感想 ・オバマ大統領のスピーチ オバマさんのスピーチは民衆でもわかる簡 単な言葉と、ゆったりと聞き取りやすい口調で あったため、分かりやすいものでした。また、 今こんなにも平和に暮らすことができている ことは、本当は当たり前なことではなく、貴重 であることに改めて気付くことができました。 戦争は失うものばかりで得られるものなど意 味のないものだと思います。誰も望んでいない 残酷な戦争が、いつかすべての国から消え去る ことを心より願います。健康であることや、人間関係を大切にすることなど、生活していく中で さまざまなことがあるかもしれないけれど、それはすべて生きているからこそであって、生きて いなければ何もないのです。私たちはこのことを決して忘れてはいけません。原爆で亡くなって しまった、後遺症が残ってしまった、大切な人を亡くしてしまった、そんな辛い思いをした人た ちのためにも、もう二度とこのような酷いことが起きないように平和を守り続ける義務があると 思います。 今回を機にオバマさんのスピーチの内容や原爆について興味を持ち、より深く調べてみようと 思いました。スピーチの声と英文を同時進行で見ることができるため、より内容を理解しやすか ったです。 ・弓浜絣 私は、弓浜絣というもの自体を知りませんでした。今回 初めて弓浜絣職人の方の映像を拝見し、綿をとり、種をと るところから始まり、本当に細かな作業ばかりで驚きまし た。こんな風に手作りで着物を作っている場が少なくなっ てきている中で、ここまで60年間続けてきたことは本当 に素晴らしく誇れるものだと思いました。出来上がった1 つ1つのものに作った人の温かな思いが込められている 様に感じます。 現代では多くのことが人間の手を必要とすることなく 機械が行っています。機械の方が手作りのものより効率的 であり、勝っているかもしれません。しかし、そんな今だ からこそ、人のぬくもりを感じられるものを守ることが大切だと思いました。古くから続いてき た鳥取県の伝統を簡単に終わらせてしまっては勿体なく、悲しいことです。そのため、伝統を守 り抜くには映像の中にも出てきていたように、若い人たちにこういったものがあることを伝え、 広めていくことが弓浜絣の伝統を守るための一歩だと思いました。 But as Monica Ford explained, freedom should not be taken for granted. しかし、モニカ・フォードが説明したように自由はあって当たり前のものとして受け入れる べきではない。 You must always re-evaluate. It is something that you should be willing to fight for. 私たちは常に再評価しなければならない。民主主義国は、それを求めて戦おうとすべきなのだ。 《デンタルフロスの説明、感想》 デンタルフロスで歯と歯の間を一日一回磨くことが よい。歯間ブラシと歯ブラシは一対である。力づくに入 れず、揺らしながら歯茎の奥まで入れることがポイント であり、最初は血が出ても大丈夫である。 私はそれほど歯間ブラシが大切であることを初めて 知りました。歯間ブラシを毎日使っていなかったため、 今回を機に行っていきたいと思います。また、歯茎の中 にまで歯間ブラシを入れている映像にはとても驚きま した。痛そうに見えるけれど、最初は血が出ても大丈夫 なことなので、安心して行えると思います。 It's good to polish between the tooth and the tooth once a day by a dental floss. Interdental brush and the toothbrush is one pair. We can't put interdental brush in force, and it's a point to put to the depths of the gums while shaking it. And even if I bleed from the gums at first, is all right. I found interdental brush so important for the first time. I wasn't used Interdental brush every day, so I'd like to use it now. I was even surprised very much that I watched a picture of interdental brush in the gums. It seems painful, but even if I bleed from the gums at first, is all right, so I think that I can and do surely. ルート1 Root one was already the Native Americans before European began to move into America. ボストン茶会事件 ボストン茶会事件とは 1773年、イギリスが茶会(茶条令) を制定し、東インド会社に茶の専売権を与え たことに反対するアメリカ植民地の急進派 が起こした事件。北アメリカには、17 世紀後 半にコーヒー、ココア、紅茶が伝わっていた が、イギリスの紅茶の飲用習慣をそのまま引 き継いで、当時は紅茶の方が普及していた。 しかし、ボストン港に入港していた同会社 の船に侵入したモホーク族に変装した男達 が、茶箱342箱(価格1万8千ポンド)を 海中に投棄し、夜陰に乗じて逃げた。イギリ ス当局は犯人を捕らえようとしたが、植民地 人は「ボストンで茶会(ティーパーティー) を開いただけだ」と冗談を言ってごまかし、 真犯人は検挙できなかった。 これに対する報復としてイギリス本国はボストン港を封鎖し、さらに強圧的諸条令を制定して 植民地側を屈服させようとした。反発した植民地側はイギリス製品の不買運動などに立ち上がり、 1774年9月にフィラデルフィアで大陸会議を開催して13植民地の代表が集まり、本国との 対立は決定的となって、1775年のアメリカ独立戦争となる。このようにボストン茶会事件は、 アメリカ独立戦争勃発の引き金となった事件であった。 事件の背景 ボストン茶会事件は、イギリスは当時、莫大な戦費のために国の財政が窮乏していた。そこで、 時の国王ジョージ3世は「植民地防衛のための費用なのだから、植民地に分担させよう!」と考 え、関税法を改めて税金の取りたてを強化した。当然ながら、植民地だったアメリカの立場から すれば、本国であるイギリスの負担が自分達に押し付けられる格好になるので、本国だけにとっ て都合の良い税制に反対するのも当然といえる。後に税制は一部撤廃されるが、茶税は依然とし て植民地の負担として残ってしまった。イギリスの北アメリカ植民地ではタウンゼンド諸法の撤 廃(1770)後も茶税のみ残され,1773 年には茶税法が制定され,茶は植民地人にとって本国の重商 主義的圧制のシンボルとなっていた。 こうした事態の中、1773 年 12 月 16 日の夜に事件は起こった。毛布やフェイスペイント等でモ ホーク族風の簡易な扮装をした 3 グループ、50 人ほどの住人がボストン港に停泊していた東イン ド会社の船を襲撃。 「ボストン港をティー・ポットにする」と叫びながら、342 箱の茶箱を海に投 げ捨てた。この事件を契機として、フィラデルフィアなどでも「ティーパーティ」が開かれ、最 終的には独立戦争へと発展した。こうして、アメリカ独立戦争が始まり、アメリカは独立国とし て建国されることになった。 茶法(茶条令) Tea Act 茶条令ともいう。イギリス本国がアメリカ植民地に対して出したタウンゼンド条令以来、 茶輸入に課税されていた植民地側が、対抗上オランダからの茶を密輸入するようになったため、 以前から経営難に陥っていた東インド会社は打撃を受けた。その東インド会社を救済するため、 政府は会社手持ちの茶を、イギリス仲買人を経ずに植民地に直売し(密輸茶より安い価格で販売 できるようにし) 、植民地の茶市場の独占を認めた。それが1773年の茶法(条令)である。 植 民地側は茶の密輸業者だけでなく、一般貿易商、消費者も、東インド会社による商品市場の独占 につながる、として激しい反対運動を展開した。 アメリカ人はなぜコーヒーを飲む? ボストンで本国の植民地政策に対する反対の中心にな っていたのはサミュエル=アダムス、及びサンズ・オブ・ リヴァティーの面々であった。彼らは、茶の不輸入運動を 展開、密輸業者も同調した。さらに、ボストンの婦人達は 茶を飲まない誓いを立て、かわりにコーヒーを飲むように した。アメリカ人は茶条令を機会に、茶碗から、コーヒー茶碗へと転向した。 ボストン港封鎖 ボストン茶会事件の報復としてイギリスは、1774年3月、茶会事件の損害1万5千ポンド を弁償するまで、ボストン港を閉鎖するという法案を通過させ、6月1日に実施した。ボストン 通信委員会のサミュエル=アダムスは5日「厳粛な連盟と規約」を作成、イギリスとの一切の取 引の停止とイギリス製品のボイコットを決議。植民地と本国は「経済戦」に突入した。ボストン の経済は破綻状態になったが市の失業対策委員会は公共事業を拡大し対応した。また、他の植民 地諸州もマサチューセッツ支援に立ち上がり、大陸連合会議開催の気運が高まった。イギリスは さらに「強圧的諸条令」を制定した。 強圧的諸条令 1774年5月にイギリスが定めた条令で、「耐えがたき条令」 Coercive Acts とも言う。ボ ストン茶会事件にたいする報復としてボストン港封鎖の措置に続いて定められたつぎのような内 容の条令である。 1. マサチューセッツ統治条令:参議会議院を勅任とし、町会は総督の許可無く開催できない。 (王政支配を強化し、タウン-ミー ティングの実権を奪おうとしたもの。 ) 2. 裁判条令:総督は裁判を本国で行う事が出来る。 3. 軍隊宿営条令:軍政を布くための施設の徴用を可能にする。 4. ケベック条令:ミシシッピまでの地域をインディアン保留地とし、自由な開拓を認めず、 その地域でのカトリック信仰を許可。 これらのイギリス本国の制裁措置に対して植民地側は1774年9月、フィラデルフィアで大 陸会議を招集し、イギリス本国との通商を拒絶することを決議し、両者の対立は緊張の度合いを 増し、ついに1975年4月、武力衝突が起きてアメリカ独立戦争が始まる。 第1回大陸会議 Continental Congress イギリスの強制的諸令 に対してアメリカ植民地の12の代表(13 植民地 の中のジョージアをのぞく)がフィラデルフィアに 集まって開催され、その後、独立革命の最高の連絡 会議となったもの。3分の1は愛国派(パトリオッ ト) 、3分の1は国王派(ロイヤリスト) 、残りが中 間派という構成であり、最初から独立を志向したわ けではなかった。 しかし愛国派の主張によって「宣言と決議」で植 民地に対するイギリスの議会の立法権の全面的否 定と、イギリスとの不輸入、不輸出、不消費を守る ための「大陸通商断絶同盟」結成を宣言した。参加 者の中にはヴァージニアのジョージ=ワシントン とパトリック=ヘンリ、マサチューセッツのサミュ エル=アダムス、ジョン=アダムスなどがいた。 Beaver Ⅱ号 ボストン茶会事件の舞台となった3隻のうちの1隻で、当時のものを復元した。 アメリカ独立戦争とは 1775年4月、イギリ ス軍は植民地人が武器を貯 蔵しているとしてマサチュ ーセッツのコンコードに舞 台を派遣した。警戒してい た植民地人は、イギリス軍 がレキシントンの町にさし かかったときに一斉に銃撃、 さらにボストンに撤退する イギリス軍を追撃してゲリ ラ戦でその多くを殺した。 このレキシントンの戦いからアメリカ独立戦争が始まった。この時の植民地側民兵は、服装もま ちまちで、銃一丁を手に、数分で戦う準備ができたので、ミニットマンと言われた。 フィラデルフィアでは第二回大陸会議が招集され、ワシントンを司令官として独立戦争を開始 した。ワシントンの率いる独立軍には植民地人が民兵として参加し、急遽ボストンの救援に向か い、バンカーヒルの戦いで衝突した。民兵はよく戦ったが、組織的な戦いができず、また弾薬が 不足したため押されるようになった。各地で起こった植民地軍とイギリス軍の戦いも、次第にイ ギリス軍が優勢となっていった。そのようなときに、1776年1月、トマス=ペインが発表し た『コモン=センス』は、アメリカの独立が人間の権利にもとづく正義の戦いであると論じ、多 くの植民地人に自信と勇気を与えた。第2回大陸会議は同76年7月4日にアメリカ独立宣言を 全会一致で採決し、新しい国家の独立を宣言した。しかしこれですぐにアメリカ独立戦争が終わ ったわけではない。 7月の独立宣言がだされたとき、ワシン トン麾下のアメリカ軍は約2万の兵力があ った。しかしニューヨークの戦いでは壊滅 的な敗北を喫し、年末にはわずか 3000 に減 っていた。多くの民兵は戦いに疲れ、自分 の村に逃げ帰ってしまった。クリスマスの 夜、ワシントンは少数の兵士を率いて凍り ついたデラウェア川を渡り、対岸のドイツ 人傭兵部隊(ヘシアン(右絵)と言われた) を奇襲して敵を倒して持ちこたえた。大陸 会議も、兵士への給料支給と西部の土地の 無償提供を約束して兵力の増強を図った。しかし、イギリス軍はアメリカ軍の本拠地フィラデル フィアを占領し、大陸会議は西部に避難、町では王党派による独立派に対する報復が行われ、危 機が続いた。ワシントン軍はフィラデルフィアの近郊バレーフォージという小村で飢えと寒さに 耐えなければならなかった。 (4 枚画像左上から時計周りに:バンカーヒルの戦い、ケベックの戦いにおけるリチャード・モン トゴメリー将軍の死、カウペンスの戦い、サン・ゼヒンテ岬の月光の海戦) 第2回大陸会議 1775年4月に本国軍と植民地民兵が武力衝突し、アメリカ独立戦争が始まったことを受け て、1775年5月10日、フィラデルフィアで第2回大陸会議が開催され、13植民地の代表 は、 「武力抵抗の理由と必要の宣言」を採択、アメリカ連合軍を創設し、ワシントンを総司令官に 任命した。 さらに、ワシントン軍はボストンに向かい、ヨーロッパ諸国と外交関係を結ぶために外交使節 の派遣と戦争遂行に必要な紙幣の発行を決めた。7月、フランクリン(ペンシルヴァニア代表) が「連合の規約と永久の連合」案を作成した。次いで1776年に、独立宣言を採択した。当初 は中央政府が無かったので、大陸会議が中央政府の役割を担った。1777年には最高規定とし てアメリカ連合規約を制定し、各州の批准を経て1781年にそれが施行されてアメリカ合衆国 が成立してからは、 「連合会議」と呼ばれるようになる。 独立戦争の勝利の要因 イギリスのコーンウォリス将軍はアメリカ独立の息の根を止めようとヴァージニアのヨークタ ウンに進攻した。しかしこの地は半島の先端の行き詰まりであった。ヴァージニアの地形を熟知 するワシントンは、好機到来とばかり、ニュージャージーから急遽南下し、ラファイエット指揮 のフランス軍も参加して攻撃、さらにフランス海軍がチェサピーク湾の海上からイギリス軍を砲 撃した。袋の鼠となったイギリス軍は降伏、この1781年のヨークタウンの戦いで、アメリカ の独立は決定的になった。その後も散発的に戦闘はあったが、事実上独立戦争は終わり、178 3年の講和条約であるパリ条約でアメリカは独立を認められ、さらに国境をミシシッピ川まで伸 ばすという勝利で終わった。 豆知識 「ティーパーティー(Tea Party)」 という名称は、当時の宗主国イギリス の茶法(課税)に対して反旗を翻した 1773 年のボストン茶会事件(Boston Tea Party)に由来しており、同時に ティーは「もう税金はたくさんだ (Taxed Enough Already)」の頭字語 でもある。また、なぜ海でお茶会と疑 問に思う方もいるかもしれないが、英 語の「Party」には色々な意味があり、 「バースデーパーティー」など公式に 人が集まること=「パーティー」の意 味もありますが、 「同じ志を持つ人が集まること=グループ」の意味もあります。例えば、アメリ カの政党の民主党は「The Democratic Party」です。この時の「Party」は政治のグループの意味 で「政党」を意味します。この Boston Tea Party は、ボストンの紅茶の事件を起こすために集ま った政治的なグループの意味と、ジョークやその事件の趣旨からお茶会の意味との両方の意味が あるのかもしれない。 紅茶の歴史 【紅茶は中国から】 お茶文化発祥の地、お茶の原産地は中国の雲南省。紅茶、緑茶、ウーロン茶共に同じ茶の木の 葉が原料です。なので、紅茶の歴史もここから始まる。中国では有史以前から薬として飲まれ、 10 世紀には陸路、海路から中近東に広まっていきます。陸路、シルクロードから広まったものは 「チャ」と呼ばれ、海路から広まったものは「テ」と呼ばれました。その結果、インド、トルコ などは「チャ」 「チャイ」などと呼ばれ、イギリス、オランダなどでは「テ」「ティー」と呼ばれ る。 【中国からヨーロッパ、そしてイギリスへ】 ヨーロッパにお茶が伝わったのは 16 世紀になっ てからだった。それも、紅茶ではなく不発酵の緑茶 だった。ヨーロッパ内でお茶を広めたのは当時、世 界一の貿易国だったオランダである。そのオランダ での当時の飲み方はカップのお茶をお皿にあけて飲 むという風変わりなものだった。 イギリスに紅茶が広まったのはポルトガル王女の キャサリンがイギリスのチャールズ 2 世と結婚した からである。キャサリン王女はかなりお茶好きだったようで、イギリスへの嫁入り道具として喫 茶道具、中国茶、砂糖を持っていった。それによりお茶に砂糖を入れて飲む贅沢な飲み方が広が り、宮廷や上流階級に喫茶の風習が広まったのだ。 その後イギリスは 18 世紀後半、当時植民地であったインドのアッサム地方で野生の茶木を発見 した。その後、インドやセイロン(現スリランカ)に茶園を作り、大量生産されるようになった。 それにより中国のキーマン、インドのダージリン、セイロンのウバの世界3大銘茶が生まれた。 【紅茶によりアメリカ独立】 イギリスよりも早く喫茶の風習が伝わっていたアメリカ。財政的に苦しくなっていたイギリス は紅茶への関税をめぐりアメリカと争うことになる。茶税反対運動が続き、ボストン茶会事件(ボ ストン・ティー・パーティ事件)が起こる。茶税反対者が大量の茶箱を海に投げ捨てたのだ。こ れがきっかけで茶税反対運動はアメリカの独立という大きなものになっていく。 【日本へ】 日本では中国から奈良、平安時代に仏教を伝えた僧侶により緑茶が伝わったとされている。鎖 国もあり、紅茶と出会うようになるのは明治時代になってからだった。ただその時代は上流階級 のものと言った感じで、一般の人たちの口に入る事はなかった。日本で一般に広く販売されたの はイギリスから輸入されたリプトン紅茶である。昭和になり、日本ブランドの紅茶、三井紅茶(現 日東紅茶)も登場した。今は、イギリス、フランス、インドなど様々な国やメーカーの紅茶を楽 しむ事が出来る。 感想 ボストン茶会事件により、アメリカは独立できる要因になったが、それ以外にもコーヒーを主 に飲むようになったという、現代にまで影響していることにとても驚いた。また、この事件は、 「税金を取られること」への抵抗と、 「アメリカの独立の原点」という2つの意味合いを持つと考 えることもできると思った。ボストン港に入港していた同会社の船に侵入した人たちは、なぜモ ホーク族に変装したのだろうかと疑問に思ったが、ばれると殺されてしまうからなのであろうか。 このようなことで多くの被害を招く戦争へと繋がっていくのは本当に悲惨なことで、悲しいこと だと思った。今でもまだ多くの地で戦争や紛争があるが、こういった事件が起きぬよう平等であ ることは本当に大切なことだと感じた。 授業の感想 前期の授業を通して、教科書だけでは学ぶことのできない多くの知識を得ることができた。オ バマ大統領の演説や、弓浜絣、デンタルフロス、眠れる森の美女、ピーターラビット、など数々 のものを見てきた。眠れる森の美女、ピーターラビットでは、普段日本語で聞いているものが英 語であるため、内容を理解するのは少し難しかったけれど、映像とともに見ることで、字幕の英 語と見合わせて、意味を考えることができた。ルート 66 の映像を実際に見ることで、教科書だけ で想像していたものよりもはるかに規模が大きく、壮大であり、アメリカの地図も見ることで、 距離の感覚をつかむことができ、より教科書を読んでいてイメージが沸きやすくなった。文章だ けでは伝わりにくいことも、映像を見ることでこんなにもイメージが広がるのだと感じた。また、 多くの国の映像から、日本と全く違う感覚を味わえ、海外に興味を持つようになった。他にも様々 な国を見て知っていきたい。中でも一番私の心の中に残ったのはキング牧師の話だ。何度も逮捕 され、多くの批判を受けながらも黒人に対しての扱いが平等になるまで訴え続けた牧師は本当の 英雄だと思う。自分だけでない世界のためにここまでできる人は世界に何人いるだろうか。白人 の支持も受けるほどの多くの人の心に響いた彼の演説は、普段テレビで見るような演説とは違い、 心の底から訴えている魂の入ったものであった。この演説も文章で見るだけと、映像を実際に見 るのではまるで迫力が違った。前期では、映像を使った多くの教材を見ることで、多くの知識を 得ることができとても楽しい授業だった。 ありがとうございました。 参考文献 https://www.ucc.co.jp/enjoy/encyclopedia/history/popup/w_1773.html http://www.yk.rim.or.jp/~kimihira/yogo/04yogo11_2.htm#017 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%A1%E3%83%AA%E3%82%AB%E7%8B%AC%E7%AB%8B%E 6%88%A6%E4%BA%89 http://www.ocha.tv/history/expansion/
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