本文使用書体／Ro 本明朝小がな Pr5 Book

●本文使用書体／Ro 本明朝小がな Pr5 Book
それは僕がからっぽな生活をしていた頃の話だ。
しの
雨風が凌げるだけまし、という感想しか思いつきよう
のないアパートの一部屋に、見せかけだけの穏やかさ
をたたえたベッド……マットレスはぐずぐずで、身体
を包み込む優しさなんてものはとうの昔に捨て去って
しまっている。ぬるま湯をちょろちょろと垂れ流すだ
くれるように説明する必要っていうのがどうやら僕に
な生活というもののさわりだけでもみんなが理解して
に便宜を図るというわけでもないんだけど、からっぽ
集家よりも希少な存在に違いないだろう。だから特別
心優しい友だちなんてものは風邪薬のパッケージの収
て、東芝の液晶テレビも、村上春樹の文庫本も、タケ
ーターもなければケンウッドのコンポステレオもなく
からっぽというのはとにかく、何もないという一言
に尽きるのであって、この部屋にはＭａｃのコンピュ
ても存在しないんだからさ。
スタブ……設備関係はこんなものでいいだろう？　特
いと
筆すべき愛しい何かなんて地平の果てまで歩き尽くし
けのシャワーに、お湯を張ったことなど一度もないバ
はあるらしいね（それに、このお話には驚くくらいわ
オキクチのジャケットも、ギブソンのレスポールも、
……と切り出して、そのからっぽな生活とやらがど
んなものであるかぴったりと電撃的に理解できる … …
ずかな人々しか登場しないから、僕は精一杯そのひと
の水入れダンベルも、一度買いそろえたものの全く使
ニンテンドーＤＳも、戯れに上腕二頭筋を鍛えるため
あるいはそれを想像しようと頭の体操を始めてくれる
りひとりを印象的に見せていかなきゃならないようだ
っていない絵の具セットもこの部屋には存在しない。
たわむ
……僕自身も含めてね。やれやれ）。
ドーナツの穴よりも空虚な僕の生活。
014
1
疑問ではある。株価がどれだけ値下がろうとも、あな
始まりにそんな儀式を行う必要が、果たして世の中の
り気を滅入らせたり。明るい朝日と共に訪れる一日の
していた何もかもと一緒にゴミ処理施設へぶち込んだ。
たには一生縁の無い人間があなたには一生降りかかる
イン
不景気に殺人に汚職に災害に内憂に外患に……
いきどお
クの臭い漂う紙面に詰め込まれた情報によって憤った
かろうじて携帯電話だけが恐れ多くも生存を許され
ていて、充電ケーブルを繫いだ状態でずたずたな畳敷
こともないいきさつによって殺害されたとしても、一
僕は「何かをする人」であることを、そうあろうと
することを徹底的に拒否し、忌避し、そういう人間ら
きの上に放置されていた。もっとも僕はそれを、この
生訪れることもないような国で戦争があったとしても
しさに禁忌のラベルを貼ってこの部屋にかつては存在
ホワイトホールのような六畳一間から正常な大気圏内
自分の世界に完全に閉じこもってしまうことを選択し
のだった。しかし誤解しないでほしいのだけど、僕は
いうくらい、それほどに、僕の生活は風通しのいいも
りももっと身近な日の当たるところで顔を綻ばせるよ
らっぽでないあなたたちは、そんな遠い世界のことよ
だが、からっぽな僕からひとつ忠告するとすれば、か
……なんて黒帽子めいた問いかけをする必要もないん
かめさせるだけの理由が本当にあなたにはあるのか？
大多数の大人たちに存在しているのかどうかはなはだ
へ通じる神々しい一枚扉のように使用してはいなくて、
ったとしても）
、わざわざその情報を入手して顔をし
（たとえそれで僕たちの国から人とお金が流れ出てい
たわけではなく、その証拠に今時の若者としては珍し
うな出来事に触れるべきだと思うね。
こうごう
こんな電子機器ごときが僕の物語に劇的な … … いや些
く新聞を購読していた。僕は外界の状態を把握するた
細なものであれ影響をもたらすことはありえないって
めに紙面に目を通す必要があった。
015
鏡の家のアリス
閉じこもって暮らしているのではない。ひとりっきり
向かった。あえて繰り返して云えば僕は自分の世界に
畳んで回収袋に放り込むと、顔を洗うために洗面所へ
からっぽでない人々の世界は今日もからっぽな僕の
世界と交差することがないのだと確認した僕は新聞を
般的な人間性でもって生きている方々はだいたい一日
行為に満足するだけの強度を持ち合わせていない、一
仕事で冗談みたいにちっぽけな賃金を貰うというその
そして死んでいくことができる。冗談みたいに退屈な
つ云わない。一年だって十年だって同じ事をして生き
からっぽな僕は単純作業がどれだけ続いても文句ひと
脳味噌も耳も鼻も口もいらないそんな仕事は、まさ
にからっぽな僕にうってつけのタスクだった。なにせ
で永遠に壁に向かっていることに耐えられるほどの強
か、よくもって一週間だけ働くと金輪際物流の仕事に
からっぽでない人々のことはさておくとしよう。
度は持ち合わせていないんだ。それに、ごく最低限の
携わらないということを誓ってどこかへ去って行く。
せて読んだ段落をさっさと記憶から消去してかまわな
い
暮らしを送るのにだってお金が必要だし、自分で稼が
しわ
なくちゃならない。僕は寝間着を脱ぎ捨ててブルゾン
けん
とジーンズを身にまとって部屋の外へ出る。
み
もちろんそんな素敵な職場の人々が僕のからっぽな
人生に何らかの形で関わってくるということはあり得
い。記憶領域というのはもっとすばらしいものごとを
ないから、あなたはたったいま目を細め眉間に皺を寄
物流倉庫にやってきた段ボールの山からひとつ摑ん
で封を開け、中身を全部取り出してから伝票通りの品
覚えるのに使うべきだ。聖歌の旋律とか、麻雀の役の
仕事。
物が伝票通りの個数入っているという事実を確認して
からそれらをもう一度箱の中に元通りに収めて封をし
組み合わせとか、最後に耳かきをした日付とか。
マージヤン
て積み直すだけの作業。
016
にうってつけな表現だったりするのだ。これが。
他に時間を経過させるコマンドを持たない僕にはまさ
くて僕らしくないけれど、なにせ仕事と睡眠と食事の
平日の十三時。仕事は十八時からの夜シフト。時間
を潰す
なんて云い方は実にまっとうな文化人らし
ったほうが正しい動きで人気の無い住宅街を歩く。
仕事のために家を出たといっても倉庫に直行するほ
どの使命感が僕にあるはずもなく、無軌道な散策とい
う道化があなたたちを楽しませるのに許されたたった
何の意外性もなくて申し訳ないね。なにしろ、何か
が壊れていく有り様を伝えるというのだけが、僕とい
れていくんだ。お行儀良く、順番通りにね。
かったのだし、そしてこの生活もまた今からもっと壊
壊れた生活のことを話すことから始めなければならな
してしまったかい？　だけれど、全ての物語は何かが
壊れるところから始まる、という鉄則通り、まず僕の
ては、これくらいでいいだろう。のっけからうんざり
さて、僕についての説明……ひいては、からっぽな
生活というもののうんざりするほどの刷り込みについ
ひとけ
僕は人気の無いあたりを闇雲に歩いて、歩き疲れれ
ば公園のベンチで空を見上げ、もちろんそれで何も得
―
ることはなく、適当に見切りをつけて仕事に向かう。
一つの手段なんだから、あなたたちにはできれば何も
口を挟まないで、それだけを楽しんでいって欲しいな。
ふさわ
それは段ボールの荷物を開けて中身を取り出して元
通りに戻して蓋をする仕事と同等に空虚であって、同
かもしれないしさ。
そっとそのことを教えてください。何かの参考になる
様に僕に相応しい繰り返しだった。
もちろんこんな生活が大好きだと云うわけじゃない。
最高にハッピーだなんて思わない。いや、思えないん
ただ、もし、それ以外に……何かが壊れていく様の
ほかに、あなたの目を楽しませるものがあったのなら、
だ。何せ本当に僕はからっぽだから。
017
鏡の家のアリス

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