天理大学人権問題研究室紀要第 2 号 (1999 年) 住井 するの戦争責任とその 弁護者たち 日 Ⅱ 田 均 (文学部国文学国語学科) 1. 1997 年 6 月 16 日, 住井 すゑが死んだ。 1998 年 11 同 30 日発行の第 1 巻を第 1 回配本分と して,現在,新潮社から『 住井 すゑ著作集 J (全 8 巻 ) が刊行されている。 その内容 見 本には「生命の 尊さと平等を 熱く語り続けた 信念の人一一七十年にわたる 創作活動のな かからその魅力の 全てを収める 決定版 ! 」とあ る。 しかし,それが 虚構であ ることは既 に指摘されている。 「一九九九年一同発売予定」の 第 2 回配本分であ る第 2 巻にⅡm 録 予 定 め 『大地の倫理 には次のような 箇所があ る。 コ 「やあ,おめでたう。マニラも 陥 ちたね。 いや,愉快だ。全く,痛快だ Ⅱ - 人で喋りつづけた " 「無敵皇 軍。 何がいけない ? はは、 、 ,無敵皇軍を不穏だなんて 云った 腰 牧野郎,今こそ 、 、 、 佐原は玄関にどたりと 倒れるやうに 腰掛けながら 出て来い。 神国日本は開 闘 以来無敵なんだ。 それを英米の 倣 慢 野郎に気兼して ,無 敵皇軍 と 云っても書いても 不可ないなんて ,そんなべらぼうな 話があ るかつてん だ Ⅱ (中略) 「 い や,めでたい 正月だ。 マニラが,他愛もなく 落ちやがった。 口 これが「生命の 尊さと平等を 熱く語り続けた 信念の人」の 言葉だろうか。 住井 はこれ 以外にも戦争を 讃美し,人々を 戦争をかりたてる 作品を多く書いている。 それが広く世 に知られる よ うになったのは 陀 onzaj (朝日新聞社 ) 1995 年 8 月号,第1 巻第 5 号, 通巻第 5 号に, 櫻 本富雄の「 住井 すゑにみる『反戦 ョの 虚構」が掲載されてからのこと であ る。 その文章には ,これらの作品を 持って自宅を 訪れた 櫻 本に,「ほほほ……。 何 書いたか,みんな 忘れましたね」と 言ったり,「書いたというより ,書かされちゃうん ですよね,あ の頃 は。」と言ったり , 「亭主がもの 書いて,罰金刑になるわけですよ 目 「印税はその 罰金に消えていったわけですよ。 」と言ったりする 姿が描かれている。 住 井が 「かんな忘れました」と 言っているのは ,作品の内容なのか ,書いた事実か ,書い た 経緯かはっきりしない。 しかし,このインタビュー 以前には次のように 住 井は言っていた。 けれども,より 恐ろしいのは 戦時下に強制された 政府への "脇ガ,である。 当時 売れっ子の詩人だった 友人は南方戦線に 従軍,皇軍を 激励して大いに 賞揚されたが , いざ敗戦となるや 非難攻撃の集中砲火をあ び,詩人としての 生命を失った。 「僕は 望んで従軍したわけではない。 すべては命令だった。」と友人は弁僻したが ,そん な 弁解は容れられるわけもなく ,晩年を寂しく 過ごし,そして 淋しくこの世を 去っ た。 今もし「国家秘密法」 (中略) が 実施されることになれば (中略) 国 家 権 力者の意図のままに ,ウソを書きつら ぬ ることを強制されるにちがいない。 「すべては命令だった」という「弁解は ら 容れられるわけもない」とわかっているのな ,自分の行為もそうであ ると認識すべきだろう。 しかも「友人」のことのみ 例に挙げ , なった教科書攻撃のなかで 自分のことは 書いていない。 しかし,それより 前 ,「自民・民社両党,財界等が 一体と ,文学読本仁はぐる まコ は, r 国語教科書傾向の 教典』 と き めつけられ,集中砲火を 浴びせられた」とき , r はぐる 引 編集委員として 次のように 言っていた。 もし,ここで , " これは タ旺 ぜ,とセンセイたちにいわれるままに 近 い 将来,センセイたちは 必ずや やすようなら , " お前たちはこう 書け。 書かなければ 電気 ムチだ ぞ " と,よ り積極的にやってくるのは タ 明らかだ。 そうなっては ,もう手おくれ だ 第二次大戦中,童話作家の 一人として,私はまざまざ ,それを体験している。 お あ らば, このことも書きのこしたい。 「体験」したのは ,「お双たちはこう書け」と言われて 書いたことなのか ,そう 言わ れたけど書かなかった (言われただけ ) なのか判然としない。 言われただけならたいし た 弾圧でもないように 恩、う 。 また, 住井は寿岳 文章との対談の 際には次のように 言っていた。 住井 戦争中の十 セ ,八年は私たち 童話を書く人間も 集められて,「童話は 国策 に 沿って , 国のためになるような 童話を書け」と 言われました。 あ る時は大蔵 省, それから情報局の 両方から呼び 出されて……結局,命令通りに 書かなければ 雑誌の 紙 をくれない,単行本出すにも 紙をくれない , と 同じわるしたからねえ ,だから気 の 弱い人は翼賛会や 情報局のいう 通りになりましたよ。 そういう会合でもそいつら と 喧嘩したのはやっぱり 私一人でした。 寿岳 やっぱり, 住沖 さんだ。 住井 軍の要請に従って ,ある 時 ,大蔵省や情報局の 役人が , 子どもに「お 父さ ん, お母さん, 今 , お 国は大変なんだから 早く税金納めてください」と 親たちを 説 得するようなものを 書けというんですよ。 だから私は,そういう 童話は書けません。 子どもに収税吏の 下働きをさせるような ,そんなまねはできません。 そ う 言ったら 怒りましてね ,みんなのかる 中でさんざん 私に悪態 つ きました ょ 。 (中略 ) かんな 黙って聞いてました。 書けないと突っ 張ったのは私一人です。 確かに「書け」と 命令されて書いた 作品はな い のかもしれない。 しかし,「亭主」の 「罰金」を ね、 うために書いた 戦争讃美の作品群には 何の言及もない。 「みんな忘れまし たね」ということだろうか。 住井は 1935 年以前のこととして , 亭 王の罰金に苦しむ 自ら の姿を『八 -ト 歳の宣言 J (1984年・人文書院 ) 63 頁で描いている。 住井は 桜木の指摘し 住非すゑの戦争責任とその弁護者たち た作品の時代を ,この時期ととり 違えているのではないか。 2. いずれにせよ , 住 井本人でさえ「みんな 忘れました」戦時下の 作品群が明らかになっ た。 しかもそれまで 住井 が述べてきた 自らの歴史とは 異なる点があ ることをも見出した ことになる。 1 人の作家を理僻するのは 全作品を検討してこそそれが 可能であ る。 その 点で 櫻 本の功績は大きい。 しかし,ここにこの 櫻 本の功績を否定しようとする 人が現れた。 それは高崎隆治で , 「いま,なぜ住井 すゑなのか 一 RONZAJ 特集記事への 疑問」と題して ,『週刊金曜 t995 年 9 月 15 日号に発表された 文章がそれであ る。 その批判を検討するため 以下司 『 日 コ 刑 する。 月刊誌「 RONZ 刮 (八月号 ) が,戦後五0 午 特集として「文筆者,出版,新聞 の戦争責任」を 組んだ。 タイトルから ,内容はバラエティに 富んだものを 予想した が ,実質は,『橋のない 川 団の若者として 知られる 住井 すゑの戦争責任を 問題にし た (あ るいは中心にした ) 特集であ った。 (中略 ) ただ私が不思議に 思うのは,い まなぜ住井 なのかということであ る。 おそらくそれを 問えば,戦争 下の ・女性作家は すでにほとんどが 故人となったし ,残っている 少数者も「現役を 退いているから」 という答えが 返ってくるだろう うのは理解できる。 " それではインタビューが 成り立たないから , とい が,なぜインタビュ 一でなければならないのかは 私にはわから ない。 しかも,対談の 内容は,半世紀を 経た戦時下の 住井の作品に 対する難詰であ る。 まだぺン を握る意欲があ るといっても , 九 0 歳を超えた人に ,長時間詰問を 繰 り 返すのは常識を 欠いているからだ。 インタビュ一でなければならないのなら , な ぜ 一 0 年前二 0 年前に行わなかったのだろう。 そのころなら , 住 井の記憶力も 判断 ガ も体力も,いまよりははるかに 余力を保っていたはずであ る。 高崎は, 住 井の話した内容のことには 何も触れず, 櫻 本の「行為」「対象」「時期」の みを問題にしているようであ る。 高崎は「私はここで 住井 すゑの弁護をしているのでは ない」とも言っているが , 住井 に対する批判者 (だと私は思 、 6) であ る樫木の行為に 疑 問を抱く というよりその 行為を批判するということは ,それ自体「弁護」となるで はないか。 以 -f, 高崎の「弁護」の 矛盾と問題点を 指摘していこう。 3 まず「対象」としての 住井 すゑから。 高崎は次のように 言っている。 戦争 下 の 住井は ついて,戦後の 人々がなにも 知識をもっていないのは 事実でも, 住 井の過去だけを 問題にすれば ,その他多くの・ 女性作家には 住井 のような過去がな いと人は錯覚するだろう。 具体的にいえば ,『二十四の瞳』の壺井栄は 真先に標的 となるはずだし , 佐多 稲子をはじめ ,林芙美子・ 吉屋信子・豊田正子・ 円地文子・ 真杉静 枝など,一部を 除いて戦時下のことごとくの 女性作家が作品の 数と質の差 こ そあ れ問題にならないはずはないのであ る。 住非 すゑがインタビュアに 伺って,な ぜ自分一人だけが 問題にされるのかと 反問したのは 当然であ る。 住井 以外の女性作家にも 同じ問題があ るとの指摘には 賛成であ る " 高崎の挙げた 他の 7 人中,写真が住 井 とともに掲載され ,重要とみられている 2 人 壺井栄 と佐多稲子 を代表として検討してみよう (写真の選択については 高崎の責任ではなく ,編集部の選 択かもしれないが ) 。 壺井栄は 1967荏に「故人となった」。 佳孝稲子は 1955年 9 月には生 きていたが,最近, 1998年 10同 12 日に「故人となった」。 住井 が死んで直後の 1997年 6 月 2f 日午後 10時から 1Q時 45分に, NHK 教育テレビで「 E ハ/ 特集」として「地球の 命 はみな平等・ 住井 すゑさんのメッセージ」という 追悼番組が放送され ,その中では ,若 月 俊 Ⅰ八六輔,福田雅子, 寿岳 章子,双川む一 らが住 井の戦争責任には 一切触れず, 「讃美」の限りを 尽くし, 櫻 本によって明らかになった 住 井の実像とは 反対の住 井 の 偽 りの像を視聴者に 押しつけていたが , 佐多 稲子についてはそのようなことはなかった。 それはとりもなおさず , 住 井の方が佐 多 よりも現代においては 重要人物であ ることを示 している。 一方,雑誌『群像』 (講談社 ) 1998年 f2 月号,第53 巻筆 12 号は佐 多 稲子道,悼 特集を組んでいる。 住 井の場合,そのようなものはなかった。 文芸月刊誌を 読む人より 教育テレビを 見る人の方が 多 い こと,また双方の 受容者の質を 考えると,専門家 ゥケ す る 佐多 ,一般に多くの 影響を与える 住井 となるだろう。 なお,壺井栄の 作品は教科書に も よく 採用されてきたが ,戦争責任を 不問にしての 掲載は今後,問 い直 ずべきだろう。 たとえば,『少女の友』 1942年 12 月号の「一本の 糸」という作品ひとっ 見ても壺井の 姿 がよ くわかる。 高崎はなぜか 引用していないが ,同誌編集部の 伊藤景子の「書くことの 喜びと責任」 という文章が 櫻 木の文章の次に 掲載されている。 それを引用する。 同和教育の活発な 関西で生まれ 育った人間には ,多かれ少なかれ,「住井 すゑ体 験」とでもいえるような 思い出があ る。 私の場合は,たしか 中学校二年生のときだ。 ニ十年以上双になる。 「八 % という名称の 同和教育の授業で ,映画「橋のない川 を鑑賞した。 (中略) 映画の感想文が 宿題になり,次の 週の国語と社会の 授業で, 教師が映画に 触れて差別の 問題を熱っぽく 語り,私の頭には ,映画の題名と 原作者 の名前が刻みつけられた。 その後, 住非 するが新聞や 雑誌に, 反 差別,反戦の 論客 として登場するたび ,「あいかわらず,がんばってるなあ 」と,懐かしく 思い出し た。 だから, 住井 すゑの戦時中の 作品について 棚氷原稿で知ったときは ,頭がくら くらした。 そして,その 事実がほとんど 問われず,戦後五十年,過ぎてしまったこ とが不思議でならなかった。 」 高崎は「同質の 多数の中から 特定のⅡ一人だけ』を 標的にするのは ,質問者にその 意 図のあ るなしにかかわりなく ,いじめ以外のなにものでもない」と 言っているが , 住井 は 他の女性作家と「同質」だろうか。 明らかに違う。 櫻 本の行為は本人の「意図」はど うあ れ,「関西で生まれ育った 人間」であ る伊藤や私には ,「 住井 すゑ体験」をつき くず すものであ った。 つまり,一定の「意図」によってゆがめられた 住 井の像をいささかで 住井すゑの戦争責任とその弁護者たち も正すことができたのは 櫻 本の功績であ る。 同和教育の世界では 住井 すゑの神格化が 行 われてきた。 もし仮にそうでないと 主張するのなら ,これまでの 同和教育界で 住 井 の 戦 争 責任と住 丼 をたたえた自らの 責任についてシンポジウムでも 開いたことがあ るのかど ぅか明らかにしてもらいたり。 一例を挙げれば ,奈良県同和教育研究会編『かんな 同じ 人間なのだ J (1965年・妙文 社 ) は「人権 作文集」 (回書帯の表現 ) だが,それに「推せ ん」を書いているのが , 住井 であ る。 このような人物であ る 住井に 「推せん」を 書いて もらうことに 疑問を抱かない 同会の西口敏夫や 小川太郎ら (及びその後継者たち ) は 住 井と 自らの責任を 明らかにずる 義務があ る。 また『Ronza 』の 櫻 本の文章はその 前年であ る 1994 年 8 月 15 日, MBS (毎日放送。 近畿地方の第 4 チャンネル ) で放送された「あ る少国民の告発 文化人と戦争」と 題 するドキュメンタリ 一番組の一部を 文字化し,それに 櫻 本白身で説明をつけたものであ る。 高崎も, このインタビューそのものは ,実は一年前のもので ,それはその 時に放映された ものだという。 つまり,その時のインタビューを ,活字化し再構成したのが 旧 onz 到 の 文章であ るらしい。 とすれば, 旧 onza 』自体が一年双のインタビューを「戦後 五 0 年 」ということで「姦し・ 返した」ことになる。 と言っている。 高崎はその放送を 見ていないようだ。 MBS の放送エリアは 近畿地方だ から,まさしく「 住井 すゑ体験」が 押し付けられてきた 地域であ る。 その地域において 住井は ついての問題提起をすることは 必要だろう。 高崎は「蒸し 返した」というが ,私 は「広く知らせた」と 高 6 べきだと考えている。 高崎は小さな 論文等をまとめた 単行本 を よ く出しているが (それ自体はすぐれた 業績だと私も 思 うが), 自分のもやっぱり「 蒸 し 返した」と認識しているのだろうか。 実は MBS は 住井 すゑらについての 番組を放送した 翌年の 1995年 8 月 8 日,「教育 搭 と 日教組」という 番組を・放送している。 「教育搭 」については 佐藤秀夫の次の 説明を見 てもらお う 。 大阪市内の大阪城公園の 一隅 (中略) に「教育 搭 」という搭の 建っていることを 知っている人は (中略) 多くはないかもしれない。 この教育 搭 とは (中略) 「学制」 公布以来現在にいたるまでの 間に,学校での 公務執行中に 殉職した教職員,および 殉難した学生・ 生徒・児童を 合祀しているものであ る。 (中略) 管理者は発起人の 帝国教育会だったが ,戦後 (中略) 日本教職員組合囲 数 組 ) がひきついで 現在に いたっている。 (中略) 毎年十月三十日に (中略) 殉職・殉難者を 祀る「教育 祭 が執行されている。 問題は,その「教育 祭」の期日であ る。 第一回から伝統化して いる十月三十日とは ,いうまでもなく「明治二十姉年十月姉十日」の 教育勅語発布 記念日をさしている。 搭 落成の一九三 0 年代には教育勅語が「教育精神」の 拠るべ き 典籍として,最大限に 重視されていたから ,その発布記俳日を 教育祭日としたこ とは理由のないことではなかった。 しかし,戦前の 天皇制公教育への 批判・反省か ら 出発して「教育基本法」を 得ている今日,こともあ ろうに反戦平和,教え 子を再 」 び 戦場に送るまいと 固く誓ったはずの 日本教職員組合が , 四 0 年にもわたって「十 月三十回」を 選んできたことは ,無自覚であ ったとはいえ ,何とも奇妙なことであ る。 「無自覚」であ ること自体,日教組において ,教育の戦争責任への 追及が甘か ったことを示してはいないだろうか。 現在も「教育 搭 」には「教育勅語奉読」のレリーフがつ 年2 月 5 (1999 い たままになっている 日実地確認 ) 。 つまり,この 番組は日教組の 叩反戦』の虚構」を 描いたもので 出した双年の 番組に続き,戦後の「反 戦」の問題点を 問 い なおし続けるものであ る。 しかも,「同和教育の活発な関西」,「 教 青摺 」のあ る大阪を含む 関西を放送エリアとする MBS にして作り得たずぐれた 番組で あ り, 住非 するのⅡ反戦 コの 虚構」を鋭くえぐり あ る。 い ま,なぜ住井 「 すゑなのか」という 高崎の問いに 対しては,戦後50 年のいまだ から,そして 関西だから 住非 するなのだと 答えておこう。 住井 および高崎の 挙げた 7 人の女性作家のうち ,当地奈良県出身者は 住 井 しかいない " 住 井は先ほども 述べたように「同質」の「一人」ではないし ,奈良県民の 私が,奈良県 内の大学で出版される 本論集に本稿を 提出するのは「いじめ」ではないと 高崎に言って おこう。 4 高崎は次のようにも 言っている。 彼女が戦争中に し ,いくつもの愛国童話や 愛国小説を書いたのは 事実であ る。 しか 私がこれまでに 一度も住 尹 ,を批判しなかったのは, [RonzaJ の編集者に答えた ように,『橋のない別コによって ,彼女自身がその 過去を乗り越えたと 判断したか らであ る。 住井 自身もそのことに 関して,対談の 中でインタビュアに 答え,「私, 『橋のない 川 』を書くことがいっさいの 自分の反省であ り, もう,ここにすべてを 書き込めると 思って始めたんですけど #a」と言っている。 しかし,それでも ,つま り,直接に彼女の 口からそういう 返事を得てもなお , 住井 に訪問を繰り 返すインタ ビュアは,私にはどうにも 理解することができないのであ 文学者としての 住井 に対する侮辱であ では高崎に問お う う これはどう考えても る。 。 もし高崎が上のように 言 う のなら,高崎は「乗り 越え」るべき 「過去」をすべて 把握して い なければならない。 てこそそ る。 作品のすべてとその 問題点とを把握し 言えるはずであ る。 高崎は「過去」の 全作品" リストを公開すべきであ る。 そ してそれは 住井 すゑの作家研究に 益するところ 大であ ろう。 そのようなものは 私たち全 体の共有財産とすべきものだ " 磯木 は テレビ番組でも , fRonzaJ でもわかる よう に , 多くの作品を 確認しているし ,私も微力ながら 住 井の作品を同じ 奈良県に縁のあ る者と して収集している。 住井 すゑ全作品リストの 完成は間近い。 また,「Ⅱ橋のない 川 』によって彼女自身がその 過去を乗り越えたと 判断した」とのこ とであ るが,それなら ,「乗り越えた」のはいつで,「判断した」のはいつなのか。 その 2 つの 日 伺は共通なのか。 特に長編であ る『橋のない 川コ執筆のどの 時点で「乗り 越え , 住井すゑの戦争責任とその弁護者たち た 」と「判断した」のか 明確にしてもらいたい。 なぜこのようなことまで 言わなければ いけないかと 言うと,高崎は , 「同質の多数の 中から特定の T一人だけ を標的にする のは」「いじめ 以外のなにものでもない」と 言っていたが ,そう言うなら ,「同質の多数 の中から特定の『一人だけ をかばうのはその 意図のあ るなしにかかわりなく ,神格i 以外のなにものでもない」という 私の考えに賛同するであ ろう。 高崎は「 住非 すゑの弁 護をしているのではない」と 言っているが ,その意図のあ るなしにかかわら チ ,高崎の していることは 弁護以外の何ものでもない。 高崎は,これまでの 研究について「先輩の 小田切秀雄先生 (法政大学 ) (中略) の方々 の支援を心より 感謝する」と 91 書いているが ,小田切には 次のような文章があ る。 (101 私自身の実感としてはすでに 軍服を脱いだ 現在では,古い 文学の中に大半身を 浸 らせていた古い 自己の徹底的な 革新によって 新しい国民文学の 創造に勉励する 以外 に ,文学者としての 忠誠というものはないのであ った。 (中略) 文学者としての 奉 公の誠を致すことを ,私は歩兵が自己に与えられた 命令, 目的に向かってどこまで も歩いて進んで 行くのと同じような ,たゆみのない 努力の積み重ねと 確信するので ョ ヒ コ あ る。 私は歩兵であ ったが軍服を 脱いだ今も,歩兵の 歩む如くに歩みつづけた いと念願している。 このほかにも 小田切には,「少国民」に「キミ ガョ 」の「あ りがたさ」を 説いた作品が あ ることを,小田切を「先輩」と 言う高崎は先刻承知のことだろう。 高崎に問う。 小田 切も「その過去を 乗り越えたと 判断した」のか ? そして「その 過去を乗り越えたと 判 断 した」根拠のひとつには 次のことは入っているのか。 田中裕史は「文学者の 戦争責任 追及」という 文章で小田切の 戦後を次のように 紹介している。 正文学時標 』創刊。 『文学時標 』は, 荒 正人,佐々木甚 Ⅰ 一九四六年一月一日 小田切秀雄が 中心になって 創刊された。 毎号,「文学検察」欄で 文学者の責任追及 を行った。 (中 m劣 「『文学時標 』は,純粋なる 文学の名において ,かれら厚顔無恥な ,文学の冒涜 者たる戦争責任者を 最後の一人にのたるまで ,追求し,弾劾 し,読者とともにその 文学上の生命を 葬らんとするものであ る。 (中略) (「発刊のことば」『文学時 標 」 倉り干 』 り号) つまり,小田切は 自分のことは 棚に上げ , 他の「戦争責任者」を 追及しはじめたので あ る。 このような小田切の 行状を知ったうえで ,高崎は小田切に「感謝」しているのか。 この小田切の 態度は, 住井の ,自分は戦争協力はしなかったかのように 偽りの歴史を 語 った行為とよく 似ている。 「特定のⅠ一人だけ 分担の不平等を 生む。 そのことを高崎はどう 団 」をかばう行為はこのような ,戦争責任 考えているのだろう。 高崎の,他者への 言 、平 価 の愁意 性は ついては,長谷川棚 が , f 児童文化にみる 戦争責任 B (1995年, 楓 花会 ) 21 頁で,高崎の 山本和夫に対する 評価に対し疑問を 提出する形でも 指摘されている。 戦争 責任追及にあ たっては一切の 盗 意性を排除すべきであ る。 7 5 次に「『橋のない 川 』によって (中略) 過去を乗り越えたと 判断した」 ど 言っている ことについて。 『橋のない 川 』 ほ ついては, 灰谷 健次郎の言うように「『橋のない 川口に よって,人間の 平等と尊厳を 考えようとした 若者は,とてつもない 数にの ぼ るはずだ」 との肯定的評価が 多数のようだが 本当にそうだろうか。 キムチョン は「『橋のない川 自体が,侵略戦争を 扇動した西光万吉を 美化した作品なのに ,その問題点がまったく 指 捕 されずにきた。 (1.11 」と言っている。 と キムはもっと ミ 』 詳しく, 1I51 『橋のない川コでは ,実在した組織や 人物の名双が ,実名で書かれているばあ い 仮名で書かれているばあ いがあ り, どこまでが事実でどこからがウソなのかがわ からなくされている。 (中略) 虚構と事実との 境界をあ いまいにし,いつわりを 宣 伝する技法のひとつであ る。 仲略 ) このような方法を っ かうならば,侵略戦争 協。 力者が反天皇主義者であ ったかのようにする「小説」や「童話」を 書くのはかんた んであ る。 (中略) 「橋のな い川Ⅱは,被差別部落民の 「血は純粋」という 差別者が 書いた,天皇主義者を 反天皇主義者であ るかのようにい 書であ い くるめようとしている 文 る このような問題点を 内包した「 橋のない 川 』によって」「過去を 乗り 越えたと判断した」高崎はこの 指摘にどう答えるのだろう。 むしろ, 住井は 一貫して, とも言っている。 ニ 戦中は偽りの 聖戦を説き,戦後は 偽りの部落「解放」運動史を 語っていた ど 言うべきだ ろう。 そしてその偽りの 歴史は映画化され ,伊藤らのような「関西で 生まれ育った」「 中 学 生,らに押し付けられたのだ。それはあ たかも, 住 井の戦中の「少国民」向けの 作品 」 が当時の子供たちに 与えられたように。 だからこそ「いま , 住井 すゑを問う」のであ る。 住井は 『橋のない 川 Ⅱを「童話」だと 言っているが ,「童話」だろうと「小説」だ る うと「つくりもの」であ る。 それがそれだけにとどまっていればまだいいが ,自作の作 品で事実と虚構とを 混同した 住井は ,それ以外でも 偽りの歴史を 語るようになる。 その Ⅰつの例をキムの 指摘によって 見てみよう。 西光万吉について 住 井は最近もあ らたな「証言」をしている。 それは,「西光さ んは監獄にいる 時に転向を迫られた。 ・…‥ m 背 大兄王の自伝書を 書かされた。 あ れ を書くことで 刑をまめがれたわけです」というものであ る。 (住井 すゑ「思索の 人」, 『部落解放 一九九五年六月,三九頁 ) 。 この「証言」もまた ,いいかげんなもの であ ることは,「監獄にいる時」の西光についてすこしでも 調査すればすぐにわか ることであ る。 だが,「聞き 手」の川瀬俊治は ,この「証言」をそのまま『部落解 放』誌に掲載している。 い つわりの宣伝は ,このような 共働者によって 支えられ, 増幅される。 『部落解放』誌はなぜ 偽りの歴史を 語る住 井 と「共働者」の 川瀬を放置しておいたの か 。 「共働者」とは 適切な言い方であ る。 川瀬のみならず , 住井 をたたえ, 住井 に協力 する人たちはすべて「共働者」であ る。 なお,『橋のない川コの舞台は 多く奈良県であ るから,奈良県民にとっては 偽りの郷土史を 語られていることにもなる。 コ 佳井すゑの戦争責任とその弁護者たち 6. ここで高崎の 発言・行動を 別のところから 検討してみよう。 森脇佐喜子に 円 H 田 耕作 さん,あ なたたちに戦争責任はないのですか』という 著書があ る。 これは,山田耕作を はじめとする 音楽家たちの 戦争責任を追及した 書であ る。 但し,森脇は 満州国国歌に 3 種類あ ることに気づかず ,そのうち 2 曲を混同し,作曲者を 山田であ るととり違えると いう誤りを犯している。 この件は本稿には 関係ないのでこれまでにとどめる。 満州国国 歌については , 別 稿を準備しているのでそちらを 参照されたい。 そのような問題点はあ るものの,これまであ まり指摘されてこなかった 音楽家の戦争責任を 扱った貴重な 本で あ る。 この本の「解説」を 書いているのが 高崎であ る。 この本は,森脇が 恵果皮学園大 学生だったとき ,その指導教員だった 内海愛子が「受けもった 三年生の授業のなかで , レボートとして 提出されたものを 中心に構成されている」。 うに述べている。 森脇は自らの 考えを次の ょ 戦時下における 回想,意見はまったく 残っていないに 等しい。 私はこうしたこと に不安を感じている。 というのは,こうした「情報操作」を 行った 側 ,戦争を煽っ た側からの発言がないという 事実は,すべてをうやむやにしてしまい ,いつか再び 同じ過ちを繰り 返しかれないと 思 う からであ る。 その当時は「仕方がなかった」で 済まされても ,それを隠したり , また形に残さずにいるのであ れば,それは . 重の 意味で戦争犯罪をおかしていると い えな い だろうか。 当時の作詞家,作曲家は 今 , ほとんどがなくなっている。 戦争協力の事実をおおいかくそうとする 風潮を少しで もかえるには ,われわれの 世代の者が戦争について 学び,戦争協力について 考え, こうした隠された 事実をできるかぎり 解き明かして い くこと,それに 尽きるのでは ないかと 思、 ぅ 。 私はこの考えに 大賛成であ る。 だからこそ,本稿を 書いているのであ る。 私は森脇よ 1S 歳 年長で , 「われわれの 世代」ではないが ,同じ戦後世代として 同じ思いで「隠さ れた事実をできるかぎり 解き明かしてこう」と 考えている。 森脇は本文の 最後に「私に り こうした問題を 考えるきっかけをつくってくださった 恵果玄学園大学の 内海愛子先生や 解説を書いてくださった 高橋隆治先生,助言を 与えていただいた 多くの方々 , 梨の木会 0 羽田ゆみ子さん ,本当にありがと う ございました」と 謝辞を述べて い て,高崎もその 中に入っている。 高崎のこの本の「僻説」は「山田耕作とその 時代」という 本文 18 頁 分 のものであ る。 森脇の本が音楽を 内容とするものであ るため,音楽家についての 記述が多いが ,文化人 一般の戦争責任にも 広く言及している。 その中 下 高崎はこう言っている。 これらの青少年たちがもしこの 時,権力とその意思を 体した指導者たちの 叱詫や 激励などで,妙な 使命感や義務感に 燃えることがなかったとしたら 戦争ははたして どういうことになっていただろうか。 もちろん,歴史に「もし」という 仮定は許さ れないことだが ,国家権力のダミー (手先 き ) としてのこの 国の指導者 とりわ け知識人や文化人とよばれる 者たちが,みずからの 不利や危険を 冒して可能なか ぎ 9 知性的・理性的に 振舞ったなら ,彼らに比してまったく 未熟であ り芳 -カ な青少年 や一般国民が 悲惨に遭遇する 可能性はより 少なかったと 推定されるはずであ る。 まさしく,森脇の 考えとも一致する。 だからこそ森脇の 本に「僻説」を 書いたわけだ。 私も同感であ るし, 櫻 本も同じことを 多くの著書のあ ちこちで言っている。 しかし, 櫻 本を批判した 文章の中では 高崎は次のように 言っているのだ。 り 私にいわせれば ,戦時下の自身について , 住井 のように,黙っている 方がむしろ 正直であ ると思われる 場合はけっして 少なくないのであ る。 つまり,戦時下の 自身 の全ての言動をみずからが 引き受けるという 意味の沈黙であ る。 それは作家の 戦後 の 在りようによって 明瞭であ るはずだし,私自身は , 住井 もそして壺井栄もその - 人 だという判断をもっているのだが ,戦時下の自身について 語ることより ,むしろ 沈黙を守る方が 誠実であ るし,まだ てシ であ るといったらはたして 言い過ぎであ ろ " ; 戦争責任のあ る文化人の「沈黙」を 肯定しているわけだが ,それは「戦争協力の 事実 をおおいかくそうとする」ものではないか ,高崎の「意図」はどうあれ,これは「弁護」 でしかない。 あ のような明確な 考えを持っている 森脇の著書になぜ 高崎は「解説」を 書 いたのか,しかも 文化人の責任の 重さをそこで 強調しておきながら ,「沈黙」を 肯定す るとはどういうことであ ろうか。 高崎は, 櫻 本の口一人だけ を標的にするのは」「い じめ」だと言うが , 住井 一人だけを (それに加えて 壺井も ) 擁護するのは「神格 ィロ の コ ためではないのか。 そして小田切秀雄も「沈黙」しているが , 自分のことを 棚に上げ 他 人のみを攻撃するという「戦後の 在りよ う によって」その「沈黙」に 高崎は価値を 認め ているというのだろうか。 高崎は「 ぃ じめは, ぃ じめる側になんらかの 精神的または 物質的メリットがあ るはず だが,今はそれを 追及しないことにする」と 言っているが ,それなら,「かばう 側にも なんらかのメリットがあ るはずだ」と 考える私をも 肯定してくれるだろう。 私は「それ を追及」したい。 なぜならそこに 暗い政治的意図があ るのではないかと 考えているから だし 0 7. しかも「沈黙」の 肯定は住 井 自身の意志にも 反している。 住井は桜 木 の インタビュ一 に「私は,こういったものは ,自分の書いたものは ,なんにも持っていないんです。 自 分の書いたもので 持っているのは ,『橋のない 川口だけです。 」と答えているが ,それに は疑問があ る。 1940年 9 月 20 日に青梧 堂から 住井 すゑ千客で出版した『農婦 譚 』を, 1983 年 7 月 25 日に筑波書林から 再刊しているから。 ともあれ,新版の「あ とがき」に 住井 は こう書いている。 旧 著を陽のめにさらすことにはいささか 抵抗を感ずる。 発刊当時 (中略) は ケッ サク のつもりだったが ,四十余年過ぎた 今では,いかにも 稚拙で ,お目にかけるの が差 かしい。 そういえば,昔の 自分の写真顔にも ,私は台っとする。わたしには 10 住井すゑの戦争責任とその弁護者たち "今の今 " が最高で,過去は 古キズ以外の 何ものでもない。 しかし,だからといっ て過去との絶縁は 社会的にゆるされないし ,また物理的にも 不可能だ。 それが歴史 をつづる人間の 宿命というものだろう。 そこで,アキラメにアキラメ て ,ここに古 キズ『農婦 譚コを 晒す。 住井 もこの時点では「過去との 絶縁は社会的にゆるされない」と 考え「 古キズ 」「を 晒す」ことをよしとしていた。 このような 住井が 「沈黙」することを 高崎は肯定するの だろうか。 しかし, 住井 はいつも「 古キズ 」「を晒す」ことを 望んでいるわけではない。 住井が 1943年打刀 15 日に精華房から 出版した『日本地理学の 先駆長久保方力 という本があ る くコ が,これも筑波書林から 圧 ふるさと文庫 ロの シリーズとして 上下 2 巻で 1978 年 12 月 15 日 にともに再刊された。 長久保赤水は 茨城の「偉人」であ り,地方出版社がそのような 人 を顕賞する本を 出そうとするのはよくわかる。 住井 には同様の旺 尊皇歌人佐久良東雄 d (1943年 2 月比国・精華 房) という著作もあ るので,同じく 再刊してほしいものであ る。 この新版の本文には 旧版との異同がないが , 1943 年版についていた 巻末 2 頁の後書きの 部分が, 1978 年版では削除されている。 それを d 部 書き抜いておこう (「…」は中略を 示す ) 。 常陸の歴史は 古い。 この古 い 歴史を一貫して 流れるものは 勤皇の思想であ る。 ・ 明治維新に際して 水戸は一人の 元勲をも出してゐない。 勤皇茨城は,まるで 虚名の やうで さへあ る。 - 真の勤皇家は 名を求めず… 敢て 中央にとどまらずの 風情にあ る。 実際幕末 鍬 をす て 、 里宰 は つくし,再び鍬をとって生涯黙々たるものを 私は数多こ の地に見る。 かぅ した人達こそ 真の勤皇家ではあ るま いか。 長久保赤水も , またこ れに似た一人であ る。 - 常陸牛久の里に 鍬をとる私は ,今後も常陸の 農夫 勤皇家に筆を 染めてゆきたいと 真の 思ってみ る 。 これを削除して 再刊するような 懇意的な「沈黙」を 高崎は肯定するのだろうか。 1 人 の 作家の足跡をたどるにはやはり 全作品・全生涯を 通しての理解が 必要だ。 このあ とが きには住 井を理解する 上での重要な 問題点がひそれで い る よ うに は、ぅ " そのことを次に 解き明かして い こう。 8. 高崎は , 私は住 井 すゑの作品を 戦時下に読んだ 記憶はない。 あ るいは,一つ 二つは読んで もなんの感銘もなかったから 忘れたのかもしれないが , 住 井を知ったのはまぎれも なく戦後であ る。 住井は ,戦前,戦中において ,けっして「有名」作家ではなく , 有名無名という / 分法でいけばむしろ 無名であ った。 と言っている。 「無名」だったとしても「無名」なりに 戦争責任はあ るし,むしろ 現在 における評価と 影響が問題だということは 既に述べた。 高崎の「読んだ 記憶はな 本当だろう。 それは 住井が 「無名」だからという よ い 」は り,「農民作家」だからだ。「牛久の 11 住 里に鍬をとる 私 」と言ったり ,「農婦われ」と 言ったりする 住丼 の 農申すを舞台にした 作 目口 口 4よ「一九 @ =,五年横浜生まれ」で「逗子開成中学」を 卒業し,「戦争末期に (中略) 私 正大学の予科生であ った」高崎には 親しみにくいものだったのではないか。 しかも桜木 が 指摘している「少国民」向けの 作品は,戦争中の 高崎にはもう 自分の年代のものでは ないと写ったのではないか。 その点,「一九姉姉年,長野県小諸市生まれ」の 櫻 本にと ってはそれら「少国民」向けの 作品がぴったりであ る。 しかも 櫻 本は農村の子供だ。 あ たかも「無名」だったから ,自分は読まなかったから ,その「一人だけ」を 問題にする ことに疑問を 抱き,桜木の追及自体を偽りであ るかのようにするのは 誤りであ る。 井の次女の増田れい 子は「倒れていまだやまず 一一世, 住井 すゑ」という イ ン タ ユーか 講演のあ と「 Q : 満州については ,どうお考えでしたか」という 質問に次のよう に答えている。 あ の当時,市川房枝さんは 満州進出についてものすごい 反対の論文も 書き,演説 もなさったのですが ,何が直接満州の 問題について 書いたかどうか 押さえていませ ん 。 ただ,あの時浦家開拓同義男団の ""占 歌といつ" 「あ あ 満州の大平野一Ⅰという フシ のいい歌があ りまして,母はその 歌が得意でしょっちゅう 歌っていて,私も 幼いな ママ がら覚えてしまいましたから , ママ もしかして農民が 土地がないかので 小作に土地が 必 要だと考えて ,中国農民と 仲良くするならいいと 考えたのかもわかりません。 「あ あ 満州の大平野」の 歌を毎日歌っていたのは 事実です。 この店、 い 出はほかのところにも 出てくる。 増田は「一九姉五年四月一日」の (@01 自分の小 学校入学式の 回想の中で,「私はそれまでかくつかの " ぅだ を聞き知ってはいた。 (中 略) 『戦友』や『満州開拓少年義勇軍の 歌』は,むずかし い 漢字の続く長の 歌であ った が ,それをソラ で覚えてしまっていた。 」と言っている。 しかし,五 % 一郎の言うよう に 「満蒙開拓青少年義勇軍にれが 正式名称一一引用者 注 ) という制度は 昭和十姉年に の歌』であ つくられた」。 したがってその 3 年前の 1935 年にそのような 歌が歌えるはずもない。 し かも「あ あ 満州の大平野」で 始まる歌は,土井晩翠作詞・ 中川東男作曲の『独立守備隊 る。 この歌は「昭和四年一月 (中略 ) 隊歌 として創作したものであ (321 る」。こ れならちょうど 時期が合 う 。 但し,「独立守備隊」とは「満州 (中略 ) の鉄道を守った 部隊の固有名詞で ,実体は鉄道警備隊であ 岩 」。 つまり満鉄守備隊のことを 歌った歌で 開拓には直接関係がない。 日清・日露の 戦いで得た満州の 権 益を守る部隊の 歌を毎日欧 う住井の姿は,戦時下の 戦争讃美・戦争協力の 作品を書く住井の 姿と同一線上にあ る。 増田は次のようにも 言っている。 戦争中に母がどのような 言動をとったかについて ,去年だか一昨年だか「 住非 す ゑは戦争を賛美した」と 異論を唱えた 方がいましたが ,これについてはまだ 母の書 いたものを全部読んでいないのですが ,戦争に反対したものも 書いたが,多少そう でないものもあ るのが真相かと 思います。 なぜそうなったかということはこれから フォロ ー しようと思います。 住井が 「みんな忘れました」と 言うかと思えば ,増田も「全部読んでいない」と 12 高6 。 住井するの戦争責任とその弁護者たち 「これからフォロー」するためには ,やはり全作品を 確認する必要があ る。 実は住 井が 「直接満州の 問題について 書いた」作品があ る。 婦人公論 1940 年Ⅱ同号,第25 巻 第 11号に住 井すゑ千名で発表した「土の 根 達」という作品は , 「大陸花嫁」として「満洲」 へ 「もし日本の 国といふものがなかつたら ,私達も日本人として 生きてはみられないん だもの,日本の 国が満洲の土地をひらくことを 必要としたら ,国民は暑いの 寒いの不平 を云はず,喜んでこれに 応じることだれ」と 訓練所に入る 若い女性が描かれている 俸 う 1 話あ るが省略 ) 。 まさしく「満蒙開拓」の 肯定であ る。 しかしそれは「農民が 土地 がないので小作に 土地が必要だと 考えて」のことだろう。 つまり,「農婦」と 自称する 住 井は農村の困窮を 知っていたがゆえに ,その打解策 としての「満蒙開拓」を 望んでい た。 しかも, 1935年の時点ですでにその 考えを持っていた。 住 井の戦争肯定は 何も太平 洋戦争時期のみのものではない。 ずっと一貫して 流れるものであ る。 だからこそ,金作 品を通じて読まなければならず ,懇意的な「沈黙」など 許されないのであ る。 それにし ても「中国農民と 仲良くする」などと 考えていたとしたら ,何をか言わんやであ る。 農 ロ ょ 「 」 侵略思想であ る。 七% 一郎は読売新聞に (,rl 住井の追悼文を 書いている。 そ の追悼 支 は 住 井の戦争責任や『橋のな い川』の問題性にもまったく 触れない 住 井を美化 をふりかざした する誤りを犯したものであ るが, 住井 に緑のあ る人なら,「満蒙開拓」の実態を住井や 増田は上から 教わっておくべきだった。 9 高山守 も士 曽田も,また桜木の指摘を 批判する他の 人もなぜか MBS と『 Ronza 』にしか 反応しないが , 櫻 本の住 井 に対する疑問の 提示はもっと 早くから始まっている。 管見に よれば, 1983年 6 月 30 日に今野敏彦との 共著で出した『差別・ 戦争責任 ノー Ⅱ (八千 代 出版) で既に行われている (回書の 住井は ついての部分はすべて 櫻 本による ) 。 しか もそこでは, 1981 年 12 月に出された「反核」のための「文学者の 声明」と関連づけて 述 べている。 つまり,磯木はこの 声明の「窓口になって 署名を促進した」中野孝次は「『自 分の発言に責任をもつ 人びと何と文学者を 許しているがほんとうにそうであ るか, と反 間 しないわけにはいかない。 声明の発起人に , 36 人の文学者が 名をつら ぬ ているが,戦 争中も文学者であ り,戦後自分の 戦時下の言動に『 頬 かむり』している 文学者がいるか らであ る。」として, 住井 すゑ,小田切秀雄らの 戦中の作品を 紹介している。 なぜこれ に高崎も増田も ,そして住 井も讃美者も 反応しなかったのだろうか。 この時点は高崎の 言う「 一 0 年前二 0 年前」の時点であ る。 これに早速, 住井 が反応しておけば「 住 井の 記憶力も判断力も 体 -力も,いまよりははるかに 余力を保っていた」わけだから ,高崎が 櫻 本を非難するようなことにはならなかったはずであ る。 しかも,この 段階では「反核 運動」の問題点をも 明らかにできたはずだ。 八千代出版が 小出版社だから 気づかなかっ たとは言える (同社には失礼だが ) 。 櫻本 はその後も着実に 成果を発表し ,『RonzaJ と 同じく朝日新聞社刊の 雑誌 凹刊 AsahiJ l992 年 9 月号に「戦争責任と 戦後責任 歴 史を風化にまかせる 文化人」を発表し , 住井 ,小田切をもとりあ げた。 何度も何度も Ⅰ a 「蒸し返し」てやっと 住弁め 「虚構」が認知されたのだ。 呉 智英は田 onza コを紹介し , 住井 するの過去は ,部落解放運動関係者たちの 手によって隠蔽同然の 扱いを受けてき た 。 少なくとも,これが 公然と語られることはなかった。 理由は例によって ,運動の妨 げ もこなる,すなわち 人権 思想にとって 不利益になるからであ る。」と言っている。 確か 「 に 少なくとも, 住 井の死去に関する 記事・追悼文を 掲載した『解放新聞 コ 『解放への道』 ア部落解放 には住 井の戦争責任,及び 圧矯めないⅡⅡの 問題性に言及したものはなか った。 唯一『部落』誌のみが , 住 井を擁護する 立場から戦時下の 作品に言及した 寿岳 章 コ 子の追悼 文 , 櫻 本の「追及」に「無責任」に「 応侍 する 住井 」に「衝撃を 受けた」成澤 柴 詩の追悼文を 掲載した。 本当に「運動の 妨げになる」から「隠蔽同然の 扱い」をした のか。 中野孝次は住 井 死亡後の 1998 年 3 、ソ 月 29 日, NHK クレビュー」で ,増田れい子の『母 衛星第 2 放送で放送された「週刊 ブ 性 非 すゑ』をとりあ げたが,これまで 述べてき た 住 井の問題点には 一切言及がなかった。自分たちを「自分の 発言に責任をもつ 人びと」 と規定した中野孝次は , 住 井や小田切の「発言」をどう 考えているのだろうか。 反核「運 動の妨げになる」から 不問に付すとでも 言うのだろうか。 Ⅰ 0 住井 とその弁護者の 代表として高崎隆治を 姐上にのぼらせてきた。 私は何もこの 2 人 のみを非難しようというのではない。 住 井の悪い面ばかり 強調するという 批判があ るだ ろう。住井 に関する記述から 戦争責任やそれを 隠した責任,『橋のない 川上に見られる ような歴史の 偽造を行った 責任を削除するという 行為は,歴史教科書から 従軍慰安婦に 関する記述を 削除する行為をも 正当化する。 真に「人権 」「平和」を 望むなら,自分自 身内包するそれに 反する害毒を 自ら取り除かなければならない。 それのみならず ,どん な 「権威」をも,「人権」の観点からの 検証の対象としなければならない。 残俳ながら 住尹 をたたえた人たちはそれをしょうとさえしていねい。 住井 すゑは死んだ。 しかし, 住 井の追随者たちはまだ 生きている。 住井 をたたえた追随者たちは , 住井 をたたえた 自 らの罪を認め ,自己批判・ 自己検証,そしてそれに 基づいての公開の 場での徹底的な 相 互 批判をすることによってのみ ,真の「人権」へと近づけるであ ろ イ寸言 己 本稿の一部は ,「1998 年度天理大学人権 週間」の行事の 一環として行われた「公開授業」 の 1 科目として,「国語表現」の 科,目で,「 住井するの戦争讃美文」と 題して行ったものに よっている。 その機会を与えて 述べた い。 14 下さった関係者及び 受講学生・教職員にお 礼をここで申し 住井すゑの戦争責任とその弁諜者たち 注 (1) 本稿は,本誌双号 (創刊号) 掲載の拙稿「 住井するの戦時下の くものであ る。 それぞれ独立したものであ るが,あわせ読んで 内容見本による。 (3) 19% 年 8 月 31 回発行の湘支社 販 では 277 一 278 頁。 傍点原文。 作品について」に 続 い ただくとあ りがたい。 角から $ ㏄990 年・人文書院 ) 73 頁。 (5) 同和教育における 授業と教科研究協議会編 (編集委員 住非 すゑ,西郷竹彦 ・ 杉ロ Ⅱ 明夫・佐古田好一 ) 『国語教科書攻撃と 文学の授業コけ 982 年・青木書店 ) Ⅲ 頁 。 (6) 『 (7) @l寺に聴く 反骨対談 ] (人文書院・ 1989 年 ) 120 一 121 頁。 日本近代文学館,小田切進『日本近代文学大事典 第 2 巻 d (1977 年・講談社 ) 404 頁。 担当, 佐多 稲子。 (8) 『学校ことはじめ事 d (1987年・小学館 ) 166 一 167 頁。 (9) は 0) 『戦争文学通信d (1975 年・風媒 社 ) 3M 頁 。 せな - 櫻 本富雄『日本文学報国会一 大東亜戦争下の 文学者たち d (1995 年 青木書店 ) 387 一 389 頁から重利。 (11) 今野敏彦・ 櫻 本富雄『差別・ 戦争責任ノート PK 部隊が行く . (1993 年・青木書店 ) 153 頁参照。 富雄『文化人たちの 大東亜戦争 (12) 団は 983 年・八千代出版 ), 及び,桜木 アジアに対する 日本の戦争責任を 問う民衆法廷準備金編『第二期 号 j (t998年・星雲 社) 35 頁。 (13) 朝日新聞大阪本社販, 1997 年 6 (14) 『 Ronza (15) 『故郷の世界史 戦争責任 第d 18 日夕刊, 5 頁。 月 ロ当該号の前掲伊東景子の 文章中。 解放のインターナショナリズム ヘコ は 996 年 現代企画室 ) 322 一 325 頁。 (16) け 住井 すゑ 他 『天皇陵の真相』 け 994 年・三 - 書房 ) 86 一 87 頁。 7) (15)の 326 頁。 (18) 正確な書名は 正教科書に書かれなかった 戦争 Part. 田排律さん,あ なたたちに戦争責任はないのですかⅡで (19) 拙稿「 旧 満洲国国歌の 作曲者は山田耕作 なたたちに戦争責任はな い のでず かコ か? lf 大学生が戦争を 追った 山 1994 年,梨の木舎から 刊行。 森脇佐喜子諸口Ⅱ の検討」 Ⅱ天理大学学報 コ 田 排律さん, あ 第 190 輯 , 1999 年 2 月。 (20) (18)の84 頁。 (21) (18)の92 頁。 (22) (18)の 127 一 128 頁。 (2% 『台湾公論』1944 年 7 月号,第 9 巻第 7 サ・通巻 103 井 はこの文車で「戦争はあ 号所収の住井の 文章の題名。 住 りがたい」「戦争は 神の賜物であ るとつくづく 思ふ」と言っ ている。 (24) 『週刊金曜凹 当該号の筆者紹介 欄 。 (25) (9) の 50 頁。 26) (9) の 50 頁。 27j 朋刊 AsahiD l992 ポ@-9 月号 63頁。 28) 増田れい子 助 柱 井 すゑ (1998年・ 海竜社) 18頁。 く く く (2gj に あ ご ち 新宿綱丁あ ご 8 ロ 229 号 コ ㏄997 年 5 月・ あ ご ち MIN Ⅰ編集部) 123 一 124 頁。 15 ㏄0) (28)の 32 一 34 頁。 (31) (32) (33) (34) (35) 『満蒙開拓青少年義勇軍』 (1973年,中央公論社) 11 頁 。 金田一春彦・ 安西愛子『日本の 唱歌 (下 M (1982年・講談社 ) 178 一 179 頁。 寺田遊離『 続 ,日本軍隊用語集』は 995 年,正風書房) 61 頁。 (29)の 122 頁。 東京本社 販J997 年 6 月 18 日夕刊 4 版 17頁。 但し,縮刷版による。 (36) 浅野健 @ 『天皇の記者たち 大新聞のアジア 侵 B@各日は997 年・スリーエーネットワ ーク ) 114 一 115 頁。 柳谷忠芳 ,木村一信編口南方徴用作家 戦争と文学田㏄ 996年・ 世界思想 社 ) の木村一信「あ とがき」 286 一 287 頁。 (37) 『危険な思想家j (1998年・メディアワークス ) 55頁。 ㏄8) 解放出版社, t997 年 6 月 30 日号。 1, 6 頁 " 追悼支 は組坂繁之。 (39) 全国部落解放連動連合会,Ⅰ 997 年 6 月 25 日号 直樹。 7 月 15 日号 5 頁。 追悼文は安川重行。 (40) 解放出版社, 1997年 9 月号, 110一 12L,144頁。 ㎝1) 部落問題研究所出版部, 1997 年 8 月号。 1 頁。 7 月 5 日号 5 頁。 追悼文は新井
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