第2回(5/7) いつも不仲のパリと地方

横浜市立大学エクステンション講座
エピソードで綴るパリとフランスの歴史
第2回(5/7) いつも不仲のパリと地方
序
世間一般ではパリとフランスはほとんど同じであるかのように解されている。すなわ
ち、パリを語ればフランスを語ったと同じに扱われ、フランスを語ればパリを語ったも
同然というふうに。しかし、歴史的にみると両者は違う道筋を辿ってきたし、その関係
はいつもしっくりいっているわけではない。パリは長くフランス王国または共和国の首
都でありつづけ、その特殊性ゆえに、王朝そのものと対立したり、地方と対立したりを
経験してきた。こうしたケンカは「ヴァロワ王家 vs ブルゴーニュ公」の対立や「王権 vs
三部会」の対立の余波を受けつつ、首都と地方の対決というかたちで幾たびか流血の惨
事を呼び込んできた。
1358 年……エティエンヌ=マルセルの乱
1382 年……マイヨッタン暴動
1413 年……カボシアン暴動
1648~53 年……フロンドの乱
1787~99 年………フランス革命
1830 年……七月革命
1848 年……二月革命
1871 年……パリ=コミューン
しかし、ここではそうしたフランスに特有の政治的騒乱の原因やその諸相をあつかわ
ない。どの国でも見られる都会人と地方人の対抗関係をパリとフランスの関係において
考察することにしたい。
1 「パリジアンと地方人」
(1)
「雅び」と「鄙び」
パリに住む者にとって「地方 province」あるいは「田舎 campagne」は嘲りや蔑みの的
でもあれば、郷愁や賛美の対象ともなりうる。かつてフランス国内でパリから離れて暮
す者は首都パリに対し憧れをいだいたり、反感を覚えたりする。
「都落ち」といううらぶ
れた感情がそれだ。
そもそも「地方」とは実体として存在するのではなく、想念上の空間にほかならない
が、フランスにおける「地方」は、パリという都市が国民国家の「首都」として機能と
表象を獲得するにつれ、
「首都」との関連において構成された概念である。
「首都」と「地
方」のきわめて複雑な表象上の関係はまさしく人々の多様な記憶が織りあげられる場を
なしている。
このことはわが国日本における「首都」と「地方」の関係についてもいえることであ
り、パリとフランスの実例は歴史的に見て日本の先を行っているとも考えられる。
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(2)差別:社交界
社交界の会場で「どちらのご出身ですか?」と質問することほど失礼にあたることは
ない。
「…失礼千万な! あなたとはもうお喋りできない」という意識を相手に与えてし
まう。
「社交界にいること自体が尊厳に値するはずなのに…」を言外に含む。
(3)差別:郵便ポストの投函口(2区分 → 1970 年 → 3区分)
① パリ(Paris) ② 地方 (provinces)
[注]
① パリ(Paris) ② 郊外 (banlieux) ③ 諸県(départements)
[注]
「地方 province」と「田舎 campagne」はほとんど同義の差別語……文化の「欠如」
「隔たり」
「喪失」という意。一方、
「州 pays」と「県 département」は差別語ではない。
「州」は固有の歴史、
特権、制度、行政をもつ領域的単位で、
「県」はフランス革命時に創設された行政単位
*「地方」とは「州」や「県」の足し算ではない
2 なぜこのようなことが生じたか?
(1)中央集権国家(絶対王政)の形成とともに首都パリの機能の肥大化 (宮廷が主導)
* 首都=権力の表象 ⇒ 排除の論理がはたらく・・・それが「地方」である
ドミニク・ブーウール教父の訓話(1692 年)
:
「奇妙なことに、人は笑いながらでな
ければ、あれは地方人だと言うことはほとんどない」
* 社会の宮廷化 ⇒「地方」とは、国王という輝かしい存在の不在の空間……国王の
寵愛を失ったまま生きるこの世の地獄、国内追放の地としての意義。これは都落
ちをさせられた菅原道真の心境に酷似している!
* 地方の生活は①宮廷社会、②パリのサロン、③アカデミーフランセーズから隔離
され、品位ある礼儀作法と美しき言葉の喪失、最新の流行から取り残されること
を意味する。
17 世紀の著名な劇作家のモリエールが、長くパリを離れて活動してきたことを
国王(ルイ太陽王)の面前で詫びたこともある。
* 成り上がり出世組(法服貴族)
・・・パリに身を落ち着けパリ人として認められる
ことを渇望する地方出身者は、自分が出てきた世界と絶縁しなければならない。
⇒ かくて、心ならずも故郷を誹謗するはめにもなる!
「地方」とはあくまで宮廷とパリから離れていることを意味し、パリ以外のフランス空
間がすべて「地方」であったわけではない。
* カーン(Caen=ノルマンディのアテネ)
、地方アカデミーの所在地
* 南仏(ミディ Midi)は極端な「地方性」を意味し、ガスコーニュ人は笑い者の種
となる。←アンリ四世の家系への復讐の意もある。
1650~70 年代は演劇や小説で地方人が笑いの種にされる!
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なぜか? ← 「知」の源であるパリから離れているがゆえにである。
* 地方人と田園人は異なる。パリの奉公人と地方人は同義でない。パリの奉公人は
美しい言葉を喋ることを望もうとさえしない。一方、オートゥイユ、パシー、ヴ
ォー、フォンテーヌブローなどのパリ郊外(田園)は別荘地であり地方ではない。
* パリ人の嘲笑の的となったのは、宮廷の魅力に惹かれながらもまだそのレベルに
達していない者たち……地方の小貴族、裁判所判事、徴税官、衒学者、その他名
士……小説・演劇での作中人物
・ La dandinière(dandin=抜け作)
・ La Prudetri(pruderie=性的事柄をことさらに上品ぶる人)
・ Sotanville(sot en ville=町の抜け作)
・ La Crasse(crasse=強欲)
… 要するに、パリを知り、理解し、模倣したがる人、パリ通(ツウ)として知ら
れたがり屋や度をすぎた気取り屋が蔑まれる。
* 宮廷社会が重きをなすにつれ、地方のイメージが地方にも拡大。パリによって差
し出される鏡のうち、自己のアイデンティティを認める態度。中央の提示するイ
メージに順応したいという、押しつけではない純然たる欲求が地方にも現われる。
(2)新都ヴェルサイユの登場
ヴェルサイユへの首都の移転(1682 年)後、さしあたってはサロンとアカデミーの中
心としてのパリは存続したが、18 世紀初からは(求心力に代わり)遠心力がパリに作用
しはじめる。……ヴェルサイユによるパリ批判
* パリに対する評価の引き下げ
* セバスティアン・メルシエ『パリ生活誌』
:パリをこき下ろす
* 田園を讃える言説
* 地方アカデミーの隆盛
3 パリと地方の覇権争い(政治が主導)
(1)7 月 14 日のバスティーユ奪取 ⇒ パリがフランス全体の導き役として復活
* 県の創出(空間の再編成)⇒ 州のアイデンティティを刺激し、長く抑鬱されてき
た苦々しい感情の解放の機会となる。
* 二重の対立:小都市と主要都市の対立 & 主要都市とパリの対立
* 山岳派政府(1793-94)および統領政府(1799-1804)
、そして帝政政府(1804-
1815)により政治の中央集権化がさらに進み、首都パリの優越化がいっそう明確
になる。
* 1815 年 10 月 13 日付の『官報』
:
「パリはある特定のとしてではなく、全フランス
人にとっての総結集地と見なされるべきである。
」
* 首都=世論の源泉、政治結社ネットワークの中核、地方の教育者
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地方=パリ世論の受容の役割に限定される
* その反動としてのジロンド派(連邦主義国家を唱道)
首都=悪・・・無分別、反逆的、叛乱家輩出、策略・陰謀の中心
地方=善・・・上記の対極
* テルミドール反動(1794 年 7 月)でパリの権力性の再沈下
(2) 復古王政(1815-1830)と七月王政(1830-1848)
(ブルジョア社交界が主導)
この時期は依然として地方人は笑い者の対象でありつづける
* バルザック『田舎のミューズ』
(1837)
:
「地方生活が最もはっきりと刻印されるの
は身振り、歩き方、動作であり、これらにはパリが与えるところの、あの敏捷さ
が欠如しているのだ」
* ジラルダン夫人の『パリ便り』
(1844)
:
「地方人がパリを見出すチャンスをもたな
、、
いのは、地方人は、だれにも開かれたパリの快楽 [注:下賤な意味だが] しか味わっ
、、
ておらず、パリの社交界の喜びを知らないからです」
* 首都はフランスの統一性を生み出す場として、また、国民的なものの表現と聖別
の唯一の空間としてたち現われる。
(3)地方文化の形成
1830 年代の考古学の発展に伴い、小都市の地位はこれまでになく精密さを増し、パリ
の対極としてではなく独自の文化世界をもっていたことが明らかになる。
* 国民の過去を明かす遺跡発掘 ⇒ 消滅した時代が復元可能になる。
(4)イメージの変容と固定化:
パリ=男性……革命思想とバリケード
地方=女性……地方は自分を食いものにしかしようとしない都会パリを憎む反
面、パリの男性的魅力に屈していく存在になる。一方、若者にと
って地方は心の拠りどころとなっていく。…地方は淀み沈んだ挫
折の舞台、失望と忍従の溜まり場
* パリは地方にとって羨望の的でありつづける。社交界の存在と政治・文化の中心
* 「パリ人」になるための3条件
① 人前での礼儀作法の習熟
② パリの生活リズムを採りいれる
③ ほのめかしを解読するコツをつかむ
* 結局のところ、パリによって地方のエリートが奪われたというよりは、むしろ地方
のエリートが否定されたのだ。地方はエリートをもちえない。というのは、才能ある
地方人は「パリ人」へと変身を遂げることによってのみ「地方人」の身分から抜け出
せるからだ。一方、一流の「パリ人」はパリから離れていても地方性の埒外にあると
いう特権をもつ。
(例)城館へ出向く貴族、別荘を定期的に訪れる大富豪
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4 地方の逆襲(普通選挙と交通・経済・文化が主導)
(1)男子普通選挙制の復活(1848 年と 1870 年)は地方に明確な政治的優位を与えた。
* ルイ・ナポレオンが 1848 年の大統領選で圧勝をおさめたのが象徴
* ルイ・ナポレオンのクーデタ(1851 年 12 月 2 日、パリはナポレオンに叛旗を翻し
たのに対し、地方は静観)
* 1870 年の九月革命は地方では支持されなかったし、パリコミューンの制圧は、地
方にとって迷惑千万な存在でありつづけたパリへの復讐の意味をもつ。ただし、
青年層にはコミューン支持派もいて、明確な分裂が認められる
(2) 交通通信手段の発達(鉄道と電信)はパリと地方の時間的距離を縮めたが、却っ
て首都による地方の教導体制を強化した。
* 首都を中核として引かれた鉄道網
* 電信は権力による情報伝達をスピードアップ
* パリ都市改造モデル ⇒ 万博見物の地方人の上京 ⇒ 地方へ都市改造の伝播
(3)1860 年代が一大転換点
万博(1867 年)と工業化・離農現象により大変身を遂げた首都の吸引力は貴族も農民
も田舎を捨てさせる。
① 近隣都市へ行く者
② 軍事・外交の国家的職種を求める者
③ パリ生活で財産を蕩尽する者
③ 労働力として工業を支える者
* 田舎の存在意義は都市、大都会の保養地に変わる。パリは自然に飢えるが地方その
ものには無関心で軽蔑を覚える。パリ人は保養地で自らの存在を誇示し、羨望の眼
を浴びることに喜びを見出す。
* バカンスの習慣が社会の深部に亀裂を生じさせる
* (貧しいため)バカンスに行けない者はパリに残留し、鬱屈した思いに浸る
* バカンスで帰省した者は農民層に隔たりの感情をもちこむ
* 流行服とパリ風生活への憧れが農民層にも拡がる
それまで農村において安穏かつ平和な暮らしをしていた者が「地方人」の意識を
もつ ⇒ パリ見物をはやらせる
(4)大衆レベルでの新たな観光旅行
パリを知りたいと望む地方人はパリの名所めぐり観光を愉しむようになる
① 外面的なもので済ます
② 秘められた中心部(社交界)に入り込むことはない
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③ 団体でおこなう旅行
④ 買春の流行(歓楽のモンマルトル)
⑤ 観光ルートの固定化(パレロワイヤルでの夕食、アンヴァリードとヴァンドーム、
植物園、露店市、劇場、買春)
*
①
②
③
一方、地方人はパリで卑屈な思いもするが、反撃もおこなう
保守派の議員を送りつけ、始終謀反的なパリを監視する
農本主義のイデオロギーを展開
田園小説をはやらせる……自然の力(動物的なもの植物的なもの)に近接している
優位感)
④ 人間相互の紐帯の確認(パリの冷たさに対して地方人の温かさ)
5 パリの優位は不動
パリと地方の関係が根本的に変わったわけではない。成功と立身出世への道筋はパリ
が決める。これが地方のエリートをパリに引き寄せる。パリの社交界やサロン、そして
アカデミーの影響力は地方にまで及び、地方はパリの支部のような形で活動を展開する。
学歴と職歴はパリを中心にまわる。
(1)エリート層の地域固定
①政治エリートが地方化し、②高級官僚集団のパリ化が進行し、③経済エリートでは
パリ化がいっそう明瞭になる
* ベレポック期に首都に設立された同郷者団体
オーヴェルニュ、リムーザン・・・固有の新聞、職業紹介、祭、宴会、婚姻世話 ⇒
選挙に際し故郷からエリートを引き抜き、彼を立候補者を据えることもある。
(2)戦後における特徴
戦後とくに 1970 年代になると、地方人は己を嘲るような表現に対して敏感になり、パ
リ人はそうした表現を控えめにするようになる。
「ローカル local」や「地方的 provincial」
という用語自体が死語になっていく。
* 文化の脱中央集権化を渇望する都市が出現:グルノーブル、リヨン、トゥールー
ズ、トゥールなどのアカデミー
* 情報の時間的ズレが縮小。そもそも情報の時間的ズレがパリと地方を区別する基
本的要件であったが、マスメディアが情報の知徳の同時性を保証することにより
フランスの空間全体をパリ化する傾向に結びつく
* だが、首都に知的エリートが集中する以上、パリの政治的、経済的、文化的中心
性が失われたわけではない。
[注]東京を想起されたい
* EUの事実上の首都としてパリの機能が拡大
(c)Michiaki Matsui 2015
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