中世地中海世界の砂糖をめぐる社会経済史

( )
書
評
中世地中海世界の砂糖をめぐる社会経済史
――
砂糖のイスラーム生活史 と 最も甘美な味覚。
イタリアにおける砂糖および蜂蜜史のために
(
) の語る 「甘さ」 ――
城
戸
照
子
本書評では, 地中海世界の甘味と砂糖を考察する上で, 基本的文献となるで
あろう2冊を取り上げて紹介したい。 1冊は, 日本における中世イスラーム史
研究の第一人者による, 砂糖きび栽培・製糖業の発展史と砂糖消費をめぐる文
化史である。 もう1冊は−世紀イタリア北部の砂糖大根 (伊 英
) による製糖業と伝統的養蜂業を中心に取り上げながら, 中世
の砂糖消費に関する重要な研究もふくむ論文集である。
1. 世紀−世紀イスラーム世界における砂糖生産と砂糖の食
文化
1冊目は, 佐藤次高著
砂糖のイスラーム生活史
(年月刊行) で,
中世イスラーム史のなかでも特にエジプトを専門とする著者の冊目の書物に
なる1)。 表紙は, 紀元1世紀ごろの薬学研究の始祖, 小アジア出身のディオス
コリデスによる
) 佐藤次高
薬物誌
の世紀アラビア語訳本の挿絵 (メトロポリタン美
砂糖のイスラーム生活史 , 岩波書店, 年。
( )
中世地中海世界の砂糖をめぐる社会経済史
術館蔵) で, 裏表紙は発掘資料である世紀前後のウブルージュ (製糖に使用
する円錐形素焼き壺) の写真で飾られた, 魅力的な書物である2)。
イスラーム世界における, 9世紀末以降の砂糖の生産と販売, 消費の分析は,
著者の長年の研究テーマの一つとなっている。 年のアジア・アフリカ言語
文化研究所 (東京外国語大学) での研究会報告 「イスラム世界における砂糖の
生産と流通」3) を手始めに, 著者はその後, 年の
術
イスラームの生活と技
(世界史リブレット, 山川出版社)4), 年から年にかけて
ラーム科学研究
5)
イス
誌に発表された製糖技術に関する論文といった, 砂糖に関
する研究成果を発表してきた。 それらの成果を広く
世紀までのイスラーム史
研究全体に位置づけて, 世に問うたのが本書といえよう。
著者の先行成果の中でも, 年に刊行された
イスラームの生活と技術
は, わが国での研究進展をたどる上で特に重要である。 限られたページ数では
あるが, 従来知られることの少なかった
世紀までのイスラーム世界における
) ディオスコリデス は, プリニウスと同時代人でヨーロッパ本草学の
祖とも呼ばれる。 最も知られた著作が, マテリア・メディカ ( の略) で, 本書では 薬物誌 と表記
されている。 ギリシア語で書かれた マテリア・メディカ は, その後長きにわた
り薬学の基本文献として多くの言語に翻訳され, 後代に多様な写本を残した。 ここ
で出てくるアラビア語版も後出するラテン語版も, ともに翻訳された時期の挿絵を
付して, 写本が作られた。 我が国では, 年のジョン・グッディヤーによる英訳
書 を底本として, ディオスコリデスの薬
物誌 , ディオスコリデス研究 (エンタプライズ, 年) が, 大槻真一郎監修
によって刊行された。 ディオスコリデスについては, 後注9も参照。 またウブルー
ジュについては, 後注8を参照。
) 佐藤次高 「イスラム世界における砂糖の生産と流通」, アジア・アフリカにおけ
るイスラム化と近代化に関する調査研究7 , 東京外国語大学アジア・アフリカ言
語文化研究所, 年, 。
) 佐藤次高 イスラームの生活と技術 (世界史リブレット) 山川出版社, 年。
) 「ヌワイリーによる砂糖きびの栽培法と砂糖の製法」, イスラム科学研究 , 年, 。 「イブン・アル=ハーッジュによる砂糖精製所の実体」, イスラム科
学研究 , 年, 。 「円錐形の砂糖ウブルージュについて」, イスラム科
学研究 , 。
( )
砂糖きび栽培の拡大と製糖について明快な分析を提示し, 地中海世界のイスラー
ム文化圏における砂糖の重要性を改めて印象づけたからである。 また後述する
ように, 砂糖の世界史 (
年刊) で川北稔が強調した
世紀以降のヨーロッ
パ植民地における砂糖と過酷な奴隷労働の歴史的結びつきは, 中世のイスラー
ム世界では該当しないことが, このリブレットですでに主張されていたからで
ある6)。
本書
砂糖のイスラーム生活史
の特長の一つは, 著者自身が 「砂糖関係の
記事が様々な史書に分散して伝えられている」 ために, 研究のまとめに多くの
時間が必要だったとことわっているほど, 多様な文献史料が渉猟されている点
である7)。 読者はそのおかげで, 年代記や地理書・地誌, 地方行政の規則, 百
科全書, 都市史, 薬膳書や医学書に至るまで多種多様な著述で, 砂糖がイスラー
ム社会に占める重要性が多様な形で描き出されているのを読むことができる。
本書では主としてアラビア語史料が第一に取り上げられ, ペルシャ語やその他
の史料が補助的に利用される。 「アラビア語史料を網羅的に利用した砂糖の歴
史研究は, 世界的にみてもはじめての試み」 ということであり, 取り上げられ
る史料の多彩さに注目しながら, 以下, 本書の内容を章を追って紹介したい。
第1章 「砂糖生産のはじまりと拡大」 は, 砂糖きび栽培と製糖の起源, さら
に各地への浸透と拡大について, 研究を概観することから始まる。 著者は紀元
前の時代, ニューギニアからインドネシアの島嶼部で砂糖きび栽培が始まり,
紀元後1世紀頃には砂糖生産が始まったという説をとる。 その後東方ルート
(インドから中国へ。 固形の砂糖にする製糖技術は唐代から) と西方ルート
(インドからアラブ征服以前の7世紀のイランへ) で栽培と製糖法が伝播し,
砂糖きび栽培はさらにイランからイラクを経てシリアに拡大し, その後下エジ
) 佐藤次高 イスラームの生活と技術 , 。 川北稔
店, 年, 。
) 佐藤次高 砂糖のイスラーム生活史 , 。
砂糖の世界史 , 岩波書
( )
中世地中海世界の砂糖をめぐる社会経済史
プトから上エジプトへと拡大していくという。
イスラーム時代以降の, イランからエジプトへの伝播の年代確定と在地での
定着の様子は, アラビア語とペルシャ語の商業書の特産品リストや検地と地方
税のリスト, 地理書にみられる砂糖きびの栽培と圧搾所の言及などから明らか
で, 特に世紀から世紀のエジプトがイスラーム世界随一の砂糖生産国へ変
貌をとげたことが強調される。
もちろん同時期, 限定的だがキリスト教の地中海世界にも, 砂糖きびと砂糖
生産が広がっていく。 9世紀以降のアラブによる地中海諸島への進出と統治時
代に, 砂糖きび栽培と製糖が, クレタ島, シチーリアなどに徐々に浸透したと
言われる。 世紀半ば以降になると, ムスリムによるマグリブ・アンダルシア
地方での砂糖きび栽培と製糖について, 地誌や農業書で詳細が知られるように
なる。 また世紀半ばになるとポルトガル人とスペイン人が西アフリカ沿岸の
島々で砂糖きび栽培と砂糖生産に取りかかり, やがて砂糖きびの苗が大西洋を
渡るのである。
第2章 「赤砂糖から白砂糖へ−製糖の技術−」 では, マムルーク朝時代の百
科全書家の一人ヌワイリー (
) の,
学芸の究極の目的
の第二学芸
「人間」 に収録された世紀の上エジプト (ヌワイリーの故郷に近いクース地
方) の事例を柱に, 具体的な砂糖きび栽培法と製糖過程が紹介される。 ヨーロッ
パ側の地中海世界を専門とする者には, 全体で巻にも上るヌワイリーの大著
のアラビア語原典の訳出を読むことができるのも興味深い。 ここでは製糖技術
の東西比較から, 著者はイスラーム世界の砂糖の特徴について, 以下3点を強
調する。
第1に明快なのは, 「砂糖と奴隷制度の悪名高い結びつき」 は, イスラーム
世界には存在しなかったとの主張である。 確かに砂糖きび栽培は, , 7世紀
以降と同様, 当時から多くの資本と農耕技術を必要とする商品作物ではある。
だが, ヌワイリーの記述に加え
世紀アイユーブ朝のアラブ人官僚ナーブルスィー
( )
(年没) が書いたエジプト中部地方
ファイユームの歴史
の記載からは,
砂糖きびの畑を耕作している農民は 「自由身分の小作農であって, 法制上, 奴
隷身分には属していなかった」 ことが分かる。 引用されたスルタン領の3つの
村で砂糖きびを栽培するのは, ムザーリウーン (スルタンと耕作請負契約を結
んで農業経営を行う分益小作農) とムラービウーン (弱小の 「四分の一分益農
民」) で, 後者はもっぱら政府の直轄農場 (アワースィー) で砂糖きび栽培に
従事する。 しかしいずれにせよ法制上, 奴隷身分には属していないという。
もともとイスラーム社会の奴隷は, 男女の家内奴隷と軍事奴隷 (マムルーク)
が中心で, 農業奴隷は多くない。 実のところ, 9世紀のパピルス文書に基づき,
製糖所で作業にあたる 「ギルマーン」 を 「奴隷」 としたヨーロッパ人研究者の
解釈はあやまりで, これは 「人夫」 と解釈すべきであると著者は考える。 すな
わち, 砂糖きび栽培でも製糖業の作業でも, イスラーム世界では 「奴隷」 が必
然的存在ではないことが指摘される。
第2に著者は, ヌワイリーの記述に見られる−世紀のイスラーム製糖法
の工程の複雑さを詳述して, その高い技術を印象づける。 ここでの製糖は, 糖
汁を絞り, 煮詰め, 分蜜する (結晶化しない糖蜜部分を分離する) ために, エッ
ジ式石臼 (大きな石臼の溝に裁断した砂糖きびを入れ, 畜力で石臼を回す) に
よる糖汁搾り, 大釜を利用しての液汁の煮沸, 穴あき円錐形素焼き壺 (ウブルー
ジュ) 利用による分蜜と覆土法による濾過を通しての結晶化の促進と, 幾つも
の段階を経て行われた。 現在の工業過程では, 粗糖から液体の糖蜜部分と固体
の砂糖部分を分けるには遠心分離器を利用するといわれるが, 当時としてはウ
ブルージュを利用して糖蜜を滴り落として分蜜し, 精糖を繰り返すのは, かな
り高度な技術だった。
このウブルージュの現物が発掘され, ヨルダンのアジュルーンの市立博物館
に展示されているという。 円錐形素焼き壺 (直径, 高さとも約センチメート
ル・底に3つの穴) とそれを受ける丸形の壺 (高さ約センチメートル) で一
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中世地中海世界の砂糖をめぐる社会経済史
組になっている。 ウブルージュが円錐形なのは, いわば漏斗として受け壺にセッ
トするからである8)。 このウブルージュの中で結晶化する砂糖は, およそ九分
の一キンタール (約キログラム) になるという。
直径高さともセンチメートルほどの円錐の砂糖の固まりは, , 世紀に
イスラーム商人から砂糖を輸入していたイタリアでもこの形で知られていたら
しい。 後述する
最も甘美な味覚
の表紙を飾るのが, 台上の赤い布の上に3
個並べられた白い砂糖の塊 (まさに先端の丸い円錐形) と, 満足そうにも物憂
げにも見える商人の絵なのである9)。
第3に興味深いのが, 円錐形の壺を使う覆土法と木灰の利用が, 世紀末エ
ジプトから元朝中国へもたらされた東西技術交流の一例とみなしうる点である。
この技術伝来の説明は, 元朝の中国を訪れたヴェネツィア人マルコ・ポーロの
いわゆる
東方見聞録
の記載に見られ, 議論はあったが事実と考えられてい
る。 つまり元朝以前には分蜜していない柔らかな黒砂糖しか作れなかったのが,
より進んだ精糖技術が伝播したことになる。 もとより砂糖は, 世紀以降の
) ウブルージュの貴重な写真は, 裏表紙と本書 で見ることが出来る。 また, ヨー
ロッパでの図像資料として, エステンセ図書館の所蔵書物の挿絵が知られている。
翻訳されたフェルナン・ブローデルの 物質文明・経済・資本主義
−
世紀 I−
1の 日常性の構造1−食べ物と飲み物− (みすず書房, 年) の第3章 「余
裕と通常」 の で, 受け壺にセットしないで円錐形の壺 (ウブルージュにあた
る) を受け壺の上に吊り, 糖汁を滴下させながら分蜜している絵が, 挿絵に使われ
ている。 細長い円錐形の砂糖塊も見える。
) カバー絵は, ディオスコリデス著 ( 本草書 ) の挿絵 「砂
糖の塊 (棒砂糖) の売り子」 (
), モデナ (エステ
ンセ図書館蔵) と紹介されている。 この挿絵自体はもちろんローマ期のものではな
く, 当時イタリアに流通していた中世の砂糖の塊が, まさにウブルージュで成形さ
れた円錐形のものであることを, うかがわせてくれる。
ローマ期のディオスコリデスの著作は, 当然アラブ世界でも研究されていたので,
砂糖のイスラーム生活史 の表紙を飾ったのは, ディオスコリデスの 薬物誌
のアラビア語写本の挿絵−大釜で糖汁を煮詰めている図−である。 中世の砂糖をめ
ぐるイスラーム世界に関する研究書とイタリアでの研究書の2冊の表紙が, いずれ
もディオスコリデスの著作の挿絵 (一方は 薬物誌 世紀バクダードのアラビア
語写本の絵, 他方は世紀に描かれエステンセ図書館に納められた 本草書 の挿
絵) であることは, 大変興味深い。
( )
「世界商品」 ともみなされる特別な商品だが, そうしたモノの移動だけでなく
精製技術が伝播した点が, 重要であろう。 2章からはイスラーム世界の砂糖き
び栽培と製糖の具体的な姿が立ち現れてくる。
第3章 「ラクダと船に乗って−商品としての砂糖−」 では, 1節で8−9世
紀アッバース朝バグダードのカルフ地区の市場, 2節では世紀以降のファー
ティマ朝, アイユーブ朝, マムルーク朝のエジプトでの製糖と砂糖の消費が記
述される。 3節と4節では, 世紀前後のカイロにおける砂糖商人の不正と,
市場監督官 (ムフタスィブ) のマニュアル本 「ヒスバの書」 に書かれた砂糖取
引の具体的事例が紹介される。
砂糖商人の不正な手口として, 黒い糖蜜に乳漿を混ぜ上等の黄色の糖蜜に見
せかけたり, 赤砂糖 (黒砂糖) の表面に白砂糖をコーティングして白砂糖に見
せかけることなど, 多様な砂糖の品質をめぐる偽装が, 具体的に挙げられてい
る。
市場監督官は, 商品にごまかしがないか, 秤は正しいか, 有利子の貸借が行
われていないか, 貨幣は正しいか, チェックすることがその業務である。 砂糖
については, 「甘菓子屋の監督」 において, 例えば, 砂糖のかわりに粗糖を使っ
たパンを 「砂糖パン」 として売ると改善の義務を課す, という事例があるとい
う。 砂糖を使った菓子類として史料に登場するのが, 世紀にはカリフの宮廷
菓子だったのが, 世紀には市場監督官のマニュアル本に言及される砂糖パン
である様子から, 砂糖きび栽培の拡大と製糖の発展を基礎とする砂糖の一般へ
の普及を, 見て取ることができる。
第4章 「砂糖商人の盛衰」 で著者は, 「ヘブライ文字のアラビア語」 で書か
れたカイロ・ゲニザ文書を分析した ゴイテインらの研究に依拠し, −
世紀エジプトでは製糖所の経営や砂糖販売にユダヤ商人も深く関わっている
こと, 世紀から
世紀までインド洋と紅海・地中海を結ぶ中東・イスラーム
交易圏で活躍した 「胡椒と香料の商人」 と呼ばれるムスリムのカーリミー商人
( )
中世地中海世界の砂糖をめぐる社会経済史
は, 実は 「胡椒と砂糖の商人」 と呼ばれる方がふさわしいことを, 描き出して
いる。
世紀の成り上がりカーリミー商人の個別事例として著者が取り上げたハッ
ルービー家は, 製糖所を経営して製糖業に深く関わり, 富を築いてマムルーク
朝の御用商人としての地位を得たという。 また社会的な名誉を維持するために,
財産を学院 (マドラサ) や墓廟の建設, メッカの聖モスク再建費用などの公益
の増進に寄進した。 しかし, 年と年, 財政収入の不足を補うため新ス
ルタンのバルスバーイが砂糖の精製と販売を政府の統制下に置く事実上の専売・
独占政策をとったとき, こうしたカーリミー大商人は没落してしまう。 最終的
には大商人も政治権力に利用され被害を被るが, ともあれ致富の手段として砂
糖がいかに重要だったかが, 改めて明らかになっている。
第5章 「薬としての砂糖」 では, 世紀アラブ世界の薬事学者の筆頭に数え
られるイブン・アルバイタールと, 同時期のスルタンの侍医で第二のイブン・
スィナーとも呼ばれたイブン・アンナフィースの著作が, まず紹介される。 ギ
リシア医学を継承したアラビア医学で砂糖が 「熱にして湿」 の性質を持ち, 胃
病に効果を持つことをはじめとして各種効能を有するとする前者, ヒポクラテ
スの学説を援用して砂糖は 「土性と水性が強い」 ことを根拠に種々の薬効があ
ることを説く後者と, いずれも同時期のヨーロッパ人にも大きな影響を与えた
アラビア医学が砂糖を薬とみなす考え方が分かって, 興味深い。
さらに興味深いのが, 生薬商 (アッタール) で売られる砂糖の位置づけと生
薬商自体の解明である。 いわば国際商人のカーリミー商人は大手のアッタール
に卸売りをし, 大手のアッタールから弱小のアッタール (アッタール・ダイー
フ) が小口の買い付けをする。 現代の街角の薬屋さんのような位置づけの小口
のアッタールがあってこそ, スルタンばかりでなく庶民の日常生活にも, 砂糖
や種々の香料・薬草が流通するのである。
ただし, 皮肉なことに, 弱小のアッタールまでもが大もうけするのは, 世
( )
紀から世紀にかけて, 周期的にエジプトに飢饉と疫病が蔓延した時期である
らしい。 年 (ヒジュラ歴年) の飢饉と疫病に遭遇し, 後に
社会救済の書
エジプト
を書いたマクリーズィーの記述では, 薬の需要が増大して価格
が高騰したという説明の中で, 生薬と並んで氷砂糖や白砂糖の高騰も書き留め
られている。 薬学書とともにこうした記録からも, 砂糖がさまざまな効能を持
つ薬と考えられていたことが, 明らかになる。
第6章 「砂糖と権力」 では, 統治権力による粗糖管理を分析し, さらに政治
的権威と砂糖菓子の甘くない関係について考察している。 この章のタイトルは
もちろん, ミンツの著作
砂糖と権力
を下敷きとしているが), 自国でこの
商品が生産できた中世アラブ世界では砂糖と権力の結びつきは, まず製糖所の
管理, 砂糖の生産と流通に関わる徴税という直接的な形で生じることが, 第1
節で紹介されている。
年頃からサラーフ・アッディーンは全国的な税務調査によって騎士達の
イクタ−収入を確定し, 雑税の廃止に踏み切った。 この 「サラーフ検地」 で廃
止された税金リストの中に, 砂糖に関する 「粗糖の館税」, 「砂糖商人の市場税」,
「製糖所の二分の一ラトル税」 が挙げられるという。
精製前の粗糖を保管する倉庫に対する課税の性格や管理者については史料伝
来がなく詳細が不明とのことだが, 世紀末ファーティマ朝以降製糖所の多かっ
たフスタート (カイロ南の古都) で砂糖生産が一貫して盛んだったことをうか
がわせる。 製糖所の二分の一ラトル税は, 生産高の
分の1が雑税として徴
収されており, サラーフ・アッディーンによって廃止された税高から算出する
と, 精製糖は金貨
ディナール (銀貨
ディルハム) 分, 上質の砂
糖価格を1ラトルあたり
ディルハムと算定しておよそ
キログラムの
) !シドニー・W. ミンツ 甘さと権力−砂糖が語る近代
史 , 川北稔・和田光弘訳, 平凡社, 年。
( )
中世地中海世界の砂糖をめぐる社会経済史
砂糖に相当するという。 つまりアイユーブ朝初期にフスタートで精製される砂
糖は年間約万キログラムと推定されるのである。
さらにやや後代, マムルーク朝最盛期の財務官ナシュウが, スルタン・ナー
スィルの私欲のため, 富裕な商人や官僚の財産を封印して差し押さえ, 財産没
収に及ぶという手段をとった例が紹介される。 その押収リストには大量の砂糖
があり, それらが 「粗糖の館」 に運び込まれたことで, 粗糖の館がスルタンの
権力に深く結びついて運営されていることが分かるといわれている。
第2節から第4節では, 砂糖消費の姿をそれぞれ, 世紀以降のスルタンか
ら騎士や官僚へのラマダーン月の砂糖賜与, 世紀宴席 (スィマート) でのも
てなしやモスクへの慈善の下賜, 世紀スルタンのメッカ巡礼における度を超
した施し品である砂糖菓子などを, 詳述している。 生産ではなく消費の観点か
ら見れば, 贅沢品の常として砂糖と砂糖菓子は常に権力者のそばにあったが,
それを独占することは権力者にとっては得策ではなく, 常にある種の政治的パ
フォーマンスに利用される。
世紀ファーティマ朝の頃すでに, 断食明けの祭に砂糖細工の人形が飾られ
た宮殿での宴席 (これらもすべて砂糖細工) の模型が市内を巡回し人々の見せ
物の娯楽となったという。 ヨーロッパでも砂糖細工の城が権力者の富の誇示の
ために宴席に飾られたことは, 一般に知られるようになったが), その原型と
なったパフォーマンスである。 またスルタンやアミールの 「気前の良さ」 は,
統治者として必要な資質であるから, 世紀, ポロ競技で勝った祝賀の宴席に
一般の人々も招き甘菓子をふるまうスルタンや, 世紀に学院 (マドラサ) を
創建し開講の際に宴席を設けて砂糖をふるまったスルタンの官房長, メッカ巡
礼に際し下賜品として砂糖菓子を用意したスルタンなど, 派手なエピソードに
は事欠かない。
) 川北稔
砂糖の世界史
。
( )
それらの砂糖と砂糖菓子が, 断食明けの祭や犠牲祭の最終日, またメッカ巡
礼といったイスラームの宗教行事と関係して登場することは興味深く, また慈
善としての下賜もイスラームの学院やモスクなどが対象だったことで, 統治者
の信仰心の現れと見なされる。 そのかわり, たとえ為政者であれ, 単なる権威
の誇示のために砂糖の消費が度を超したと受け止められると, 人心掌握の手段
としての砂糖と砂糖菓子のばらまきが批判を生むという逆効果になり, 砂糖を
めぐるパフォーマンスのデリケートさも印象的である。
最終章の第7章 「食生活の変容」 では, 世紀以降の料理書 (キターブ・アッ
タビーフ) とアラブ薬膳書 (キターブ・アッギザー) を材料に, 食文化の変化
を, カリフの宮廷料理 (世紀) から有力者や富裕者のための健康食 (世紀
と世紀), 庶民の甘菓子市場 (世紀) までたどっている。 砂糖の消費だけ
でなく, レシピには胡椒, クミン, コリアンダー, クローヴ, シナモン, ジン
ジャー, サフランなどの多種多様な香辛料, バラ水や胡麻油などの香料や香油
が使われており, 香辛料の貿易の担い手であり消費者でもあるアラブの繊細な
食文化が詳述され, 非常に興味深い。
またよく知られた
千夜一夜物語
は, アラビア語原本からの翻訳 (前嶋信
次・池田修訳版) を読み), 登場する美味を料理書と比較してその記述がほぼ
一致していることを確かめ, おおむね富裕者の食生活の一端を伝える史料と結
論してる。
こうした多彩な内容の食文化概観から, 著者による3点の指摘を, 重要な知
見として読み取れよう。 まず, 料理書や薬膳書の記述によると, 砂糖・氷砂糖
は必ずしも甘菓子やシャーベット, 飲み物などの甘いもののためだけに使われ
たのではないことである。 蜂蜜やディブス (ブドウ, イチジク, アプリコット,
ナツメヤシの実など熟した果実からつくった濃縮ジュース), 甘いアーモンド
) 前嶋信次・池田修訳
年。
アラビアン・ナイト
巻 (東洋文庫), 平凡社, ( )
中世地中海世界の砂糖をめぐる社会経済史
と並んで, 砂糖も調味のために使われたようである。 塩分も甘みもある甘じょっ
ぱいソースに, さらにスパイスや香草, バラ水で香りをつけた味を想像するこ
とができるように思う。 またワイン酢や酸味のあるブドウ果汁をいれて甘酸っ
ぱくした味も多い。 この時期イスラーム世界で好まれたこの 「甘じょっぱい」
味覚は, 中世ヨーロッパのご馳走の味付けの特徴であるソースの 「甘酸っぱさ」
と通底するというのが, 第1点目である。
第2点目は, 世紀後半のアッバース朝からアイユーブ朝, マムルーク朝に
及ぶ数百年を概観して, スルタンや富裕層のための料理には, 一定の類似性が
見られるとする。 材料や調理法は違ってきても, 一般的に氷砂糖や白砂糖を用
いたレシピが数多く記されているという共通点のほうが目立つというのである。
数世紀の間, ご馳走の調理法や味覚などに大きな変化はなかったと考えている
のである。
第3点目は, 富裕層などと対比して一般の人々が砂糖を食べられるようにな
る, 「砂糖の大衆化」 について, 庶民の砂糖消費も従来考えられている以上に
多かったのではないかという新説の提唱である。 これは, 著者自身の研究も含
め従来の学説を修正する仮説である。 従来, イスラーム社会では砂糖は, もっ
ぱら権力者や富裕者がもちいる贅沢品であり, 庶民は祭か病気ででもなければ
めったに口にできない貴重品, とみなされてきた。 宮廷や富裕者の消費分以外
は, ヨーロッパ向けの重要な輸出品になったと位置づけられていたのである。
しかし, 著者は 「少なくともエジプトについて見る限り, 十一世紀以後, 安価
な砂糖あるいは砂糖を用いた甘菓子の消費は, ハーッサからアーンマへと徐々
に広がりつつあったと思われる」 ) としている。 「ハーッサ」 とは, イスラー
ム社会の特権層でカリフやスルタンとその一族, アミールやマムルーク騎士,
高級官僚, 大商人など, 「アーンマ」 は都市社会の民衆で市場の商人や職人,
) 佐藤次高
砂糖のイスラーム生活史 , 。
( )
知識人 (ウラマー), 書記 (カーティブ), 公証人 (シャーヒド) などから構成
されていたという。
砂糖生産の増大にともない砂糖消費が徐々に都市の民衆へも拡大したという
仮説は, まだ今後の研究を待つ必要があるという。 ただ, 砂糖の生産量だけで
なく精糖技術の発展に伴う質の多様化が進んで, 粗糖や糖蜜など相対的に安価
な砂糖も売られるようになったことは, 注目していいのではないか。 またアー
ンマと呼ばれる層は, 確かに資産家の特権階級ではないにしろ, 知識層も含め
専門職能を持つ人々で, もともと購買力はあると考えてもいいのではないか。
著者は, 史料を渉猟しつつ, 世紀の
病気予防の書
で 「上エジプトの人
はナツメヤシの実と砂糖きびからつくる甘菓子から栄養をとる」 という記述に,
カリフや富裕者という限定がないことに注意を促している。 また同じく, 世
紀の
健康維持と病気予防策集成
では, 健康によい砂糖を入れた食べ物や飲
み物の紹介が, 老人を含む一般の人々を対象としていると分析している。 さら
に著者は, 世紀の歴史家が
エジプト誌
に書いた, カイロの甘菓子屋の市
場でラジャブ月には砂糖細工のつり菓子が子ども向けに売られ, 断食明けの祭
には多種多様な甘菓子が並ぶという記述の中にある 「身分の高い人 (ジャリー
ル) も低い人 (ハキール) も」 という表現に注目した。 ハキールは前述のアー
ンマに対応し, 都市の民衆を指すと思われるから, 特別の財産がない都市の民
衆も, 神聖な月には子どものためにつり菓子を買うのを楽しみにしていた様子
がうかがわれるという。
これらは確かに, 病気の際や 「ハレの日」 の特別な砂糖消費ではあろう。 し
かし, 年ファーティマ朝の時代には, スルタンが断食明けの祭に際して,
砂糖細工の人形と宮殿の飾りものを作り市内を太鼓隊付きで巡回し, 庶民の見
せ物に提供したという, 「砂糖を見て楽しむ」 エピソードと比べると, やはり
「見て食べて楽しむ」 ほどに, 砂糖は庶民にも近くなっているのは確かである。
最後に 「エピローグ」 で著者は, マムルーク朝末期の経済衰退から世紀後
( )
中世地中海世界の砂糖をめぐる社会経済史
半−世紀後半には, 製糖業の復活によって商業も復活し, エジプト経済が一
時ではあるが深刻な危機から立ち直ったと主張するN. ハンナの新しい研究を
紹介している。 しかし世紀になるとヨーロッパ各地の海港都市 (マルセイユ
やトリエステ, ヒューメ) が南米産粗糖の精糖事業に乗り出し, エジプトの製
糖業の輸出先を奪ってこれを圧迫したという。 本書での記述はおおよそ世紀
までの, ヨーロッパでいう 「中世」 を主たる対象年代としている。 しかし, エ
ジプトに限ってではあるが, 世紀以降も製糖業と砂糖の輸出商品としての地
位が経済と社会に巨大な影響を与えていたと示唆することで, イスラーム世界
での砂糖の重要性, 地中海の南から見た 「砂糖の世界史」 の一層の可能性が示
唆される。
2. イスラーム世界からの輸入砂糖が支えるイタリアの食文化
砂糖のイスラーム生活史
からは, 地中海南岸, 特にエジプトにおける砂
糖きび栽培と製糖業, イスラーム文化圏での砂糖の位置づけについて, 多くの
知見を得ることができた。 この時期, ヨーロッパ側の地中海世界は, 専らイス
ラーム世界から輸入した砂糖を消費して, 食文化を洗練させていた。 味覚の食
物史の観点から興味深い提示を含む, 2冊目の
おける砂糖および蜂蜜史のために
最も甘美な味覚。 イタリアに
(
) を取り上げたい)。
最も甘美な味覚
のタイトルは, 世紀ボローニャの農学者ヴィンチェン
ツォ・タナーラによる砂糖の定義にちなむ。 本書は, 地中海世界の砂糖研究に
触発された, 博物館展示と研究会の成果報告の論文集である。 ボローニャの農
。 年代と年代が対象)
民文化博物館 (
) #$%&""以下 最も甘美な味覚 と略記。
!"
( )
の運営団体であるヴィラ・ズメラルディ協会 (
)
による 「甘みの根幹」 プログラムや 「蜜蜂, 砂糖きび, 砂糖大根。 苦い人生を
ましにする工業の歴史」 といった, 展示企画に基づく研究が編纂された)。 ボ
ロ ー ニ ャ 大 学 出 版 会 (: ) の中世農村史叢書 (:
) の !巻として,
!!年に刊行されている。
本書では, ボローニャを中心とする北イタリアの, 砂糖大根を原料とする近
代製糖業と砂糖の問題が主となるが, 地中海世界の砂糖という大きなテーマの
中にそれを位置づけようと試みられており, 中世ヨーロッパの社会の砂糖への
言及も 「前史」 として含まれている。
前書きより, 本書は"!年代の砂糖をめぐる各分野での研究進展から, 大きな
刺激を受けて刊行されたことが分かる#)。 美術館の企画としては, $"年パリ
での 蜜蜂, 人間, 蜂蜜と蜜蝋 展示が評判を呼んだこともある%)。 また &
上で公開されていたトロント大学の ") で,
イタリアに関する言及が, '−世紀のグラナダ王国でヴェネツィアとジェノ
ヴァの商人が活動していたこと, $世紀にオーストラリアのノース・クイーン
ズランドの砂糖きびプランテーションでイタリア移民が労働していたことの2
点に過ぎず, イタリアでの研究蓄積の発信が遅れていたことも, 本書の刊行理
) 当該美術館の &
サイト参照 ((
)
**+++,
,
,
,
*)。
/
#) -.
-,
0。
%) .
で$"年に
展覧会が開催されたという。 なお当該美術館 ((
)
**+++,
/
,
,
*)
は, ! 年にマルセイユに新設される 「欧州・地中海文明博物館」 (
1
) に所蔵品を移して統合予定ら
しい。
") &
公開されていた は, $$'年 2,
$の更新
が最後である。 (3)
(
)
**+++,
(
,
,
*
*+
(*
$,
(
)。
担当予定だったトロント大学のジャック・ギャロウェイ教授のサイトには, 共同編
集 人 と し て が 挙 が る が , 活 動 は 不 明 で あ る ((
)
**4
5,
,
,
*6
+5*7
(,
(
)。
( ()
中世地中海世界の砂糖をめぐる社会経済史
由に挙げられている。
しかし刊行が急がれたため, 残念ながら本書には, 中世シチーリアにおける
砂糖きび栽培とヴェネツィア共和国の製糖業と砂糖商業についての論考が欠落
しているという。 こうした構成から, 世紀までのキリスト教文化圏の地中海
世界における砂糖を考察し,
砂糖のイスラーム生活史
を補完するための論
文は, 残念ながらモンタナーリの論考のみである。 ただ, 本書に収められた
本の論文から, そこにある問題関心を概観することはできる。 各論文タイトル
の試訳からこの書物の紹介を始めたい。 なお各論文の番号は, 記述の便宜上,
筆者がつけたことをお断りしておく。
第1部
砂糖好きと砂糖嫌い):国際的分析視角
(
)
1
クロード・フィッシャー 「食物の倫理:砂糖の事例」
(
!
"
)
2
シドニー・W. ミンツ 「糖類は蜂蜜を征服する:心理学的観点から見た成
功」
(
# $ %
&
"
)
第2部
イタリアにおける砂糖と蜂蜜の歴史のために
(
)
3
マッシモ・モンタナーリ 「酸っぱい, 甘酸っぱい, 甘い:味覚の確立」
(%
%
'
!
"
)
) )
)
は, ギリシア語起源の 「糖」 を意味する接頭辞である。 試訳で
は
とこの接頭辞を持つ語を区別せず 「砂糖」 の訳を選んだ。 ただ論文2
の
は, 化学用語 「サッカロース」 を意味し, 砂糖きびの糖汁に由来する
糖蜜分 (伊 , 英 ) なども含んだ精製糖以外の甘みも考察されてお
り, これのみ 「糖類」 とした。
( .)
4
イルマ・ナーソ 「 蜜の流れる川 :ノルマン−シュヴァーベン期南部イタ
リアにおける養蜂業」
(
≪
≫ )
エリザベッタ・トニッツィ 「ジェノヴァ資本とポー河平野 −年
5
代イタリア製糖工業のテイクオフ」
(
!
"
#
)
6
ルチオ・ガンビ 「イタリア農村生活における甜菜類の価値」
($
% )
7
エンリコ・ビアンカルディ, ピエルジォルジョ・ステヴァナート 「イタリ
アで栽培される砂糖大根の多様性の変遷」
(
&
'
(
$
)
)
8
ジョルジォ・マントヴァーニ 「イタリア製糖業の技術的育成」
(%
*
$
)
9
アンナ
グローリア・サバティーニ, パオラ・ツッキ 「蜂蜜とイタリア養
蜂業の過去と現在」
(+ %
( '
,
)
)
パオラ・ザッパテッラ 「参考文献:イタリアの砂糖と蜂蜜史読解の指標」
('
,
)
)
第3部
考察を深めるために:ボローニャ地方における甜菜類栽培 -) と
製糖業に関する労働と方言辞典
( $)
中世地中海世界の砂糖をめぐる社会経済史
( )
クラウディア
ジャコメッティ 「砂糖大根の耕作サイクル:耕地の準備か
ら製糖工場への搬入まで」
(
)
ファビオ・フォレスティ 「砂糖の精製過程:砂糖大根の搬入から精製過程
まで」
(
)
以上の構成で, 比較文明史的な視点を持つ第1部の論文1と2は, 残念なが
ら主たる関心年代は世紀以降である)。 第2部の5, 6, 7, 8の論文も, い
ずれも多少の年代幅の違いはあれ, !−"世紀を対象とする。 9の論文には,
#−世紀の言及があるが, ごくわずかである。 "
は, いくつかの基本文献を除
けば, おおむね!$
"年代以降のヨーロッパ砂糖史の研究文献リストである。 第
3部は!
−"
世紀の砂糖大根を原料とするボローニャの製糖業をテーマとする。
本書の編纂から, 少なくとも, ボローニャ地方を中心としたイタリアの砂糖
について, 以下3点の特徴を看取することができる。 第1に, あまり知られる
")
砂糖の世界史 でも解説されているように, !世紀以降ヨーロッパでは, 寒冷
な土地でも栽培可能な甜菜類の導入と, 製糖技術の改良によって, 砂糖大根を原料
とする製糖業が盛んになる (
$!%
!&参照)。 最も甘美な味覚 に含まれる論文
では, と の二つの語が使われているが, を広義に 「甜菜
類」 (英 ) と総称し, に砂糖大根 (英 ) の訳をあてた。
) フィッシャーの第1論文は, フィッシャーの著作 (
'
'
!!) からの, 本
人による抜粋との注記がある。
ミンツの第論文は, 著作 (
!
(
(
)
!!#) のイタリア語訳
からの, 本人による抜粋と注記がある。
( )
ことがなかったイタリア北部での, 砂糖大根に由来する製糖業の存在とその盛
衰が
世紀以降の在地経済に大きな影響を与えていた点である。 砂糖大根 (ビー
ト) に由来するヨーロッパの製糖業は, 世紀プロイセンやボヘミアで大規模
に展開された農工業としてよく知られているが, ボローニャでも同様に精糖産
業があった。 この時期はカリブ海諸島の英仏植民地からの輸入による消費量の
拡大が強調されるが, 中小規模の経営によるヨーロッパ産のビート糖も確実に
増えていたことを改めて考慮すべきであろう。
また第2に, 砂糖と並んでなお, 養蜂業と蜂蜜生産が重要な伝統産業であり
続けた点が確認される。 もとより中世では養蜂業と蜂蜜が重要だったのは, イ
タリア南部を取り上げた第3論文でも明確に現れている。 しかし砂糖が食卓に
登場してからも, 蜂蜜はその独自の位置づけを失わなかった。 シドニー・ミン
ツの第2論文は, 世紀以降のイギリスとアメリカの事例に基づき, 砂糖 (糖
蜜も含む) と蜂蜜の消費を軸に, 好まれた甘味料の変遷を描き出している。 大
きな傾向として, 確かに量的には砂糖 (および糖蜜とゴールデン・シロップ)
が蜂蜜を凌駕していく過程が取り上げられる。 ただ, 最終的には蜂蜜もその風
味が尊重され, 食文化の中で併存していったことが, 主張の底流にはある。 こ
うした蜂蜜の重要性と伝統的な味覚の根強さが, 実際にボローニャの養蜂業の
存続からも検証されるといってよいだろう。
第3に, 世紀以降ヨーロッパ全域における砂糖消費傾向には, 年代差とと
もに実は地域差が大きいという事実である。 カリブ海諸島で砂糖きびプランテー
ションを経営していた英仏両国では, 特に世紀に砂糖きび糖の輸入が格段に
増加して消費量も跳ね上がることは, 入門書でも見られるようにごく常識的な
記述になっている)。
これに対しイタリアでは, シチーリアにアラブ人によって導入された砂糖き
) 川北稔
砂糖の世界史 , 。
( )
中世地中海世界の砂糖をめぐる社会経済史
びが世紀にはフリードリッヒ2世の政策によって栽培が確立し, 砂糖が身近
に存在していた。 さらに世紀以来イスラーム圏との貿易によって, 王や貴族
に限らず富裕層には砂糖の入手が可能だった)。 また, 北イタリアでは, −
世紀には砂糖大根に由来する製糖業が盛んになっている。 そうした有利な状
況にあっても, イタリアは養蜂業も継続されており, 砂糖一辺倒の食文化には
ならないようである。 「砂糖は蜂蜜と違い風味がないので, 紅茶やコーヒーな
ど飲物にいれて摂取される」) とミンツがいうように, 砂糖は新しい飲物との
相性は良かったが, 料理一般では伝統的な甘味料に完全にとって替わったので
はなく, 使い分けがなされたと考えられる。
ここで先に取り上げた
砂糖のイスラーム生活史
と時代的に比較されうる
のは, 結局, マッシモ・モンタナーリによる第3論文である)。 モンタナ−リ
は中世イタリア北部の農村経済史研究を基盤とする食文化史の研究者として著
名である。 この論文は, 砂糖きびの耕作や製糖についてではなく, 甘み成分と
しての砂糖がどのようにイタリア料理の調味に使われていたかという観点から,
砂糖の消費傾向と当時の嗜好を明らかにしてくれる。
香辛料と同程度に贅沢品である砂糖を, モンタナーリは 「薬」 ではなく専ら
甘味料と位置づけ, 多様な料理書の記述から, ローマ帝国期から, 世紀以
降のイタリアの味覚を比較した。 茹でたりローストした肉に様々な味わいのソー
スをかけて食べるのは, 古代から中世に共通する料理法であった。 モンタナー
) イタリア中部の毛織物工業都市プラートには, 著名な商人の出身家系であるダティー
ニ家文書が伝来している。 書簡の記述や薬種商への支払いから
年には年間数回,
砂糖を自家消費のために購入していることが分かる。 同時代の料理書には, レシピ
に砂糖がでてくる記述があるが, ダティーニ家の食卓にもそうしたものが出された
らしい。 (イリス・オリーゴ著 篠田綾子
訳・徳橋曜監修 プラートの商人 中世イタリアの日常生活 , 白水社, 年,
)。
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( )
リは多種多様なソースのなかでも 「甘酸っぱい」 味のソースに注目し, その味
付けのための甘味料と酢の種類の変化を検討したのである。 その主張のうち,
次の3点が注目される。
第1に, ローマ帝国期にすでに人気があった蜂蜜とワイン酢を使った 「甘酸っ
ぱい」 ソースの味は, 中世後期にも同様に人気があった。 ただし, 同じ 「甘酸っ
ぱい」 風味が, 砂糖と柑橘類の果汁を使う味付けに変わることが確認される。
柑橘類の酢に代えて, 未熟なブドウの実の果汁もたくさん使われた。 このブド
ウの果汁は, 同時期のアラブ料理書にも見られ, 地中海世界では一般的なもの
だったらしい。 なお甘いオレンジ類が導入されるのは世紀以降なので, 柑橘
類の果汁はまずは酢として利用されたようである。
第2に, ローマ帝国期の嗜好であった 「甘酸っぱい」 味わいが, 世紀に
復活するのには, アラビア料理法の影響があったと想定されている。 モンタナー
リはその論拠に, アラビア文化圏と近いと考えられる世紀の南イタリア (ナ
ポリ中心) の料理書に記述された, 地域名のついたソースのレシピを挙げてい
る。 特に
サラセン風の 《
》と呼ばれているソースは, ブドウ酒と
柑橘類の果汁, ナツメヤシ, 干しぶどう, アーモンドを合わせて作られ, この
料理書の中で甘酸っぱいソースはこれのみという)。 ナツメヤシや干しぶどう
などが甘味料になると思われる。 そのほかのソースは, 蜂蜜が入るが酢が使わ
れないもの, 香草と香辛料だけのもの, ニンニクと香辛料だけのものと, いず
れも甘みと酸味を同時に使ってはいないという。
ただし, いわばご本家にあたるアラブの世紀の料理書ではソースに砂糖が加
えられていたが, この サラセン風の ソースの分量書きには, 砂糖はまだ書か
) ナツメヤシは, 実そのものも考えられるが, 砂糖のイスラーム生活史 の で言及されていた, ディブスと呼ばれる熟れた実の濃縮果汁である可能性がある
のではないか。 アーモンドは, これも有名なデザートのブランマンジェの材料であ
るアーモンドミルク (アーモンドの実を砕いて水に浸したもの) も, 含むのではな
いかと思われる。
( )
中世地中海世界の砂糖をめぐる社会経済史
れていない。
ローマ帝国伝統の嗜好の復活という面はあるにせよ, 世紀の
ヨーロッパ内部で, フランスは酸味は好むがあまり甘味を足さず 「甘酸っぱい」
味に傾かなかったという。 中世イタリアで人気の 「甘酸っぱい」 味には, おそ
らくアラビア文化の影響が不可欠だったのではないかと思われる。
第3に, 甘味の調味料として, 伝統的な蜂蜜や果実 (アラブ風にナツメヤ
シやアーモンド, ザクロ) に代わり, やがて砂糖が圧倒的に重要になってく
る点が強調される。 世紀末, 料理書には
蜂蜜もしくは砂糖 《
》という移行期の表現が見られ, 同時期のトスカーナの料理書でも
蜂蜜に代わって砂糖が使われるようになるという。 ただモンタナーリによれば,
砂糖の分量書きが急増するには, 世紀シエナやヴェネツィアの料理書を待た
なくてはならないとしている。 世紀には, 世紀末の砂糖入りレシピのおよ
そ2倍にあたる, 全体の%ものレシピに砂糖が使われていると算出している
のである。 砂糖を使った 「甘酸っぱい」 味は, 中世だけでなくその後のイタリ
ア料理の味の一つになったと考えられている。
ヨーロッパよりも早く砂糖を使っていたアラブ料理の影響から, 特に 「甘酸っ
ぱい」 風味への好みを強めた北イタリアでは, 砂糖が入手できない時には, 蜂
蜜や場合によっては果物を利用して 「甘酸っぱい」 味を作り出した。 やがて甘
味料としての砂糖が輸入されて, 世紀から世紀には次第に砂糖の消費が優
勢になっていく。
ただし, 中世には, 人は身分にあわせてふさわしい食べ物を食べるべきだと
いう倫理観があり, 農民は砂糖を食べないし食べても価値が分からないと見な
された, とモンタナーリは指摘している)。 食文化にこうした枠がある時代に
は, たとえ砂糖生産が可能な地域に近くとも砂糖による味付けが増えても, イ
タリアで砂糖の消費が一般に拡大するのは, まだ先のことだと思われた。
) 。
( )
以上のように紹介した2冊の研究から, 世紀以降には 「世界商品」 に成長
した砂糖が, それ以前の地中海世界でどのように定着したか, その過程と社会
への影響を知ることができる。 確かに砂糖きび栽培・製糖が行われた土地にお
いてすら貴重品だった砂糖を, 一般の人々が食べることができるようになるに
は, 地中海沿岸東部, 南部に栽培が拡大しても数百年が必要とされた。 しかし,
いちど砂糖の味に親しむことが出来るようになると, その魅力は人々にとって
圧倒的であった。 多くの場合, 蜂蜜や甘い果物といった旧来の甘味と併存しつ
つも, 砂糖の消費量が拡大傾向を見せるのは, 世紀の小ブームでも世紀の
大ブームでも同様だったようである。
地中海世界の砂糖の問題でいえば, 世紀以降のシチーリア島での砂糖きび
栽培, 世紀キプロス島での砂糖きび栽培と製糖業へのヴェネツィアの関与な
ど, イタリアの近くで行われたとされる製糖業の具体像が不明なのが, 一番の
ミッシングリンクであろう。 F. ブローデルの総括的な言及 ) によって概要
は知られているとはいえ, その詳細な研究は今後の一番の課題となると思われ
る。 実際中世キリスト教世界での砂糖に関する労働 (砂糖きびの耕作という農
業労働と, 糖汁を搾って煮詰める工場労働) にも, 奴隷的労働が含まれている
のかいないのかが, イスラーム史研究から投げかけられた, 製糖の労働力と奴
隷制度の結びつきは果たして本質的か, という問題を考える上でも非常に重要
だからである。
世紀以降の 「世界商品」 になる前の, 地中海世界での砂糖の研究には, ま
だまだ多くの課題が残されており, 今後の研究進展が待たれるといえよう。
) F. ブローデル著, 村上光彦訳 物質文明・経済・資本主義
1 日常性の構造 1 , みすず書房, 年, 。
−世紀
I−