人の命のやりとりは、もう二度と やりたくないし、やらせたくない 終戦を

昭和 18 年 1 月、横須賀海兵団に入団。巡洋艦や戦
艦の機関兵として出征し、3 度撃沈。昭和 20 年 4 月
に海軍機関学校に入学。卒業と同時に終戦を迎えた。
人の命のやりとりは、もう二度と
やりたくないし、やらせたくない
引っ張ると、焼けた皮膚が肩
し た。 起 こ そ う と し て 腕 を
たそばからウジがわいていま
びっしり並べられ、降ろされ
トラック島では、貨物船か
ら 降 ろ さ れ た 死 体 が 海 岸 に
明日は我が身かという気持ち
す。かわいそうな気持ちと、
落とし、最敬礼して終わりで
死体を吊り、縄を切って海に
のとおりでした。クレーンで
われたものですが、本当にそ
に毎晩呼び出され、
﹁精神棒﹂
で、後はめいめいでなんとか
いた巡洋艦と戦艦との違い
しましたが、それまで乗って
戦艦﹁大和﹂に救助され、
沈しました。
﹁海に飛び込ん その後、戦艦﹁長門﹂に乗艦
ひとつ食べると一気に眠くな
けて一体ずつ海に沈めていく
を毛布でくるみ、おもりをつ
昭和 13 年 12 月に入隊。4 年間で 2 度中国に出征し
た後、札幌の軍司令部で終戦を迎える。終戦後は、
大工として 80 歳まで現役で仕事を続けた。
のです。
﹁海軍で死んだら髪
からずるむけたこともありま
で、毎晩胸が締め付けられま
と書かれた木の棒で何度も尻
しろ﹂との声が聞こえ、迷わ
は、死者の多さでした。毎日
り、目が覚めるとトラック島
敵兵がいました。特に八路軍
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て家に帰りました。しかし、
大雪の中を7時間かけて歩い
駅から﹁これが最期﹂と思い、
に向かう途中で夏井の堀切の
名分で殺したりもしました。
平和を守るため﹂という大義
れずに死なせたり、
﹁中国の
ました。食料も満足に与えら
たくさんの中国人を捕虜にし
の思いで、ただただ殺し合い
その後は札幌の軍司令部で暗
札幌でのある日、参謀長に
をしました。相手が憎くて殺
戦場では、
﹁お国のため﹂と
突然呼ばれて﹁船は得意か﹂
したわけではありません。
を迎えるまで、生きて帰れる
に沈没させられました。終戦
とになり、函館を出て2日目
答えた戦友は輸送船に乗るこ
せんでしたが、
﹁得意だ﹂と
時はなぜ聞かれたか分かりま
だと思ったものです。
てなお家族を苦しませるもの
かりません。戦争は、終わっ
ぜそんな扱いをされたのか分
じことをしていたはずで、な
ましたが、戦場ではみんな同
たしは﹁船どころか馬ソリに
戦後、町内でも﹁戦争犯罪
も酔う﹂と答えました。その 人﹂として逮捕された人がい
と聞かれ、船は苦手だったわ
号手の任務に就きました。
ると召集されました。次に戦
中国では、捕虜になった日
地に行けば死ぬと思い、札幌 本兵もいましたが、日本軍も
機整備をしましたが、冬にな
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広報
ひろの 2009. 8月号 ❹
横須賀海兵団機関科を卒業したときの記念写真。
前列右から 4 番目が貞三さん(昭和 18 年 4 月)
に上陸していました。
した。何百体もの死体をダン
した。
るような争いは、もう二度と
を打たれました。毎晩のこと
ず飛び込みました。午後2時
のように空襲を受け、一日に
船の中では、わたしと同じ
那珂は、昭和 年2月にト
下 っ ぱ の 一 等 兵 た ち が 上 官 ラック島沖で空襲を受け、撃
たと思いました。しかし、翌
などは、畑仕事をしている農
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の毛一本残らない﹂とよく言
プで運んで火葬するのには、
乗しましたが、この船もサイ
やりたくないし、誰にもやら
丸1週間も掛かりました。間
戦争は、人の命のやりとり
もなく日本に戻る貨物船に便 です。命をなげうってまです
パン島沖で撃沈しました。
せたくない。そう思います。
あ た ご
の は、 昭 和 年 1 月
の
こ
と で し た。 機 関 科 で 4
なので痛みと腫れが引かず、
くらいから漂流し、意識もも
何人も死んでいきました。
時間かけて登りま
朝に奇襲を受け、敵の動きを
民かと思うと、通り過ぎた瞬
始まった後の昭和 年
月
、わたしは弘前 連隊
中隊に入隊しました。3カ月
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終戦を迎えるまで、
生きて帰れるとは思わなかった
奥 寺 淺 吉 さん(91 歳・中山住宅)
とは思いませんでした。
昭和 年6月には巡洋艦
﹁愛宕﹂に乗艦し、 月には
カ 月 間 訓 練 を 受 け、 巡 洋 鑑
仰向けになって寝られる者は
うろうとなってきた午後9
な が と
﹁那珂﹂への乗艦が決まった
ひとりもいませんでした。そ
した。敵が近くにいるのが分
監視していた少佐が頭を撃た
間に後ろから弾が飛んできた
か
とき、当時の班長から﹁気持
の時の上官の名前は今でも忘
時半ころ、日本の小さい船に
戦艦では、夜の 時になる
助けられました。おにぎりを と水葬が行われました。死体
かっていたので、夜中に山の
れ、山の斜面を棒のように転
りして、いつどこでやられる
ほど経ったころに6中隊に編
斜面を
沢を咳ひとつせずに進みまし
がって落ちてきました。この
那事変︵日中戦争︶が
た。
﹁死んでも転んでも登れ﹂
か分からないという緊張感が
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入になり、中国の山西省に出
征することになりました。
に へい
時、林檎仁平さん︵故人・林
常にありました。戦場では、
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作
記憶があります。
中国では、1501高地
とにかく登りました。
とにかく先手を打たなければ
戦に参加し、敵の陣地の間を
中国では、共産軍や八路軍、 撃たれるんだと思いました。
目的地に着くと深い壕を掘
縫 っ て 3 里︵ 約 ㌔ ︶ の 急 り、激しい戦闘の末に占領し 正規軍など,さまざまな軍の
昭和 年に帰国命令があ
り、群馬県で3カ月ほど飛行
りん ご
という命令だったので、転げ
郷出身︶も腕に銃弾を受けた
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落ちる者もいたようですが、
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な
ちを切り替えなければやって
れられません。
や ま と
ました。3度目の撃沈でした。
に真っ二つに割れて海に沈み
が、魚雷を受けて艦長室を境
レイテ作戦に参加しました
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野 田 貞 三 さん(87 歳・平内)
いけない﹂と助言されました。
須賀海兵団に入団した
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ぞ う
て い
だ
の
き ち
あ さ
で ら
お く
浅吉さんの入隊時、家族が持たせてくれた日章旗。
「義
勇奉公」は、国や天皇のために戦う、というような意味
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横
支
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