総司令官に就任(2月11日)
○キスカ島、撤退(7 月 29 日)
◇ソ連、コミンテルン、解散(5月15日)
○米国海軍の魚雷艇と日本の駆逐艦「天霧」が衝突、
魚雷艇の艇長ジョン・F・ケネディ、負傷
(8 月 17 日)
→「英米からの支援の見返り」と、スターリン、資本
主義体制の打倒を目指す国際組織「コミンテルン」
を廃止
99
年号
昭和18年
西暦
1943
日本
世界
○上野動物園、園内の動物を殺処分(9 月 2 日)
◇独ソ戦、クルスクの戦い(7月4日~8月27日)
→双方で6000両を超す史上最大の戦車戦。
●首相 東條英機
○「学徒出陣壮行早慶戦」、戸塚球場(10 月 16 日)
ドイツ軍が勝利(ソ連は半数の1500両、ドイツ
軍500両を失う)。しかし、この直後、米英連合
○「学徒出陣壮行会」、明治神宮外苑競技場
軍がシチリアへ上陸。ドイツ軍は南北から挟撃され
(10 月 21 日)
、戦力は分散、この勝利を最後に独ソ戦はソ連優位
へと展開
○徴兵年齢、19 歳へ引き下げ(12 月 24 日)
◇米英連合軍、シチリア島へ上陸(7月10日)
◇イタリア、ムッソリーニ失脚、ピエトロ・バド
リオ、首相に就任(7月25日)
◇イタリアのバドリオ政権、ドイツに宣戦布告
(10 月 13 日)
◇インド、スパス・チャンドラ・ボース、
「自由インド仮政府」の樹立、宣言(10月21日)
◇連合国救済復興機関(アンラ)、設立
(11月9日)
→ドイツの支配から解放された国への復興支援策の
実施機関。しかし、対ドイツ戦での「戦闘」以外で
思惑・考え方が違う連合国間の対立表面化、戦後の
「冷たい戦争」への契機となる
◇米・英・中、カイロ宣言(11月22日)、
→「日本の無条件降伏」、「満州・台湾・澎湖諸島の
中国への返還」、「朝鮮の自由と独立」が確認。
対日方針はポツダム宣言へ継承
◇ユーゴスラビア連邦人民共和国、建国
(11月29日)
→枢軸国への抵抗運動の指導者チトー、「各民族の
自主的・分権的統合」「米ソいずれに属さない非同
盟」「労働者自主管理制度」を掲げ、
ユーゴスラビア(「南スラブ人の国」)を建国
100
年号
昭和17年
西暦
1942
日本
世界
○マニラ占拠(1 月 2 日)
◇米国、アルカディア宣言(1月1日)
→米英ソ中を4大国、その他26カ国による「連合国共
●首相 東條英機
○セレベス島へ上陸(1 月 11 日)
同宣言」。各国が軍事・経済資源のすべてを挙げ枢軸
国と戦い、単独の休戦・講和を行わないことを定め
○シンガポール、陥落(2 月 15 日)
た。この宣言で「連合国」の用語が使われた
○バリ島沖海戦(2 月 20 日)
◇ドイツ、ヴァンゼー会議(1月20日)
→ドイツ首脳が欧州ユダヤ人の殺害を決定
○スラバヤ沖海戦(2 月 27~28 日)
◇日系人の強制収容、始まる(2月19日)
○バタビア沖海戦(2 月 28 日~3 月 1 日)
→ルーズベルト大統領、大統領令9066号へ署名。
在米12万人余の日系人ばかりを強制収容所へ隔離
○ジャワ島上陸(3 月 1 日)
・監視
○ラングーン(ヤンゴン)占領(3 月 8 日)
◇マッカーサー、フィリピンを脱出(3月12日)
○空母発着の米陸軍機、東京、名古屋、神戸などへ
◇英ソ、相互援助条約(5月26日)
初の空襲(4 月 18 日)
◇米ソ、武器貸与協定(6月11日)
○コレヒドール島の米軍、降伏(5 月 7 日)
◇オランダ、アンネ・フランク、日記をつけ始め
○珊瑚海海戦(5 月 7~8 日)
る(6月14日)
○ミッドウェー海戦(6 月 5~7 日)
◇ドイツ、スターリングラード(ヴォルゴグラー
ド)へ侵攻(6月28日~翌年2月2日)
○関門トンネル、貨物開業(7 月 1 日)
→レニグラードとモスクワ攻略の遅れを取り戻すた
めの侵攻作戦。コーカサス油田の獲得と工業地帯
○第 1 次ソロモン海戦(8 月 9 日)
スターリングラードの破壊でソ連政府の命脈を
絶つ作戦
○第 2 次ソロモン海戦(8 月 24 日)
◇米国、マンハッタン計画(原爆開発)、始まる
○南太平洋海戦(10 月 26 日)
(8月13日)
○第 3 次ソロモン海戦(11 月 12~15 日)
◇連合国軍、北アフリカへ上陸(11月8日)
○汪兆銘南京政府主席、来日(12 月 20 日)
◇米国、シカゴ大学、ウランの核分裂に成功
(12月2日)
101
年号
昭和16年
西暦
1941
●首相 近衛文麿
日本
世界
○海軍航空部隊、昆明、空爆(1 月 2~3 日)
◇独ソ不可侵条約、更新(1月10日)
○野村駐米大使、赴任(1 月 23 日)、ルーズベルト
◇ドイツのロンメル将軍、北アフリカでイギリス
1940 年 7 月 22 日~
大統領と初会談(2 月 14 日)
軍を撃破(4月3日)
1941 年 10 月 18 日
○野村駐米大使とハル国務長官との日米交渉
●首相 東條英機
(3 月 8 日)
◇ドイツなど枢軸国、ユーゴスラビア、ギリシャ
へ侵攻(4月6日)
1941 年 10 月 18 日~
1944 年 7 月 22 日
○治安維持法、全部改正(3 月 10 日)
◇ソ連、リトアニア人1万6000人余をシベリアへ
強制追放(6月14~18日)
○日ソ中立条約、 調印(4 月 13 日)
→「相互不可侵」・「軍事行動での相互の中立」・「有効期間
5 年」とする本文と満州国及びモンゴル人民共和国の
領土の保全と相互不可侵の声明書から成る条約
◇ドイツ、ソ連へ侵攻(6月22日)
→6週間ほどでソ連は降伏するとの見込みで始まった
侵攻(バルバロッサ作戦)。
ポーランド分割で国境線を接し合うこととなった
ちゅうげん
ソ連との対立が背景。フランス戦での圧勝を機に
○中 原 会戦(5 月 7 日~6 月 15 日)
→山西省南部で起こった北支那方面軍と中国軍(国民革命
ヒトラー、ウクライナ穀倉地帯の獲得を目論み侵攻。
軍)との戦闘。結果、華北における中国軍が一掃され、
北方、中央、南方の三軍団、レニングラード、
共産勢力が進出
ミンスク、キエフへ侵攻
○重慶、空爆(5 月 27 日~8 月 31 日)
◇チャーチル、スターリンへ対ドイツ共同戦線を
提唱(6月22日)
○ドイツ、日本へ「対ソ戦」を申し入れ、日本、拒否
(6 月 30 日)
◇フィンランド、継続戦争
(6月25日~1944年9月19日)
○フランス領 インドシナへ進駐(7 月 28 日)
→冬戦争でソ連に占領された旧地(カレリア地方と
ハンコ半島)奪還への戦い
○豊田外相、日米首脳会談を要請(8 月 18 日)
◇ハンガリー、ソ連へ宣戦布告(6月27日)
ひとかっぷわん
○南雲機動部隊、単冠湾に集結(11 月 23 日)
◇米国、ルーズベルト大統領、中国への米国人
○大本営連絡会議、「ハル・ノート」を日本に対する
最後通牒」と結論、戦争の準備を決定
義勇空軍の配置を認め、米国による軍事援助を
表明(7月23日)
(11 月 27 日)
◇米国、在米日本資産、凍結(7月25日)
◇イギリス、在英日本資産、凍結(7月26日)
102
年号
昭和16年
西暦
1941
日本
世界
○太平洋戦争、始まる(12 月 8 日)
◇米国、フィリピンに極東米国軍を設置。
→日本陸軍のマレー半島コタ・パルへの上陸(マレー作戦)
●首相 近衛文麿
と日本海軍航空隊による真珠湾へ奇襲攻撃
司令官にダグラス・マッカーサー、就任
(7月26日)
●首相 東條英機
○マレー沖海戦、グアム島占領、ルソン島へ上陸
◇米国、石油の対日輸出全面禁止、発表
(12 月 10 日)
(8月1日)
○政府、戦争名を、支那事変を含め「大東亜戦争」と
◇米英、北大西洋憲章、調印(8月14日)
呼ぶことに決定(12 月 12 日)
→大西洋上、大戦に参戦していない米国巡洋艦オーガ
スタでルーズベルトとチャーチル、
「領土の不拡大」
「
○ボルネオ島、上陸(12 月 16 日)
民族自決」など8ヵ条からなる米英両国の共通目的・
○呉海軍工廠、戦艦「大和」、竣工(12 月 16 日)
行動指針を合意。
米国はニューファンウドランドからアイスランド
(北大西洋)水域間での全艦船・中立国船舶の護衛、
○ウェーク島、上陸(12 月 22 日)
当該水域での枢軸国側艦船への砲撃を決め、
事実上、枢軸国との「宣戦布告なき戦争」へ突入
◇米国、日米首脳会談の要請を拒否(9月3日)
◇ソ連、キエフ陥落、50万人余のソ連兵、捕虜と
なる(9月26日)
◇第1回モスクワ会談(9月29日~10月1日)
→スターリン、米国代表ハリマン(後の特命全権
大使)、英国情報大臣ビーバーブルックによる会談。
米英、ソ連への援助を決定
◇ハル・ノート(11月26日)
→ハル国務長官、日本側提案の乙案を拒否、
中国大陸からの撤兵を要求
◇イギリス、フィンランド・ハンガリー・
ルーマニアに対し、宣戦布告(12月6日)
◇中華民国、対日宣戦布告(12月10日)
◇米国、アルカディア会談
(12月22日~1942年1月14日)
→「連合国」結成を同意
103
年号
西暦
日本
世界
<トピックス>
◎背より腹のチャーチルと渋るルーズベルト
1940年夏、ドイツのイギリスへの空襲(ブリトン・オブ・バトル)を耐えるチャーチル、参戦を躊躇う米国への
働きかけを急いだ。前年の9月、ドイツのポーランド侵攻から二日後、米国大統領ルーズベルトは「平和の消灯はない
であろう」と中立の維持を表明、米国民を安心させた。とはいえ、この年の6月、フランスは、たちまちに、ドイツに
降伏、今、イギリスへの侵攻を本格化させるドイツに、その後を思わぬ者はいなかった。
9月、英国と「駆逐艦・基地協定」を結び、ドイツと交戦中の国にあらゆる援助を与える「非交戦」へ政策を転換。
翌(41)年8月の大西洋憲章を境に、北大西洋水域での枢軸国戦艦への砲撃を命令、
「宣戦なき戦争」へ米国は突入
する。
余事になるが、この時、枢軸国側に立っていた日本が三国同盟をそのままに対米戦回避を試みたのはどうだったの
だろうか。
「宣戦なき戦争」に舵をきった米国にとって日本の対米交渉は日本の陽動・不審以外のなにものでもなかっ
たはずだ。日中戦争に米国を巻き込もうとルーズベルト一家に取り入る蒋介石、日本のこうした動きをほくそ笑んで
いたかも知れない。
ヒトラーが独ソ戦(バルバロッサ作戦)を開始したその日(41年6月22日)、チャーチルは「自分の家庭のために
戦うというロシアの言い分は、まさに、地球のあらゆる地方における自由な人間及び自由な人民の主張・・・。ロシ
アの危険は・・・我々の危険でもあり、・・・合衆国の危険でも・・・」とスターリンを誘った。
反応は早かった。
奇しくも、キエフが陥落した41年9月のモスクワ。
イギリスの前情報大臣ビーバーブルック、米国の政務外交官ウィリアム・ハリマン、スターリンの三人はモスクワで
会談。米英はソ連へ軍事援助を、ソ連は米英との大同盟への参加を約した。
1942年1月1日、英米ソ中は連合国の四大国として枢軸国と戦うことを表明。イギリスと軍事援助協定(5月)を、
米国による武器貸与協定(6月)でソ連はそれぞれから軍事・経済援助を受ける一方、米英との楔となっていたコミン
テルンを廃止(43年5月15日)、共通の敵、ドイツ打倒の大同盟で結んだ。
しかし、ドイツが倒れようとした時、戦後処理での分け前への思惑が姿を現し、連合国の間は冷え切った。
ドイツ敗退後のアテネの戦い(44年9月~45年2月)が「冷たい戦争」の予兆だった。
昭和15年
1940
○敵性語の追放、始まる(3 月 28 日)
◇アルトマルク号事件(2月16日)
→イギリス軍、中立国ノルウェーの領海でドイツの
●首相
阿部信行
○重慶、空爆(5 月 18~9 月 4 日)
タンカーに閉じこめられていたイギリス人捕虜を
1939 年 8 月 30 日~
救出
1940 年 1 月 16 日
○陸軍首脳、陸軍大臣の畑俊六に辞職を勧告
(7 月 4 日)
◇ドイツにオランダ降伏(5月15日)
●首相 米内光政
→和平派の米内内閣倒閣への策動
1940 年 1 月 16 日~
◇ドイツにベルギー降伏(5月28日)
1940 年 7 月 22 日
○荻窪会談(7 月 19 日
→近衛文麿、松岡洋右、東條英機、吉田善吾ら、
◇英仏軍、ダンケルクを脱出(6月4日)
●首相 近衛文麿
新東亜秩序の建設・対米強硬の方針を確認
1940 年 7 月 22 日~
◇ドイツ、対仏総攻撃、開始(6月5日)、
1941 年 10 月 18 日
パリ入城(6月13日)
104
年号
西暦
昭和15年
1940
日本
世界
○立憲民主党、解散(8月15日)
◇ドイツにフランス降伏(6月22日)
→議会制民主主義、停止
→フランス、僅か十日余りの戦闘で10万人の戦死傷者
●首相 阿部信行
を出し降伏。独ソ不可侵条約を後ろ盾にしたドイツ
○日独伊三国軍事同盟、成立(9 月 27 日)
軍の猛攻に士気を失ってのことという
●首相 米内光政
○日本の人口、7311万人余(10 月 1 日)
●首相 近衛文麿
◇英独空戦―バトル・オブ・ブリテン―
(7月10日~11月)
○大政翼賛会、 発足(10 月 12 日)
→英国本土上陸作戦の前提、制空権を奪うため
戦闘機2600余機でイギリスを襲う。
「バトル・オブ
○紀元二千六百年記念祝典(11月10~14日)
・ブリテン」の始まり。戦闘機が半分に満たない
イギリス空軍、善戦。ドイツ側の慢心と一貫しない
侵攻作戦でドイツの侵攻は失敗
◇リトアニア、カウナス日本領事館副領事
ちうね
杉原千畝。ユダヤ難民へ通過ビザ、発給
(7月18日~8月31日)
◇米国、英国と駆逐艦・基地協定、締結
(9月2日)
→ニューファンドランド島、英領西インド、英領ギニ
アに米国の海空軍基地を置く代償に駆逐艦50艘を
イギリスへ供与。
米国、昨年までの「中立政策路線」からドイツ
と交戦するすべての国に援助を与える「非交戦」へ
と政策を転換、「宣戦なき戦争」が始まる
◇ソ連、バルト海3国へ進駐、併合
→エストニア(9 月29日)、 ラトビア(10月5日)、
リトアニア(10月10日)
<トピックス>
◎独ソ不可侵条約へのスターリンの本音と誤算
生
存
圏
ナチスの「レーベンスラウム」とソ連の「コミンテルン」、世界戦略を全く異に敵対するヒトラーとスターリンの
二人が独ソ不可侵条約を結び、世界を驚かした。西欧とドイツとの大消耗戦を傍目に漁夫の利を狙うスターリン、
相互の不可侵と互いの軍事行動不干渉の秘密協定を結び、かつてロシア革命でレーニンが手放した東欧、バルト海
3国、北欧領の回復・奪取を目論んだ。
条約締結を前にしたスターリン、「戦争が始まれば我々は傍観しているわけにはいかない。我々は戦争に加わる。
しかし、我々は最後の参加舎でなければならない。そして、我々は、秤に重みをかけるよう参戦する・・・」と
不敵な思惑を同志に明かしていたという。
そんなスターリンの思惑を知ってか知らずか、一足早く、ヒトラーは、ソ連へ兵を向けた(1941年6月22日)。
105
年号
昭和14年
西暦
1939
日本
世界
○金製品回収・強制買付、始まる(2 月 14 日)
→軍需への資金・金属不足から個人・寺社が所有・保蔵し
●首相 近衛文麿
ていた貴金属や刀剣・梵鐘など金属製品の供出を半ば強制
◇ポーランド、ヒトラーが要求する旧ドイツ領
ダンツィヒの返還を拒絶(3月26日)
→1か月後、ドイツ、ポーランドとの不可侵条約の
1937 年 6 月 4 日~
破棄を通告
1939 年 1 月 5 日
○ノモンハン事件(5 月 11 日~9 月 16 日)
→満州国とモンゴル人民共和国の間の国境線を巡る日ソ
●首相 平沼騏一郎
間の国境紛争
◇スペイン内戦、終わる(4月1日)
→イデオロギー対立と地方の自立を巡って始まった
1939 年 1 月 5 日~
3年余りの内戦。最終的に英仏が独伊の支援を受け
1939 年 8 月 30 日
○満蒙開拓青少年義勇軍壮行会(6 月 7 日)
→屯田移民を本格化、満州での兵員補充と治安維持策を
●首相 阿部信行
た右派フランコ政権を承認(2月27日)。
4月、スペインにファシスト政権、樹立
強化
1939 年 8 月 30 日~
◇独伊軍事同盟、成立(5月22日)
1940 年 1 月 16 日
※満蒙開拓団
昭和7(1932)年から大陸政策の要としての屯田な
利用、また、昭和恐慌下での農村更生策として始まっ
た。以来、14年間に27万が移住
◇アインシュタイン=シラード書簡(8月2日)
→アインシュタイン、米国のルーズベルト大統領に
原爆の製造を促す書簡を送る
○日本、第 2 次世界大戦への不介入を表明
(9 月 4 日)
◇独ソ不可侵条約、締結(8月23日)
→ドイはポーランドでの旧領の回復と南への侵攻に
専念するため。また、ソ連はロシア革命時に失った
○石油の配給制、実施(10 月 1 日)
旧領の回復・極東ノモンハンでの日本軍に対処する
必要から条約を結ぶ。独ソそれぞれ侵略戦争を容認。
○物価統制令・時代家賃統制令、施行(10 月 20 日)
○米穀の買い上げ制、始まる(11 月 6 日)
第2次世界大戦勃発への契機となった
◇イギリス、ポーランドと同盟条約、締結
(8月25日)
◇ドイツ、ポーランド西部へ侵攻(9月1日)
→第2次世界大戦の始まり
◇米国、中立政策の踏襲を表明(9月3日)
→ドイツのポーランド侵攻に対し、ルーズベルト
大統領、「平和の消灯はないであろう」と中立の
維持を表明
◇ソ連、ポーランド東部へ侵攻(9月17日)
106
年号
昭和14年
西暦
日本
世界
1939
◇独ソ、ポーランドの分割協定、調印(9月28日)
→ポーランド国、消滅
●首相 近衛文麿
◇フィンランド・ソ連、「冬戦争」
●首相 平沼騏一郎
(11月30 日~1940年3月13日)
→独ソ不可侵条約を背景にソ連、フィンランドへ侵攻。
●首相 阿部信行
戦争に巻き込まれることを恐れ、中立の旗を掲げた
スウェーデンとノルウェー。
米英などからフィンランドへの支援援助物資を
運ぶ交通上の便宜提供を拒否。
結果、フィンランドはソ連に敗れ、カレリア地
方・ハンコ半島など東部地方を奪われた。
以来、ドイツに近づき、独ソ戦の始まりととも
に、枢軸国側となってソ連へ宣戦布告
◇国際連盟、フィンランドへの侵攻を非難、
ソ連を除名(12月14日)
昭和13年
1938
○女優の岡田嘉子、杉本良吉とソ連へ亡命(1 月 3 日) ◇ドイツ、オーストリアを併合(3 月 13 日)
●首相 近衛文麿
○近衛首相、「蒋介石を相手にせず」と表明
◇国民党政府、重慶へ遷都(6 月)
(1 月 16 日)
◇長沙放火(11 月 12 日)
→中国戦での和平工作の道を失う
→国民党軍、侵攻する日本軍へ兵糧を与えないための
○国家総動員法、施行(5 月 5 日)
焦土作戦
○徐州会戦(5 月 19 日)
◇チベット、ダライ・ラマ14世、青海の
○第 12 回東京オリンピックの開催、返上
(7 月 15 日)
○張鼓峰事件(7 月 29 日~8 月 11 日)
→満州国東南端の張鼓峰で起こったソ連との国境紛争
○広東、占領(10 月 21 日)
○武漢、占領(10 月 27 日)
○重慶、空爆(12 月 4 日)
107
タクツェで見いだされる
大正時代
(1912~1926年)
119
年号
大正15年
西暦
日本
世界
1926
○京都学連事件に初の治安維持法適用(1 月 15 日)
◇中国、中山艦事件(3月20日)
→黄埔の士官学校長の蒋介石、軍艦中山号の無断回航
~12月25日
●首相
○十勝岳噴火、死者 140 人余(5 月 24 日)
蒋介石、国民党内部で勢いづいた中国共産党幹部
加藤高明
1924 年 6 月 11 日~
を機に蒋介石ら共産党員排除に動く。
○絲屋銀行、破綻(5 月 24 日)
(葉剣英・周恩来ら)と背後のソ連共産党軍事顧問団
を追う
1926 年 1 月 28 日
○朝鮮領、6 ・10万歳運動(6 月 10 日)
●首相 若槻禮次郎
◇東トルキスタン:楊増新、南京政府を承認
→純宗の葬儀中に起こった反日暴動
(6月)
1926 年 1 月 28 日~
1927 年 4 月 20 日
○日本放送協会、設立(8 月 6 日)
◇蒋介石、北伐、始まる(7月1日)
○豊田佐吉、豊田自動織機製作所、設立
(11 月 18 日)
→軍閥らの北京政府(北洋政府)打倒、大陸統一の
ための戦役
○大正天皇、 崩御(12 月 25 日)
大正14年
1925
○日ソ基本条約の締結(1 月 20 日)
◇イタリア、ムッソリーニ、独裁を宣言
(1 月 3 日)
→ソ連を承認
●首相 加藤高明
○東京放送局、ラジオ放送の開始(3 月 22 日)
◇孫文、死去(3 月 12 日)
○新橋演舞場、開場(4 月 1 日)
◇上海五・ 三〇事件(5 月 30 日)
→上海租界地での民衆暴動
○治安維持法、公布(4 月 22 日)
◇上海、五・三〇事件へ日米伊の陸戦隊、上陸
○普通選挙法、公布(5 月 5 日)
(6 月 2 日)
→25 歳以上の男子へ選挙権付与。有権者 300 万人から
◇広東国民政府、成立、汪兆銘、首席となる
1400 万人へ拡大
(7 月 1 日)
○ジュネーブ議定書、署名(6 月 17 日)
◇トルコ、宗教団体を排除(9 月 2 日)
→化学兵器・細菌兵器の使用禁止
○京都学連事件(12 月 1 日)
◇ナチス親衛隊、設立(11 月 9 日)
→京大・同志社大などの社会科学研究会の部員逮捕
◇米国、白人至上主義団体 KKK(クー・クラック
ス・クラン)団、最盛
→構成員 600 万人余
120
年号
大正13年
西暦
1924
日本
世界
ながこ
○裕仁親王と良子女王、御成婚(1 月 26 日)
◇第1次国共合作(1月20日)
→中国国民党全国代表者大会、容共・扶助工農の方針
●首相 山本権兵衛
○成婚を記念し上野公園・上野動物園を東京市へ下賜
を採択
1923 年 9 月 2 日~
(1 月 28 日)
1924 年 1 月 7 日
◇ソ連、レーニン、死去(1月21日)
○人工河川・荒川放水路(今の荒川)と隅田川
●首相 清浦奎吾
(かつての荒川)を分ける岩淵水門(赤門)、完成
◇第1回シャモニー冬季オリンピック
(10 月 12 日)
(1月25日~2月25日)
○孫文、神戸で大アジア主義を説く(11 月 28 日)
◇パリオリンピック(5月4日~7月27日)
1924 年 1 月 7 日~
1924 年 6 月 11 日
●首相
加藤高明
→演説の中で「西洋覇道の走狗となるか、東洋王道の
1924 年 6 月 11 日~
◇米国、排日移民法、成立(5月28日)
守護者となるか」と日本を問う
1926 年 1 月 28 日
◇奉直戦争、終わる(11月1日)
→張作霖、直隷派(馮国璋)と戦い、北京(北洋)
政府を掌握
※直隷
皇帝(政府)に直接隷属するとの意。天津市、
北京市、河北省を清朝の時代、直隷省と呼んだ
大正12年
1923
○北一輝、「日本改造法案大綱」を発表(5 月 9 日)
◇フランス・ベルギー、ルール地方占領
(1 月 11 日)
→北一輝、辛亥革命に宋教仁らと参加。
●首相 加藤友三郎
大正 9 年に帰国、政府改造の大綱を書き上げる。
→第 1 次世界大戦の賠償の履行を求め、フランスと
進歩的な内容で言論の自由、華族の廃止、財閥解体、
ベルギー、ドイツ領のルール地方を実力占領
1922 年 6 月 12 日~
1923 年 8 月 24 日
農地解放、普通選挙、男女平等など戦後の GHQ による
こうさい
●首相 内田康哉
民主改革を先取りした著作。このため一方の反体制派の
首魁と目され弾圧を受ける。二・二六事件の首魁の一人
◇孫文、ソ連代表ヨッフェと会談、ソ連共産党と
結ぶ(1 月 26 日)
1923 年 8 月 24 日~
として逮捕され、刑死
1923 年 9 月 2 日
◇第 1 回ル・マン24時間耐久レース、開催
○首相、加藤友三郎、急死(8 月 24 日)
(6 月 26 日)
○関東大震災(9 月 1 日)
◇トルコ、協商側とローザンヌ条約(7 月 23 日)
●首相 山本権兵衛
1923 年 9 月 2 日~
1924 年 1 月 7 日
→罹災者 340 万人以上、死者 10 万人余、東京の 4 分の 3
が被災
→以後、トルコ共和国、オスマン=トルコ帝国に
代わる国家として承認される
○虎ノ門事件(12 月 27 日)
◇トルコ、共和制を宣言(10 月 29 日)
→社会主義者、虎ノ門外で摂政宮・裕仁親王を狙撃。
◇ネパール、イギリスから独立(12月21日)
29 日、山本内閣総辞職
121
明治時代
(1868~1912年)
―王政復古から―
134
年号
西暦
明治45年
1912
日本
世界
○白瀬隊、南極点到達を断念(1月28日)
◇孫文、南京で中華民国の建国、臨時大総統に
就任(1 月 1 日)
~7 月30日
さ い お ん じ き んもち
●首相 西園寺公望
1911 年 8 月 30 月~
○尾崎行雄東京市長、ワシントン市に桜の苗木3000
本を贈る(3月27日)
◇愛親覚羅溥儀、退位、清朝、滅亡(2 月 12 日)
→満州族の習慣「弁髪」の強制がなくなり、床屋と
帽子屋が繁昌したという
1912 年 12 月 21 日
○夕張炭鉱爆発事故、死者276人(4月29日)
◇袁世凱、孫文に代わり、中華民国臨時大総統に
●首相 桂 太郎
就任(3 月 10 日)
1912 年 12 月 21 日~
1913 年 2 月 20 日
○オリンピックへ日本、初の参加(5月5日)
◇タイタニック号、沈没(4 月 15 日)
○日蓮宗富士派、日蓮正宗と改称(6月7日)
→北大西洋上で氷山に衝突(14 日未明)。
乗客・乗員 2200 人中 1500 人余、死亡・行方不明
○明治天皇、崩御(7月30日)
◇ストックホルムオリンピック
(5 月 5 日~7 月 27 日)
◇米国、アラスカのカトマイ山、噴火(6月6日)
明治44年
1911
○大逆事件判決、下る(1 月 8 日)
◇清国、鉄道国有化令、発布(5 月 9 日)
→幸徳秋水ら24人に死刑判決
●首相 桂 太郎
◇ペルー、米国人探検家ハイラム・ビンガム、
1908 年 7 月 14 日~
○日米通商航海条約、調印(2 月 21 日)
インカのマチュ・ピチュの遺跡、発見(7 月 24 日)
1911 年 8 月 30 日
→日本、関税自主権、ようやく得る
◇イギリス、議会法、成立(8 月 18 日)
●首相 西園寺公望
○初の洋式劇場、帝国劇場、開場(3 月 1 日)
→下院の優越が法制化される
1911 年 8 月 30 日~
1912 年 12 月 21 日
○長野県、稗田山崩れ(8 月 8 日)
◇イタリア・ トルコ戦争(9 月 29 日)
→日本史上最大級の山崩れ。死者 26 人
→北アフリカのトルコ帝国領を巡りイタリア、トルコ
に宣戦布告
○平塚らいてい、文芸誌「青鞜」、創刊(9 月 1 日)
◇辛亥革命、勃発(10 月 10 日)
→財政危機を乗り越えるための鉄道国有化に反対す
る鉄道事業者(漢族大資本家たち)の抵抗運動
(武昌新軍)から革命へと発展
◇ノルウェー、ロアール・アムンゼン、
南極点への初の到達(12 月 14 日)
◇孫文、中華民国臨時大総統に就任(12 月 29 日)
135
年号
明治43年
西暦
1910
日本
世界
○逗子開成中学の生徒12人、遭難(1月23日)
◇日露両国、米国提案の南満州鉄道の中立化を
拒否(1 月 21 日)
●首相 桂 太郎
→歌謡「真白き富士の根」創作の由来
◇チベット:趙爾豊の四川軍、ラサへ侵攻、
○伊藤博文暗殺犯、安重根へ死刑判決(2月14日)
○ロンドンで日英博覧会開催(5月14日~10月29日)
ダライ・ラマ 13 世、インドへ亡命(2 月)
◇清国、銀本位制、導入(4 月 16 日)
◇清国、四国借款団(英・米・独・仏)からの
○ハレー彗星、地球へ接近(5月19日)
融資(5 月 23 日)
→粤漢鉄道と川漢鉄道の国有化とこれらを担保に
600 万ポンドの融資を受ける
○大逆事件(5月25日~6月1日)
→社会主義者幸徳秋水ら明治天皇の暗殺を謀議
○明治43年関東大水害(8月14日)
→梅雨末期の前線の活動と前後した二つの台風の接近に
よる大雨が関東地方を襲う。死者・行方不明者850人
余、被災家屋5000戸、被災者150万人
○韓国併合条約、発効(8月29日)
○呉服橋駅(東京駅の仮駅)、開業(9月15日)
のぶ
○白瀬矗、南極探検(11月29日~1922年6月20日)
○徳川・日野大尉、日本初の動力飛行(12月19日)
明治42年
1909
○東京両国に国技館、落成(6 月 2 日)
◇全米黒人地位向上協会、設立(2 月 9 日)
○大韓帝国の併合、閣議決定(7 月 6 日)
◇米国、ウィリアム・タフト大統領に就任
●首相 桂 太郎
(3 月 4 日)
カントウ
○満州及び間島に関する日清協定(9 月 4 日)
◇米国、真珠湾に海軍基地、建設(11 月 11 日)
○伊藤博文、暗殺(10 月 26 日)
→安重根、哈爾浜駅で銃撃。伊藤博文、国葬(11 月 4 日) ◇大韓帝国、政治結社一進会、
「韓日合邦を要求す
る声明書」上奏(12 月 4 日)
136
年号
明治41年
西暦
1908
日本
世界
○移民に関する日米紳士協約、締結(2 月 18 日)
◇ロンドンオリンピック
(4 月 27 日~10 月 31 日)
→米国への新規移民の禁止を約す
●首相 西園寺公望
1906 年 1 月 7 日~
○東京大久保、出歯亀事件(3 月 22 日)
◇トルコ、青年トルコ人革命(7 月 3 日)
○池田菊苗、「グルタミン酸を主成分とする調味料
◇米国、T型フォード発売(10 月 1 日)
1908 年 7 月 14 日
●首相 桂 太郎
製造法」、特許登録(7 月 25 日)
1908 年 7 月 14 日~
◇オーストリア、ボスニア=ヘルツェゴビナを
→翌年、「味の素」を発売
1911 年 8 月 30 日
併合(10月8日)
○第 1 回日米野球大会」(11 月 22 日)
→オーストリア=ハンガリー帝国、オスマン帝国での
「青年トルコ人革命」に乗じ、ボスニア=ヘルツェ
ゴビナを併合
◇清国、西太后、光緒帝を殺害(11 月 14 日)
◇愛親覚羅溥儀(宣統帝)、即位(12 月 2 日)
<トピックス>
◎近代化への道Ⅱ―中国編(清朝の滅亡を早めた西太后)―
カンポウテイ
ア イ シ ン カク ラ サイジュン
イ
西太后。清朝 9 代皇帝、咸豊帝の后、同治帝の母。1856 年、咸豊帝の長男、愛新覚羅 載 淳 を生み、懿貴妃に就く。
サイジュン
咸豊帝が亡くなる(1861 年)と西太后、政治の実権を手にするため側近たちを粛正。載 淳 を即位(同治帝)させ、
エキケン
ジュン
自らは後見として垂簾政治を執った。同治帝 18 歳で病死。西太后、子の無い同治帝の跡に妹と奕譞( 醇 親王、先帝
サイテン
の孫)との第 2 子載湉を皇帝(光緒帝)に就けた。
この頃、廟内に西欧列強に対抗するための改革運動「洋務運動」と日本の明治維新を倣った体制の抜本的変革を目
指す「変法運動」が始まる。西太后は洋務運動を、光緒帝は変法運動を支持、対立を深めた。表向き政権の座からは身
イ ジ
を退いたが、大変革を嫌う西太后、李鴻章らを中心に保守な洋務運動を進め、「懿旨」を勝手に出すなどして内政の混
乱を招いた。
日清戦争での敗北を機に光緒帝は本格的な変法運動を進めようとするが、保守派に支持された西太后、寵臣の栄禄
に軍を預け光緒帝側との対立を先鋭化。一方、光緒帝側も康有為・ 梁啓超、袁世凱らで対抗、そんな矢先、袁世凱は
光緒帝を裏切り、光緒帝側のクーデターを密告、西太后に寝返った。
西太后は宮中に乗り込み光緒帝を幽閉、3 度目の垂簾政治を執る。光緒帝廃位の好機と西太后、先帝の道光帝の孫・
溥儁を建てようと画策。しかし、清朝の開国を期待し廟内に影響力を及ぼし始めていた西欧列強の公使たちが反対。
内政に干渉する欧米を嫌った西太后、義和団を焚きつけ宣戦布告、各国の公使館を襲わせた。
西欧列強の近代化された軍の前に義和団は 2 カ月も立たぬうちに首都北京と紫禁城は制圧された。身に危険の及ぶ
ことを恐れた西太后、後事を李鴻章に任せ貧しい身なりに変え光緒帝を引き連れ密かに城から逃れ西安へと落ちた。
翌年の 9 月、講和が成り、身に塁の及ぶことがないと知った西太后は北京に帰った(1902 年 1 月)。
ようやく、 時代の変化を悟った西太后、法改革を基本に諸所の配慮を加えた光緒新政を始める。
1905 年、立憲への移行を含む「預備立憲」の上諭を下し(光緒新政)、本格的な改革に乗り出したが、光緒帝との
対立は解けず、光緒帝を毒殺、翌日、自らも命を絶った(1908年 10 月22日)。
サイホウ
フ ギ
ラストエンペラー
西太后の遺言により、光緒帝の弟、載澧の長子・溥儀、最後の皇帝に立つ。
137
年号
明治40年
西暦
1907
日本
世界
○株式暴落、戦後恐慌の始まり(1 月 21 日)
◇大韓帝国、ハーグ密使事件(4月~7月)
→大韓帝国の高宗、ハーグへ密使を派遣。日本からの
)
●首相 西園寺公望
○足尾銅山で労働争議(2 月 4 日)
解放を訴えようとしたが、外交権のない大韓帝国の
主張は受け入れられず説得は失敗。
○
○義務教育、6 年制、決まる(3 月 21 日)
○日仏協約(6 月 10 日)
7月20日、高宗、譲位、純宗、即位
◇オランダ、ハーグ、第 2 回万国平和会議
(6 月 17 日~10 月 18 日)
→清国での両国の勢力範囲を確認
○第3次日韓協約(7月24日)
◇英露協商(8月31日)
→保護国大韓帝国のハーグでの顛末を受け、内政権
(軍事・警察・司法・行政)日本の管轄と決まる
→イラン、アフガニスタン、チベットでの両国の勢力
範囲を確認し合い、長年の対立を解消。軍艦への
重油燃料切り替えを急ぐイギリス、秘かに進めてい
○台湾領、抗日蜂起、北埔事件起こる(11 月 14 日)
たペルシャでの原油確保を本格化させる
<トピックス>
◎清国・ロシアからの防衛戦―日清・日露戦争―
1721年、大北方戦争でスウェーデンに勝利、バルト海での覇権を手にしたロシアのピョートル皇帝(大帝)は植民
地の獲得活動を本格化させる。それが南下政策。
植民地獲得競争の後進国ロシア、海路ではかつての「ヴァイキングからギリシャ人への道」、黒海から地中海を、
陸路は中央アジアから東トルキスタン・清国へ、さらに、ベーリング海峡を越えアラスカ、カリフォルニア半島を窺っ
た。1739年のロシア艦の陸奧・安房への出現は手つかずの日本を狙った探索だった。以来、ロシアは幕末まで何度と
なく日本を窺い、幕府と衝突した。
ロシア、ネルチンスク条約(1689年)で清国と初めての国境線を定めて以来、アングン条約(1858年)、北京条
約(1860年)で満州へ進出、沿海州を手に入れ、この年の中に軍港ウラジオストクを開港。
くさび
翌年、ロシアは清国で伸張するイギリスへの 楔 ・日本攻略の拠点、対馬の占拠を企て、極東進出を本格化(対馬露
寇)。だから、当時、イギリスが幕府を助ける形でロシア艦を追ったのは、自国の国益ばかりの行動だった訳だ。
明治維新を機に清国・朝鮮との同盟でロシアの脅威を除こうとした日本だったが、册封体制の下、鎖国の李氏朝鮮、
蛮夷に脅され開国したと日本を嘲笑・侮蔑、外交関係をこじらせた。折しも、朝鮮は義父の大院君と嫁の妃閔氏との
痴話喧嘩、その争いに日本・清国を巻き込んだ。
西欧流の力ずくの外交術を身につけ始めた日本、在朝の日本人居留民保護を巡り清国と対立。
戦ったのが日清戦争(1894~1895年)。 日清戦争で敗れた清国宰相・李鴻章、日本への報復と、翌年、南下を
目論むロシアへ近づき、露清密約でウラジオストクへ直結する東清鉄道用地を(1896年6月)、さらに、2年後、
遼東半島の旅順港を提供しロシアへ荷担した。
一方の李氏朝鮮、宗主国の清国の保護失うとロシアへ近づき、月尾島にロシア海軍基地を、馬山へ石炭貯炭所、
蔚山に捕鯨のためとロシアに基地用地を提供、日本を危うくした。この時、ロシアは、既に、万里の長城から北の満州
へと進出していた。
これ以上の南下を抑えようと伊藤博文、日露の間の新たな協商(満州をロシアへ、朝鮮を日本へ)で妥協を図ろう
としたがロシアは譲らず、朝鮮半島をも要求。交渉は決裂し、日露戦争が始まった。
戦後、ロシアの勢いは衰えたものの、南下への意欲は収まらず、日本を窺った。
日本は朝鮮半島から満州へ進出、ロシアの南下に備えた。それが、日本が大陸へ進出した背景。
138
江戸時代
(1603~1867年)
―江戸幕府開幕から大政奉還まで―
173
年号
西暦
けいおう
慶応 3年 1867
日本
世界
むつひと
◇清国、八戸事件(1月17日)
○睦仁親王(14 歳)、践祚(1 月 9 日)
→清国の広州で発刊されていた「中外新聞」に掲載され
※以下、日本史
については旧暦
あきたけ
○徳川昭武(最後の水戸藩主)、幕府代表として渋澤栄一
た「八戸順叔」という香港在住の日本人寄稿の征韓論。
らを随え、渡仏(1 月 11 日~慶応 4 年 11 月 3 日)
後に、朝鮮に問題視された最初の外交事件。しかし、
八戸の人物及び投稿した記事ともに存否・真偽は不明
※元年での
前年の年号
○岩倉具視らによる倒幕の密勅、薩摩藩・長州藩へ下る
→薩摩藩(10 月 13 日)。翌日、長州藩へ下る
表記は割愛
◇オーストリア、ヨハン・シュトラウス2世、
ワルツ「美しき青きドナウ」初演(2月15日)
○大政奉還を出願(10 月 14 日)
→晋墺戦争の敗北で消沈するウィーン市民を慰めるため
→徳川慶喜、朝廷に政権の返上を請う
○大政奉還(11 月 10 日
に作曲されたという
慶応 3 年 10 月 15 日)
で購入(3月30日)
→徳川慶喜、朝廷に政権の返上、許される
○徳川慶喜からの将軍職の辞職、許される
(11 月 19 日
◇米国、 ロシア帝国よりアラスカ州を720万ドル
◇パリ万博(4月1日~10月31日)
慶応 3 年 10 月 24 日)
◇北ドイツ連邦、樹立(4月26日)
○坂本龍馬・中岡慎太郎、暗殺
(12 月 10 日
→プロイセン王国を主体に22の領邦による同盟政体
慶応 3 年 11 月 15 日)
◇アルフレッド・ノーベル、ダイナマイトの特許を
取得(5月7日)
◇オーストリア=ハンガリー帝国、成立(5月29日)
◇マルクスの「資本論」、刊行始まる(~1894年)
慶応 2年 1866
○薩長連合の密約、成る(1 月 22 日)
◇東トルキスタン:清朝、左宗棠を陝西・甘粛での
回民の反乱鎮圧へ派遣
○第 2 次長州征伐の勅許、下る(1 月 22 日)
◇晋墺戦争(6月15日~8月23日)
○第 2 次長州征伐(6 月 7 日)
→ドイツ領邦の盟主を巡ってのプロイセン王国とオース
トリア帝国(ハプスブルグ家)との戦い。
○亀山社中、下関海戦へ参戦、長州藩を支援
(6 月17日)
プロイセン宰相ビスマルクと陸軍参謀長大モルトケ
の活躍でプロイセン、大勝。
プラハ条約でオーストリア帝国と講和(8月23日)。
○大坂城で将軍・徳川家茂、死去(7 月 20 日)
以後、ドイツ領邦の統一はプロイセン王国を中心に
進む
174
年号
慶応 2年
西暦
1866
日本
世界
○荒神山の喧嘩(4月)
◇シャーマン号事件(8 月 16 日)
かんべのながきち
→伊勢国荒神山(鈴鹿市高塚町観音寺)での博徒神 戸 長 吉 と
あのうとく
→米国の商船ジェネラル・シャーマン号、朝鮮の近海
穴太徳との縄張り争い。神戸側 22 名と穴太徳側 130 余名
を航行中、朝鮮側の奇襲により船を沈められ、船員全
が荒神山で喧嘩。
員が殺害
き ら の にき ち
神戸側の吉良仁吉の死に、仁吉の兄弟分清水次郎長が東海
道の博徒ら大勢を引き連れ威嚇、穴太徳側を抑えたという
○第 2 次長州征伐、止戦の勅令下る(8 月 20 日)
→幕府軍、敗れる
◇清国、孫文、誕生(11 月 12 日)
◇ノーベル、ダイナマイト、発明
→クリミア戦争当時、ノーベル一家、ロシアから機雷
の敷設を請け負い、財を成す。それを元手に、爆薬の
○一橋慶喜、15 代将軍となる(12 月 5 日)
研究を進め、扱いが安全なダイナマイトを開発
○孝明天皇、崩御(12 月 25 日)
慶応 1年
1865
○天狗党、断罪(2 月 4~23 日)
◇米国、 南北戦争、終わる(4 月 9 日)
→幕府軍、天狗党員(828 名)の身柄を加賀藩から引き継
→南北 320 万人が戦い、戦死者 21 万人余
ぐと下帯だけで極寒の鰊倉へ拘禁。20 人余、病死。
首領の武田耕雲斎ら 352 人斬首、外は遠島・追放。
斬首役には専ら彦根藩士が当たったという
◇東トルキスタン : ヤクブ=ベクの乱(1 月)
→東トルキスタン(新疆)での回民(イスラム教徒)
ハン
の反乱を機に、コーカン汗国の軍人ヤクブ=ベク、
○坂本龍馬ら亀山社中、設立(5 月)
カシュガルへ侵攻、イスラム政権を樹立
(~1877 年 5 月)
○亀山社中、長崎のグラバー商会から大量の小銃を
購入、長州藩へ斡旋(8 月)
○長州藩、ユニオン号を 5 万両で購入(10 月 18 日)
→操船は亀山社中が請け負う
げ ん じ
元治 1年
1864
○天狗党の乱、起こる(3 月27日)
◇イギリス、スコットランド人物理学者ジェーム
→水戸藩内の急進派、幕府へ横浜の鎖港を求め蜂起
ズ・クラーク・マックスウェル、電磁方程式(マ
ックスウェルの方程式)を発表
○池田屋騒動―御所焼き討ち未遂事件―(6 月 5 日)
→長州藩を中心とした急進尊王攘夷派の志士たち、
御所襲撃などを池田屋で謀議。その場を新撰組が襲撃した
事件。緒戦で新撰組組長の近藤勇・長倉新八、善戦、後詰
→電場と磁場は同じもの、光の本質を電磁波(磁場へ
と変化する電場の鎖)と数学的に証明、電場と磁場の
統一理論を完成。
17世紀、天空と地上の運動法則は同じものと
めの土方歳三らと共に、20 数名中、9 人を討ち取り、
解明したニュートンの万有引力の法則以来の新たな
4 人を捕縛。
統一理論の登場。
この事件への報復に急進派に引きずられた長州藩は
挙兵、禁門の変を引き起こす
1889年、ドイツ人物理学者ハインリヒ・ルド
ルフ・ヘルツ、マックスウェルの理論を実験で実証
175
年号
西暦
元治 1年
1864
日本
世界
○禁門の変―蛤御門の変― (7 月 19 日)
→池田屋での報復と京での勢力回復を狙った長州藩による
◇第 1 回赤十字条約(8 月 22)
→国際赤十字、発足
京への侵攻。長州藩、急進派に引きずられる形で、京都
守護松平容保、一橋慶喜、公武派公卿の排除を求め御所
を襲い、戦禍を残。京都市中 3 万戸を焼失。
長州藩、戦死者 400 人余りを出し敗退
◇東トルキスタン:ドンガン人の反乱にウイグル人
も加わり、イスラム政権を樹立
→イスラム教徒が異教徒へ挑んだ宗教上・民族対立の
紛争から始まる。
○第 1 次長州征伐の勅許,下る(7 月 23 日)
→長州征伐(~12 月 27 日)、幕府軍の勝利。
長州藩、保守派が台頭し急進派(高杉晋作ら)を弾圧、
藩論、分裂
途中、イスラム政権(ヤクブ=ベク王国)が現れ
るなどして、沈静化まで 18 年に及んだ。
その後、新疆に対する清国の統治方法は変更。
①直轄統治、②漢族の入植、③種族同化など強
権なものに変わる
○四カ国連合艦隊、下関砲撃(8 月 5~18 日)
→下関事件への制裁戦争。長州藩、戦死傷者 47 人、
四カ国連合艦隊に大敗。連合軍、講和の条件に
「彦山の租借」を要求するが、高杉晋作、これを拒否
○天狗党、上京(11 月 1 日~12 月 27 日)
→首領・武田耕雲斎率いる天狗党、一橋慶喜へ攘夷直訴の
ため京へ上る。越前国新保宿(福井県敦賀)で慶喜が
討伐の軍を送ったことを知り恭順、加賀藩の軍へ投降
○長州、巧山寺挙兵(12 月 15 日~翌年 3 月)
→奇兵隊決起。高杉晋作らの急進派(正義派)、保守派
(俗論派)を倒し、倒幕へ藩論を統一
ぶんきゅう
文久 3年
1863
○孝明天皇、上洛した徳川家茂へ攘夷の勅命、下す
(3 月 4 日)
◇朝鮮、高宗(11 歳)、国王に就く
→国政は父親の興宣(大院君)が執る
→家茂、5月 10 日の決行を約す
○下関事件(5 月 10~26 日)
→英仏蘭米四カ国の商船や艦船への下関海峡での長州藩に
よる砲撃(攘夷戦争)
○薩英戦争(7 月 2~4 日)
→生麦事件へのイギリスの制裁戦争
176
年号
文久3年
西暦
1863
日本
世界
○八月十八日の政変―七卿落ち―(8 月 18 日)
→公武合体派、長州藩を主とする尊王攘夷派を京から追放。
翌日、長州藩、三条実美ら公家 7 人、長州へ下る
文久2年
1862
○坂下門外の変(1 月 15 日)
◇ドイツ、ウィルヘルム1世、ビスマルクを
→尊攘派の水戸浪士 6 名、老中・安藤信正を襲う
プロイセン王国の首相に就ける
(9月23日~1890年3月18日)
○寺田屋事件(4月 23 日)
→軍制改革を進めドイツ統一を目指す
→薩摩藩の尊王派の暴発を藩主島津久光が鎮撫。
斬殺・切腹で9人が落命。襲撃には 20 歳の大山弥助(後
◇米国、リチャード・ジョーダン・ガトリング、
ガトリング砲を発明
の日本陸軍元帥・大山巌)が加わる
→1866 年、米国政府、正式採用
○生麦事件(8 月 21 日)
→(横浜市鶴見区)生麦、島津久光の行列に乱入した
イギリス人を殺傷(1 人を斬殺、2名を負傷)
ドンガン
◇ウイグル:東トルキスタンで東干と漢族との
武力衝突
※ドンガン(東干)
イスラム教徒
漢族系 回 民 、 トルコ系イスラム教徒のウイグル
人とは別民族。
東トルキスタンの地が 1760 年に清朝に征服さ
れて以来、宗教上の連絡、隊商貿易、商業、農業の
目的で天山南・北路の諸都市に移住した漢族の総称
文久 1年
1861
○対馬露寇(2 月 3 日~ 8 月 15 日)
◇イタリア王国、建国(3月17日)
→ロシア軍艦ポサドニック号、対馬の浅茅湾へ侵入、占拠。
対馬の租借を要求。
→トリノのサルデーニヤ王エマヌエーレ2世、
イタリア王に即位
イギリス、幕府へ助力を申し出、幕府は支援を要請、
◇米国、南北戦争、始まる
英艦、ロシア艦を追う
(4 月 12 日~1865 年 4 月 9 日)
○皇女和宮、下向(10 月 20 日)
まんえん
万延 1年
1860
○桜田門外の変(3 月 3 日)
→水戸藩と薩摩藩の浪士、彦根藩の行列を襲撃、
大老の井伊直弼を暗殺。
謹慎させられていた一橋慶喜・ 松平春嶽ら
幕政に復帰、安政の大獄、終わる
177
年号
万延 1年
西暦
1860
日本
世界
ひな
○万延小判(別名、雛小判)、鋳造(4 月 9 日)
→アメリカ領事ハリス、一分銀とメキシコ銀貨
(一分銀の 3 分の 1 の銀位)との等価交換を要求。
これにより大量の金(約 10 万両)が海外へ流出、物価
の高騰を招いたことへの対策
◇清国、北京条約 (10 月 24 日)
→天津条約批准の折の発砲事件処理のための条約。
中国を半植民地化することとなった条約。
また、この条約を知ったフランス、ロシアも相次い
で干渉、中国での権益を拡大(フランス(25 日)、
ロシア(11 月 14 日) )
※(当時)金と銀との交換比価
①賠償金
海
金 1g≒銀 15g
②天津港の開港
金 1g≒銀 5g
③英国への九龍南部の割譲
外
日本国内
④露への沿海州の割譲
○幕府、朝廷に和宮の降下を出願(4 月 12 日)
◇米国、北軍に連発式小銃スペンサー銃、配備
→リンカーン、単発式の銃が主力の南軍との戦いに
備える
あんせい
安政 6年
1859
○安政の大獄
◇米国、初の原油堀削(8月27日)
→橋本左内、頼三樹三郎、吉田松陰ら刑死
→ペンシルベニア州タイタスビルでエドウィン・R・
ドレーク、原油堀削に成功。
2年後、史上初の自噴油井を完成
◇イギリス、チャールズ・ダーウィン、
「種の起源」出版(11 月24日)
安政 5年
1858
○日米修好通商条約(6 月 19 日)
◇アイグン条約( 5 月 28 日)
①神奈川(横浜)、長崎、新潟、兵庫(神戸)、江戸、
大坂の開港を追加
→ロシア、清国の混乱に乗じ黒竜江周辺を占拠、
国境線を黒竜江(アムール川)以北とさせる
②日本と他国との障害発生時での米国の仲裁権を
特記(日本への米国の優位)
①清国との国境線を黒竜江以北に改め南進
②ウスリー江から以東の沿海州を清国との共同管理
③銀貨等価交換(一分銀とメキシコ銀貨(洋銀)
地として満州進出の足がかりを獲得。
ウ ラ ジ オ ス ト ク
各1枚との等価交換)を約す
このウスリー江岸の寒村が後の「東を征服せよ」
○安政の大獄、始まる(~1860 年 3 月 3 日)
◇天津条約( 6 月 13 日)
→アロー戦争の講和条約。
ぼ
ご
①外交官の北京駐在
○戊午の密勅(8 月 8 日)
→孝明天皇、水戸藩に勅書を下し、攘夷を求める。
②外国人の中国国内の旅行権・布教権
これにより、水戸徳川家の勤王の風儀と相まって、
③揚子江の自由航行
幕末期、水戸藩士による攘夷運動が激烈化
④開港の増加
しかし、この批准書交換時に発砲事件が起こり、
より屈辱な条約、北京条約が強要される
178
年号
安政 5年
西暦
1858
日本
世界
いえもち
○徳川家茂、14 代将軍となる(10 月 25 日)
◇インド、ムガール帝国、滅亡(5 月 10 日)
→英国によるインドの植民地化、本格化
○安藤信正、若年寄となる(11 月 25 日)
→2年後、桜田門外の変の後、老中に就く。
井伊の強硬路線から穏健政策に改めると同時に、
朝幕関係を深めようと「公武合体」を進める
安政 4年
1857
○日米和親条約の細則、下田条約、締結(5 月 22 日)
○幕府、長崎の海軍伝習所を江戸の築地に移す
○箱館奉行所、拡張
→開港に備え、五稜郭、着工(~1860 年竣工)
安政 3年
1856
○幕府、 講武所を築地に開設
◇クリミヤ戦争、終わる―パリ条約―(3 月 30 日)
→2 年前に設置した剣術・砲術などの武芸と洋式調練
教授するための武芸訓練所が前身
→産業革命を経たイギリスとフランスの国力の前に、
ロシア、敗北
◇清国、アロー戦争(6 月~1860 年 8 月)
→英国船籍アロー号の英国旗が清国官憲に侮辱された
ことを口実に始まった英仏両軍による侵略戦争。
14 年前の南京条約に飽き足りず、大陸への本格的
な進出を企む両大国の思惑が背景
安政 2年
1855
○幕府、海軍伝習所を長崎に開設
○安政の大地震(10 月 2 日)
→地震と火災により死者など 2 万 6000 人余
安政 1年
1854
○米国、東インド艦隊司令官ペリー、再来
(1 月 16 日)
○日米和親条約(3 月 3 日)
→下田・函館が開港、「鎖国」、終わる。以後、幕府、
イギリス( 8 月 23 日)、ロシア(12 月 21 日)と
和親条約を締結
○幕府、箱館奉行所を復活させる
179
年号
安政 1年
西暦
1854
日本
世界
○日露和親条約(12 月 21 日)
→伊豆下田で調印。ロシア側は提督プチャーチン。
えとろふとう
うるっぷとう
日露の国境線、千島列島の択捉島と得撫島の間と決め
る。樺太は混住の現状維持に決まる
かえい
嘉永 6年
1853
○米国、 東インド艦隊司令官ペリー、来航(6 月 3 日) ◇クリミヤ戦争、始まる
(3月28日~1856年3月30日)
→フィルモア大統領の親書をもたらす
→黒海から地中海への南下を目論むロシアとこれを
○徳川家定、 13 代将軍となる(11月)
阻むイギリス、フランス、オスマン帝国との戦役。
以後、正統(復古)主義で欧州の秩序を図ろうと
したウィーン体制は崩壊
嘉永 5年
1852
◇フランス、第二帝政、始まる(12月2日)
→(ナポレオン・ボナパルトの甥)ルイ・ナポレオン、
ナポレオン3世を名乗り、皇帝位に就く
(12月2日~1870年9月19日)
嘉永 4年
1851
◇太平天国の乱(~1864 年)
→アヘン戦争で旧弊を露呈した清朝に対し、洪秀全、
農民を率い、新たな国を興そうとした反乱。
キリスト教思想を主体に自身を「天主」と称し、
「太平天国」と名付けた国を興す
①排満興漢、排外民族主義の先駆け
②土地の強制分配など
嘉永 2年
1849
○アメリカ艦、長崎へ来航
◇米国、中国人の移民、始まる
→ゴールド・ラッシュで西部開拓、加速。
○イギリス艦、浦賀へ来寇
金鉱鉱山の労働者として中国人移民、始まる
○幕府、洋式大砲 6 門の鋳造を始める
嘉永 1年
1848
◇米国、カリフォルニア、砂金、発見(1 月 24 日)
→カリフォルニアのサクラメンのアメリカン川で
砂金が発見。ゴールド・ラッシュ、始まる
◇マルクス、エンゲルスによる「共産党宣言」
(2 月)
180
年号
西暦
嘉永 1年
1848
日本
世界
◇フランス、2月革命(2 月 23 日~12 月 2 日)
→ルイ・フィリップの7月王政が倒れ、共和制政体が
樹立
◇フランス、6月蜂起(6 月 23~25 日)
→穏健な共和政体に失望した労働者の蜂起。
しかし、臨時政府により鎮圧
◇フランス、ルイ・ナポレオン帰国、大統領に就任
(12月10日)
こ う か
弘化 4年
1847
○幕府、相模・安房・上総沿岸の防備の強化を
命じる
弘化 3年
1846
◇イギリス、ロンドンで第1回共産主義者同盟、
開催(6月)
○仁孝天皇、崩御、孝明天皇、践祚(2 月 13 日)
◇米墨戦争始まる(4 月 25 日~1848 年 2 月 2 日)
→テキサスの帰属を巡ってのメキシコとの戦争。
破れたメキシコ、カリフォルニア半島からテキサス
以北の土地、国土の 3 分の 1 を失う
弘化 2年
1845
◇アイルランド、ジャガイモ飢饉、100万人餓死
(~1850年)
→飢饉を見過ごすイギリス政府の無策と長年のカトリ
ック教徒アイルランド人への差別と弾圧にアイルラ
ンド人は反発。
飢饉を機にアイルランド分離独立運動が活発化。
アイルランド共和軍(IRA)の前身、
「アイルランド共和兄弟団(IRB)」、結成
弘化 1年
1844
○オランダ国王、開国を進言
天保15年
○フランス艦、琉球へ来航
○利根川原の喧嘩(8月)
→博徒の飯岡助五郎と笹川繁蔵、利根川原で喧嘩。
浪人・平手造酒、笹川方の助っ人として加わり闘死
てんぽ う
天保14年
1843
○老中・水野忠邦、失脚
→天保の改革、2 年余りで終わる
181
年号
天保13年
西暦
1842
日本
世界
○幕府、異国船薪水給与令を下す
◇清国、南京条約―アヘン戦争の終結―
→アヘン戦争での清国の敗北を知り、異国船を穏便に
(8 月 29 日)
①香港島の割譲
退去させる対外軟化策へと転換
②賠償金
③広州・福州・厦門・寧波・上海の開港
④統制貿易の廃止、貿易の完全自由化
天保12年
1841
○水野忠邦、天保の改革に着手
◇ロンドン海峡協定―イギリス、最盛を迎える―
(7月13日)
○株仲間の禁止
→ロンドン条約にフランスが加わった5か国の条約。
→幕府、株仲間による流通の寡占・独占が物価上昇の
原因と冥加金の上納を止め、株仲間の解散を命じる。
パックス・ブリタニカ(イギリスによる平和)の
始まり
実態を知らない幕府の禁令は、返って市場を混乱させ
物価の上昇を招く。16 年後、株仲間の制は復活
○埼玉郡川口村(埼玉県加須市)に堰を設ける
→利根川からの水で葛西用水の水量を増し、周辺の墾田
を進める
天保11年
1840
○オランダ船、アヘン戦争を報ず
◇清国、アヘン戦争
(6月28日~1842年8月29日)
○薩摩藩、藩政改革に着手
ずしょ
ひろさと
→家老の調所笑左衛門(広郷)、密貿易、商人からの
借財(債務)の無利子化・延払、砂糖の専売などで 250
万両を蓄財。後に倒幕を主導する薩摩藩の原資となる
<トピックス>
◎アヘン戦争
英国と清国との貿易は英国の大幅な輸入超過、その決済に大量の銀が必要だった。当時、銀の国外流出を抑えていた
イギリス、銀に代え輸入超過分の決済にインドで取れたアヘンを使った。
アヘンの輸入禁止令を出していた清国だったが国内産のアヘンもあってアヘン吸引の悪弊は止まらず、返って、
アヘンをより多く求める有様だった。インド産アヘンの輸入の増加は大量の銀を国外に流出させ物価の高騰を招いた。
1839 年 3 月、林則徐によるアヘン取り締まりと英国人排斥の動きを機に広東のイギリス人たちはマカオに避難。
8 月、林は九龍半島でのイギリス船員による中国人殺害事件を口実にマカオを武力封鎖、市内の食料を断ち、井戸に
毒を入れ居留民たちを殺そうとした。
8 月下旬、イギリス人たちは船上に避難、イギリス海軍の報復が始まった。
九龍沖での砲撃戦、川鼻海戦で清国海軍は潰滅。英国艦隊は揚子江へ入り鎮江を制圧、京杭大運河を封鎖し江南か
ら北京への補給路を断った。北京は戦意を失い、南京条約を結び、講和。
講和の代償は大きかった。賠償金ばかりか香港の割譲、開国、治外法権を押しつけられ、関税自主権を奪われた。
以来、フランス・ロシアなど他の西欧列国も付け入り、1 世紀余に渡る干渉と侵略の歴史が本格化。
182
戦国・安土桃山時代
(1573~1602年)
―室町幕府滅亡から江戸開幕の前年まで―
223
年号
西暦
慶長 7年
1602
日本
世界
きょうにょ
○家康、顕如の長子・ 教 如 に寺地を寄進、一向宗を
◇オランダ東インド会社、設立
懐柔
→「東本願寺(真宗大谷派)」の始まり
慶長 6年
1601
○佐渡で金山、発見
◇ロシア、大飢饉起こる(~1603)
→夏でも氷点下の冷害、約200万人餓死などで死亡
慶長 5年
1600
○家康、上杉景勝へ問罪使を送る(4 月 1 日)
こうざしじょう
→会津の守りを固めるため神 指 城 の築城に着手した
◇南米、ペルー、ワイナプチナ火山、大噴火
→火山灰などの噴出物を成層圏にまで吹き上げ、太陽
上杉景勝、家康への叛意を覚られる。家康、釈明に
光を遮った。翌年以降、世界各地に冷害被害をもた
上洛を求めるが、家老の直江兼続、「直江状」を送り
らす。とりわけ、ロシア、スウェーデンでは冷害か
上洛を拒絶、対抗の意を示す
ら大飢饉となり、内乱が起こる一因となった
○石田三成、諸大名の妻子を人質に取るため派兵
( 7 月13 日)
◇イギリス東インド会社、設立
→アジア貿易の独占と貿易を行うための必要な権限
(条約の締結権・軍隊の交戦権・植民地の支配権)な
○石田三成、挙兵(7 月17日)
どの特権が与えられた特殊会社
○細川ガラシャ、三成の人質になることを拒み、
自害( 7 月17日)
→自害を知った三成、妻子を人質に取ることを断念
○家康、会津征伐(上杉攻め)に向かう
( 7 月 21 日)
○関ヶ原の戦い―東軍 10 万、西軍 8 万―
(9 月15 日)
○石田三成、小西行長、安国寺恵瓊、斬首
(10 月 1 日)
○藤原惺窩、 家康からの仕官の誘いを拒む
<トピックス>
◎関ヶ原の戦いと「敗者」の血統
のぶひら
①石田三成:娘の辰姫、津軽藩 2 代藩主津軽信枚の側室となり 3 代藩主信義を生む。長男重家は僧籍に入り血統は
絶えるが、 次男重成の嫡男吉成は津軽藩の重役となる。
きよおき
としとし
としかた
としかね
②島清興(左近)
:石田三成の功臣。娘は柳生利厳(兵庫助)に嫁ぎ、利方、厳包を生み、尾張藩で新陰流兵法を伝える。
③大谷吉継:娘は真田幸村の妻。夏の陣で敗死の後、幸村の娘、阿梅(吉継の孫)が伊達家の重臣片倉小十郎の嫡子、
片倉重長の妻となる。阿梅の妹、阿菖蒲は伊達藩士田村氏に嫁ぎ子を残す。田村氏、後に片倉と改称
④宇喜多秀家:前田利家の娘、豪姫の夫。前田家の助命嘆願により八丈島に流され生涯を終える。 秀家は八丈島で
代官の娘を娶り、子を残す。本家以外は「浮田」を名乗る。明治 2 年許されて、翌年、七家 70 人余が東京へ入る
224
年号
慶長 4年
西暦
1599
日本
世界
○豊臣秀頼、大坂城に移る(1 月 20 日)
◇ロシア、大動乱、始まる(~1613年)
→フョードル1世(イヴァン4世の三男)が亡くなり
○前田利家(閏 3 月)、死去
(1698年1月)、後継に義弟ポリス・ゴドゥノフが
選ばれる。
○豊臣政権内の武断派、石田三成を襲う(閏 3 月)
→朝鮮での戦役以来、豊臣政権で燻っていた武断派と
文治派の対立が現実化した事件
時に、南米のワイナブナ火山が大噴火。
噴煙による冷害が襲い、人口の3分の1、200万人
が疫病と飢えで落命、民衆が立ち上がった。
こうした国内の混乱に王位を狙うロシア貴族や
※武断派
隣国のポーランド、ドイツ、スウェーデンの貴族らが
加藤清正・福島正則・黒田長政・細川忠興・浅野幸長・
介入。15年余りにわたる動乱の幕が上がった
池田輝政・加藤嘉明ら朝鮮での戦役に加わった武将た
ち。内政を専らに秀吉側近の石田三成ら文治派と対立
◇フランス、アンリ4世、ナントの勅令を下す
を深めていた
(4月13日)
→ヨーロッパで初めて個人の信仰の自由を公認、
ち ょ う そ が べ もとちか
ユグノー(プロテスタント)派へカトリックと同様
○長宗我部元親、死去(5月)
もりちか
→元親の晩年、家督を巡って家中が混乱。四男・盛 親 が
家督を継ぐ。関ヶ原の戦いで西軍となった盛親、
改易、領地は没収。浪人となった盛親、大坂の陣で
豊臣方に寄り、大坂城落城後、斬首
○家康、加賀征伐(10 月)
→前田利長による家康暗殺計画があったとの加賀征伐。
利家の正室・芳春院を江戸に人質に出すこと、
利常(加賀前田家 3 代藩主)と秀忠の娘(珠姫)との
婚儀で征討を中止。
以後、秀吉の定めた五大老・五奉行の制度は消え、
家康の豊臣政権切り崩しと取り込みが本格化する。
一方、家康の専横に石田三成・上杉景勝ら豊臣恩顧
の大名たちが家康の討伐を謀る
慶長 3年
1598
○秀吉、五大老・五奉行を置く(7 月)
○秀吉、家康・利家へ遺言状を与え秀頼を託す
(8 月 5 日)
○秀吉、死去(8 月 18 日)
○朝鮮からの撤兵を発令( 8 月 25 日)
→徳川家康・前田利家、撤兵を発令。
しんがり
殿 の島津・小西軍、11 月、半島から撤兵
225
の法的平等を認め、ユグノーの懐柔を図る
年号
慶長 2年
西暦
1597
日本
世界
○慶長の役(1月~翌年11月25日)
→先陣の小西行長・加藤清正、朝鮮に渡海(1月)。
秀吉、出陣武将を定める(2月)
慶長 1年
1596
○豊臣秀吉、明国国書を破る(9月)
→「日本国王に封ずる(冊封する)」、秀吉を明国の臣下
に任ずるとの明国に、秀吉怒り、国書を破る
○二十六聖人の殉教(12 月)
→秀吉による初めての弾圧事件。
長崎で 26 人のキリシタン、受難
ぶんろく
文禄 4年
1595
○秀吉、甥の秀次を自刃させる(7 月 15 日)
→秀次の一族、妻妾・息子ら 39 人を京三条河原で斬首
(8 月 2 日)。首は晒され、秀吉、河原に掘った穴に遺骸
を捨て「畜生塚」と名付ける。
この中に出羽の大名、最上義光の二女・駒姫(15
歳)がいた。助命を願うも適わず斬首。これを恨んだ
義光、東北での親徳川派の先兵となる
○秀吉、聚楽第を壊す(8 月)
文禄 2年
1593
○小早川隆景ら「碧蹄館の戦い」で明軍を破る
(1 月)
○秀吉、隠居城の伏見城へ移る(閏 3 月)
○文禄の役、休戦(4 月 18 日)
○豊臣秀吉の側室・淀、第 2 子の秀頼を生む(8 月)
○秀吉、 高山国(台湾)へ使者を送り人質を要求
(11 月)
文禄 1年
1592
○朱印船の制、定める
◇イギリス、シェイクスピア、
→秀吉、長崎、京都、堺の商人に異国渡航の朱印状を
与え、海外交易を統制・独占
226
史劇「ヘンリー6世」上演
年号
西暦
日本
世界
<トピックス>
◎江戸の大火と治水
江戸の三大大火、「明暦の大火」
、「明和の大火(振袖火事)」、「文化の大火」の外、多くの火事が江戸を襲った。
一方、江戸が大きな洪水に襲われたとの記録は意外と少ない。利根川と荒川の二大河川の改修工事のお陰だ。
ただつぐ
治水の恩人の最初は伊奈氏。伊奈半左衛門(忠次)とその一族、もう一人は、8代将軍・徳川吉宗に従ってきた
ためなが
井沢弥惣兵衛(為永)、紀州流の治水技術で伊奈氏とともに、関東の治水と新田開発に尽くした。
その初めの伊奈氏、伊奈半左衛門(伊奈備前守忠次)は徳川家康の近習、家康と苦楽を共にしてきた幕臣。
初代の関東郡代、関八州の天領30万石を任され、武蔵小室藩1万3000石の領主に封じられ小室陣屋(埼玉県北足立
郡伊奈町)を拠点にした。
歴代、伊奈氏は、諸代官の監督、直轄領の検知と経営、利根川・荒川・渡良瀬川の治水に務めた。
家康の江戸入府以来、関東の開発のために行った「利根川の東遷」と「荒川の西遷」、それらに合わせた各地での
用水堀の整備に関わった。これらがなくては今の関東を語ることはできない。
たんぼ
その一つに見沼溜井がある。治水ばかりでなく、今に首都直近に残る貴重な親水大自然緑地、見沼田圃がそれだ。
結果として、東西の台地で荒川・利根川と隔てられていた見沼溜井は思うように水を蓄えることができず、吉宗の
時代、惣兵衛の手で、見沼溜井に代わる貯水と給水を担う「見沼代用水」が掘削される。
※利根川の東遷:かつての利根川は江戸湾に注ぎ、台風などで江戸府内を襲っていたことから利根川の水を東の
銚子河口へ通水した改修
※荒川の西遷: かつて利根川と合流していた荒川を中流部で仕切り、荒川の本流を西の入間川へ流し、
荒川を独立した水系として江戸湾へ通水した改修
てんしょう
天正19年
1591
○天正遣欧少年使節、秀吉に謁見(閏 1 月)
○豊臣秀長(秀吉の実弟)、死去(1 月)
○秀吉、千利休に自刃を命ずる(2 月)
○秀吉の嫡男・鶴松(3 歳、死去(8 月)
○秀吉、北条氏 5 代北条氏直を赦免、河内国狭山藩、
1 万 1000 石を与える(8 月 19 日)
○文禄の役、始まる
(9 月 16 日~文禄 2 年 4 月 18 日)
○豊臣秀次、関白となる(12 月)
けんにょ
じゅんにょ
○秀吉、顕如の三男、准 如 に寺地を寄進、一向宗を
懐柔
→「西本願寺(本願寺派)」の始まり
227
室町・戦国時代
(1493~1572年)
―明応の政変から室町幕府滅亡の前年まで―
233
年号
げんき
元亀 3年
西暦
1572
日本
世界
○武田信玄、本隊2万5000、北条氏政の援軍2000
を率い、上洛(10月3日)
○三方ヶ原の戦い(12月22日)
→武田の騎馬軍団2000、徳川軍8000に大勝
○信玄、兵を止め、病を癒す(12月24日)
→三方ヶ原の北、刑部で半月の間、兵を止める。
元亀4年1月7日、出立、再び三河へ侵攻。
元亀4年3月15日長篠城へ帰城
元亀 2年
1571
○毛利元就(6 月)、 北条氏康(10 月)、死去
○信長、比叡山延暦寺を焼き討ち(9 月 12 日)
かくじょ
→延暦寺の座主・覚 恕 法親王(正親町天皇の皇弟)、
武田信玄を頼り、甲斐へ逃れる
元亀 1年
1570
○上杉輝虎、北条三郎(北条氏康の 7 男)を養子に
迎え、自身の初名「景虎」を与える(4 月)
○新陰流兵法開祖、上泉伊勢守信綱、天覧兵法演武
(6 月 27 日)
→剣技の天覧を口実にしての正親町天皇と武田信玄との
接触。信綱、将軍と同じ、従四位下を賜る。
○姉川の合戦(6 月 28 日)
→信長・家康連合軍、朝倉・浅井両軍を破る。
余力の残った朝倉・浅井両軍、比叡山の僧兵・一向宗
門徒らと結び、信長への反攻を目論む
○石山合戦(9 月 12 日~天正 8 年 8 月 2 日)
→本願寺の光佐(顕如)、一向門徒に信長への抵抗を宣す
○上杉輝虎、出家、「謙信」と改める(12 月)
えいろく
永禄12年
1569
○信長、
「殿中御掟」を足利義昭に示し、以後、不和
となる(1 月 14 日)
○信長、フロイスにキリスト教の布教を許す(2 月)
○越相同盟(6 月)
→上杉輝虎、信玄に対する政略から北条氏康と和睦
234
年号
永禄11年
西暦
1568
日本
世界
よしひで
○足利義栄、14代将軍となる(2月8日)
→前年の11月、将軍宣下を願うが献金が足らず、三好三
人衆の後ろ盾を得て、将軍(従五位下)を賜る
◇オランダ・スペイン八十年戦争(~1648年)
→神聖ローマ帝国皇帝カール5世の死後、ハプスブルグ
家はオーストリアとスペインへ二分。
ネーデルラント17州(オランダ)はスペイン王位
よしあき
よしてる
○信長、義昭(義輝の次弟)を奉じ上洛(9月)
とともにフェリペ2世が相続。
カトリック教徒のフェリペ2世、自由・自治な都市
○将軍義栄、阿波に逃れ、死去(9月)
国家(ネーデルラント)を抑圧、新教徒のカルヴァ
ン派を異端と弾圧。スペインの圧政に対しネーデル
○足利義昭、15代将軍となる(10月18日)
→従四位下を賜る
ラント17州は同盟、独立を求め戦う。
三十年戦争の講和条約、ヴェストファーレン条約
でオランダ、独立
永禄10年
1567
○稲葉山城の戦い(9 月)
→信長、西美濃三人衆(稲葉・安藤・氏家)の内応で、
たつおき
城主・斎藤龍 興 を追い、城へ入る。信長、稲葉山城を
岐阜城と改名、居城とする。
入城後、天下布武の朱印を使用
○信長、秀吉に竹中半兵衛(重治)を誘わせる
○武田信玄、嫡男の義信を殺す(10 月 19 日)
→親今川派の義信と今川領駿河への政略を転換した信玄
との確執が背景ともいう
○松永久秀・三好三人衆らとの戦火で東大寺大仏殿、
焼失(10 月)
永禄 9年
1566
○武田信玄、箕輪城を落とし西上野へ進出(9 月)
→この後、大胡城主上泉伊勢守秀綱、信玄に降る。
信玄の一字を貰い、名を「信綱」と改め、諸国武者修行
に出る
○毛利元就、尼子義久を降ろす(11 月)
→大名家としての尼子氏は消え、毛利家の重臣となり続く
※毛利氏
大江広元の四男季光が祖、相模国愛甲郡毛利庄が始まり
○松平家康、徳川に改姓
→祖、得川氏に由来する嘉字として家康、「徳川」を称す
235
年号
西暦
永禄 8年
1565
日本
世界
○永禄の変(5 月 19 日)
→松永久秀・三好三人衆、二条御所を襲い、将軍足利義輝
を弑逆
※三好三人衆
ながやす
い
と
こ
まさやす
三好長 逸 (長慶の従叔父)・家臣の三好政 康 ・
ともみち
岩成友 通
永禄 7年
1564
○松平家康、三河の一向一揆、平定(1 月)
しょうばんしゅう
ながよし
○ 相 伴 衆 (管領職に次ぐ席次)の三好長慶、死去
(7 月)
→将軍足利義輝、将軍親政に動き三好氏との対立、深まる
○第 5 次川中島の戦い―塩崎の対陣―(8 月~10 月)
<トピックス>
◎閑話休題―合戦の戦功は槍?―
いいざさ
てんしんしょうでん
しんとう
戦国時代から江戸時代にかけ剣豪と呼ばれる多くの達人たちが合戦で活躍した。飯篠長威斎(天 真 正 伝 香取神道流)、
しんとう
しげたか
じげん
塚原卜伝(新当流)、上泉伊勢守秀綱(後に、武田信玄の一字を貰い信綱へ改名、新陰流)、東郷重位(示現流)、
伊東一刀斎(一刀流)らが、戦場での功名を得て一流を開いた。
後世、 剣豪と呼ばれる達人たちが戦場での働きを「常陸一本槍」、 「上野一本槍」などと槍を冠され、賞されたのは
何故だろう。
それは剣豪たちが槍の操法にも優れた巧者だったからだ。もともと、弓を除けば武芸は体術から始まり道具を使って
の闘争の技へと発展・分派した。「間合」が双方近ければ体軀や筋力が勝敗を決める。それを克服するため、先人は武技
を練り、道具を使った。槍もそうした道具の一つ。
幕末、池田屋騒動で新撰組の近藤らが9人を斬ったというが、相手は酒席での不意を突かれてのこと。なかなかに、
刀ばかりの戦いは容易ではない。刀ばかりの剣豪イメージは小説・映画の創作に過ぎない。
剣豪と呼ばれるほどの名人は実際には様々な道具(武具)を巧みに使いこなす巧者だった。
いくさ
繰り返しになるが、 戦 は「間合の攻防」だ。竹の目釘で留まるばかりの太刀の柄は打撃に弱く、血は血糊となって
刀身にこびり付く。とても布や紙などで拭い切れるものではない。何より太刀を執っての截相の間合は 3 尺。恐怖に身が
凝る。
一方の槍。柄の長さで間合を競い、制し、斬り、払い、突く。その意味で、槍は素人でも相応に扱え、また、安価な
武器だった。が、そんな槍も柄が長ければ長いほど重く扱いづらい。しかも、体勢を崩さず突き出せるのは 1 尺に過ぎな
い。力と力がぶつかり合い体力は消耗、死への恐怖で身体の動きが鈍る白兵の戦い。そんな戦場に剣豪たちは袋槍・片鎌・
十文字の槍を手に、武芸の鍛錬で獲得した闊達な体捌き・刀身一致の妙技で功名を得た。
ひょうほう
槍を振るうことがなくなった江戸期、刀身一致の妙技は専ら刀の操法「 兵 法 」となって伝えられた。
日本刀は軽い。片手で楽に振るうことのできる刀を両手で使い威力を増す日本の刀。刀を効率良く操る術が兵法。
えんかい
上泉伊勢守の創始した「流れる水のように身体を捌く『猿廻』」
・
「刀身一致、変転転化し、頂から岩が転がり落ちるほど
まろばし
の刀勢の太刀『 転 』」、今に伝わる新陰流兵法の妙法である。
236
建武の新政・南北朝・室町時代
(1333年~1492年)
―建武の新政から明応の政変の前年まで―
246
年号
明応 1年
西暦
日本
世界
1492
◇スペイン、イスラム国家グラナダ陥落(1月2日)
→約800年に渡ったイベリア半島でのイスラム支配、
終わる
◇スペイン、コロンブス、初の航海(8月13日)
えんとく
延徳 3年
1491
○足利政知の死後(4 月)、長子・茶々丸、継母の
円満院(足利義澄の実母)と義弟・潤童子を襲い、
堀越公方を自称する(7 月)
延徳 2年
1490
○足利義政、死去(1 月)
○前将軍足利義尚の養子・義材、10 代将軍となる
(7 月)
○京都・大和の各地で土一揆、頻発
延徳 1年
ちょうきょう
長 享 2年
1489
○9 代将軍足利義尚、近江で死去(3 月)
1488
○加賀の一向一揆(6 月)
→加賀の守護・富樫政親、討たれる
長享 1年
1487
○将軍足利義尚、近江の六角高頼討伐へ親征(9 月) ◇イングランド、ストーク・フィールドの戦い
ー薔薇戦争、終わる―(6月)
→ヘンリー7世(ランカスター家、リッチモンド伯
ヘンリー・テューダ)とエリザベス・オブ・ヨーク
(ヨーク家、エドワード4世の娘)と結婚、テューダ
朝を開く(1486 年 1 月)。が、ヨーク派内は収まら
ずヨーク派最後の反乱「ストーク・フィールドの戦い」
でヘンリー7世が勝利し、ようやくに内戦が終わる
ぶんめい
文明17年
1485
○足利義政、出家(8 月)
○山城国一揆
よしひろ
→守護大名畠山義就を河内へ追い、8 年の間、自治を布く
文明14年
1482
と
ひ
○都鄙合体(11 月)
→足利成氏と幕府の和睦成る。 しかし、関東武者の多く
を従える古河公方・足利成氏のため、足利政知、鎌倉に
入れず、伊豆に留められる
○足利義政、東山山荘(銀閣寺)、造営を始める
→この頃、義政と妻の日野富子・嫡子で将軍の義尚との間
が不和、幕府内は分裂
247
年号
文明13年
西暦
1481
日本
世界
○桂庵玄樹・伊地知重貞、朱子の「大学章句」を
記す
※桂庵玄樹
儒学の薩南学派を開いた臨済宗の僧
○一休宗純、死去
※一休宗純
後小松天皇の庶子(ご落胤)、
「一休さん」と呼ばれた
臨済宗の僧
文明12年
1480
○大内氏 14 代・大内政弘、相伴衆に任じられ幕政
に加わる
くびき
◇ロシア、タタールの 軛 、終わる
→「ウグラ川の戦い」でモスクワ大公・イヴァン3世
(大帝)、キプチャク汗国(大オルダ)のアフマド・
※大内政弘
ハーンを破り、タタールへの貢納を止む
応仁の乱で西軍の山名持豊(宗全)に従い、金銀の力
で幕閣に取り入る。一方、交易(勘合貿易)での主導
を巡って商売仇・管領細川勝元との対立を深める
※タタールの軛
中世のロシア社会を2世紀にわたり停滞させた
キプチャク汗国(ジョチ・ウルス)による苛政。
「税を払えぬときは子を、子のない者は妻を、
妻のない者は首を出せ」とその厳しさを伝える
文明11年
1479
○蓮如、山科本願寺、建立
◇スペイン、カスティーリャ=アラゴン王国、建国
→アラゴン国王太子フェルナンド、ファン2世を継ぎ
国王に即位、カスティーリャ王国とアラゴン王国、
統合。イベリア半島にキリスト教国が誕生
文明10年
1478
○桂庵玄樹、薩摩の島津氏に招かれ薩摩へ移る
文明 9年
1477
○諸将が帰国、応仁の乱がほぼ治まる
○畠山政長、再び管領となる
文明 8年
1476
せきてん
○肥後の菊地重朝、桂庵玄樹に釈奠(孔子を祀る
典礼)を行わす
文明 6年
1474
○足利義政、朝鮮に明国の勘合符を求める
○加賀の一向一揆、守護・富樫政親の兵と戦う
248
年号
西暦
文明 5年
1473
日本
世界
○足利義政、将軍職を嫡子の義尚(9代将軍)に
譲る(12 月)
文明 1年
1469
○南朝の遺臣ら「小倉宮」を称する皇子を奉じ、
紀伊で挙兵
◇スペイン、カスティーリャ王国女王イザベルと
アラゴン王国の王太子フェルナンド、結婚
(10月)
→事実上、二つの国は連合。イスラム国のグラナダと
の戦いが本格化
お うに ん
1468
応仁 2年
○細川勝元、管領となる
※管領
室町幕府で将軍を補佐する最高の役職。
足利一門の斯波・細川・畠山の三家(三管領)が交代
で就いた
応仁 1年
1467
○足利義政の命により畠山氏の家督、実子・義就
に与えられる(1 月 5 日)
○細川政長、管領職を免ぜられ、畠山義就と結ぶ
斯波義廉、管領となる(1 月 8)
○御霊合戦―応仁の乱の始まり―(1 月 18 日)
→畠山政長、上御霊神社で畠山義就の軍と衝突、応仁の乱、
始まる
<トピックス>
◎カネと力の仁義なき時代の幕開け、応仁の乱
よしみ
義政の弟で跡を継ぐことになっていた義視(義教の四男)と義政・日野富子との子・義尚との将軍位を巡っての家督
争いが発端。一口でいえば、叔父と甥との跡目争い。厭世家で、なかなか子に恵まれなかった義政、後継に弟を指名し
もちとよ
ていた。それが災いした。ようやく子を授かった妻の日野富子、是非にも我が子を将軍へと山名持豊に近づく。
一方、山名氏に対抗する細川勝元、義視を支持、将軍家の家督争いは管領家を巻き込み、一触即発の危機を迎える。
そんな政情に管領家の一つ畠山家の主・持国が亡くなると細川勝元に支えられていた持国の甥・政長と実子の義就
との間で家督を巡り戦が始まった。
畠山氏の争いは、もう一つの管領家、斯波家内で燻っていた家督争いをも誘発、それに、細川勝元と山名持豊が
それぞれの側に加わり、全国の武士たちを巻き込む争乱となった。
むな
しかし、 数十万の兵が 10 年余りも戦った応仁の乱は盅しいものとなった。勝敗は付かず、古都京都を灰燼に帰し、
時代遅れとなった公家たちの無力さ、武門の統領としての矜持を失った将軍家の姿を世に示すばかりだった。
よしとし
①
足利義視派、東軍:細川勝元・斯波義敏・畠山政長
②
足利義尚派、西軍:山名持豊(宗全)・斯波義廉・畠山義就
よしかど
249
よしなり
鎌倉時代
(1192~1333年)
―鎌倉幕府開幕から幕府の滅亡まで―
270
年号
元弘 3年
西暦
1333
日本
○後醍醐天皇、隠岐を脱出(閏 2 月)
しょうきょう
な わ ながとし
正 慶 2年
世界
せんじょうさん
→伯耆の名和 長 年 、 船 上 山 に天皇を迎え、倒幕へ挙兵
れいし
○護良親王の令旨を受け、赤松則村(円心)、播磨で
挙兵
○足利高氏、幕府を裏切り、後醍醐天皇に寄る
→北条高時の命により元弘の変の鎮圧に向かう高氏、
叛意。六波羅探題を討ち後醍醐天皇に寄る
○鎌倉幕府、滅亡(5 月 22 日)
→新田義貞、鎌倉を攻める( 5 月 18~22 日)。
東勝寺に籠った北条高時ら一族、自刃
※新田義貞
恒良・尊良の両親王を奉じ、北陸を治める。
後に、同じ源氏の足利尊氏と藤島で戦い、敗死
げんとく
元徳 3年
げんこう
元弘 1年
1331
○元弘の変―倒幕計画の発覚―(8 月)
→後醍醐天皇の側近、吉田定房、六波羅探題に倒幕計画を
密告。日野俊基・文観・円観ら捕縛される。後醍醐天皇、
女装し、逃れる
※日野俊基
くろうど
刑部卿日野種範の子、後醍醐天皇の蔵 人 。
朱子学を学び勤王を志す
※朱子学
女真族(金国)に漢族の故地、華北・華中の地を
奪われ、華南へ追われていた南宋国の時代、
朱熹(朱子)が主導した儒学。
皇帝への忠義と夷族排除の攘夷思想を説く
かずひと
○鎌倉幕府、(持明院統)後伏見上皇の皇子・量仁
親王(光厳天皇)を即位させる(9 月 20 日)
○笠置山の戦い(9 月 28 日)
→京を逃れた後醍醐天皇、笠置山で挙兵するが敗れ、
三種の神器を(北朝の)光厳天皇に譲り渡す
271
年号
元徳 1年
西暦
1329
日本
世界
○北条高時、
(臨済宗の僧)夢窓疎石を円覚寺の住持
に任ずる
→北条高時、貞時の子、14代執権。凡庸・遊惰で政を
忘れ御家人の不信を招く
か りゃく
もりよし
嘉暦 2年
1327
○尊雲法親王(後の護良親王)、天台座主となる
嘉暦 1年
1326
○(天台宗の僧・儒学者)玄恵、後醍醐天皇に
朱子学を講ずる
○北条高時、出家、金沢貞観、執権となる
○金沢貞観、出家、北条守時、執権となる
しょうちゅう
正 中 2年
1325
○幕府、建長寺船を元へ送る(7 月)
→鎌倉大地震(1293 年)及び大火(1315 年)で失っ
た建長寺・勝長寿院の伽藍再建のための
「寺社造営料唐船」
正中 1年
1324
○後宇多法皇、崩御(7 月)
○正中の変(9 月)
→後醍醐天皇による最初の倒幕計画。後宇多法皇の遺命
くによし
(嫡孫邦 良 親王への譲位)の実行を後醍醐天皇に求める
幕府の干渉に抗し、倒幕へと向かう契機となった政変。
すけとも
としもと
後醍醐天皇、日野資 朝 を東国へ、日野俊 基 を紀伊に
送り倒幕を画策。以後、幕府、後醍醐天皇への監視を
強める
げんこう
元享 2年
1322
○北方交易・蝦夷地を扱う蝦夷管領・安藤(安東)
氏に内紛起こり、幕府出兵
元享 1年
1321
○北条高時、田楽・闘犬に耽り、内管領の長崎高資、
幕政を専横
○後宇多法皇、隠居、後醍醐天皇、天皇親政を行う
→後醍醐天皇を「中継ぎ」に嫡孫・邦良親王の天皇即位
を望む後宇多法皇(父)との不和、始まる
○覚如(親鸞の曾孫)、本願寺(大谷本願寺)を建立
272
年号
ぶんぽ う
文保 2年
西暦
日本
世界
1318
○持明院統の花園天皇、譲位、大覚寺統の後宇多天
たかはる
皇の第 2 子・尊治親王(後醍醐天皇)、即位(2 月)
○多数の僧、元に渡航
文保 1年
1317
○伏見天皇、崩御(10 月)
○文保の和談
→幕府が皇位の継承に対し、両統(大覚寺統と持明院統)
てつりつ
による迭 立 の議を定める
しょうわ
正和 5年
1316
○北条高時、14代執権となる
正和 4年
1315
○北条熙時、死去
正和 3年
1314
ひろとき
◇フランス、フィリップ4世、テンプル騎士団を
解散、財産を没収
,
→フィリップ4世、教皇クレメンス5世に働きかけ、
非課税・大領地所有の特権を持つ軍事組織テンプル
騎士団を解散、国内にある騎士団の財産を没収
※テンプル騎士団
三大騎士修道会の一つ、外に、聖ヨハネ騎士団、
ドイツ騎士団。第1回十字軍での戦果と以後の十字軍
を支援するため、汎ヨーロッパな騎士修道会として
創設(1119年)。
騎士団は、歴代教皇の支持と各国から寄進された
領地、非課税の特権で大地主として世俗化。
絶対王政(王権・領主権)確立の過程で封建領主ら
と衝突。十字軍のエルサレムでの敗北・教皇権の凋落
とともに消滅
◇ペルシャ、ラシード・ウッ・ディーン、「集史」
撰進
→フビライの弟フラーグの興したイル汗国の宰相
ラシード、モンゴル帝国の歴史を編纂
正和 2年
1313
○持明院統・後伏見上皇の院政、開始
273
年号
正和 1年
おうちょう
応長 1年
えんきょう
延慶 1年
西暦
日本
世界
1312
○北条宗宣、死去、北条熙時、執権となる
1311
○北条師時、死去、北条宗宣、執権となる
1308
○持明院統・花園天皇、即位、伏見院政の始まり
(11 月)
◇フランス、アヴィニョンの捕囚(~1377年)
→新教皇クレメンス5世、フィリップ4世の要請に
応じ、教皇庁をアヴィニョンへ遷す
と く じ
徳治 1年
かげん
嘉元 3年
1306
○元と交易を行う
1305
◇モンゴル帝国、再統一(8 月)
ハン
→チャガタイ汗 国とオゴタイ汗国、元朝皇帝テルムと
和解
嘉元 1年
1303
◇フランス、アナーニ事件
→フィリップ4世、教皇領への課税を巡りローマ教皇
ポニファティウス8世と対立。軍を送り教皇を
アナーニで捕らえる。
これを機に、教皇権に対する王権の優位が確立
けんげん
乾元 1年
1302
○大覚寺統・後二条天皇、即位、後宇多法皇の院政
始まる(1 月)
◇フランス、初めての三部会(議会)、開催
→フィリップ4世、フランドル出兵への戦費調達の
ため、ローマ教皇領へ課税。ローマ教皇、課税を
禁止する命令を発し、フィリップ4世と対立。
フィリップ4世、教皇との戦いの是非を問うため
三部会を招集。教皇との戦いが承認される
しょうあん
正安 3年
1301
○北条貞時、出家、北条師時、執権となる
◇モンゴル、タミル川の戦い
→オゴタイの孫カイズとチャガタイ一族による
フビライ帝国への最後の侵攻。
カイズ、タミル川での戦いの帰路、急逝(8 月)
えいにん
永仁 5年
1297
○徳政令、発布
※徳政令
ぢそう
土倉(金貸し業者)など債権者に対し債権放棄を命じ
じおこし
た法令。土地の返還を命じる「地 起 」、契約の解除を
命じた「徳政禁制」など。
江戸期になると「相対済令」・「棄損令」などと形を
代え、度々、発令される
274
平安時代
(794~1191年)
―平安京への遷都から鎌倉幕府開幕の前年まで―
289
年号
健久 2年
西暦
1191
日本
世界
○建久新制(3 月 22 日)
→頼朝の諸国守護権が後白河上皇より認められ、公文所
を「政所」と改称、幕府体制を敷く
○栄西、臨済宗を開く
健久 1年
1190
○頼朝、権大納言・右近衛大将を辞す(12 月 3 日)
よしきよ
○西行(佐藤義清)、死去
※平将門を討った藤原秀郷 9 世の裔
ぶ んじ
文治 5年
1189
○藤原泰衡、義経を襲い、義経、自害(閏4月30日) ◇南宋、朱熹(朱子)、「大學章句」・
「中庸章句」
を著す
○奥州藤原氏、滅亡(9月3日)
→孔子以来の儒学を新釈・注解。
→郎党・河田次郎、謀反、藤原泰衡を弑逆
◇蒙古、チンギス・ハーン、第1次即位
○頼朝、奥州総奉行を置く(9月22日)
→奥州合戦での恩賞として奥州の地を御家人たちに分け
与え、武士たちの東北進出が始まる
①蘆名氏(三浦氏の支流)、会津郡
②相馬氏(千葉氏の支流)、行方郡
③南部氏、糠部郡
④伊達氏(常陸入道念西)、伊達郡
せんし
文治 4年
1188
○朝廷、藤原泰衡へ義経捕縛の宣旨を下す
文治 3年
1187
○源義経、奥州の藤原秀衡を頼る(2月)
○藤原秀衡、死去(10 月)
文治 2年
1186
○頼朝、鎌倉を通じての朝廷への献納を秀衡へ下命
(4 月)
○源行家(頼朝・義経らの叔父)、頼朝の命を受けた
北条時定に討たれる(5 月 12 日)
290
→ボルジギン・キヤト氏のテムジン、カーンに就き、
チンギスと称す
年号
文治 1年
西暦
日本
1185
○屋島の戦い(2 月19 日)
世界
→屋島の戦いに敗れ、平氏、四国での拠点を失う
○壇ノ浦の戦い(3 月24 日)
→安徳天皇、崩御
○頼朝と義経の対立(5 月)
→「後白河法皇からの叙任」と「梶原景時からの弾劾」
で兄弟の不和、始まる
○義経、腰越状を書き、許しを請う(6 月)
→平宗盛をも連れた義経一行を頼朝、拒む。
この一件で義経も兄頼朝を恨み、対立が深まる
○頼朝、京の義経を襲う(10月17日)
いんぜん
○義経の奏上により後白河法皇、頼朝追討の院宣を
下す(10 月 18 日)
→義経に武士、寄らず
○頼朝、義経追討の兵を挙げる(10月 29 日)
○義経、都を落ち、官位を解かれる(11 月 3 日)
○後白河法皇、義経追討の院宣を下す(11 月 25 日)
○文治の勅許(11 月 28 日)
→後白河法皇、頼朝に守護・地頭設置の権を与え、
兵糧米の徴収を許す
じゅえい
寿永 3年
1184
○粟津の戦い(1 月 21 日)
→源義仲、源範頼に敗れ、敗死
○三草山の戦い(2 月 5 日)
→平氏追討の宣旨を受けた源範頼・義経の源氏方と
福原で兵を立て直した平氏一門との戦い。
義経の夜襲に破れ平氏は屋島へ兵を退く
○一ノ谷の戦い(2 月 7 日)
→源範頼・源義経、奇襲で平氏を破る
291
年号
寿永 3年
西暦
1184
日本
世界
○朝廷、源範頼を国司に補任、義経は外れる(6 月)
○後白河法皇、源義経を検非違使に補任(8 月)
○義経、兄・頼朝の仲立ちにより、河越重頼の娘を
さとごぜん
正室(郷御前)に迎える(9 月)
寿永 2年
1183
となみやま
○砺波山の戦い(5 月 11 日)
く り から とう げ
→倶利伽羅峠で平維盛、源義仲の奇策(火牛の計)に
遭い、追討軍 10 万の大半を失い、戦意を喪失。
7 月、義仲、京へ入京。平氏、安徳天皇と三種の神器
を奉じ西国へ敗走(平家の都落ち)
○後白河法皇、頼朝に東国支配認許の宣旨(10 月)
○源義仲、後白河法皇を幽閉(11 月)
よ う わ
養和 1年
1181
○高倉天皇、崩御、後白河法皇、院政を執る(1 月)
○平清盛、死去(閏 2 月)
○平重衡、源行家を墨俣川で破る(4 月 25 日)
ちしょう
治承 4年
1180
もちひとおう
○後白河天皇の第三皇子・以仁王、平氏討伐の
令旨を諸国の源氏に発す(4 月 9 日)
○高倉天皇、譲位、安徳天皇、即位、高倉院政
(4月22日)
→清盛の傀儡、高倉院政が始まる
○源行家(頼朝の叔父)、頼朝の下へ令旨を届ける
(4 月 27 日)
○源頼政、挙兵するが宇治川の戦いで敗死
(5 月 26 日)
※源頼政
平氏政権下で源氏としては異例の高官に栄進。
以仁王と結び、平家打倒の工作に動く
○平氏、福原へ遷都(6 月)
292
年号
西暦
治承 4年
1180
日本
世界
○源頼朝、伊豆で挙兵(8 月 17 日)
→北条時政、土肥実平、佐々木盛綱らと挙兵
○頼朝、「石橋山の戦い」に敗れる(8 月 23 日)
○源義仲(頼朝・義経の従兄弟)、信濃で挙兵
(9 月 7 日)
○富士川の戦い(10 月 20 日)
→頼朝、平維盛を破り、源氏勢、東国支配を取り戻す
○源頼朝、鎌倉に入り侍所を設置、別当に和田義盛
を任じる(11 月)
○平重衡、東大寺・興福寺を焼く(12 月)
治承 3年
1179
○平重盛(清盛の嫡男)、内大臣を辞す(3 月)
まつりごと
→父清盛の専横と自身の病に 政 への意欲を失う
○平重盛(清盛の嫡男)、死去( 7 月 29 日)
○後白河法皇、院政を執る(10月 9 日)
すえよし
→院近臣の藤原季 能 を越前守に任じ、重盛の知行地を
与え、清盛の甥・藤原基通を差し置く人事を行い対抗
の意を示す
○治承三年の政変(11 月 14~20 日)
→清盛、軍を率いて上洛、後白河法皇を鳥羽院へ幽閉、
院政を止める
○平清盛、 関白を藤原基通に替える(11月15 日)
治承 2年
1178
ときひと
○言仁親王、立太子(12 月 15 日)
→高倉天皇の第 1 皇子誕生(11 月、後の安徳天皇)、
母は中宮・徳子。清盛の専横、始まる。後白河法皇、
平氏への警戒を強める
治承 1年
1177
○源為朝、伊豆大島で切腹死(4 月)
→「切腹」の始まり
○鹿ケ谷の変(6 月)
→平家打倒の計画、発覚、藤原成親・僧の俊寬ら捕縛
293
奈良時代
(710~793年)
―平城京への遷都から平安京遷都の前年まで―
323
年号
西暦
日本
世界
<トピックス>
◎洋の東西、巨大化・世俗化する教団―僧兵の強訴―
縦穴の粗末な掘立小屋が立ち並ぶ 6世紀中頃、大陸最先端の文化「仏教」が渡来、国教となった。
無神論で平等主義、菩提心を育み、向上を教える仏教が統一国家建設の指導思想となった。
まつりごと
それから2世紀、朝廷は巨大化し 政 に口を挟むようになった平城京の寺院教団から離れるため平安京へと遷都。
新しい都の守護として期待されたのが新規渡来の天台・真言の二派。
遣唐使として渡った最澄・空海が大陸の先進の秘法(密教)を伝えた。菩提心などの至上の仏教哲学よりも、
そくさい
ぞうやく
こうぶく
息災・増益・降伏を願う実用な呪術が天皇家や貴族たちに重宝がられ、
「法をして久住せしめ国家を守護せん」とま
で期待された。
しかし、二派への朝廷・藤原氏らの肩入れは、平城京にあった大教団の恨みを買った。それが興福寺・東大寺の
僧兵強訴の背景。
一方、 新都で隆盛を誇った天台も、円仁(慈覚大師)・円珍(智証大師)らが亡くなると自宗の荘園領を巡って
対立、円珍派(寺門派)を比叡山から追い、天台の権威を傷つけた。
そればかりか、平安末期、天台に学んだ法然・親鸞・道元・日蓮らの新興の教団が興ると、朝廷からの禁令で
新興の教団を禁圧しようと強訴に走った。大陸渡来の禅宗に対してさえ弾圧を加えた。
むろん、時の流れの中で新興の教団も巨大化、次第に保身・頑なな教団となって、世俗界の権力者との関わり方
を求めた。
世俗界での富と特権を求め、仏法ならぬ暴力で朝廷を脅し、意を遂げようとした僧兵の強訴。一向門徒らの蜂起、
信長の比叡山焼き討ちも、そうした教団の処世での一コマ。
今の宗教教団も、至上・未知・神秘で大衆の心を掴み、政党という政治集団に姿を変え、世俗界での富と特権を
窺うものが少なくない。処世は今も変わらない
延暦11年
792
こんでい
○健児の制、始まる
→律令下、国民皆兵の班田農民が軍の主力だった。
が、農民の疲弊と軍の質の低下が著しくなったこと
から、九州と蝦夷地を除き郡司などの有力者の師弟に
よる軍組織へと改められる。
武家誕生の背景事情のひとつ
延暦 8年
789
きの こ さ み
○征東大使・紀古佐美、阿弓流為征討のため陸奥に
入る
→「板東の安危この一挙にあり」と 5 万 3000 余の
大軍を率い陸奥へ侵攻
○征東大使・紀古佐美と副将軍ら 4000 の兵、
北上川を越えるが阿弓流為に惨敗
延暦 7年
788
○第 1 回蝦夷征討
→紀古佐美、征東大将軍に任じられる
○最澄、比叡山に延暦寺、建立
324
年号
延暦 4年
西暦
785
日本
世界
たねつぐ
○造長岡宮使・藤原種継、暗殺(9 月)
→政治一新のための長岡京造営を命じられた種継が暗殺
され造営は中断。都から取り残される東大寺などの
社寺と藤原氏に対抗した大伴氏らの犯行という。
さわら
彼らに近い皇太弟の早良親王も疑われ、親王は流罪
となり憤死。桓武天皇、親王の祟りを畏れ長岡宮の造
営を取り止め、10 年後、平安京へ遷都。
大伴氏は、これ以降、勢いを失う
延暦 1年
782
か げ ゆ し
○勘解由使を置く
→国司の不正がないことを調べる令外官
※令外官
律令制に無い、新たに設けられた官職。
あぜちし
中納言に始まり、按察使、参議、内大臣、征夷大将軍、
勘解由使、検非違使、蔵人、関白などを置く
て んお う
天応 1年
781
こうにん
○光仁天皇、譲位、桓武天皇、即位(4 月)
→律令制の再建が始まる
ほ う き
これはるのきみ あ ざ ま ろ
宝亀11年
780
○陸奥国伊治郡の伊 治 公 呰麻呂が乱、多賀城、落城
宝亀10年
779
○遣唐使(~781 年)
○渤海人・鉄利人ら 359 人、帰化を求め出羽に来航
宝亀 8年
777
○遣唐使(~778 年)
<トピックス>
◎負け戦ばかりの「蝦夷征伐」
大陸の沿海州に興った渤海国と200年以上に渡る交流があったと日本書記に記される蝦夷地(今の東北地方)。
えみし
遠くの未開の北地に住む、言葉も通じぬ人々を京の都の人は蔑称して「蝦夷」と呼んだ。蝦夷と呼ばれた人たちの中
マツカツ
ユウロウ
ミシハセ
には、靺鞨、それ以前の挹婁、粛慎など大陸から来たツングース系の狩猟採取の人たちもいたようだ。大陸の騒乱を逃
れ、この地に渡来し移り住んだ人々だ。かれらは、故郷の沿海州との間を行き来し、東北の地で獲た産物や砂金などを
交易した。
海路の目印となる小高い山と山地からの産物を運ぶ川が注ぐ入り江が彼らの交易の場所。秋田、十三湊、能代などが
それという。三内丸山の遺跡などの古代遺跡もそうしたものの一つなのかもしれない。
さて、蝦夷たちと朝廷側の武人たちとの戦いぶりはどうだったか。
「常に遊猟を事」にしながら生きてきた蝦夷たち、大陸での戦いそのままに馬を操り弓に優れ、しかも、狩猟に
使う毒を矢に仕込んだ。朝廷側の兵は散々だったようだ。勝った試しがなかった。
実際、紀古佐美は族長・阿弓流為に大敗、坂上田村麻呂に交代させられる。後年、阿弓流為は坂上田村麻呂を介し
朝廷へ降りるが負けたからではない。戦で生きるより増えるばかりの朝廷側の入植者との共存を選んだからだ。
325
年号
西暦
宝亀 4年
774
日本
世界
あぜち し
○按察使・大伴駿河麻呂、蝦夷征討が下る
◇イタリア、ランゴバルド王国、滅亡
→(カロリング朝)フランク王国のカール1世(大帝)、
ローマ教皇ハドリアヌス1世の要請を受けランゴバ
ルドの都パヴィアを攻め、滅ぼす。
以後、イタリア半島は、(南端部の)東ローマ帝国
領、
(中部の)ローマ教皇領、
(北部の)神聖ローマ帝
国領及び各地の都市国家に分裂
宝亀 3年
772
○墾田解禁令、下す
→墾田の面積を無制限に許す
宝亀 2年
771
○渤海の使節ら 325 人、来航
○この頃、「万葉集」成る
→日本最古の和歌集
宝亀 1年
770
○称徳天皇、崩御(8 月)、光仁天皇、即位(10 月) ◇唐、(詩聖)杜甫、死去
○道鏡を下野薬師寺の別当に配流(8 月)
じんごけい うん
神護景雲
769
○宇佐八幡宮神託事件(5 月~10 月)
なかとみの す げ の あ そ ま ろ
3年
→皇位を狙う道鏡、 中 臣 習宣阿曽麻呂に宇佐八幡宮の
偽神託を奏上させる。和気清麻呂、勅使となって参内、
偽の神託と見破る。しかし、称徳天皇、道鏡をかばい、
かえって和気を左遷
神護景雲
768
2年
○春日神社(大社)、建立
→藤原氏の氏神を祀る。
海路を通じての藤原氏と東国(板東)との関係の深さを
示す
※祭神
たけみかづちのみこと
武 甕 槌 命 (常陸国鹿島の祭神)
ふつぬしのみこと
経 津 主 命 (下総国香取の祭神)
あめのこやねのみこと
天 児 屋 根 命 (藤原氏の祖神)
ひめがみ
比売神(天児屋根命)
て ん ぴ ょ うじ ん ご
天平神護
766
○道鏡、法王となる(10 月)
765
○淳仁天皇、崩御(10 月)
2年
天平神護
1年
○称徳天皇、道鏡を太政大臣禅師に任じる(10 月)
326
飛鳥時代
(593~709年)
―聖徳太子の親政から平城京遷都の前年まで―
335
年号
わ ど う
和銅 2年
西暦
709
日本
世界
○陸奥・越後の蝦夷と戦う
○銀銭を廃し、銅銭とする
和銅 1年
708
○平城京、遷都の詔
○武蔵国から銅の献上、和同開珎、鋳造
→以後、皇朝十二銭、鋳造
け い うん
慶雲 4年
707
○遷都の議、起こる
あ へ の ひ めみ こ
○文武天皇、崩御、天皇の母(阿閇皇女)、元明天皇
として即位(7 月)
慶雲 2年
705
○初めて中納言を置く
◇唐、武則天(則天武后)、死去
→以後、中宗(高宗の 7 子)と睿宗(8 子)、皇帝に
復位
慶雲 1年
704
○諸国印、鋳造
大宝 2年
702
○遣唐使(~704 年)
大宝 1年
701
○大宝律令、布令(8 月)、施行は翌年
たい ほう
→律と令が整った初めての統治の根本規範。
国号「日本」と定まる
○対馬から「金」が献上、年号を「大宝」とする
<トピックス>
◎閑話休題ー古代の公法、大宝律令ー
「律」は刑法、「令」は行政法、この二つの公法が初めて揃ったのが大宝律令。
律と令の法治により運営する国家が「律令国家」。
先進の唐(中国)の律令制を参考に刑部親王・藤原不比等らが編纂、撰進した我が国最初の律令政治の基本法。
かんし
か み
す け
じょう
さかん
我が国の国号を「日本」と定め、天皇の下に国事を担う官司(役所)を設けるとともに、長官・次官・判官・主典の
四等級の幹部を置き職責を明確化した。今の時代の代表・副代表・執行役・書記(事務局長)に相当する役職。
官司の四等級の別は漢字で書き分けられ、中央であれば長官は「太政大臣・左大臣・右大臣」、次官は「大納言・
中納言」、判官は「少納言・弁」、主典は「外記・史」、地方の「国」では、「守、介、掾、目」と文書中の肩書を
見れば、どの官司に属する、どれだけの権限を持つ人の文書かが判る仕組みだった。
公文書の真正を示すために神璽・玉璽以下の太政官印などの公印が定められ、公文書での押印の位置までも
定めたという。
700
おさかべ
○刑部親王・藤原不比等ら、律令の選定を開始
※刑部親王、天武天皇の第 9 子
336
年号
西暦
日本
世界
699
○多禰(種子)、夜久(屋久)、菴美(奄美)などの
島人、来貢
698
もんむ
○文武天皇、博戯(賭け事・賭博)を禁ずる(7月) ◇渤海(震国)、興る(~926 年)
マツカツ
ダイソエイ
→靺 鞨 の裔、大祚栄、高句麗の故地へ侵攻、
○薬師寺(奈良・西ノ京)、造営
都を東牟山(吉林省敦化市)に置き、震国を建国
697
○持統天皇、譲位、文武天皇、即位(8 月)
694
○藤原京(奈良県橿原市)へ遷都(12 月)
690
○天武天皇の皇后(鸕野讃良)、持統天皇として即位
うの のさら ら
(1 月)
◇唐、武則天(則天武后)、皇帝となる
→中国史上、唯一の女帝、「周」を建てる
<トピックス>
◎政務を執ったキャリア女帝、持統天皇
くさかべのおうじ
天智天皇の第2女。天武天皇の皇后となり草壁皇子をもうける。夫、天武天皇崩御の後、子の成長を待つ間、
政務に当たった。「称制」という。
その間、他の皇位継承者である大津皇子を謀殺、我が子の成長を待った。
かるのおうじ
しかし、草壁皇子は即位することなく27歳で薨去。このため、称制し自ら天皇に即位、草壁皇子の子、軽皇子
(後の文武天皇)の即位まで政務を執る。
しゅちょう
朱鳥 1年
689
○草壁皇子、薨去(4 月)
686
○朱鳥の年号を定める
○天武天皇、崩御(9 月 9 日)、皇后(後の持統天皇)、
称制となり、政務を執る
お お つ の おう じ
○大津皇子(草壁皇子の異母弟)、謀反の疑いをかけ
られ自害(10 月 3 日)
685
○伊勢神宮、式年遷宮制、定める
337
飛鳥時代以前~紀元
347
年号
西暦
592
日本
世界
○蘇我馬子、崇峻天皇を弑逆(11月)
→馬子の排除を窺う崇峻天皇を襲う
○推古天皇、即位(12 月)
ぬかたべのひめみこ
→女帝の初め、敏達天皇の后・額田部 皇 女 、践祚
591
○崇峻天皇、任那を回復するため派兵
589
◇隋、興る、都は大興(長安)
588
○法興寺(飛鳥寺)、着工
587
○用命天皇、崩御(4 月)
あなほべの み
こ
○馬子、穴穂部皇子を弑逆(6 月)
→蘇我馬子、額田部皇女(炊屋姫)を奉じ、物部氏と
結んだ穴穂部皇子を襲う
ていび
○丁未の乱―物部氏、滅亡(―(7 月)
→蘇我馬子、物部守屋を殺す。物部氏の没落が始まり、
祟仏論争、終わる
はつせ べのみこ
すしゅん
○泊瀬部皇子、祟峻天皇に即位(8 月)
→馬子、他氏懐柔のため泊瀬部皇子を推す
586
あなほべの み
こ
○穴穂部皇子、敏達天皇の后(額田部皇女)を襲う
(5 月)
み わ の さかう
→三輪 逆 、襲撃から救う。しかし、これを恨んだ皇子
と守屋、三輪の一族を殺す。この三輪を襲った一団に
泊瀬部皇子(後の崇峻天皇)が荷担
348
年号
西暦
585
日本
世界
○敏達天皇、蘇我馬子に仏法を許す(2 月)
○敏達天皇、仏教禁止令を下す(3 月)
→疫病、起こる。物部守屋、天皇に仏教の禁止を勧める。
馬子の仏像と寺を焼く
○敏達天皇、馬子に仏教を許す(6 月)
→馬子、新たに寺を作り、仏像を祭る
○敏達天皇、崩御(8 月)、
→馬子、仏法の祟りと廃仏派の守屋と争う
おおえのみこ
○欽明天皇の子・大兄皇子、践祚、用命天皇に即位
(9月)
あ な ほべ のみ こ
→皇位を望んでいた欽明天皇の子・穴穂部皇子、
用命天皇と馬子を恨み、物部守屋と結ぶ
574
○聖徳太子、誕生(2 月)
※聖徳太子
うまやとのみこ
用明天皇の第 2 皇子(厩戸皇子)、
蘇我馬子の家で誕生したことから「厩戸」ともいう
572
びだつ
○欽明天皇の第2子、敏達天皇に即位(4月)
おおおみ
おおむらじ
○蘇我馬子、大臣、物部守屋、 大 連 となる
→大連(軍事を所掌)、大伴氏、物部氏が補任。
蘇我氏は財政を握り、物部氏と対抗
571
きんめい
○欽明天皇、崩御(4 月)
568
◇イタリア、ランゴバルド王国、建国(~774年)
→東ローマ帝国とササン朝ペルシャとの戦いの隙に
ランゴバルド族のアルボイーノ、東ローマ帝国領の
北イタリアへ侵入、ランゴバルド王国を開く
349
紀元前
(紀元~有史時代の始まりまで)
※弥生時代と縄文時代
弥生時代の始まりは、概ね、2900年前、終わりは1800年前
縄文時代の始まりは、概ね、16500年前、終わりは2500年前
362
年号
西暦
紀元前
4
日本
世界
◇パレスティナのベツレヘム、イエス・キリスト、
誕生
27
○小国家、乱立(「漢書」地理志)
◇共和政ローマ、帝政となる
→百余国に分立。この頃から、半島にあった漢の楽浪郡
へ定期的に朝貢
37
◇朝鮮、高句麗、建国
→前漢の混乱を機に狩猟採取のツングース系部族長
の朱蒙、高句麗を建てる
44
◇共和政ローマ、ジュリアス・シーザー
(ユリウス・カエサル)、暗殺(3月15日)
45
◇共和政ローマ、ローマ内戦、終結(3月)
→反シーザー派の貴族らムンダの戦いで敗北。
元老院、シーザーを終身独裁官へ選出
49
◇共和政ローマ、ローマ内戦(~紀元前45年)
→ガリア遠征で戦功を挙げたシーザーの台頭を元老院
は危惧。シーザーに軍隊の放棄を命じるが、シーザ
ー、身の危険を理由に拒み、ルビコン川を越え帝国
内へ軍を進める。反シーザーの元老院派との内戦が
始まる。
元老院派は敗退を続け、エジプトへ逃走。2年後、
シーザーは内戦で苦境となっていたエジプトの
クレオパトラ7世を助け、エジプトと同盟を結ぶ
54
◇匈奴、東西に分裂
※匈奴
モンゴル系又はトルコ系という遊牧騎馬部族。
ゼンウ
ボクトツ
首長を単于と称し、冒頓単于以降二代までが匈奴の
最盛期
58
◇ローマ共和制、ガリア地区総督シーザー、ガリア
へ遠征~紀元前51年)
イ ン ベ リ ム
→元老院、シーザーに軍事指揮権を委任
363
年号
西暦
紀元前
78
日本
世界
◇共和政ローマ、スパルタクスの乱
→南イタリアでの奴隷たちの反乱(~71 年)
100
○この頃、九州で国産の銅利器、近畿で銅鐸の製作、
始まる
108
◇漢の武帝、朝鮮半島、平定
→衛氏朝鮮、滅亡。楽浪郡を置き半島を支配
チョウケン
139
◇漢の武帝、匈奴挟撃のため 張 騫 をトルキスタン
の大月氏へ送る
※大月氏
トルコ系又はペルシャ系という遊牧騎馬民族。
かつて、匈奴に追われ西走した「月氏」の裔。
パミール高原の西、シルダリア河・アムダリア河
の間、オクシアナの地で大月氏となったと云う
140
◇漢、始めて年号、「建元」を定める
141
◇漢、武帝、即位
→前漢、全盛を迎える
146
◇共和政ローマ、全盛
174
◇中央アジア、民族移動、起こる
→甘粛の月氏、匈奴に追われ西走。
パミール高原の西、オクシアナへ入る
195
◇朝鮮、衛氏朝鮮、建国
→燕人の衛満、箕氏朝鮮を滅ぼす
364
先史時代・地質時代
377
先史時代・地質時代
○縄文前期(5500年~7000年前)
5000年~6500万年前
→標式は磨製石器。農業・牧畜など始まる
完新世(現世) 5000年
5000年~
○縄文海進(7000年前頃ピーク)
~
1万年前
1万年前
→海水面2・3m上昇。関東地方、奥地まで ◆中石器時代(1万~Ⅰ万2000年前)
海が侵入。台地に残る貝塚遺跡の由来
新
◆新石器時代(1万年前~金属器の利用まで)
→標式は磨製石器と打製石器の中間、細石器。
狩猟採取社会、弓、漁具を使う
※氷河期終わる
○ウルシの利用(8000年前)
第
生四
顕
紀
◆日本列島、大陸から分離(1万年前)
代
◆旧石器時代(Ⅰ万2000年~200万年前)
→標式は打製石器。狩猟採取社会
世
♦後期旧石器時代(Ⅰ万~3.5万年前)
代
|
生
命
誕
生
か
ら
現
代
ま
で
|
更新世
3万年前
○縄文時代、始まる(1万6500年前)
1万~
◆ベーリング海峡、露出(3万年前)
→新人、北米大陸へ入る。南米最先端へ至る(1万年前)
(氷河期)
~260万
260万年前
年前
○新人、列島に渡来(列島人、誕生)
(3万5000年~4万年前)
♦中期旧石器時代(3.5万~10万年前)
→新人、オーストラリア大陸へ入る(5万~6万年前)
。
双胴船、槍、石斧
第四氷期
♦マンモス象、北海道へ入る(6万年前)
♦前期旧石器時代(10万~200万年前)
間氷期
第三氷期
♦ナウマン象、大陸から入る(14万年前)
♦新人、ホモ・サピエンス(現代~20万年前)
間氷期
第二氷期
◆現代の五大陸、出来る
→ クロマニョン新人化石。10万年前、アフリカから
世界へ進出(出アフリカ)後に、旧人・原人を駆逐
間氷期
第一氷期
※出アフリカ
新
鮮新世
第
260万~530万年前
アフリカ単一起源説、ミトコンドリア・イブ
♦旧人、ホモ・ネアンデルターレンシス
三
第 紀
三
中新世
530万~2300万年前
◆日本海、誕生
(2万~40万年前)
(1500万~2000万年前)
→ 旧人。ネアンデル旧人化石・シャニダール旧人化石
紀
♦原人、ホモ・エレクトス(20万~150万年前)
漸新世
古
2300万~3390万年前
第
三
紀
◆ヒマラヤ・アルプス造山運動、始まる
→原人。ジャワ原人化石・北京原人化石
(2300万年前)
♦原人、ホモ・ハビリス(140万~230万年前)
始新世
→原人。アフリカで誕生。火と打製石器を使う。
3390万~5580万年前
180万年前、アフリカを出て、世界へ進出
暁新世
♦猿人、アウストラロピテクス・アフリカヌス
5580万~6500万年前
♦ほ乳類、鳥類、繁栄
(200万~300万年前)
♦被子植物(顕花植物)
、繁栄
※人類誕生の地
→アフリカ大陸東部、大地溝帯
※最も古い猿人化石
→サヘラントロプス・チャデンシス(700万年前)
※猿人と類人猿の違い
→直立二足歩行、道具を作り・使用、言語
378
付録
年号・西暦対応表
年号
西暦
あ
年号
西暦
安永
あんえい
安政
あんせい
あんげん
968~970
あんな
永延
永観
987~989
えいえん
永久
えいきゅう
永正
えいしょう
永承
えいちょう
1081~1084
永万
えいろく
1165~1166
延享
1069~1074
えんきゅう
延長
1336~1340
えんげん
延徳
えんぶん
923~931
えんちょう
延文
1489~1492
1744~1748
えんきょう
延元
1308~1311
えんきょう
1239~1240
えんおう
延久
延慶
1160~1161
延応
1375~1379
901~923
えんぎ
永暦
えいりゃく
えいわ
延喜
1293~1299
えいにん
永和
1558~1570
989~990
永仁
1381~1384
えいまん
永禄
永祚
えいそ
えいとく
えいほ
えんとく
1046~1053
永徳
1096~1097
1141~1142
えいじ
えいしょう
永長
永保
永治
1429~1441
えいきょう
1504~1521
983~985
えいかん
永享
1113~1118
1175~1177
安和
1227~1229
あんてい
え
西暦
安元
1772~1781
安貞
1854~1860
年号
延宝
1356~1361
えんぽう
1673~1681
延暦
782~806
えんりゃく
お
応安
応永
1368~1375
おうあん
応長
応徳
1311~1312
おうちょう
1394~1428
おうえい
応仁
1084~1087
おうとく
1467~1469
おうにん
381
あとがき
ネット時代の今、歴史の学び方・楽しみ方が大きく変わりました。
瞬く間に検索されるデータに満足し、「木を見て森を見ず」との戸惑いはないでしょうか。手に入れたデータの質
(真偽・確度)は大丈夫でしょうか。
歴史は時間軸での世の出来事の流れ、空間との関わりを持ちながら出来事を生みます。
本書は歴史の流れが一覧できる年毎に区切った年表方式。構成は太古の昔から出発するのではなく、今の時代
から始まる遡りの逆引きの年表です。ただし、年紀内での順序は日常の用にしたがい昇順とし、記事には、適宜、
月日を記しました。「因果の糸」を手繰りながら歴史を考えてみようとの試みです。ですから、あえて直近の
出来事から始めました。また、 世界史での出来事を併記しました。
記事の選定にあたっては、今に関わる重大・異常・画期な出来事を、江戸時代以前については歴史学習上での
参考な記事を掲げ、さらに、出来事などにまつわる背景・逸話・解説などを物語風のトピックスとして記しました。
そうした訳で年表に記した記事は、すべて公知の事実として辞書やネットで容易に確認できるものを挙げました。
「結果」・「原因」・「因果」・「その後」を考え合わせれば、従来の通説な史観ばかりが正しいとは言えない
ようです。
歴史の探求は学者ばかりの仕事、歴史を語る楽しみは小説家ばかりのものではありません。
歴史は民族の琴線。合理・公平・冷静な姿勢で臨まねばなりません。
二版あとがき
二版では、初版での誤字などを補正、各時代での記事を増補、新たに先史時代・地質時代を加筆しました。
二版を書き終えて、人間が物心ついて以来の有史時代は5・6千年、地球46億年の時間からみれば、
はかな
その100万分の1の一瞬を生きる 儚 い生き物が人間と改めて知りました。
今年、そんな儚い存在の人間が「重力波」の観測に成功しました。原子から宇宙までを統一する大法則へ、
神の創った「何か」へと迫る、大きな前進かもしれません。
さが
変わらないのは「古生代」以来の弱肉強食の性残る人間社会の姿。
しよう
科学の解き明かす深遠で至上な「何か」に触れ、精神生活を止揚しなければ、かつての恐竜族と同じように、
地球は、人間に退場を迫るかもしれないと思いました。
平成28年2月
著
者
【著者・発行人】
岳
邑二(たけ
ゆうじ)
【他の作品】
嚶鳴館遺草口訳
小説
新・元朝秘史
【改訂履歴】
平成27年3月29日
初版
平成27年4月
2日
補訂
平成27年4月20日
補訂
平成28年2月18日
補訂
【参考・引用図書等】
◆「朝日=タイムズ世界歴史地図」/朝日新聞社
◆オンライン百科事典、Wikipedia:ウィキペディア
◆「概説 現代史」
◆広辞苑
第四版
今津 晃著
東京創元社
岩波書店
◆「最新基本地図39訂版」/帝国書院
◆世界史小辞典
文英堂
◆「孫文革命文集」深町英夫編訳/岩波文庫
◆「大漢和辞典」諸橋徹次著/大修館
◆「中央アジア史」江上波夫編/山川出版
◆地球・生命―138億年の進化
谷合
稔
サイエンス・アイ新書
◆「地名の世界地図」21世紀研究会編/文春新書
◆「中国文明史」ヴェルフラム・エーバーハルト著/筑摩書房
◆「中国の歴史」J・K・フェアバンクス著/ミネルヴァ書房
◆日本は燃えているか(上・下)
◆日本史広辞典
山川出版
◆日本史小事典
文英堂
柳田邦男著 講談社文庫
◆「日本社会の歴史(上・中・下)」網野善彦著/岩波新書
◆「日本の仏教」渡辺照宏著/岩波新書
◆「仏教(第二版)」渡辺照宏著/岩波新書
◆「民族の世界地図」21世紀研究会編/文春新書
◆「蒙古襲来︱その軍事史的研究︱」太田弘毅著/錦正社
◆「モンゴル帝国史研究」村上正二著/風間書房