六稜トークリレー 2009 年 6 月 13 日 「ラグビーと文学とフランス」 三好 郁朗 (70 期) 京都嵯峨芸術大学学長、大覚寺学園副理事長 京都大学名誉教授(元副学長、総合人間学部長) ■はじめに 部員不足となった北野高校のラグビー部を応援するために、本日この場をお借りできる ことを、ラグビー部 OB の 1 人として厚くお礼申しあげます。ところで、本日のパンフレ ットに「老・壮・青…3 人の先輩が贈る熱きメッセージ」とあるのは、内心釈然としない ところがありますが(笑)、私ども 70 期のメンバーも古希を迎えますので、 「老」と言われ ても仕方がないかと思っております。そして、私どもより遥かな大先輩から、50 年も下 の現役諸君まで、六稜ラグビーの歴史の厚さと重みをつくづく感じるとともに、今その灯 を消してしまってなるものかと強く思う次第です。 ■ラグビーを ラグビーを通じて得 じて得た縁 半世紀余も前、私は天王寺高校の隣にある文の里中学に入学し、生まれて初めてラグビ ーに出会い、たちまちその魅力の虜になりました。創部 4 年目のチームでしたが、向かう ところ敵なしで、私の学年も卒業まで公式戦無敗で過ごしました。顧問だった星野先生ご 自身にはラグビーの経験がなく、グラウンドでの指導は若い OB たちから受けました。私 がキャプテンになった年は、先生が長期療養されていたもので、病院に伺って練習計画を 点検して頂き、同時に、ラグビーはどういうスポーツか、勉強といかに両立させるべきか、 自分の道をいかに歩むべきかなど、あらゆる面で厳しくご指導を頂きました。 私は、星野先生の勧めで北野高校に進学したようなものです。ラグビーは天王寺高校の 方がはるかに強かったのですが、詩や小説が大好きだった私が、ラグビーだけの生活を送 らないようにという親心だったのかも知れません。天王寺高校におられた京都大学出身の 宇野先生からも、折に触れて声をかけて頂いていたので、申し訳ない思いもありました。 宇野先生といえば、関西協会が府内の中心選手を集めて講習会を開いた時の指導員のお 1 人でしたが、ステップとスワーブの違いも知らないのかと叱られたのを覚えています。 中学時代に出場した大阪府大会の決勝で、後に同志社大学を日本 1 に導かれた岡先生が レフリーをお務めでした。私がゴールキックに向かいながら、仲間に「絶対入れるぞ」と 喋っていると、黙ってやりなさいと叱られた思い出があります。その後も大学の指導者と してお付き合いを頂き、指導者のあり方を、身をもって教えて頂きました。 創部 4 年目の文の里中学では先輩の数も知れていましたが、北野高校に来て OB 組織の 大きさに驚き、数多くの先輩に叱咤激励を頂いたことが、心地よい活力となりました。私 が、ラグビーの技術論や世界のラグビーに興味を持つようになり、北野のラグビーが心の 故郷になったのは、当時お世話になった中島先生の存在が大きかったと思います。 そして、 北野の最後の 1 年は、お若かった野々村先生にもお世話になりました。生徒と一緒に走っ てくれる先生というのは、私には野々村先生が初めてでした。その後も関西協会や大学リ ーグの活動でお世話になっています。 1 オールフランスやフランス大学選抜が来日した際、私はフランス語の通訳として付き添 いましたが、当時関西協会の幹事長だった丹羽先生に、随分とお世話になりました。その 後も季節のお便りを頂くなど、懐かしい思い出です。同じ頃、ルーブル美術館からミロの ヴィーナスが来た時も通訳を務めましたが、どちらも、フランス語をやっていて良かった と思った貴重な思い出です。 北野から京都大学「ラグビー部」に進みましたが、他の名門大学との格差が目立ち始め た頃で、伝統的な定期戦では随分苦戦しました。明治大学との試合で 100 点差で負けると いう屈辱も味わいましたが、3・4 回生で、京都大学の大先輩で同志社大学の学長だった 星名先生から、ラグビーの科学というべき先進的な理論を学ぶことができました。 中学・高校・大学で、それぞれ印象深い先生方からラグビーを通じて貴重な人間教育を 頂いた、大変恵まれた学生生活だったと思います。クラブの雰囲気、先生方や OB の指導 方針等、関係者のラグビーへの思いも共通しており、この 10 年間の体験が、私の今日の 生き方を支える非常に大きな力になっています。 ■京都大学と 京都大学とラグビー 私は早くから文学、中でもフランスの詩人に憧れを持っていました。ラグビーの合宿に もたくさん本を持ち込んでいました。今もって酒も飲まず、ゴルフもせず、いたって付き 合いにくいこの私を受け入れ、励ましてくれる先輩・同輩・後輩に深い感謝を覚えていま す。 大学ではフランス語とフランスの近代詩人を研究し、フランスに留学もしました。ヨー ロッパには大掛かりなスポーツクラブが数多くあり、本場のゲームを観戦し、たくさんの 勉強ができました。中でも、パリのレーシングクラブの広大な芝生と、スタンドをうめる 観客の熱狂を、今も懐かしく思い出します。 帰国後、大阪市立大学などを経て、1976 年に京都大学に戻ると、たちまちコーチ・監 督・部長と、ラグビー漬けの年月が始まります。京大には北野の OB が数え切れないほど おられますが、当時の監督だった岩前大先輩に親しくお付き合いを頂き、若すぎるという 一部の反対がありましたが、私を後任の監督にご推挙頂きました。そして、監督引退後は 大学運営に引っ張り出され、ラグビーはおろか、研究生活もままならない年月が続いた次 第です。 京大での 25 年間、ラグビーを通じて、フランス文学の教え子よりも遥かに多くの後輩 たちと付き合うことができました。サントリーラグビー部長の夏山君、京都大学工学研究 科教授の清野君、そして、この後お話しになる下平社長など、たくさんの後輩諸君が、現 在、第一線で活躍しています。彼らとボールを追うことができた思い出は、北野の皆さん とのお付き合いと並んで、ラグビーが私にもたらしてくれた最大の贈りものです。 ■フランス文学 フランス文学と 文学とスポーツ 大学での私の専門は、19 世紀末から 20 世紀初めのフランス文学です。あの時代は、今 日私たちが恩恵を受けている数多くの発明・発見がなされるなど、あらゆる意味で現代社 会の基礎が築かれた時代です。フランスでは、19 世紀後半に小中学校が義務教育化され たのを機に、フランス語が全土の標準語となります。それまでは、パリと周辺地域以外で 2 は地方語が日常使われていました。学校体育も始まり、クーベルタン男爵が古代オリンピ ックの理念の復活を企てるなど、近代スポーツの概念が普及したのもその時代です。真偽 のほどはわかりませんが、フランスで最初のラグビーのレフリーは、クーベルタン男爵だ ったという伝説があります。初期のラグビーには正規のルールがなく、互いのチームのキ ャプテンが紳士的に話し合いながらゲームをしていたので、ラグビーの経験がなくてもレ フリーが務まったのかもしれません。 20 年ほど前、 『フランス文学とスポーツ』という本を翻訳しました。フランスでは 19 世紀末から「スポーツ文学」ということが盛んに言われ、近代スポーツの興隆がもたらし た新しい風俗・感性・イデオロギーが、文学の新しい主題になると考えられたようです。 文学・芸術・スポーツの相互浸透が、今日では想像できないほど大きな規模で行なわれて いました。ところが、スポーツが社会システムの重要な部分として機能している現代、ス ポーツ文学という概念はついに充分な根拠を得られずにあるというのが、私の友人でもあ るこの本の著者、ピエール・シャールトン氏の主張です。 彼は、アカデミズムが見逃してきたこの分野を、綿密な文学史的方法で調査し、時代の 感性と芸術表現の相互関係を浮き彫りにしようとしています。歴史的にも、ヘレニズムは 運動選手の肉体に美の理想を見ていました。古代ギリシャの詩歌では、運動・スポーツは 重要な主題の 1 つでした。ところが、近代に先立つ 3 世紀ほどの間、ヨーロッパの芸術や 文学は、エネルギーや運動能力としての身体と全く無縁でした。 それが 19 世紀半ばを過ぎて、近代スポーツが市民社会を支える制度の 1 つとして定着 すると同時に、文学者の中にも様々なスポーツ体験を持つ者が出てきました。モーパッサ ンは、筋肉を鍛えてボートを漕ぐのを好みました。メーテルリンクは、重量挙げとボクシ ングの本格的な競技者でした。アラン・フルニエは、 『モームの大将』の原稿をパリ大学ラ グビークラブの便箋に書いています。ジロドゥーは、陸上 400m の大学チャンピオンで、 ラグビー選手でもありました。カミュが、アルジェ大学のゴールキーパーとしての青春に 熱い思いを抱き続けたことはよく知られています。 かつて、近代オリンピックには芸術部門がありました。1924 年のパリ大会では、数々 の展覧会・芝居・音楽会が開かれ、スポーツに対する文学・芸術の側からの熱狂的な関わ りがピークに達していました。シャールトンによると、スポーツを主題にした文学作品の 量的なピークも、その頃だったようです。私が専門とするのも、正にその時代のフランス 文学です。ラグビーを通じたスポーツ体験と、研究対象としてのフランス文学が、いつの 間にか結びついていたことに、不思議な縁を感じています。 ■フランス最古 フランス最古の 最古のスポーツクラブ「 スポーツクラブ「レーシング」 レーシング」 フランス・ラグビーの歴史を語る時、シャルル・ペギーという詩人の名前が出てきます。 19 世紀末、高校のスポーツ委員長を務めるなど運動が得意で、フランスの学校ラグビー はペギーとともに始まったとも言われます。第 1 次世界大戦の直前、ジャン・ジロドゥー、 アラン・フルニエ、マッコルランらをメンバーとするまことに文学的なラグビークラブが 結成され、ペギーが名誉会長となりました。参加資格は、 「文学・芸術を専門とするととも に、ラグビーなど高貴なスポーツを愛すること」とされ、将来的には「若いスポーツマン 文学者の会」という組織になる予定でした。しかし、戦争でメンバーが四散し、かないま 3 せんでした。 今日でも、フランスにはスポーツを愛する文筆家の組織がいくつかあり、 『スポーツ文学 アンソロジー』などの書物が出版されています。本格的なラグビーは、フランス最古のス ポーツクラブ「レーシング」がラグビーセクションを開いたのが始まりです。レーシング は 1882 年、コンドルセ高校の生徒たちの陸上クラブとして創られました。当初は練習場 がなく、サン・ラザール駅の広いコンコースで練習をしたという話が伝わっています。 1886 年、パリ市から、ブローニュの森にグラウンドとクラブハウスを置く権利を与えら れ、以降、会員数・競技成績のいずれにおいても、ヨーロッパ第一のスポーツクラブであ り続けてきました。メンバーは 2 万人を超え、オリンピックの金メダル 93 個、世界タイ トル 53、ヨーロッパタイトル 115、国内タイトル 1000 という記録が残っています。 レーシングのラグビーセクションは、サッカーより数年早い 1890 年の創設で、1892 年に初代のフランスチャンピオンになりました。ただし、その時の相手はスタッド・フラ ンセというチームだけでした。以降 4 回、最後は 1959 年にフランスチャンピオンになっ たほか、準優勝 6 回、ジュニアリーグ優勝 12 回です。 ところが 2006 年、パリ市が 120 年間続いた本拠地の借用契約を更新せず、経営が破綻 の危機を迎えました。17 セクションのうち、陸上・柔道・水泳など 13 が他の組織に移譲 され、サッカー・ゴルフ・ホッケー・ラグビーだけが残りました。フランスのラグビーに は早くからプロリーグがあり、レーシングのシニアチームもプロ化されていますが、こち らも経営が難しく、2001 年に US メトロというプロチームと合併し、 「レーシングメトロ 92」 (92 はパリ周辺の行政区画の数)となっています。このところずっと 2 部リーグでし たが、2008-09 のシーズンでリーグ優勝を果たし、この秋からトップリーグに復帰する ことになりました。 ■おわりに しめくくりに、20 世紀初めの作家、マッコルランが、高校で初めてラグビーと出会っ た時の思い出を語っている文章をご紹介しておきます。(抜粋) 「油まみれの革の楕円のボールが、小さく太った、とらえがたい神様か何かのように、 僕たちの間に入り込んできた。まさしく、熱狂する信徒たちに君臨する神だった。僕たち はみんな若かった。若いイマジネーションが、この新たな世界の探求に夢中だった。それ までの体操とは違う、ほとんど神聖といってよいほどのゲームの世界だった。それはやが て、みんなの生活に欠くべからざるものとなり、何としても修めねばならぬ学業と肩を並 べるほどになった」 「グラウンドを囲んだ数百の観衆を前に、僕たちは 80 分にわたって戦った。熱い戦い だった。額から血を流し、両足が宙を駆けた。冬の黄昏時の、澄み切った空気のせいで、 物音がよく響いて聞こえた。ゴールポストをめがけ、タッチラインをめがけてキックされ たボールの、あの押し殺したような音が、寒さの中、黒い外套に身を包んで、グラウンド の周りに立つ生徒たちの心を熱く揺さぶるのだった。突然、黒と黄色のジャージの選手が 飛び出し、全員を尻目にゴールに向かうと、生徒たちの間から、まるで女性のような悲鳴 4 があがった」 「僕たちは皆、ラグビーの美的で感覚的な歓びの中に生きていた。鮮やかな色のクラブ のジャージとストッキングを愛し、チームの頭文字をポケットに飾った、あのブレザーを 愛した。僕たちの青春は、ラグビーあればこそ豊かだった」 そして、大人になったマッコルランは、若い日を振り返って次のように記しています。 「今でも私は、ラグビーのグラウンドに足を踏み入れる度に、不思議な感動が喉元にこ み上げてくるのを感じる。そして(・・・)この新たな感動を知ってしまった我々の世代は、 文学者として、人間として、必ずや何かを大きく変えていくだろうと思うのだ」 私もまた、文の里中学、北野高校、さらには京都大学でラグビーを知ったことが、私の 中で、私の周囲で、何かを大きく変えてきたことを信じて疑いません。 ご清聴ありがとうございました。■ 5
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