実態調査全 国赤線青線 地区総覧 ( 1 ) 全 国 主 要 赤 線 地 区 案 内 ( 2 ) つ』から『白拍子』『花魁』『湯女』『夜鷹』と次々 今の世に、どうせなら浮世を野暮で通すも 味がな い。「それより旅のつれづれを効果百 ないということは私がこれから御紹介しよう しいてお薦めは致しません。しかし否定もし 風景はみなとりどりの色香を持っています。 でも五幾七道四百一駅の宿場が中心で六百ヵ として家康が区別してからです。盛りの頂点 天下御免の廓になり、その他は岡場処バイタ 赤線と青線の区別がハッキリ分けられたの は元和三年の三百三十八年前でして、吉原が にパトンを受け継いで『パンパン』にまで至っ の活躍の精神的ホルモンといえましょう。 たのであります。 パーセントに利用する色里探究も又格別であ とする全国の主要花街にペンを採ることでも プロローグ みかえり松の吉原は、夢の丸山、島原情緒 な らく は、佐渡の水木、中村の名楽、新宿のモダン る」と思し召す粋人がおられたら、なにごと お判りになられるでしょう。 所、青線七百二十四ヵ所という有史以来の最 所くらいでしたが、いまは赤線五百五十五ヵ も人生修行です。大いに全国津々浦を歩いて す ん げ ん ば い しょう し 寸言売 笑 史 花をめで、人間の艶に磨きをかけて欲しいの です。かくも素直に申し上げるゆえんは、エ せん。彼女たちもずいぶん変わりました。あ 全盛時代を現出しているのです。 私は売笑婦ばかりを三十年ほど研究してい る者ですが、およそ売笑婦の変遷史ほどその ロ賛美にあらず、助平助長の精神にあらず、 天岩戸の前でアマノウズメノミコトが全裸 ストリップを演じたりするから、その孫のサ 時代の民族世相をものがたる反射鏡はありま 朝帰りの朝霧に顔をベールして「ゆうべは馬 鹿をみた」と百年の悔いを千載にのこす失敗 創業者などになったのです。 ルメノミキが巫女から巫娼に転落して売春婦 それから一千七百十八年、彼女達は『くぐ みしょう をなからしめようとする老婆心であります。 蕩児は堕落です。が、浩然の気を養うとい うことはまことに今日の生活に於いては明日 ( 3 ) 全国主要赤 線 地 区 案 内 ひ か る大名に三千両で落籍されても「わちきは嫌 でありんす」と操をまもってお手打ちになっ た、「薄雲太夫」や私娼でも一世を風靡した「湯 女勝山」を知るとき 京女郎に吉原太夫の張持たせ 丸山夜具で夢の新町 あこがれ など当時の蕩児が一世一代の憧憬を詠んだ心 意気が察せられます。 ぜんこくはなまち 関 東 篇 この絢爛豪華にしてすばらしい黄金時代を 現出した全国桃源の里を御紹介しましょう。 ましょう。 ず政治の中心地日本一の東京都から御案内し 全国花街のルポタージュ とても淡路島から飛騨の山奥までは限りある 中央は東京都。神奈川、千葉、埼玉、群馬、 茨城、栃木、長野、山梨の一都八県です。ま 紙面では無理ですから、主要なこれぞと思う た句をよんでいたものです。だが時代はそん んで「君はいま駒形あたり時鳥」なんて洒落 しく花魁太夫ともなれば手招きの指に筆を挟 川柳子のいう昔は灯ともし頃から「……群 れつつ木つつ格子先」の賑やかさであったら 世の中は暮れて廓は昼となり の数は約四千人です。 れ「お寄りになって」と手招きする彼女たち うに宵ともなればネオンの下にパッと咲き乱 の数は一千百二十二軒、この店々で夕顔のよ 十八ヵ所が俗称赤線の特飲地区でして、お店 武蔵の八丁、八王子、調布の五ヵ所を加えた 所ですが、じっさいは立川市の羽衣町と錦町、 ( 東 京 パ レ ス )、 品 川、 亀 有、 立 石 の 十 三 ヵ 千 住、 玉 ノ 井、 亀 戸、 新 田、 新 小 岩、 小 岩 都内の赤線地区の中から芸妓の三業地を除 くとあとは、吉原、洲崎、新宿、墨田(鳩ノ街)、 夢の浮橋を浮きぼりにしてみます。 《吉原『七五三』の一室》 全 国 主 要 赤 線 地 区 案 内 ( 4 ) と 呼 ば れ た 階 級 的 な ひ び き は、 も う 跡 形 も な く な り ま し た。 吉 原 に 限 っ た こ と で は な く、全国の花街にあてはまることですが、吉 原という伝説の世界だけにずいぶん新しい転 換といわなければならないでしょう。ネオン とジャズに足もとからせきたてられ、角町か ら江戸町─京町と遊子はもう夢幻の世界へ入 れば観音様も弁天様も微笑みかけていること でしょう。女給さんたちの数も九百十四名と あるから、やはり日本一の歓楽地といわれま しょう。時代の波は彼女たちに女子保健組合 を結成させ、その組織も内容も当代の模範と いっても過言ではありません。したがって品 と桜と吉原とはいつの世になっても変わらな 扇からとびだす情痴のテーマまで──富士山 わずにはおかないのです。 世界は日頃の憂を一掃して、登仙の境地に誘 かしい郷愁をおぼえ──絢爛をきそう洋式の の姿でしょう。奥床しい純和式の一室には懐 位も高い、「新鮮な 味と香り」これが新吉原 い日本のシンボルとして未来永劫に伝わるこ おうぎ もったいなし燦々と太陽の輝くうちから商 なロマンチズムを許しません。宵まつ時間も とでしょうロマンチックな物語の数かずは遊 をのこし、京町の『大華』も美味求心をその 売々々です。洋装にハイヒール、ネオンにジャ ずにはおかないのです。しかし時代は容赦な 風致にとどめ、『山陽』の結構は離れに一室 ズ、この変わった、いまの吉原のすがたが全 くこの古典の吉原から新しい世代を生みまし 京町では『角海老』が幾つかのロマンチッ クな昔の物語を内に秘めて和室に清楚な伝統 た。「 苦 海 に 身 を 沈 め 」 と か「 籠 の 鳥 」な ん ごとの興趣を誇り、揚屋町の『七五三』は檜 子の詩情をかき立てて、限りない感傷を与え て陳腐な表現はカケラほども残らず「お職」 国をシンボルする縮図です。 一、吉原 花魁のむかし物語はいつも『吉原』を代名はり 詞 に と り 入 れ、 歌 に 劇 に ─ ─、 講 釈 師 の 張
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