ウォルツァー正戦論は戦争を抑止するか ――現代における正戦論の意義

ウォルツァー正戦論は戦争を抑止するか
ウォルツァー正戦論は戦争を抑止するか
――現代における正戦論の意義と限界――
吉田 和則
序章
――――― いま、なぜウォルツァー正戦論か
第1章
正戦論、現実主義、平和主義
第1節
現実主義批判
第2節
平和主義批判
第2章
戦争への正義
第1節
侵略に対する自衛
第2節
先制攻撃
第3節
介入
第3章
戦争における正義
第1節
功利主義批判
第2節
二重効果
第4章
終章
序章
究極の緊急事態、徴兵制、良心的兵役拒否
第1節
究極の緊急事態
第2節
徴兵制と良心的兵役拒否
――――― ウォルツァー正戦論の意義と限界
――
いま、なぜウォルツァー正戦論か
マイケル・ウォルツァーは、『正義の領分』1以来、ジョン・ロールズ『正義論』に端を発するリベラリズム対共
同体主義論争のなかで、マイケル・サンデルやチャールズ・テイラーらとともに、共同体主義者として知られ
るユダヤ系の政治理論家である。政治的な立場としては左派に位置付けされている2。
一方で、彼の『正義と不正義の戦争』3は、現代の正戦論(Just War Theory4)の古典と称されるまでの
高い評価を受けてきた。いまウォルツァーの正戦論が特に注目されるのは、9.11 後の米国によるアフガン空
爆を彼が支持することを表明したからである。「我々は何のために戦っているのか?」5と題された空爆支持
の内容の公開書簡に、サミュエル・ハンチントンやフランシス・フクヤマといった保守派と並んでウォルツァー
の署名も添えられていたのだ。この事は、彼に共感を寄せてきた人々の間でとまどいをもって受け止められ
た。
9.11 以後、米国全体が右傾化していると言われるが、ウォルツァーもまた 9.11 を機に転向したのだろうか。
エドワード・サイードや早尾貴紀、杉田敦によればそうではない6。ウォルツァーのアフガン空爆支持は彼の
正戦論の当然の帰結であり、右の公開書簡では単なる一署名者ではなく理論的支柱をなす中心的役割を
も果たしたという。彼らはウォルツァーの正戦論が戦争を制限するのではなく、もっぱら「われわれ」7の戦争
を正当化するためにしか機能しないものだと、批判的に見ている。(ただし、ウォルツァー自身の弁明を顧み
ると、彼はアフガン空爆を手放しで正戦だと支持しているわけではないし8、続く対イラク戦争については戦
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久保文明研究会 2003 年度卒業論文集
争反対の立場をとっている)。
こうした状況にあって、ウォルツァーの正戦論を研究することは今日的意義があると考える。もとよりウォル
ツァーは高名な学者であるし、彼の『正義と不正義の戦争』は正戦論の古典的教科書として英語圏の大学
において多く採用されており、その意味で本稿は米国政治研究、米国知識人研究としての意味も持ってい
ると信じる。ここで先行研究について言及しておきたい。ウォルツァーのアフガン空爆支持を契機に、現在
に至るまでウォルツァー論、それも正戦論に絡んだ論考がいくつか書かれているが、まず、ウォルツァーの
アフガン空爆支持を受けて、我が国でいち早くこれを論じたのが早尾貴紀だった。「『正義のための戦争』と
『戦争のための戦争』」(2002 年)はウォルツァーという米国知識人、ひいては米国の戦争に対する痛烈な
批判となっている。ウォルツァーの正戦論により主眼を置き体系的に論じたものとしては杉田敦「二分法の
暴力」(2003 年)や片野淳彦「マイケル・ウォルツァーの戦争論とその今日的意味」(2003 年)が挙げられる。
またブライアン・オレンドの“Michael Walzer on War and Justice”(2001)もウォルツァーの正戦論を整
理・検討したものとして単行本の形で出版されている。
さて、これらの先行研究を踏まえて、本稿では『正義と不正義の戦争』を中心に、ウォルツァーの議論を
整理しどのような問題があるか検討する。同様の研究は前述の通り杉田やオレンドによって既になされてい
るが、本稿では以下の点の論証に重点を置くことでオリジナリティとしたい。すなわち、ウォルツァー正戦論
は戦争を抑止する働きを持つのだろうかということを第一に明確にする。ウォルツァー正戦論に限らず、一
般に正戦論とは不正な戦争を制限する一方で、正しいとされた戦争に対しては正当化の根拠を与えるもの
である。つまり、許容されない戦争と許容される戦争との間に境界線を設ける。本稿で明らかにしたい事は、
ウォルツァー正戦論の境界線を引く基準が戦争に対して緩慢であるのかそうでないのか、ということである。
(もちろん、戦争は抑止されてしかるべきだという考えが暗黙裡にある)。その他の論点も構成に即して盛り
込むことで充実した論考にしたいと考える。
以下ではまず戦争に対して正戦論とは異なる思想を持つ現実主義、平和主義と比較検討することでウォ
ルツァー正戦論の性格を浮き彫りにする。ついで正戦論の骨格となるふたつの判断基準「戦争への正義」
と「戦争における正義」を検討する。またウォルツァー正戦論の際立った特徴である「究極の緊急事態」と呼
ばれる例外規定について考え、最後に徴兵制と良心的兵役拒否の問題にも言及したい。これらの作業を
通してウォルツァー正戦論がもつ意義と限界とが明らかにされるはずである。
第1章
正戦論、現実主義、平和主義
正戦論の前提となる考えは、戦争のなかには正しい戦争と正しくない戦争がある、というものである。正し
い戦争とは正しい目的(「戦争への正義」)と正しい手段(「戦争における正義」)でもってなされる戦争のこと
である。不正な戦争は排除されなければならないし、正しい目的のためでも戦争は道徳的に正しい手段で
遂行されなければならない。逆に条件を満たすならば「戦争が道徳的に許されるだけでなく、戦争が必要と
される場合もある」9。このように正戦論は戦争を制限するものであり、他方で正当化するものでもある。どち
らにより強く作用する傾向があるのかは論者によって異なるのであり、ウォルツァー正戦論はどうかということ
は第2 章で検討する。ここでは現実主義、平和主義との比較を通してウォルツァー正戦論を特徴づけたい。
ウォルツァーの考えでは、戦争に正邪をつける正戦論には大きくふたつの対抗勢力がある。すなわち、戦
争には正しいも正しくないもないとする現実主義と、すべての戦争は悪であるとする平和主義である。
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ウォルツァー正戦論は戦争を抑止するか
第1節
現実主義批判
現実主義者は国際社会を力が支配するアナーキーな世界だと認識する。戦争は政治の延長であり、正
当な外交手段のひとつですらある。必要であれば戦争に訴えることを道徳的にためらうことはない。また戦
時において人々はなによりも「彼ら自身と彼らの共同体を救わねば」ならず、「道徳と法の居場所はない」。
つまり「Inter arma silent leges:戦時に法は沈黙する」のである10。法のみならず私たちもまた「戦争を賞
賛することも非難することもできず、黙るしかない」というのが現実主義者の戦争観である。また一般に国家
の目的は主権の維持、安全保障といった国益を追求することであり、戦時には戦争に勝利することを至上
に考えなくてはならない。よって、正戦論者が主張するように戦争の手段に制約を設けることは、現実主義
者にしてみれば勝利という目的の達成を困難にするので受け入れられないことである。制約なしにできるだ
け強力な手段を用いたほうが結果的に犠牲者が少ない場合もある11。さらに、現実主義の立場からすれば、
自ら「正義」を振りかざして戦うほうが暴走を促しかえって戦争における破壊性・残虐性を増すのではないか
という危惧もある。以上が現実主義の正戦論に対する批判である。
ひとつずつ検討していこう。まずウォルツァーは、戦争と道徳が無縁であるとする現実主義の考えに反発
する。歴史を振り返ってみれば、人々はできるだけ戦争を回避しようとしてきたし、戦時においてもできるだ
け道徳的に振る舞ってきた。さまざまな「戦争法規」(War Convention)の存在がその証拠である12。またも
し本当に戦時において道徳的配慮が必要でないのであれば、政治家や兵士たちは自らが行う戦争に関し
て良心の呵責を覚えることはないはずである。従って嘘をついたり偽善を取り繕ったりする必要もない。しか
し、実際はそうではない。彼らは道徳意識があるからこそ「自分たちを正当化するために嘘をつく」13のであ
る。つまり、政治家や兵士たちの嘘や偽善は、戦時であっても私たち人間が道徳の意識から逃れて行動す
ることはできないということを逆説的に示しているということである。道徳にウォルツァーがこだわるのは、彼の
次のような世界観によるのだと思われる。すなわち、私たちが活動するのは「道徳的な世界」であり、そこで
の「道徳的な語彙」は「十分に共通で安定した」ものであるから「共有された判断」を下すことが可能であると
いう世界観である14。こうした世界観に基づき、ウォルツァーは戦争を道徳的に語る正戦論を以下展開して
いくのである。
次に手段に制約がないほうが結果として犠牲者を少なくする場合もあるという現実主義の功利主義的な
主張に対してもウォルツァーは反論する。ウォルツァー正戦論にはまず「無辜の市民(非戦闘員)を意図的
に殺傷してはならない」という制約がある。結果的に犠牲者が最小となろうとも、市民を意図的に攻撃すると
いう手段は排除されなければならない。また功利主義の考えでは、攻撃によって得られる利益の大きさによ
って許容される犠牲・コストの大きさも変わるというふうに、正しさの基準が時と場合によって変化する。それ
では結局は目的が正しければ何をしても許されるということになりかねず、これはウォルツァーの受け入れら
れるところではない。(非戦闘員の意図的攻撃の禁止と功利主義批判については第 3 章で詳述する)。
では、戦争に正義の概念を持ち込むほうが暴走の危険があるとする指摘はどうだろうか。たしかに、自ら
の正義を過信した暴力ほど厄介なものはないと言えるかもしれない。キリスト教の十字軍や現在のイスラム
過激派によるテロリズムなどの「聖戦」はその最たる例といえるだろう。(逆に多少なりとも自らの正義を信じ
ないで戦う者などいるのかという疑問も湧くが)。この点についてウォルツァーの考えを示唆する文章があ
る。
聖アウグスチヌスはどこかでこう論じていた。正しい戦争とはつねに憂鬱な兵士によって戦われるべ
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久保文明研究会 2003 年度卒業論文集
きである。彼らは戦争の興奮によって駆り立てられないだろうし、喜んで迎え入れてしかるべき勝利
であっても、勝利を導いた手段によって汚されることもあるという真実を理解するだろうから、と15。
これは「ヒロシマから50 年」と題する『DISSENT』(異議)誌上シンポジウムからの引用であるが、ウォルツ
ァー正戦論の文脈に当てはめて解釈することも可能であろう。すなわち正しい目的の戦争だからといってあ
らゆる手段が正当化されるわけではない。正義の御旗に鼓舞されることなく、あくまでも正しい戦争は正しい
仕方で戦われなければならない。つまり、暴走した時点で正戦は正戦ではなくなるのであって、「正戦は暴
走する」と批判するときの現実主義者は正戦論のひとつの側面(「戦争への正義」)しか見ていないのであ
る。
第2節
平和主義批判
一方、戦争はそれ自体悪であるとしてすべての戦争を拒否する平和主義であるが、これにはふたつの立
場がある。決して暴力という手段に訴えなければ長期的にみて最も害が小さく利益が大きい、あるいは戦争
が生む利益は決して戦争のコストを上回らない、と主張するような帰結主義的・功利主義的立場と、戦争は
人を殺さないという最も重要な正義の義務を破るので許容できないとする義務論的立場である16。歴史を顧
みるに、トルストイやガンジーらの立場は後者に分類してよいだろう。
当然ながらウォルツァーはどちらの立場も受け入れない。『正義と不正義の戦争』のあとがきにおいて平
和主義、とりわけ非暴力抵抗の思想と行動について批判を展開している。ある状況を想定してみよう。「自
国が侵略され、市民が虐殺されている、生き延びたとしても待っているのは隷従の生活である」。そのような
状況でも武力で対抗するという手段を選べないという平和主義、非暴力抵抗主義はウォルツァーにとって容
認できないことである。なぜなら、ウォルツァーが重視する個人の自由・生命と共同体の主権が侵害される
のをただ認めるしかないからである。非暴力・不服従やボイコットは侵略戦争を政治闘争へと変化させ、や
がては侵略者を追い出すとするガンジーらの考えに対しては、それは侵略者が戦争法規を遵守する限りで
のみ可能であり、実際には侵略者は戦争法規を蹂躙することがしばしばであるとウォルツァーは反論する。
また、そもそも全体主義のような極限状況で非暴力的な抵抗がどれほどの有効性を持つのか疑問を提示し
ている。さらにガンジーはドイツのユダヤ人に対して、ナチスの支配に暴力で報いるよりもむしろ自殺すべき
だと説いたが、これを指してウォルツァーは極限状況における非暴力は自らへの暴力に他ならない、と辛辣
な批判を加えている17。
非暴力・無抵抗の平和主義に対しては次のように反論することもできるだろう。もし現状が上記のように不
正義と抑圧に満ちており、それに対して力をもって戦うことすら許されないとしたら、平和主義は結果として
不正義を黙認し、肯定することになる。それは不正義への間接的加担ですらある18。誰ひとりとして、どんな
他人に対してもいかなる暴力も決して使ってはならない、被害者が加害者に対してすらも、というのは、確か
に首尾一貫した信念ではある。しかし、ある忌まわしい決まり文句を言うならば、トルストイ=ガンジー主義
者は誰かが自分の姉妹を強姦するのをやめさせるためにも実力行使ができないのである19。この場合もや
はり不正義の間接的加担であるといって差し支えない。個人も共同体も、正義さえも守ることのできない平
和主義が目指すのは何なのだろうか。一般に平和主義を批判するにはその理想の実現に対する楽天主義
あるいは無関心ないし無為無策を突くことが有効である20。帰結主義的平和主義に対しては特にそうだとい
えよう。
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ウォルツァー正戦論は戦争を抑止するか
ただ、義務論的な平和主義に関しては実は正面から論駁することは困難である。自らの生命をも犠牲に
してでも非暴力を貫き、人を殺さない彼らは道徳的には完全性を持つからである。(不正義を黙認するとは
いえ直接の罪は彼らにはない)。ここで正戦論者は、戦争のやり方によっては戦争を行うことが道徳的純粋
性を損なうものではないことを主張する必要に迫られる。現実主義と違って正戦論は戦争を道徳的に語ら
ねばならないのである。そのためにウォルツァーは、市民の意図的殺害と付随的結果としての市民の犠牲
を区別する「二重効果」という概念を用いることで戦争の正当化を試みるのである。(この点については後述
する。第 3 章参照)。しかしながら、どのような理論によってであれ、戦争を正当化することは、究極的には、
人を殺すことを正当化することである。個人、共同体、正義などおそらくは正当な目的のためとはいえ、人を
殺すことがなぜ許されるのかという根本的な問題に、実は正戦論は答えていないという批判がある21。もっと
もこの点についてウォルツァーは、もとより深く考えるつもりはないようである。
この本は実践的な道徳の本である。現実世界での判断と正当化の研究はおそらく、道徳哲学のもっ
とも深遠な謎に私たちを引きつけるが、しかしその研究はそれらの謎との直接の繋がりを必要としな
い。実際、そのような繋がりを追究する哲学者たちはしばしば政治的、道徳的論争の即時性を逃し
てしまい、困難な選択に直面した人々への助けを提供することはほとんどない22。
たしかに、現実問題として、例えば今まさに敵と向かい合っている兵士に「人間を殺すことはなぜ許され
るのか」などという哲学的な根本問題を持ち出しても無意味であろう。滑稽ですらある。逆に正戦論の立場
から平和主義を批判するならば、「現に殺されている人がいる状況に対してどうするのか」という問題に対し
て、「自分はとにかく人を殺さない」とする平和主義のほうこそ、問題に対して正面に立っておらず、誠実な
答えを用意していない、と言うことができるだろう23。実際、平和主義は戦争に非道義のレッテルを貼って済
ませてしまう傾向があり、それ以上に倫理的な考察が展開される余地はない24。それは結果として「戦時に
法は沈黙する」という現実主義の主張と同様の思考停止、判断放棄と同罪ではないのだろうか25。
以上、現実主義、平和主義との比較で明らかになったことは、ウォルツァー正戦論の中道的性格である。
すなわち、現実主義より戦争に対して慎重でありしかも道徳的である。一方で平和主義ほど寛容ではなく、
場合によっては戦争という手段をとらざるをえない状況があることを認める。こうしてみると、ウォルツァーが
依って立つ正戦論は妥当なものだと言えるのではないか。少なくともそれ自体戦争を積極的に促すもので
なく、むしろ戦争を制限し、開戦された場合でもできるだけ被害を少なくするように努めようとする思想に支
えられているようにみえる。では、ウォルツァー正戦論にあっては、どのような戦争が許容されるのだろうか。
また開戦された場合どのような手段の制限が規定されているのか。このことが一番の焦点になってくる。次
の章でそれを検討する。
第2章
戦争への正義
前述の通り、正戦論は戦争の目的を制限する「戦争への正義」と、戦時の手段を制限する「戦争における
正義」とのふたつの判断基準を持つ。前者の「戦争への正義」から検討しよう。どういう場合に戦争が許容さ
れるのかという問題である。ここではウォルツァーが正当化できるとする侵略に対する自衛、先制攻撃、介入
について順に見ていき問題点を指摘したい。
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第1節
侵略に対する自衛
まず侵略に対する自衛26であるが、これは「政治的共同体の権利」27によって正当化される。既存の境界
線を維持することが重要であり、もしそれが侵犯された場合、原状回復に努めなければならない。興味深い
のは共同体主義に立つウォルツァーが政治的共同体の権利の源泉を、共同体を構成する個人の権利に
求めていることである。『正義の領分』でウォルツァーは次のように述べている。
戦争について書いた際、私は権利という考えに深く依拠した。というのは、戦争における正義の理論
は、最も基本的で最も広く承認されている人類のふたつの権利からもたらされる――しかもそれは
最も単純な(否定)形をとる――からである。すなわち、生命あるいは自由を奪われない権利。おそ
らくさらに重要なことは、このふたつの権利が、私たちが一般に戦争時に行う道徳的判断に説明を
与えてくれるように思えるという点である28。
ここでの権利概念は現実的な働きをしているとウォルツァーは言い、『正義と不正義の戦争』でも大文字
の「契約」概念を持ち出している29。正戦論を語るときのウォルツァーは近代政治思想の伝統に依拠して論
を進めていると言えるだろう。いずれにせよ、こうした理由からウォルツァーは個人の生命と自由の権利を重
視し、ひいては個人から構成される政治的共同体の維持もきわめて重要視する。よって、侵略されても反撃
すべきではないとする平和主義の主張は当然退けられるわけである30。侵略に対する自衛の権利は広く認
められているところであり、この点でウォルツァー正戦論に特に問題はないだろう。
ただ議論の余地がありそうなのは、次のようなケースの判断である。すなわち、敵の力が強大で戦えば犠
牲がさらに大きくなりそうな場合である。現実主義、功利主義の立場であるならば降伏という選択を取り得る
だろうが、ウォルツァーはそれを許さないのである。仮に戦ったほうが犠牲者が多くなり損である場合でも、
侵略された共同体は抵抗しなければならないという。「勝ち目のない者」(underdogs)でも「彼らの戦いは
正しい」31。これは一種の義務論的立場である。しかしこの選択は、ウォルツァーが批判する「殺されても決
して人を殺さない」という姿勢を貫く義務論的平和主義者の裏返しに過ぎないのではないか。無謀な戦い
に挑むことは本末転倒な選択だと私には思える。結果としてより多くの無辜の市民(しかも仲間)が犠牲にな
るのならば、功利主義的にも道徳的観点からも擁護できる選択ではない。後に少し触れるが、一般の正戦
論では「勝利の見込み」があることも条件となっている32。なぜそこまで共同体の維持に執着するのだろうか。
ウォルツァーは次のように言っている。
個人がたまに殺されるような世界で暮らすことは可能だが、人々全体が隷属したり虐殺されたりする
ような世界は、文字通り耐え難い、というべきであろう。政治的共同体――その構成員が、先祖が発
展させた生活様式を共有し、それを子供たちに伝えていくような――の存続と自由は、国際社会の
最高の価値だからである33。
共同体への強いコミットメントがいささか正直すぎるほど表れている。共同体のために戦えという根拠とし
て挙げるならば、次の文章がより適切かもしれない。彼の著書『義務』に所収されている「国家のために死ぬ
義務」という論文でこう述べている。
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ウォルツァー正戦論は戦争を抑止するか
良き社会は、道徳的団体の道徳的成員が自らの十全の発展を実現させるところである。…(中略)
…国家が危機のときには、その市民たちはあらゆる個人的な危険を忘れ、防禦に馳せ参ずる。彼ら
は国家のために喜んで死ぬが、それは国家が彼らの生命を保護してくれるからではなく…(中略)…
国家が彼らの共同の生活(コモン・ライフ)だからである。国家が存続する限り市民の何かは生き続
ける34。
上の論文では、国家のために市民は死ぬ義務はないとするホッブスと、国家のために死ぬ義務があり、
同時に国家が死ぬための動機を提供するとさえ主張するルソーを対比させ論じたなかで、明らかにウォル
ツァーの共感はルソーに寄せられている。そのために死ぬに値する社会であり、その市民たちは公的な理
由のために自らの生命を危険に晒す義務が実際にある、それが良き共同体であるとウォルツァーは信じて
いるのだ35。故に、いくら敵が強大で負けの公算が大きかろうとも、共同体のために戦わずして個人の生命
のみを守ろうとする選択はウォルツァーには受け入れがたいのである。いずれにせよ、ここでは彼の共同体
主義者としての側面が色濃く出ているといってよいだろう36。あるいは、聖地は命を賭しても守らねばならな
いとするユダヤ教のシオニズムとの親近性を認めてもよいのかもしれない。
第2節
先制攻撃
驚くべきことに、ウォルツァーは先制攻撃(予防攻撃)37も場合によっては正当化されるという38。ある国 A
が軍事力を増強させている場合、これに脅威を感じた近隣の国 B が実際に侵略される前に予防的に国 A
を攻撃することも正当化されるというのである。具体的な歴史から議論を抽出するのがウォルツァーの特徴
であるが、ここで引き合いに出されたのは 1967 年の第三次中東戦争である。(原書では「六日間戦争」)。
この戦争はアラブ民族主義の高揚に対する危機感からイスラエルが先制攻撃を仕掛けて始まったもので、
アラブ側は短期間で壊滅的敗北を喫した。後にエジプトのナセルにイスラエルに対して攻撃を仕掛ける意
図がなかったことが判明している。それでもウォルツァーはイスラエルの軍事行動を正しかったと言うのであ
る。
国家は、軍事力の不行使が、彼らの領土的完全性や政治的独立の深刻な危険につながる場合には
いつでも、戦争の脅威を目前にして、軍事力を行使することができる。そうした状況では、彼らは戦うよ
うに強いられたといえるし、侵略の犠牲者であると言っても差し支えないのである39。
ウォルツァー自身、このルールは緩い40と言っているように、率直にいって慎重さに欠けたと言わざるをえ
ない。脅威を感じただけですなわち犠牲者とみなすというのは明らかに論理の飛躍がある。しかも、脅威感
を理由に先制攻撃を正当化する理論は、逆に先制攻撃を自らが受ける危険性を誘発しかねない。例えば
北朝鮮と韓国の例で考えてみる。韓国が北朝鮮の核に脅威を感じ先制攻撃を仕掛けたとする。これはもち
ろん正当化されるのであろう。では次の場合はどうであろうか。韓国が実際に北朝鮮に攻撃を仕掛ける前に、
逆に北朝鮮側が「韓国は我々を脅威とみなし、攻撃しようとしている、これは脅威だ」としていわば先の先を
取る形で韓国を攻撃した場合である。脅威を理由としている以上、ウォルツァーの正戦論では正しい攻撃と
なってしまわないだろうか。かくして、どちらが先に攻撃しても正当化されるというアナーキーな無差別戦争
観の世界に陥ってしまい、そうなると正戦論、なかでも「戦争への正義」は立ち消えとなってしまうだろう。
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そもそも、先に挙げた「侵略に対する自衛」と「先制攻撃」は原理的に相反する概念ではないのか。(言葉
の上では「自衛のための先制攻撃」とも言えるかもしれないが)。この背反しがちなふたつの概念をひとつの
正戦論のなかに整合性をもって組み込むことは困難である。つまり、ウォルツァーの議論では、先に国境線
を越えて攻撃することが、場合によっては不正な「侵略」となったり、逆に正当化可能な「先制攻撃」となった
りする。そしてその基準が必ずしも明確ではないために、判断は結局のところ恣意的にならざるを得ない。
それでは正戦論としては一貫性に欠け信頼性を損ねることになってしまう。
加えて「脅威を予防する」という発想からして、そもそも自分の優位から議論を始める強者の理論ではな
いのかという感がある。また先制攻撃が正しかった例としてイスラエルの行動しか挙げられない点も公正な
説得力に欠けると思われる。ウォルツァーはユダヤ=アメリカ側に属しているからだ。それが判断に偏りを与
えていないとは断言できない。(出自がユダヤ系であるネオコンが先制攻撃の成功例としてよく引き合いに
出すのも、1981 年のイスラエルの空爆によるイラク原発施設の破壊である)。いずれにせよ、先制攻撃につ
いては疑問が多い。第一攻撃甘受、専守防衛といった姿勢を取るほうが正戦論としてはより一貫性があるし、
より道徳的であると言えないだろうか。
第3節
介入
政治的共同体の主権を尊重するウォルツァーは他国の介入には慎重である。共同体の「自決」と「自助」
が原則だからである41。そもそも介入は非自衛の戦争であるから、武力行使する権利がどこからくるのか不
明瞭である。(先制攻撃のときでさえ共同体を自衛する権利という大義名分が使えた)。しかしながら、介入
が正当化される場合もあるとウォルツァーは考える。
すなわち現代においては、武力による侵略だけでなく、国内における人権抑圧、内戦、飢餓、虐殺などによ
って国際社会の平和と安定を脅かし国家の主権が侵害されている場合がありうる。このような事態に対して
武力による内政干渉が倫理的に容認される場合がウォルツァーの分類によるとみっつある42。第一は国内
で抑圧されている民族の自決を助ける介入、第二は内戦の一方に他国が支援した場合別の国が内戦のも
う一方に加担する対抗介入、そして第三は人道的介入である。近年注目されているのは 3 番目の人道的
介入であろう。これについてウォルツァーは次のように定義づけている。
人道的介入は「人類の道徳的良心に衝撃を与える」振る舞いに対する反応(成功の合理的な期待をと
もなった)であるときに正当化される43。
もっとも、正当化される条件を述べているだけで、実際には最上敏樹の指摘する通り44、ウォルツァーは
人道的介入には懐疑的であるようだ。
これぞ人道的介入と呼べる事例はきわめてまれである。実際、私は適切な事例を見つけられず、わ
ずかに人道的な動機とそれ以外の動機の入り混じった事例のみしか発見できなかった。国家は自
国の兵士を他の国々へただ命を救うためだけに派兵するようには思えない。外国の人々の命は国
内の政策決定の尺度のなかでは重みを持たない45。
一応の事例としては、1898 年スペイン統治時代のキューバを支援した米国の介入と、1971 年バングラ
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ウォルツァー正戦論は戦争を抑止するか
ディシュ独立戦争時のインドの介入の 2 件を挙げるにとどまっている。もちろん人道的な面を考えて議論す
ることはよいことだが、同時にその他の動機が働いていないか疑ってかかることも道理にかなったことだとウ
ォルツァーは述べる。介入が特定の国の独断で行われ、執行に当たる警察官が自分で自分を任命してい
る点や、介入する国々が人道主義の装いをまといながら実は隣人を威圧し支配することになる可能性があ
ることに恐れを抱いているのだ。このように人道的介入についてウォルツァーはかなり慎重である。
しかしながら、1977 年に『正義と不正義の戦争』の初版が出て以来、1992 年、2000 年と版を重ねるごと
に、新しく追記される序文では人道的介入の必要性が強調される傾向にあるという指摘もある46。それが湾
岸戦争、ユーゴ紛争という契機によることは言うまでもないだろう47。ウォルツァー自身、1977 年の初版では
周辺の議論に過ぎなかった「介入」が劇的に中心の問題へと移動したと認めている。「侵略と自衛から虐殺
と介入への関心の変化は必要な議論をほとんど変更しない」48とも述べているが、結果として、1990 年以降
のウォルツァーが米国の軍事戦略を正当化する議論を展開し続けているのは事実である。(2003 年のイラ
ク戦争を除いて)。介入に対する懐疑・慎重さを捨て、積極的な役割を認めた点で決定的なのは2002 年の
雑誌論文である。『正義と不正義の戦争』では単独国家の介入よりも国連などの国際組織による介入のほう
が望ましいとされていたが、現在のウォルツァーの考えは逆である。すなわち、人道的介入の決定を国際機
関に委ねれば、緊急を要する人権侵害の阻止が遅延することになりかねず、よって、大国である米国が責
任をもって、国連やNATOなど国際組織に制約されずに介入を行うべきだと論じているのである49。先に検
討した先制攻撃論も含めネオコン顔負けの強硬な言説である。(この論文が掲載された雑誌『DISSENT』
はウォルツァーが編集主幹も努める歴史ある左翼誌であるのだけれども)。
このように、ウォルツァーが人道的介入を正戦として積極的に認めるようになったことは否定しがたい。こ
れは、自衛の戦争から他国の領域への介入へと、許容される戦争の範囲が拡大したことを意味している。
人道的介入も含め戦争が正戦論によって判断されるのではなく、逆に正戦論という規範が現実に起きた米
国の戦争によって変容されているという事実は、理論的補強・修正というよりは、ウォルツァー正戦論の恣意
性、御都合主義のあらわれであると言ったほうが正しいだろう。この流れでいくと、およそどんな戦争であっ
ても、米国の行う戦争は「われわれ」を守るための戦争として、その「正しさ」に変わりはないということになっ
てしまわないだろうか。杉田が批判するのもこの点である50。繰返すが、この 10 年余り、ウォルツァー正戦論
は戦争を抑止するのではなく戦争を正当化する傾向にあった。だが、だからこそウォルツァーが今回イラク
戦争に反対したことは救いであった。ウォルツァー正戦論が無制限に米国の軍事行動を正当化するわけで
はないことが明らかになったからである。とはいえ、正当化される介入についての規定については議論の余
地があるだろう。
以上、「戦争への正義」について侵略に対する自衛、先制攻撃、介入を通して見てきた。尚ここでは詳述
しないが、一般の正戦論の「戦争への正義」には「正しい原因」、「正しい権威」、「正しい意図」、「比例性」
(戦争の利益とコストを考慮すること)、「最終手段性」、「勝利の見込み」、「平和という目的」という原則が規
定されている。これらが全て満たされない場合開戦は完全に正しいとは言えなくなる51。
しかし、これだけ条件を整えても、実は「戦争への正義」は開戦を制限するにあたっては無力だという批
判がある。なぜなら、戦争の理由など始める側からすればすべて正しいに決まっているからである。自己正
当化のための論拠などいくらでも挙げることができよう。「今から不正に侵略させていただきます」と宣言して
戦争を始める国などないのである。そしてそこには中立公正な審判などいない52。こうした状況下で、本来
461
久保文明研究会 2003 年度卒業論文集
戦争に一定の歯止めをかけようとする正戦論は逆効果をもたらす。現実主義者が危惧したように正義と正
義の戦いに妥協の余地はなく、敵の殲滅まで続くことになるからである。正戦論、とりわけ「戦争への正義」
は開戦を制限せず、逆に独善的な正義を正当化するために利用される運命にある53。これはウォルツァー
正戦論に限らずすべての正戦論に対してなされる批判である。現代において正戦論、「戦争への正義」を
語ることは果たして適切であるのかという問題である。
正戦論の系譜を辿ってみても同じ問題に突き当たる。ウォルツァーの議論は西欧の伝統的な正戦論に
理論的土台を負っている。ウォルツァーは「正戦論の祖」アウグスティヌス、「近代国際法の父」グロティウス
を経て、二度の世界大戦とベトナム戦争を契機に正戦論を復活させた第三の時代の画期をなす論者であ
る54。グロティウス以後、交戦権をも含めた国家主権の絶対性を前提とする近代国際法のもとでは、一旦戦
争が開始されたならばどちらの戦争当事者が正しいのかは問題とされなかった。こうした「無差別戦争観」
(カール・シュミット)のなかで正戦論の「戦争への正義」は形骸化していったのである。そうなると重要性を
増すのは「戦争における正義」である。
第3章
戦争における正義
ここで検討するのは戦争における正しい手段とは何かという問題である。ウォルツァーは、現実主義者と
は違い勝つためには何をしてもよいとは考えない。あくまでも道徳的に戦い勝利することが重要だとされる。
第1節
功利主義批判
ウォルツァーがまず批判するのは功利主義である。もっとも、ウォルツァーも一定程度は功利主義的基準
を受け入れる。しかし功利主義者と違って正戦論者は、ある手段が勝利という目的に大きく貢献する場合で
も、さらにはたとえその制限に固執することが利益を逃し大きな犠牲を払う場合であっても、実行されてよい
ことには限界があると考えるのである。一種の義務論的立場だと言ってよいだろう。具体的には、人権という
ある種絶対的な基準を持ち込むことで、ある攻撃がたとえ功利主義的に非常に有効な手段であろうとも、そ
の基準に外れる場合、その攻撃は選択肢から外されなければならないという考え方である。例えば、市民の
虐殺や兵士への拷問などはそれが勝利への有効な手段だとしても正当化されない。ウォルツァーはここで
も歴史上の事例を挙げている。すなわち許されざる功利主義的判断の例として、第二次世界大戦中のフラ
ンス軍がイタリア作戦に際して、モロッコ人傭兵の協力と引き換えに、モロッコ人がイタリア女性を強姦しても
それに干渉しないという取引を行ったことを挙げている55。勝利のためであっても敵国の女性の人権蹂躙を
手段として用いてはならないということである。
ウォルツァーが功利主義を批判するのは、功利主義の計算が弱者である非戦闘員に過大な犠牲を要求
する傾向にあるからである56。攻撃の対象が拡大することはすなわち戦争の道徳的損失が拡大することで
ある。それは避けなければならない。故にウォルツァーはとりわけ非戦闘員すなわち無辜の市民の保護を
重視するのである。そしてそのために、戦闘員と非戦闘員との区別を徹底する。
戦争のルールは兵士には殺すための平等な権利があるという中心原理に属するふたつの禁止事
項を含んでいる。第一の項は兵士はいつどうやって殺すことができるかを規定するもので、第二の
項は、兵士は誰を殺してよいのかを限定するものである。私の主な関心事は第二の項にある…(後
略)57。
462
ウォルツァー正戦論は戦争を抑止するか
すなわち、攻撃の対象となるのは戦闘員のみであって非戦闘員は攻撃対象から免除されている58。戦闘
員が攻撃の対象となるは、彼が殺傷能力を持つためと説明される。殺傷能力の保持が攻撃対象の理由で
あるから、それを持たない敗残兵や捕虜などはもはや攻撃してはならない。ゲリラ戦やテロリズムはこの戦闘
員と非戦闘員の区別という原則に反する傾向があるため、正戦ではありえないという。
以上のことから、ウォルツァーがやむを得ない戦争における犠牲を最小限にとどめようと試みていることは
容易に推測がつく。そのやり方は暴力が向けられる対象を兵士に限定することで暴力の及ぶ領分を最小限
に管理しようというものである。しかし、次のような批判がある。すなわち、ウォルツァーは戦闘員と非戦闘員
の区別を徹底し、非戦闘員の保護を重視しすぎるために、逆に戦闘員をないがしろにしすぎではないのか
という批判である。実際、上の引用文からは戦闘員の殺され方に対する無頓着さが表れていないか。ウォル
ツァー正戦論における戦闘員の不当なまでの酷な立場については後述する。(第 4 章第 2 節参照)。
また、ウォルツァーはゲリラやテロリズムを排除するが、国力に極端な差がある現代において、対称的な
国家関係を前提として論を進めていることは強者の理論に過ぎない、という批判もある59。その理論は対テ
ロ戦争ならば当然正しい、というふうに強国の戦争を頭から正当化するように機能しがちであることは看過さ
れてはならないであろう。9.11 テロを挙げるまでもなく、現代の戦争がますます非対称的なものとなっている
ことは周知の事実である。しかしながら、ではテロリズムを承認しテロリストに交戦資格を与える正戦の論理
を再構成すればよいというわけにはならないことは言うまでもない。無差別攻撃を旨とするテロリズムやゲリ
ラはやはり断固として否定されなければならない。ウォルツァーは、テロリズムはいかなる意味でも正当化さ
れないとした上でさらに、正当化しないまでも「理解」を示そうとする(サイードのような)言説を逐一批判する
が、これはひとつの見識であると思う60。
第2節
二重効果
戦闘員と非戦闘員を区別し、攻撃対象を前者に限定したとしても、テロやゲリラに限らず、どんな戦争で
あれ実際に非戦闘員を犠牲にすることなく戦争を遂行することなどそもそも可能ではない。ここで、非戦闘
員のやむを得ない犠牲を正当化するためにウォルツァーが持ち出すのが「二重効果」61の概念である。これ
は、目的としてであろうと手段としてであろうと、罪なき人の死を意図的に引き起こしたり許したりすることと、
意図的に行った別の行為の副次的効果として罪なき人の死を引き起こしたり許したりすることとの間には、
道徳的に重要な区別があるとするキリスト教の伝統的な考え方である。後者の場合、つまり副次的効果とし
て人を死に至らしめた場合、たとえそれが予見可能であったとしてもその行為は殺人ではなく、また絶対的
禁止にも該当しないとされる。戦争においてこの法則を適用すれば、ある軍事作戦の結果、非戦闘員の犠
牲者が出ることが予見できていても、それが直接の目的でないのならば、その軍事作戦は正当化されると
いうことになる62。
もっともこの二重効果の法則は適用の仕方によっては途方もなく(ウォルツァーが批判する功利主義より
も)非道徳的になりうる。例えば、大規模な都市を爆撃することで市民多数の犠牲者(例えば 10000 人)が
出たとしても、その地域に潜むテロリスト(例えば 100 人)の殲滅を目的とした手段の副次的効果として片付
けられその爆撃が正当化されてしまうかもしれないのだ。これではほとんど詭弁である。そこでウォルツァー
は二重効果をより厳密に条件づけるのである。
463
久保文明研究会 2003 年度卒業論文集
(1)
その行為がそれ自体良いかまたは少なくとも可もなく不可もないものである。それは私た
ちの目的にとって、戦争における正当な行為を意味する。
(2)
その直接の効果が道徳的に許容できる。例えば、軍の補給の破壊、または敵の戦闘員
の殺害というような。
(3)
その行為者の意図が善である。すなわち、彼はその許容できる効果のみを目指す。悪い
効果は彼の目的のひとつではないし、彼の目的の手段でもない。
(4)
その行為の良い効果はその悪い効果を許し補償するに足るほど十分に良いものである。
それはシジウィックの比例性のルールのもとで正当化可能でなくてはならない63。
この中で特に条件(4)は重要であると思われる。戦争目的に見合う以上の攻撃手段を用いてはならない
という比例性の法則は広く一般の正戦論でも重視される原則である64。例えば、ヒロシマ、ナガサキへの原
爆投下は非戦闘員への配慮が全く見られない上に、この比例性という観点からも正当化できないとウォルツ
ァーは主張している65。もっともこの比例性という概念はウォルツァーの批判する功利主義的発想からくるの
ではないかという疑問が浮かぶ。しかしここでの比例性はあくまでも市民の意図的殺傷を禁止する絶対的
制約の枠内での計算なので問題はないと思われる。つまり、ここでの功利主義は絶対的制約の欠陥を補完
する役割を担っている。
それでも、二重効果の考え方がそもそも妥当であるかどうかという問題は残る。行為と結果に関して責任
の負い方の範囲はよっつの場合が考えられる。第一の場合、意志された結果のみに責任を負う。第二の場
合、予期された結果についても責任を負う。第三の場合、予期されてしかるべき結果まで責任を負う。第四
の場合は最も厳しく、行為によって引き起こされた結果すべてに責任を負う。この分類でいうと、ウォルツァ
ーが採用しているのはもっとも緩い第一の立場である。すなわち、予期された結果についても、直接の意図
でなければ責任を負う必要はないという立場だ。もし私が殺される立場(爆撃を受ける立場)にあると想像す
るならば、行為者に要求するのは最低でも第三の立場である。もし私が爆撃の行為者の立場であったとし
ても、例えばアフガンの子供たちに向かって「直接殺すつもりはなかったから私に責任は無いんだよ、許し
ておくれ」とは到底言えない気がする。もっともこれは私の主観であり、二重効果の概念は妥当であると考え
る向きもあるのは理解できる。戦争においてはウォルツァーよりも厳格な責任の取り方を採用すれば、実質
身動きが取れずいかなる戦争をも遂行することはできないのは確実だからだ。それでは無力な平和主義に
等しい。そうしてみると、ウォルツァーが行った二重効果の精緻化は市民の犠牲を最小に抑えるための試み
だと評価すべきかもしれない66。
このようにウォルツァーは市民の保護規定を厳密に構築しているように見えるが、しかし実は彼は意図せ
ざる結果としての市民の殺傷についてはそれほど十分に配慮していないという指摘がある。公開書簡にも
名を連ねたジーン・ベスキー・エルシュテインは『女性と戦争』のなかでウォルツァーについてこう述べてい
る。
彼も、暴力は常に悲しむべきで、懸命に回避しなければならぬという意見を持っている。しかし、他
の正義の戦争の思想家とは異なり、彼は惨事をあまり重視しない。…(中略)…彼は、戦時中の大虐
殺を活き活きと描写するのを回避し、実際の戦争体験を喚起しようとはしなかった。ウォルツァーの
「実践的道徳」は、私たちを導くには少々抽象的にすぎ、あまりに見事にしつらえられており、歴史
464
ウォルツァー正戦論は戦争を抑止するか
的体験の手触りを消し去っているように思われる67。
ところで、攻撃において戦闘員と非戦闘員の区別が実際の可能かどうかは、軍事技術によるところが大き
い68。白兵戦が主流だった時代にあっては可能であり、そのような道徳的規範は極めて実践的に重要な意
義があっただろう。しかし、戦闘員と非戦闘員を区別することなど不可能なまでに、現代の戦争は大規模で
非人格的なものになりすぎている。そこでは二重効果の概念は気休めに過ぎないのではないか。しかし、ウ
ォルツァーは現代のより精密な爆撃技術は再び区別を可能にならしめていると考えているようだ。湾岸戦争
後に出された第二版の序文でこう書いている。
近代の技術は今や過去よりもより高度な区分をしながら戦うことを可能にしている、もしそうするのだ
という政治的な意志があるのならば69。
湾岸戦争では前例がないほど爆撃は精密で「スマート」であり、戦闘機のパイロットたちは道徳的配慮に
満ちていた70。市民への「付随的な被害」(collateral damage)のリスクを減らすためにパイロットは自らリス
クを犯すような爆撃を行ったという。湾岸戦争から 10 年を経た現在では軍事技術はさらに向上していること
は間違いないだろう。
しかし、誤爆による犠牲が相当数に上ったことは湾岸戦争でもアフガン空爆でも伝えられている。しかし
ウォルツァーはその事実を重視しないのだろう。なぜならそれは「誤爆」であり、意図的な殺害ではないから
である。また仮に精密爆撃が技術的に可能になった場合、はたしてそれが倫理的、道徳的であるかどうか
疑問であるとする意見もある。なぜなら、戦闘員と非戦闘員を完全に区別できるのであれば、戦闘員に対す
る攻撃は仮借のない徹底したものになるだろうからである71。どこまできても戦闘員の辛い立場に変わりはな
い。(この点については後述)。
以上、「戦争における正義」を検討してきた。端的にいって攻撃対象を戦闘員に限定することで被害と犠
牲を最小限に抑えようという思想であった。非戦闘員は意図的攻撃の対象とはならない。一方で許容される
非戦闘員の付随的被害についてウォルツァーはその詳しい描写を避け、深く考慮していないという側面も
指摘された。戦争における道徳規範としての悩ましさが露呈した部分である。
第4章
究極の緊急事態、徴兵制、良心的兵役拒否
以下では、ウォルツァー正戦論のいわば緊張の臨界点ともいうべき問題を考えていきたい。具体的には
ひとつが「究極の緊急事態」という危うさのある規定について、もうひとつは、個人と共同体との緊張関係が
露呈する徴兵制と良心的兵役拒否の問題についてである。
第1節
究極の緊急事態
第 2 章、第 3 章で述べたてきたように、「戦争への正義」「戦争における正義」というふたつの判断基準を
構築することで、ウォルツァーは正戦とそうでない戦争との線引きを設けようとしてきた。しかしウォルツァー
は、そうした基準ないし制限がすべて無効とされてしまうような例外的な状況があることを認めている。それ
が「究極の緊急事態」72 (Supreme Emergency)である。(この言葉自体はチャーチルの発言に由来す
465
久保文明研究会 2003 年度卒業論文集
る)。
例えばナチスのような極度に危険な敵による危機が迫っており、「正にひとつの共同体の存在そのものが
危急」に晒されている場合、通常であれば許容されないような手段を行使することが許されるとウォルツァー
は論じている。そのような緊急事態においては功利主義的計算に対する制限は取り除かれ、それどころか
「功利主義の極端さが擁護され得る」73。二重効果の概念で辛くも正当化してきた敵国市民のやむを得ない
犠牲もよりいっそう許容度を増す。すなわち、共同体の危機的状況から脱するためには場合によっては戦
争法規を踏みにじり、相手側の非戦闘員を意図的に殺傷する必要があるかもしれないとしている74。つまり、
平たく言えば、これまでの抑制的な議論にも関わらず、「究極の緊急事態」においてはどんな手段も認めら
れると解釈していいだろう。
この規定は、極めて難が大きいものではないだろうか。それでもひとまずこの規定を受け入れたとしよう。
すぐに浮かぶ疑問は、いつ誰がどうやって戦争法規が支配力を持つ通常の戦争から、究極の緊急事態と
いう例外的状況へと変わる瞬間を判断するのかという問題である。ウォルツァーは歴史的事例としてナチス・
ドイツに単独で対抗していた 1940 年における英国の状況を挙げている75。その例は一見妥当とも思えるし、
実際にそうなのだろうが、ここには落とし穴があるように思える。というのは、たしかに現在から過去を振り返
れば、1940 年当時の英国が「究極の緊急事態」にあると判断するのは妥当でありまたそのような判断自体
容易なことであるが、今まさに事態が進行しているなかで判断を、しかも正しい判断を下すということは容易
ではないだろう。ウォルツァーの思惑とは裏腹に、こうした例外的な規定は当局の不道徳な行為の免罪符と
して悪用されることにはならないだろうか。
それにしても、ここまで地道に紡いできた戦争と道徳とを結びつけるという試みを根本から覆すような規定
をなぜ敢えて盛り込んだのだろうか。これはやはり、ウォルツァーの共同体への尋常ならぬ執着からだと言
って間違いない。彼が共同体の維持を極めて重視することは、侵略と自衛の節(第1 章第 1 節)で既に見て
きたとおりである。共同体は何があっても守らねばならない。
しかしながら、同じ程度に、ウォルツァーにとって道徳もまた重要なはずである。そうでなければ彼が正戦
論を構築する理由はない。しかし、厳密に言うと「究極の緊急事態」規定によってウォルツァー正戦論は破
綻しているのではないか。この問題についてウォルツァーは自覚しているようであり、この例外規定を正戦論
の内部に組み込むのではなく、外部に設置することで理論の破綻を回避しているのだと思われる。すなわ
ち、「究極の緊急事態」において通常許されない手段で戦った者は道徳的に責任を負わされる。そしてそ
の戦いは正戦とはされない。共同体維持のためには止むを得ず認められるが、決して正当化されるわけで
はない戦争があるというわけである。
議論を繰返すようだが、戦争と道徳を巡る議論のジレンマはつまるところ「勝つことと善く戦うこと」76に収
斂される。つまり何としても勝たねばならないし、尚且つ正しく戦わなければならない。そして現実にはどち
らかを犠牲にしなければならない状況がありうる。例えば、弱い集団が強い集団による絶滅あるいは隷属の
危機に瀕しているような場合、功利主義的に残虐行為に訴えることで勝利を求めれば道徳的絶対性が損
なわれる、かといって効果的な抵抗ができず仲間や共同体が絶望的状況に追いやられる事態になっても
道徳的良心が傷付けられるのは避けられないことである。ウォルツァーは、トマス・ネーゲルが論じるように、
と言って自らの判断を明らかにする。
「世界には、人が名誉ある道徳的な道を採りえないような状況が、すなわち罪と、悪に対する責任と
466
ウォルツァー正戦論は戦争を抑止するか
から解放される道を採りえないような状況が、存在する可能性がある」。私は、政治家たちはほとんど
役に立たないが、しかしジレンマの功利主義側の選択を取るものだということを示唆することによって、
このような説明のあからさまな不確定さを避けるように努めてきた77。
つまり、戦争法規の制限を取り払って、功利主義的に有効な手段を選ぶというわけである。国家の究極
的な緊急事態にあっては、政治家や兵士は道徳を優先するのではなく、集団の生き残りを選択せねばなら
ない。しかし、彼らがそうした選択をしたときには彼らが罪から逃れているとは言いたくない、ともウォルツァ
ーは付け加えている。そして、このような場合に合致する歴史的事例として、前述の通り第二次世界大戦中
ナチス・ドイツに対抗した英国を挙げるのである。当時の英国が陥っていた状況は「究極の緊急事態」に相
当するから、英国が行ったドイツへの無差別空爆は容認される。このウォルツァーの判断に対してエルシュ
テインは次のように述べている。
ナチスの脅威の本質を見抜き、イギリスがドイツの手に落ちた場合の結果を予測して、ウォルツァー
はドレスデンは例外とするものの、ドイツの都市に対する集中爆撃を正当と見なす。目の前の脅威と
未来に起こるであろう危険とを混ぜ合わせ、「戦争における正義」のルールを蹂躙するのである。…
(中略)…ナチズムを単なる悪ではなく、測りしれぬほどの悪と見なすことにより、ウォルツァーは威嚇
爆撃に関する疑問を次のように発する、測りしれぬほどの悪を阻止するために、私は決定的な罪に
賭けるべきか、と。…(中略)…全面戦争の危急性をかんがみて、ウォルツァーが傾斜していく先は、
「修正現実主義者」が納得しそうな結論である78。
そう、エルシュテインの指摘する通り、ここでのウォルツァーは現実主義者になってしまっているのである。
また現実ではなく未来の脅威をも思慮に入れてしまうというのは先制攻撃の節でも検討したように、ウォルツ
ァーの陥りやすい論理の飛躍である。いずれにせよこの「究極の緊急事態」という例外規定は、論理の破綻
あるいは現実主義への堕落と否定的に捉えるか、正戦論がが実践的に効力を持ち得るための現実的措置
であると評価するかは判断が分かれるところである。
ところで、イギリスのドイツ都市への爆撃について、その任務を遂行した英国の兵士たちに対して、戦後
チャーチルは栄誉を与えなかったが、ウォルツァーからすれば、これは正しい判断だったわけである。なぜ
なら、緊急事態とはいえドイツの無辜の市民を無差別に爆撃し殺した英国の兵士たちは道徳的に完全だと
は言えず、賞賛されてはならない存在だからである。彼らは非難されるか少なくとも賞賛を受けずに放置さ
れなければならない(ちなみにウォルツァーの議論では政治家であるチャーチルも責任をとるべきであった)。
そのように兵士を扱うことで、道徳、正義は回復され共同体も存続可能となる、つまりジレンマに陥ることなく
道徳と共同体というふたつの命題を両立させることができるというわけである79。しかしこれは兵士にしてみ
れば理不尽な話である。共同体のために死の危険を冒して戦ったのに、英雄にもなれないとなると、兵士は
非常に片務的な義務を負わされていることになる。前々から指摘してきたとおり、ウォルツァー正戦論での
兵士の不当な立場がここでも明らかになった。
第2節
徴兵制と良心的兵役拒否
そこで最後に検討するのは兵士(戦闘員)の立場についてである。これまで見てきたとおり、ウォルツァー
467
久保文明研究会 2003 年度卒業論文集
の議論では、兵士はつらい立場に立たされている。戦場では殺されても当然とされる存在とされる。しかもウ
ォルツァーはどのように兵士が殺されるかについては比較的無関心である。軍事技術が向上し戦闘員と非
戦闘員の区別が可能となっても兵士が優遇されるようになるのでは決してない。しかし、これらのことは一旦
兵士として戦地に赴いた以上、致し方ないことかもしれない。つまりウォルツァーの考えでは兵士は公的に
名誉な存在であり、英雄になる可能性をも持っている。それは市民にはない特権である。それとひきかえに
兵士は戦死の危険を引き受けなければならない。しかしウォルツァーは共同体が究極の危機に陥ったとき
には兵士に汚れ役を引き受けさせることもある。
当然ながら、そのような兵士の役割を誰が担うのだろうかという問題が浮上してくる。志願兵の場合はさし
あたり問題はないだろう。だが、近代において不可欠なのは徴兵制である。国家の権力によって強制的に
兵士に任命され、戦場へと駆り出された青年80たちが、敵兵を殺し、殺されても許容される存在となるのはど
ういった理由からなのか。ウォルツァーの答えが、青年が殺傷能力を持つ集団に加わった時点で彼自身が
危険な存在になり、よって攻撃対象からの免除も剥奪されるのだというものであることは既述した。だがこれ
は意に反して強制的に徴兵された青年への説明にはなっていないだろう。
こうした共同体と個人の緊張関係を回避するために、『義務』においてはウォルツァーは国家の危機以外
のときはできるだけ志願兵のみによって戦争が行われるべきであると考えていた。徴兵制に対する良心的
兵役拒否の権利を擁護する理論も展開していた81。その理論は以下のように展開された。すなわち、国家
のために戦う義務を負わないからといって、彼が住んでいる地域社会の市民の資格を剥奪されるわけでは
ない。なぜなら彼が恩恵を蒙っている共同体である地域社会は、国家とは別のものだからである。また兵士
となることは国家に「奉仕」することであり、これを拒否することは平素の市民としての「服従」をも拒否するこ
とと同じではない。兵役拒否をする者はいわば在留外国人と同様な存在として、共同体のなかでの生活を
認められてしかるべきである。このように、ウォルツァーは「国家」と「社会」、「奉仕」と「服従」などの区別を通
して良心的兵役拒否を正当化していく。例外は次の場合である。
これに対する唯一の例外は、侵略軍に対する純粋な国民的防衛戦争の場合であり、このときは国
家はすべての者に奉仕を要求できるし(1793 年の国民総動員のときのように女も子供も)実際すべ
ての人々の奉仕を必要とする。この場合に良心的参戦拒否を認めることは特別な雅量がいる――
すなわちそれは国家の安全と両立しないであろうから――ことを私は認めたい。…(中略)…だがこ
れは限界状況の場合であって、むしろそれ以外の場合に存在する寛容に実際の可能性をもっぱら
際立たせてくれることになる82。
このように、ウォルツァーは宗教的理由によるものはもちろん、政治的理由(この戦争には反対だから兵
役を拒否するというような)による良心的兵役拒否も国家によって認められるということを論じている。その議
論の先に徴兵制への疑問が提示される。つまり、国家の存亡の危機の場合を除き、すべての戦争は志願
兵によって戦われるべきだという考えが示されるのである。そうすることによって、戦時に顕在化する個人と
共同体の緊張関係の問題を慎重に回避していたのだろう。
しかしながら、『正義と不正義の戦争』の議論においては、兵役拒否の可能性については言及がなくなっ
てしまうのである。そして、一旦兵士となったからには、彼自らが危険な存在となり攻撃対象とされてもしかた
ない存在になったと認めたのだと言い放っている83。ウォルツァーはもはや徴兵制の孕む問題を深刻には
468
ウォルツァー正戦論は戦争を抑止するか
考えていないようである。『正義の領分』はこう述べている。
兵役は辛い仕事の中でも特殊である。実際は、多くの社会でそれは辛い仕事とは思われていない。
それは若者の通常の務めであり、彼らの社会的役目である。彼らはそれに徴兵されるというより、む
しろ儀式的に入会させられ、そこで仲間、興奮、栄光という報酬を見出す。これらの場合には、徴兵
制について語るのは、志願兵について語るのと同様に奇妙であるかもしれない…(中略)…また、時
によると戦闘はエリートの特別な名誉であり、それと比べれば他のすべてのことのほうが辛い仕事、
多少なりとも対面を汚す仕事であることもある84。
また戦時にあっても兵役は根本的に品位を落とす活動ではないとしている。また下士官が最下層の階級
から補充される傾向があることを認めながら、逆に普通の市民から尊敬を得、英雄になる好機でもあるのだ、
などと言っている。
しかし、戦時になれば徴兵されやむを得ず兵士として戦地に赴かねばならない若者が出て来ることは当
然考えられることである。そして兵士となった彼らはたとえ死んだとしても非戦闘員ほどには同情されない。
兵役拒否をしたとしても、明確な保護規定がない場合、きわめて厳しい法的、社会的制裁が課されるのが
通例である。そうした不幸な若者が出る社会は、果たしてウォルツァーのいう良き社会なのだろうか。
終章
――
ウォルツァー正戦論の意義と限界
ここまで、『正義と不正義の戦争』を中心にウォルツァーの正戦論を検討してきた。ここで最初の疑問に立
ち戻ろう。すなわち、ウォルツァー正戦論は戦争を抑制し得る理論であるのか。現実主義、平和主義との比
較では、ウォルツァーの依って立つ正戦論の中道的性格が明らかになったが、開戦法規である「戦争への
正義」を検討すると、戦争が許容される状況が実は多いということが分かった。特に場合によっては先制攻
撃をも正戦の範疇に含めることは問題が多いだろう。また現実におきた米国による戦争と連動する形で人
道的介入が積極的に正戦として理論に組み込まれていったことは、ウォルツァー正戦論が米国の戦争をも
っぱら正当化しがちであるという偏りを示しており、その信頼性、一貫性に疑いを持たせることになった。以
上のことから、ウォルツァー正戦論は戦争をさほど抑制しない理論である、と結論づけざるをえない。ただし、
ウォルツァーはイラク戦争には反対しており、今でも戦争に対する制限として機能する側面も持ち合わせて
いることも看過してはならないだろう。
また開戦された場合、被害や犠牲が最小に抑えられるように機能するかという問いについて「戦争におけ
る正義」を検討したが、ここでもいくつかの問題が浮上した。すなわち、意図せざる結果としての市民の犠牲
を重視していないことや、兵士を酷な立場に立たせていることが露呈してしまったのだ。動機としてはできる
だけ犠牲を最小限に抑えようという試みであることは評価できるが、それが全体として成功しているかは微
妙なところである。
さらに、ウォルツァーは例外規定を設けており、緊急事態においてはそれまでの抑制的な議論を台無し
にするような非道徳的な手段の行使をも認めていることが分かった。この例外規定が仮に容認されるものだ
としても、いつ誰がどのように戦争において規定が適用される例外状況だと認めるのかという実践上の問題
も指摘された。
このように、ウォルツァー正戦論には理論的な問題が多く潜んでいるのは否定しがたい。もとより、戦争と
469
久保文明研究会 2003 年度卒業論文集
いういわば究極の暴力を、それと対極にある正義や道徳の領域・枠の中に押さえ込もう、管理しようという試
み自体に理論的な無理を孕んでいると言えるかもしれない。それを無理やり体系づけようとしても、暴力の
歪みは必ずどこかに表れる。ウォルツァー正戦論の場合、それは意図せざる結果として犠牲が容認される
市民や片務的な義務を負わされる兵士へのしわ寄せとなって顕在化した。これがウォルツァー正戦論の限
界である。
しかし、一方で、ウォルツァー正戦論は今日にあっても非常に大きな意義をもち得ているとも私は考える。
ウォルツァーはとにもかくにもひとつの戦争に関する体系的な道徳規範の構築を達成した。このことだけで
も一定の評価はされてしかるべきである。そうでなければ、私たちは無情な現実主義か無力な平和主義か
を採らざるをえず、その場合、戦争を道徳的に考え判断することはできないのである。ウォルツァー正戦論
を即信頼に足るものとして用いることには慎重であらねばならないが、少なくとも議論の叩き台としての意義
はもち得る。実際、彼の議論は私たちが戦争について討論し判断を下す際にガイドラインとしての非常に有
効な役割を果たしてくれる。そう、ウォルツァーも述べているように、『正義と不正義の戦争』は私たち市民た
ちが戦争を判断するための実践的な道徳の書なのである。解釈、運用の仕方によっては、不正な戦争を正
当化するために悪用されるかもしれないが、同じように、不正な戦争を糾弾する根拠として活用することが
可能である。それになにもウォルツァーと同じ判断を下さなければならないというものでもあるまい。例えば、
ウォルツァーが支持したアフガン空爆についても、ウォルツァー正戦論を厳格に適用することで反対するこ
とが可能である。ウォルツァーはアフガンへの空爆が「9 月 11 日の攻撃に対する正しい反応」であり、「戦争
への正義」を満たしていると考え暫定的に支持しているのだが、これに対する批判としては、空爆はそもそ
も正しい反応なのか、米軍が「戦争における正義」を守るという保障がないまま支持していいものなのか、も
し米国のやり方に過誤があった場合開戦を後押しした責任はどうとるのか、といったものがあるだろう。ウォ
ルツァーはこのように厳格に正戦論を解釈し適用する態度に対しては、それでは過去のすべての戦争が正
戦論によって正当化されることはありえず、それは正戦論を騙った平和主義に過ぎない、と言うのであるが
85。ともあれ、私たちが戦争に関する議論を止めない限り、ウォルツァー正戦論の意義が失われることもまた
ない。これがもうひとつの結論である。
ただ、戦争を考えるに当たって、21 世紀の今日、戦争そのものの形態・性格が大きな変容を遂げたという
ことも踏まえなければならないだろう。9.11 やその報復としての米国によるアフガン空爆に象徴されるように、
現代の戦争は必ずしも主権国家間で勃発するとは限らない。むしろ国家対国際的に点在するテロリスト集
団というように、現代の戦争はますます非対称なものとなっている。こうした現状にあって、ウォルツァー正戦
論の国家を単位としたある種古典的な枠組みがそもそも妥当であるのかという問題も依然として残っている。
(テロリズムに対する断固明確な拒否という姿勢に一定の評価は下し得るとしても)。テロリズムや文明の衝
突が懸念され、主権国家が相対化されつつある現状を踏まえると、戦争を制限する国際システムを想定・
構築することは困難になってくるし、ひいてはそれを前提とするウォルツァーの正戦論が説得力を失ってい
くのも道理である。これを指してウォルツァー正戦論のもうひとつの限界だということもできるだろう。その意
味で、ポスト冷戦・ポスト 9.11 の新しい世界像を提示すること同様に、正戦論の新たな再構築もまた、ここに
きて必要になってきている、ということを指摘して本稿を終えたい。
470
ウォルツァー正戦論は戦争を抑止するか
1
マイケル・ウォルツァー『正義の領分』山口晃訳、而立書房、1999 年
「左翼に近い」「社会民主主義者」だと自称している。ベトナム反戦運動に加わり、原爆投下は正当化でき
ないとする論評を書いたこともある。(『義務』日本語版への序文、「核抑止論が無効である根拠」参照)。
3 Michael Walzer, “Just and Unjust Wars”, 1977=1991=2000
4 「justified war theory」と訳すべきだとの考え方もある。正戦論とは本来は全面否定されるべき戦争の中に
正当化可能な戦争を見いだす論理であったからだ。
5 Walzer et al. “What we are fighting for” (A LETTER FROM AMERICA)
(http://www.propositionsonline.com/html/fighting_for.html)
6 E.サイード「アメリカを考える」2002 年、早尾貴紀「
『正義のための戦争』と『戦争のための戦争』
」2002
年、杉田敦「二分法の暴力」2003 年参照。
7 ここでいう「われわれ」とはすなわち「西欧側の」
「アメリカ側の」われわれ、ということである。
8 アフガン空爆についてウォルツァーは「9 月 11 日の攻撃に対する正しい反応」としたうえで「正しい戦争を
正しく戦えるかどうかは、市民への攻撃を如何に避けるかにかかる」といい、そして「それはまだわからない」
と冷静な保留をつけており、いわば暫定的な支持にとどまっている。(毎日新聞 2001 年 10 月 22 日)。無論、
空爆はそもそも正しい反応なのか、米軍が「戦争における正義」を守るという保障がないまま支持していいも
のなのか等、議論の余地は大きい。またイラク戦争については「政権変更は正戦の理由にならない。イラクが
国連査察を妨害した 90 年代には正戦の条件があった。いま為すべきは、査察を行い、90 年代の条件を再現す
ることだ」として反対の立場を表明している。
(毎日新聞 2002 年 10 月 11 日)。また Michael Walzer, “What a
Little War in Iraq Could Do”2003.を参照。
9 公開書簡参照。
10 Walzer, op. cit., p.3
11 Ibid., p.46
12 Ibid., pp.44-45
13 Ibid., p.19
14 Ibid., p.20
15 ウォルツァー「核抑止論が無効である根拠」
、p.117。なお早尾 2002 年もこの箇所を引用している。
16 Brian Orend, “Michael Walzer on War and Justice”, 2001.なお高山 2002 年参照。
17 Walzer, op. cit., pp.329-335 なお片山淳彦「マイケル・ウォルツァーの戦争論とその今日的意味」2003 年、
pp.208‐209 参照。
18 萩原、前掲参照。
19 ロスバード『自由の倫理学』2003 年、p.64
20 小林正弥編『戦争批判の公共哲学』2003 年、p.25
21 太田義器「戦争と正義」2001 年、p.73、および太田義器「現代国際政治における戦争」1999 年参照。太田
は正戦論の根本的批判としてベンヤミンの言葉を引用している。「暴力が手段だとすれば、暴力批判の基準は
手にはいったも同然だ、とする皮相な考え方があり、その考えかたからすれば、それぞれの特定のばあいにつ
いて、暴力が正しい目的のためのものか、それとも正しくない目的のためのものかを問いさえすればよく、し
たがって暴力の批判は、正しい諸目的の体系のなかに含まれていることになるけれども
けれども、そうは
問屋が卸さない。なぜなら、そのような体系が疑問の余地なく整ったものだと仮定しても、それが含んでいる
のは、原理としての暴力そのものの批判基準ではなく、暴力が適用される個々のケースのための批判基準だか
らだ。たとえ正しい目的のための手段にもせよ、一般に暴力が原理として倫理的であるかどうか、という問題
は依然として残る。」(『ヴァルター・ベンヤミン著作集1:暴力批判論』pp.8-9)
22 Walzer, op. cit., p.xv
23 片野 2003 年、p.211
24 加藤「戦争と倫理」1997 年、pp.123-124
25 片野 2003 年、p.210
26 ここでは自衛と報復の区別は厳密に追及しない。その違いは基本的には時間に関するものである。
(太田
2001 年参照)。
27 Walzer, op. cit., p.53
28 ウォルツァー『正義の領分』1999 年、p.11
29 Walzer, op. cit., p.54
30 Ibid., p.68
31 Ibid., p.70
32 ウォルツァーは市民が語る道徳としての正戦論を提唱するので、
政治や軍事に関する高度な知識を必要とす
る「最終手段性」「勝利の見込み」「比例性」などの基準は除外している(Wars、第二版の序文)
。太田 2001
年の注 22 を参照。
33 Walzer, op. cit., p.254 杉田 2003 年から孫引き。
34 ウォルツァー『義務』1993 年、pp.128-129
35 ウォルツァー『義務』1993 年、p.126。もっとも、この論文は慎重に読まれる必要がある。ウォルツァー自
2
471
久保文明研究会 2003 年度卒業論文集
身「国粋主義的な、あるいはイデオロギー的な神秘化を弁護するつもりは私にはない」と述べているし(p.136)、
国家のために死なない者を疎外する社会を構想してもいない。それどころか『義務』は良心的兵役拒否の権利
を擁護してさえいる。
36 ただし、ウォルツァーはアメリカ人である。今や世界で突出した軍事強大国であるアメリカを自らの共同体
としている人間が、共同体の存亡を賭けて戦うということを、真実味をもって語ることができるかは疑問であ
る。全体としてウォルツァーには優勢な「西洋側」に属しているという意識に欠けているとの批判がある。サ
イード 2002 年、早尾 2002 年参照。
37 ここでは「先制攻撃」と「予防攻撃」との差異は深く考えない。
38 Walzer, op. cit., pp.80-85
39 Ibid., p.85.杉田 2003 年から孫引き。
40 Ibid., p.85
41 Ibid., p.87
42 Ibid., p.87、なお加藤 1997 年参照。
43 Ibid., p.107
44 最上敏樹『人道的介入』2001 年、p.136
45 Walzer, op. cit., pp.101-102
46 杉田 2003 年、p.194
47 加藤 1997 年では「
(ウォルツァーは)湾岸戦争は、武力行使が最後の手段であったことを強調して正当で
あったと判断している」としているが、太田 1999 年ではそれは誤読だという。ウォルツァーは湾岸戦争に関
して積極的に支持しているわけではないと解釈している。しかし、侵略されたクウェート国境の原状回復のた
めの武力行使の必要性をウォルツァーが認めているのは間違いないので、湾岸戦争支持と解釈するのが妥当だ
ろう。
48 Walzer, op. cit., p.xiv
49 Michael Walzer, “The Argument about Humanitarian Intervention”, 2002
50 杉田 2003 年、p.205 参照。
51 注 33 参照。
52 萩原、前掲参照。
53 今回参照した文献の、およそすべてにこの点は言及されていた。
54 太田 2001 年、p.65
55 Walzer, op. cit., p.133
56 Ibid., p.210
57 Ibid., p.41
58 Ibid., p.138, “immunity”「イミュニティ」という概念が出て来る。
59 杉田 2003 年、p.200
60 ウォルツァーはテロリズムに焦点を当てた論考として 9.11 の直後に “Excusing Terror: the Politics of
Ideological Apology”(2001)を発表しているが、ここでは深く言及しない。
61 Walzer, op. cit., p.151
62 二重効果や比例性、功利主義と関連する議論ではトマス・ネーゲル「戦争と大量虐殺」1971 年が参考にな
った。『正義と不正義の戦争』にも責任の所在をめぐる議論のなかで引用されている。(p.325)。
63 Walzer, op. cit., p.153
64 ただし、前述の通りウォルツァーは第二版の序文でこの比例性の原則を除外している。
65 Walzer, op. cit., p.263。
「核抑止論が無効である根拠」も参照。
66 ただ、この二重効果の概念を持ち出すことで、行為を正当化できるのは当事者だけだと感じる。例えば、米
国のアフガン空爆について、米軍の軍人が自らの行為を正当化するのは問題ないとしても、(支持していると
はいえ)第三国である日本の私が、アフガンの市民に対して「米国の行為は正しい」と二重効果の概念を用い
て擁護する資格はないのだと思えるのだ。当事者適格性の問題である。
67 J.B.エルシュテイン『女性と戦争』1994 年、pp.239-241 表記統一のため訳を変更している箇所がある。な
お早尾 2001 年 p.194 参照。
68 杉田 2003 年、p195
69 Walzer, op. cit., p.xiii
70 Ibid., p.xix
71 杉田 2003 年、p.196 参照。また加藤は次のように指摘する。
「精密誘導兵器や非殺傷兵器が抱える倫理的問
題は、それがあまりにも倫理的であることに起因する。すなわちこれらの兵器が交戦法規をすべて満足させる
が故に、逆に戦争を制約することを難しくするからである」。加藤 1997 年、p.163
72 Walzer, op. cit., p.251
73 Ibid., p.228
74 Ibid., p.259
75 Ibid., p.255
472
ウォルツァー正戦論は戦争を抑止するか
Ibid., p.255
Ibid., p.326 なおネーゲル 1971 年参照。
78 エルシュテイン 1994 年、pp.239-240
79 Walzer, op. cit., p.323 なお杉田 2003 年を大いに参考にした。
80 兵士になるのは若い青年である。
この年齢と性別という特徴によって特定の人間が選ばれるということに問
題はないのだろうか。ここでは深く言及しない。
81 ウォルツァー「良心的参戦拒否」
「政治的疎外と兵役」『義務』1999 年所収。
82 ウォルツァー『義務』1993 年、pp.182-183
83 Walzer, op. cit., p.145
84 ウォルツァー『正義の領分』1999 年、pp.259-260
85 Walzer, op. cit., p.xiii
76
77
【参考文献】
*
Michael Walzer, “Obligations”, Harvard U.P. 1970 (山口晃訳『義務に関する 11 の試論―不服従、戦争、市
民性』而立書房、1993 年。特に本書所収の「国家のために死ぬ義務」「政治的疎外と兵役」「良心的参戦拒否」を
参照.)
Michael Walzer, “Just and Unjust Wars”, Basic Books, 1977=1991=2000.
Michael Walzer, “Spheres of Justice”, Basic Books, 1983.(山口晃訳『正義の領分―多元性と平等の擁護』
而立書房、1999 年.)
* Michael Walzer, “The Argument about Humanitarian Intervention”, DISSENT, vol.49, No.1, 2002
winter.
* Michael Walzer, “What a Little War in Iraq Could Do”. (New York Times 2003.3.7)
* Michael Walzer, “Excusing Terror: the Politics of Ideological Apology”, The American Prospect, vol.12,
October 22, 2001.
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(http://www.propositionsonline.com/html/fighting_for.html)
M.ウォルツァー「核抑止論が無効である根拠」大川正彦訳『世界』1996.2、岩波書店.
Brian Orend, “Michael Walzer on War and Justice”, McGill-Queen's University Press, 2001.
E.サイード「アメリカを考える」早尾貴紀訳『現代思想』2002.6 臨時増刊、青土社.
J.B.エルシュテイン『女性と戦争』小林史子、廣川紀子訳、叢書・ウニベルシタス 427、法政大学出版局、1994 年.
M.ロスバード『自由の倫理学 リバタリアニズムの理論体系』森村進、森村たまき、鳥澤円訳、勁草書房、2003 年
T.ネーゲル「戦争と大量虐殺」『コウモリであるとはどういうことか』永井均訳、勁草書房、1989 年.
太田義器「戦争と正義」『政治と倫理のあいだ―21 世紀の規範理論に向けて』千葉眞、佐藤正志、飯島昇蔵編、
昭和堂、2001 年
太田義器「現代国際政治における戦争」第六回政治思想学会報告、京都大学、1999 年
(http://uhei.vis.ne.jp/LibertyandPeace/Politics/honbun1.html)
片野淳彦「マイケル・ウォルツァーの戦争論とその今日的意味」『法學新法』110 巻 3+4 号、中央大学法学会、
2003 年
加藤朗「戦争と倫理」『戦争 その展開と抑制』加藤朗、長尾雄一郎、吉崎知典、川崎修編著、剄草書房、1997 年
小林正弥編『戦争批判の公共哲学 「反テロ」世界戦争における法と政治』勁草書房、2003 年
* 杉田敦「二分法の暴力―ウォルツァー正戦論をめぐって」『思想』2003.11、岩波書店.
* 高山宏司「マイケル・ウォルザーと彼の正戦論の射程―『道徳的に正しい戦争』はあり得るのか」『倫理学紀要』
2002 年、東京大学大学院人文社会系研究科.
* 萩原能久氏(慶應義塾大学法学部教授)の Web 上の論文「最後に善は勝つ!」
(http://www.law.keio.ac.jp/~hagiwara/lawsemi6.html)
* 早尾貴紀「『正義のための戦争』と『戦争のための戦争』ウォルツァーとダルウィーシュのあいだで」『現代思想』
2002.6 臨時増刊、青土社.
* 最上敏樹『人道的介入―正義の武力行使はあるか』岩波新書 752、岩波書店、2001 年
473
久保文明研究会 2003 年度卒業論文集
あとがき・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・吉田和則
入ゼミ論文から数えて、久保ゼミでの 3 本目の論文を書き終えた。達成感、解放感、それにちょっとした自己満足を
覚えている。自分でいうのもなんだが、妥協せずに最後までがんばったと思う。『政治学研究』へ提出した初稿と比べる
と、最終稿は 10 段階くらいの推敲ないし加筆修正を経て幾分かは洗練されたものになっているはずだ。(『政治学研
究』担当の3 年生にはかなり我儘言って迷惑かけました。でもおかげで卒論最終稿とそう変わらない文章を載せてもらう
ことができそうです)。
第一稿を提出した後は、実は安心しきっていて何もしていなかった。ところが最終提出日直前になって、なんとなくマ
ガジンプラスで“ウォルツァー”を検索すると、新しく 2 本も論文が見つかってしまった。内ひとつはタイトルまで自分の論
文と似通っている。(片野淳彦「マイケル・ウォルツァーの戦争論とその今日的意味」)。自分がウォルツァーについて書
こうと思ったきっかけはアフガン空爆をウォルツァーが「意外にも」支持したことを知ったからであったが、同じようなことは
誰でも考えるものだ。見なかったことにしようかな、と思ったがやはり気になったのですぐに図書館に行き、コピーして読
んだ。構成の仕方や主題の膨らませ方などさすがに敵わないと思ったが、大体のことは自分の論文でも押さえてあった
ので安心もした。フォローできてなかった論点はすぐに書き足した。
その後「はじめに」と「おわりに」を書き足して、ようやく筆を置くことができたのだが、もちろん心残りの点も多くある。ま
ず久保先生からも指摘されたように、どうしてもオリジナリティを盛り込むことができなかった(かなり致命傷だったりする)。
ごくオーソドックスに、ウォルツァーの正戦論を正面から検証するという枠組みをとってしまったため、誰も指摘していな
いような理論を援用したり、よっぽど斬新な批判を思いついたりするのでない限り、独創性を主張するのは難しい。結局
のところ、自分の論文は「みんなの意見の寄せ集め;吉田ばーじょん」でしかないように思う。また、英語文献を十分に読
み込めなかったのも、能力的に限界だったとしても、やはり悔しいことだ。その他にも、読み直すと論理的な繋がりが危う
い箇所が散見されたり(修正できるほど瑕疵が明確でもなく、頭が茹ってきて結局放置)、繰り返しが多かったり(特に第
4 章)、言及できなかった論点が多少あったりと、思い残すところは多い。特に、現代の戦争論にあって核の問題が奇妙
に無視されたままだし(ウォルツァーの本の中には 1 章分を割いて論じられているのにも関わらず)、ウォルツァーが
9.11 後に公表したいくつかの論文については、入手しながらも本文中でうまく言及することができなかった。(脚注で2、
3 本ほど指摘したにとどまる)。論文の構成からいっても第 5 章として「テロリズムに対する理論――9.11 に際して」という
ような章を設けて詳しく論じられたらよかったのかもしれない。それができなかったために、本稿ではウォルツァー正戦論
の「時代遅れ感」が強調された感があるように思う。
このように、欠点をあげつらったらキリがないが、それでもはやり「自己満足」しているのには理由がある。それは、入
ゼミ論文、三田祭論文、そして今回の卒業論文とまがりなりにも学術論文を書く実践を重ねてきて、今顧みるに、確実に
自分は成長していると思えるからだ。政治思想史について書いた入ゼミ論文では脚注の付け方も分からなかったし、そ
もそもあれは論文の体をなしていなかった。じっさい、今思うと情けないシロモノだ。三田祭論文ではイラク戦争に反対
する論拠を示すためかなり幅広く膨大な資料にあたって、物量的にがんばったことはがんばった。注もきちんと付けた。
ただ、あれは無批判にまとめただけで報告書に過ぎず、序章と終章も対応していない。それに対して今回の卒論では、
「はじめに」できちんと問題提起をし、本論で論じたことを通して「おわりに」で自分なりの結論を出している。他人様の見
解に依るところが大きいのはともかくとして、随所に自分自身の考えも織り込むことができた。『政治学研究』に応募する
ことで活字になるというご褒美までついているし、そのために早い時期から苦労はしたが、結果的に良かったと思う。もし
院に進むのであれば、次はもっと良い論文が書けたんじゃないかな、などと夢想しつつ、今はとりあえずこの論文を書き
上げたことでよしとしたい。
第一稿を読んで批評してくれたクロ、峰花、蘭、ありがとう。三者三様のコメント、面白かったです。最後に、卒論を書
くという機会を与えてくださった久保文明教授に感謝します。ありがとうございました。
吉田和則君の論文を読んで
【黒崎祐介】
吉田君の卒業論文は、ウォルツァーの正戦論の戦争抑止可能性について『正義と不正義の戦争』を中心に検討して
おり、とても興味深かった。まず、この論文の長所として、「はじめに」と「おわりに」がしっかり対応している部分である。
「はじめに」で提起された「ウォルツァー正戦論は戦争を抑制するのか」という問いが挙げられているのに対して、第 2 章
での「戦争への正義」、第 3 章の「戦争における正義」の検証をもとに「ウォルツァー正戦論は戦争をさほど抑制する理
論ではない」という結論が「おわりに」で導き出されている。更に、ウォルツァー正戦論の意義と限界が明らかになるはず
である、と「はじめに」に記述されていたが、しっかり「おわりに」においてウォルツァー正戦論の意義と限界を定義づけて
いる。論文がしっかりまとまっており、非常に読みやすい印象を受けた。また、「おわりに」において、「ウォルツァー正戦
論は戦争をさほど抑制する理論ではない」と結論付けたあとに、「ウォルツァー正戦論は今日にあっても非常に大きな意
義をもち得ている」と独自の結論付けをしているところもユニークであり、興味深かった。
この論文の修正点を見つけるのは非常に難しいが、強いて挙げるとすれば、以下の点である。第一に、オリジナリテ
ィが多少弱い感じがした。ウォルツァーの正戦論を分析した先行研究は既にいくつかあると思われるが、その先行研究
との違いについて記されていない。「おわりに」の部分で結論を二つ持ってきているのは非常に面白いが、論文自体の
オリジナリティについて記したほうがいいのでは。第二に、理論が少々偏っているように思える。アフガン空爆やイラク戦
争について、ウォルツァーだけでなく、他のアメリカ知識人がどのような態度・意見を表明しているかを調べて、その比較
でウォルツァーを論じたほうが更に興味深いものになったのではないだろうか。例を挙げると、論文の途中で、ウォルツ
ァー正戦論とネオコンの思想との意外な親密性が軽く指摘されていたが、その点をもっと掘り下げるなどすれば、論文
474
ウォルツァー正戦論は戦争を抑止するか
に面白みが増すと思われると同時に、説得力もあるのでは。第三に、この論文においての第 4 章の位置付けが微妙で
あるように感じた。第1 章から第 3 章までの流れが良く、そして「はじめに」と「おわりに」がしっかり対応しているのにもか
かわらず、第4 章が少々「浮いている」ように感じた。「究極の緊急事態」「徴兵制と良心的参戦拒否」などは論文に含め
た方がいいと思うので、改善策として、この章を第 3 章・第 3 節に持ってくることはどうだろうか?そうすれば論文の流れ
もよくなり、論文がよりよいものになるのでは。
【小久保峰花】
ウォルツァーの正戦論がよく解説されており、時々例えが難解だと感じるものの非常に良く分かった。ただ少し感情的
になっている気がしなくもないので、表現を柔らかくした方がよいかも(ネオコンに対する吉田君の考え方等)。ウォルッ
ツァーの正戦論に対しての吉田君の感じている疑問点がよく伝わって来た。それは、たぶん我々一般的な日本人が共
通に疑問に思う点でもあり、あげられている批判点には共感がもてた。難しいのはこの問いに対する絶対的な答えが用
意出来ないところにあると思う。ウォルツァーの考えも彼自身のバックグラウンドを考慮すればなぜこのような考えを持つ
に至ったのかが理解できなくもないし、また我々日本人がこのような考え方、正戦論に関わらず一般的な戦争論に対し
て偏った見方をしていないとは言えないからだ。戦争に対する考え方は、その人個人が育った環境によって大きく異な
ってくる。こういった戦争論は当事者よりも権力を持つ戦争の遂行者にこそ必要とされてきたもの(私の考えでは)であり、
そこにどんな意義を見いだし歴史としていくかは勝者次第なのではないか。自己を正当化するために現実に合わせて
思想は変わっていく。ウォルツァー自身もこれ、といった最終的な答えが見いだせているのかな、とふと思った。戦争は
いつの時代にも存在し、同じであることはない。事後にどう正当化され判断されるかによって中身に違いがあるかのよう
に思われるのかなと。私の立場はどちらかというと、戦争は戦争であり良いも悪いもない、という考えなのでそう思うのか
もしれない。最後に吉田君が指摘しているようにウォルツァーの正戦論は一つのガイドラインなのだと思う。
全体的に難しい議題をよく細かく調べてあると思う。文献もすばらしくたくさん読んでおり、引用も分かりやすく使われ
ていたのでよかった。構成は問題ないと思うので後は、各省間のつなぎ部分を継ぎ足せばより読みやすくなると思う。
所々ぶつ切りになってしまっている気がしたので。こういった思想に関する論文は主観が勝ちすぎてしまいがちだけど、
それをうまくおさえてウォルツァーの正戦論について批評を展開出来ていると思う。最初の導入部分に関しては中間発
表時のレジュメと吉田君自身の解説があったので、比較的すんなりと理解出来た。ただテーマとして難しいのでもう少し
解説を本論文にも付け加えるとよい気がした。
吉田君の論文を読んでいて、私自身も戦争とはなんなのかについて改めて考えさせられた。戦争に正しいという概
念を用いることには疑問を感じたし、正戦論自体に都合のよさを感じたので吉田君自身の考え方にはだいたい共感で
きた。一つ一つの疑問点に答える形でウォルツァーを分析してくれていたので、こんな観点もあったのか、と新鮮な思い
もした。なかなか触れることがないジャンルなので非常に興味深く論文を読ませてもらった。あと、ウォルツァーが正戦論
を展開するに至った経緯、目的にも読んでいて興味がわいたので、彼自身の背景なども織り込んでみると面白いかも、
と思う。ユダヤ系だから、だけでは説明できない様な理由がウォルツァーのバックグラウンドから分かったら面白いと思っ
た。
【杉森蘭】
吉田君の論文はウォルツァーの正戦論についてその議論を現実主義・平和主義と比較することでわかりやすく分析
し、その上で「戦争への正義」「戦争における正義」「究極の緊急事態」「徴兵制と良心的兵役拒否」という大きく分けて
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つの側面を問題点を指摘しながら考察を重ね、最終的にウォルツァー正戦論の意義と限界を吉田君の視点で明らかに
している。この論文の良い点は、第一にはじめにで投げかけられた問題提起がおわりにでしっかりとした結論で解決さ
れている点である。この論文は吉田君の感じた問題を曖昧な形で終わらせることなく、細かな分析の結果ひとつの結論
を明快に導き出しているという点で非常に質の高い論文であると感じた。また、全体を通して議論が飛躍することなく、
また読んでいて無駄に感じる部分もほとんどなかった。構成がとてもよくできており、一貫して吉田君の研究が読み手に
上手く伝わってくる点が論文として優れていると感じた。
ただ、この論文をより良くするためにいくつか修正できる部分があると思う。第一にはじめににはもう少し手を加えても
いいと思う。私のようなウォルツァーに関して何の知識もない人にとっては、ウォルツァーの正戦論が取り上げられた理
由をもっと説明してもらわないと突然出てきたような感が残る。また、ウォルツァーの正戦論を明らかにすることでアメリカ
政治研究全体の中でどのような効果があるのかという点ももっと明確に述べてほしい。次に 1 章では、結論のところでウ
ォルツァーの正戦論が1番妥当であるという考えには問題ないと思うが、使っている言葉として「慎重」は適切ではないと
感じた。慎重さで比較をしているわけではないと思うのでここには他の言葉を使うべきだと思う。2 章では、建設的な批
判にならないかもしれないが、ひとつ混乱した部分がある。3 節においてウォルツァーが事例を見つけられないという部
分があるが、私が政治思想に疎いせいだと思うが、「思想があって→事例がでてくる」のか、「事例があって→思想が出
来る」のかわからなくなり混乱した。そのあたりを詳しく説明することがこの論文に必要だとも思えないのでどうコメントして
よいのか正直わからない。すみません。3 章では 2 節の責任の負い方の部分で 3 と 4 の差がいまいち理解できなかっ
た。更に、全体を通して何度かイラク戦争に対するウォルツァーの考えについて触れられているが詳しく述べられていな
いので少し付け加えた方がより理解しやすいのではないかと思う。
以上いくつか修正できる点をあげたが、吉田君の論文は思想という他の分析しやすい事柄に比べて非常に論じるこ
とが困難であろう題材を取り上げているにもかかわらず、終始一貫して議論を展開し、最終的にきちんと結論を出して
おり、とても質の高い論文であると感じた。
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