第二部曲紹介

ウェスト・エンドが呼んでいる!(West End Calls!)
ミュージカル
「マンマ・ミーア!」(Mamma Mia!)「オペラ座の怪人」(Phantom of the Opera) 曲解説
SWHE Tp&トレーナー
植村
哲
(11 月末、杉並は丸ノ内線の東高円寺駅の出口で、寅さん風の怪しげな宣伝が聞こえてくる)
(香具師その 1)(売り口上を述べる)
さぁてお立ち会い、師走も間近の高円寺、寒風嫌いなんて言わないで、ちょいとあちらを覗いてご
らん、セシオンホールで大開催、楽器を持てば鬼に金棒、音楽集団すうぇ~が贈る、年末前の吹奏
楽大感謝祭~!!(ポポンポン!)
・・・なーんて劇作風に始めてみましたが、今度の定演はいくつかのテーマが並列して提供される仕
組みになってまして、第二部がミュージカル、しかもロンドンにゆかりの深い作品を二つお届けするも
んですから、ちょっとこんな調子に・・・す、すみません。ま、本題に入りましょうか?
I ロンドン・ミュージカルの歴史
さて、ロンドンのエンターテインメントと言えば今や条件反射的に「ミュージカル!」と出てきます
が、一体いつからこのミュージカルがロンドンで十八番となったのでしょう?
1 ロンドンの「ミュージカル始め」
ミュージカルの歴史をどこまで遡るのかは考え方次第ですが、歌や音楽も使った舞台演劇という意味
では西洋社会では既に古代ギリシャ時代の円形劇場で上演される演劇にそうした性格が見られたところ
です。時に「暗黒時代」とも言われる中世でも、風刺や娯楽を兼ねた音楽付きの演劇は民衆の心を捉え
ながら連綿と続いていたわけです。ある意味、オペラだってこうした「ミュージカル」の派生物とすら
言えるのかもしれません。イングランドということであれば、かの有名なシェークスピアの数々の名作
も劇場文化の伝統を雄弁に物語るものですが、音楽はあっても脇役ということだったろうとは思われま
す。
時は 1728 年 1 月 28 日、ジョン・ゲイ(John Gay)という劇作家が書き、ロンドンのリンカーンズ・イン・
フィールズ(Lincoln’s Inn Fields )で興行された「乞食オペラ」(The Beggar’s
Opera)が、今日のミュージカルの基本形である台詞と歌を織り交ぜた音楽
ショーとしての最初の形を明確に採った劇作とされているようです。これ
は当初興行をためらった劇場主の予想に反し、一シーズン 62 公演という
当時のレコードを樹立、おかげでロンドンのコヴェント・ガーデン(Covent
Garden) に新しい劇場が作れたようです(これが現在の王立歌劇場 (Royal
Opera House)の始まりだとか)
。
で、なんでこんな人気だったか?
どうも、当時の流行歌(民謡、バラッド、はたまたヘンデルのア
リアまで)を巧みに織り込み、主要な登場人物も聴衆が誰だが分かる市井の人々の設定だったためらし
い。政治や貧乏、汚職に対する風刺や、当時のロンドンのモードであったイタリア歌劇のパロディーも
満載。この頃から我々が知っている「ひねり」が大好きなロンドンっ子達だったん
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ですねぇ。
こうした新しい伝統がロンドンの劇場集中地区であるウェスト・エンド(West End)で成熟し、その後 19
世紀後半には「コミックオペラ」(comic opera)に発展、20 世紀に入ると、洗練された 1930 年代アメリカ
のミュージカルと対比して、いわゆる「ノスタルジック・ミュージカル」(nostalgic musicals)という古風な
設定のジャンルがロンドン・ミュージカルの主流になります。ただ、第二次世界大戦後になると、国の
勢いの差と言いましょうか、1950 年代にはロンドンも興行面ではアメリカはブロードウェイから輸入の
ビッグなミュージカルに席巻されていきました・・・。
2 現代流ロンドン・ミュージカル
と、ここで終わってしまうと話が続かない!
流行のお株を奪われている間、実はロンドンでも小劇場対応のミュージカルで
様々な工夫が積み重ねられていました。これらの蓄積が一気に開花するのが 1970
年代、今回我々が演奏する曲を生み出したロイド・ウェバー(Andrew Lloyd Webber)
の登場となるのです!
ロイド・ウェバーがティム・ライス(Tim Rice)と組んで世に訴えた革命的なミュージカルが、1971 年初
演の「ジーザス・クライスト・スーパースター」(Jesus Christ Superstar)です。まあこれは西欧社会の超古
典的なモチーフであるキリストの受難を題材にしたものですが、革命的だったのは何
とロックをオペラに全面的にフュージョンしたことでした!二人はまずレコードアル
バムをリリースし、その成功を見計らって舞台の方につなげる作戦を採ったところ、
まずブロードウェイで一大ブームを呼び起こし、1972 年からのロンドン興行へつない
でいったのです。この頃、ビートルズのブームから新たな展開を見せ始めていたロッ
クは「反逆の音楽」でもあったわけですが、あろうことか、これをオペラという舞台
芸術に、しかも神聖なキリスト受難に人間関係の新解釈を与えたアイデアは、正真正銘の「衝撃」とし
て受け止められたことでしょう(実際、キリスト教教会から冒涜として非難された)。因みにライスは舞
台音楽とは無縁なロック一筋の作詞家だったのに対し、ロイド・ウェバーは舞台音楽の世界で育った寵
児。この二人のコンビがまず先頭を切ってロンドンを一気に変革していったのです。
ロイド・ウェバーを筆頭に、奇想天外な発想で創作・発掘された題材を見事なショーに創り上げるロ
ンドン・ミュージカルは 1970 年代末以降「快進撃」を続けます。ロンドンのウェスト・
エンド初演で全世界に公演を広げていった名作・大作は、名前を挙げるだけでも・・・
○1978 年
「エビータ」(Evita):貧しい出から歌姫へ、そしてアルゼンチン大統領の妻
として革命の嵐に向き合い、激動の時代を駆け抜けた女性エバ・ペロンの一代記
○1981 年 「キャッツ」(Cat’s):野良猫たちがかくもドラマチックな人生(猫生?)を謳いあげるのか・・・
ミュージカル史上では「メガミュージカル」(megamusical)の先駆け
○1984 年 「スターライト・エクスプレス」(Starlight Express):世界最速を目指すおもちゃ(!)の機関
車の物語
○1987 年
お待たせしました、「オペラ座の怪人」(Phantom
of the Opera)!
などなど。まあすごいもんです。また、ほかの国で作られた作品を採り上げて興行的に成
功させる作戦も採られます(代表例がいつか見た・・・
「レ・ミゼラブル」(Les Misérables))。
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1990 年代になると、もちろん「ミス・サイゴン」(Miss Saigon)のような大規模ミュージカルも引き続き
好調ですが、往年のロックバンドの音楽などを劇中に織り込む「コンピレーション」(compilation)が盛ん
になりました。この代表格が、さあもう一つ出てきました ABBA の曲をふんだんに使った「マンマ・ミーア!」
(Mamma Mia!)や、Queen の曲が満載の「ウィー・ウィル・ロック・ユー」(We Will Rock You)といった作品
です。また、ディズニーアニメを筆頭に映画で大人気を博した作品をミュージカル化する流れも活発に
なり、あれっどっかでやった「美女と野獣」(Beauty and the Beast)やら、手塚治虫の「ジャングル大帝」のパクリ?
「ライオン・キング」(The Lion King)とか、とにかくフィーバー!の「サタディ・ナイト・フィーバー」(Saturday
Night Fever)なんて常連作品が世に送り出されるのです。
II「マンマ・ミーア!」
Mamma mia! このイタリア語、直訳すると「私のお母さん!」となるのですが、実は
びっくりして「おやまあ!」「なんてこと!」「ほんまかいな!」なんてときに、本当に
自然にイタリア人の口から出てくる決まり文句です。イタリアじゃ肝っ玉母さんの存在
はかくも大きいんですねぇ。ただ、このストーリーでは文字通りの言葉遊び(まあ、「は
っちゃけ母さん」ですかね)になっていますよ!
1. マンマ・ミーアの特徴
既に触れているので何ですが、このミュージカルの斬新さは、人気ロックグループ ABBA の有名な曲
をカバーして、全く別のストーリーに散りばめた点にあります。誰でも人生の場面場面で、
「あの時」の
音楽が頭を巡ることがありますよね?ドタバタで、ちょっとホロりとさせられる物語に透明感のある
ABBA の声が重なって・・・。
まあ演出上も往年の ABBA ファンに大サービスで、カーテンコールでは主
役級がみんな ABBA らしい衣装を身にまとい、Mamma Mia!や Dancing
Queen を歌う大団円。とにかく楽しんで、ストレス発散して、若かった頃を想
い出して!という企画一杯のミュージカルになっているわけです。世界各地で
大人気を博したので、2008 年には映画化されました(メリル・ストリーブがドナ
役)。
2. あらすじ(今回演奏する曲が出てくる場面に題名を織り込んでおきます!)
【第1幕】
ギリシャはカロカイリ島。20 歳のソフィはフィアンセのスカイと挙式の準備真っ最中。
しかし、ソフィにはヴァージン・ロードを一緒に歩いてくれる父親が誰か分からない。
母親ドナの日記から分かった、当時親密にデートをしていた三人の男性へ、ソフィは母親に無断で招待
状を送る・・・。
さて、式の前日。ドナの経営するタヴェルナ(イタリア風レストラン・居酒屋)
でパーティー。最初に来たのはドナの親友、タニヤとロジー。三人はかつて
ガールズグループを結成していた仲で、互いの健闘に意気投合!ところが会
場にドナの昔の恋人、サム、ハリーにビルが到着!!ビックリ仰天のドナ
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(Mamma Mia!)、涙を流す彼女を慰めるタニヤとロジー、まだまだドナは若い若い(Dancing Queen)!
しまったと思いまどうソフィに、三人の男性はそれぞれ自分がヴァージン・ロードをエスコートする
と宣言。でも実はドナですらソフィが誰の娘か分からない・・・!?!
【第2幕】
3人の男性がエスコート役を争うことになりかねず、絶望するソフィ。実は今でも最も惹かれあうド
ナとサムとのすれ違い(S.O.S.)、母と娘は喧嘩するが、自分を身ごもった時に勘当された話を聞き、ソフィ
はドナにエスコート役を頼む。父親役を自覚(?)する他の二人もドタバタ劇?
式が始まり、ドナはこの中にソフィの父親がいると宣言。ソフィは3人とも「3分の1の父親」で愛
していると語り、突然式を中断する。ソフィは結局心の準備ができておらず、スカイも中止に同意・・・。
でもでもこれじゃもったいない、とサムがドナにプロポーズ!! 二人はめでたくそのまま結婚、そして
若い二人のソフィとスカイは・・・その夜遅く世界一周旅行へ(I Have a Dream)!!
3. ABBA の音楽!!
よく聴くも多いけど、実は ABBA ってどんなバンド?世代も相当前になるので、ちょっとここでおさ
らいを。
ABBA は 1972 年にスウェーデンで結成されたロックバンドです。活動したの
が 1982 年までの 10 年間ですので、まさに 70’s のロックシーンを代表したグル
ープだったと言えるでしょう。アグネッタ・フォルツコグ(Agnetha Fältskog)、
ビョルン・ウルヴァース(Björn Ulvaeus)、ベニー・アンダーソン(Benny Andersson)
にアンニ=フリッド・リングスタッド(Anni-Frid Lyngstad)の男女2名ずつのバ
ンドでした。そう、4人のファーストネームを採って「ABBA」にしたんです(元々
は「Björn & Benny, Agnetha and Anni-Frid」というグループ名だったそうな)!
1974 年にユーロヴィジョン・ソング・コンテストで優勝した「恋のウォータールー」がヒット、ヨー
ロッパやオーストラリアで人気がありましたが、1976 年に「ダンシング・クィーン」が世界的ヒットと
なって不動の地位を築きました。
因みにグループ最盛期はアグネッタとビョルン、アンニとベニーがそれぞれ夫婦のおしどりバンドで、
この健全さが世界でのブームに一役買ったとか(ただ活動末期にどちらも離婚・・・!)。解散から 10
年経った 1992 年に彼らの曲がカバーされまた一大ブームを呼び起こし、ベストアルバム「ABBA GOLD」
が全英 1 位を獲得、世界中で 3,000 万枚近くのロングセラーとなりました。こうした流れに「マンマ・
ミーア」での compilation も乗っかっていたんですね。
III
「オペラ座の怪人」
さて、打って変わって急にカルトな
カルトな雰囲気
カルトな雰囲気
ふっふっふっ・・・・🎶♬
1. 戯曲の概論
ロイド・ウェバーの全盛期ヒット作が、この奇怪な物語です。舞台は 19 世
紀末のパリ・オペラ座(中心部の 9 区にあるオペラ・ガルニエ(Opéra Garnier))、
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奈落の底に住む芸才あふれる醜い怪人が才能ある無名の歌姫クリスティーヌに注ぐ危うく屈折した恋愛、
彼女の恋人をはじめとするエスタブリッシュメントに対する怪人の猟奇的な復讐劇を退廃的な美の中で
描き込んだ作品。最近はこれをはるかに凌ぐストーカー事案や猟奇犯罪がしばしば発生して・・・と絶
句したくなりますが、世紀末というのは危険な香りをも美学に仕立ててしまうのでしょうか。
さて、この戯曲、もともとはお膝元のフランスで 1901 年に作家兼新聞記者のガストン・
ルルー(Gaston Leroux)によって書かれた同名の小説が基になっています。このルルーさん、
実は当時あの「怪盗ルパン」シリーズで有名なモーリス・ルブラン(Maurice Leblanc)と一二
を争う推理小説家だったそうです。ルルーは取材談のような疑似ノンフィクションテイス
トで書き上げており、実際のオペラ座の構造や地下の広大な奈落、建築経過などが詳しく
取材されています。また、オペラ座建設当時に実際あった幽霊話(?)や陰惨な事件などを織り交ぜて、
虚構と現実が入り交じったミステリアスな怪奇ロマンとして執筆されたのです。
映画化はとても早く 1916 年にドイツでサイレント映画として作られたのが最初、その後本当にこれで
もかという程リメイクされていますが、設定は大胆に変更されることが多い。独自性を発揮しようとい
う映画監督の創造意欲が掻き立てられるんでしょうね、きっと。見たことないけど、1998 年のイタリア
版(ほぼホラー映画らしい)はあのエンニオ・モリコーネが音楽を担当しており、ロイド・ウェバーの
ミュージカル版に匹敵する完成度らしいですよ。
さてそのロイド・ウェバー版。あらすじはこの後に書きますが、エピソードとしてはこの作品が彼の
妻となったサラ・ブライトマン(Sarah Brightman)の正真正銘の出世作ということ(Time to Say Goodbye で有
名ですね。あれはもともと Con Te Partirò というイタリア語の歌)。というより、彼女のために曲の音域が
書かれており、本当に劇中の怪人と歌姫の関係が現実と倒錯しているんですよ、全く(で、またしてもこれが
離婚しているんです・・・ホント芸術家は難しい)。
2. あらすじ(これも、今回演奏する曲が出てくる場面に題名を織り込んでおきます!)
【プロローグ】
時は 1905 年、オペラ・ポピュレールでオークションにかけられた舞台用小
道具。年老いたラウル・シャニュイ子爵が競り落とした猿の形をした張り子の
オルゴール。彼はそれを見て悲しげに「彼女の言った通りだ」とつぶやく。
続く競売品は古びたシャンデリア、競売人は「謎に包まれたオペラ座の怪人
にまつわる不思議な出来事」とまつわるものと語る。登場したシャンデリアが輝きを取り戻し、浮かび
上がって観客席上部の元の位置に戻ると、不思議や不思議、時が巻き戻され、1880 年代のオペラ最盛期
に・・・。
【第1幕】
1881 年、パリ・オペラ座。ソプラノのプリマドンナがリハーサルをしていると、何の前触れもなく舞
台背景が崩壊。怯えた出演者たちは怪人(ファントム)の仕業だと囁き合い、主役は本番を拒否。そん
な中、コーラスガールの一人、クリスティーヌが抜擢され(Think of Me)、代役を見事果たす。
実はクリスティーヌは姿を知らない「音楽の天使」(Angel of Music)にレッスンを受けていた。オペラ座
の新しい後援者のラウル・シャニュイ子爵は、プリマドンナの地位を得て舞台で輝くクリスティーヌが
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幼馴染と知り、一気に恋心を燃やす。しかし彼女はディナーの誘いより音楽の天使=ファントムを選び、
姿を見せてくれるよう頼む。ファントムは喜んでクリスティーヌを隠れ住む地下に招き入れる(The
Phantom of the Opera)。怪人は自分の曲を歌わせるためにクリスティーヌを選び、彼はその崇高な声で彼女
を魅了する(The Music of the Night)が、突然動き出したマネキンに気を失うクリスティーヌ。ファントムは
彼女を優しくベッドへ横たえる・・・。
サルの張り子のオルゴールの音で目を覚ましたクリスティーヌが作曲にいそしむファントムの仮面を
後ろから取ると、そこには醜い顔が・・・世の中から迫害された身の上を語り、普通の顔への憧れとク
リスティーヌへの恋心を語るファントム。
一方、ファントムのことを茶化し、彼からの警告(Notes…)に意に介さない
オペラの興行主や関係者に、ファントムは舞台の本番で死をもってしてま
で容赦ない報復を加える。混乱の中、顛末を打ち明けておびえるクリステ
ィーヌにラウルは愛を誓う(All I Ask of You)。これを聴きファントムは悲しみ
と怒りに震え、ラウルに復讐を誓うのであった・・・。
【第2幕】
半年後、仮面舞踏会にその姿を現したファントムは、ラウルからクリスティーヌへの婚約指輪を奪い、
自作の戯曲「ドンファンの勝利」をクリスティーヌ主演で行うことを強いる。この機に彼を捉えようと
ラウルは計画を練るが、クリスティーヌはラウルへの愛とファントムの指導への感謝の間で揺れ動く。
教えを請いに父の墓を訪れると(Wishing You Were Somehow Here Again)、怪人が音楽の天使を装って登場。あ
わやクリスティーヌは怪人の魔力に落ちそうになったが、ラウルがクリスティーヌを助けに登場する。
怪人はラウルを罵って炎を手向け、クリスティーヌはラウルに自分を連れて逃げるよう頼む。激怒した
怪人は墓地に火を放つ。
「ドンファンの勝利」興行初日。クリスティーヌはファントムが共演
者になり代わっていることに気づき、彼の仮面を剥ぐ。ファントムはク
リスティーヌを連れて隠れ家へ逃げ込み、ウェディングドレスを着るよ
う強要。そこに現れたラウル、しかしあえなくファントム得意の投げ縄
で捕まる。ラウルの命と引き換えにクリスティーヌに結婚を迫るファン
トム。クリスティーヌはファントムの顔ではなく魂の醜さを訴えつつ、哀れに思い彼にキスをする。生
まれて初めて優しさと哀れみに触れたファントムは、クリスティーヌに愛を伝え、指輪を返して二人を
解放する。涙を流し、マントに身をくるみソファにうずくまるファントム。人々がなだれ込みマントを
はがすと、そこにはあのマスクだけがあった・・・。
3. パリのオペラ・ガルニエって?
さて、この舞台となっているのが、パリ観光名所の五本の指にはまず入るであろうオペラ・ガルニエ
です。最後にこの世界一有名なオペラホールについて少しご紹介を。
オペラ・ガルニエは、その名の通り建築家シャルル・ガルニエ(Charles Garnier
(1825-1898))の設計で 1875 年に建設されました。フランスの王立オペラ劇場の
歴史は古く 17 世紀に遡るのですが、この 13 代目のオペラ劇場が建設されるき
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っかけは、フランス第二帝政の 1858 年、皇帝ナポレオン三世(Napoléon III (1808-1873))が時のオペラ劇場
での観劇時にイタリアの無政府主義者による爆弾テロに遭遇、本人は難を逃れたものの死者 8 人、140
人以上の負傷者を出したことでした(残念なことに、昔も今もパリにはテロがつきものなのです・・・)。
この頃、ナポレオン三世はパリ市内の大規模な都市再開発事業を敢行しており、有名なオスマン男爵
(Georges Eugène Haussmann (1809-1891))の指揮で、現在のシャンゼリゼ通りなど都市の中央を走る大動脈や
城壁の撤去、住居家屋の大整理が行われていました。その過程で、新しいオペラ劇場の場所は今の 9 区
に内々決まり、1961 年にコンペが行われました。高名な建築家を含めた数多くの企画が寄せられた中、
見事競争を制したのが当時 35 歳の(鳴かず飛ばずの風だった)ガルニエ。当時の人達がこのデザインに
寄せた関心と感動は相当大きかったようです(いや、ちょっと何か今の国立競技場問題を彷彿とさせるようで・・・)。
工事は 1861 年から 1875 年の 15 年間にも及び結構大変だったみた
いで、地盤から水が結構出てきたようです。これがオペラ座地下にあ
る秘密の湖という都市伝説につながり、「オペラ座の怪人」でもファ
ントムの隠れ家を隔てる湖のモチーフとされたようです(実際には地
下水脈はもう少し遠くに流れていた模様)。ただ工事の遅れについて
は、1867 年の暫定開業後(日本だと明治維新の頃!)、1870 年の普仏戦
争でプロイセンに敗北の結果第二帝政が崩壊し、政治的にも予算的に
も工事を中断せざるを得なかったという事情も重なっています。で、前のオペラホ
ールを使っていたら、1873 年に火事で焼けてしまい万事休す。とにかくパリの文化
のシンボルを完成させる、ということに相成りました。
オペラ・ガルニエの建築を語りだすとともかく切りがない。様式としては「第二
帝政スタイル」と銘打たれています。四角い建物とドームを組み合わせた独特のフ
ォーム、芸術の庇護神であるアポロンを屋上に配し、その
他の神々を彫像にした表面。立地が広場(名前もそのまま
Place de l’Opéra)に置いてあるので 360°見渡すことがで
きる劇場です。正面から入ると、その絢爛豪華な内装に圧
倒されます・・・。階段を上るとまばゆいシャンデリアと内陣装飾に彩られた
エントランスやロビー。気分を高揚させて客席に入ると(昔はアルバイトが席に案内してくれてチップをあげる
習慣でした)、馬蹄形の筒状になったホール(5・6 層に重なり、舞台への近さで料金もだいぶ違う)
。天井
に見えるは(ミュージカルの中で落下したかもしれない・・・)特大のシャンデリア、そして 1963 年に
時の政府の粋な文化政策で配されたシャガール(Mark Chagall)の手による天井画、あまりにも有名です。
今でこそ、ジーンズ姿の若者でも観劇はできるようになりましたが、華やかな社交の雰囲気に浸りな
がら当代きっての歌い手による名演に酔いしれ、幕間にはシャンパンを傾け、夜 10 時台の終焉後は近く
のブラッスリーで余韻に浸りつつ遅めの食事を楽しむ・・・。あんなテロが頻発し
てしまってなかなか悠長な気持ちにはなりにくいのかもしれませんが、これぞ都市
の文化の集大成、なのかもしれませんね。
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・・・ということで、今年の晩秋のひと時、真島俊夫特集から舞台芸術の世界につないで、最後はス
パークのハイランド讃歌で締めます。イメージの切り替えとそれぞれの豊かな発想の展開が勝負、楽し
く頑張りましょう!
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