講 演 新 舞踊運動 の思想 佐藤多紀三 日本 の近 代 舞 踊 史 に於 け る新 舞 踊 運 動 の興 りは, 大 正6年, 当 時 の 藤 間 静 枝, 後 の 藤 蔭 静 樹 の 作 っ た 『藤 蔭 会 』 の舞 踊 公 演 か ら とみ られ て い る。 それ な ら ば, なぜ 新 舞 踊 が 『藤 蔭 会 』 なの か, そ の時 代 背 景 と, そ の 運 動 を動 か した人 び とは, 何 を考 え て, ど うい う こ とを して きたの だ ろ うか 。 それ で は話 の川頁序 と して, 新 舞 踊 とは な に なの か, とい うこ とで あ る。 常 に新 しい 舞 踊 を踊 れ ば そ れが 新 舞 踊 で は な い の か と考 え るの だが, そ れ を なぜ 特 定 の時 代 の 舞 踊 を指 す るの だ ろ うか 。 明 治 の 新 しい女 性 運 動 を見 て も分 か る よ う に, 平 塚 らい てふ の 「元 始 女 性 は太 陽 で あ っ た」 の 論 調 で 展 開 され た 『青 鞘 』の 発 行, こ の青 鞘 の名 は, 18 世 紀 にお こ っ た イ ギ リス の 婦 人 解 放 運 動 の 当 時 に, そ の 運 動 に参 加 し た婦 人 た ち が, 皆 ブ ル ー の ス トッキ ン グ を は い て い た の を"も じって"生 田 長 江 が 命 名 した ら しい が, この 人 た ち が 日本 の 女性 と して 始 め て, 女 性 の 意 識 覚 醒 と旧 道 徳 か らの解 放, 新 しい 家 族 制 度, 貞操, 母性 な どが 論ぜ られ て きた の で あ る。 また 明 治37年, 日露 の 戦 時 下 に, 国 際 化 をめ ざ す 日本 の 芸 術 論 と して, 坪 内 迫 遙博 士 の 『 新 楽劇 論 』 の提 唱 で あ る。 藤 蔭 会 が 生 ま れ るべ く, そ の前 駆 的 社 会 背景 は 表 現 され つ つ あ っ た の で あ る 。 そ の1つ は 長 谷 川 時 雨 の舞 踊研 究 会 で あ る 。 そ の 時 雨 の 実践 の1つ と して狂 言 座 の 菊五 郎, 三津 し, 新 舞 踊 運 動 と しての 歴 史 的 な藤 蔭 会 の誕 生 は, そ の 年 秋9月, 当 時 の近 代 劇 場 有 楽 座 にお い て 行 わ れ た, 藤 蔭 会 第2回 公 演 か ら とみ てい い の で は ない だ ろ うか 。 新 作 と して上 演 さ れ た のが, 長 谷 川 時 雨 作 「出 雲 於 国 」 で あ った 。 この 時 の 舞 台 装 置 を初 め て 美 術 家 が 担 当 したの で あ る。 洋 画 壇 の 泰 斗 和 田 英 作 氏 が 静 枝 の 前 途 に饅 む け た の で あ った 。 この 第2回 藤 蔭 会 公 演 の 日の 東 京 の 街 は, 大 暴 風 雨 に乱 れ 狂 って い た そ うだ 。 そ れ は藤 蔭 会 に 生 涯 をか け た 静 枝 の, 歴 史 を物 語 って い る よ うな 門 出 で あ った の か も しれ な い 。 藤 蔭 会 の 仕事 が, 静 枝 自身 の舞 踊 へ の 激 しい意 欲 で あ る こ と には 違 い な い が, 静 枝 を通 して 新 しい 舞 台芸 術 と して の 舞 踊 を, 歌 舞 伎 舞 台 と違 う因襲 に と らわ れ な い で 舞 台 をつ くろ う と, そ こに情 熱 を燃 や した3人 の男 が い た の だ 。 和 田 英 作 氏, 氏 は 当 時 東 京 美 術 学 校 の校 長 で あ っ た 。現 在 の芸 大 で あ る 。私 も初 め は, なぜ 和 田先 生 が と思 っ た の だが, 先 生 は進 歩 的 で与 謝 野 晶子 の 「明星 」 な どに も関係 して い る の で あ る。 福 地 信 世 氏 は工 学 博 士 で 中 国演 劇 の研 究 家 で あ り, 福 地 桜 痴 の息 で あ る桜 痴=福 地 源 一郎 は, 東 京 日 日(現 毎 日)主 筆, 初 代 社 長 で また劇 作 家, 「鏡 獅 子 」 な ど の 作 者 で もあ り, 歌 舞 伎 座 で 初 め て わが 国 に活 動 写 真 を上 演 した。 そ して活 動 写 真 と命 名 した の も桜 痴 で あ る。 そ の桜 痴 の息 子 で あ る。 新 しい こ とが き らい な はず が な い。 五 郎 な どの 試 演, ま た大 正 初期, 同 時代 的機 運 と して 帝 劇 に招 か れ た, G・Vロ ー シ ー に よる, 西 洋 舞 踊 の わ が 国 へ の 移 伝 な ど, こ れ は石 井 漠 や, 高 田 雅 夫 を育 て, 音 楽 の 山 田耕 搾 な ど もこ こ を 通 って次 の発 展 へ と進 ん で い る。 そ れ らの 出 来 ご とが, 若 き 日の静 枝 に強 烈 な影 田 中 良氏, 和 田英 作 先 生 につ い て来 た美 術 学 校 の学 生 で あ る。 洋 画 家 の描 い た舞 台 の下 絵 で は, 有 楽 座 の大 道 具 も手 が 出 な か っ た。 そ こ で美 校 の 学 生 が4, 5人 で 来 て学 生 服 で 舞 台 背 景 を描 い た の だそ う だ。 こ こ に人 の 出 会 い と運 命 が あ る のか も しれ ない 。 田 中氏 は特 に(福 地 氏 亡 き後 も)新 舞 踊 の育 ての 響 を与 え た こ と を本 人 か ら何 度 も聞 い て い る。 そ の 時代 思 潮 は, 『藤 蔭 会 』 をつ くった最 初 の 同 人, 和 田英 作, 福 地信 世, 田 中 良 の3人 の思 い も同 じ で あ っ た の で は な い だ ろ う か。 そ うい う時代 思 想 を持 っ た人 び と に よ っ て展 開 され た新 しい舞 踊 運動 。 私 はそ れ を時 代 区 分 の 上 で大 正 時 代 か ら昭和 初 期 の 日本 舞 踊 の 中で 行 われ た革 新 的 な, 創 作 舞 踊 活 動 を, 近代 社 会 にお け る, わ が 国 の新 舞 踊 運 動 と認 識 して い るの で あ る。 藤 蔭 会 の 第1回 舞 踊 公 演 が 行 わ れ た の は, 大 正 6年5月(1917年)常 磐 木 ク ラ ブで あ った 。 しか -64- 親 と して, そ の 生 涯 を, 新 しい 舞 台 芸 術 の 創 造 と, 舞 踊 家 の 育 成 の た め に捧 げた の で あ る。 静 枝 の 藤 蔭 会 は, 和 田英 作, 福 地 信 世, 田 中良 の3氏 を同 人 と して 出 発 し, 香 取 仙 之 助, 町 田博 三氏 が 文 芸, 音 楽 で 参 画 し, 遠 山 静 雄 氏 が 舞 台 照 明 に新 分 野 を開拓 した の で あ る 。 大 正9年, 香 取 仙 之 助 作 「浅 茅 ヶ宿 」, 同10年 福 地 信 世番 飛案 「思 凡 」, 宮 城 道 雄 曲 「落 葉 の 踊 り」 「秋 の調 」 な ど歌 詞 の ない 器 楽 曲へ の振 付, 管 弦 楽 伴 奏 に よ る作 品, 群 舞 に よ る作 品, 等 々 静 枝 の 創 作 活 動 は飽 くこ と を しら な か っ た。 ま た 同 時 代 には, 市 村 座 で催 され た 花 柳 徳 太 郎 氏 の 柳 桜 会 で, 香 取 仙 之 助 氏 が 初 め て 「新 舞 踊 」 の名 を付 した 「 惜 しむ 春」 が徳 次(花 柳 珠 実)に よ っ て踊 られ て い る 。 続 い て新 しい 劇 と舞 踊 を 目標 と して 市 川 猿 之助 氏 が 「 春 秋 座」 を結 成 され た の が 大 正 9年 で あ る 。 大正 期 に は楳 茂 都 陸平 氏 が宝 塚 少女 歌 劇 で 新 舞 踊 を上 演 し, 歌 舞 伎 俳 優 た ち も五 世 中 村 福 助 の 「羽 衣 会 」 大 正11年, 七 世 尾 上 栄 三 郎 の 「踏 影 会」, な どが 行 わ れ た が, 日本 舞 踊 家 に よ る新 舞 踊 発 展 の大 きな契 機 に な っ たの は2代 花 柳 寿 輔 氏 に よる大 正13年4月 の花 柳 舞 踊 研 究 会 の 公演 で あ る。 こ の年 は他 に 「若 柳 流 研 究 会 」 や 林 きむ 子 の 「銀 閃 会」 な ど も創 立 され て い る 。 こ う し た大 正 期 にお け る 新 舞 踊 運 動 も昭 和 に な っ て大 き く開 花 期 を迎 えた 。 静 枝 の 仕 事 も昭和 4年 のパ リ公 演 を経 て 一 段 と発 展 した の で あ る 。 と同 時 に, 花 柳 珠 実(五 條 珠 実), 花 柳 寿 美, 藤 間春 枝(吾 妻 徳 穂), 西 崎 緑, 藤 間 観 素 餓, 林 き む子, 藤 間 喜 与 恵 氏 な ど新 舞 踊 界 は擦 乱 と花 咲 い た もの で あ った 。 た だ 静 枝 に と って は惜 しむ ら く は, 円 熟 した 世代 が 第 二次 世 界 大 戦 に よ って は ば まれ た こ とで あ る 。 しか し, どの よ うな 困難 な 時代 を通 っ て 来 て も 静 枝 は舞 踊 に対 す る情 熱 を最 後 まで 失 わ ず, 感 覚 の お とろ え も見 せ な か っ た 。 話 は前 後 す る が, こ う した静 枝 を育 て た の は, 二 世 藤 間勘 右 衛 門 師 で あ る 。 静 枝 が 踊 りの 道 に 入 っ て か らの苦 しい修 業 の 時代 に も, 新 しい 方 向 をめ ざ した こ とに対 して も, 常 に深 い恩 情 を も っ て 見 ま もっ て くれ た の で あ っ た。 静 枝 は勘 右 衛 門 師 を恩 師 と して 限 りな く畏 敬 して い た。 しか し, 静 枝 の新 舞 踊 運 動 が 進 む につ れ て, 創 作 活動 が 当 時 の伝 統 の世 界 に相 入 れ られず, :藤 間流 を は な れ て藤 蔭流 を興 す こ と に な っ た。 創 流 は昭 和6年9 月 で あ る。 昭 和32年, 静 樹 とな り, 33年 宗 家 を樹 立 して い る。 生 涯 を閉 じたの は昭 和41年 で あ っ た 。 時 間が な いの で は し ょっ て書 い て しま っ たが, 一 番 大 事 な, なぜ そ の 作 品 を踊 っ たの か, そ れ は 時 代, 時 代 に問題 が あ るの だ が, 今 日 は, 私 は こ こ で ゆ る され る時 間 の 中 で お 話 で き た ら と思 っ て い る。 ・ ま ず 初 め に 「思 凡 」 で あ る。 「思 凡 」 が なぜ 多 わが 国で は昔 か ら文 学, 音 楽, 劇 い ず れ で も, 万 葉, 平 家 物 語 以 来, 世 の 栄 枯 盛 衰, 人生 の 哀 感 を うた っ て い る が, ま た た しか に そ れ は永 遠 の テ ーマ で はあ るが, 抑 圧 か らの 解 放 と い う思 潮 も また, 明 治, 大正 が 求 め た もの の1つ で あ った こ と に は違 い な い 。 また, 大 正 時代 の新 舞 踊 運 動 は 舞 台 公 演 だ け で な く, 当 時一 般 家 庭 で盛 ん に な っ た童 謡, 民 謡, 歌 謡 曲 に振 付 して, だ れ で も, ど こで も踊 られ る よ うに な っ た。 そ れ は北 原 白秋, 野 口 雨情, 西 條 八 十 な どの作 詞 家 や, 宮 城 道 雄, 弘 田龍 太 郎, 中 山普 平, 古 賀 政 男, 山 田耕 行 窄な どの作 曲 家が 輩 出 して歌 や, 踊 が 全 国 的 に広 が っ た ので あ っ た。 藤 蔭 会 の 作 品 が もっ と も鋭 角 化 した時 代 は静 枝 が 昭 和4年 に ヨー ロ ッパ か ら帰 国 して か らで あ る。 静 枝 の ヨー ロ ッパ 体 験 は強 烈 で あ っ た ら しい 。 第 一 次 世 界 大 戦 の 疲 弊 か ら まだ た ち直 っ てい ない ドイ ツや, フ ラ ンス の 街 中 の小 さな 劇 場 で 踊 る3 人, 5人 の踊 り子 た ち が, 舞 台 にあ る の は 鮮 烈 な 照 明 だ け, 身 に わ ず か な 衣装 で は だ し, そ の 時代 の ヨー ロ ッパ の 「新 舞 踊 」 を見 て来 て か らの, 静 枝 の踊 りが 急 激 な変 化 を見 せ て い る。 「明 日 を 支 配 す る舞 踊 」 と 名 打 た れ た 「歯 車 1950」 は, 舞 踊 家 の個 性 表 現 を主 とす る在 来 の舞 踊 形 式 を打 破 し, 静 枝, 嘉 子 等 の名 を必 要 と しな い 単 な るA, Bで 足 りる没 個 性 の舞 踊 家 の ダ イ ナ ミ ック な動 き, も し くは運 動 の構 成 美 に力 点 を置 くもの で, 視 覚 に訴 え て人 を快 感 の 中 にお ぼ ら し め る, 在 来 の 唯 美 的 舞 踊 の 観 念 よ り解 放 し, 専 ら 観 者 の イ ンテ レ ク トに訴 え, そ の 心 を激 動 させ て 思 索 に導 こ う とす る。 「そ こ には 明 らか に練 習 の 不 足 と計 画 の ぞ こ よ り来 る破 綻 が 多 々 あ っ た 。 そ れ に もか か わ らず, 終 って もな お 人 の心 を と らえ て放 さな い もの が あ る 。」 と, 舞 踊 評 論 家, 牛 山 充 氏 が 昭和6年10月 7日 の 東 京朝 日新 聞 に書 い て い る 。 静 枝 は もち ろ ん, 始 め か ら新 舞 踊 運動 を興 す つ も りで踊 の 会 を始 め た わ け で は な い。 静 枝 が 明治 時 代 に 日本 が新 しい西 欧 化 して行 く 思 想 に引 か れ たの も, 彼 女 は もっ と も古 い社 会 で あ る遊 芸 の 中で 育 っ た だ け に, 因襲 に と らわ れ た 世 界 に 人い ち ばい 反抗 を感 じて い た のか も しれ な い。 いつ の時 代 で も, 出来 上 が っ た社 会 に新 人 の 登 場 は大 変 で あ る。 今 日, 振 りか え っ てみ る と, 静 枝 は一 番 め ぐまれ た時 代 に育 っ たの か も しれ な い。 日本 の 文 化 が 近代 化 して ゆ くそ の 始 め の 波 に乗 れ た の だ と思 う。 日本 の 思 想, 文 化 そ の もの が 西 欧 の 自 由, 民 主 の 思 想 を受 け て 近 代 化 した 時 代 で くの 問題 を投 じた か, そ れ に は 「 思 凡」 に は物 語 も, お 芝 居 も な に もな い か らで あ る 。 あ るの は た だ, 親 の ため に髪 を落 と して, 尼 寺 に 入 れ られ, 閉 じこめ られ た1人 の 少女 が, 山 門前 で遊 ぶ 同 年 代 の 娘 た ち に引 か れ て, 本 堂 の羅 漢 様 も男 性 にみ え, 袈 婆 も法 衣 も脱 ぎす て て寺 を逃 げ 出 して, 自 由 と解放 を求 め る だ け の話 で あ る。 あ った の だ 。 *1994年 度 春 季 第37回 舞踊 学 会 『舞 踊 學 』18号 よ り転 載 -65-
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