偏差値30からのアメリカ独り旅

だが、大学を通過して大学院になるとそうも言っていられなくな
公開コピー誌
る。学会だの論文だのに接するうちに、頭では英語が必要だというこ
偏差値 30 からのアメリカ独り
旅
生のどこかではガイジンのお相手をしないといけないだろう。長い
とが十分に分かってくる。そもそもこの国際社会にあっては、結局人
渡世の間ずっと日本の殻に閉じこもっているわけにもいくまい。そ
して世界の共通語は英語であって日本語ではない。英語が出来ない
と、どこかで大変な目に遭うのは自明の理といえる。いっそ世界戦争
暗黒通信団
でも起きてアメリカあたりが滅びれば、日本語が世界共通語になるか
も知れないが、そういう非現実的な妄想は悲しくなるばかりだ。とも
かくも、こういうフラストレーションを抱えがながら 26 文字の毛唐
注:これは 9.11 以前の旅行記です
の暗号を見ていると、頭が痛くなってくる。おそらく英語が出来ない
大部分の人がそういう悩みを持つのだろう。
前書き
何とかしなくてはいけないと思うが、見るからに続きそうにない英
「アメリカ」という文字列を見て「あぁ、ありきたりでつまらん」と
会話学校にお金を払う気はしないし、英語パブやら教会セミナーに通
思った人がいたかも知れない。「アメリカなんて既に大量の日本人が
うには基礎力がなさ過ぎる。結局、学校の語学センターで友達に見つ
行っていて、もう語り尽くされていて、今更お前に何がいえるという
からないようにテープを聴いたり、電車の中で英語会話のラジオを聴
のだ」と思った貴方、あなたの発想は根本的に違う。なぜなら、本書
くことになる。実際に続ければまだいい方だ。私の場合には終始や
はそもそも旅行解説書ではないのだ。観光の見所や裏技を知りたい
る気さえ起きなかった。必修英語の単位さえ出ればいいやといって
のであれば市販の実用系観光ガイドを買って読むべし。
テスト前の一夜漬けとお情けレポートで切り抜ける。この英語力で
切り抜けられる大学教育も凄いと思うが、仏の教官に当たった我が身
本書は冒険記である。アメリカという世界を知っていれば知って
の強運にも感謝する次第である。
いるほど楽しめるファンタジーのお話だと思えばいい。通常のお話
と違うのは、元ネタが現実に存在するという一点である。残念なこと
まったく惨めである。何かの弾みに英語の勉強をはじめても、ネガ
に、本書にはドラゴンもホビットも出てこないが、そうかといってこ
ティブな思考で取り組んでいる限りろくな成果は出ないもので、挫折
こに書かれた冒険はそうそう誰でも体験できるものでもない。
経験がますます語学から逃避する原因になる。どんな場合でもそう
だが、この種の悪循環を断つには、原因を考える他はない。自分の場
あなたは英語という科目が得意であろうか? 得意ならば何も問題
はない。だが、もし何かの理由で英語が苦手で、しかも外的圧力で英
合、なぜ英語が出来ないのかと言えば、英語の勉強を怠けたからだ。
語圏に行かざる得なくなったら、どうするであろうか。にわか仕込み
あたりまえだ。そこまではいい。だが、なぜ怠けたかというと、これ
の英会話学校に通い、使い方の分からない電子辞書を買いこみ、偉大
がちょっと一癖ある。一言でいえば、英語とその背景にあるイメージ
なる未知の世界に怯えながら飛行機に乗り込むのだ。難題は我が身
が悪すぎたのだ。
いつの時代にも学校には不良生徒がいるものだが、自分が小学校の
に降り懸かれば大変だが、他の人の苦労話を眺めるのは笑える話だ。
頃には、不良生徒はやたらに英語を使うことを好んだのである。当時
その程度にお気楽に読んでもらえれば作者として本望である。
前置きはこのくらいにしよう。本書の大部分は旅行先の空き時間
は、今でこそ死語(いや、化石語だ)となっている「ナウい」とか「ヤ
で書いたものをベースにしている。帰国後に得た知見、感想等は原則
ング」などといった不気味な和製英語が徘徊していた時代である。善
として脚注としてある。それでは、グッドラック!
良な一般生徒*1 であった自分は、肌に合わないカッコ付けの不良生徒
を毛嫌いしていた感がある。当然、英語自体にもこれ以上ないという
ほど否定的なイメージを持っており、英語を使うアメリカやイギリス
1 このタビのいきさつ
●
は地上最悪の不良帝国とさえ思っていた。
こんな状態で英語を学びはじめても身にはいるわけがなく、却って
1 英語
◆
授業が自分を不良に導こうとしている、というような惨めな被害妄想
本書の原題は「20 台からのアメリカ独り旅」である。20 代ではない。
に陥っていく。知識として英語が必要だということを知っていても、
偏差値 20 台である。それではあんまりだという多少の見栄もあって
イメージが悪いと全く身に入らず、語学というものはそもそも努力科
四捨五入し、無理矢理 30 にしたが、本当のところ、私の英語力は全
目であるがゆえに、成績はどんどん落ちこぼれてゆく。それは先生が
力でセンター試験を受けても偏差値 20 台である。これは「英語が苦
悪かったわけではない。英語の先生は皆、とても分かりやすく人間的
手」というレベルを超えている。4 択式試験の本番で 200 点満点中
にも尊敬できる先生だったのだが、なんせ科目自体のネガティブなイ
50 点を下回る。御期待通りに、期待値以下である。何も考えずに適
メージはそれを遥かに超えていた。アメリカが嫌いだから英語が嫌
当にマークシートを塗りつぶしている人よりもできないのだ。英語
い。英語が苦手だからアメリカが嫌い。…笑い話のような悪循環だ。
力はマイナスといっても過言ではあるまい。ここまで来ると肝も据
結局のところ、中学の最初で失速してから大学を脱出するまで、英
わったもので、大学受験の時には英語は最初から最後まで何も勉強せ
語で満足のいく成績を取ったことはただの一度もない。全ては及第
ず、最初から最後まで成績は最悪だった。
ギリギリのお情け進級で、大学入試センター試験では自己採点で偏差
*1
*2
って何?
これは誇張でも何でもない。実際には 30 未満だ。
1
値 30*2 をマークし、本番の入試ではほとんど白紙提出だった。
ケットを受け取る。「おめでとうございます」とマイクを突きつけら
こんな自分に英語への目が開いたのは、あるパソコン通信の集団で
れて、とっさに良いジョークが思い浮かばなかったので、月並みに
その話が出たときのことである。私がいつものように「アメリカなん
「ありがとうございます」と言ったことだけは覚えている。当たった
て大嫌いだ。ジャンクフードといい、傲慢な外交といい、貧富の差と
チケットは「アメリカ西海岸まで往復 2 万円」だった。相場*4 の分
いい、国土と軍隊と態度が大きい以外に、どこもいいところのないサ
からない人間にも激安と分かる値段だ。しかも滞在期間の指定がな
イテーの国家だ」と言い放っていたところに、外語大を出て翻訳家を
かったので、かなり自由にプランが組める。チケットの質はよい方で
している人が猛反発してきた。「行ったこともないくせに偉そうなこ
ある。
とを言うな」というわけである。「本で知った聞きかじりの知識で、
好き勝手を言いやがって。そもそも、あんたの思考は極めてアメリカ
3 ニューヨーク
◆
的だ」とまで言われたら立つ瀬もない。「それじゃぁ、そのうちアメ
しかしだ。
リカにいった後で徹底的にこけおろしてやるからそれまで首洗って
西海岸というのは問題だ。ロスかサンフランシスコである。イン
待ってろ」と言い放って、議論(喧嘩)は終わった。そしてそれ以来、
ターネットで惰性的な検索を行いながら、真っ先に思いついたプラ
地上最悪の不良帝国をこの目で見るこということに、少しは興味を
ンは中南米への旅行だった。インカ帝国の秘宝を見に行くのである。
持っていたのである。それ以前は、「海外旅行などというものは金持
しかし、これには 2 つの問題があった。一つは言わずと知れた費用で
ちの道楽で、あるいは異性の前でいいカッコしたい阿呆の道楽で、所
ある。はっきり言って「高い」。いくらなんでも現地の移動費用が太
詮英語もできない学生のやることじゃない」と思っていたのが、「英
平洋を飛び越える 2 万円を上回るのは余り気分のいいものではない。
語が出来ないからこそ行く価値があるのではないか」という思考に
しかしそれにも増して、中南米が世界最強の治安と衛生を誇る地域
180 度転回をしたのは我ながら驚異的である。
であるということが重要だった。いくら無謀な人間だといっても、さ
すがに英語の出来ない海外初めてのガキがひとりで行けるところで
2 抽選会
◆
はない。川下りをしていて殺された早稲田の学生だって 2 人で行っ
皮肉なことにチャンスはすぐに来た。
ていたではないか。
就職活動用にと届いたリクルート社の巨大なカタログの中に、STA
するとどうするか。大人しくディズニーランドにでも行って適当
トラベル社が学生向けに春休みの旅行の説明会/タダ券の抽選会を
に遊んでくるか。せいぜいカリフォルニア大学にでも行って、バー
やるから来いという案内が入っていた。ご丁寧にも、入手した無料冊
クレー UNIX の開発者に会って話を聞いてみる程度しか思いつかな
子にはすべて目を通すという、生来の貧乏根性が幸いしたといえる。
い*5 。しかしそれは余りにもったいない。ハワイではないのだ。アメ
もっとも、当時自分にはバングラディシュに行く計画があり*3 、イン
リカ本土だ。学業を本分とする学生であるならば何らかの「勉強」を
ドあたりの安い航空券でも当たらないものかと思って資料集めに出か
してくるべきだ。…俺って昔はまじめだったんだ。(羨望)
けていくことにした。といっても、13 時頃から 3 時間も説明があっ
そこで重い腰を上げ、池袋の STA トラベル本社に出向いた。多少
たのに、何となくダラダラしていて、説明会会場に着いたのは終了 30
のお金は出すから東海岸までのチケットに変えてくれないかと頼む。
分前、抽選会開始の 3 分前である。まったく、とことんなめくさって
我ながらなかなかの無茶だ。アメリカの中心はやはり東海岸だ。それ
いる。
に東海岸には高校時代に同じサークルだった M 氏が留学していて、
どうせ当たらない抽選会だと思っていたので参加する権利などと
宿代が浮きそうなのであった。担当氏はユナイテッド航空*6 に電話を
うに放棄しており、とりあえずパンフレットだけ貰おうと思って椅子
かけ、何かしらの謎の交渉がなされた。そして、結果的には 1 万円
の最後列に腰掛けて半分居眠りしていたら、ひとりの社員嬢が「せっ
上乗せでニューヨーク行きが OK された。結局その日は、営業時間
かくいらしたんですし、まだ間に合いますから抽選会に参加してみま
を遥かに超過して担当氏を 6 時間以上も拘束し、海外旅行の超基本
せんか」といって投票用紙を渡してくれた。これに住所氏名学校名を
から、「どこをどう観光するか」とか「安全はどうなのか」とかを思
書いて箱に入れ、司会者が前で箱から適当に取り出すのである。実に
いつく限りの質問を浴びせた。そりゃあそうでしょう。不安なのだ。
公平なシステムだ。
心の準備もできないうちに唐突にチケットだけが出現したのだから。
景品は何種類もあったが、抽選の度に当たった当たらないで一喜一
憂する学生集団を見て「つまらんことで騒ぎおって。これだから日本
4 準備
◆
が不況になるんだ。それとも全員サクラなのか?」などと思っていた
のは口が裂けてもいえない。
古いリクルートの冊子を出してくる。このあたりに、海外旅行基礎
そんな状態だったから、自分の名前が呼ばれたときにはまさに寝耳
知識の特集があったはずだ。私の部屋は超整理法*7 なので検索は容易
に水だった。「え、俺すか? 冗談でしょ」という感じで、1 秒ほども
c 麻原。必要な品は、パスポート、航空券、ク
である。あったあった⃝
呆然としてしまった。当たった人間は壇上に召されて、ありがたくチ
*3
*4
*5
*6
*7
*8
*9
レジットカード、ビザ、現金…。なるほど。
JICA の知人が盛んに誘っていたのだ。実際にバングラディシュ旅行は実現した。そのうち旅行記を書きたいですねぇ。
テロ以降の相場だとどうってことないが、当時のチケット相場からすると、どう頑張っても普通なら 6 万弱といったところか。
今思えば、英語力ゼロでどうして話を聞けると思ったのかは甚だ謎だ。
倒産したんだっけ?あれ?
要するに古い順にただ積み重ねているだけ。
当たり前といって笑わないように。初心者はそういうことも知らない。
これはその時代の話である。
2
アメリカは査証協定なる概念があって、ビザは要らないらしい*8 。
トがある。リムジンバスもあるし、車でもいい。が、最初の海外旅行
カードはパソコン通信*9 の支払い用のカードがある。航空券は旅行会
では電車を使った。我孫子駅から成田線という鉄道があって、一発で
社の担当氏が手配してくれるだろう。すると必要なのはパスポート
いけるからだ。まぁそんなローカルな話を書いても仕方ないか。
だ。三箇所に電話をかけて取得方法を搾り出し、近くの旅券所まで出
飛行機の出発は 18:40 となっている。腰が痛くなるほど接続の悪
かけ、時間ぎりぎりに申請してきた。うまく行けば間に合うし、間に
い JR 成田線を乗りつぶし、成田空港第二ターミナルに着いたのは午
合わなければ旅行は中止だ。もう投げやり。
後 4 時前だった。だいたいターミナルといえば「バス停の塊」しか想
像できない民間人が、成田空港にはターミナルが 2 つあるとか、飛行
旅の準備はまず、情報集めだ。情報集めはインターネットである。
goo*10 でニューヨークやらボストンやらの検索をかけ、日本人の書い
機会社が云々といったことを詰め込まれても理解できるはずがない。
た旅行記を見る。先人の知恵は大いに使うべきだ。それからおもむ
もっともこの時期は更に事情が複雑だった。当時成田空港は改修工
ろに、M 氏に「泊まらせてくれ∼」というメールを送った。期日指定
事のため、一つのターミナルですべての発着をまかなっていたのであ
付きの返事はすぐに来た。曰く、現在は M 氏の友人が泊まっている
る。そんなことはインターネットの旅行記には書かれていなかった
ので、彼が去ってからだという。はっきりって、初体験にしてはあり
し、この時点で不安の積乱雲がもくもくと立ちこめた。
得ないほど、準備をしていなかった*11 。
さらに困惑したのは、飛行機会社の問題だった。自分が乗るのが
ユナイテッド航空 (UA) だというのは分かっている。だからその会
社のカウンターにいけばいいというのも分かる。だが、実のところ、
2 出発
●
カウンターの半分以上には「日本航空」と書かれているのだ。当時、
UA のカウンターは眼前に存在しなかった。広大な出発ロビーの大地
を隅から隅まで駆けめぐり、UA カウンタが存在しないことを実証し
1 空港まで
◆
てから、途方に暮れる。不安げに、そこいらを行き来する警備員に尋
ね尋ねて、日航のカウンタでチケット発行を代行していることを知る
大体、春というのは忙しい。前日は大学のコンピューターサークル
には、その後 10 分もの時間が必要だった。余談になるが、ここでは
の打ち上げ会があって午前様の帰宅である。当然、旅行の準備なんて
国際空港自体が初めての人向けに、少し成田空港のシステムについて
していない。というより、気乗りしないために準備をする気が起きな
も書いておこう。
い。「どうせ相手は先進国だし、足りなければ現地で買えばいいっす
1. まずは電車を降りてホームのエスカレーターを上がると、い
よ」などという、馬鹿か大人物かわからないような構え方で、パソコ
きなり銀色のポールの列がたっている(改札ではない!)。後
ンゲームに興じる。過去に何度もそうだったように、出発当日ぎりぎ
で知ったが、これは空港内で無料利用可能なカートを列車に
りになってから準備に慌て始めるのは、何だか試験勉強のようだ。
持ち込ませないための柵である。柵をすり抜けて改札を出る
実は、国内旅行には少し自信がある。過去に何度かヒッチハイク
と、いきなりものものしいゲートがある。いかにも国際玄関
的なものをこなしていて*12 、旅行用の持ち物マニュアルを作ってあ
「成田」という感じだ。両側に係員が立ち、パスポートの提示
る*13 。で、海外だろうが国内だろうが、旅行など似たようなものだ
を求められる。指名手配の人間などが海外に逃げ出さないた
ろうという、言葉の上では真実と思える文言に則り、国内用の準備を
めの防衛線であるように思えるが、結構チェックは甘いので、
そのまま利用することにした。ただ、ニューヨークやボストンは東京
単なる時間稼ぎにしか機能してないかも知れない。
よりも少しばかり高緯度になるので、防寒具が必要かもしれないとい
2. それを越えると、エスカレーターである。4F まで延々と重い
う点に気づいたのは、後で思えば唯一の救いだった。NHK の「世界
荷物を持ってエスカレーターに乗るのだ。この時点で「荷物
の天気」*14 を斜めに見つつ、適当にアメリカっぽい派手なジャンパー
は軽い方がいいな」と思った。いくら海外旅行で不安だから
を放り込む。
といって、ごちゃごちゃ詰め込むのは得策ではない。プロの
結局パスポートはぎりぎりで取得できた。これは運命の GO サイ
トラベラーは荷物が少ない、とは誰の名言だったか*16 。
ンだなどと勝手に解釈し、カメラのフィルムを 10 本も抱えて、海外
3. エスカレーターを登り切ると、巨大な空間に出る。世に「チ
旅行用の、あのいかにもと言った感じのローラーケースに詰め込ん
ェックインカウンター」と呼ばれるものだ。チェックインと
だ*15
いうと何だかホテルのようだが、日本語では分かりやすく訳
すなら「搭乗手続き」である。要するに利用航空会社のカウ
ンターで、予約券を実際の搭乗券に替えてもらうのだ。座席
2 成田
◆
番号などはこの時点で確定する。
「国際線 2 時間前」というの
は、このカウンターに来るまでの時間であり、「搭乗手続き」
住処は千葉県北西部だ。そこから成田に行くにはいくつかのルー
*10
http://www.goo.ne.jp 当時 goole はまだない。
*11
「地球の歩き方」の存在すら知らないド素人である。よくぞ単身乗り込んだわな。若いっていいですね!(羨望)
知る人ぞ知る東海道や常磐道の自転車走破とかですね。
付録に付けておきました。
自分もついにこれを必要とする時が来たのかと思うと、妙に感慨深いのである。だいたい旅というのは、準備をしているうちはそれなりに楽しく、準備が
終わった頃に不安になってきて、出発直前が一番不安で、出発してしまうと怒涛の体験に圧倒されて我を忘れるものである。
余談だが、この準備の時点で「言語が通じない」ということを甘く見すぎていた。あとで現地で準備不足に泣くことになるが、それはまたその時のお楽し
み。まぁいいんですよ、結局こうした旅行記が書けてる以上、生きて帰ってこれたんだから。
メーテル。
*12
*13
*14
*15
*16
3
は通常、離陸の 2 時間前に開始して離陸 1 時間前で打ち切ら
搭乗口の前だ。なんと言うことか。いきなり出発が遅れているの
れる。つまり離陸 1 時間前を切ったあたりで予約券をもって
である。18:40 分発が 19:20 発らしい。普通、JR の感覚だと交通機
ノコノコ現れても手遅れということだ。
関は時間に正確なのだ。交通機関の帝王たる航空機が時間にルーズな
ただ、現実的には 2 時間前に行っても 1 時間ほども待たされ
はずがない*23 。これはきっと、墜落の予兆か、それともハイジャッ
るので、賢い人間はわざと 1 時間前ギリギリに行って、
「すい
クの予兆か。
ません、急ぎます∼」と叫んで、並んでいる人民をすっ飛ば
「どうして遅れてるんですか?」
「機内の清掃が遅れております。終
した方がいいかもしれない。次回からはそうしよう。
わり次第(以下略)」
4. 無事に搭乗券をゲットして大型荷物を預けたら、エスカレー
気を取り直してモバイルギアを起動し、旅行記を打ち込み始める。
ターで下におりる。そこでは空港使用税(2040 円)という
が、すぐさま不安にかられて電源を切った。なぜか。そう、時折流れ
ものを徴収される。海外旅行というものは、何かと細かいコ
る英語のアナウンスが全くと言っていいほど理解できないのだ。単
ストがかかるものなのだ。紙に必要事項を書いて 5 分ほど並
語の断片すら分からない。カセットテープを三倍速で逆回しにした
ぶ*17 と、政府の役人がパスポートを睨みながら
5 秒ほどでバ
ほうがまだ聞き取れるだろうというほどに、不規則に挿入される巻き
ンバンと判子を押してくれる。これで出国手続き完了。審査
舌は、まさにバイナリ通信そのものである。加えて、謎のアジア人が
官の後ろ側に抜けると、そこはもう免税領域。なお、空港のX
やたらに多い。日本発でニューヨーク行きの飛行機なのに、待合いロ
線チェックは、荷物をあづける時と、最後の搭乗のときのみ
ビーで聞こえてくるのは、韓国語やら中国語ばかりである。時折聞こ
だ。これで武器や麻薬の流通を阻止できるのか、実に不安だ。
えるのは英語であって、実に日本語は全く聞こえない*24 。
英語劣等生のコンプレックスは 100 トンプレス装置のように襲っ
こういう感じだ。免税領域というのは、もう法的に「国外」の扱いな
ので、誰かに撃たれると処理が面倒だ*18 。「ここはもう外国なのだ」
てきた。どうか話しかけられませんようにと、まるで深海の底の亀の
と肝に銘じ、細部に神経を配らないといけない。緊張と不安と少しの
ように縮こまり、目立たぬようにコチコチに固まってじっとする。コ
後悔が否応なく高まる。といっても、周囲からみれば単に気合いの
ミュニケーションどころの話ではない。誰とも目を合わせないよう
入った不審者にしか見えない。
に時計ばかりを見る。それは、不安げにジェットコースターを待つ小
「免税店」というのは魅力的な単語だ。少なくとも当時は市中に溢
学生のようだ。
れている単語ではなかった*19 。で、予定 12 時間という長大な飛行の
搭乗口は断頭台のようだった。誰がわざわざお金を払ってこんな
あいだにお腹が減って眠れなくなるに違いないと考え、空港の安い免
受難に身を置くのか。日本語と英語で搭乗開始が宣言され、一段がぞ
税店で何か弁当のようなものを調達しようと考える。だが、それは大
ろぞろと立ち上がると、自分も目立たぬように立ち上がり、この上な
いなる誤りなのだ。だいたい免税店にあるものは、お酒と化粧品ばか
く、さもベテランのトラベラーの振りをして、チケットを差し出し
りだ*20 。一応ドリンクサービスも存在するが、通常の飲食物なら巷
た。張りつめた神経は一瞬を見逃さなかった。彼らアジア人団は日
のコンビニの方が遥かに安い。食料はあらかじめ家からもっていく
本語の案内ではなく、英語の案内に反応して立ち上がったのだ。もう
か、買い込むなら出国前に買うべきである。しかも一度免税領域に突
日本語の命綱はちぎれる寸前なのだ。スチュワーデスのお姉さまの
入ってしまうと、もう戻れない。結局、「コアラのマーチ」とアイス
笑顔は、すべてを見透かされているようで気持ち悪かった。離陸の時
ティー*21 、アーモンド一袋を免税領域で買いこんだ*22 。
の感想も、きっとアメリカで撃ち殺されて二度と戻ってこれないので
はないかといった感じだった。旅行というよりは亡命の方がしっく
時間に余裕があるので家に電話をいれる。「これから出発だからぁ
りくる。
∼。あ∼、うんうん、全然問題なし」
。実は、心を覆う不安の雲は、も
う土砂降り寸前で、できることならこのままダッシュで家まで逃げ帰
りたいのだが、そこはそれ、明るく振る舞っておかないと、本当に理
4 そして機内へ
◆
性の一線が切れてしまいそうだ。
日本発の飛行機だから、機内の案内くらいは日本語でやってくれるだ
どこに行くにもやってくる、この漠然とした不安は「デパーチャー
ろうと考えていたのが、そもそも甘いのだ。国際線というのは乗った
アンニュイ」とよんでいる。しかし実は、そんな不安など、その後
瞬間に公用語が英語になる。英語以外は全く通じない。ましてやア
にやってくる現実に比べたら、取るに足らないほどの序の口だった
メリカの航空会社だ。日本語などという東洋のローカル言語など、傲
のだ。
然として聞く耳持たない。あらゆるアナウンスは英語のみで、しかも
面倒そうに一回しか話すのみだ。ご丁寧に二回も喋ってくれる英語検
3 ロビー
◆
定やらセンター試験が、いかに恵まれた環境かを思い知った。考えて
みればそれはそうだ。日本の機内アナウンスだって、同じことを同じ
*17
*18
*19
*20
*21
*22
*23
*24
あたかも免許センターの更新手続きのようだ。
どうしてこういう発想をするかなぁ。空港というと、ハイジャックと過激派しか思い浮かばないのは、変な外国映画の見過ぎだ。
今ではあちこちにあるが。
これは世界のどこに行っても共通する傾向だ。シンガポールとか特殊なハブ空港以外は、免税店に期待するものなど何もない。成田などまだ雰囲気が明る
い方で、ロシアのシェレメチェヴォ空港なんて独特の陰鬱な雰囲気の中、くそまずいレストランとレートが狂ったコンビニしかない。ま、それは別の話。
飛行機内にコップがないことを予想して、カップを持ち込むために買ったが、それは杞憂だったようだ。
しかし、後で述べるように飛行機ではこれでもかというほどに飲食物が配られるので、これらは無駄な買い物となってしまった。まったく、全てが初体験
である。
笑わないように。
後から知ったが、日本人の初心者は素直に日本航空に乗るのだ。
4
言語で繰り返したら、怪しいだけだ。そう思うとますます悲壮になっ
人間同士の距離が近いということが、これほどのストレスになると
てくる。要するに、ありとあらゆるメッセージが絶望的に理解できな
は思わなかった。英語が話せる人間だと分かった瞬間、彼らは敵だっ
いのだ。しかも今まで移動手段が青春 18 切符ばかりだったから、国
た。そんな人間が両隣に座っているということ自体、凄まじいストレ
内線もろくに乗ってないわけで、飛行機の常識も分からない。だいた
スだった。何も話さない。会話は全くない。両隣は優雅に英字新聞
いトイレがどこにあるのかも知らないのだ。自分はこの先一週間も、
などを読み、あまつさえ繰り返しやってくるスチュワーデスの空爆を
耳栓状態で未知の大陸を生き抜かねばならない。何だかとんでもな
巧みに利用して、ワインのお代わりまでしている。何か対抗しないと
いことに手を出してしまったのではないかと、後悔の念がこんこんと
圧殺されてしまう。コチコチの体を徐々にとかし、永劫とも思える時
沸き上がる。脳はとりとめないネガティブ思考の連鎖で、既にデッド
間を待ち、右隣のサラリーマンがトイレに行く機会を待った。そして
ロック状態。だいたい普通、若者の海外旅行などというものは、誰か
やっとの事で日本語の文庫本を取り出すことに成功したのだ。さり
友達だか恋人だかと行くもので、他愛のない会話でもしながら、優雅
げなく自分が日本人で、日本語使いなのだということを誇示し、次な
に空の旅を楽しむのだ。それがどう転んで、ロケットに乗せられたラ
るステップへの免罪符としようという野望である。もちろん小説の
イカ犬みたいに、右も左も分からない悲壮な打ち上げを迎えるのか。
中身なんて上の空だ。上下逆に開いていたかもしれない。
席に座って唯一救いに思えたのは、両隣がどう見ても日本人のビジ
だが、その遠大な計画も小一時間であっさり轟沈する。ジュースの
ネスマンだったことだ。あの韓国旅団だったらどうしようと心底心
次にきたワゴンは、真に恐怖すべきものだった。そう、機内食であ
配していた。きっと、あの快活なノリで話しかけられて、英語を全く
る。だいたい国内線では機内食というのは存在しないのだ。例え沖
理解できないことを暴露され、密かな笑い者になるのだ。そして日本
縄行きの便ですら出ないのだ。全く未体験の領域なのである。多少
の若者は英語もできないのだと、本国に帰って噂の種にされるのだ。
経験のある人なら、多くの優良な航空会社では事前にメニューが配ら
なんと悲惨な話だろう。それに比べれば、日本人(らしき人)が隣と
れ、来るべき英会話の大決戦に備えて、心の準備ができることを知っ
いうのは実に救われていた。
ているだろう。しかし当時の UA にはそんなシステムはなかった。
だがそれは程なく裏切られる。出発してしばらくするとジュース
ぶっつけ本番なのだ。そして、もう少し経験のある人なら、どうせ機
が配られるのだ。このイベント自体は知っていた。だがそこに、英会
内食の選択肢なんて、ビーフかチキンかポークしかないことも知って
話*25 が襲来することを失念していたのだ。おそらくあとで冷静に考
いるだろう。しかし初体験の初心者がそんな常識を知るはずもない。
えれば「お飲物は何にしますか?」とかいった普通の質問だったろ
機内食は飲み物の他に、メインディッシュを何にするかも選択しない
う。だが、心拍数 100 以上の状態で、まともな思考ができるはずはな
といけないのだ。そのためには選択肢を聞き取らねばならないのだ。
い。(来るな、来なくていい!)という必死の願いも空しく、ワゴン
こんな恐ろしいことがあるか?
はやってきて、欧米人特有の、あの、こちらの目をストレートに見な
またも、猿真似計画発動である。主体性は最初から放棄する。どう
がら、何事かの英語を話しかけられるのだ。それはまるで魔王か裁判
せ何を選んでも死ぬわけではないでしょ。そこで、この上ない集中力
官に睨まれるようだった。
を傾け、隣の返答に耳をそばだてる。質問の長文は確実に聞き取れな
隣のサラリーマンは、さも当然という風に「コーヒー」と答えた。
いから、返答の一点に賭ける。だがなんと言うことだ! 隣の人の反
発音としては「カフィ」に近かったか。その発音は、かつて間違って
応は冷酷なまでに長かったのだ。あとで出現したものを見れば、おそ
テレビをバイリンガル放送にしてしまった時のアメリカ大統領の発
らく「メインはビーフ、飲み物は紅茶で」とかそんな感じだったろう。
音くらい、ネイティブっぽかった。裏切り者!と思った。日本人のく
しかしそんな長い語句が食器の音でうるさい機内で聞き取れるわけ
せに、こんなにうまく発音して!
がないではないか。自分の番がきた!どうする!?
隣に座っている自分は、もう真似するしかなかった。何事かを問
この時、私の脳に去来した必殺技は、まさに神の一手だった。右を
いかけられたら、中身に関係なく、プログラムされた人工無能のよ
示して「The same」である。この用語の大事な点は巻き舌の R が
うに、「カフィ」とだけ答えるのだ。もう人権は捨てた。自動応答ロ
入っていない点だ。だから発音が少々下手でも、何とか通じる。オレ
ボットに堕ちて呪文を詠唱すればいい。きっと、実にそっくりな発音
ンジジュースよりは楽なのだ*27 。スチュワーデスはろくに会話もな
だったろう。だがここで白状しておく。私はコーヒーアレルギーで、
しに機内食を並べ、次に通り過ぎていった。
カフェオレ 1 杯でも丸一日眠れなくなる体質なのである。ちなみに
小さな頃、初めて一人で電車に乗ったときのことを思い出す。人々
緑茶なら何リットル飲んでも平気だ。この選択のせいで、後に眠れな
の視線が気になって、あいた席に座ることすらできなかった。今回も
くなり、悶々とした夜を明かすのだ。
同じだ。週刊マンガ並みの大逆転で切り抜けたものの、隣との関係は
心底後悔した。オレンジジュースといえばよかったではないか。で
以前より厳しくなった。とにかく出されたものは食べるしかないか
も、「オレンジジュース」のネイティブな発音*26 など出来るはずがな
ら、できる限りお隣様に接触しないようにそそくさと食べ、文庫本に
い。だから自分の選択は間違いではなかった。いや、こうして現に眠
戻る。気流スポットのせいで船舶並みに揺れる飛行機。その中を必
れなくなってるではないか、だいたいどうして中学一年の単語がちゃ
死にトイレを耐える。なぜか。トイレの場所は分かったが、その表示
んと自信を持って発音できないんだ。俺、大学生だろ? なに間抜け
が分からないのだ。時折点灯する「Occupied」って何だ?
なこと言ってるんだよ…
またもデッドロックに陥った。恥ずかしくて辞書を取り出せない
*25
これも、ここから先も、まともに英会話といえるほど大層なものは何一つ出現しない。
中学一年で習う範囲。
*27 じゃあアップルジュースはどうなんだ、とか言わないように。
「アップル」も中一単語の割に発音が難しいものの一つである。一般的には機内のジュース
で一番発音が楽なのは「トマト」である。
*28 そして実際その通りだ。
「使用中」っていう意味ですね。
*26
5
のだ。そう、きっと飛行機に乗り慣れてる人には常識に近い用語で、
ポートを差し出すと、ガードマン氏はギロリと睨み、「ジャバニーズ
そんなのをいちいち辞書で調べてたらただの間抜けなのだ*28 。しか
ゼアー」と言って別の窓口を指した。赤銅色の腕は筋肉隆々。逆らっ
し常識的に考えて、食事付きの 10 時間近い飛行をトイレなしで済ま
たら片手でつまみ上げられそうだ。この迫力こそが犯罪抑止力。力こ
せられるはずがない。どこかでこの単語を理解し、突破しないといけ
そパワーのアメリカならではだ。しかし、「US Passport」ってそう
ないのだ。起死回生を賭けて、手提げを取り出し、それごと持ってト
いう意味だったんですね。アメリカに行くパスポート*30 じゃなくて、
イレに向かう。そしてトイレの前でこっそりと辞書を取り出すのだ。
アメリカ人のパスポートなんですね。振り出しに戻って並び直し。
こんな話を延々に書き連ねても無駄だろう。あらゆる場面におい
入国自体も一筋縄ではいかなかった。自分の番になって窓口にパ
て変な意地と暗号読解に神経をすり減らし、ついに一睡もすることな
スポートを差し出すと、入国審査官のオバサン氏は上目遣いで私の
く、短い夜の領域をくぐり抜けた。アラスカの密林を下に見ながら、
顔を睨み上げ、高速言語で何事かを発信した。理解不能。約二秒間の
これまた短い昼間の領域を飛び、現地時間の 17:10。飛行機はいつの
返答猶予期間を無駄に流すと、審査官氏は単語が聞き取れないのだ
間にか遅れを取り戻し、予定通りにニューヨークに着いたのだった。
と判断し、露骨に不機嫌になった。そして手元からバッと紙を破り、
タイヤが滑走路に着いたとき、地球の反対側まで単身乗り込んでし
そこに「Occupation」と殴り書きして、機内で書かされた謎のカー
まった不安が胸一杯に広がった。何かあっても、もう簡単には帰れな
ドとともに突き返した。書類不備だろうか。occupy というのはトイ
い距離だ。コミュニケーション不良に起因する何かの冤罪で捕まっ
レに人が入ってるかどうかということだろう?*31 それがどうしたと
ても、釈明すらできないのだ。こんな状態で、無事に生きてこの国か
いうのだ。…いや、そうではなかったのだ。彼女は幼稚園児でも分か
ら帰ることができるのだろうか?
るくらいのロースピードで、こう言った。「ウヮッツ、ユア、オキュ
ペーション!…ユアジョブ!」おぉ、なるほど。ジョブなら分かる
ぞ。ファイナルファンタジーに出てきた。
3 ボストンへ
●
それからは筆談の連続だった。
「どこへ泊まるのか」
「まだ決めてま
せん」「それじゃ入国できない、帰れ」「無理っす」「じゃあ今すぐ決
めろ」そんな高級な英会話を空気振動だけで処理できるものか。結局
1 入国
◆
それまで一人平均 10 秒で終わらせていた入国審査に、私だけは 5 分
以上を費やした。全身汗だくである。ここまできて日本に強制送還
ニューヨークの国際空港はケネディ空港という。JFK と略される
されるわけにはいかないからと、M 氏の住処を指さし、あらん限り
らしい。現地に着いてから知った。というより、そうなのだろうと推
の単語をぶちまけた*32 。
測した。当初の楽観的な予定では、少しはニューヨークを観光してか
ら M 氏の待つボストンに向かうことを考えていた。それも、列車で
2 電話機
◆
も使ってのんびり行こうと思っていたのだ。だが、初めての飛行機は
あまりに疲弊した。とてもそんな余裕はない。楽観主義は打ち倒さ
やっとのことで入管を抜けた頃には、まるで地雷原を強行突破して
れ、裏付けのない自信は完全に消滅した。何が何でもまずは M 氏の
きた戦車のように、精神のあちこちが穴だらけで、やる気燃料を垂れ
元に転がり込んで、この国で生きていくための基礎を学ばねばなら
流しながらよろめいていた。これでは先が思いやられる。幼稚園児
ない。
が一人で海外旅行しているみたいだ。いや、ET ですら英語を理解出
タラップを降りて、いかにもアメリカらしいきびきびした指示のも
来るのだ。これでは宇宙人に負けてる。
とに、全員が入国ゲートに向かう。もう何も考える気力もなく、アヒ
だがともかく入管は抜けたのだ。アメリカの大地だ。心の目には何
ルの群のように惰性でついて行く。いや、アヒルほど生気がないの
だか雲の切れ目から神の光が差し込んでいるような、ロココ絵画のよ
で、見えない縄でつながれた戦争捕虜のようだろう。最初は「Tran-
うなものが映っていた。とりあえず、M 氏に電話しよう。何でもい
sit」と書かれた通路に迷い込んで大混乱した。入国したい場合、正
いから日本語が聞きたい。そう思って気を取り直し、電話機を探し始
しくは「Immigration」に向かわないといけない。日本では入国管理
める。空港なんだから電話機くらいあるでしょう?…確かにあった、
局、アメリカ流に言えば「移民帰化局」である*29 が、そんなこと知る
異なる 3 タイプの電話機が。「どれを使えと?」いやきっとこれはど
はずもない。
れも機能的には同じなのだ。NTT の公衆電話だってグレーと緑があ
初めての海外だ。入国の仕組みなど分からなくて当然だ。不勉強
るじゃないか。探すべきは、コインでかけられるやつだ。1 ドル札を
で前知識もない。とりあえず並べばいいのだろうと半分投げやりに
コインに換えて適当に突っ込めばいいんだろう?
並んだところが、ガードマンと思われる人がつかつかと近づいてき
一分も経たないうちに私は再び絶望の崖から転落した。どの電話機
て、
「パスポートプリーズ」という。
「俺様は麻薬も拳銃も持ってない
にもコイン投入口らしきものはない。「Insert」と書かれた横向きの
ぞ」と心の中で呟きつつ、荷物を盗まれないように注意しながらパス
*29
*30
*31
*32
*33
およそ全世界の空港で、入管は Immigration と書かれるのだが、この単語って教育課程ではほとんど見たことがない。あ、それって真面目に勉強してな
かったからですか。失礼しますた。
謎の概念。
違う違う。原義は「占有する」といった意味である。
といっても、friend とか Japanese とか、中学単語ばかり…。
ここでテレホンカードの機械を選択したのは奇跡的な幸運だった。実はクレジットカードで掛ける電話というものがあり、3 台のうちの 1 つはそれだった
のだ。クレジットカード電話は空港にはよくあるものだが、知らないとそんなものの存在自体が想像もつかない。普通日本で「カード式公衆電話」といっ
てクレジットカードを思い浮かべる人がいるものか。
6
カード挿入口があるだけである。「テレホンカードすか…」*33 陰惨な
「Hello」
気持ちでそう呟いた。仕方ない。テレホンカードを買わねばなるま
「あ、M 氏? S です」
い。初めてのお買い物だ。勇気を持って、通路を行く人に「Excuse
「あぁあぁ、待っていたよ。今どこ?」
me」と呼びかける。本当に助けてといった感じだ。
「ニューヨークの空港。これからボストンに向かおうと思うんだけ
何人かの話を総合すると、どうもテレカは空港内のショップで売っ
ど、具体的にはどう行ったらいいか分かんなくて」
ているらしい。「ショップ」だけじゃわからん、と思ったが、それら
「今の時間だと電車は無理だね。飛行機のチケット買って来てよ」
しきものは直ぐに見つかった。要するにコンビニだ。レジのおじさ
「どうやって買ったらいいか分かんなくて」
んはスーパーマリオのような恰幅の御仁で、私を見て何事かを呟い
「うーん、カウンタに行って聞いてみればいいと思うけど。ボストン
ただけだった。当然聞き取れない。きっと「いらっしゃいませ」の現
に着いたらノースステーションからコミューターレールに乗って…」
地語版だと勝手に思いこんで無視する。テレカが棚においてあるわ
実に簡単に言ってくれるものだ*37 。それでもインフラを確保でき
けはないが、一応は店内を一通り見て回ることにした。コカコーラ社
た喜びは至上のものだった。「何か困れば電話して聞けばいい」この
の各種ジュース、プリングルスのポテトチップス。キットカットの
安心感が欲しかったのだ。実際に電話するしないは別にしても、背後
チョコ。…ほとんどの物が分かる。嗚呼、日本はかなりアメリカ資本
の支えがあるかどうかは極めて大事なのだ。
に侵略されているのだ。日本製品といえば、富士のカメラフイルム
くらいだ*34 。カウンタに戻り、「テレホンカード、プリーズ」とだけ
3 チケット
◆
言う。文法なんて無視だ。スーパーマリオは何事かを呟いた。「テン
問題なのは、もう夜 7 時だということだった。JFK 空港も夜になれ
ダラフティーサティ!」とても英語には聞こえない。ハ? 何すかそ
ば人の行き来が少なくなり、「Excuse me」の呪文で善良な市民を捕
れ、聞き取れるように言ってくださいよと無言で首を傾げる。「テン
獲できる確率が小さくなってくる。なのに、今晩泊まる場所さえ決
ダラー、フィフティン、サーティ!」直感が働いた。これはきっとテ
まっていない。飛行機のチケットもない。飛行機の発着時刻さえも分
レホンカードに 3 種類があって、どれを買うかを選択せよと言ってる
からない。無事にボストンに着けるかどうか自体が、かなり怪しいの
のだ。「テンダラー」とオウム返しする。略しすぎだよ君たち、と思
だ。そう思うと涙がこみ上げてきた。遅くなれば遅くなるほど危険
うが、そういう文化なのかもしれない。
になっていくという焦燥感が無意味に思考を空転させる。さながら、
もちろん、テレホンカードが買えたからといって話がスムーズに進
ぬかるみでエンジンを吹かしているようで、すべてが遅々として進ま
むわけではない。買い物よりももっと酷いのは、その使い方が分から
ない。いや別に宿が決まってなくてもフライトスケジュールが不明
ない点だった。日本の常識では受話器をあげてカードをつっこみ、番
でも、言葉の壁さえなければ、問題ないのだ。今より 10 倍は速く行
号を押す。カードは機械に吸われていき、受話器を戻せば戻ってく
動できる自信はあるし、何が起こっても生来の図々しさで切り抜ける
る。そうですね? …が、ニューヨークの電話機は、何をやってもカー
だろう。しかしまさか電話一つかけるのに 20 分を削られるとは思わ
ドを吸ってくれないのだ。大体、カードの挿入方向が分からない。こ
なかった。何をするにも、ありとあらゆるところにトラップが待って
れはきっと電話機が壊れてるのだと判断する私は常識人。きっとこ
いて、そのたびに語学力が足かせになる。歯がゆいことこの上ない。
こは地上最悪の不良帝国なので、すべての電話機が壊されているに違
日本から何枚かの 100 ドル札を持ってきたのが唯一の救いだ。
いない。
UA のカウンタはエスカレータを降りてすぐだった。カウンタに詰
で、手近の清掃員婦人を捕まえ、テレホンカードをちらつかせ、
「テ
め寄るなり日本人発音で「ボストン、プリーズ!」とだけ言う。頼
レフォン、ブロークン!」と叫ぶ。清掃員婦人は何事かという面もち
む、分かってくれよ。…が、やっぱり甘かった。会話なしに契約は成
で電話機を触り出したが、まもなくこちらを向いて「イッツズンブ
立しないのだ。カウンタ嬢の発するプロトコル不明の信号は、脊髄で
ロークン!*35 」と言い、自分のウェストほどもある業務用掃除機を
棄却した。黙って筆談モード突入。「俺は日本人だ、英語が出来なく
引きずっていった。これはきっと深刻な問題で、機械工学の権威を呼
て何が悪い。筆談だ筆談、もう構うものか。会話なんて全部くそくら
びに行ったのだろうと解釈する。が、いくら待てども上位サーバは現
えだ」
れない。ついに業を煮やして飛行機会社のカウンタまで足を運んだ
この時書いた文字列は、あまりに激しかったので持って帰るこ
ところが、連れてきた係員氏は 8 秒もたたないうちに、
「ナンバァ?」
とになった*38 。
「I want to go and come to from Boston! How
と聞いてきた。「は?」「コールナンバァ!」おぉ、壊れているので
much?」…すげぇ。「go and come」にアンダーラインを引いて受付
はなかったのか。機転を利かせて M 氏の電話番号を書いた紙を見せ
嬢に突き出す。前置詞が二連続で並んでいることは気にもとめない。
る。…電話はつながった!*36
「Round trip?」受付嬢は聞き返した。らうんどとりっぷ?なんだそ
*34
富士フイルムはアメリカに限らず、世界中で圧倒的なシェアを誇っている。
とてもそうは聞こえないが、あとの結果を考えれば「It’s isn’t broken」らしい。
*36 テレホンカードの使い方は日本と全く違う。電話番号の前にカードに書かれている ID 番号をプッシュするのだ。つまり、カード自体には度数は記録され
ていなくて、度数は交換局が管理している。今流にいえば IC カード電話のような仕組みである。この当時、IC カード電話は日本には存在してなかった
ため、使い方なぞ想像もつかない。確かに電話機本体には使い方が書いてあったのだが、Push ID number といえば、普通は電話番号を押すんだと思う
でしょう?
*37 現地に暮らしていれば当然かもしれない。なお、あとで聞くところによると、M 氏は S がペラペラに英語ができるスーパーマンだと思っていたらしい。
「そうでもなきゃ、海外初めてで一人で来ようって思わないでしょ」…確かに。ずっと後になって M 氏はこうも言った。「僕がいなかったらどうするつも
りだったんだ」。そんなことは今でも考えたくもない。
*38 後年、酒の席でこの話を出すたびに大受けした。でも当時は涙が出るほど必死だったのだ。
*39 馬鹿か? 正解は「往復」
。
「round trip ticket」で「往復券」という意味だ。
*35
7
れは。「Round」と言えば「Round one, fight!」のあれしか思いつ
よう気を付けろ」と言われたようだった。なるほど、この面子からし
かない。きっと、スポーツ観戦か何かの旅行なのかと聞かれているの
て荷物を預けているのは自分だけだろう。だが離陸して数分もしな
だ*39 。そうじゃないぞ。そこで毅然と「No!」。重ねて「I
いうちに急激に睡魔が襲ってきて、それ以降は覚えていない。
want go
and come」。受付嬢はこの矛盾した返答を受け取って大混乱に陥っ
着陸のショックで目覚めた。全身汗だくになるほど深く寝ていたら
た。致命的なエラーでハングアップし、端末を放置して上司を呼びに
しい。前の人に続き、タラップを降りる。そういえば荷物はどうなっ
行った。程なく若白髪の社員が出現して、懇切丁寧な長文を書き始め
たのだろう。機体の腹に詰め込まれているはずなのだが。
る。彼は日本人をよく分かっているらしかった。日本人は会話がだめ
少しばかり英語を発話する勇気を得たため、試しにチャレンジす
でも筆談ならかなり行けるのだ*40 。程なく私はニューヨークからボ
る。「Where…my baggage?」うん、上出来だ。be 動詞が抜けてる
ストンが 222 ドルだということを理解した。ゼロ 2 つ付ければ 2 万
が、もう文法は捨てた。機長らしき人物は「gate 7」と即答した。
2 千円。実際には 2 万 5 千円くらいか。「高い!」あとで考えれば航
「state 7?」「No, gate 7, inside!」そう言って飛行場の建物を指さ
空運賃として妥当な金額だったのだが、やけになった人間が何をする
された。「inside!」がやたらにきつかったので、追われるように中
c ナディア)と言わんばかりに、私は提示された 222 ドル
か見てろ(⃝
に入る。何だか分からないが、中にあるのだろう。中に入ってから、
に対して値引き交渉をふっかけた。「Too high, I want cheap!」な
「baggage」の単語を探し求めてウロウロする。おぉ、何かあるぞ。
どという、露骨に破綻した妄言*41 を撒き散らし、若白髪氏をも大混
「Baggage claim」と矢印が書いてある。クレームとくれば、不良製
乱に陥れた。
品に対して文句を言う、あれだ。きっと荷物に関する文句を言う場所
結局、222 ドルで妥協し、クレジットカードで支払いをした。ちな
だと解釈して*43 突撃。見ると荷物がローラーの上をくるくる回って
みにパソコン通信の自動引き落とし以外では、これが生まれて初めて
いる。「おぉ、これか」きっとさっきの 7 番というのはステートでは
のカードショッピングである。この空港話にはオチがある。何とカ
なく、ゲートのことなのだろう。血眼になって視野から「united」の
ウンタで悪戦苦闘しているうちに、ボストン行きの便が一つ行ってし
文字列を探す。急げ。時間はない。程なく 7 番荷物台を発見。なる
まったのだ。後悔の念を抱きかかえて、次の便まで 1 時間以上を断腸
ほど、From の欄に JFK と書いてある。これだ。
さて、ここから地下鉄経由でコミューターレール*44 にのらなくて
の思いで待つことになる。
はいけない。何だかノリは中学生の「アメリカ一人旅」である。しか
も時間期限が付いていて、一度のミスも許されない。もし一度でもミ
4 飛行機
◆
スを起こせば早春の公園で朝を待つ羽目になるのだ。初日からよくぞ
こんな気違い的な暴挙をやるものだと呆れるが、時間もないし、こっ
ボストンはニューヨークから北にほんの少し行ったところにある
ちも命懸けだから手当たり次第に「地下鉄駅」の場所を尋ねる。だが
地方都市である。ここでボストンから M 氏の家までの経路を説明し
聞く人聞く人誰もが、バスに乗るのだという。「バスじゃなくて地下
よう。ボストンの飛行場に着いたら地下鉄で「北駅」という駅に行
鉄なんだ」といっても、バスだとしか言われない。そんな話は聞いて
き、そこから近郊列車に乗る。注意点は近郊列車の終電に間に合う
ないぞ。どうしよう。埒があかないので、「Information」と書かれ
かどうかだ。計算上はかなり微妙である。かなりというのは、5 分く
たカウンタに駆け込み、簡単な地図を書いてもらって、ようやく理解
らいしか余裕がない位である。一ステップでも間違えたら路頭に迷
した。つまり地下鉄駅まではバスで行くしかないというのだ。それ
うわけだ。それでもニューヨークの市街に出ていく勇気はなかった。
でも不安なので、交通整理のお巡りさんや道行くレディにも聞いた。
もう何でもいいからさっさとボストンに行きたいという感じである。
レディは「It’s very easy!」と言って笑ってくれたが、不安なものは
金属なら何でもひっかかるゲートチェックのせいで、全身検査をされ
不安だ。33 番バスは程なく来た。ベンチのような堅いイスのバスで
たあげく、搭乗開始が宣言されるまで薄暗いロビーで独り待つことに
ある。
なった。ひどく不安だ。明治にアメリカを視察した先人たちも、こん
バスは地下鉄駅の目の前に着いた。降りた瞬間に地下鉄に向かって
な気持ちで夜を迎えたのだろうか。
ダッシュ。ミスは許されない。見知らぬ町の、乗ったこともない地下
ボーイングのジャンボと違い、ローカル線の機体は 20 人乗りのプ
鉄で、しかも意味不明の言語でかかれた看板だけを頼りにのるのだ。
ロペラだった。落ちるんじゃないのか、という不安に駆られつつも、
こんな不安なことはない。大体、時刻表が見当たらない。下手したら
とりあえずはこれに乗るしかない。我に後退なし。前進あるのみ!
もうチェックメイトかもしれないのだ。唯一の救いは先ほど書いて
ニューヨークの夜景はきれいだった。とはいえ、写真をとるなんて
もらった地図である。しかし不安はつのる。大体、「inbound」って
思い付くような精神的余裕はない。日本の夜景が白い光で満たされ
何だ? 何が何だか分からない。しかももどかしいのは、それをちゃ
ているのと違い、ニューヨークの夜はオレンジの光で満たされてい
んとした英語の文章にして聞けないという点だ。いや、頑張れば強引
た*42 。出発時には機長のアナウンスが入る。もちろん英語なのでよ
に聞くことは出来るが、おそらくその返事は自分の理解を超えた文章
く分からない。ただ、こういった種類の情報源は貴重だから必死に聞
とスピードでなされるので、まったく無意味なのだ。しかも、それが
き取ろうと無意味な努力をする。「Japanese man は荷物を忘れない
自分自身で十分過ぎるほどに分かっているのが悲しい。あまりに悲
*40
普通の後進国と逆。普通は喋れるけど書けないものだ。
expensive と high の違いは中学英語の範疇である。
*42 実はニューヨークだけではなく、多くの欧米諸国がオレンジの街灯を使っている。日本の方が珍しいのだ。それでも綺麗さからすれば日本の白い光の方が
好きだ。どうして彼らがオレンジの街灯を好むのかについては、興味ある説がある。白人は肌の色が白いから、白熱灯でないと幽霊のように見えるからな
んだとか。真偽のほどは不明である。
*43 念のため書くが、これは激しい誤訳である。意味は単なる「手荷物受取所」
。
*44 当時はもちろん意味不明であったが、訳せは単に「通勤電車」
。
*41
8
惨だ。精神疲労に加えて時差疲労もあり、崩壊寸前で、突然泣き出し
れ。絶対的な睡眠不足と時差ぼけで頭がクラクラする。朝 8 時には
かねないような精神状態であった。
またも眠くなり、とにかく気持ち悪い。
だが、近鉄車両のような地下鉄は何とかクリアした。地下鉄に乗っ
この本の趣旨からして、ボストンでの平和な 2 日間は特筆に値しな
た瞬間に路線図を探し、目的駅までの駅数をカウントする。車内アナ
いだろう。ボストンは海に面したアメリカ 40 番目の都市で、治安は
ウンスなど聞き取れるはずもないからだ。このあたりの感覚が分か
よく、町並みはヨーロッパに似ている…らしい*45 。MIT とハーバー
るのは先進国に生まれた幸運だろう。「North Station」という、そ
ド大を擁する文教都市で、若草物語の舞台コンコードもこの近くであ
のものズバリの駅で降り、地上に駆け上がる。そこは近郊列車の始発
る。小さな町にしては地下鉄が発達しており、地下鉄なしにも歩いて
駅だった。車両の幅が新幹線くらいもある、いかにもヨーロッパの鉄
十分に市内観光が可能である(なんせ地下鉄の駅間は日比谷線の銀座
道といった感じのごつい列車が次々に発車していく。もう英語の案
と東銀座の間くらいなのだ)。
内板を読んで理解している暇はなかった。M 氏の住所を書いた紙を、
とりあえず初日が余りにハードだったので、少し体を慣らしてから
いきなり駅員に見せて「Where?」とだけ叫ぶ。一瞬の恐怖。だがギ
ニューヨークへ行くことにした。できればワシントンにも行きたい
リギリの幸運だけが残っていた。「There!」駅員はそう叫び、私の
が、そんな暇はないかもしれない。初日に惨敗したせいか、会話の勇
腕をつかんで走り出した。ベルが鳴っていた。「Final」とか、そんな
気は完璧に枯渇している。「連中を友達と思わなければ旅行はつまら
単語が聞き取れた。連れて行かれたホームでは、まさにドアが閉まろ
ないものになるよ」という M 氏のお言葉を胸に、ボストン市街に繰
うとしていた。駆け込み乗車だ。間に合った…!
り出す。10 時間前に駅員に投げ込まれたコミューターレールに、今
30 分ほど乗って「Brandeis/Roberts」という名の駅に着いたとき、
度はちゃんと自分の意志で乗ってみる。なんだ、結構快適じゃない
足下は凍り付いていた。こんなところで野宿なんてできるはずがな
か。レールは 1977 年製の割に揺れない。先頭の汽車はコミカルに左
い。凍え死ぬところだった。電話を掛けようと電話機を探している
右のライトを交互に点滅させて走る。駅は手抜きそのもので、駅員も
ところに、懐かしい顔があった。M 氏が心配して終電を迎えに来て
いなければまともなホームも存在しない。代わりに、各車両に車掌が
くれたのであった。現地時間 3 月 15 日午後 11 時。やっと長い長い
一人づつ乗っていて、停車するごとに検察が来る*46 。で、各車両に
一日が終わった。私の脳内にはスタッフロールが表示され、感動的な
展開した車掌団が次の停車駅を大声で叫ぶのだ。風情はあるが聞き
エンディングのテーマ曲が流れていた。…旅は始まったばかりだっ
難いことこの上なく、例えば「ベルモンド」は「バーモー」にしか聞
たが。
こえない。どうしてこれで無事に目的駅で降りられたのか不思議で
しょうがない。
以下、ボストンの町を練り歩いて得たいくつかの知見を列挙してお
4 ボストン
●
こう。
• アメリカに来てまず気づいたのは「印刷が汚い」ということ
1 慨然的な感想
◆
だ。UA の飛行機もそうだったが、藁半紙的な紙に「いかに
もガリバン刷り」という感じの印刷が多く、どうも美的セン
「いくら君が普通の人間じゃないといっても、正直、ここに来る終
スに欠ける。少なくとも日本の同人誌の方が印刷レベルは圧
電に間に合う確率は 3% くらいだと思ってたよ」
倒的に高い。内容が理解不能なのは同じだが。
M 氏は KO 大学からここの大学院に交換留学している若き秀才で
• ボストンの雰囲気は新旧が混合していて、さながら京都の洋
ある。学校は 9 月に始まり 5 月に終わる。間の夏休みは異常に長い。
風バージョンを思わせる。ヨーロッパスタイルのあのごつご
大学寮の割には綺麗な部屋で快適だ。本来は 2 人部屋だが、同居人
つしたレリーフがついたビル(日本で言えば大手町あたりに
はさっさと次の下宿を探して出ていってしまったそうだ。というわ
ある明治時代のビルか?)と、現代系のスラリとしたビルが
けで、優雅に一人暮らしである。「ご飯食べた?」
「それどころじゃな
混在していて、バランスが悪い。全体的には写真で見るヨー
かった」という絶望的な会話の果て、「じゃあこれでも食べる?」と
ロッパの都市をそのまま移植してきたような感じだ。もとも
いって出されたのは豚の耳と、豚の舌であった。露骨に怪しいが味は
とボストンはアメリカ憲政と深いつながりがあった場所で、
良い。そしてペットボトルのコーラ。日本の最大サイズよりさらに
古いものでは 18 世紀の建築も残っている。ビルには窓拭きが
でかい。コーラはアメリカ人の国民的飲料だそうだ。あの薬臭い液
いた。それも日本のようにゴンドラを吊って掃除するのでは
体をどうやったら大量接種できるのかは甚だ不思議だが、確かに空港
なく、スパイダーマンのように、窓にじかに張りついて拭い
コンビニにも駅売店にも大量のコーラが並んでいた。M 氏が言うに
ている。なかなか見られない光景である。「落ちろ、落ちろ」
は、毒々しいダイエット系の食品が大流行で困ったものだとか。大流
と念じる私は、人格破綻者。
行ということは、いくら低カロリーでも、大量に食べるので、実は無
• 信号はアメリカでも青と赤なのだが、赤は STOP を示す手の
意味なのである。やはりここは地上最悪の不良帝国なのだ。
マークで、妙にわかりやすい*47 。しかしそんなことより、道
寝たのは午前 2 時。起きたのは午前 6 時。3 月 16 日の天気は晴
路信号が無視されまくる方が問題だ。時間もカネ換算するア
*45
この時点ではヨーロッパなんて行ったこともない。しかし実際、雰囲気は似ていると言えるだろう。なぜかというと、日本と違って街に喧噪が少ないのだ。
西洋の都市では一般に東洋の都市よりスピーカーを使った街頭宣伝が少なく、音響的にクリーンなのである。漫画家竹宮恵子は「ノルディスカ奏鳴曲」と
いう作品でこう書いている。「そして初めて気づいた。ウィーンには音がない。東京のように強制的な音がない。喫茶店にも音楽はなかった。ウィーンの
人々はだから音楽を本当に楽しめるんだ」…名言じゃないすかね?
*46 ある意味でうまいキセル対策だ。が、一般に欧米の契約社会ではキセルに対する罰則は非常に厳しいので、誰もそんなことをしようと思わない。
*47 世界各地で信号の赤には字や絵が描いてあるものだが、何が書いてあるかで、その国の文化が分かる。教育程度の高いヨーロッパでは字で STOP を書い
てあるところもあるが、ボストンではアイコン表示だった。日本のマークは絵柄が小さすぎてよく分からないかもしれない。
9
メリカ人は、赤でも車が来ていなければ堂々と渡ってしまう。
えて、立ち去ることにした。このへんはもう英語力の問題は
自分も真似して信号無視してみるのだが、日本と左右が違う
なくて、センスの世界である。
• 市が誇る公共図書館にも行ってみた。日本との違いは、書架
ため、どうも道を渡るときなどの勝手が違っていて困る。
• ゲーセンもある。ゲームは 9 割までが日本製ゲームで、やは
の間隔が広いことくらいか。ジャンルも中身も全く分からな
りこの分野のシェアは独占的だ。「鉄拳 II」「スト II」「レイ
い。ゲーセンの効果を測定するため、日本語の本を探してみ
ストーム」「パックマン」など新旧混合。日本語のままで運用
るが全く存在しない。ふっ、勉強不足だね君たち。日本人な
されてる機械も多く、アメリカ人を漢字で洗脳しようとする、
んて日本語の他に英語まで勉強するんだぞ(涙)
• 最後はボストン美術館。パンフレットの俺訳によれば、世界
ゲームメーカーの崇高な使命が見て取れる。
ひなみにゲームセンターはあるが漫画屋はなかった。コミッ
4 大美術館の一つだそうで、午後の後半はここを見ることに
ク業界も崇高な使命を遂行したまいよ。
した。確かに展示品の数は異常に多い。気に入った絵もあっ
• 大量に並ぶロブスター屋を横目にシティホールに行って休憩。
たが、この本で絵画のカルトな話を書くのはやめよう。
役所で観光地図をゲットするのは国内旅行でも常套手段だ。
• 不良的飲食物の象徴ともいえるのが「ハンバーガー」だ。アメ
二階の壁に掛かっている絵に惹かれた。誰のか知らないけど。
リカに来たら、何はともあれ、これを食わねばならない。バー
休憩ついでに知見を日記に書くのだが、日本語でこういう記
ガー屋は街のいたるところにあり、選択に困るほどだ。まず
録を書くと、他の人が見ても分からないので、人前でも安心
はバーガーキング。不味さは日本以上だ*48 。馬糞のような肉
して書ける。
を、ビニールのようなパンが挟む。ついでに当社比 10 割り増
初めての街なので、当然見るもの全てが斬新だが、言ってし
しで増量されたコーラがセットに付いてくる。ちなみにマク
まえは都市は都市なのであって、慣れると飽きるかもしれな
ドナルドはチーズバーガー 1.1 ドルだったので、物価自体は
い感じはした。しかし字が暗号になっただけで、かくも違う
日本と変わらないのかもしれない*49 。
雰囲気であろうか。人は金と時間と言語が失われると恐怖に
ちなみに、ここでも英会話の一難があった。色々指定するの
陥るが、今日は時間だけはあるのでよしとしよう。
が嫌だったからワッパーセットを頼んだのに「お飲物は何に
• 午後からは、歩いてさらに南下してみる。周囲の無愛想な建
しますか」が聞き取れずにゲームオーバー。ハンバーガー屋
築物の中に、ふと光る建築があるかと思うと、それは大抵教
のカウンタで筆談をするという英雄的行為を余儀なくされた。
会だったりする。大通りの真ん中に突如として出現するトリ
しかも「Do you speak English?」を聞き取れずに返答不能
ニティ教会。日本の寺と違って拝観料をせびらないので、中
に陥る有様。周囲(特に後ろで待ってる数人)から視線の集
に侵入してみることにする。内部はかなり荘厳だ。木の椅子
中砲火を浴びて、心臓が沸騰した。店内では恥ずかしくて食
に座って休んでいたら、フラグを立ててしまったらしく、大
べられないと思って持ち帰りを希望するも、「持ち帰り」の英
量の信徒と牧師がゾワゾワと出現して、説教が開始された。
語が分からず*50 轟沈。謎の掛け合い漫才は終わっても、奇異
抑揚をつけて呪文を詠唱する牧師氏は、何だか政治演説のよ
の目で見られたまま店内でお召し上がりになることに。こん
うにも聞こえる。最前列だったので抜けるに抜けられず、口
なことを繰り返してれば、嫌でも最大勇気ポイントが増大し
パクで謎の讃美歌をエミュレートし、謎の聖書文句を復誦さ
ていく。
せられた。意味が分からないので全くありがたくないが、椅
子代だと思えば仕方ない。どうせ呪文なら、魔法陣でも書い
2 ハーバード&MIT
◆
てあって、悪魔とかが召還されてきたら面白いのだが、そん
な芸もない。不幸にして英会話の授業に遭遇したんだと諦め、
3 月 17 日。やっと少し落ち着いた気分だ。M 氏は朝から授業があ
「あー」とか「うー」とか適当に呟いて切り抜ける。
るらしく、ぶっかけのコーンフレークをかきこむ。実はコーンフレー
• 地上最悪の不良帝国にしては、連中が着てるものは大人しい。
クなるものを摂取するのは生まれて初めてだ。日本にもケロッグと
アメリカ人というのはどれもこれもが野球チームの名前を
いうのがあるが、アメリカはさすが本家というだけあって実に様々な
書いた三原色の服を着て闊歩しているものだと思っていただ
種類がある。味は昨日のバーガーほど不味くはないが、なんせ形状が
けに、ボストニアンが存外まともなセンスが多かったのは残
ペレット状なので、自分が家畜か機械化人になったような気分であ
念だ。
る。「何だか鶏糞みたいだ」という呟きを M 氏は聞き逃さなかった。
相対的に、自分の着ているジャンパーが派手になってしまい、
「すごい表現だね。今まで色々なのを聞いたけど、その表現は初めて
なんだか分からない(なんせ英語が理解できないのだ)「お誘
だ」…うっ、失礼。
い」が良くあらわれる。言ってることはさっぱり分からない
Brandeis/Roberts*51 は水が良質なところで、アメリカにしては珍
が、どうせ旅行者然とした奴に話しかけてくる連中なんて、ろ
しく、煮沸しなくとも美味しく飲める。昨日は途中で水不足になって
くな動機ではないのだろうと仮定し、全部の質問にノーと答
喘いだので、ペットボトルに水を詰め込んで、オレンジとバナナを片
*48
この当時バーキンは日本にもあったが、現在では一店もない。
日本の物価は世界一です。これは本当。
*50 take out ですね。これは既にカタカナ語として定着してるはずなんだが、ドラえもんの秘密道具と同じで肝心なときには出てこない。
*51 これで一つの駅名だ。日本の感覚からすると、駅名に人名が入っているなんて理解に苦しむ。しかも「/」で分けられてる。
「新宿/鈴木」とかいう駅名っ
て許せるかなぁ。
*52 ビルゲイツが中退したところ…って、そんなイメージしかないんですが。
*49
10
手に出発。今日の目的はかの有名なハーバード大学*52 と MIT(マサ
リストと入学案内をゲット! そう、せっかくここまで来たなら、何
チューセッツ工科大学)である。まずはハーバードだ。コミューター
か普通じゃないアイテムを入手しないとね。
レールの「ポーター」という駅で降りる。船着き場とかそういう意味
しかし実はもっと凄いものを手に入れることに成功したのだ。物
らしい。バーガーキングの試練を乗り越え、最大勇気ポイントが上
珍しさに侵入した音楽学部のビルディングで、やっぱり同じように先
がったので、人前で堂々と辞書を引くことができるようになった。大
生方のメールアドレスをくれと泣きついたら、なんと分厚いハーバー
学もここまで有名になれば観光地として成立するらしい。25 セント
ド全教官リストをもらってしまったのだ。いいのか?と何度も聞き直
で日本語版のパンフレットが入手できる。
したが、OKOK というのでもらってきた。これはハーバード T シャ
どういうわけか大学には門がない*53 。敷地内はゴルフ場というか、
ツなんかよりもよっぽど価値ありますよ。個人情報ですよ、タダで
太陽光線が不足している北アイルランドの牧場といった草原が続き、
すよ?
中に点々と赤煉瓦の建造物が並ぶ。左舷前方から謎の黒人が近づい
というわけで、気をよくし、生協でお決まりのハーバード T シャツ
てきて、コネクションを試みてくる。「ヘイ!ミスター。ドゥユ∼!
をかい、地下鉄レッドライン (地図上で赤い線が引いてある) に乗っ
#$%&、ツアー?」…やっぱりわからん。ツアーかと聞かれれば、
て MIT へ。さすがに 3 日目になると地下鉄にも慣れていて、特に周
そりゃ旅行者なんだからツアーなのだろうけど、それにしては何かが
囲と違和感なく地下鉄を利用できる。立派にボストニアンしている感
違う。「Do you」で聞かれた質問には無条件で「Yes」か「No」かで
じだ。余談だが、東洋最強の英語力はここでもいかんなく発揮され、
答えるべきだ*54 で、現実的には、中身が意味不明なときは「No」で
「レッドライン」を「デッドライン」に聞き違えて大笑いされた。何
切り捨てるのが大事だ*55 。身も蓋もない突っぱねに、黒人氏は早々
とも笑えない話である。
MIT はハーバードと違って観光色はゼロだった。質実剛健の研究
に退散する。やったぞ勝利。
ガイドブックを眺め、まずは「サイエンスセンター」という建物
大学である。ハーバードで味をしめ、ここでも教官リストをもらう
に照準を定めた。「これはきっとインターネットの端末があるに違い
ことにした。物理学科の建物は 6 号館である。異臭と実験器具が廊
ない」というのは大学生の直感であろう。入ってみるといきなり目
下にまで溢れる、あの理系波動に満ちた廊下を進むと、事務室があ
の前にマッキントッシュの列が並んでいる。開いている端末から強
る。事務の女性は、「あのーすいません」と日本語でノックしながら
入ってきた若者に、露骨に怪訝な目を向けた。
「Are you Chinese?」
引に日本に繋ぎ(ここらへんの手法ははっきりいって全世界共通だ
ね*56 )、参加している集団のメーリングリストにメッセージを打って
「No, Japanese.」と言ってから*57 、慌てて脳の燃焼炉に石炭を入れ
おく。「友人たちよ、もしこの先のどこかで殺されても、私がここま
る。
「私は日本の学生で、物理を学んでいます。将来、私は MIT で勉
で来たことは忘れないでくれたまえ」in ローマ字。どう転んでも先
強をしたい。プリーズ私に先生方のメールアドレスをください」と、
進国の観光地に来ている人間のメッセージではない。今まさにアイ
ない知恵を振り絞って必死の英語を組み立てた。ちなみに当時も今も
ガー壁に登ろうとしてるとか、共産圏の軍事施設に単身乗り込むよう
MIT に入れるとは全く思っていない。私の CPU は火を吹くくらい
な人々のセンスだ。
働いた。事務嬢の返答は素っ気なかった。
「Ph.D?」
「は?*58 」私は
自分の英語が伝わらなかったのだと思って、もう一度 CPU をフル駆
サイエンスセンターでの一仕事を終え、次なる攻撃目標を定める。
できる限り英会話を避けてできることと言えば、美術か音楽か数学
動して、アメリカ人向けの音声合成を試みた。しかし事務嬢が聞いて
くらいしかない。そうだ、美術館だ! 幸いハーバードには大学内に
いたのはそうではなかった。「あなたが入りたいのは Ph.D コースか
様々な美術館・美的建造物が点在する。メモリアルホール、サック
ドクターコースか、どちらですか?」違いなんて分かるはずがない。
ラー美術館(イスラム美術)、フォッグ美術館(ピカソを含む洋画)、
やばい、墓穴を掘った!と思った。彼女は埒があかないと見て、パン
エノリアルホール(バロック様式)等々。しかしどうしてこんなに美
フレットを取り出し、Ph.D なる概念の説明を開始する。もうお手上
術館が多いのか。実は、アメリカの総合大学には美術学部や音楽学部
げだ。猫耳東風。
があって、大学専用の美術館や研究施設があるのだ。日本の大学で芸
しかしその人は大層親切だった。理解力の良くない言語弱者に懇切
術関係を抱えている総合大学なんて数えるほどしかないから、これ
丁寧な説明を繰り返した。で、結果として足りない書類を日本の自宅
は衝撃である。一方でアメリカの大学には、とにかく胸像がやたら多
に郵送して、日本語の出来る知人を紹介する手筈まで整えてくれた。
い。しかも学問的に偉い人のではなく、多額の寄付をした人の胸像が
やっぱりこれはツアーじゃ味わえない醍醐味だ。で、彼女は最後に
並ぶ。どこまでも拝金主義が徹底している国である。
言った。「でも、入学する前にせめて英語力を何とかするべきだね」。
さて、これからどうしたものかと思って、彷徨っていたところが、
猿のように反省。
魔王を倒した勇者のように晴れやかな気分で MIT をあとにし、
サイエンスセンターの中に物理学科の事務室というものがあった。ち
なみに私は物理学専攻である。「これはしめた、先生方のメールアド
Brandeis/Roberts に戻ると、M 氏はビオラの練習があるというこ
レスをもらって、やりとりしよう」などという、身の程知らずの突発
とで 6 時くらいに学校に行ってしまった。さてどうしたものかと悩
的暴挙をおもいつく。江戸っ子は気が短いので即実行。相変わらず
み、茶わん洗いをして、さっさとと眠ることにした。
散弾銃に単語だけを乗せたような幼児英語を駆使し、結果的には教官
*53
*54
*55
*56
*57
*58
そのせいで、記念写真がとりにくい。
TOEIC の必殺技。
おそらくは、旅行者向けの案内ツアーを利用しないか、ということだったのだろう。が、そういう感覚が身に付いたのは、ずいぶん後の話だ。
この時代、インターネットは勃興したばかりで、ファイヤーウォールなどという概念はまだない。ある程度の知識があればつなぎ放題という、古き良き時
代だった。ちなみに現在の韓国がこの状況である。アメリカや西欧では現在もう個別認証が当然になっている。
意味深だ。一般に中国人が不潔でえげつなく、世界各地で中華思想を振りまいてるのを知るのは、もう少しあとの話。
当時私は Ph.D の意味を知らなかった。要するに哲学博士の意味で、普通の「博士」はいわゆるこれなのだ。
11
3 英語の秘訣
◆
こちらが話すのであれば、ある程度の力押しは出来るが、相手のいっ
3 日目ともなると、勇気ポイントが上がって、やっとこカタコトの会
ていることが分からないと話にならない。しかも、ゆっくり話しても
話が出来るようになった。常に決死の状況で、どんな会話をすれば良
らえばいいかというと、これがどうもそうではないのだ。3 日間英語
いかを模索していくうちに、いくつかのパターンと解決が見えてく
漬けになっていて分かったことは、ヒアリングが苦手というのは、早
る。こういうのは人それぞれだろうが、参考までに自分の場合につい
いから聞き取れないのではなく、そもそも単語の発音自体がこちらが
て書いておこう。
予期している発音ではないのだ。だからどうゆっくり、単語ごとに区
切って発音してもらっても(幾度となくそうしてもらった)、分から
ないものは分からない。とくに R がはいってくる巻き舌系の単語は
■ 話すほう
人によって発音が違っていて、さっぱり分からない。逆に、分かる場
大体まず勇気ポイントがないのがいけない。穴があったら入りたい、
合はすごく早い発音でも分かるものなのだ。コミューターレールの
死んだ方がましというレベルの受難に積極的に飛び込み、力づくで
女性車掌がそうだった。要は単語間の接続を解析するときのエラー
「図々しくなる」こと。それをクリアすれば問題は次の 2 点に絞られ
ではなく、そもそも単語自体の解析エラーなのだ。なぜなら構文なん
る。まずは、文を頭で組み立ててから話そうと思うからいけないの
てあってないような会話の世界で、構文解析のエラーが出るはずも
だ。アメリカ一人旅の英語は英作文の授業ではない。生きるか死ぬ
ない。
かの戦場なのだ。無駄な部分は一切切り捨てて、エッセンスだけ伝わ
つまり、一つの単語に対して許容される発音が複数必要なのだ。正
ればそれでいい。例えば、何かが欲しいと思った時、まともな文章に
当な発音以外の発音も辞書登録しておかないと、現実的な会話は不可
して「I want to get XXX.」などという言うのは(教育英語では推
能である。
薦かもしれないが)愚の骨頂である。「XXX, I want」とすれば動詞
対策はただ一つ。筆談である。文章なら読める。だが、これは電話
を考えなくてすむ。さらに「XXX, please」にまで落とせば、いくら
ではつかえない。そういう場合はゆっくり頼むしかないのだが、それ
発音が悪くても通じるものだ。相手がよほどの間抜けでなければ、周
でも駄目な場合はお手上げだ。唯一の逃げ道としては、ひたすら相
囲の状況から察知してくれるはずである。
手のいったことを自分のことばで繰り返すのだ。「A」と言われれば
あと、日本人であることに引け目をもたないことが重要だ。どうし
「A?」と聞き返す。これで出来るエラー訂正はかなり強力だ。結局
ても旅は不安であるがゆえに、自分が外国人だと知られたら強盗され
すべては「自分が話す」という能動的な論法でしか処理し得ない。
たり、騙されたりするのではないかと思うのだが、そうやってびくび
くしているがゆえに騙される方が本当なのではないかという気にな
4 Brandeis 大学
◆
る。というか、隠そうと思ったところでこれだけ英語が出来なければ
隠し通せるものではない。だからそういうのは諦め、思い切って最初
から「I’m Japanese. I can’t speak English」を宣言して居直ったほ
朝早くに目が覚めて、そのまま起きている。3 月 18 日といえば実
うが楽である。そうすれば心置き無く「Slowly, please」の呪文が使
質 4 日目である。アメリカに来て以来、食事量が激減していて、毎
えるからである。そもそも、日本人というのはそんなに国際的ステー
日確実に 1000 kcal を割っている。だいたい結局のところ、ハンバー
タスが低いわけではない。一応は世界第二の経済国家で、先進国の国
ガー以外の外食をしていない。理由は簡単だ。レストランに入って
民で、基礎教養はあると思われている。だから最初から無条件に馬鹿
注文する勇気がないのだ。欧米のレストランではチップが必要だとい
にされることはない。ただ、英語が出来ないという点で馬鹿にされる
うし、会話に加えて土地の風習すら分からないのでは、突入する気に
ことはあっても、それは日本人としての差別ではないのだから「だか
なれない。で、不味いのを我慢してハンバーガーである。不健康なの
らどうした、日本語も話せないくせに何言ってやがる」くらいの傲然
は分かるが、特に体調に異変もないので無視。きっと胃腸も英会話の
さでもって押し通した方がアメリカでは存外にスムーズに進むのだ。
恐怖で戒厳令下に突入しているのだろう。究極のダイエットである。
そもそも善悪という点で、英語が出来ないことは悪いことではない。
「欲しがりません、帰るまでは」という副交感神経君の悲壮な決意を
アメリカの憲法に英語ができないとダメとは書かれてないはずだ。犯
感じる。
罪でなければ怯える必要はないのだ。それが論理的な思考だ。現実
「いつニューヨークに向かうの?」9 時頃に起きてきた M 氏は言っ
問題として、とにかく時間も経済枠の中に繰り込んで生きてる連中だ
た。「今日」ボソッと答える。もうボストンの主要箇所は見た。英語
から、彼らの発想から言えば Yes か No かがはっきりしないと無駄な
にも少し慣れた…ことにしよう。いざ決戦のニューヨークに出陣す
待ち時間を過ごすことになり、貴重な人生の時間に損失を与えたと解
るのだ。M 氏は一瞬驚いたが、基本的には平静だった。「そっかー。
釈され、怒り出すのだ。
今日は暇だから Brandeis 大学を案内しよう。出発はそれからでいい
日本語でしゃべり、日本語の観光ガイドを堂々と広げるべし(最初
よね?」昼に食べ放題の学食に行くということで朝食は抜き。まず
はこれさえてもはばかられた)。それは悪いことではない。2 人以上
は M 氏の家からインターネットにつなぐ。日本語が通る環境という
でいけば、そういう悲壮な決意は必要ないだろうが、一人旅というも
のは非常にありがたい。どうせこれから帰るまで、日本語のメールな
のは本当に不安なのだ。それゆえ神経は最高に研ぎ澄まされ、何事に
んて読む環境はないだろう。もし帰れなかったら、これが最後の日本
つけても鋭敏になるのである。
語だ。昨日ハーバード大で読めなかった日本語メールを読みまくる。
時間を感じさせないインターネットは偉大だ。彼はその間、隣室でビ
オラを弾いていた。
■ 聞くほう
一つ、真剣に考えないと行けないのは「宿」である。泊まる場所が
これは絶望的である。よく、英語なんてアメリカに渡ってやるもん
決まっていないという恐怖を味わってしまった今、頑張って宿の予
だ、という人がいる(私もそういってさぼっていた)が、それは嘘だ。
12
約を取らねばなるまい。予約といえば、帰りの飛行機の再確認(リコ
あった。
ンファーム)もしなくてはいけない…とチケット説明書に書いてあ
る*59 。「電話貸してくれる?」「いーよー」
5 ニューヨーク
●
最初から嫌な予感はしていた。「Hello!」相手が快活に受話器をあ
げる。そこまではいい。…だが英語で「予約」って何ていうんだ??
1 雨の宿探し
◆
辞書を紐解く暇はない。こういう場合は発想の転換で強行突破だ。「I
want to stay your hotel tonight.」自分の事情だけ言って、あとは
向こうに勝手に考えさせる。我ながら卑劣だ。しかし、それは作戦と
オレンジの光がともる、アメリカ最大の都市。資本主義の聖地にし
して大いなる誤りだった。向こうに思考の自由を与えるということ
て眠らない経済の都。かつて*61 大敗北を喫した JFK 空港に、再び降
は、どんな返答が帰ってくるか想像もつかないということなのであっ
り立つ。脳内には音にならないテーマ曲が流れ、俺的アカデミー賞間
た。受付嬢は「Ahh…」としばし考えてから、素晴らしいスピードで
違いなしの大冒険活劇が始まろうとしていた。「今、ニューヨークは
応答してきた。それはまるで、背中にターボエンジンを装着して、ブ
絶望の雨に打たれていた」とナレーションを入れてみる。絶望してる
ラックホールに突っ込むようなスピードだった。しかもアナログ電話
のはニューヨークではなくて自分の方なのだが、景気よく盛り上げな
は聞き取りにくい。追い打ちをかけるように隣の部屋からはビオラの
いと心の底まで冷え切ってしまいそうだ。
税関のゲートをくぐれば、飛行機から降りた異国人の塊が、出迎え
素晴らしい音色が。…完全な敗北だった。いかなる努力をも放棄さ
に来た異国人の塊と握手したり抱き合ったりしている。当然だが、私
せる絶対的な言葉の壁がそびえていた。私は無言で受話器をおろし、
*60
今やぶっつけ本番で宿を探さねばならない絶望を悟った
の迎えはいない。さてどうしたものか、と荷物を持って途方に暮れ
。
る。空港から市の中心部までは 1 時間。選択肢はバスか地下鉄かタ
Brandeis 大学は駅の反対側に広がっていた。年間の学費は 300 万
円。日本に比べれば異様に高いが、ハーバードや MIT も同程度であ
クシー。夜の地下鉄は世界的に有名な犯罪列車だからご免被りたい。
り、一般的な金額のようだ。もちろん実際には奨学金を取りまくって
タクシーも騙されると嫌なので遠慮だ。となるとバスしかあるまい。
軽減するが、基本的には予備校のようなものであり「カネを払う義
今から市街に出たら夜も 9 時過ぎだからろくに食事も出来まい。こ
務」と「授業を受ける権利」がしっかりと認識されている。で、「そ
こで何かを食べておくか。いや、宿探しのため一刻も早く市街に出る
もそもみんな休まないよ」という状況になる。入り口から順に、音楽
べきか。…大冒険活劇の割には随分つまらないことで悩んでいるが、
学部、学生寮、サイエンスコンプレックス(科学複合棟;どこでもこ
足りない情報を無理矢理こねくり回して考えるため、いつまで経って
う呼ぶらしい)が続く。食堂は 3 つあり、一般食堂と食べ放題食堂と
も明確な結論が出ない。それは分かるが、かといって情報を補充する
教官用食堂だ。当然、食べ放題食堂に向かう。食べ放題食堂はさらに
ために周囲の人たちとバイナリ通信する勇気もないのだ。一種のデッ
ベジタリアン用と、それ以外の人用に分かれている。私は無節操雑食
ドロックである。あれこれ悩むうちに、刻一刻と時間だけが経つ。焦
性哺乳類なので後者だ。選択肢は実に様々。(少々堅いが)健康食と
れば焦るほどまともな結論が出ない。
いうことで豆腐がある。納豆はない。デザートはどれも気が狂った
食べ物屋を探して彷徨っているとグレイハウンドと書かれた帽子
ように甘く、歯が痛くなるほどだ。ボストンは漁港を持つのだが、市
をかぶった男が近づいてきた。グレイハウンドというのはどんな犬
民はそれほど海産物に恵まれているわけではなく、水揚げされたもの
だったかと考えていると、例によって先制攻撃を受けた。「ヘイ、ミ
はみんなニューヨークか日本に輸出されてしまうらしい。
スター、%&#$#$%?」相手が犬なら、こちらもビクター犬のご
とく首を傾げ、理解できないことを訴える。男は大げさに手を振り、
気がつくと午後 2 時だった。Brandeis 大学をあとにし、M 氏と別
れ、これより真に独りの旅が始まる。ボストンには一つだけ見損なっ
尋ねてきた。
「No English?」その通りだよ「Yes」
。…ここで賢い人
たものがあった。インターネットの旅行記で絶賛されていた科学博
はお気づきだろう。誤解の王道パターンに嵌ったわけである。「否定
物館である。入場料 9 ドルは高いといえば高いが、実は大人でも楽
文で聞かれたら、その事実が否定的なら No と答えなさい」というア
しめる。熱検知を利用したバスケットボール、光を使った芸術作品、
レだ。が、戦闘中にそんなデータをロードしている余裕はあるわけな
足だけ見える鏡とか、何につけても格好良くみせる工夫がなされてい
い。男は少しばかり謙虚だったから、理解されないのは、きっと自分
る。それが日本との違いだ。人間の誕生についても、妥協せずちゃん
の説明不足によるのだと解釈した。そして気合いを入れ、秒速 5 ワー
とかいてあるあたりが、共感をもてるだろう。
ド以上で怒濤のような光速拳を繰り出してきた。待ってくれ、そう
じゃないんだ、助けてくれと言わんばかりに紙を突き出す。筆談モー
何だかんだでボストンの空港に着いたのは午後も 4 時過ぎだった。
ド開始!
初日ほどではないにせよ、この時間からニューヨークにいって宿探
しというのは気が滅入る。しかも天気は曇り、今にも雨が降り出しそ
グレイハウンドはアメリカの長距離バス会社である。日本で言うと
うであった。長蛇の列に並び(余談だがこういう風に並ぶときには
ころの「はとバス」とか「JR バス」のようなものだ。向こうは困り
大抵ろくなことがないものだ)18:50-20:00 の飛行機をとる。だが、
切っている私を見て、見るに見かねて声をかけてきたらしいが、顔つ
実際には雨で離陸が遅れ、19:30 出発のニューヨークに 20:40 着で
きが西部劇のギャングのようだったから退いてしまった。結局 12 ド
*59
リコンファームとは、まだ座席予約がコンピュータ化されていなかった時代に、間違えて同じ席に二人以上の予約を入れてしまう事故が頻発して作られ
た、予約再確認制度だ。現実的には、予約がオンライン化されているまともな西側の航空会社では不要であって、現在でもこれを必要とするのは、ぜいせ
い旧ソ連系かアジア・中東系の一部の航空会社である。でも「地球の歩き方」すら持たない海外初めての厨房がそんな事情を知るはずもない。
*60 電話が聞き取れなくて予約できませんでしたということを、どうしても M 氏に告げる気にはならなかった。しかし後で考えると、インターネットで予約
できる宿もあったのだから、そんなに気に病むことはなかったのだ。それに、世界の宿事情の常として、夏以外なら安宿は予約なしに突入しても何とかな
るものだ。
*61 3 日前。
13
ルで市街行きの急行バスに乗ることに。高い安いはこの際言ってられ
シーは事実上不可能だった。滅多に来ないからだ。そうすると地下
ない。バスはグランドセントラルの駅やら教会を横に見ながら、うね
鉄かバスだ。ニューヨークではどちらも終夜運転されている。出来
うねと曲がり、雨の 42 丁目インフォメーションで私を掃き出した。
るかぎり地下鉄はやめたいのだが、バスの系統は全く分からない。地
といっても最初はそこが 42 丁目であることすら分からなかった。
下鉄の英訳は?…Subway。おぉ脳は辛うじて生きているぞ。
そう、私は大変な事態に気づいたのだ。もう夜で、しかも雨だという
地下鉄の入り口はすぐに見つかった。だが、そこは…? とても民
のにニューヨークの市街地図を持っていない! 周囲が繁華街なのだ
間人が入れるような雰囲気ではなかった。大体、半地下の入り口には
から、ニューヨークの中心に近い位置なのだろうが、正確な場所さえ
電灯すらついていない。係員のいるべきところには錆びた巨大な鉄
も分からない。雨の中、降りてから呆然と立ちすくむ。大体、ニュー
格子(まるでバスチィーユ牢獄)が降りていて、その奥に通電してる
ヨークの地形自体を知らないのだ。やばいぞこれは、と思って脳内の
かどうかも怪しい錆びた機械式のゲートがある。人は誰も寄りつか
全検索を掛ける。確か西洋人がマンハッタン島をインディアンから
ない。…一言でいえば「ダンジョンの入り口」だ。いつどこからモン
物々交換で騙し取って、それがニューヨークになったとか。私は悲し
スターに襲われても全く違和感のない危険な腐敗臭が充満している。
くなった。そんな蘊蓄を知っていたところでどうしろと?
だが勇者は頑張って踏み込むのだ。おそるおそる、死の階段を下りて
ここで私は生まれて初めて、St. と Ave. の違いを肌で知ることに
みる。まさに廃坑そのもの。剥げかかった壁にカラフルな落書きが
なった。どちらが縦か横かは知らないが、平面座標の位置特定には軸
走り、異臭を伴う粘度の高い液体が床を覆う。よく見ると明かりは一
が 2 つ必要なのだ。そして周囲を少しばかり歩き、St. と Ave. に付
つ残らず壊され、中には電線が剥き出しになっているものまである。
けられた番号が座標を示すことを理解した。夜 10 時の雨の中、街灯
「おぃおぃ…」雨水が構内に染みていて、感電トラップ寸前だ。
「本当
の下でホテルのリストをめくり、この近くのバックパッカーホテル
に、これが地下鉄ですか…?」*62 それでも時折、奥からはゴォーッと
を探した。「Big Apple Hostel」というのが近そうだ。重い荷物を担
いう魔王の咆哮のような鳴き声が聞こえ、数秒遅れで生暖かい風が吹
いで、道を間違えながらやっとの思いで辿り着く。ホテルマンはつれ
いてくる。一応は地下鉄なんだろう。300 年も前の人なら迷いなく祈
なかった。「ヘイミスター、今夜はもういっぱいだ。すまんが他を当
祷師を呼んでいるはずだ。
たってくれ」という意味なのだろう。しまりゆくドアは冷酷に私を疎
改札機を見たとき、不安は絶望に変わった。なんと地下鉄の改札口
外した。仕方ない。トボトボと野良犬のように雨のアスファルトを歩
は「トークン」と呼ばれる特殊なコインしか受け付けないのだ。錆び
く。次のホテルは、戸を叩いても誰も出てこなかった。その次は丁寧
た機械式ゲートは、ドル札もセント硬貨も理解してくれない*63 。そ
に断られた。4 件目を回ったあたりで、不安は恐怖に変わってきた。
もそもいくら入れればいいかすら分からない。トークンはどこで売っ
足が痛いぞ。時刻は 23:00。
ているのかと、地上に戻って周囲をさがせど、そんなものは見あたら
安全で勝手の分かった街なら遅くても何も怖くはない。事実、東京
ない。おそらく昼間に、あの鉄格子の窓口で売っているのだ。…ダメ
では野宿したことさえある。しかしニューヨークの夜は犯罪天国。全
だ、どう考えても無理だ。
米一は当然。危険さでは全世界的に有名な街なのだ。この時点でま
仕方がない。背水の陣をしいて、道行く魔術師ギルドの面々に呪文
だ宿が決まっていないということは、命の危険も考えないといけない
を唱えかける。「ちょっとすみません、私は w103 ストリートに行き
ことだった。「しまった、これなら今日もボストンに泊まればよかっ
たいんです。どうしたらいいでしょう?」日本と違うところは、勇
た」などという泣き言はもう通じない。「断られたらロビーで寝かせ
者が二等身でも新興宗教と勘違いして無視しない点だ。アメリカ人
ろといえば大抵は大丈夫だよ」という M 氏のお言葉を心の支えに、
は肯定にせよ否定にせよ、ほぼ確実に返答してくる。「7 番系統のバ
宿と 24 時間レストランを同時に探しながら、偶然に開いていたスー
スに乗れ」3 人目に聞いたモンゴロイドの中年男は言った。
「59st. か
パーマーケットで夕飯がわりのジュースを買った。成分もラベルも
ら、そして 103st. で降りろ、すぐだ」信じるとしよう。そうしない
暗号のため、何のジュースだかよく分からないが、
「100%」という文
と話が進まない。地図がないから 7 番系統がどこを走っているかも
字列だけを必死に検索すれば、味としてはまともなものが入手できる
分からない。だがもう背水の陣なのだ。次は 7 番系統のバスはどこ
はずだ。水とブドウ糖を手っ取り早く摂取する。味なんかわからん。
を走っているのかと聞く。町の人 A は右を指さし「フィフサヴェー、
グルメを探求する状況にはない。血糖が下がると呆然としてきて有
ターライッ」という呪文を唱えた。「盥?」いや違う。だんだん耳が
事の際に危険なのだ。ここはピストルの国アメリカ。いつ後ろから
慣れてきて、この種の怪しい発音も想像可能になってきたようだ。多
撃たれても不思議ではない。…パックの海外旅行とは少しセンスが
分、5 番目の通りを右へ曲がるのだ。…おぉ、確かにバス停だ。7 と
違うのは仕方あるまい。
書いてある。
これだけの都市なのに、24 時間レストランは一軒もなかった。そ
バス停で待つこと 10 分、目的のバスが出現した。結構新しめで見
ういえばコンビニもない。夜に店を開くということがそれほど危険な
たところ問題はなさそう。しかし物事はそう簡単には進まなかった。
のだとしたら、これはただ事ではない。ホテル最後の候補は、M 氏
前側のドアが開くと同時に「セブンス?」と下から大声で聞く。運転
推薦のユースホステルだった。昼間にインターネットで見ていた限
手は負けずに大声で返答してきた。「セブン! イエス、ゲライドゥー
りは、全米一の巨大ユースで、ここで断られたら本気で野宿を考える
ン!」後半は何だかよく分からないが*64 、7 番系統なら問題なし、乗
しかない。場所は w103 ストリート。昼間ならともかく、荷物を持っ
り込め。
て雨の中 1 時間以上も彷徨った状況では、ちょっと歩ける距離ではな
タラップに足をかけ、傘を畳みながら運転手を見る。運転手は下を
い。選択肢はまたも 3 つ。地下鉄かバスかタクシー。この中でタク
目配せした。料金投入箱である。バスは見るからに先払いだった。運
*62
あくまで旅行当時の話である。現在は市長が変わり、地下鉄もクリーンになったとかならないとか。
いや、このシステムで紙幣を認識できるなら、藁半紙を突っ込んでも大丈夫だろう。
*64 「get ride soon」か?
*63
14
賃が分からないので財布を開けて 5 ドル札を突き出す。「No, bill!」
それまで体が持つだろうか。帰りたい…! 日本に帰りたい…。
運転手は激しい口調で言った。bill って何だ? ゲイツ? あぁお札の
ことか*65 。見ればコイン投入口には「No
ノックして戸を開けたとき、カウンタの青年はちらりとこちらを
bill」の文字とともにお札
見ただけだった。傘をたたみ、塗れた全身を振るってチェックイン
にバツ印が書いてある。「How much?」私は聞いた。「One doller
に行った。
「Passport, please. How long do you stay here?」彼は
half!」早くしろよと言わんばかりに運転手は苛立っていた。財布か
言った。何だか非常に聞き取りやすい発音のように思えた。
らコインを探す。そんな、あるわけない。「Exchange OK?」
「No!
token or quater!」身も蓋もない。そんなの、ないっす。もっと前
2 カードトラップ
◆
に言って欲しかったっす。上目遣いに運転手を見る。ほら、ボクって
可愛いでしょ、許してよ*66 。
8 人部屋に展開する二段ベッドの上段。緊張のせいか 5 時間しか眠
原住民には私の魅力を理解できるだけの知性はなかったようだ
れない。それでも眠りの質は十分だ、気分は悪くない。昨夜の詳細は
(涙)
。諦めて敗北宣言。回れ右して、のぼりかけたバスのタラップを
既に忘れかかっている。ドミトリーの意味が分からず辞書を引いて
降りた。バスのポテンシャルがこんなに高いとは思わなかった。雨
カウンタ氏を困らせたことと、シャワーのお湯が出なくて修行してし
は当社比 150% で激しさアップ。ニューヨークのバスは地下鉄と共
まったことは覚えているが、どういう経緯でここに寝ているかは記憶
通のトークンか、あるいは 25 セント硬貨しか受け付けないのだ。
「知
がとんでいる。ポケットを探ればパスポートとクレジットカードがあ
るかい、そんなこと」苛立った。どこかで両換えするしかない。現実
る。まぁ焦ることはない。同室の連中は荷物をさっさとまとめて観
的には近場の店で何かを買って、クォーターコインをおつりで貯め込
光に出ていってしまった。自分はどうしよう。もう重い荷物を持っ
むしかない。夜中にあいてる店が近くにあるか?
て歩き回るのはご勘弁だ。結局荷物はベッドの上にあげたまま、毛布
唯一運がよかったのは、通りの直ぐ反対側に謎の雑貨屋が開いてい
で隠して出発することにした。どうせろくなものは入ってない。
たことだ。うまいこと値段と税金(先ほど買ったジュースのレシート
日本と同じ 3 月の匂いだ。3 月 19 日の天気は雨。しかし、よくぞ
がヒントだった)を計算し、店の主人に「By quater coins, please」
無事に宿にありつけたものだ。ニューヨークの安宿は決して安全な
という、動詞不在の即席呪文を吐きかけた。とりあえずコイン 6 枚と
宿泊施設とはいえないが、野宿よりは十分に安全だ。カウンタの横の
コカコーラを入手。コーラはどうでもいいが、せっかく買ったのなら
地図を眺め、生まれて初めてニューヨークの構造を理解した。
飲み干そう。緊張の連続で、喉は十二分に渇いている。
全世界どこでも、まずは己の足で歩くべしよ。近くのターゲットと
終夜運転とはいえ、夜のバスは 20 分に一本だった。長い長い時間
して、セントジョンデバイン教会をロックオン。ユースからは歩いて
を、捨て犬のようにじっと待った。幾多の自動車が煌びやかなライト
5 分の 110st だ。教会はバロック様式でだだっぴろく、センスが良
を照らして快活に目の前を過ぎ去っていった。他には誰も待ってい
い。ステンドグラスに見とれながら、色々と考えごとに耽った。時間
ない。時刻は午前をまわった。パックのツアーだったらこんな体験
がゆっくりと流れていった。
は出来ないでしょうなぁという悲しい笑いが込み上げてきた。まだ
例によって平和なニューヨークの 3 日間は、それほど詳細に書く必
精神的には大丈夫かな。これが 3 日前なら両目をくるくる回して日
要はなかろう。旅行記というのは異国の文化について色々と偉そう
本大使館に電話をかけていたことだろう。「こんなことを 2 日もやっ
な感想を書き連ねるものだが、何しろ相手がニューヨークである。こ
ていれば立派なニューヨーカーになれますな」と声に出すと、たまら
こで俺的比較文化人類学を炸裂させても、まったく面白くない。ただ
ず涙がこみ上げてきた。
一ついえることは、ニューヨークというのが世界の富が集積する都市
ともあれ、15 分の待ち時間の後、バスに乗ることには成功。だが
であって、その富豪度は凄まじく、豪華建築・美術館の類には事欠か
あと少しだけ問題があった。今度はバスの降り方が不明なのだ。車
ない点だ。…要するに、英語抜きで楽しめる娯楽など美術館巡りくら
内を眺め回せども、日本のような降りますボタンが見当たらない。そ
いしかないってことだが(本音)。美術館攻略ミッションが高尚なん
の割に、降りる人がいるときにはキンコンという音がなって運転席の
だか間抜けなんだはおいとくとして、漫画と特撮で鍛えた目を駆使し
ランプがつくのだ。きっと何かボタンに代わる連絡手段があるに違
て、世界の大芸術を堪能すべしよ(無理)。
いないと、バスの中をより精妙に探索する。あれか? 縦長の黒い帯
• セントジョンデバイン教会
があって、それに触れれば OK ということらしい。分からなかった
建築学の細々したことは分からないが、天井が高い空間はそ
ら降りられないぞ、これ。
れだけで迫力がある。空に向かった距離感が、聖なる錯覚を
最後の最後まで気が抜けないバスをあとにし、無事に 103st に降り
誘導する。教会は街の人々にとって、理性崇拝の重圧から逃
立った。中心部と違って 103st の辺りまでくると人通りはなくシン
げる格好の保護施設だ。無機的なビルの中にあって歴史の重
としている。やばいよこれ、こんな旅行者然とした格好で歩いていた
さとか伝統は、懐古主義の安寧を提供する。…と書けば格好
らギャング団に狙われる。本能が危険ランプをくるくる回した。体
いいが、朝飯代わりに何かエサをもらうために教会に来たた
力も限界に来ていた。体は冷え、足には筋肉痛が走った。たまたま通
とは口が裂けてもいえない。結局ジュース一杯をもらって牧
りかかった紳士風の人に(もしかしたらドラッガーかも知れないが、
師氏のありがたい呪文を浴びる。
もう構ってられない)アムステルダム通りを聞き、目的のユースホス
• メトロポリタン美術館
テルを見つけたときは午前 1 時近かった。入れてくれなかったらど
素晴らしい治安で有名なセントラルパークを北側から回り込
うしよう。あと 5 時間もウロウロして凍えないようにするしかない。
*65
*66
み、美術館通りを歩いて南下する。グッゲンハイム美術館で
ビルゲイツは「お札の入り口」。…さすがですね。
髭のび放題の大学生。ガリ勉メガネがチャームポイント。
15
ピカソを堪能したことにして、さらに南。300 万点の収蔵品、
示されてカードが吐き出された。そんな馬鹿な、利用可能って書いて
世界三大美術館に数え上げられる、かのメトロポリタンだ。
あるだろう? それにここに Insert って書いてあるだろう? もう一
NHK「みんなのうた」にも曲があるくらいの有名さ。到底一
度やってみる。今度は表示メッセージに気を付けて、打ち間違いの可
日で見きれる量ではない。閉館 5 時ぎりぎりまで粘って、よ
能性もなくして。
うやく展示の構造を理解した。
…ダメだ。症状は同じ。またも不安が到来する。不良帝国アメリ
さて。話はここから始まる。5:15 にメトロポリタン美術館を追い
カではもしかしたら銀行端末がハッカーに乗っ取られてて、トロイの
出され、これからどうしようと考えるわけだ。第一にすべきことは決
木馬が仕掛けられてるかもしれない。だったら何度も正しいパスワー
まっている。バスチーユの鉄格子が閉まらないうちに地下鉄のトーク
ドを入れるのは危険だ。偏った知識が、不健全な妄想を誘導する。
ンを買わないことには昨夜と同じ目に遭う。何はともあれ、まずはこ
結局その ATM は壊れてるんだという結論を下し、撤退した。別
れが先決だ。ということで地下鉄駅探索の旅に出る。浮浪者が徘徊す
の店で説明を読めばもっと有益な情報が得られるかもしれない。も
る夕方のセントラルパークを横切り、地下鉄 A のポールを発見する。
しここでお金をおろすことが出来ないと、あと 2 日間、帰りの飛行
ニューヨークの地下鉄は路線が 1,2,3,A…と順に付けられていて、分
機でトマトジュースを頼むまで、水一滴飲めない状況が続くのだ*71 。
かりやすいというか分かりにくいというか。入り口の表示に「A」と
せっかくのニューヨークを、二段ベッドの上で悶々と過ごさねばなら
しか書かれてないから、知らないと何のことかさっぱり分からない。
ない。これは命に関わる問題だ。大体、あまり引き出しに失敗してる
ポパイのような駅員は、「Ten token!」と言って紙幣を差し出すと、
と、盗難カードと認識されて VISA にカード使用を停止されてしま
無言でトークン 10
枚とおつりをよこした*67 。何とあっけない。
うかもしれない。三回ミスればダメだとすると、勝負はあと一回。こ
しかし、問題はここからだった。一日中美術館の中にいて何も食べ
こは慎重に行かないとダメだ。
ていないからといって近くのマクドナルド*68 に入ったところが、財
昨日のように時間的な制約があるわけではないが、下手な行動が取
布を開けてみてびっくり!「1 ドル札が全然ない∼?」そう、現金が
れないという点では、アクションゲームがパズルゲームになったよ
尽きたのだった。あなたはマクドナルドでクレジットカード決済を
うなもので、どのみちスリリングであることに変わりない。将棋か囲
試みたことはあるか。大方の予想通り、無理だ。あなたはマクドナル
碁でもやるがごとく、10 分も歩き回りながら考えて得た結論はこう
ドで地下鉄トークン決済を試みたことはあるか。大方の予想通り、無
だった。「敢えて人が並んでいる ATM を探せ」。そうすれば少なく
理だ。スマイルとともに用意されたチーズバーガーセット*69 は、哀
とも故障の疑いは消えるし、困ったら聞けばいい。この結論は、少な
れ目の前で回収され、レジ嬢による店外退去命令が下された。資本主
くともアメリカに来る以前の自分では考えられないものだった。な
義万歳。無駄に出た唾液が空腹を一段と増長させる。
んせ質問による解決を積極的に行う思考なのだ。
2 人が並んでいた。前に並んでいるのはオバサンだ。両目の光学分
異国の地で現金はどうやって生成するのか。これは大問題である。
リクルートの冊子には「お金は現金か T/C で持っていけ」としか書
解能ぎりぎりまでを駆使して壁に書かれた案内を読む。少なくともそ
いてなくて、現地で金欠に陥った場合の対策は載っていなかった。憧
こに VISA のマークは発見できた。そして前のマダムが使い始める
れの腐れたドル札を思い出す限り、IT パワー炸裂でカラープリント
と同時に、さりげなく身を横に寄せて、後ろからマダムの手元を覗き
しても通用しそうだが*70 、正統的には銀行に行って聞くのが筋だろ
込むのである。気づかれたら最後、警察を呼ばれても不思議ではない
う。幸いここは天下のニューヨーク。銀行は至る所にある。といっ
危険な賭だ。もう容赦ない。地球の裏側まで来て暗唱泥棒のような真
ても窓口はもう閉まっていた。手近の誰もいないキャッシュコーナー
似をするのは嫌だが、他に道はない。そして私は見た。カードの挿入
に入り、辞書を引きながら壁に書かれた案内を読む。…おぉ、VISA
方向が違うのを*72 ! まさかのフェイントだ。天使のオバサンが去っ
カードが使えると書いてあるぞ。何とかなるのでは?
てから 3 分後、私は合法的に 100 ドル札 1 枚を手にしていた。心の
しかし、何やら本を片手に銀行 ATM の前に立っている野郎という
ファンファーレが鳴り、レベルアップが高らかに宣言された。
のは、かなり怪しくないだろうか? どう転んでも良からぬことの下
調べをしてるとしか見えない。というわけで、出来ることならさっさ
3 地下鉄
◆
と終わらせたい。そもそも長い英語なぞ読みたくはないのだ。カード
が使えるというなら突っ込んでみようじゃないか。どうせ ATM に
レベルが上がればやってみたいことがある。地下鉄だ。一日一食
カードを入れる場所なんて一カ所しかないんだ。人間、思い切りが肝
のチーズバーガーを頬張りながら、地下鉄の階段を探す。まだ 19 時
心さ。VISA カード挿入! Password 入力待ちになったら暗証番号
の人通りは激しい。あった、あれだ。大量の背広男が排水溝を走るネ
四桁を押せばいいんだろ?
ズミのようにゲートに吸われていく。人がいれば活気はあるが、廃坑
絶対の自信を持って暗唱を入力。さぁカネよ出てこい。…しかし
は廃坑だ。命知らす主義者としては、是非とも地下鉄に乗らねばなら
機械は無情だった。「Sorry, あなたのカードは利用できません」と表
*67
*68
*69
*70
*71
*72
ない。でないと永遠にニューヨーカーを名乗ることはできまい。地
複数形がどうとか、そういうのって現場じゃ関係ないですね。
結局マクドばっかり。だって貧民のわしはレストランのメニューなんてわからん。
現地ではセットのことをミールと呼ぶ。
駄目です。念のため。私は犯罪幇助するつもりはありません。
続かない。クレジットカード決済でレストランにでも入ればいいだけだ。実際、これに似た状況はその後随分経ってからシリアで味わった。しかし動転す
ると、そんなことを思いつく余裕はない。
これはアメリカによく行く人なら常識的な話である。実はアメリカ ATM は特殊な挿入方法のオンパレードなのである。ひどいのは、今回のようにカード
面にある矢印と逆方向に挿入しないといけないタイプだが、その他にも、カードの裏面を上にして挿入しないといけないもの、入れたら直ぐにカードが戻
り、抜取った後に暗唱を入れるタイプとか、およそ日本の常識は通用しない。
16
下鉄はディズニーランドのごとき回転棒式ゲートでトークン(と呼ば
たたって足が痛い。足で歩くのは無理だ。今日こそ地下鉄を使おう。
れるコイン)をつっこんで、そのまま腹で押せばいい。自動改札など
幸いトークンは有り余っている。
• 心には密かな野望があった。ユースホステルに転がっていた
という高尚なものは存在しない。あっても瞬時に破壊されるだろう。
高速道路の本線にはいるように、うまいこと人の波に乗り、自慢の運
「地球の歩き方」を斜め読みし、まずは地下鉄でメトロポリ
動量で棒を回転させる。…ゲートは無事に通過。あとは南蛮文字の
タンオペラハウス*76 にいく。チケットを取りに行くのだ。慣
列を読み解き、目的の列車に乗り込めばいい*73 。
れれば地下鉄もどうってことはない。66st. のリンカーンセ
尿に塗れた階段を下りると、期待通りの光景が展開した。それは英
ンターで降りて、人と同じ方向に歩くだけだ。ただオペラハ
語の恐怖とは別の恐怖—日本には絶対ない、絶対的な汚さである。軌
ウスに行くにしては、どうも趣向の違う人々なので勇気を出
道内には内容液がしみだしたマクドナルドのコップとチリ紙、謎の金
して警備員の人に「オペラのチケットの取り方」を聞いてみ
属片、腐ったタブロイド新聞紙が山になっていて、脱線しない方が不
る。なんとチケット売り場は向こうのビルなんだそうで。ア
思議だ。よく見ると折れたバットやタイヤまで捨てられている。そ
メリカに来て初めてノーミスでコミュニケーションが成立し
れにはもう、一種の敵意さえ感じる。そこを快速の地下鉄が減速せず
た記念すべき会話である。カウンタの売り子嬢は親切な眼鏡
に通過していくのだ。同様のゴミはホームにも車内や捨てられてお
のお姉さまで、はるばる東洋の島国からやってきた冒険者に、
り、火を付けたら爆発しそうなほどの異臭が充満している。それでも
立ち見のチケットをとってくれた。嫌みではない。オペラの
車内には警官が乗り込み、スプレーで Fuck と書かれた窓ガラスと蛍
チケットを当日取ろうなどという自体が、本来は無理な話で
光灯だけは死守されていた。
ある。
列車自体も凄い。VVVF インバータなどという高度な技術は存在
• バスに乗る。さすがに慣れたものだ。マンハッタン島の南ま
しない。抵抗カムの車体は加速するたびに周囲に火花が走り、いつ
で行って、世界貿易センタービルに上るのだ*77 。理由は不明
引火するかヒヤヒヤだ。車内に釣り広告という概念はない。全て破
だがガードはひどく厳しい。世界貿易センタービルの防衛部
られるからだ。それどころか停車駅のアナウンスさえも聞こえない。
隊長は言った。「視界はゼロだよ。オゥ、ミスター、それでも
よく見ると、天井のスピーカにはタバコの焦げたあとがある。その隣
昇るのかい?」力強く「YES!」。視界がどうこうじゃない。
には、ハンマーか何かで殴ったような凹みがある。良く言えば野獣の
私の観光は普通の観光ではない。冒険というのはのぼったか
オリ、悪く言えば…言葉にならない。「すげぇよ…」これぞ不良帝国。
どうかのフラグが重要なのだ…。つまりゲーム。確かに視界
動かぬ証拠を発見して喜ぶ私はゴシップ記者。いや、喜んではいられ
はゼロだったのでさっさと退出。余談だが WTC ビルは、一
ないのだ。可能な限り警官の隣に立ち、防衛力をアップする。いつど
般通路にも絨毯が敷かれ、高級そうな石がふんだんに使われ
ている、リッチマンの象徴のようなビルである。
こからヤク中野郎に奇襲されても不思議ではない列車である。
• 続いてニューヨーク証券取引所 (NYSE) の見学だ。かの有名
乗客の種類はさすが人種のるつぼというだけあって、割合もほとん
ど同じに三色混合だ*74 。どう見ても日本人に見えるビジネスマンも、
なウォール街 11 番地。アメリカの国旗がでかでかと飾られ
隣の人とちょっと会話*75 するときの発音がネイティブなので非常に
ているのは有名だ。マンハッタンの南端 (lower) は経済の中
違和感を感じる。さすがに幾多の戦いを生き延びてきたので、ひどく
心で、巨大ビルがバンバン建っている。NYSE には専用の見
迷うことはなかった。快速から各駅に乗り換えるところで少し困った
学コースがあるが、残念ながら経済学は全く分からないので、
が、マンハッタンの地形が頭にはいっていれば、それほど混乱するよ
自慢げに繰り出される怪しい略語のオンパレードに翻弄され
うな要素はない。しかし逆に、これに昨日乗らなかったのは正解だ。
て右往左往。あぅ、帰国したら勉強して出直してきます。
• 中央郵便局で自宅向けに手紙を出してから、オペラ会場に向
19 時の時点でこれなんだから、深夜に乗ったら本当に命が危ない。
かう。チケットはあるがタイトルも作者も聞いたことがない。
開演は夜 6 時くらいだ。ストーリーは徹頭徹尾分からなかっ
4 その他諸々の話
◆
たが、雰囲気だけは堪能した。オーケストラ付きの大マジな
オペラである。立ち見の値段は 15 ドル。
最終日の今日 (20 日) も朝から土砂降りの大雨だ。さすがにこれか
昨日の同じ時間にいた地下の壮絶な廃坑と比べると、天地の
らワシントンに行こうという気分にはならない。M 氏が前にアメリ
差がある。それはそのまま、アメリカ社会の貧富差を示して
カの天気の移り変わりはスケールが大きいと言っていたのを思い出
いるかのようだ。オペラハウスでは浄水器を通した水がふん
す。つまり、日本のように一日単位でころころ天気が変わることは余
だんに振る舞われ、休憩時間には燕尾服の男女が歓談する。
りなく、数日単位でかわるのである。雨なら数日間どっと雨が降り、
映画に出てくるような上流社会である。旅行者とはいえ、ボ
晴れなら晴れで数日間晴れが続く。今日はさすがに連日の強行軍が
*73
*74
*75
*76
*77
*78
ここで断っておくが、以下の記述は旅行当時のもので、その後の IT 繁栄でだいぶ改善されたということだ。
アメリカは他民族国家である。血族で国をまとめることが出来ない。で、何らかの理念で国をまとめる必要があった。それが「自由」である。黒人の扱い
は「建国理念の象徴」といった感じである。少なくとも表面上は差別が見られない。
会話というか「excuse me」である。彼らはこの語を多用する。日本なら、ちょっとぶつかったくらいでいちいち「すいませんすいません」を連呼した
りはしないが、アメリカ人はする。本当にいちいち言う。しつこいくらいだ。なぜだろう? やはりそういう挨拶をしないと危険だからではないだろうか。
人種差別をするつもりはないが、やはり移民族の顔と言うものは表情が分かりにくいのだ。というか、何を考えているか分からず怖い。だから最低限のマ
ナーを非常に厳しく言われるのだろう。それはキリスト教云々ではなく、平穏に命を維持するための必然的な方便なのだ。
65st. ブロードウェイで降りて地下鉄 1 号か 9 号の 66st. で下車。
数年後に起こる惨劇を誰が予想し得ただろうか。あの頃行っておいて良かったな。
ニューヨーク地下鉄の規模は東京の比ではない。なんせ主な空港に地下鉄だけで行けてしまうのだ。営団地下鉄が成田まで延びているようなものだ。しか
17
ロのジャンパーを着てる自分が恥ずかしくなるくらいだ。
この後書きは紙面調整のために書いたもので、別に面白くはないので
• オペラが終わり、そのまま空港に向かう。当初は地下鉄 A 線
読まなくてもいい。よくぞ無事に帰ってきたというのが正直なところ
で2
時間かけて空港までいってやろう*78 と目論んでいたのだ
だ。結果として英語力はぜんぜん向上しなかった。それもそのはず、
が、さすがに時間がない。来るときと同様のバスを使うこと
1 週間くらいで上達できるなら留学なんて必要ないのだ。しかし私は
にした。本当は 1 回くらいイエローキャブに乗ってみたいの
英語力の代わりに思いも寄らぬ能力を得た。それは言語など全て飛
だが、何と無くもう疲れた感じである。タクシーくらいいつ
び越えて、超感覚的に相手の言いたいことを理解する能力だ。文化を
でも乗れるさ。
超えた人間普遍の常識といってもいい。生きるために藻掻いた果て
地下鉄で 42st. のインフォメーションに行く。そしてしばし
にあったのは、極めて原始人的な野生の勘であった。発音の中に一単
立ち尽くした。「どうやってバスに乗ったらいいのだろう?」
語でも聞き取れるものがあれば、その全貌を推察し、それなりの対処
またもピンチ到来かと焦る。今までのパターンからすると、
が出来るようになった。これは生の体験がなせるワザである。学校
ここでまたバスに乗り遅れてピンチになるのだ。こうたびた
で教わる英語は焼き魚のようなもので、生の魚が持つ風味とか生臭さ
びピンチにあっていると、過敏的な防衛本能が働いてしまう。
はない。焼き魚の好き嫌いで刺身の善し悪しを論じるのは確かに愚
しばらくウロウロしていると身なりの汚い黒人風の男が話し
かなことであろう。翻訳家の彼にアメリカの悪口を書きながら、ふと
かけてきた。「どこへいく?」
「JFK」
「こっちだ、こい」…っ
奇妙な親密さを感じた夜があった。
て、本当についていっていいのだろうか。あなたならどうし
海外旅行者の間でよく語られるのは「最初にインドに行くと旅行が
ます? 何と無く嫌な予感がする。いつでも逃げられるように
やみつきになる。最初にアメリカやヨーロッパに行くと、海外旅行に
絶妙な距離をとりながら、ついていく。案内されたのはグレ
は取りつかれない」という文句だ。インドというのは確かに凄いとこ
イハウンドではないエクスプレスバス(オリンパス)のチケッ
ろで、空港に着いた瞬間から日本人めがけてバクシーシの人垣が攻め
ト売り場だった。12 ドルというのは安くていい。毎日出ると
てくる。あれをくらえば、確かに病みつきになろう。しかし、アメリ
書いてある。それもいい。問題は客が誰も並んでいない点だ。
カだってやり方次第では十分に堪能できるのである。その後、私は世
グレイハンドの方には 20 人くらいが列を作っている。オリン
界を巡る貧乏旅行者の仲間入りを果たしたが、未だに最初のアメリカ
パスが何だか分からない以上、下手なものに手をださないほ
旅行ほどのスリルは再来しない。
うがいいと判断。黒人の彼にはありがとうといって、グレイ
未だに日本から出たことのない人には是非どこでもいいから海外
ハウンドにならんだ。待つこと 5 分。やってきたバスの運転
に出ることを勧めたい。英語ができるできないは関係ない。それは
手に「JFK にいきたい」といったらあっさりと「あっちだ」
私が身をもって証明した。できればお金を掛けない旅がいい。その
といわれてオリンパスを指された。なんと、彼は正しかった
方がスリリングだからだ。最後になるが、海外旅行の最初の一歩を与
のだ。申し訳ないことをした。
えてくれた STA トラベル社とユナイテッド航空に感謝する。このよ
やがて人がちらほら並び始めた。すぐ後ろは黒人の割腹の
うな企画が今後も続くことを希望している。
よいおばさんである。彼女は何だかイライラしていた。私と
目があったとたん、「あんたどこにいくの?」と聞いてきた。
辛うじて聞き取れたけど、英語は苦手なんだってば。「ケネ
●持ち物一覧
ディ」とだけ答える。「私もよ、これかしら。聞いてくるから
▷ 現金
▷ カード
▷ パスポート
▷ 国際学生証
▷ 筆記具ノート
▷ ビタミン剤
▷ 抗生剤
荷物を見ていてね」と有無を言わさぬ感じで聞きにいった。
すごい迫力だ。この荷物、爆弾じゃなかろうな。彼女の行方
を見ると、バスの運転手と猛烈に早い英語で何事かを喋って
いる。彼女はすぐに戻ってきて私に「Come together!」と
命令し、ノシノシと大股でステップを上っていった。やっぱ
ニューヨーカーは違う。このノリなら、あの地下鉄の惨状が
▷ ビニール袋
▷傘
▷ 時計
▷ 石鹸
▷ 洗剤
▷ 地図
▷ 手ぬぐい
▷ 携帯ティッシ
▷ 歯磨き歯ブラ
ュ
▷ 睡眠剤
▷服
▷ 文庫本
▷ カメラ
▷ 小さな手提げ
シ
▷ 旅行保険証書
▷ 英和和英辞典
▷ モバイルギア
▷ 乾電池
納得できるというものだ。夜の 9:05 に 42st. のターミナルを
出発し、9:44 空港着*79 。飛行機出発は 11:45 だ。まったく問
題なし。運転手はケンタッキー人形のような感じの人で、出
偏差値30からのアメリカ独り旅
発前にハンバーガーを 3 個も食べていた。カウンタには全然
2003 年 4 月 29 日 初版発行
2016 年 4 月 29 日 PDF 版公開
並んでいなかった。夜遅いせいだろう。チケットは会話なし
著 者 シンキロウ(しんきろう)
発行者 星野 香奈 (ほしのかな)
発行所 同人集合 暗黒通信団 (http://www.mikaka.org/~kana/)
〒277-8691 千葉県柏局私書箱 54 号 D 係
頒 価 0 円 / ISBN978-4-87310-***-* C0036
にあっというまに取れて、待合ロビーのコンセントにモバイ
ルギアを繋いで、今この記録を書いている。
∑
∞
·`·
6 終わりに
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乱丁・落丁は在庫があればお取り替えします。単純なミスは脳内で補
完してください。内容のミス、反論は遠慮なくお寄せください。
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2003-2016 暗黒通信団
Printed in Japan
も安い。1.5 ドルの均一運賃。ここまでは明らかに東京を凌駕している。しかし、内容は先刻承知の危険さ。よく思い出すとニューヨークという町全体が
汚いのだが。
*79 アメリカの高速道路は広いが、質が悪い。舗装技術が甘いせいか、それとも単に手抜きなのか、路面が凸凹していて日本の 6 メートル一般公道と同じくら
いの感じだ。
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