2016.10.2「回復と新創造」 マタイ12章17~21節 Ⅱコリント5章17節

2016/10/02
マタイ 12:17-21
回復と新創造
○
日本伝道会議
JCE6 に行きました。
ケープタウンで行われた
ローザンヌ会議で会議を通して、決まった小グループでの交
わりが祝されそれを導入 JCE6
その日本伝道会議でもコイノニア(交わり)があり、人のサーバンド
使える人が決め
られました。
私もその一人のサーバント。教えられたことを分かち合う。
毎日クリス・ライト先生からのメッセージがあり、それについて
決まっていて、一人ひとり語り合いました。
その中心は
分かち合うテーマが
大会のテーマである
re-vision でした。このコイノニアという分かち合いにはルールがあります。
一人が三分以内。批判しない。祈り合う。聖霊の御臨在と導きを祈り求める。
最初はあいさつ、毎回だんだん交わりが深められていきました。
Ⅰヨハネ1:3
あなたがたも私たちと交わりを持つようになるためです。私たちの交
わりとは、御父および御子イエスキリストの交わりです。
このような交わりはとても幸いなものでした。富士見台教会ではすでに
日々のみこと
ばの分かち合いをしています。礼拝が終わったあと、2,3人で礼拝での恵みを分かち合
い、先週聖書から教えられたこと、励ましや、足りなかったことなどを語り合えたら幸い
ですね。
神戸の国際会議場に 2000 人以上の人たちがテーブルごとに集まって、交わりを深めて
いけたことは将来の富士見台教会の素敵なあり方に光が与えられたような思いがしまし
た。
さて、皆さんは誰か導いてくださった先生という方にあっていますでしょう。
わたしもそうです。
今日最初に
宮崎先生という先生の話をします。
小学校 3 年生の夏、わたしは息継ぎができないで、2,3 メートルしか泳げませんでし
た。泳ぐというより、おぼれる寸前というところでしょうか。
ある小学校で、水泳のクラスがありました。
全然泳げない子供たちのクラスです。
私は全然泳げないので、その水泳クラスに入れました。
先生はオリンピック選手を育てたことのある
最初に
宮崎
という先生でした。
1、息を吸っていたら沈まないよということを身をもって示してくれました。
2、無理しなくても進むよと教えてくれた。
1、で不安がなくなりました。沈まないんだ。
2、進むんだったら泳いでみたい
と思いました。
顔を上に向けて体を楽にしてみると、浮くんですね。それだけでもうれしかっ
た。怖がらなくてもいいから。
先生にいわれるように、ゆっくり手首を左右に振り、足をゆっくりバタ足。
そうするとゆっくりですが、進むんですね。
何回か練習して、本番です。何メートル泳がなければいけないというのではな
-1-
く、泳げるだけ楽しんで泳いでごらん。
ゆっくり泳ぎはじめました。音は水の中の音、リラックス、力を抜いて。
ゆっくり、ゆっくり、ずいぶん経っていましたが、25 メートル泳げたのです。
足をつかずにです。2 時間前は0メートル 2 時間後に 25 メートル。
宮崎先生に、そしてそこに連れて行ってくれた両親に感謝しています。
その日、帰りにかつ丼をお祝いにいただいたことを昨日のように覚えています。
そのカツどんのおいしかったこと。
教えてくれる人、導いてくれる人って大切ですね。
私たちの信仰を導いてくれたり、アドバイスしてくれる兄弟姉妹。神様の恵み
を分かち合う中で気づくこともあります。これがまた大切なことです。
そして何よりも、私たちを忍耐をもって導いてくださる方が、私たちの救い主イエス様
です。今日は「回復と新創造」というタイトルでお話をします。
○
イエス様がこんなたとえを話されました。
これは
(ルカ10:30-37)
あなたの隣人を、あなた自身のように愛しなさい。という聖書のことばについ
て、そんなの守っていますと、鼻高々にいう人がいたので、わかっていないなあ、と分か
りやすくたとえでイエス様が話してくださったのです。
エルサレムからずっと下っていくとエリコという町があります。あるユダヤ人がエルサ
レムからエリコに向かって旅をしていました。すると途中で強盗にあってしまいます。
彼は殴られ、けられ、服ははぎ取られ、道ばたにものののように捨てられていました。
彼は倒れたまま動く事もできなかったのです。
そんなとき、まあ、なんて幸いでしょう、向こうから祭司さんがやってくるではありま
せんか。祭司は民の為にいつも神様に執成しをしてくれる人です。祭司さんだったら助け
てくれると思ったのですが、祭司は倒れている彼を見ると、反対側を急ぎ足で歩いて行っ
てしまったのです。
祭司ははっきりと、倒れている人を見ています。
どうしてでしょうか。彼にだって言い分はあると思います。
これから大切なお仕事のためにエリコに行き、神様の儀式をしなければいけない。
怪我をした人を介抱したら、血に触れてしまう。血に触れたものは汚れた者になるので、
一日神様のお仕事ができなくなる。見たところももう助かりそうも無い人。残念だけどこ
こは失礼する。
祭司はごもっともな理由をならべたてるでしょう。
祭司の姿は段々小さくなって行ってしまいます。
ああ、もうだめだと思っていたら、誰かが近づく音がします。
殴られ腫れた目を何とか開けて見ると、服装からすぐレビ人と分かりました。神様のた
めに祭司様のお手伝いをするレビ人。きっとわたしを助けてくれるだろう。よかった。こ
れで助かる。と思いきや、レビ人は祭司と同じく、彼を見ると道の反対側を通って行って
しまったのです。
レビ人だって言い分はあると思います。
急いでいるんです。わたしの後にきっと誰かが来てくれるでしょう。
わたしは祭司様の下で働くもの、血に触れて汚れたら、祭司様の元で仕事ができなくな
-2-
ってしまいます。
レビ人もいろいろと理由をならべることができるでしょう。
いろいろ理由を並べることができますが、もし自分の母親が、父親が倒れていたらどう
でしょうか。何をおいても、誰に何を言われても、介抱したことでしょう。
祭司、レビ人にとっては
倒れている人は、助ける価値、義理だてる必要の無い人なの
です。
It
と呼ばれた子
という本があります。著者はデイヴ・ペルザー、幼少期に母親に虐
待され、名前ではなく
祭司やレビ人は
it
それ
と呼ばれていたそうです。
倒れている人は
彼ではなく、道に落ちている
石のよう、it のよう
な存在でした。
倒れている人はもうこれで終わりでしょうか。向こうから人と家畜がやって来る音がし
ました。どうせこの人も知らん顔して言ってしまうのだろうと思ったかもしれませんが、
そうではありません、彼は「可愛そうに思って」思っただけではなく、彼のところに近づ
いて、声をかけたでしょう、息をしているのが分かって、少し悼みますよ、消毒しましょ
う。とぶどう酒を注いで、土の汚れを落として、持っていた手ぬぐいで傷をきれいにし、
今度はオリーブ油を注いで傷口を保護し、包帯をしました。
それで終わったのでしょうか。いいえ、彼の家畜に載せて、支えるようにして宿屋までつ
れてきました。途中彼に水を飲ませ、何くれと無く声をかけてくれたでしょう。服を着せ
てくれて「大変でしたね。でももう大丈夫ですから、安心して下さい。もう大丈夫ですか
ら。安心して」この人はユダヤ人と歴史的に仲が悪くなっていたサマリヤ人でした。話を
聴いている内に、怪我をした人がユダヤ人で、介抱してくれた人がサマリヤ人だというこ
とが分かりました。
他の人はユダヤ人とサマリヤ人が仲が悪い。だけどそれが何。サマリヤ人は、このユダヤ
人を助けました。宿屋についてからも彼は介抱してくれました。
旅の途中のこのサマリヤ人は次の日に主人にデナリ 2 つ(2 万)を渡して、介抱してく
れるようにお願いします。そしてもっとかかったら、帰りに払うからというのです。
このサマリヤ人が旅をしている間に、この怪我をした人はいなくなってしまうかも知れ
ません。サマリヤ人は自分にメリットがあるから親切にしたのでしょうか。「可愛そう」
だと思ったからでした。倒れていた人が元気になることが、このサマリヤ人の喜びだった
のです。
昨年の 7 月、わたしは盲腸で入院しました。体調を崩して入院しましたが、最初は原因
が分からず全身の痛み、嘔吐、頭痛、看護師さんに飯田さんという方がいらっしゃいまし
た。本当に良くしてくださるので、「ありがとうございます。」というと「野田さんが元
気になられるのが、わたしの喜びです」と仰ってくださいました。この方はある教会のク
リスチャンだと話をしてくださいました。「元気になられるのが、わたしの喜びです」素
敵なことばですよね。
サマリヤ人は、倒れていた、死にかかっていたこのユダヤ人が元気になることが喜びだっ
たのです。
本当に危なかったのです。猛禽類が襲うことも、野犬や、狼が群で襲うこともあったかも
しれません。
-3-
介抱してたサマリヤ人にとっても危険だったのです。強盗がまたやって来るかもしれませ
ん。
このサマリヤ人はこう言うのです。
帰りに寄りますから、もっと架かったら言って下さ
い。わたしが払いますから。
このサマリヤ人は、倒れていたユダヤ人の親族ですか。いいえ
このサマリヤ人は、倒れていたユダヤ人に何か恩があるのでしょうか。いいえ
このサマリヤ人は、倒れていたユダヤ人に何かメリットがあるのでしょうか。いいえ。
サマリヤ人も、まことの神様を信じている人です。信仰の篤い彼がただ、可愛そうに思っ
て、介抱しただけです。
皆さんイエス様は
このたとえを話されて、自分のただしさを示そうとしていた律法の
専門家に聞きました。「この三人の中でだれが強盗に襲われたものの隣人になったと思い
ますか」
皆さん誰だと思いますか、
祭司?レビ人?それともサマリヤ人?
サマリや人を普段から見下していた律法の専門家は
口が裂けても「隣人となったのは
あのサマリヤ人」とは言わずに、「その人にあわれみをかけてやった人です」と答えてい
ます。人間の傲慢さが感じられます。このような心のかたくなさは私たちにもあるかもし
れません。
正しく導いてくれる、先生がいたら、友がいたらいいのですが、損得で人を図る人もい
ます。自分にとってメリットがあるなら、価値のある人、自分にとってメリットがない人
は価値のない人。
あのサマリヤ人は自分には何のメリットもないのに、回復をただ喜びとした人です。自
分にメリットがないのにも関わらず、かわいそうに思って助けた人です。
実はこのサマリヤ人は、イエス様のことです。
イエス様はなぜ私たちを愛してくださっているのでしょうか。イエス様にとってメリッ
トがあるからでしょうか。イエス様は私たちが何か能力があるから、何か持っているから、
何か得するからあいしておられるのではありません。神様の目からすると、私たちは愛し
い存在です。
間違った道に私たちが進んでいたら、回復をねがっておられる。
人間は、私は元気ですよ。神様なんかいりません、私は成功しています、繁栄していま
す。自分は自分で十分です。
そんな思いを持っている人こそ、神様から離れている人です。
目には見えない罪の鎖にがんじがらめになっている人です。
そのような私たちを救うためにイエス様がこの世にきてくださり、罪から救ってくださ
ったのです。そう、回復を願っておられる方が救い主イエス様です。ハレルヤ。
預言者イザヤは、来たるべき救い主がどんな方がを預言しています。
それがマタイ 12 章 17 - 21 節に引用されています。
一緒に読んでみましょうか。
12:17 これは、預言者イザヤを通して言われた事が成就するためであった。
12:18 「これぞ、わたしの選んだわたしのしもべ、わたしの心の喜ぶわたし
の愛する者。わたしは彼の上にわたしの霊を置き、彼は異邦人に公義を宣べる。
-4-
12:19 争うこともなく、叫ぶこともせず、大路でその声を聞く者もない。
12:20 彼はいたんだ葦を折ることもなく、くすぶる燈心を消すこともない、
公義を勝利に導くまでは。
12:21 異邦人は彼の名に望みをかける。
傷んだ葦
傷んだ葦は折れやすいのです。すっと立っていないで弱弱しい
状態。
→
くすぶる燈心
折ることもなく
今にも消えそうな、どうもはっきりしない状態
→
消すこともない
どんなに愛があるでしょうか、どんなに忍耐があるでしょうか。
イエス様は私たちをあなたを愛しておられるので、忍耐をもって、そう信仰をもって
いるものを責任をもって導いてくださるおかたです。
〇
先週の日本伝道会議
2000 人以上の牧師や日本の伝道を考え、教会、牧師を愛している
信徒が集まっていました。
最後に会長で、インマヌエル中目黒教会のの竿代照夫先生がメッセージされました。
2 コリント 9 章 22 節
弱い人々には、弱い者になりました。弱い人々を獲得する為です。すべての人に、すべ
ての者となりました。それは何とかして、幾人かでも救うためです。
この何とかして、幾人かでも救う為です。を中心にに話されました。
ポイントは二つです。
1,柔軟性を持つ
その人の立場に立つ
自分の原則を曲げないけれども、可能な限りその人に寄り添うようにして
同じ目線で語るという、その人に近づくという態度
同窓会に積極的にでることにしている。
自分の年代だと健康のこと、葬儀のこと
が必ず話題になる。葬儀、将来の不安、死に対する不安。そんなときに寄り添ってイエス
様のことをさりげなく話す。すると
いよ、だけど
教会においでよ。
葬儀はお前んところでやってくれ。と言われる。い
クリスマスに来てくれた人もいる。
2、相違工夫
竿代先生が結婚された時に司式者は以下のところをはなされたようです。
「あなたがたは、魂を救うこと以外の何事にも関わってはならない」、それ故、この仕
事にすべてを費やし、費やされよ。そしてあなたがたを必要としている人々だけで
無く、最も必要としている人々のところに常に行きなさい。
というウェスレーの 12 則に書かれているところから
あなたがたは、魂を救うこと以外の何事にも関わってはならない
とのメッセージの、その「
」ところだけをとって、福音を伝えるときに狭く考えて
-5-
いたと反省をしておられました。
それは福音以外の交わり、つまり集会はしてはならないと思っていたと言うのです。
ウェスレーの 12 則には
罪以外の何ものをも恥てはならない。(時間が許せば)薪ををとってくることから
水を汲んでくること、自分の靴を磨いて、隣人の靴を磨くことに至るまでとかいて
あるのです。
何でも福音のため、薪を取ってくること、水を汲むこと、誰かの靴
を磨くことも。
罪以外のものは大胆に福音を伝えていくことができることを教えられているそうで
す。中目黒教会では
手芸クラス、フラワーアレンジメントのクラス、バイブル&
コーヒータイム、アメリカン・バイブルキルト作り手芸、クラフトクラブ をして
門を広くし、そして福音を伝えていると話しておられました。
この話から、
「それは何とかして、幾人かでも救うためです。」と語ったパウロの思いを私たち
の思いにして失敗を恐れず、幾人かでも救うために前進しましょう。というお勧め
がありました。
非常に印象的でした。
○
よき先生である主イエス様は私たちを励ましてくださる。罪意外のものを恥じる必要
はない、大胆に柔軟性をもって、創意工夫をもって
幾人かでも救いたいという思い持つ
ように励ましてくださっています。
よき先生である主イエス様は、私たちを罪から救い新しくしてくださいます。
私たちが弱く、どうもしっかりしないような状態の時、それはくすぶった燈心、傷ん
だ葦のような状態です。そんな私たちを見捨てず支えてくださって、今日まで成長させて
くださったのが私たちの主イエス様です。
私たちも福音を語っても、なかなか受け止めてくださらない、理解してもらえないそ
んな方に対して、主の愛をもって祈り続けようではありませんか。傷んだ葦を折ることも、
くすぶる燈心を消すこともしなかった主のように。私たちをも主は愛し、新しくし、周り
を照らす世の光としてくださっているのです。
Ⅱコリント5:17を一緒に読みましょう。
誰でもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られたものです。
古いものは過ぎ去って、見よすべてが新しくなりました。
まことの光である神様によって新しくされたものは、もう一度言います。世の光です。
この世を照らすものになっていくのです。
回復したものに、さらに新創造、新しく造ってくださり、この世界を照らすものにし
てくださる。ああ、なんと素晴らしいことでしょうか。私たちは、神様のすばらしさを伝
えることができるのです。主よ、私を用いてください。私の祈りを用いてください。私を
あなたの御用のために用いてくださいと祈ろうではありませんか。
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