友寄 蓮 - 若年性がん患者団体 STAND UP!!

06
2015.SPRING
私たちのライフワーク
がんになったからこそ見つけた
“目標”と“生きがい”
がんと闘う仲間たち
結婚した若年性がん患者が語る本音
~A round-table talk about family~
タレント
友寄 蓮
みなさんと共に私もがんばっていきたい。
共に生きたい。
若年性がんと向き合う10人のストーリー
06
2015.SPRING
03
巻頭スペシャルインタビュー
「みなさんと共に私もがんばっていきたい。共に生きたい。」
タレント 友寄
蓮さん
06
若年性がんと向き合う10人のストーリー
17
漫画「ひらめいた♪」
18
がんと闘う仲間たち
20
より良い闘病生活のために
22
私たちのライフワーク
26
結婚した若年性がん患者が語る本音 ~A round-table talk about family~
28
メンバー 一同からあなたへ・・・
29
STAND UP!! 活動報告
30
編集後記
31
認定NPO法人ゴールドリボン・ネットワークの取り組みについて
『アピアランス支援センター』を利用しよう!
がんになったからこそ見つけた“目標”と“生きがい”
発行元
若年性がん患者団体
STAND UP!!
STAFF
Editor in Chief / 中陳香織
Assistant editor / 水橋朱音
Editor /松井基浩 鈴木美穂 白井裕美子 亀山隼人 Writer /堀川宏太 川原ナツミ 岸田徹 櫻井はるか 中島千尋
体験談の10人 がんと闘う仲間たちの6人 ライフワークの10人
Designer / さちこちdesign
表紙
Photographer / 小坂仁都美
Model / STAND UP!! メンバー
み な さ んと 共 に
私 も がんばっていき たい。
共に 生 き たい。
「今はとにかく何をしても楽しいんです!」
( )は、数か月前
そう話す友寄蓮さん
まで抗がん剤 治 療をしていたとは思 えない
― がんだ と 分 かった 経 緯 を 教 えてく
調が悪くて、『やっぱりこれは病気だった
なかったんですが、 当 時 は あ ま りにも 体
病 だということ は 最 後 まで受 け 入れられ
と 思う気 持ちがありました。 自 分が白血
げられ、その瞬間に
『これは白血病かな』
「 こ れ は 血 液 の 病 気 か も し れ ない 」 と 告
なって、病院で検査を受けました。そして
でした 。 そのうち 症 状 がだん だんひど く
ですけ ど 、 本 当にそう だと は 思いません
談で
「 白血 病じゃないの」って話してたん
た症 状が出 始めました。 周 りの人とは冗
高 校2 年 生のと き 、 鼻血がずっと 止ま
らない、すぐにあざができてしまうといっ
ださい。
がんになったとき
るのでしょうか?
しょうか? そして今、どんな夢を描いてい
どのような思いで芸 能 界に飛び込んだので
ます。 治療中どのように過ごし、そこから
になる前はごく 普 通の高 校 生 だったといい
しっかり していて、 話 す だけでパワーを
与えてくれるような友寄さんですが、がん
は、タレントや女優として活躍しています。
で芸 能 界デビューに至った友 寄さん。 現 在
校卒業と同じころに退院、それから約半年
生の時に急性リンパ性白血病を発病し、高
ほど生命力にあふれていました。 高校2年
20
んだ』という安心感もありましたね。
03
さん(20)
蓮さん
タレント 友寄
取材・文・写真/中陳香織、堀川宏太、鈴木美穂
協力/水橋朱音
―治療中はどのように過ごしましたか?
は、『私はいつ死ぬんだろう』とばかり考
先 生 や看 護 師 さん 、そして両 親に支え
られてなんとかやっていけましたが、最初
えていました 。 抗 がん 剤の副 作 用 が 本 当
剤 を 使 うたびに
度の 熱 が 出 た りして 、
にひど くて、 帯 状 疱 疹 が出たり 、 抗 がん
ろ う 』 と 感 じていました 。 私の 中では 、
ということになりました。
時 、 同 じ よ うに 社 会 復 帰で苦しんでいる
うことを伝えていくには芸能界が一番だと
というわけではなかったんですが、そうい
患 者 さんたちのために 、 発 信 者にな りた
んて思ってしまったり 。『 自 分 だけが常に
まっていたので、いきなり社会に出てもと
は 病 気 を 引 き ずっている 』 と 思い落 ち 込
て、不安になりましたね。やっぱり『自分
んでしょうか?
― ど う して そ こ まで 気 持 ち が 変 化 し た
思ったんです。
たいことをやらせてくれるんじゃないかと
と を 知って、 この 事 務 所でなら 私 がや り
本 彩 さんが 動 物 愛 護の活 動 をしているこ
思って、 今の事 務 所に 応 募し ました 。 杉
大 学に進 学したり 、 結 婚 する 子もいたり
芸能界デビューのきっかけ
んだりしました。
ま どってし ま うんです。 周 りの 友 だ ち は
して、自分がそういう年齢になっているん
体 調 が良い時に何 回か登 校したこと は
ありましたが、ほとんど一人で勉強してい
年生のままなので、なかなかついていけま
だと 感 じました 。でも 、 気 持ちは 高 校2
せんでしたね。
― そ の 後 、 ど のよ う な 変 化 が あ り ま し
たのはどうしてですか?
自 分でも う まく 言 えないんですけ ど 、
『 やっぱ り 何 かし な き ゃ 』 という 焦 り は
― そ こ か ら 芸 能 界 に 挑 戦 し よ う と 思っ
もともとお 芝 居 が好 きで、 発 病 前から
劇 団に 通い、 退 院 直 後から 復 帰 はしてい
たか?
ました。でも、顔がパンパンでウィッグを
『とにかく何かしなきゃ』と 思って、ま
ず 手 当た り 次 第アルバイトの面 接 を 受 け
ました。でも、「退院直後でまだ抗がん剤
かぶっていた自分と他の子を比べてしまっ
私 と 同 じ よ うに 社 会 復 帰で苦しんでいる
任 を 持 てないのでご めん な さい」 という
た り 、 病 気のこ と を 言い出 せなかった り
を使っています」と伝えると、「体調に責
返 事 が 多 かったです。 そんな 中 、 あ るイ
消えなくて、どんどん追い詰められていっ
た果てに、”勢い “で事務所への応募を決
めていまし た 。 病 院 やネット を 通して、
退 院したのは 、ちょう ど 高 校 を 卒 業し
たころ 、3 月の上 旬でした 。 卒 業 式 は 出
患者さんはたくさんいることは知っていま
しました。そして人の目が怖くなってやめ
ることのつら さ は 、 体 験した 私なら 伝 え
した。そして、『がんを経験して社会に戻
てし まい、 も う 自 分 は 人 前に立つこ と は
イトもでき ない私に 何 ができ る か 考 え た
できないと諦めていました。でも、アルバ
が、体力的に全然ついていけなくて。コー
1日だけ働いて、「やめさせてください」
タリアンレストランで雇ってもらえました
人で行いました。
『 退 院して外の世 界に戻って来られたの
はいいけど、いったい何をすればいいんだ
ヒーカップひとつすら重たいんです。結局
られなくて、 校 長 先 生と 担 任の先 生と3
―退院した後はどのような気持ちでしたか?
れなくて、
そのまま卒業してしまいました。
ない子たちと一緒に生活することが考えら
けて、むくんだムーンフェイスのまま知ら
です。 留 年も 提 案 されましたが、 髪 が 抜
り勉強にはついていけず進学は難しかった
すことで認めてもらえました。でも、やは
ました。 卒 業は 、 提 示された課 題をこな
―高校の勉強はどうしていましたか?
じていましたね。
いと 思ったんです。 特 に 芸 能 を や り たい
【主な経歴】
日テレジェニック2014 ファイナリスト
『進研ゼミ』スチール、
『コカ・コーラ』
CM。TBS『MOZU-episode1-百舌の
叫ぶ夜』室井凛 役
舞台『LOVE どきゅ~ん15』、舞台『友
情~秋桜のバラード~』鈴木幸子 役
健 康な 人 が 当た り 前にできているこ と
が 自 分にはでき ないというこ と を 実 感し
1995年3月29日生まれ。東京都出身。
高校2年生の時に急性リンパ性白血病
と診断。高校卒業時に退院。
2013年8月オフィス彩に所属し、芸能
活動を始める。
2014年5月、抗がん剤治療終了。
現在、月に一度の検診で経過観察中。
発 病した 高 校2 年 生の時のまま 時 間 が止
友 寄 蓮( と も よ せ れ ん )
つらい思いをしている 。 孤 独 だ な 』 と 感
があるでしょ、私には少しもないのに』な
友 だちから 応 援の言 葉 をもらっても 素
直に受け取れず、『あなたには楽しい時間
うといった副作用もすごく嫌でした。
ける、顔がむくんでまんまるになってしま
生 という 多 感 な 時 期 だったので、 髪 が 抜
治 療 はなかなか 進 まなかったです。 高 校
40
04
自分の生きがいを見つけたい一心で飛び込
られる!』そう思ったんです。とにかく、
を 回 る 舞 台に 出 演したのですが、 同 じ 年
がするんです。 2014 年 9 月から 全 国
感 じ まし た 。 そ れ か ら は 、 積 極 的 に 話 す
日のようにたくさん届いて、『 病 気のこと
勇気をもらいましたというメッセージが毎
がん患者のみなさんへ
セージをお願いします
― 若 年 性 が ん 患 者 の み な さ ん に メッ
「共に生きましょう」ですね。
を 話 すの は 悪いこ と じゃないん だ な 』 と
こ とで、 誰 かの 力に 、 希 望にな るかもし
代の子がたくさんいるので、行けなかった
れないと思って活動しています。これから
修 学 旅 行みたいだなと 感 じたり 。 仕 事 が
本当に好きでやっているので、自分で枠を
は、私の姿を通して、がんで苦しんでいる
あれば寄り添うし、私も一緒にがんばる。
がんばっていきたい。共に生きたいです。
は ずです。 だから 、みな さんと 共に 私 も
こ と を 共 有し 、 寄 り 添って生 きていけ る
いにつらいこと、悲しいこと、悩んでいる
いこ と も 分かり 合 え る と 思います。 お 互
い経 験 をした 分 、 健 康な 人には 分からな
言いたいです。私たちは病気になってつら
だから 、「 全 力で一緒に生きてみよう」と
ん ばって」 と は 言 え ません 。た だ 、 何か
―これからの夢は何ですか?
夢に向かって
方に『 生きていれば可 能 性はいくらでもあ
決めずになんでも挑戦していきたいです!
― が ん のこ と を 公 表 し た と き の 反 応 は
どうでしたか?
と隠して活動していたんです。やっぱり病
る』ということを伝えていきたいです。
がんでつらい思いをして、十分がんばっ
ている 人に、 簡 単に「 大 丈 夫 」 だとか「 が
んだ世界でしたね。
― 飛 び 込 ん だ 芸 能 界 という 世 界 は ど う
ですか?
になっていま す。 病 気にな る 前 は 考 え 方
『ようやく自分の居場所を見つけた』と
いう感じがして、それがいちばんのパワー
笑( )。でも 、 私にしかでき ない活 動 をし
た り 、 応 援してくれ るみな さ ん が 集 まっ
気のこ と を 知 られてし ま う と 周 りから 気
も 暗 くて今 と は 全 然 違っていたんですよ
てくださることで、『あ、わたしの居場所
を 遣われてし ま うし 、 病 気 を 押し 出 すの
去 年1 月に、 新 聞 記 事ではじめて病 気
のこ と を 告 白し まし た 。 それ までは ずっ
はここなんだな』と思えたんです。
ではなく、私自身を見てほしいと思ってい
たんです。でも 病 気 を 公 表してみる と 、
今は、全力で仕事をして楽しむことで、
病 気で失った 時 間 を 取 り 戻している 感 じ
幸 せです け ど ね 。 それでも 、 ずっと この
漠 然としているんですが、『 幸せになり
たい』というのが今の夢です。今でも十分
仕事を続けられたらそれが一番だと思いま
す。 それに 、 普 通に 好 きな 人 と 結 婚した
幸せにも憧れます。
い、家庭を持ちたいといった女性としての
それ と 、 こ れ は 事 務 所 に 所 属 す る 前 か
ら 考 えていたこ と な んです が、 がん 患 者
す。 治 療 中 、 小 児 病 棟 で一緒 だった 子 は
のためのボランティア団体を設立したいで
ウィッグを無償で提供されていたのに、わ
たしは年齢制限でその支援を受けられない
ボランティアでの限界の先を行く活動がで
ということがありました。そうした、今の
きたらと思います。そのような自分のやり
人 脈も 必 要 だろ うし 、 何よ り 私 自 身の知
たいことができる環境を作るには、お金や
名度を上げて、自分で団体を引っ張ってい
標をもって仕事をしていきたいです。
05
かなければなりません。そのためにも、目
取材を終えて
「STAND UP!! 」編集メンバーと。
藤崎 里実
滑膜肉腫
有川 雅俊
胃がん
原木 櫻
乳がん
若年性がんを経験した 10人が、発病から治療、再発、受験、就職、夢、
がんと向き合うことについて語った物語。
一人ひとり生き方は違うけれど、
内山 友希
悪性リンパ腫
10人全員が今この時を全力で生きている。
大野 舞子
乳がん
越澤 亮太
悪性リンパ腫
鈴木 綾子
胚細胞腫(脳腫瘍)
眞部賢太
精巣腫瘍
大倉 理恵
急性骨髄性白血病
柿本 聡
大腸がん 直腸肛門がん
歳の誕 生 日 を 迎える 直 前 、その
「 悪 性の 腫 瘍です 」先 生のその一言 に 、
初 め は 何 が 何 だ か よく 分 か り ま せ んで
歳 は 治 療で
れ か ら 1 回 目 の 抗 が ん 剤 治 療 ま での 期
ポ ートを 入れる 手 術 を 受 けましたが、そ
し た 。 言 われ る ま まに 入 院して生 検 と
り 、その後 がん 専 門 病 院で検 査 を 重ね ま
みも 感 じていたので 、地 元の 病 院 にかか
年 の 夏 ご ろ か ら 背 中 に こ ぶ がで き て 痛
初 めて抗 がん 剤 治 療 をしているこ と 、私
んなこ と が 実 際にあ るのだと 、そのと き
た と き で す 。 ま る で ド ラ マの よ う に こ
し かし 自 分 が が ん だ と 実 感 し たの は
その3 週 間 後 、髪の 毛 が一気 に 抜 け 出し
てきました。
終わる というこ と ? 」だん だんと 日 がた
つにつれ ”悪 性の 腫 瘍 “の 意 味 が 分かっ
か 」「 大 学 生 活 は ? 」「 私の
滑膜肉腫
は が ん に なった の だ と い う こ と を 実 感
回 の 抗 が ん 剤 治 療 、4 月 に 摘 出 手 術
いる こ と 、気 持 ち と 体 力 の 限 界 な ど 、今
用 、周 りの家 族 や 友 だちに心 配 をかけて
は 、先 が 見 え ま せんでし た 。つらい副 作
を するから ね 」と 先 生に 言われていた 私
とができ、
つながりがまた広がりました。
「 S T A N D U P 」を 知 り 、同 世 代
の 同 じ 悩みを 抱 え る 仲 間にも 出 会 うこ
部屋にはご年配の方が多かったのですが、
さに触れて感動しました。入院中は同じ
さ ま ざ まな 人に 支 えられ 、人のあたたか
持ったと 実 感し ました 。 また 、治 療 後 も
まで味わったことのない経 験 ばかりでし
めった に ひ か ず 、手 術 は も ち ろ ん 、入 院
と し た 学 生 生 活 を 送 ってい ま す 。 私 の
人 暮 らし をし な がら 就 活 と 実 習 を 中 心
現 在 は 復 学し 、保 育 士 、幼 稚 園 教 諭 に
な る こ と を 目 指 し 、大 学 4 年 生 と して一
年かかるので、通 院 と
検 査 で 経 過 観 察 を し て 気 長 に 待 ち たい
病 気 は 完 治 まで
だったため地 元の病 院に入 院したのです
治 療 に 専 念 し ていま し た 。 大 学 が 遠 方
す。私 は 通っていた 大 学 を 約 1 年 休 み 、
学 生 生 活 が 送 れ る こ と 、生 き てい る こ
関 係 が 広 が り 、普 通 の 人 と 同 じ よ う に
し た 。新 しい 学 年 の 友 だ ち も で き 、交 友
がんになった こ と を 通 して 、新 しい出
会 い が あ り 、自 分 の 人 生 観 も 変 わ り ま
と 思います。
が、わ ざわ ざ 友 だ ち がお 見 舞いに 来てく
まし た 。 この 経 験 は 決して無 駄では な
と が 幸 せ な こ と だ と 感 じ る こ と がで き
と 思っています。
く 前 向 き に 生 き ていき たい
りの 人 に 感 謝 し な がら 明 る
として、支えてくれている 周
す。 こ れ か ら は 新 た な 自 分
にいい 意 味 で 影 響 し てい ま
思 え る こ と な ど 、私 の 人 生
に チ ャレン ジ し てい こ う と
信 を 持ってさ ま ざ ま な こ と
く 、堂 々と 人 に 隠 さ ず 話 を す る こ と 、自
院 後 に は お か え り 会 を 開 いて あ た た か
く 迎 えてくれた り と 、本 当にいい仲 間 を
れてた く さ んの 励 まし を も らった り 、退
治 療 中 も 、終 わってか ら も 、そし て 現
在 も 悩みは 尽 き ません 。しかし 、がんに
す ら し た こ と が あ り ま せ ん でし た 。 た
!!
だひたすら ”治 る “ということ だけを 信
じ 、治 療に向 き 合い続 けました。
た 。体 が 弱 かった わ け でも な く 、風 邪 も
た 。「 何 で 私 が … … 」と 何 度 も 思いまし
10
なって よ かった こ と が た く さ ん あ り ま
10
大学生
まわりの人に感謝!
21
し、
一気 に 涙 が あ ふ れ だ し ま し た 。「 全
した 。
藤崎 里実
間 は 、さ ま ざ まなこと が 頭 を めぐ り まし
たくさんの人に支えられて
乗り越えられました!
(23歳/罹患年齢:20歳)
た 。「 私 はこれから1 年 間 も 入 院 するの
07
21
涙 を 流し 、「な ぜ 私なん だ ? 」と ずっと 泣
いてい ま し た 。 職 場 に 最 低 限 の 引 継 ぎ
をしにいった時も 、泣いていました。
がんというのは 、本 当に 冷 たい響 き を
持 つ 言 葉 で す 。 娘 が 生 ま れ て 初 め ての
ひな 祭 りで、両 家の家 族 も 集 ま り ました
が、がんの 治 療 を 報 告 する 重 苦しい会 と
なってし まいました 。 この日のこと をお
手 術では 胃 と 脾 臓の 全 摘 と 小 腸の一部 、
そ ら く一生 忘 れ る こ と は ないでし ょ う 。
第 2 リン パ 節 ま で と り ま し た 。 幸 い に
も 他 臓 器への転 移 はしていませんでした
輪 を 作っていな かったのです。 チャペル
が、胃 がないこ とで食 事 は 未 だに 上 手に
私 は 病 気 に なってで き ないこ と も 多 く
とれ ま せんし 、貧 血のた め 異 常に 疲れて
なってし まった けれ ど 、 それでも一緒 に
付 き のレスト ランを 予 約 し 、 妻 を 食 事
き な くな り ま し た 。 毎 食 後 に 低 血 糖 に
に 誘い 改 めて プロ ポ ー ズ を し ま し た 。
なって 意 識 を 失 い そ う に な る こ と も 日
の 婚 約 指 輪 を 渡 し まし た 。 沖 縄の 方 言
いたいと 思っている と 言って、 6 年 遅れ
を し てい ま す 。 以 前 の よ う に 残 業 も で
常 的に 起 こ り ます。 そんな 日 々で、私 は
し まい、通 勤 も 途 中で休 憩しな がら 出 勤
『自身を赦す』
( 以 前のよ うに はでき な
で 命
「 ぬ 水 (」ぬ ち ぐ すい)という 言 葉 が
あ る そ う で す。 効 果 も あ る け れ ど 、 副
くなった 自 分 を 認 めていく )練 習 を がん
と 向 き 合いながらしています。
婦 に とっての 命 ぬ 水 は 6 年 遅 れ の 婚 約
す が 、食 事 を すれ ば 治 る し 、酒 も 飲 んで
思 う ほ どでし た 。 私に は 妻 がいて、5 歳
生 でこ れ ほ ど 泣 け る こ と が あ る の か と
知 されたと き は 本 当に泣 き ましたし 、人
す。 そして、私 が 最 初に 感 謝 を 伝 え るべ
とはその方々に感 謝を 伝えていくことで
くなること 。
あれ ば 、恥 をかいても 何かに 挑 戦し 続 け
度の 認 識でした 。しかし 、あ ま りにも 長
き 相 手は妻でした。
る 人 生でありたいと 思っています。
生 きています。いつか終わりが来 るので
これからの生 活 や 余 命 、治 療のことな ど
時 あ ま り お 金 が な かった の で 、 婚 約 指
私は退 院してから一人で婚 約 指 輪を 作
り に 行 き まし た 。 私 た ち 夫 婦 は 結 婚 当
ヵ月の 娘( 当 時 )がいま すが、
た 矢 先 、自 宅 にて 下 血 し てし まい、急 遽
安でいっぱいでした 。 妻の 手 を 握っては
を 考 え る と 恐 怖で 眠 る こ と もでき ず 不
の息 子と
入 院することになりました。
く 続 く の で 検 査 にい こ う と 思 い は じ め
検 査 では 当 初 大 き な 胃 潰 瘍 が あ る と
いる か ら「 胃 が 荒 れ ている の か な ? 」程
作 用 も あ る そ う で す。 きっと 私 た ち 夫
この 病 気の 体 験 は 多 くのこ と に 気 づ
か さ れ ま す。 その 中 で 最 も 大 切 な 気 づ
いう 診 断でし た が、入 院 7 日 目 に がんで
あ る こ と が わ か り ま し た 。 横 に 広 がっ
私 が 胃 が ん で あ る こ と が わ かった の
は 2 0 1 3 年 2 月 末 でし た 。 半 年 ぐ ら
てお り
指 輪 で す。 効 果 は お 互いを 思いや る 気
い前から 胃 が 痛いなと は 思っていたので
感謝をつたえる
この量を食べるのに1時間以上
かかっていました。
持 ち が 強 くな る こ と 。 副 作 用 は 涙 も ろ
胃がん
き は 、多 くの 人に 支 え ら れて生 きている
社会福祉士・精神保健福祉士
と い う こ と でし た 。 今 の 私 に で き る こ
有川 雅俊
㎜の 大 き さ でし た 。 が ん を 告
(35歳/罹患年齢:33歳)
が ん に なった こ と で 多 く の 人 と の 出
会いと 優し さに 触れ 、日々感 謝しな がら
55
10
08
自営業
乳がん
こ と が で き ま せ ん でし た 。 1 週 間 過 ぎ
と い う 葛 藤 が 襲 いつ ら い 気 持 ち に な る
び 、な ぜ 私 が が ん に なってし まったの か
い ま す 。 こ う やって 病 気 と 向 き 合 う た
院を 経て現 在はコルセット生 活を 送って
を 起 こしてし まい、3 週 間の 寝 た き り 入
付 き 合ってくれたのです。 現 在もホルモ
す。 それでも 彼 は 私 から 離 れ ず、ずっと
の様 子 を 見 るたびにつらかったと 思いま
まし た 。 彼 も 私の 病 状 や 抗 がん 剤 治 療
になったと きから ずっと そ ばにいてくれ
か ら の 付 き 合 いで す 。 彼 は 最 初 に が ん
最 後 に 恋 人です。 私 に は 6 年 付 き
合っている 彼 がいて 、がん を 発 症 す る 前
され 、最 近 腰 骨に転 移したため圧 迫 骨 折
事 も 多いです。 残 念 な がら 私 は「 色 々な
的 だ と 思いま す。 そ ん な 私 を 受 け 入 れ
ン剤 治 療 を 続 けているた め 、妊 娠 は 絶 望
経 験 がで き た か ら 、が んに なってよ かっ
た 」と は 思 え る 人 間では あ り ま せんでし
な 宝 物です。
て くれ る 彼 に は 本 当 に 感 謝 で す 。 大 切
た 。 それでもがんになって気 付かされた
大 切なものはたくさんあります。
いま 私 は 新たながんと 戦ってる 最 中で
す。 代 の が ん は 高 齢 者 の が んと は ま
ま ず は 両 親 で す。 父 母 は 本 当 に 私 に
献 身 的 に 尽 くし て くれ ま し た 。 検 査 を
母 を 介 護 す る 側 に なった と き の た め に
と 笑いあった りしていました 。いずれ 父
いた 時 も 、「 本 当 は 年 齢 的に 逆なのにね 」
決めています。
限 界 までがんばって乗 り 越えていこうと
でも 支 え て くれ る み ん な と一緒 に 、私 は
た 違 う 葛 藤 と 苦 し み が あ り ま す。 そ れ
受 け た 時 も 圧 迫 骨 折 で 車 い す に 乗って
体 を 健 康 にし たい、そんな 思いで病 気 と
闘っている 部 分もあります。
で気 晴 らし をして半 年 間の 抗 がん 剤 を
ご 飯 を 食べる こ と が で き ま し た 。 そ こ
は 号 泣し まし た 。 結 局 再
れ ま し た 。 も ら った と き
てくれ 、色 紙 を 用 意してく
た めに お 疲 れ 様 会 を 開い
胸 は 乳 がん だ と 宣 告 さ れ まし た 。 告 知
乗 り 切った感 じです。
という 苦 し み も あ り ま し
いを 無 駄 にし てし まった 、
次に友 だちです。一度 目
の 治 療 が 終 わった 時 、私の
さ れ た 時 は 現 実 感 がな くて 、
一緒 に 告 知
抗 がん剤の後 は 胸の全 摘 手 術 、再 建 手
術 を 行いま し た 。 今 ま で 健 康 に 生 き て
投 与 ま での 2 週 間 は 外 出 し た り 好 き な
を 受 け た 親 を 私 が 励 ま し ていた の を よ
きた 自 分 はもち ろん 手 術 は 初 めてで、前
れた 友 だ ちみんなに 感 謝
る と 吐 き 気 が 落 ち 着いてく るので、次の
く 覚えています。
日 は 緊 張 し て ほ と ん ど 眠 れ な かった の
歳の 春 、左 胸にしこ り を 見つけたの
が 闘 病 の 始 ま り でし た 。 病 院 に 行 くと
治 療 は 半 年 間の抗 がん剤から 始 まり 、
左 胸 全 摘 出 の 手 術 と シ リ コンを 入 れ る
を 覚えています。
あれ よ あれ よ という 間に 検 査 が 進み 、左
胸の再 建 手 術で計1 年 間 要しました 。私
た が、それ を 受 け 入 れてく
発してしまってみんなの思
は 抗 が ん 剤 の 副 作 用 が 出 に くい 体 の よ
しています。
一度目の闘病を終えた時に友だちからいただいた
色紙です。宝物として部屋に飾ってあります!
原木 櫻
私の場 合 、残 念ながら 治 療 は1 回で終
わ り ま せ ん でし た 。 胸 骨 に が ん が 確 認
吐 き 気 と 怠 さ に 襲 われ 、
ベッドから 動 く
20
(28歳/罹患年齢:25歳)
治療を乗り越えた
先にあったもの
うでした が、薬 を 投 与してから 1 週 間 は
09
25
悪性リンパ腫
㎏ほ ど 落 ち 、野 球 を やって
ていたた め 、約 3 週 間の 絶 食 を 余 儀 な く
した 。 加 えて、腫 瘍 が 十二指 腸 を 圧 迫し
障 害な ど 、さ ま ざ まな 副 作 用に 苦しみま
た 。 吐 き 気 、倦 怠 感 、指 先のしびれ 、味 覚
を 、私 は 誰 の た めでも な く 、自 分 の た め
いう こ と がわ か り まし た 。 そ ん な 時 間
に も 与 え ら れ た 時 間 は 平 等 で は ない と
を 知った か ら だ と 思い ま す 。 ど ん な 人
怖 を 感 じ 、生 きているこ とのあ り がたさ
なく 生 き ることこそ 、後 悔しない人 生 を
先に不 安 を 感 じ 躊 躇するよ り 、今 を 悔い
に 悔 い な く 生 き たい と 思 い ま し た 。 そ
され 体 重 も
まっと う 出 来 る とい う こ と を 確 信 し た
いた と は 思 えない体になってし まいまし
願いしたことも 覚えています。
カロ リ ー を 多 く 摂 ら せてく だ さい」と お
そして気 付 け ば 、私の周 りには 多 くの
人の姿 があ り 、その優しさ を 感 じる 自 分
私 は あ り ま せ ん でし た 。 答 え の 出 ない
私の
そんな心も体もどん底の状態の中、
心境を変化させる出来事がありました。
がいまし た 。つら く 、苦 しい思いもし ま
こには 、これ までの慎 重に 物 事 を 考 える
あ る 日 、気 分 転 換にと 屋 上にクラブと
ボ ー ル を 持って 行 き ま し た 。 ボ ー ル を
したが、この経 験 が 私 を 大 き く 変 えてく
た 。 痩 せ 細っていく 体 を 見ては 、主 治 医
捕 球し よ う とした 時 、
一瞬 にし て 膝 か ら
に「 僕 は 野 球 選 手 な ので 、点 滴 だ け でも
崩 れ 落 ち ま し た 。 私 は シ ョッ ク を 隠 し
出 来 ない一生の 心のお 守 り と な り 、私の
れ ました 。 そして、何にも 換 え るこ との
ら「 腫 瘍 がで き ている 」と 告 げ ら れ ま し
1 週 間 ほ ど 検 査 を し た 後 、両 親 の 口 か
球 )入 り を 目 指して独 立 リ ー グでプレー
ります。そして、夢であるNPB(プロ野
その 後 、抗 がん 剤 治 療 をしな がら リハ
ビリに励み、半年後、無事寛解して今に至
りたい」と 、心 底 強く 思いました。
( 2 01 4 年
道しるべとなりました。
自 分がいたからです。
母 は 何 と も 言 えない表 情で、必 死にかけ
性 の 腫 瘍 で な い こ と に は 察 し がつ き ま
た 。 その時の両 親の表 情 、雰 囲 気から 良
しています。
多 分 、病 気 を す る 前 の 私 な ら ば 、こ こ
ま で 野 球 を 続 け る こ と は 出 来 な かった
月現在)
きれ ずに 病 室に 戻 り 、母に 話し ました 。
る 言 葉 を 探していまし た 。 この 時 、私 は
「 病 気 で 闘っているの は 自 分 だ けでは な
した 。 翌 日には 、主 治 医から 病 気につい
も 頑 張ろ う 」 そして「 もう一度 野 球 をや
い。 心 配してくれている 人たちのために
体に 異 変 を 感 じたのは 半 年 程 前の夏 。
吐 き 気 、胃の 痛 み 、倦 怠 感 な ど 。 何 度 と
ての治 療 法 、薬の副 作 用 まで細かく 説 明
巡らせ泣いたことを 思い出します。
があ り 、病 室から 外 を 眺 め色々と 思いを
を 変えてくれたから 。 死というものに恐
と 思いま す。 な ぜか ? それ は 病 気 が 私
ま と もに 食 事 も 摂 れ な くな り 、ついに は
その 後 、治 療 は す ぐ に 始 ま り まし た 。
抗 が ん 剤 は 私 の 想 像 を 絶 す る も のでし
血 便 まで 出 始 め まし た 。 丁 度 この 時 期 、
前のことでした。
胃 炎 な どの 診 断 で 症 状 は 悪 化 す る一方 。
に 向 かいま し た 。 結 果 、その 場 で 入 院 。
10
な く 近 くの 町 医 者に 行 くものの 、風 邪 や
私 が 悪 性 リンパ 腫 と 診 断 さ れ た の は
2009 年3 月 、大 学2 年 生 を 迎 える 直
もう大好きな野球はできないのか…
福井ミラクルエレファンツ
(野球選手)
野 球 部の 合 宿 中でし た が、た だ 事ではな
治療中お見舞いに来てくれた野球部の友人と。
内山 友希
いと 感 じ 、すぐに 実 家に 帰 り 大 き な 病 院
10
(25歳/罹患年齢:19歳)
10
役員秘書
な 優し さ を 持って生 きてき た だろ うか 」
き ま せ ん 。「 自 分 は 他 者 に 対 し て 、こ ん
ホ ームに 座 り 込ん だ り 、抜 けていく 毛 髪
し た 。 朝 の 通 勤 時 に 気 分 が 悪 くなって
職 場 に 理 解 を 求 めて 休 職 せ ず に 続 け ま
自 分 を 救ってくれているの だ と 実 感し 、
に 嘆 き 悲 し ん だ りし た 時 も あ り まし た
手 術は 無 事 終 了し 、幸い転 移はありませ
んでした。
出 勤した日 、上 司から「 大 丈 夫 ? 」ではな
ませんでした 。 初 めてウイッグを 被って
と 考 え さ せ ら れ 、そし て 反 省 し ま し た 。
し か し 病 理 の 結 果 、治 療 の 選 択 肢 に
抗 が ん 剤 が 出 て き ま し た 。 私 の が んの
も未知数、
「 必 ず す るべき 」と い う わ け
グレーゾ ーンであ り 、効 能 な ど を 考 えて
んの見 守る 優しさをもらいました。
るメー ル を も らい、職 場の 人にもた く さ
く「 似 合っていますよ 」という 思いやりあ
が、投 与 日以 外は仕 事を 休むことはあり
ス テ ー ジか ら す る と 抗 が ん 剤 の 使 用 は
から 説 明 を 受 け まし た 。 副 作 用 や 子 宮
ではな く 、自 身で決 めてほしいと 主 治 医
と し ての 考 え を 聞 か せ て ほ し い 」 す る
り 好 き に な り ま し た 。 潜 在 的 にでも そ
り ま す。病 気 に なって 、人 の こ と が 前 よ
人 、あ ら ゆ る 人 に 支 え ら れ 、今 の 私 が あ
現 在 も ホ ル モン 療 法 を 継 続 し てい ま
す が 、元 気 に 過 ご し ていま す。 家 族 、知
と 主 治 医 は「 大 野 さ ん は 、生 き よ う と 思
が 出 来 る 人 で あ り たい と 思 い ま す 。 が
の人 を 救えるよ うな 言 葉 をかけること
主 治 医 に 投 げか けてみ まし た 。「一個 人
年
への 影 響 な ど を 考 え 、私 は一つの 質 問 を
く らい は 生 き ら れ る 。 も し 仮 に 再 発 し
悔 する こ と がないよ うにし たい、僕の 家
り で は あ り ま せ ん でし た 。 あ ら ゆ る 人
ん に なった か ら といって 、悪いこ と ば か
る と一人の 女 性 から すぐに 連 絡 が 入 り 、
ソーシャルメディア
入 院・手 術に際し 、
で同 じ 病 院 、病 気の人 を 探しました 。 す
当 初 、手 術・放 射 線・ホ ル モン 療 法 な
どの流れから 、2 ~3ヵ月で通 院 も 落 ち
した 。
ということ を 理 解し 、抗 がん 剤に 臨みま
だと 感 じた時でもありました。
病 院の環 境 、手 術 、先 生のことなど 、たく
か ら た く さ んの 愛 に 接 し 、私 は 、幸 せ 者
歳の初 夏 、毎 年 受 けていた 健 康 診 断の
”
晴 天の 霹 靂 “と は 、こ ん な 時 に 使 う
言 葉 なの だ と 実 感 し た 出 来 事 でし た 。
さ ん の 情 報 を くれ ま し た 。 そ の お か げ
ほ ぼ 伝 え てい ま せ ん でし た 。 脱 毛 に よ
つくと 予 想して、職 場には 病 気のこ と を
族 、身 内 だった ら やって も らい ま す 」と
場 で 医 師 から 疑 わし き 腫 瘍 が あ る こ と
オ プションで 受 け た 婦 人 科 検 診 。 そ の
ること ができ ました 。 入 院 中 、その女 性
で 私 は 不 安 感 を 全 て 取 り 払って 入 院 す
乳がん
学 病 院へ向かいました。そして1ヵ月 後
晴 天の 霹 靂
を 告 げ ら れ 、翌 日 に は 紹 介 状 を 手 に 大
大野 舞子
が 崩れ 、主 治 医の目の前で涙 をこ ぼし ま
覚 悟 はしていまし た が、保っていた 自 分
の 夏 の 暑い日 、私 は 告 知 を 受 け まし た 。
を 与 えてくれた 彼 女には 、感 謝の念 が 尽
る 不 安 感 を 取 り 除いてくれ 、絶 対 的 安 心
せ まし た 。 見 ず 知 ら ずの 私 か ら あ ら ゆ
がお 見 舞いに 来てくれ 、初 めて顔 を 合わ
こと を 忘れている 自 分に気 付 き 、仕 事 は
と も 考 え まし た が、働いている と 病 気の
分 の 体 力 な ど を 考 え 、仕 事 を 辞 め る こ
る 外 見の 変 化 や 抗 がん 剤 に 耐 え う る 自
最後の抗がん剤を投与する数日前、
「さらば坊主!」と思い記念写真、
こんなことも今となっては良い経験。
答 え ま し た 。 そし て 最 善 な 治 療 方 法 だ
た 時に 、あの 時 やら なかったから と か 後
え ば 、平 均 寿 命 から 考 え る と 、あ と
40
(39歳/罹患年齢:34歳)
した 。
11
34
受 けて 頑 張っている ん だ と 思い、その 時
受 け 入れられた 気 がし ます。相 変わら ず
や っと 自 分 は が ん な ん だ と い う こ と を
病 室に は 居 ま せんでし た が、その 日 から
多 少 は 真 面 目に 検 査 や 治 療 を 受 け るこ
とができたと 思います。
2 年 く ら いか か り ま し た が そ の 後 の
治 療 は 順 調で、体 調の良い日 は 親 戚の会
社の手 伝いや知 り 合いの所でアルバイト
紹 介 し ても らった 会 社 で 毎 日 楽 し く 働
ができ る までに 回 復して、現 在 は 親 戚に
がん だ という こ と は 仕 事 を するのにマ
いています。
理 解 もあって何一つ困 ることな く 過ごせ
イナスにな り そ うです が、会 社の 方 々の
治 療 を 開 始でき る よ うにし ましょう 」と
慌てた 様 子 。ま だ 病 名 も 告 げられていな
ています。
い 僕 は 理 解 も で き ず に 呆 然 と し てい ま
した 。
あ り ますが、それ 以 上に 普 通では 味わえ
この病 気になったことでできなくなっ
た こ と も た く さ ん あ る し 失った も の も
経 験し た 仲 間 と 知 り 合 え たこ と が プラ
ない経 験 もでき たし 、同 じ よ うにがん を
数 日 後 入 院 することにし ました 。さらに
細 かい 検 査 を し て が ん と 告 知 さ れ た こ
一度 帰らせてもらい会 社で説 明すると
「 しっか り 診 ても らってこい」と 言 わ れ 、
ろに は 、たぶん そ う なん だ ろ う と 思って
入 院 生 活 で 暇 を も て 余 し てま と も に 病
スになったと 思います。
室 に も 居 な かったのです が、お 見 舞いに
運 命 という 言 葉 があるとしたら 、僕 が
がんになったのも 運 命 かもし れ ま せん 。
過 ご し ていま し た 。会 社 は 、仕 事 の 内 容
らうだけだろうと 思っていた僕に先 生が
来 て く れ た 親 戚 が こ の フ リ ー ペー パー
いたので、驚 き も せ ずに 他 人 事のよ うに
「 う ちの 病 院では 無 理 だから 大 学 病 院
の1 号 を 持って来てくれ まし た 。読 ん だ
よ うな 気 がするから 、ど こかで何かの 役
そして治ったのもまた 何かの使 命である
こ れ か ら 先 もい ろ ん な 所 で 知 り 合 う
人 が 増 えていくと 思いま す が、こ ん な 奴
当 時 勤 めていた 職 場の 人から「 首 あた
り がおかしいから 病 院に 行った 方 がいい
を 紹 介 するので明 日 朝一番に 行ってく だ
時に 初 めて小 児 がんという 言 葉 を 知 り 、
で も 治って 病 気 に な る 前 よ り 毎 日 楽 し
よ ! 」と 言われて近 くの 町 医 者に 連れて
さい! 」とのこと 。
同 世 代 や 僕 よ り も 若 く て 小 さい 子 た ち
がこの病 気には ダメなこと が多かったの
行っても らいまし た 。そのこ ろ 忙 し く 働
が 同 じ よ う な 病 気 に か かって も 治 療 を
に立ちたいと 思います。
けてやりたいと 思っています。
く 生 活 し てい る ! と い う こ と を 見 せつ
いていた 僕 は 、だいぶ 前 から し こ り が あ
「 ん ? 」と 思いな が ら 次 の 日 し ぶ し ぶ
大 学 病 院に向かいました 。一通 りの検 査
で、辞めることにしました。
がんになったのも運命だから
仲間からの応援に支えられました!
で き る か な と 思いな が ら 軽い 気 持 ち で
悪性リンパ腫
をした 後に 先 生 が「 緊 急 入 院してすぐに
歳の
会社員
診 察 を 受 け ました 。何か 薬でも 出しても
越澤 亮太
め気にしておら ず仕 事も 休めてゆっくり
僕 が が ん だ と 告 知 さ れ たの は
時でした。
(34歳/罹患年齢:29歳)
る の は 分 かっていま し た が 、痛 くないた
29
12
目 の 前 が か す れ て よ く 見 え な い 。地 元
いこ と に 気 づいた 。こ す り す ぎ た の か 、
は 脳 下 垂 体 の 奥 の 方 で と ても 取 り に く
手 術 を 終 え 、病 室 に 戻って 数 日 後 、化
学 療 法 をすること が 決 まった 。私の腫 瘍
学 書のコピーにたくさんメモをとった。
書 で 腫 瘍 の あ る 場 所 を 教 え て も らい 医
自 分の病 気について説 明 を 受 けた 。医 学
事 者であったこと もあ り 、私 は 両 親から
いくつかの 検 査 を 受 けた あ と
その 後 、
両 親だけが告 知を 受けた。両 親が医 療 従
覚 えている 。ガ ラスにハンド ク リ ー ム を
も う まく 伝 え ら れ な くて 苦 戦 し たの を
く なった の だ 。目 が 見 え る 、嬉 し く てで
がか すれていたの だ が、それ が 急 激 にな
嬉しかったこ と があ る 。手 術 後 も 目の 前
がん 剤 投 与 が始 まった 。始 めてすぐ 、
一番
下 静 脈のカテー テルを 挿 入 、5 月から 抗
なった 。全 部 で6 ク ー ル 。4 月 末 に 鎖 骨
き れ ない 部 分 を 抗 が ん 剤 で 叩 く こ と に
年 弱の入 院 生 活も 、退 院 後 待 ち 構えてい
てはいないんだろ うな 、といつも 思 う 。1
だ ち がいなかったら 、今 こ うして頑 張 れ
いる。
いつも見守ってくれている家族や友
あの 時 から 生 き 続 けている 、走 り 回って
入 院 中 も 、今 も 、私 は ど ん な 環 境 でも
自 分 らし く 生 き たい。その 願 望のま まに
少なかった。
ベッドの 上でおと なし くしているこ と は
眩 しいの一言 か ら 私 の 闘 病 生 活 は 始
まった 。大 泣 き を し た 翌 日 、目 が お かし
通 の 視 力 検 査 の あ と 、視 野 検 査 を 受 け
の 眼 科 を 受 診 後 、す ぐに 大 学 病 院へ。普
かったそ う だ 。細 切れに 取った 腫 瘍 は 病
末 入 学し た 大 学 生 活 も 。自 分一人 だった
た 高 校 受 験 も 、その 先の 長い長い浪 人の
かった が、見ていた 母 親 は 不 安 だったの
た 。自 分では 見 えている 範 囲に 変 化 はな
ひ ら 大 の 記 号 さ え 、切 れ 目 が わ か ら な
で は ないか と 思 う 。あ の 時 の 私 は 、手 の
塗ってぼやけていた 景 色 が磨いたばかり
日々生 きています。
感 謝してもし 足 りないけれ ど 、生 きて
る だけで丸 儲 け 、そんな 風に 自 分らし く
ら絶対に乗り越えられなかったと思う。
のガラスに変わったのだ。
生きてるだけで丸儲け
理の結 果 悪 性であること がわかり 、取 り
し か し 、副 作 用 と の 戦 い も す ぐ に 始
まった。
、トイレに行ったあと立ち 上
投与初日
がれなくなった。頭の中が真っ白になり 、
ナ ー ス コ ー ル を 押 し た 後 、座 り 込 ん で
し まった 。意 識 が 飛 ん だのは その1 回 き
りで、その 後 は とにかく 気 持 ち が 悪 かっ
た 。午 後 から 夜にか けては 投 与し ないた
めか少し 回 復するので食べられるだけ 食
べる こ と にし た 。抗 がん 剤 投 与 をしてか
ら 嗅 覚 が 敏 感にな り 、病 院 食 はほ ぼ 食べ
ら れ な かったので 、母 親 に 持って き ても
らった もの を 温 め 直 し て 食べていた 。あ
のこ ろ は 始 終 タオ ルで 鼻 を 覆っていた 。
味 覚 も 敏 感にな り 、水 も 味によっては 飲
めなかった。
け れ ど 、こ の 食い 意 地 の お か げ か 、抗
が ん 剤 投 与 中 以 外 は 元 気 に 走 り 回って
る 。食べら れ る だ け 食べて 、や り たい こ
いた 。入 院 中に 英 検に 挑 戦したこ と も あ
と を 存 分にする 、入 院 中 だから といって
13
す!
闘病 仲間であり家 族で
かったのだ。
胚細胞腫
(脳腫瘍)
(26歳/罹患年齢:14歳)
歯学部生
鈴木 綾子
そ の 状 況 を 救って くれ た の は 周 囲 の
人でした。 家 族をはじめ、臨 床 心 理 士や
看 護 師 、主 治 医 、患 者 会 代 表 さん や 同 じ
病 院で治 療し 社 会 復 帰した先 輩 、お見 舞
いに 来てくれた 友 だ ち な ど 、挙 げれ ばキ
リがありません。 対 話を 通して「 絶 対 治
してこの人たちに恩 返ししなきゃいけな
がで き ま し た 。 意 味 を 見 出 せ た こ と で
い」と 思い、治 療 す る 意 味 を 見 出 すこ と
だったと 思います。
化 も 治 療 を 乗 り 越 え る 上 で 大 き な もの
生 活 は 周 り の 人 の 協 力 が あってこ そ 初
とです。 闘 病 生 活では 、何 気 ない普 段の
晴 ら しいこ と な ん だ と 感 じ ま し た 。 も
べた り 、寝 た りでき る こ と は ホントに 素
自 身の 状 況 を 理 解し よ う とし た 心の 変
ク ー ルの 化 学
1 年 2ヵ 月 間 で 合 計
療 法 、3 度 の 手 術 や 放 射 線 治 療 と 振 り
の 医 院 でレント ゲンを 撮っても ら う と 、
任 せて治 療していまし た が、2 ク ー ル 目
う か す ご く 大 変 でし た 。 初 め は 流 れ に
闘 病 生 活 をする 上で、治 療のつら さ は
もちろんのこと 、自 分 自 身と ど う 向 き 合
〈 闘病生活 〉
なった から こ そ 、見 えていな かった 大 切
では あ り ました 。しかし 、今では がんに
他 の 人 に 後 れ を とった り と つらい 経 験
療で体 力 が低 下したり 、1 年 半 休 学して
最 近 まで、がんにな るってものすご く
マイナスなこと だと 思っていました。 治
〈 振 り 返って 〉
い ま す 。 で も「 ひ と り じ ゃない 」こ と は
今 こ れ を 読 ん で く だ さってい る 方 は
それぞれ 異なった 状 況 、状 態にあ る と 思
〈 最 後に … 〉
らの人 生に大 きな 糧になると 思います。
き ま し た 。 こ の 2 つの 気 づ き は こ れ か
も で き る ん だ と 前 向 き に な る こ と がで
悩 んでいるの は 自 分 だ けでない、自 分 に
めて成 り立っていることを 実 感できまし
肺 に 無 数の 影 が 発 見 さ れ まし た 。 先 生
の化 学 療 法 を 終えたころ 、ゴ ールの見え
な こ と を 知 れ た とい う プ ラ スな こ と も
た 。 退 院 後の 生 活 では 患 者 会 な ど を 通
には「 白 血 病かも ? 」と 言われましたが、
ない現 状 と 想 像 以 上 に 深 刻 な 状 況 を 受
遂 げられたのは 、他でもなく 周 囲の協 力
自 分 に 限って そ ん な こ と は ない だ ろ う
け 止 めきれなかったことでパニックに 陥
がんと 闘 う 仲 間たち 。みんな 、あなたと
みんな 同 じです。 家 族 、友 人 、病 院の人 、
があってこそだと 強く感じています。 治
と 思ってい ま し た 。 し か し 翌 日 紹 介 さ
あると 感 じています。
して 、若 くしてがんになっても 乗 り 越 え
れた 病 院で精 巣 腫 瘍 と 発 覚し 、そのまま
り まし た 。 何 をしていても 、何 をしてい
共に 前 を 向いて歩んでいます。一人で悩
て元 気に 活 動している 人に 刺 激 を 受 け 、
闘 病 生 活 スタ ー ト と な り ま し た 。 当 日
な くても た だつら く 、感 情のコントロ ー
ま ず、物 事に 必 ずある プラスの部 分 を 見
療 を 終え 、寛 解して病 院 を 出ること がで
の朝 診 察して夕 方に精 巣 摘 出 手 術と 、ス
く 、日々大 学に通い、サー クルに行 き 、友
かとさえ 思いました。
1 つ は「 当 た り 前 の こ と は 当 た り 前
でない」という こ とです。 大 げ さでは な
きた日のことは一生 忘れないでしょう。
う1つは「 自 分 は 決して一人ではない」こ
返 れ ば よ く やった な と 思 う 治 療 を 成 し
高校時代の同級生がボールに
寄せ書きしてくれました!
ル がで き な くな り ま し た 。 治 療 を や め
一人 暮らしにも 慣れ 気ままに生 活して
いた 大 学1 年の冬 、血 痰 が 出たため近 く
11
ピ ー ド 感 が あ り す ぎ て 頭 がついてい き
You’ll never walk alone !!
つけて共に頑 張っていきましょう !
精巣腫瘍
だち と 遊んでいたこ と 、さらに 言 え ば 食
大学生
たい、生 き ている 意 味 が ないん じ ゃない
眞部 賢太
ませんでした。
(23歳/罹患年齢:19歳)
14
得ることができたのです。
その 後 、紆 余 曲 折 を 経 て 、寛 解 から
数 年 が 過 ぎ ま し た 。白 血 病 に な って 入
院・治 療 を 経 験 し た こ と は 、確 かにつら
数 ヵ 月 後 、外 泊 許 可 が 出 て 、久 し ぶ り
に 自 宅 に 帰 る こ と に な り まし た 。 その
時 、こっそ り ”白 血 病 “ が ど んな 病 気 な
のかを 調べよ うと 思っていました 。 当 時
の が 、今 の 私 を 育 ててくれ た と 思ってい
いこ と でし た 。し か し 、そ こ か ら 得 た も
ま す。多 感 な 時 期 に 体 験 し た こ と は 、今
はま だインターネットも 身 近なものでは
も 私にとって、生 き 方 を 考 え る 上で大 き
な く 、部 屋にあった 子 供 向 けの 百 科 事 典
で 調べる こ と に し ま し た 。 緊 張 し な が
そして今 、そんな 私 だから こ そでき る
こ と …… 経 験 から 得 た もの を 発 信 して
な 道 標となっています。
の 前 では 平 静 を 装っていまし た が、病 院
いくという 新 たな一歩 を 踏み 出してみよ
死 ぬ 」という 文 字 が あったのです。 家 族
に 戻って 抱 え き れ な くな り 、つい看 護 婦
うとしているところです。
ら ペー ジ を め く る と 、そ こ に は「 や が て
ず 泣いてし まいました 。 自 分の死につい
さんの 前で「 私 、死ん じゃうの? 」と 思わ
マイペー スな 人 生 では あ り ま す が、周
りのサポ ートに 感 謝しな がら 、後 悔のな
中 学2 年 生の5 月のあ る 朝 、とにかく
体 が 重 た くて、ど うし よ う も なかった 私
談 での 会 話 を 余 儀 な く さ れ ま し た 。 治
口 内 炎 が ひ ど く 、話 すの もつら く て 、筆
いく 自 分 。 また 、抵 抗 力 が 下 がるた めに
れ 、ひ どい貧 血 で 起 き 上 がれ な くなって
そのま ま 高 校には 通わ ずに 、病 院でボ ラ
るのか … … ? 一度 は 、中 学 を 卒 業 して 、
取 り たい。 でも 、それ まで 生 き ていら れ
して、高 校に 行って、大 学 を 出て、資 格 を
後には 、な ぜか 自 宅から 車で1 時 間 以 上
の た め 1 週 間 入 院 」、そ う 言 わ れ た 数 日
”
ある 日 、母から 私 が 白 血 病 “である
事を聞かされました。恥ずかしながら、病
一人 書 き 殴ることもありました。
葉でした 。 悩ん だ 結 果 、退 院 後 は 中 学に
て 生 き て 行 くの ? 」 私 に は 衝 撃 的 な 言
「 もし 、死 な な かった ら 、その 後 ど う やっ
再 び 通い、高 校 、大 学 と 学 習 す る 機 会 を
い日々を 送 りたいと 思います。
て 、初 めて 身 近 に 考 え 、恐 怖 を 感 じ た 瞬
間でした。
あ と になって、その 当 時のデ ー タ を 調
べた と こ ろ 、5 年 後 生 存 率 は % だ と 分
将 来 は 病 院 で 、患 者 さ ん の 精 神 的 な サ
か り まし た 。 入 院 生 活 を 送 り な がら 、
ポ ー ト が 出 来 る 仕 事 に 就 き たい と 思 っ
は軽い気 持ちで体 温を 測ってみました。
療 する ほ どつら くなっていく 身 体にスト
闘病生活を経験して
す る と 微 熱 が 。「 やった 。 休 め る ! 」。
ていまし た 。 そのた めに は 、中 学 を 卒 業
しかし 、その 後 も 熱 は どん どん 上 が り 続
え まし た 。 しかし 、そのこ と を 母に 話 す
かかる 大 学 病 院に転 院することになって
名 を 聞いたこ と があ る 程 度で、具 体 的に
と 、思いが けない一言 が 返ってき まし た 。
しまったのです。
どんな病気なのかは知りませんでした。
け、
ついに
20
治療の合間に大部屋の人たちと病院の中庭でピクニック気分!
20
ンティア を し な が ら 、死 を 待つこ と を 考
急性骨髄性
白血病
レスも 溜 ま り 、そのイ ライ ラ を ノー トに
大倉 理恵
度にまで達しました。「 肺 炎
(38歳/罹患年齢:13歳)
専業主婦
毎 日さまざまな 検 査を 受 け 、点 滴をさ
15
40
(33歳/罹患年齢:27歳)
介護福祉士・柔道家
柿本 聡
途 方 に 暮 れ てい た 時 に 主 治
医の 先 生 に「 患 者 会 が あ る から
出 て み た ら 」と 言 わ れ ま し た 。
過 去に 県 外の患 者 会に 参 加し
て思 うよ うな 結 果にならなかっ
元 だし 、気にな るし 、
一回 ぐらい
たので躊 躇していましたが、「 地
不 安 のな か 参 加 し まし た 。そ こ
は 参 加 し てみ よ う か な 」と 思い
会った 人たちの前で泣 き じゃく
は 不 思 議 な 場 所 でし た 。初 めて
り な が ら 、誰 に も 話 し た こ と の
ない心 に 溜 めてあった ものを 、知 ら ず 知
聞 く こ と に よって共 感し 、つらい抗 がん
所」
でした。私は他のがん患者さんの話を
ていました。
りました。
しかしここは「 話をしていい場
話 し 終 え て 我 に 返 った と き 、周 り の
皆 さ ん が一緒 に 泣いてく だ さっているの
多 くの 人 が 私 と一緒 に 泣いてくれ た 。来
た 。また 、話したこ とで楽にな り ました 。
た 。そしてあ る 方 が「つら かったね 、全 部
は あ り ま せんでし た 。私 に 憑いていた 何
てよ かった 。こ んなに 心 強いと 感 じ た 時
類は 違 うけ ど 、同 じ 境 遇やつらさを 経 験
をし ないといけ ないん だ ろ う 、お 酒 も た
絶 な 病 気 の 話 を 聞いている う ち に 、「 私
を してし まいまし た 。そして 他の 方の 壮
た 。その 瞬 間 、人 目 も は ば から ず 大 泣 き
で、自分を変えていくことができました。
ま ず 話 をしてね 」と 言ってく だ さいまし
し ている 人 た ち だ か ら 、
一人 で 背 負い 込
道 を 教 え な がら 国 体 予 選 な どの 大 会に
ば こ も や ら ないのに 」「 子 ど も た ち に 柔
ました。
ンバリます)。
きっと 晴れ るから 私 は がん 晴 り ます( ガ
や 誤 解 は 生 みた くない」そんな 思いがあ
私 は 今 まで本 音 を 隠してき まし た 。
「 言っても 解っても ら え ない」「 変 な 同 情
加し 、多 くの方 との交 流 を 経 験 するなか
は 、大 腸 がん 、直 腸 肛 門 がんステ ー ジⅣ
ない」と 強く 感 じていました。
歳 の 時 、私 は あ る 病 気 で あ る こ と
を 宣 告 されました 。その宣 告 された 病 名
歳までは厳し
時 間に及ぶ 手 術 、再 発 や転 移によ り
身 も 心 も す り 切 れていき 、
一時 は 精 神 的
いました。
その 時 の 私 は 頭 が 真っ白 に な り 、「 な
んで全 身 火 傷で苦しんで( 3 歳の 時に 全
人 口 肛 門 」「 な んで 私 だ け が こ ん な 思い
身
にキャパを 超 え 、自 殺 未 遂 すらしてし ま
いでしょう」。俗に言う余命宣告でした。
30
% 火 傷を 受 傷 )、今 度はがん、しかも
13
末期がん。「この状態だと
がんにな り 失ったものも あ り ま すが、
それ 以 上 に 得 た もの がた く さ ん あ り ま
かが取れた、そんな感じでした。
”
その 後 リレ ー・フォ ー・ライ フ・ジャ
パン信 州 まつもと “に 実 行 委 員 として参
吐 き 出 せ た ? 良いよ 。こ こ は が んの 種
剤について笑って話 せる 力 をもらいまし
に 気 が 付 き ました 。私 自 身 ビックリでし
ら ずのうちに全てと 言っていいほ ど 話し
生徒たちからの千羽鶴 &メッセージカード
一人 がつらい思いをしているのではない」
それ以上に多くのものを得ました
し た 。つらいと き も あ り ま す が 、が ん は
失ったものもあるけど、
「一人 じ ゃ な かった 」と 心 の 底 か ら 思 え
大腸がん
直腸肛門がん
バリ バリ 出 ている のに な んで ? あ り え
27
80
16
ひらめいた♪
こんな使い方もアリ・・・?!
イラスト / 川原ナツミ
17
がんと闘う仲間たち
文・構成/岸田徹、
中陳香織
今まさにがんと闘っている仲間たちは全国にいます。
がんばっているみなさんにメッセージをいただきました。
私は子宮体がんで、2014年
4月に子宮と卵巣の摘出と
、骨盤リンパ節
郭清という手術を受けまし
た。手術前の検査では手術
をすれば終わ
りということだったのですが
、悪性度が高かったこと
、
そして肺に転
移が見つかったことで現在
TC療法という抗がん剤治療
中です。副作
用とうまく付き合いながら
、仕事も遊びも精一杯楽
しん
でいる毎日
です。ふと弱気になってしま
うこともありますが、病気
にな
ったから
気付いたこともたくさんあり
ます。闘病、がんばってい
きましょう。
稲葉 直
さん
線維形成性小円系細胞腫瘍は、進行が早く再発性も高いのが特徴の、青年期から若
年期に多いがんです。宣告から2年以上経ちますが、現在も治療を続けています。完治
の見込みは未だにありませんが、薬の効果や新薬の情報を希望に前向きに闘病して
います。しかし、病状が好転と悪化を繰り返す中で、自分の将来が見えずに悩んだり、
死を身近に感じて不安になることもあります。そんな中で絶望せずにいられるのは、家
族や友人、医療関係者の方々など、自分を支えてくれる人たちのおかげです。
がんになることは不運ではありますが、不幸ではない。それを証明するような人生にし
ていきたいと僕は思います。がんになったことも含めていい人生にできるように、まず
はがんを克服しましょう!
堂前 皓樹
さん
私は卵巣がんのため、片方の摘出手術をした後、抗がん剤治療を4クール行いま
した。現在は大学に通いながら2ヵ月ごとに検診に行っています。
入院中は、他の人からの何気ない言葉に傷つくこともありました。
「なんで自分
が?」って思うこともありました。ですが、病気になったからこそ、考えられたこと、
気付けたことも多いと思います。また、支えてくれた人への感謝も大きいです。
闘病中はしんどいと思いますが、闘っているのは1人ではありません!みんながそれ
ぞれがんばっていると思って、一緒に乗り越えていきましょう(^^)
岡 田 夏実
さん
18
私は昨年神経膠芽
腫が二度目の再発
をし、現在経過観
です。20歳の頃に罹
察中
患したのでもう15年
になります。ネット
は再発した場合は
で
数ヵ月と書かれてい
る悪性のものです
今も仕事をして生活
が、
できています。皆さん
も嫌なネットの情報
を気にすることはあり
ません。笑顔は病
気に対する免疫力
作ると聞きます。私
を
がまだ生きている
の
は
笑いを忘れなかっ
たおかげだと信じ
ています。嫌な情
報は気にせず、一
笑ってがんばりまし
緒に
ょう!
追立 純 嗣
さん
スキルス胃がんで最初は卵巣転移も疑われていましたが6クール
の抗がん剤でかなり良くなりました。しかし腹膜播腫があり胃の
摘出手術は受けられない状態で、手術を目標に治療中です。
私はがんになる前から心療内科に通っています。昔のリストカッ
トの傷がある腕で治療を受けるとき、死ばかり考えていた自分
が生きるための治療を受けていいのかと後ろめたくなります。
現実を受け止められているのか自分でもよくわかりませんが、
まわりの大切な人たちの支えでなんとか今生きています。
富田 英 美
奈
高 橋 さやか
19
さん
さん
こんにちは!私は
22 歳、大学在学
中に急性骨髄性
(MO)という病気
白血病
になりました。化学
療法を経て、その
縁者間の骨髄移植
後非血
を受けました。
その後、退院し大
学にも復学しまし
たが、半年後に髄
が見つかり、現在
外腫瘤
も治療中です。病
気になったことで
友人、周囲の人に
家
族や
支えられて生きて
いることを実感し
す。また、普通に生
ていま
活できることや健
康であることのあ
みを身にしみるほ
りがた
ど感じました。今
後
の不安もあります
は前向きに生きて
が、今
います。
闘病している皆さ
ん、治療はつらく
大変なことも多い
一緒に乗り越えて
ですが
いきましょう!
より良い闘病生活のために
『アピアランス支援センター』
を利用しよう!
文・構成/櫻井はるか
協力/国立研究開発法人 国立がん研究センター 中央病院 野澤桂子先生
手術・抗がん剤・放射線などの治療は、傷痕、髪・眉・まつげの脱毛、皮膚の黒ずみや乾燥、
爪の変形や変色など、患者さんの体にさまざまな影響をもたらすことがあります。
外見が変わったことで、悩みやストレスを感じている人も多いのではないでしょうか?
今回は治療による外見変化の相談に乗ってくれるアピアランス支援センターを取材しました!
Q アピアランス支援センターとは?
A : 治療の副作用による外見変化の悩みについて、相談に乗ったり、
対処方法を一緒に考えたり、情報を提供してくれるところです。
場所は、国立がん研究センター中央病院にあります。
Q アピアランス支援センターが近くにない…という方
A : 四国がんセンターや九州がんセンターでも、国立がん研究センターと共通の
患者サポートプログラムを行っています。また、これらの施設以外でも、
国立がん研究センターのアピアランス支援の教育を受けた医療従事者の方が
全国にたくさんいます(以下に紹介)。
オレンジクローバーバッチが目印で、今回紹介している病院・医療従事者の方以外にも
たくさんいらっしゃいます。見つけたらぜひ相談してみてはいかがでしょうか?
オレンジクローバーバッチ
アピアランス支援の研修を
受けた証です。
アピアランス支援の教育を受けた医療従事者のいる施設一覧
(2015年 3月 10日現在)
①
問い合わせの際は、
「オレンジクローバーのスタッフ」
②
と指名ください
③
④
⑤
⑮
⑧⑨
⑬
⑥
⑦
⑭
⑰
⑯
⑩⑪⑫⑱
①
②
③
④
⑤
⑥
⑦
⑧
⑨
⑩
⑪
⑫
⑬
⑭
⑮
⑯
⑰
⑱
恵佑会札幌病院 化学療法センター
青森厚生病院 外来化学療法室
宮城県立がんセンター 第一外来 白河厚生総合病院 がん治療支援緩和ケアチーム 5西病棟
富山大学附属病院 外来化学療法センター
栃木県立がんセンター 外来化学療法センター
総合病院国保旭中央病院 化学療法センター
埼玉医科大学国際医療センター 通院治療センター
小川赤十字病院 点滴治療室
東京医科歯科大学医学部付属病院 小児科
日本赤十字社医療センター 化学療法室
東京大学医学部附属病院 乳腺内分泌外科
浜松医療センター 外来化学療法室
市立奈良病院 外来
滋賀県立成人病センター 外来化学療法室
四国がんセンター 患者・家族総合支援センター
九州がんセンター 4東病院
国立がん研究センター 中央病院
20
ウィッグの種類が豊富!
男性用もあります。
爪・眉毛・肌などのメイク道具や人工乳
房。使用方法も教えてくれます。
耳や鼻など、病気によって失った部分
を補ってくれるもの。
患者さんから、
どのような相談を受けますか
お悩み内容その1
ウィッグをつけたまま会社へ行かなくてはいけませ
ん。病気のことは言っていない人も多いなか、会社
の人とうまくやっていけるか心配です。
お悩み内容その 2
治療により髪の毛がない状態で就職活動します。
面接官にいろいろ聞かれないか心配です。
お悩み内容その 3
お悩み内容その 4
子どもとお風呂に入る時間は、手術の傷痕を隠して
楽しく過ごしたいと思っています。隠す良い方法は
ありますか?
治 療による外見 変 化 がある状 態 で卒 業 式に参 加
します。肌の変 化などをカバーする方法はありま
すか?
野澤先生からの言葉
外見が変わることで、他人との関係に悩む方が多くいます。「外見の変化を隠
アピアランス支援センターは明るく、
さなければいけない」、
「ばれないよう上手くやらなければいけない」と一人で
とても前向きな気持ちにしてくれる場
抱え込まず、ぜひ一度アピアランス支援センターやオレンジクローバーバッチを
で、行くだけで元気になれそうな場所
付けた医療従事者にご相談ください。また、肌や髪などのケアをする際、特別
だと取材を通して感じました。
なことをしなくてはいけないと重く感じてしまう方が多くいますが、
“肌や髪に
このような支援を利用して、闘病生活
合わないなと感じたら変える”とシンプルに考えていいのです。
を乗り越えられたらな、と思います。
病気だからといって我慢せず、自分らしく過ごしてもらえたらいいと思います。
21
担当者のコメント
がんになったからこそ見つけた
“目標”や“生きがい”があります!
思いのこもった10人の若年性がん患者たちのライフワークを紹介します。
文・構成 中島 千尋
鈴木 美穂 / 乳がん
24歳の時に乳がんを経験したことで、“ライフワーク”ができました。それは、
がんになっても幸せを感じられる社会を作っていくために、あらゆる方面から自
分のできることをやっていくこと。闘病中、何よりも苦しかったのは、その先の未
来が想像できなかったこと。だからこそ、あの頃の自分と同じような状況の人た
ちに、当時欲しかった情報や居場所を届けたい。そんな思いから松井基浩くんと
共に2009年にSTAND UP!!、2013年には闘病中でも安心して参加できる
ヨガなどのワークショップを提供するCue!という団体を立ち上げました。そして
2014年、新たな夢を見つけました。それは英国発のがん患者と家族のための施
設マギーズセンターを東京に建てること(http://maggiestokyo.org/)。がん患
者や家族、友人が誰でも予約なく訪ねることができ、美術館のように魅力的で、
教会のように自分と向き合うことができ、病院のように安心でき、家のように帰っ
香港マギーズを訪れて
てきたいと思える場所―。2015年度中に、東京・豊洲にオープンする予定です。
がんになったからこそ見つけたライフワークが多くの素敵な出会いに恵まれた
今の私の人生をつくってくれていると、心から感謝しています。
向後 建 / 白血病
私は14歳で白血病を発症しました。当時は「告知しない」が普通でしたので、
自分が受けた治療についての知識はありませんでした。私への告知は29歳の
時に、親でもなく主治医でもない医師から病名のみ知らされました。白血病か
ら25年ほど経過したころから左手足に違和感が現れ、いくつかの病院を巡った
後に、晩期合併症としてパーキンソン病関連疾患の難病を告知されました。当
初は、晩期合併症の存在すら知らず、その可能性や小児がん治療の詳細を自分
で説明できなかったので、最初は適当な病名を付けられ、処方された薬で症状
が悪化していく恐怖も体験しました。このような経験から、小児がんの子ども
に対してもある年齢になったら必ず告知をして、自分が受けた治療内容を理解
し、自分で説明できるようにしておくことが重要だと思います。そこで、小児が
んの子どもを持っていた・いま持っている親たちへ告知の重要性と晩期合併症
について理解してもらうため小児がん支援のゴールドリボンチャリティーグッ
ズ製作&寄付をライフワークにして生きて行くことにしました。
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徳永 寛子 / 悪性黒色腫(メラノーマ)
がんと告知され、治療が一段落した2013年夏に、日本で初めてのメラノーマ患者
会 Over The Rainbow を立ちあげました。私が診断された当時は、いくら探
しても患者会はなく、出てきたのは個人の闘病ブログ。その先に行き着いたのは
ネット上のコミュニティーでした。「あの注射いたいよね」「そうそう!」なんてい
うほんの些細なことでも、共感してもらえた時に嬉しかったのを覚えています。
同じ病気のことを思う存分話せたら、不安な気持ちが少しは和らぐんじゃないか
な?と考え、「患者さんが話せる場所をつくりたい!」と思い、患者会を設立しま
した。まだまだ活動の幅も会員数も少ないけど、患者会があるというだけで、患
者さんやご家族の心の支えになるんじゃないかと思います。その他にも、一般の
方にもっとメラノーマを知っていただくため、啓蒙活動や要望書というかたちで
新薬承認への後押しもさせていただき、2014年7月には、長い間変化のなかっ
た治療薬がめでたく日本で世界初承認されました。希少がんゆえに孤独に感じ
た体験を元に、これからも仲間と共に活動していきたいと思います。
水橋 朱音 / 上咽頭がん
14歳でがんになり約1年間、小児科に入院しました。思春期での入院ということ
もあり、自分の感情を表わすことが難しく、看護師さんに迷惑をかけないように
いい子でいようと演じていたこともありました。そんな気持ちに気づき寄り添っ
てくれた看護師さんに救われたことがきっかけで、将来は常に患者さんの身近に
いる看護師として、思春期の子の心のケアや、退院後の複雑な感情に寄り添って
ケアをしたいと思うようになりました。現在、看護学生となり日々勉強をしてい
く中で、今も自分自身がしっかりとがんと向き合えていなく、病気がきっかけで甘
えることがうまくできなくなったことに気付きましたが、この気持ちを忘れずに、
そっと寄り添い、手を差しのべることができるあたたかい人になれることを目指
23
していきたいです!
佐藤 崇宏 / 精巣腫瘍
私のライフワークは食べることです。おいしいものを食べる。家族や友人と食べ
る。どこかへ足を運んで食べる。元来食べることが大好きで、体調が悪くてもご
飯を食べられないことなどなかった私が、抗がん剤治療の副作用によってご飯が
食べられないことがありました。口に運んでものどを通らず、運ばれてくるご飯
のにおいも受け付けなくなっていました。そんな中、少し気分が落ち着いた時、
家族がけんちん汁とたけのこご飯を病院へ持ってきてくれました。香りを嗅ぐと
それまでとは打って変わってすーっとお腹が空き、一口一口噛みしめるように平
らげました。私は今でもけんちん汁のあたたかさと、たけのこの歯ごたえをはっ
きりと覚えています。
そのことがあって以来、食べることの楽しさ、ありがたさを強く意識するように
なりました。治療が終了し、日常生活も問題なく過ごせるようになった現在、食
の知識を身につけるためにレストランでアルバイトをはじめました。地道に食の
知識を蓄えて、いつか“天食”を見つけるのが私の夢でありライフワークです。
23
加藤 那津 / 乳がん
私は2009年に乳がんと診断され、乳房温存手術と放射線治療後、ホルモン療法
を受けています。幸い早期だったので、数年経つと治療の副作用に慣れ、再発へ
の不安も和らいできました。しかし2013年、温存手術を受けた乳房内の再発と
診断されました。初発は早期で、決められた治療も受けてきたのに再発。ショッ
クというよりは、以前から気になっていたことが頭をよぎりました。
私には若年性乳がんのおばと、男性乳がんのおじがいます。自分の状況を踏まえ
遺伝子検査を受けるという選択をしました。検査の結果、遺伝子変異が分かり、
「遺伝性乳がん・卵巣がん症候群」であることが確定しました。自分が遺伝性乳
がんであること、そして通っている大学病院の大学院に遺伝カウンセラーのコース
ができたこともあり、私は遺伝カウンセラーを目指すことにしました。大学も大学
院も文系できたので学ばなければならないことはたくさんあるし、自分と同じ病
気の人と接する中で壁にぶつかるかも知れない。でも、私は遺伝カウンセラーを
目指します!
岸田 徹 / 胎児性がん(胚細胞腫瘍)
僕は、自分が“面白い”と思ったことをライフワークとして行っています。
がんになって死を意識してから、自分は何か生きた証を遺せたのだろうかと
思い、本気で「社会に貢献したい」という気持ちが強くなりました。僕の場
合、自分の病気や後遺症について情報が少なかったため、インターネットや
ブログなどを通して情報を集めていました。すると、他にも闘病を乗り越えて
いる人がいることが分かり、初めて見通しを持つことができました。
その経験から、僕は『がんノート』というウェブページを立ち上げ、治療のこ
と以外で「今、闘病中の人が知りたいこと」をインタビューしてYouTubeなど
の動画で配信しています。「がんになったから暗い未来が待っているんじゃ
ない。がんになったからこそ、できることや明るい未来もあるんだってことを
伝えていきたい」そのためにはまず自分が“面白い”と思うことをやろう。
今では厚生労働省のあるがん関係のプロジェクト委員に抜擢していただいた
り、僕がやりたかった社会貢献が少しずつできている気がしています。
箕輪 裕子 / 卵巣がん
卵巣がんと診断されて術前に化学療法を受けることになりましたが、病院や
ネットショップでケア帽子を探してみても、ドラマで見るがん患者がかぶってい
るようなものばかりでした。治療終了から1年後に再発した際に最初に頭に浮
かんだことは「またあの帽子をかぶるのかぁ。嫌だなぁ」でした。そのことを友
人に話すと「そんなに嫌なら作ればいいのに」と、『あるものから選ぶ』とい
う選択肢以外に『ないものは作る』という選択肢があるのだ!と知り、モノ作り
の分野でメーカーになるための奮闘が始まりました。帽子のデザイン、生地選
び、着用モデルから受発注業務まですべての業務をひとりで行うというチャレ
ンジは、がんという病気に絶対に白旗を掲げないぞ!という決意表明でもあり
ました。
ケア帽子のお店Lapin
現在、少しずつブログやイベントで取り上げていただけるようになりましたが、
今後は全国のがん拠点病院にサンプルとパンフレットを置いていただき、私と
同じように病と闘う方々のQOL向上の一助となることを目標にしております。
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寺尾 啓 / 白血病
高校入試直前に発症。1週間に1回はお見舞いに来てくださり、希望の高校を受
験できるように手配してくださった中学校の先生方や、入院中でも絶えず私に目
を向けてくださり、私の身体の状況に合わせて指導してくださった高校の先生
方への感謝の気持ちが強くなればなるほど、
「学校の先生になりたい」という小
さいころからの漠然とした夢が、大きなものになっていきました。
大学生である現在、私は特別支援教育教員養成課程に所属し、主に障がいを抱
えた子どもの教育について勉強しています。特に“病気を抱えた子どもの教育
(病弱教育)”については、小児がん経験者という立場であり、より身近で一番
興味がある分野なので、積極的に関わりたいと思っています。
将来に向けて、病気や障がいなどさまざまな困難を抱えた子も含めて、子どもに
寄り添い伸ばしていくことの専門性を高めるべく努力していきたいと思います。
堤 朋香 / ユーイング肉腫
私は入院中に理学療法を受けたのがきっかけで、自分も理学療法士になろうと思
いました。現在は総合病院で主に術後の患者さんのリハビリに携わっています。
リハビリでは疾患の特性を考え、患者さんの体調などをみながら、医師・看護師
など、さまざまな職種と連携して患者さんに訓練を実施しています。
私が目指す理学療法士は、自分を担当してくれた2人の理学療法士です。2人はつ
らい治療中でもそれを忘れられるようなリハビリをしてくれ、高校の話をしたり、
時には一緒に筋トレをやってくれたりして、たくさん笑わせてくれました。
入院するとこれまでと環境が一変し、精神的なダメージも少なからず受けると
思います。私はそのような患者さんに、運動機能へのアプローチだけではなく、
精神的にも元気になるお手伝いができる理学療法士になりたいと思っていま
す。今後は勉強を積んで、がんのリハビリテーションに多く関われるようにして
いきたいです。そして、目標とする2人に近付きたいと思っています。
がんになったことでつらい思いをすることが
たくさんあると思います。
しかし、がんを経験したからこそさまざまなことに
一生懸命になれるのではないでしょうか。
自分らしく幸せに過ごせることを願っています。
あなたのライフワークは何ですか?
25
r
ily amily
ble talk about
a
t
d
f
oun
A
結婚した若年性がん患者が語る本音
進行・構成:白井裕美子/写真:中陳香織
A
table talk about fa
d
n
u
m
ro
熊耳 宏介 (32歳)
高橋 和奈 (28歳)
垣田 友也 (33歳)
有川 雅俊 (35歳)
17歳で急性リンパ性白血病に罹
患、21歳で再発。彼女いない暦
6年を経て、最近結婚。
23歳で胃がんに罹患。
抗がん剤治療後知り合った彼と
最近結婚。
31歳で胃がんに罹患。
告白する2日前に告知。
治療を経て結婚。
結婚5年目、2人目の子が10ヵ月
のときに胃がんに罹患。
知 り合ってから 結 婚までの経 緯 を 教 えていただ
新 婚2 人 を 迎 え 、結 婚 と 家 族について
語りました。
けますか?
▼熊耳:いつも、長い期間をかけて慎重に付き合
るかわからないし、
そういうことも含めて、
この人
いを始めるほう。治療しているから子どもを作れ
めていったよ。
フリ ーペ ーパ ーを介して伝えたり。
ならわかってくれると確信を持てるまで徐々に進
▼ 垣 田:僕 は 付 き 合って く だ さ い と 言 お う と
した2 日 前に 告 知 され 、それでも 彼 女に 病 気の
人なんだから自分で判断してくれるだろうと。
こ と も すべて 伝 え た う え で 決 め て も ら い ま し
た。”がん “だって言うと断りづらくなると思っ
たけれど 、結 婚のことも考えていたし、彼 女も大
▼熊耳:そうなんだ。
▼ 垣 田:それで 、今 日 の 座 談 会 でこの 話 に な る
を 聞いてき たんです よ 。 ま ず「 がん じゃな くて
と 思って、ど うして受 け 入れてくれたのか、理 由
も交 通 事 故とか起こるかもしれないから 気にし
な かった 」というの が 一つと 、やっぱ り「 断った
目のは今 朝初めて言われた( 笑)。
ら 可 愛 そう 」
っていうのもあったって…… 。二つ
ことで。
▼ 熊 耳:奥 さ ん の ”優 し さ と 広い心 “っていう
▼垣 田:それから 奥 さんのご 両 親に 会ったら す
な 。た だ 、最 初 に 会ったの が 手 術 か ら 間 も な く
ご くいい 人 で 、「 お お 、体 大 丈 夫 な ん ? 」み たい
て 、親 戚 と 食 事 を し ている 時 、胃 が ん 術 後 なの
ら に 手 を 伸 ば そ う とし た ら 全 員 から 止 めら れ
で脂っこいものは控えなきゃいけないのに、天ぷ
全 員:
( 笑)それはダメだよ。
ちゃって。
は 病 気のこと は 知らな くて、彼には 付 き 合 う 時
▼ 高 橋:私の 場 合 は 親 戚の 紹 介 。その 親 戚の 人
婚 する 人 “って決 めていて 、簡 単 に は 付 き 合 え
に自 分から 伝えたんだ 。「 ”次 付 き 合 う 人 は 結
26
」でも 、このあた りの 話 は
人 以 上にがんばっちゃったり 。でも 、体 は 大 切に
について悩みを抱える方へ向けてアドバイ
今回の座談会で感じたことや、がんと結婚
▼熊 耳:う ち は 病 気のこ と を 彼 女 に 話し た ら 、
がついたかな 。そこで恋 愛 や 結 婚に 対 する 自 分
▼ 高 橋:がんになって初 めて時 間の 大 切 さに 気
の 考 え が 変 わった よ ね 。何 に 対しても 諦 めちゃ
で 、入 院 し て 検 査 し た ら 大 き な 胃 潰 瘍 が 見 つ
人ってたくさんいる じゃん。だから 、それは 病 気
い け ないん だって 。今 の 世 の 中 、結 婚 で き ない
は心 配になるかな。
▼熊耳:それはあるよね。実際、今元気だし、向こ
云々じゃなくって、自分の気持ち次第だと 思う。
そのご 両 親 とかどこまで理 解してくれているか
う はそこ まで病 気の 知 識 も 無いだろ うし 。大 事
ものでしょ。それでも 生 きているんだから 、それ
だ けの 強い生 命 力 も あ る し 、精 神 力 も あ る し 、
なことは徐々に伝えていければいいだろうね。
「 病 気 し て 再 発 も し て 、2 回 死 ん で る み たいな
▼熊耳:じゃあ、
その場に奥さんはいなかったんだ。
だ か ら 安 心 かな 」
って言われちゃったよ 。それは
告げられたの。それから 奥さんに連 絡して… … 。
▼有 川:そう 。ちょう ど 、2 人 目の子 がまだ ヵ
みんなが聞きたいこと … …
月で、奥さんが復 職 準 備をしていたころ だった。
うか、男の方がびびっちゃうよね。
▼熊 耳:女 性の 方 が 受 け 止 める 心 が 広いってい
の奥さんが冷静に対応してくれていたと思う。
ら、泣いているそばで同業者(ソ ーシャルワ ーカ ー)
のことを考えて、僕は結 構パニックになってたか
は。それと 、食 事のこととか自 分の弱 点を 知って
▼ 垣 田:治 療 の 初 めから 見 ている し 、あ る 程 度
わ かっている と 思います か?
で は 、パ ー ト ナ ー は 病 気 の こ と を ど れ く ら い
▼高 橋:のろけだね~ 。
ん だよ 」
って。
しさとか、周りへの気 遣いのある熊ちゃんがいい
▼熊 耳:
「 でも 、そ ういう 経 験 を してる から 、優
▼有川:それは今も取ってあるの?
保 険 的な意 味 合いもあって。
自 分のと 、ど ち ら が 元 気に 運 動しているか … …
全 に 元 気ってわ け じゃないけ れ ど 、それ と 今の
配にな る よ ね 。も ち ろ ん 保 存した 精 子 だって完
使っている から 、精 子 が 生 き ている か ど う か 心
も が 欲しいと 思ったから 。た く さ んの 薬 を 体 に
3回 分 取って保 存してたよ 。やっぱり 将 来 、子 ど
▼熊 耳:この 中 だ と 俺 く らいだ も ん ね 。精 子 は
精子・卵子保存はどうしたの?
なるかなって…… 。
▼垣 田:僕は早 期だったこともあって、なんとか
る、伝えてみるのが大切だと思う。
から 大 丈 夫 な ん じゃないかな 。ま ず は 言ってみ
るって思 う 。友 だちも 含めていろんな 人がね 。だ
て、がんのこ と 話してもわ り と 受 け 入 れてくれ
▼ 熊 耳:ア ド バイ スってい う か 、俺 の 感 覚 と し
なったから 。前は本当に仕 事人 間で
( 笑)。
くれ る 周 囲の 人 、特に 奥 さんに 感 謝 する よ うに
て家 族のこ と を 考 え る よ うになったし 、支 えて
仕 事 中 だったから メ ールで 連 絡 を 。子 ど も や 家
▼ 有 川:彼 女 もショックは 受 けていた と 思 う け
いるっていうか。
は 保 存 するのにも 年 間いくらってお 金 がかかる
▼熊 耳:それがね 、ちょう ど 最 近 破 棄したの。実
どちらかというとこれからの家 族のことを 考え
たら、頭の中が ”ワー“ってなって……。
そこを支
えてくれた奥さんにはすごく感謝しているよ。
いる 時も「うちのお父さんは無 理 だから 」みたい
から、考えて、今の自分の精子の運動がどの程度
ね、愛があれば!(笑 )
▼熊 耳:なんとかな るかな …… なんとかな る よ
でる と か 。
一緒に 暮 らしていく う えで、そ ういう
疲 れ や すいと か 、怠 けている ん じゃな くて 休 ん
を 早 く 」という 思いで 、その こ と は 全 然 考 え な
▼高 橋:私も 卵 子 凍 結の話はあったけ ど 、「 治 療
るんじゃないかな。
ら 卵 子 凍 結 と か 、いろいろ な アドバイスが さ れ
ざいました。
たくさん話しを 聞かせてくれて、あ りがとうご
いるんだ!」
って思 うと元 気が出ました。今日は
病 気のこと も 含め理 解 してく れる相 手 がい
るって素 敵ですね。
「 そんな人が世 界のどこかに
と変わらなかったから、思い切って捨てたわけ。
▼垣田:お金がかかるんですね。
か調べてもらったんだ 。結 果 、保 存している 精 子
▼熊 耳:そうなんだよ 。あと 、初 発の時そんな 話
に 気 を 使ってくれ る こ と も あった り 。鬼 ごっこ
気 持ちはあるよね。
ら ね 。でも やっぱ り 子 ど も た ち に は 悪いなって
を 聞いていればもっと 元 気な 精 子 を 保 存できた
の 鬼 な んてやった ら 、フ ラフ ラで 倒 れ ち ゃう か
▼ 高 橋:
( 笑 )。あ と 、食 事 の こ と だ け じ ゃな く
を聞いたんだ。今なら 精 子 保 存とか、女 性だった
と 思 うん だ け ど 、再 発の 時に 初 めてそ ういう 話
結 婚 前 に 罹 患 し た3人 について 、すべて を 伝 え
思ってがんばってくれていたんだと 思う。
れ ど 、「一番 衝 撃 を 受 けているの は 旦 那 だ 」って
▼ 有 川:子 ど も た ち も そ う 。お 父 さ ん が よく 吐
▼有川:がんの治療のこともそうなんだけれど、 (しばらく胃がんあるある話で盛り上がる3人)
▼高 橋:奥さん強いね。
いているから 、慣れたのかな 。他 所の子と 遊んで
全 員:
(笑)
それで結 構プレッシャーだよね( 笑 )。
▼ 有 川:僕の 場 合 は 結 婚 後の 罹 患 だった から 、
熊 耳 さ ん が 話してた ”家 族のフレー ム “ってい
う 考 え 方 が 心 に 残った かな 。がんになって 改 め
かって … 入 院 4 日 目 だった か な 、胃 がん だって
スをお願いします。
最近みんなでするようになったよね。
▼有 川:僕も 仕 事でいっぱいいっぱいな 時 、そん
し ていか ないと ダメ だ よ ね 。も う一人 じ ゃな く
「 S TAN D U P
な 話 とか 介 護 とかの 話 を 聞いたら 無 理かも 。男
て、
一緒 に 暮 ら し ている ん だし 、”家 族 のフレ ー
と 違って)全 然 普 通 なん だ よね 。で、残 業 とかも
じように思ってくれていて。
性 の 方 が 引 く 気 が す る …… そ ん な 話 を ち ょ う
で守れるかな?」
とか考えちゃうからじゃない?
有川さんは奥さんと 告知を聞いたの?
ど 奥さんともしてました。
ない」と も 言った よ 。そ うし たら 、彼のほ う も 同
う か と 思って か ら 数 日 後 に 下 血 し ち ゃって 。
▼有 川:いや、ものすご く 胃 が 痛 くて、検 査し よ
ム“で自 分のことも考えていかないと。
▼ 高 橋:あ と は 、相 手 がわかってくれていても 、
!!
て受 け入れても ら えたってこと は、それだけ一緒
▼熊 耳:言うタイミングは難しいけどね 。俺は友
にいたいって思っても ら えたから かな?
れると 楽だよね 。その日によって体 調も違うし 。
て、何 ができ るか、何 ができないかをわかってく
▼高 橋:私は前に出 会った人とはダメだったな。
でしょ。その延 長に彼 女がいたって感じかな。
のが大 切だなって思うよ。
だちの段 階から 徐々に伝えていったけど 。
▼熊耳:友だちでも誰でも、伝えたい相手に言う
▼高 橋:そうだよね。
私の 病 気について「マジで? 」みたいな 反 応して
長かったけれ ど 、治っちゃえ ば( 胃 がんのみんな
▼熊 耳:俺の 場 合 、血 液 系の がん だから 入 院 は
かった 。その時 はそれ どころ じゃなかったから 。
▼熊 耳:男って無 駄に責 任 感 強 くて、勝 手に「 俺
いたって、風の噂で聞いたし… … 。
27
10
同じ時間を過ごすなら、
明るく楽しく笑っていよう
できないことの数を
数えるなんてナンセンス!
可能性を信じて、一歩ずつ
人生のスパイス
幸せだから笑うのではなく、
笑うから幸せなんです
〜1号から5号までの体験談より〜
Photographer/小坂仁都美 ⓒSTAND UP!! 無断転載・転売禁止
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「STAND UP!!」とは…
「STAND UP!!」
とは、35歳までにがんに罹患した若年性がん患者による、若年性がん患者のための
団体です。私たちの活動目的は、現在闘病中の若年性がん患者が前向きに闘病生活を送れるようにすること
です。そのために、2009年の立ち上げから現在まで、
メンバーが自らの闘病経験を活かし活動してきました。
主な活動内容は、
フリーペーパーを通した情報発信、
メンバー間の交流、がん啓発イベントへの参加です。
これらの活動を通して若年性がん患者の輪が広がることで、一人でも多くの患者が孤独に闘病生活を送る
ことがないように願っています。
2014年度活動報告
毎月東京で運営会議を行っています。
2014年度は、掲載以外の地域でも定期的に交流会がありました。
●
10
月
4月
フリーペーパー5号発行
●
ゴールドリボンウォーキング
フリーペーパー5号お露目会
●
5月
月
11
サポートメンバー主催
ハンドマッサージ講習会
名古屋交流会
●
6月
総会
●
関西交流会
12
月
1月
7月
●
STAND UP!! BBQ
●
サポートメンバーとグッズ作成
●
9月
リレー・フォー・ライフ
2014ちば
●
サポートメンバー主催
チャリティーイベント
●
サポートメンバー募集
http://standupdreams.com/
29
●
3月
いるか分教室夏季研修会登壇
2月
8月
●
●
名古屋交流会
●
埼玉交流会
Forum for Japan Cancer
Patients 2015 登壇
「若年性がん患者ではないけれど、何かを手伝いたい!」という声を多くいただき、
『STAND UP!!サ
ポートメンバー制度』が誕生しました。若年性がん患者の家族から、がんとは関係のない方まで、さまざま
な方が集まっています。年会費1,000円でサポートメンバーに登録していただいた方には、毎年発行のフ
リーペーパーをお送りします。そのほかにも「STAND UP!!」メンバーとの交流会のお知らせ、活動内
容などのご報告メールも配信しています。詳しくは「STAND UP!!」ホームページをご覧ください。
編集後記
「STAND UP!!」
第6号 編集長
代表
松井 基浩
中陳 香織
今年も無事、フリーペーパー6号を発行することが出来ました。
「STAND UP!!」メンバーも300人を超え多くの方々に読
おかげさまで、
「STAND UP!!」第6号が完成しまし
んでいただけるようなフリーペーパーとなってきました。
た。お世話になった皆さま、本当にありがとうございます。
は、多くの皆さまの支えがあったからこそだと実感しておりま
とりじゃない」ということを伝えたいと改めて考えました。
にこの場をお借りしまして深く御礼申し上げます。今年も編集
いと思います。そんな皆さんに、
「がん患者にだっていろい
でも前を向く力になってほしい」という思いを大切に、フリー
在する」と伝え、少しでもつらい気持ちを和らげてほしい。
ここまで継続してフリーペーパーを作成し続けられているの
今回初めて編集長を務め、若年性がん患者の皆さんに「ひ
す。
「STAND UP!!」を支えてくださった多くの皆さま方
いま会社や学校から孤立し、つらい思いをしている方も多
長を中心に「このフリーペーパーが、がんと闘う人たちの少し
ろな可能性がある」「共に生きている仲間はこんなにも存
ペーパー6号を作成しました。一頁一頁思いのこもったフリー
そのような想いでこのフリーペーパーを作りました。
ペーパーが、一人でも多くの方に届き、そして力になることを
願っております。
「がん患者には夢がある」そう掲げて「S
お かげさまで 団 体 設 立 から6 年目を
つらいとき、苦しいとき、逃げ出したく
い描いていた夢を「STAND UP!!」
族、病院関係者やそのご友人にまで「S
さんの仲間に支えられていることに気
TAND UP!!」を立ち上げた当時思
が叶えてくれました。当時の夢は闘病経
迎えました。闘病中の仲間やそのご家
TAND UP!!」が認知され、たくさ
験を活かして少しでも誰かのためになる
んの方から応援メッセージをいただい
れていると知るたびに、感謝の気持ちで
ワーを今後どのような活動につなげる
こと。
「STAND UP!!」が必要とさ
いっぱいになります。今の夢は、がんを
経験して良かったとみんなが思える社会
をつくること。長い道のりかもしれません
ております。皆さんからいただいたパ
かワクワクしています。これからも温か
く見守っていただければ幸いです。
なるとき……ふと周りを見渡すとたく
が付きます。そしてフリーペーパーに携
わるたびに人の優しさあたたかさに触
れます。大丈夫、ひとりじゃないよ、共
に支え合って生きていこう。このフリー
ペーパーを通してたくさんの人にメッ
セージが届きますように。
が、私は夢のある人生が大好きです。
副代表
鈴木 美穂
STAND UP!!
メンバー募集
事務局長
熊耳 宏介
「STAND UP!!」
第6号 副編集長
水橋 朱音
STAND UP!! ホームページ
http://standupdreams.com/
現在若年性がんと闘っている方、35歳以下の罹現在若年性がんと闘っている方、35歳
以下の罹患で闘病経験のある方、一緒に繋がって交流しませんか? 定期的に開催され
ているイベントやチャットを通してメンバーと交流を深めることができます。
入会方法については、
「STAND UP!!」ウェブサイトをご覧ください。
ご意見、ご感想、お問い合わせもお待ちしております。
スマートフォンから
はQ Rコードを読 み
込むと簡単にアクセ
スいただけます。
ご協賛いただきありがとうございました
●大原薬品工業株式会社 ●認定NPO法人ゴールドリボン・ネットワーク 松井秀文(五十音順 敬称略)
ⓒSTAND UP!! 無断転載・転売禁止
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認定NPO法人
ゴールドリボン・ネットワーク
小児がんの子どもたちのために
小児がん治療中の子どもたちのために、治療中にかかる病院
への交通費助成や小児病棟の学習室の整備、またQOL(生
活の質)向上のため、小児がん経験者奨学金制度、サマーキャ
ンプやワークショップなど、多岐に渡る支援を行います。
小児がんの治癒率向上のために
小児がんで命を落とす子どもが少しでも少なくなるよう、
また合併症で苦しむ子どもがひとりでも少なくなるように
治療方法・薬の開発への支援を行っています。
小児がんをよりよく理解してもらうために
小児がん経験者やそのご家族のことを正しく理解してもら
えるよう、ゴールドリボン・ウオーキングなどのイベントの
開催、後援を通じ、理解促進に取り組みます。
小児がん経験者やそのご家族のことを正しく理解してもらえるよう、
「ゴールドリボン・ウオーキング」などのイベントの開催、後援を通じ、
理解促進に取り組みます。
認定NPO法人
ゴールドリボン・ネットワーク
〒161-0033 東京都新宿区下落合3-12-32-F
E-mail: [email protected]
http://www.goldribbon.jp
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