EU・NATOの拡大とイラク戦争 1)

EU・
EU・NATOの
NATOの拡大と
拡大とイラク戦争
イラク戦争 1)
青山学院大学教授
青山学院大学教授 羽場 久美子
1.欧州拡大と
欧州拡大とイラク戦争
イラク戦争
イラクへの派兵と撤退の問題は、現在に至るまで日本も含む世界的な課題となってきた。
それは主に、米欧対立の象徴される国際規範を巡る問題であり、これまでハードな面での
み論じられていた安全保障の問題を、
「人間の安全保障」として、ソフトな面、とりわけ欧
州では戦争と経済発展と欧州の公共圏をめぐる問題として、大きく議論が発展することに
なった。ヨーロッパでは、それをめぐって政権交代や政権転覆が起こった。
1989 年冷戦の終焉から、
やがて 20 年がたとうとしている。
冷戦終焉後の、
ドイツ統一、
東西ヨーロッパ統一、さらには機構・経済面でのヨーロッパ拡大にとって、イラク戦争はど
のような意味を持ったのだろうか。またそこに常に存在する欧州のアメリカとの関係は、
どの様なものであったのだろうか。
現在、
新加盟国の多くが、
プロ・アメリカであることも、
現状の東西ヨーロッパの直接の軋轢に加えて、歴史的社会的背景の検討も重要であろう。
欧州におけるアメリカの影響は如何なるものであったのか?
本章では、アメリカによって開始されたイラク戦争をめぐる米欧の確執、かつ「新旧」ヨ
ーロッパの確執と、ヨーロッパ拡大に至る道のりを、中・東欧を軸に考察するものである。
2003 年 3 月 20 日、アメリカとその友軍によるイラク戦争は、国際機関やNATO同
盟国を迂回して遂行された。有志連合によるイラク戦争は、欧州首脳により、ユニラテラ
リズム(単独行動主義)と揶揄され、仏独を初めとする国々は、大量破壊兵器(MDA)の
査察継続、国連主導によるイラクの民主化、マルチラテラリズム(多国協調主義)を訴えた。
こうした中で、NATO同盟国内部での軋轢が表面化した。2003 年の 1 月から 2 月にか
けて、欧州 8 カ国の首脳、新EU・NATO加盟候補国(旧東欧諸国)が、相次いでアメ
リカ支持を声明し、米欧の軋轢に加え、欧州内部の軋轢が明白となった。中・東欧のアメ
リカ支持声明に対して、仏シラク大統領が中・東欧の首脳を批判すると、米のラムズフェ
ルド国防長官は、アメリカ支持を表明した中・東欧の新加盟候補国を「新しいヨーロッパ」
と持ち上げ、反対する独仏を「古いヨーロッパ」と非難した 2)が、これはその後の国際社
会にしこりを残すこととなった。
2003 年 9 月 24 日、国連アナン事務総長はアメリカの単独行動を批判し、多国協調に
よる国連主導の改革を訴えた 3)。2003 年 12 月 14 日に、フセイン大統領の逮捕により、
事実上イラク戦争は終了したが、その後もテロは国際的に散発し、各国のイラク派兵の兵
士の多くは帰還できないまま、イラク戦争をめぐる米欧の軋轢は世界に大きな波紋を残し
続けている。
1)ヨーロッパの拡大と統合にとって、イラク戦争はどのような意味を持ったのだろう
か、2)またイラク戦争をめぐる欧州とアメリカの関係の変化はどのように捕らえられる
のか、今後ポスト・イラク戦争の世界秩序に欧州とアメリカはどのように関与していくの
1
か。3)さらに「新しいヨーロッパ」と呼ばれた中・東欧諸国は、今後アメリカとヨーロ
ッパ大国のはざまでどのような安全保障上の行動を取っていくのか。統合ヨーロッパ(新
旧ヨーロッパ)は、外交・安全保障において、統一的戦略をもてるのかどうか。
以下、欧州拡大とイラク戦争を軸に、中・東欧からみたヨーロッパの衝突と和解の問題
を、欧州の安全保障におけるアメリカの影響を踏まえつつ、検討する。
2.冷戦の
冷戦の終焉と
終焉とヨーロッパ機構
ヨーロッパ機構の
機構の再編
1989 年にマルタ島でソ連のゴルバチョフとアメリカの大統領ブッシュが冷戦の終結宣
言を行なって以来、国際政治において新しい政治状況が現出することになった。アメリカ
ではフランシス・フクヤマが「歴史の終わり」
、ブルース・ラセットが、
「民主主義による平
和(パックス・デモクラツィア)
」を唱えることとなるが、90 年代初期には民主化・自由化・
市場化の波の高まりの中で、冷戦後の(敵の)
「封じ込め(コンテインメント)」に代わる戦略概念と
して、民主化と、
(民主主義、市場主義の)
「拡大(エンラージメント)」が、国際世界の新しい戦略
となると、当時の大統領補佐官は語っている 4)。まさに民主化と「拡大」は以後、冷戦期
のソ連「封じ込め」に匹敵する、米欧の新たな世界戦略となっていく。
冷戦期に 2 極構造を支えるものとして軍事的に対峙しあったワルシャワ条約機構とNA
TOは、当初、ソ連・アメリカ双方の経済的行き詰まり、双子の赤字に起因する「冷戦の終
焉」によって、開かれた鉄のカーテンとベルリンの壁の双方から撤退するかに見えた。し
かし現実には、91 年にワルシャワ条約機構が解体を宣言した後も、NATOは解散するこ
となく生き残ったばかりか、東側に組みしていた中・東欧諸国は、ソ連でのクーデタ事件
のあと、自国の安全を確保するため、雪崩を打ってNATOに接近した。こうした流れを
受けて、NATOは 91 年の「ローマ宣言」により、冷戦期の対ソ軍事同盟から、民族紛
争時代の「危機管理」にむけての再編を唱えて、より広範な領域に照準を定めて生き延び、
拡大を始めることになった 5)。
それでも 90 年代には、CSCE(全欧安保協力会議:のち 94 年 12 月より OSCE(全欧
安保協力機構)という、2 極対立なき後の欧州全域について安全保障を協議・調整する場
が組織され、機能した。また緒方貞子やアマルティア・センにより、国連では「人間の安
全保障」が唱えられ、ジョセフ・ナイは「ソフト・パワー」を画くことにより、軍事面での
ハードパワーだけが世界に影響力を与えるのでないこと、紛争とグローバルな様々な破壊
の時代にこそ、人間個々人の安全が確保されなければならないこと、人が幸せに生き死ぬ
権利として、人間の安全保障が唱えられた。
冷戦体制終焉後、1990 年代には、欧州とアメリカは、内外の不安定要素が拡大し、地
域紛争が各地で多発する中、紛争・危機の拡散や、テロ、難民、リスクへの対応に対して、
民主主義、自由主義の導入に向け、欧米共同で戦ってきた。
こうした米欧協力の安全保障体制が崩れたのは、コソヴォ空爆前後からである。
コソヴォ紛争の際に主張された、
「人道的介入」
「域外派兵」
「国際機関の承認なき介入」
は、欧州の歴史的安全保障観のルールに疑念を呼び起こした6)
。こうした中で欧州とアメ
リカの間に、安全保障に対する考え方が徐々に軋轢を生じてくる。
それでも 2001.9.11 からアフガン空爆までは、対テロ国際協力、国境防衛を共同で掲げ
2
てきた。
しかし、アフガン後からイラク戦争にいたる流れの中で、欧米の格差は拡大した。とく
に、米大統領ブッシュが、9.11.一周年を踏まえて、ブッシュ・ドクトリンを打ち出し、核
を含む先制攻撃を主張すると、
欧州ではイラク戦争への批判を掲げ、
マルチラテラリズム、
多様性、対話と協調、を対置して国際的な動きが広がって行くのである。
3.欧州の
欧州の東方拡大と
東方拡大と、コソヴォ紛争
コソヴォ紛争、
紛争、アフガン空爆
アフガン空爆、
空爆、イラク戦争
イラク戦争
欧州の東方拡大は、
「冷たい戦争」の終焉であり、当初は、平和と密接につながっている
ように見えた。しかし現実には、冷戦の終焉は、欧州の安全保障体制の再編を促し、その
結果バルカンに現れた民族・地域紛争への介入が冷戦期以上に常套化することとなった。
ギャディスが冷戦を「長い平和(Long Peace)
」
(冷戦期半世紀にはほとんど世界戦争が起
こらなかった)と形容した所以でもある7)
。
1)1989 冷戦の終焉:北欧、中欧の取り込み
1991-93 年、マーストリヒト条約締結、発効と平行して、欧州統合の深化と拡大が始
動した。冷戦終焉後、95 年 1 月 1 日には、旧中立諸国オーストリア、スウェーデン、フ
ィンランドがEUに加わった8)
。
これら中立国には加盟のための条件は特につけられるこ
とはなかった。他方、1997 年、ルクセンブルグ欧州理事会で「アジェンダ 2000」が採択
されると、中・東欧の先進 6 カ国で、加盟交渉が開始された。第 2 陣ヘルシンキ・グルー
プの 6 カ国が交渉を始めたのは、2000 年であった9)
。
2)バルカンの不安定化、民族紛争の泥沼化進行
しかしこうした欧州再編の作業が、北欧・中欧で始まりつつあるとき、既に、1991 年
からバルカンでは、ユーゴスラヴィアの解体と、民族紛争、虐殺と難民の流出が始まって
いた。
こうしたバルカンでの民族・地域紛争に対して、1995 年にはローマ宣言に基づき、N
ATOが初のボスニア空爆を行い、さらに 1999 年 3 月 24 日にはNATOはコソヴォを
空爆した。すなわち、米クリントン大統領・オルブライト国務長官は、ユーゴスラヴィア
における「エスニック・クレンジング(民族浄化)
」に対する強い使命感の下、NATOの
「域外派兵」
、「人道的介入」、緊急の場合の「国際機関の承認の回避」が実践の中で規定化
された。
これらに対して、フランス、ドイツの首脳の間には、直接の対抗国ではない地域に対す
る派兵、および国際機関承認の回避に対して、強い危惧と前例としないことが要請され、
欧州とアメリカの間の最初の安全保障上のきしみが顕在化されることになる。
また、同年 3 月 12 日に中欧 3 カ国がNATOに加盟し、他方その 12 日後にコソヴォ
が空爆されたことは、中・東欧の周辺多民族国家に、双方の選択肢を明示することとなっ
た。
すなわち、米欧の提示する資格と条件を満たせば、NATO加盟、民族対立をあおり紛
争を長期化させればNATO空爆、という極めて明快な図をバルカンの民族紛争地域に示
すことになる。実際、これ以後各国は、自らを規制して民主化・安定化を達成し、NAT
3
O・EU加盟を狙う、という動きが、クロアチアやマケドニア、ウクライナなどで高まっ
ていくこととなる。
また、ユーゴスラヴィアでも 2000 年 12 月の大統領選挙、その後の総選挙で、コシュ
トゥーニッツァ、および民主党がそれぞれ勝利し、遅ればせながら民主化への道をたどり
始めることとなる。その意味で、クリントンのコソヴォ空爆は、以後イラク戦争へと続く
「武力による民主化」を冷戦後に成功させた最初の例といえよう。
3)2001.9.11.アメリカでのテロ、10.7.アフガン空爆
1999 年のコソヴォ空爆は、中欧 3 カ国をNATOに加盟させることと平行して、戦争
を開始した例であった。2001.9.11.のテロおよび同年 10 月からのアフガン空爆は、国際
政治学会対テロ包囲網として、大国ロシアを取り込み、戦争に向かわせた例である。
9.11.後、アメリカへのテロの打撃に最も早く対処したのは、ロシアのプーチン大統領
であった。チェチェンを初めとしてイスラム過激派に多くの経験と情報を持つロシアがテ
ロ対策への協力を打ち出したことで、NATOとロシアの距離は一気に縮まった。
2002 年 5 月には、イギリスのブレア首相の提唱で、NATO・ロシア理事会が設置さ
れ、ロシアのテロ情報と基地とを共有する試みが進んだ。これによりロシアにとっても、
コソヴォ以降の国際戦略からの孤立から、アメリカとの提携により、国際的役割が再度増
大する、米ロ蜜月時代に入っていった。
9.11.以降は、冷戦の終焉とテロにより、安全保障の重心が、欧州中部から南へ、黒海・
中東へと移動、変容した時期でもある。
2002 年 11 月 21 日、プラハでのNATO首脳会議で中・東欧7ヶ国のNATOへの加
盟が決定すると、合わせて対イラク攻撃準備が協議された。冷戦期ソ連の衛星国であった
中・東欧が、冷戦の終焉後、21 世紀に入り、一つの欧州としてのEUの枠組みの中に入っ
ただけでなく、安全保障面では米の影響下へ入ったことは歴史の皮肉といえるかもしれな
い。しかし歴史的には中・東欧には様々の政治潮流が存在し、むしろ第 2 次世界大戦後か
ら冷戦の直前まで、ソ連派コミュニストの政治潮流は少数派であり、冷戦の進行は、国内
の主流派の政治潮流と「国内派」の共産主義者をもいかに孤立化させ解体させていったかの
経緯でもあった。その意味では、冷戦の終焉と社会主義の崩壊を「自己統治機能の回復」で
あり、それが「ヨーロッパへの回帰」(近代以降目指した自民族のあるべき位置への回帰)で
あると捕らえられたのである。11)
4)2003.3.20. しかしコソヴォ以降の欧州とアメリカの「民主化」の実践に対する対応の
違いが表面化するに及んで、中・東欧は、安全保障面では、アメリカに依拠することにな
った。米英のイラク攻撃で、独仏とアメリカとのきしみが、頂点に達した。独仏間には、
アメリカのイラク攻撃への意図の懐疑が広がり、連日、イラク戦争を批判するデモがヨー
ロッパ全土に広がった。
こうした流れが、アメリカと欧州の共通の安全保障のあり方に疑問を呈すこととなり、
コソヴォ空爆後(1999.12)、「独自の軍隊、独自の決定」という方向性が提示され、2003 年
月、EU緊急対応部隊が設置されたのである。
4.イラク戦争
「旧
イラク戦争をめぐる
戦争をめぐる「
をめぐる「新」
「旧」ヨーロッパの
ヨーロッパの確執:
確執:アメリカの
アメリカの影
4
このように、イラク戦争以降、欧州各国でアメリカの行動への批判が広がったが、その
芽は、既にNATOのコソヴォ空爆の頃から存在していた。とくにフランス、ドイツは、
NATOの「域外派兵」
「人道的介入」
「国際機関回避」という新しい読み替えに、危惧を
表明していた。
EU・NATOの新加盟候補国である中・東欧も、当初、02 年 12 月頃までは、各国は
比較的自由な主張を行なっていた。多くの国は、概ね、イラク戦争を時期尚早とみなし、
国連による査察の継続を支持していた。
ところが、2003 年の 1 月から 2 月にかけ、こうした状況に変更が起こる。1 月 30 日
には、イギリスのブレアが組織し、ブレア、ハベル、アスナール、バローゾ、ベルルスコ
ーニ、メジェシ、ミレル、ラスムセンなど欧州 8 カ国の首脳が声明を出した。そこでは、
「アメリカとヨーロッパの真の絆は、民主主義や個人の自由、人権、法治主義という共通
の価値観である」とし、
「イラクのフセイン大統領と大量破壊兵器は世界の安全保障に対す
る明らかな脅威」として、
「フセイン体制の武装解除を主張し団結する」と述べていた。つ
いで 2 月 5 日には、バルカンと 3 カ国と中・東欧 7 カ国による「ヴィルニュス・グループ」
が、アメリカの対イラク政策を指示する宣言を採択した。10 カ国は、パウエル国務長官が
国連安保理に対してイラクが国連決議に違反した俊、イラクの武装解除に向けて国際的連
合に参加する意思を表明した 12)。この時点でハンガリー、ポーランド、チェコなどNA
TOに加盟していた中欧3国は、2 度、アメリカ支持の声明を出したことになる。
これら中・東欧の国々は、当初、国連の査察を支持していたにもかかわらず、なぜアメ
リカを支持したのであろうか。これについて、特にポーランドの動向と、それとは異なる
ハンガリー、チェコの動向(いずれも「政府」であり、国民の動向とはまた異なる)を比較検
討することは有用であろう。
3 カ国が 2 度にわたってアメリカのイラク攻撃を支持し、仏独の国連主導、ないし戦争
慎重論をあえて拒否した背景には、いくつかの要因が考えられる。
より直接的・優先的には、アメリカにつくことによる利益、たとえば(退役あるいは失
業中の)兵士と派兵への金銭援助、企業への石油権益、NATO加盟直前における参加義
務(半強制)、アメリカとフランスの対応の違いがあげられる。
いくつかの国々は、それまであるいはその直前まで、国連の査察継続を一義的とするこ
とを支持していた。にもかかわらず、アメリカの強い要請や派兵の支援金、経済的支援や
石油権益が提供される中、イラク戦争支持と派兵へと転換していった。13)
それに加えて、つぎのようなよりマクロな背景もあった。1)安全保障上、アメリカを
背後につけることによる、欧州内の発言権の拡大(ex ポーランド。欧州との関係で、移民
や農業問題などより対立的状況にある国)
。2)歴史的経緯:東の大国ロシアから自国を守
ってくれるものとしてのアメリカの軍事力への信頼。3)独仏への「歴史的記憶(Historical
Memory)
」から来る不信感(ナチス・ドイツの侵略・支配、ミュンヘン協定において英仏
に裏切られたトラウマ)
、さらに4)加盟に至る経緯において、EUから受けた厳しい評価
が、
安全保障面では、
排他的にアメリカに依拠したいという認識を生んだことは否めない。
EU加盟のための 31 項目の基準達成や、とりわけ移民問題での制限は、新加盟国の国
民の間に、EU元加盟国に対する不信を生んだ。
5
さらに、2003 年から 2004 年?にかけて開かれた政府間協議における、欧州憲法条約
草案に示された「強く統一された」欧州も、歴史的に中・東欧の多民族地域においては、よ
り小さなレベルでの国民国家、あるいは地域的国家連合、あるいは連邦的ヨーロッパ、各
国平等、輪番制のヨーロッパ(マーストリヒト、ニース条約に基づくヨーロッパがより親
和的であった。
その結果、
2002 年 12 月頃まではイラク戦争への派兵に反対し国連による解決を期待
していたブルガリア、ハンガリーでも、反対する野党も含めて、アメリカに基地を提供し、
派兵を承認していったのである。
さらに独仏にとって衝撃であったのは、新加盟候補国のみならず、EU15 カ国内部に
おいても、最終的に独仏に同調したのは 2 カ国のみ(ベルギーと議長国ギリシャ)で後は
7 カ国がアメリカに賛成してイラク派兵、4 カ国が中立を取ったことである。
この1ように、イラク戦争をめぐる米英と独仏の対立を契機に、4億5千万の統合欧州は、
経済面を超えて、政治・安全保障面での統合を目指す矢先に、実は共通外交・安全保障政
策(CFSP)において、統合しきれないこと、とりわけ仏独のリーダーシップを超える影
響力を持つものとして、アメリカの外交戦略への支持の存在が明らかになったのである。
以上は政府レベルであるが、政党間の対立、市民層の対立はさらに深刻であった。
中・東欧諸国においても、政府レベルの外交決定と、市民レベルでの齟齬は大きかった。
最も親アメリカ的な態度をとったポーランドの左翼民主同盟については、アメリカを支
持することによって、国際社会においても、旧来想像もできなかったような、大きな地位
を獲得した。
1)NATO事務総長補佐官の地位、2)欧州内部での位置の上昇、いわゆる「ワイマール・
トライアングル」
(独仏ポ3カ国の定期的な首脳・外相会議)
、3)戦後イラク派兵の多国
籍部隊 20 カ国 9200 人(21 カ国 12000 人)を、ポーランドの指揮官(陸軍少将)が取
り仕切った。さらにポーランド企業に対してはイラクの石油権益が優先的に保障された疑
惑も指摘された。しかしポーランド国内では、このようなポーランド政府の露骨な親米的
態度に批判が強まり、2004 年 5 月 1 日の加盟直後の、5 月 3 日、内閣は不信任案により
解散し長く新内閣が組閣できない、という失態を招いた 14)。
2005 年秋の総選挙では、EU・NATO加盟を促進したポーランドの左翼民主同盟は
大敗し、中道右派の法と正義、カチンスキ大統領が政権を取ることとなった 15)。
他方、ハンガリー、チェコでは、ポーランドほど明快ではない。ハンガリーでは、12
月まで国連の平和的解決を支持していたが、政権党の社会党は、1 月と 2 月のアメリカ支
持の声明に署名した。合わせて独仏にも接近して、アメリカとヨーロッパ機構の双方を重
視する方向をとった。またイラク戦争への参加に反対し続けた青年自由同盟(FIDESZ)
市民党も、補助金により参加と派兵を承認したものの、アメリカ・仏独など外部への追従
をやめ、国益を重視する姿勢から政権を批判し続けた。
またチェコ政府は、政権党の社民党内閣は首相・外相ともに当初、アメリカを積極的に
支持したが、2003 年 2 月 28 日の大統領選挙で辛くも勝利したクラウスは、当初からア
メリカのイラク戦争戦略を批判し、特にハベル大統領が任期切れ間際に首相や外相にも相
談なく署名したことを非難した 16)。
また中・東欧各国では、12 月には、EUの農業政策への批判から、CAP(共通農業政策)
6
の補助金を元加盟国と同等の比率で新加盟国にも提供するよう、EUに要求するデモが広
がり、他方、1-3 月には、自国政府がアメリカと共にイラク戦争に参加することを非難す
るデモが高まった 17)。これに象徴されるように、少なくとも市民レベルでは、EUの新
加盟国への補助金の少なさにもアメリカのイラク攻撃にも憤る、批判的な意識が存在して
いたのである。
3)中・東欧の安全保障観(西欧との差異)
中・東欧の政府が、当初の政策を翻し、また国民の不満をも超えて、不承不承なりとも
アメリカを支持した背景には、中・東欧の独特の安全保障観も影を落としていた。
中・東欧は、東のロシア、西のドイツにはさまれ歴史的に繰り返し併合や難民、さらに
は戦争の脅威を経験してきた「はざまの地域」であり、その安全保障観は、周辺大国の脅威
にいかに対処するかが、優先課題であった。最大のものは、ロシアへの潜在的脅威であり、
ついで冷戦後 10 年間、ヨーロッパの安定を脅かしてきた、バルカンの地域・民族紛争が
自国に飛び火することへの警戒であった。このように、隣国や周辺地域からの脅威感や不
安定に常に脅かされてきた、マイノリティや複数の民族を抱える多民族地域としては、そ
うした中でいかに自国の安定的に発展を勝ちうることを保障するかは最大の課題であった。
これらへの対処方法が、経済的にはEU、安全保障ではNATOであり、とりわけ「近隣で
ない」強力な大国アメリカに依拠した安保であったのである。
5.ロシアと
ロシアとイラク戦争
イラク戦争
冷戦終焉後のロシアの動向も、欧州・アメリカとの関係において、繰り返しその立場を
変容させる不安定要因であった。
1)1989-90 年代初頭:欧米との友好
冷戦終結宣言直後の時期においては、ゴルバチョフと欧米の信頼関係から、欧米とロシ
アは短期の蜜月時代を形作った。この時期は、EU・NATOにとって、CSCE に依拠し
た全欧安保協力会議に基づく時代であったが、中・東欧はこの枠組みに強い不信を抱き、
ロシアを排除したヨーロッパ機構、およびNATOに加盟することを望み続けた。これに
対してロシアはNATO拡大を旧領域の侵害と安全保障の脅威と受け止め(冷戦期の対抗
軍事力が、旧ロシア、バルト 3 国まで侵食する)、強い不信を表明し続けた。
1993 年 8 月、エリツィンはポーランド、チェコを訪問した際、中欧のNATO加盟容
認する発言を行なったが、帰国後ロシア国内で軍部・保守派が一斉反発し、取り消す経緯
があった。大統領が国内の軍部・保守派を統制できなかったことは、さらに中欧諸国のロ
シアへの不信の増大・危惧と、自国の安全のための、NATO加盟推進を呼び起こした。
2)1996-2000 年:欧米からの孤立化
こうした経緯を経て、1996 年 10 月、米クリントン大統領は、中東欧へNATO拡大す
ることを公約した。その背景には、ロシアの民主化が進まないことへの幻滅があったこと
は否めない。
1997 年 5 月には、NATO・ロシア基本文書が締結され、NATO・ロシア常設合同
7
理事会が創設されたが、これは同年から始まるNATOの東方拡大にロシアが反対しない
ための措置でもあった。1997 年、NATO のマドリッド宣言で、中欧へ拡大すること、た
だし、核配備は行なわないことが明記された。これに対してむしろ中欧諸国からは、核配
備を行なってほしいという発言がハンガリーの FIDESZ(青年民主同盟)首相や、ポーラン
ドのワレサ大統領など首脳レベルから飛び出した。
1999 年 3 月の中欧 3 国のNATO加盟と、ロシア・中国の拒否権を排除したコソヴォ
空爆で、ロシアの孤立化は決定的となった。
この時期、興味深いことに、欧米から拒否されたロシアは、アジアに向かう。1998-2000
年にかけ、ロシアは日本に接近して領土交渉と引き換えに経済支援を要求し、その後、99
年コソヴォ空爆でのロシア・中国の回避に対して、2004 年、中国と軍事協力関係を締結
するのである。2004 年 4 月のプーチンの新軍事ドクトリンでは、ロシアが国家安全保障
にとって危機的な状況下での・・・大規模な侵略への対応として、核兵器を使用する権利
を留保する、と宣言した 18)。
3)9.11.テロと米ロ蜜月時代
99 年 12 月 31 日、エリツィンはプーチン代行に大統領権限を移行し、プーチンは、3
月の大統領選挙での勝利後「強いロシア」再建をめざした。その過程での 9.11.同時多発テ
ロは、チェチェン問題の打開とイスラム過激派の一掃というロシアの課題とも一致して米
欧接近し、2002 年 5 月には、ロシアNATO理事会が創設される。97 年のロシアNAT
O常設理事会とは異なり、この組織は国際対テロ協力網として重要な情報や共同行動を実
践することとなる。
4)2003 年―:プーチン第 2 期の「全方位外交」
イラク戦争では、イラクと中東への権益もあり、攻撃に反対して権益対立するが、米・
欧との提携は国策と判断し、全方位外交を継続した。ただし 2003 年末のEUのワイダー・
ヨーロッパ政策以降は、エネルギー供給の面で、EUと協力関係を強め、2004 年でEU
エネルギーの 7 割をEUに供給する 18)など、急速にEUとの関係を強化している。
5.EUと
EUとアメリカ
アメリカとの
リカとの関係
との関係
今後、拡大EUとアメリカとの関係は、どうなるのか。欧州内の軋轢は克服できるだろ
うか?イラク戦争後は、EUは原則的には、アメリカとの同盟に回帰している。また中・
東欧が、アメリカを支持したことは不問に付しEUに加盟させた。EU軍についてもサン
マロ以降、独自性の強化は行なっているが、合わせて、コソヴォやマケドニアなどへの展
開を除いて、NATOとの同盟・住み分けを再編している。なぜか?
一つには、EUにとって、アメリカ軍をヨーロッパに止めておくことがきわめて重要で
あるからである。東のワルシャワ条約機構が解体したのに対して、西のNATOは、拡大
し続けている。2004 年 3 月の 7 カ国加盟により、26 カ国となり、NATO軍とEU軍の
住み分けによる北大西洋同盟の一方的勝利は、欧州全体の戦略ともいえよう。
EUにとってのNATOは、ロシアに対抗し、ドイツを潜在的に押さえ、かつ国際テロ
に対抗し、軍事コストを軽減し、欧州の高い経済・社会保障水準を維持する上でも、(極東
にとっての米軍と同様)なくてはならないものである。
8
その上で、EUは、アメリカをしのぐ人口、アメリカに並ぶ経済力に続き、国際的規範
の優位性を持った政治力を持つことにより、
ヨーロッパ拡大の威信を着実に拡大している。
中・東欧のイラク戦争でのアメリカ支持も、その後ポーランドを除いては、明白なアメリ
カ一辺倒はなく、EU・NATOのバランスをとったものとなっている。
<EU・NATO拡大の差異>
問題は、EU側からの厳しい課題達成要請である。中・東欧は、法整備、経済、政治、
社会、金融、情報などあらゆる分野において、厳しい舵取りを迫られている。拡大は、法
律、経済・政治面で厳しい加盟基準を達成しなければならなかったが、加盟以後も財政赤
字やインフレ率の削減など、グローバリゼーションに対応する厳しい基準達成要求にさら
されている。他方、NATO拡大でも、国際テロ協力網と地域紛争への政治的・地政学的
保障に加えて、軍の近代化や、旧型兵器の更新、戦闘機の購入、さらには軍事負担や実践
への参加など、多くの課題を抱えている。旧社会主義圏にとって、社会保障と社会水準を
ある程度維持しつつ安全を強化するためにも、米軍の駐留が欠かせない。ルーマニア、ポ
ーランドなど、在独米軍撤退に際して、自国へのの積極的誘致を繰り広げている。
もう一つは、領域認識の差異である。
EUにとっては、ルーマニア・ブルガリア、中央アジアは、経済発展度も低く、規模の
大きいルーマニア以外は欧州のぺリフェリーである。しかし、アメリカにとって、ウクラ
イナ、マケドニア、アルバニアなどは、新たな世界戦略、中東に向けての重要拠点でもあ
り、時期NATO拡大の戦略地点である。これらの国に対する優遇措置が、結果的にその
国とアメリカの靱帯を強める結果となっている。
6.
EU・
EU・NATO拡大
NATO拡大と
イラク戦争:
課題と問題点
拡大とイラク戦争
戦争: 課題と
最後に、EU・NATOの拡大とイラク戦争をめぐるいくつかの点についてまとめてお
きたい。
1)拡大EUとアメリカとの関係修復。
イラク戦争での米欧対立にもかかわらず、欧州でのNATOの地位に揺るぎは見られな
ず、とりわけ 2005 年の第 2 期ブッシュ政権の訪欧、2006 年以降フランス・ドイツでつぎ
つぎとネオリベラルな政権が実現したこと、さらに欧州憲法条約の頓挫や仏独リーダーシ
ップから加盟国のコンセンサス重視に移行せざるを得ない状況になると、アメリカに対抗
する独自の欧州の図式は困難になってくる。
他方でウクライナ、マケドニア、アルバニアの加盟に対しては、当のウクライナにおい
て、黒海周辺でのNATO加盟国民投票が行われ、反対者が過半数を占める中、NATO
拡大は当面困難になりつつある。
プーチンは、2001 年 9,11 後最初にアメリカの空港に降り立ったとき、
「NATOの機
械的拡大は、加盟国の安全を高めない」
、
「
(ちいさな)エストニアの加盟よりロシアの協力
の方がはるかに世界平和に貢献する」
、豪語している(2001.11)
。
アメリカは、今後も大西洋同盟を継続することにより、ヨーロッパへの足がかりをつけ
るとともに、2003 年、EUに批判された規範や価値(民主主義、自由主義、市場経済)
公共圏のレベルにおいても、新大統領により巻き返しを図る可能性は高い。
9
2)今後の欧州の役割
そうした中、欧州は今後、ギデンズの『グローバル時代のヨーロッパ』でも論じられて
いる如く、グローバル化の下での格差拡大は社会的公正を促し、超国家、スーパーパワー
から、再び地域的な権力(リージョナル・パワー)になる可能性が高い18)
。
EU軍・NATO軍の近代化により、コスト面、軍装備の改革は始まっている。しかし
社会保障水準の維持の問題もあり、民衆の負担をより高める方向には、行きがたい。当面、
南東欧安定化協定のイニシアチブを含む、バルカンの安定、北アフリカの安定と関係強化
に力を注いでいく可能性が高い。
3)中・東欧、バルカン諸国と、EU・NATOとの関係
コソヴォ独立をEUが早期に承認したことで、バルカンの将来加盟への関心が一挙に高
まった。中・東欧にとって、コソヴォ紛争からイラク戦争、加盟に至る過程は、常に「欧州
の一員か」
、
「アメリカの核の傘の下か」を問い直される経緯でもあったが、プロ・アメリカ
の急先鋒に立っていたカチンスキ政権が、新しく親EU政権に道を譲ることによって、新
加盟国内部では欧州回帰が進みつつある。
いずれも地域により濃淡があり、ルーマニア、ポーランド、さらに今後加盟する可能性
を持つウクライナなど、人口も多く軍事的に重要性の高い国々は、アメリカの役割に期待
するとともに軍事的貢献度も期待されてきた。しかしアメリカによる、ポーランド・チェコ
へのミサイル・レーダー配備計画は、
逆に国内での不安を書きたてヨーロッパ回帰の前提を
作る結果となった。他方、バルト諸国やハンガリー、チェコ、クロアチアなど西部新加盟
国の多くは、EU・との関係が強く、バルカン(南東欧)における民族紛争の解決、EUの南
東欧安定化政策に強い期待をかけている。
冷戦時代の欧州の衝突と分断を越えて、「一つの欧州」となってやがて 20 年がたとうと
している。EUの東方への拡大もバルカンとトルコで最後の境界線を確定しようとしてお
り、欧州は、今後当面は、内部の軋轢是正の問題に取り組もうとしている。
テロ(とりわけ分離主義者)への対処、欧州の 1 千万人のイスラム系難民の市民化、百
万規模のスラヴ人移民との共存、
ロマを初めとする中・東欧の大量なマイノリティの存在、
これらはときに新たな対立の芽を内包しつつも、「多様な欧州」の共存の可能性をも、象徴
している。近年のトラフィッキングの増大と、人間の安全保障の強調の波を受けて、欧州
議会ではトラフィッキングによる女性・児童の主要な輸出先である、アジアに対する人間
の安全保障、性売買の規制に注目し始めており19)
、2006 年末には、欧州議会で、戦時
の日本における従軍慰安婦問題を非難する決議も出された20)
。
欧州における拡大と公共圏・人間の安全保障の重視は、
現在始まりつつあるといっても過
言ではない。
注
1) 欧州拡大とイラク戦争の相克については、ハバーマスやエーコ、ティモシー・ガルトン・
アッシュやゾンタークなどの鋭い評価を集めた論文集、Old Europe New Europe Core
Europe,Transatlantic Relations after the Iraq War, Ed.by Daniel Levy,Max Pensky,
John Torpey, Verso, USA, 2005, Gordon & Shapiro による America, Europe, and the
Crisis over Iraq, Brookings institution Books, Sydney, Toronto,2004, David M.
10
Andrews による The Atlan tic Alliance Under Stress: US- European Relations after
Iraq, Cambridge University Press, 2005.などがある。日本では広瀬佳一氏がNATOと
の関連でイラク問題を扱っている。 筆者もこの間、
「一つになれない欧州―イラク戦争と
影響と今後」
『毎日新聞』2003.4.11.「イラク戦争とは欧州にとって何だったのか」
『拡大
ヨーロッパの挑戦―アメリカに並ぶ多元的パワーとなるかー』中央公論新社、2004(20062
刷
)
、
「EU・NATOの拡大と欧州の安全保障」
『21世紀の安全保障と日米安保体制』ミ
ネルヴァ書房、2005、などイラク戦争による米欧亀裂とりわけ中・東欧のアメリカ接近と
拡大欧州の安全保障の軋轢について研究を進めてきた。
2)2003 年 1 月末の欧州首脳 8 カ国によるアメリカ支持、及び 2 月初めの中・東欧 10
カ国(ヴィルニュス)10 のアメリカ支持。2,003.1.30, 2,003.2.4. これへの知識人の反
応は Old Europe, New Europe, Core Europe, ibid. を参照。
3)国連のアナン事務総長が、
アメリカの単独行動主義を非難、
国連主導の改革を訴えた。
2003.9.23.
4)フランシス・フクヤマ、渡辺昇一訳『歴史の終わり』三笠書房、1992、ブルース・ラセ
ット、鴨武彦訳『パクス・デモクラティア』東京大学出版会、1996。
5)渡邊啓貴編『ヨーロッパ国際関係史』有斐閣、2002。
6)定形衛「コソヴォ危機と人道的介入論」菅英輝編(2005)
。
7)John Lewis Gaddis, Long Peace, 1987(五味俊樹他訳『ロング・ピース』芦書房、
2002)
。
8)中・東欧へのEU・NATOの拡大と加盟交渉については、この 10 年間で、多くの研
究が出され始めたが、筆者も冷戦終焉と中・東欧の社会主義体制崩壊後、ほぼ17年に亙
り、拡大EUの調査・研究を継続してきた。以下を参照。羽場久シ尾子『統合ヨーロッパの
、羽場『拡大するヨーロッパ、中欧の模索』岩波書
民族問題』講談社、1994(7 刷 2005)
刷
4
店、1998 年( 2005)
、羽場(2004)、羽場久美子・小森田秋夫・田中素香編『ヨーロッ
パの東方拡大―新加盟国からの視点』岩波書店、2006(近刊)
。
9)「民族浄化(ethnic cleansing)」という用語のキャッチコピーを使うことにより、ル
ーダー・フィン社という情報戦請負会社が、米国民の前にヨーロッパ小国の民族紛争の現
実から悪玉を仕立てあげて行く経路については、高木徹『戦争広告代理店』講談社、2002
を参照。
10)羽場久シ尾子「中・東欧とユーゴスラヴィア―民族、国家、地域」特集、旧ユーゴス
ラヴィアの 10 年『国際問題』日本国際問題研究所、2001.7.
11)2003 年 1 月 30 日、欧州 8 カ国の声明、2 月4日、中・東欧の声明。
12) 2002 年 12 月から 2003 年春にかけての新聞。Népszabadság, Magyar Nemzet.
13)ポーランドがアメリカを支持した諸要因。2004 年 5 月初めのポーランド組閣。
『中・
東欧ファックスニュース』2003-4 年。
14)Népszabadság, Magyar Nemzet, Magyar Hirlap, 2003.
15)羽場久シ尾子「ロシアと東欧の国際関係」『ユーラシア研究』19 号、1998.9.
16)Росийская газета, 25 апреля, 2000.
17)9.11 以降のアメリカの共和党が、プラグマチックな現実主義者(パウエル派)、単独
行動的ナショナリスト(ラムズフェルド)、理想主義的ナショナリスト(ウォルフヴィッツ)
に分裂した利害対立や、他方で、アメリカとロシアがお互いの国益保持のため接近し、中・
東欧が新たなヨーロッパの周辺となりアメリカに依拠せざるを得ないこと、ロシアの経済
エリートが石油・天然ガスによって、これまで以上にEUと結び、ロシアの西欧志向が強
まっているなどの事実については、Lynch A.”Russia and NATO; Expansion and
Coexistence?”, Россия и Нато: Новые сферы партнерства, СтПетербургского университета, 2004, EUとロシアとの関係については、Россия и
11
основные институты безопасности в Европе:вступая в ХХ1 век, Москва,
2000, Россия и Европейский союз в Большой Европе, новые возможности и
старые барьеры, Ст-Пеиепрсвуршского университета, 2003.
18)Anthony Giddens, Europe in the Global Age, Polity Press, 2007. p.211.
19)大久保四郎編『人間の安全保障とヒューマン・トラフィキング』
『講座 人間の安全
保障と国際組織犯罪』日本評論社、2007 年。
20)欧州議会の、日本従軍慰安婦問題非難決議 欧州議会、原文:Confort Women, Texts
adopted by European Parliament, Thursday, 13 December 2007, Strasbourg,
http://www.europarl.europa.eu/sides/getDoc.do?type=TA&reference=P6-TA-200
7-0632&language=EN&ring=P6-RC-2007-0525
和訳:
http://ianhu.g.hatena.ne.jp/keyword/%e6%ac%a7%e5%b7%9e%e8%ad%b0%e4
%bc%9a%e3%81%ae%e6%85%b0%e5%ae%89%e5%a9%a6%e6%b1%ba%e8%ad
%b0?kid=30#p3
12
<参考:N
参考:NATO
:NATOと
ATOと中・東欧 年表:
年表:ハンガリーを
ハンガリーを中心に
中心に>
(Chronology of Hungary's accession to NATO)
一部のみ抜粋:A NATO-tag Magyarország, Budapest, 1999)
(1990 年以降、ほぼ毎月、会合、技術的話し合い、軍事共同演習など)
1990.6.28-29.
ワルシャワ条約機構の国から、ハンガリー、 NATO Headquarter 訪問
Manfred Wörner 事務総長、中欧諸国との関係発展を希望
7.3.
ワルシャワ条約機構からの脱退の交渉開始
7.5-6.
London 宣言:同盟の見直し、中・東欧諸国との共同発展
11.19-21.
NATO とワルシャワ条約機構の国々との CFE 条約調印。
16NATO国と、6 ワルシャワ条約機構国が、互いに敵と見なさない
宣言に調印。
11.22-23.
Manfred Wörner 事務総長ハンガリー訪問。
11.28-29.
NATO 議会(NAA)で、中欧諸国は associate delegation(連合国)
。
1991.2.25.
ワルシャワ条約機構6カ国国の代表がブダペシュトで、ワルシャワ条約
機構の解体を宣言。
6.19.
ソ連軍がハンガリーから撤退。
6.28.
コメコンの解体
7.18.
ハンガリー議会、ワルシャワ条約機構の解体を批准
7.22-25.
NATO との技術協力開始についての話し合い
10.6.
Visegrád 3国(ハンガリー、チェコスロヴァキア、ポーランド)の外務
大臣、クラクフにて、NATOの活動への参加を望む共同宣言採択。
10.20-21.
NAA 会合(Madrid)。Manfred Wörner は、次回 1995 年の会合が
Budapest で開かれることを述べる。
10.28-29.
ハンガリー首相と Manfred Wörner との会談。
ハンガリーはNATOとより緊密な共同関係にはいることを表明。
11.7-8.
NAC ローマサミット. 平和と協力に関するローマ宣言。NACC 創設。
12.20.
NACC 開会。16NATO諸国、9 中・東欧諸国参加。
1992.3.10.
NACC 会議。
3.18-20.
NATO新戦略概念を含むNATOの新構想。
4.10.
NATOと中東欧の共同軍事委員会の最初の会合。
7.17.
CFE(欧州通常兵器条約:1990.11.19.調印)発効。
1993.3.24.
「NATOの安全は、他のヨーロッパ諸国の安全と密接に結びつく。
」
(Manfred Wörner より、ハンガリー首相 József Antal への手紙)
9.6-7.
Visegrád 諸国の防衛次官、Cracow で会合。
10.19.
Visegrád 諸国とNATOとの関係強化要請(Antal から Wörner へ)
1994.1.10-11.
NATO の Brussels サミット。Partnership for Peace (PfP)開始。
2.8.
ハンガリー、PfP に調印。
4.27-29.
NACC セミナー、Budapest にて。国防計画の企画と運営について。
13
8.13.
Manfred Wörner 事務総長逝去。Sergio Balanzino が事務総長代行
(9.29. Willy Claes 事務総長)
10.19.
NATO と東欧諸国との最初の共同訓練、オランダにて
12.5.
CSCE サミット、Budaptest にて。CSCE は、OSCE(Organization for
Security and Co-operation in Europe)となる。
1995.3.23-24.
NATO 技術委員会の Budapest での会合。旧ワルシャワ条約軍の軍事
機構をいかに市場経済下の文民組織に変えるか。
(最初の旧ワルシャワ
条約機構国との会合)
5.8.
NATO と PfP 諸国との会談。26 カ国の参加。Budapest にて。
5.26-29.
NAA 本会議。Budapest にて。
(非 NATO 国初)
NATO の拡大とその time schedule について。
6.30.
NATO の軍事演習ハンガリーにて。
(PfP の枠内)
9.20-21.
U.S.国防長官 Willian J.Perry ハンガリーを訪れ、ハンガリーの NATO
加盟政策について話。
9.28.
NACC の会合で、NATO拡大問題に関する検討、解禁。
10.25.
ハンガリーのNATO加盟に関する国民投票要請の署名、国会へ。
12.9.
ボスニアに、NATO の平和履行軍(IFOR)
1996.1.14.
NATOの IFOR への支援に関する覚え書き調印(Hungary)
5.6.
ハンガリー、NATOと WEU との安全保障条約に調印
6.4.
アメリカ、6千万ドルの支援金を、中欧3カ国(H.P.C)のNATO
加盟準備金として提供。→10.1.に各国に渡される。
6.13.
ブリュッセルのNATOの核計画委員会において、NATOの拡大の際
にも、新メンバー国の間には核配備の必要はないことを確認。
6.14.
ブリュッセルにて、NACC の国防大臣会議。NATOと PfP26 カ国の
国防大臣が参加。
10.22.
1997.5.
6.13.
米大統領クリントンがNATO東方拡大推進演説(デトロイト)
NATO・ロシア基本文書
アメリカの国防長官、米は中欧3カ国を第1ラウンドの話し合いのために
公式にNATOに招待することを提案。
7.8.
マドリッドにてNATOサミット。中欧3カ国(H.P.C)のNATO加盟提案。
9.10.
第1ラウンドの話し合いのため、代表がブリュッセルへ。
10.29.
ハンガリー、NATOの加盟分担金として、NATOの年度予算の 0.65%
を負担。他方で、NATOは、ハンガリーの防衛予算を、
毎年 GDP の 0.1%まで上げていくことを確認。
11.16.
NATO加盟の是非を問う国民投票(ハンガリー)
。
有権者の 49,24%が投票に参加、85,33%が賛成、14,67%が反対。
11.27.
拡大コストの見積もり、ブリュッセルで。
中欧3国、追加のコストとして続く10年間に 15 億ドルを要求。
1998.1.1.
中欧3カ国、NATOの様々の会合に諮問権をもって参加する権利を
与えられる。
14
5.28-29.
NAC の Luxembourg の会合に中欧3カ国の外務大臣招聘。
11.13.
NAA 本会議、Edinburgh にて。NATO16 カ国、中・東欧 16 カ国の
代表が参加。
ソラナから中欧3カ国に正式加盟の通知。3月初めにワシントンで批准。
1999.1.29.
3.12.
中欧3国(ハンガリー、ポーランド、チェコ)
、NATOに加盟。ミズーリ
3.24.
NATOのコソヴォ空爆開始。19 ヶ国。
4.
NATO のワシントン首脳会議で中欧3国正式メンバーとなる。
4.24-25.
NATO50周年記念式典。
21 世紀の新戦略概念、政治宣言採択、NATO と WEU の共同、PfP 強化
NATO拡大第2陣グループの実質的指名
6.10
コソヴォ空爆終結、NATO軍入城。
NATO・ロシア関係悪化。
2001.9.27.
ロバートソン事務総長:NATOとロシアの関係の歴史において、
「テロリズムとの闘い」に対する協同の歴史が始まりつつある。
11.19.
英ブレア首相、
「NATO・ロシア理事会」提案。パートナーへ。
(チェコの反発:ハベル「ロシアをNATOに入れるべきではない」
12.
2002.3.
ロシアの WTO(世界貿易機関)加盟の可能性
ロバートソン、20 ヶ国方式だが、NAC(NATO 理事会)には招かず、拒否
権はない。
5.
レイキャビク、ローマにて、NATO・ロシア理事会の創設。
(諮問機関から、対等な協同意志決定機関へ)
6.
プーチン「中国、ロシア、西欧諸国と米国は、
『安定の円弧』を形成」
。
(江沢民との会見で)
11.
2003.1.30
プラハでのNATO首脳会議、7 カ国への加盟決定。イラク攻撃示唆。
欧州 8 カ国首脳、アメリカのイラク攻撃支持声明
2.4.
中・東欧 10 カ国(ヴィリニュス10)
、アメリカの政策支持声明。
3.20.
アメリカ、国連安保理を経ずして、イラク攻撃、フセイン政権崩壊(4.10)
9.―
ポーランド軍、9400 名 21 カ国の多国籍軍を率い、2400 名イラクへ。
フセインの逮捕、大量破壊兵器見つからず。
2004.3.29(?)NATOの拡大、中・東欧 7 カ国加盟、NATO26カ国
5.1
2006.6.?
EU、中・東欧8・地中海2、計 10 カ国加盟、EU25 カ国となる。
ポーランド、チェコに、テロに対するミサイル、レーダー基地設置計画。
ロシア反発、ロシア・中央アジアへのミサイル基地提案。
計画を続行するなら、カリーニングラードへのミサイル配備も辞さず、
とプーチン大統領。
2006.
ウクライナ、オデッサ周辺で、NATO加盟の是非を問う国民投票。
各都市で、過半数以上が、NATO加盟反対。ユーシチェンコ大統領の権威
揺らぐ。
15
<参考・
参考・関連文献>
関連文献>
参考:
参考:(2003.5 月-9 月) 東京大学テーマ
東京大学テーマ講義
テーマ講義、
講義、朝日カルチャーセンター
朝日カルチャーセンター緊急特別講座
カルチャーセンター緊急特別講座、
緊急特別講座、
外務省ブリーフィング
外務省ブリーフィング、
ブリーフィング、ロシア平和
ロシア平和リ
平和リサーチ国際会議
サーチ国際会議の
国際会議の報告などよりまとめ
報告などよりまとめ。
などよりまとめ。
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Nepszabadsag(
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、
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17