自主性にもとづく真実の愛

自主性にもとづく真実の愛
チュチェ思想国際研究所事務局長
尾上健一
愛は人間にとってもっとも身近で重要な問題です。
愛について正しく理解することは、人間が幸せな人生を歩むうえで、ひいては愛あふれる未来社会を
きずくうえで大きな意義があります。
社会的存在である人間の愛
愛には、親子や兄弟の愛、男女の愛など人間にたいする愛、人間以外の自然や物を愛する愛、神の愛、
仏の慈悲など、さまざまな愛があります。 辞書では愛について親兄弟のいつくしみあう心、広く、人
間や生物への思いやりと説明しています。
一般的に愛というとき、人間が人間を愛することを意味します。愛は、人間が人間と自主性にもとづ
いて結合し、生きることを願う心ということができます。
愛することは人間の生きがいや幸福と深く関連し、人間は愛なくして人間らしく生きていくことはで
きません。人間はだれしも人を愛して生きていきたいと願っています。
人間の人間を愛して生きたいという要求は、人間の存在と深く関連しています。
人間は世界のなかで唯一の社会的存在です。
社会的存在とは、自然と社会の主人として目的意識的に社会的関係を形成し周囲世界にはたらきかけ
ていく存在であることを意味します。人間は動物など生命物質、石や水など無生命物質と同じように、
物質世界の一部ですが、人間以外の物質が広い意味で自然的存在であるのにたいして、人間は、唯一の
社会的存在として生きています。世界のなかで目的意識的に社会的関係を結んで生きていく物質的存在
は、人間以外にはありません。
世界は人類の登場と発展によって、次第に人間中心に美しく豊かに変革されるようになり、歴史は速
いスピードで発展してきました。社会的存在である人間は、目的意識的に社会的関係をきずき、社会的
関係を強化しながら、周囲世界にたいして主導的にはたらきかけ世界を変革し、歴史を前進させてきた
といえます。
人間が目的意識的にきずく社会的関係、とりわけ人間と人間の結びつきの度合いが、周囲世界への働
きかけの強さ、速さを規定しています。
目的意識的に社会的関係を結ぶのは人間だけがなしうることです。人間以外の他の物質と物質との結
合は、自然発生的におこなわれるか、あるいは客観的法則にそっておこなわれます。
社会的存在である人間と人間の結合は、人間を愛する目的意識的な努力の積み重ねを経て強固になり
大きな力をもつようになります。
人間は社会的存在であるがゆえに、誰しも愛する対象を求めて生きています。人間が愛する対象とし
て心から求めるのは人間です。
人間が人間を愛することを大きく肉体的な愛と精神的な愛に分けることができます。
人間と人間との精神的な結びつきを求める愛には、異性間のプラトニックな愛、兄弟の愛、友情、親
子の愛などがあります。
1
人間が肉体的に結びつくときは、一般的に男性が女性を、女性が男性を愛する場合です。人間は誰と
も人間的な結びつきが得られないとき、異性間の肉体的結合に一時的な安らぎを見出す場合があります。
異性同士が肉体的結びつきでとどまり心の通い合いがなければ、その愛は多くの場合長くつづくことは
ありません。異性間の愛は互いの人生で大きな意味をもちますが、重要なのは出会いよりもその後、互
いにいっそう努力し愛を育んでいくことにあります。
人間が愛の本当の対象として求めるのは人間であるがゆえに、人が愛に傷つき、愛に絶望するとき、
人間以外のものを愛の対象にして生きようとすることもあります。人が立身出世や金儲けに夢中になっ
たり、独り自然のなかで過ごす姿は、仕事や金、自然などを愛し、一定の精神的充足を得ているかのよ
うに見えますが、人間を愛することに代わりうるものではありません。
人間は社会的存在であるがゆえに、誰しも人間を愛して生きることを願い、愛する努力をしながら生
きています。人間が生きるということは、人を愛して生きることだということができます。
人間の愛は主体の愛
人間の愛は誰かに愛されるのを待つ愛ではなく、主体の愛、能動的な愛ということができます。
主体の愛は、親の子どもにたいする愛によく現れています。親は子どもが生まれてから社会的に自立
するまでの間、子どもの成長を願い、育てる苦労を喜びと感じながら愛を注いでいきます。
親の愛に包まれ育まれた子どもが親を愛し大切にしても、その思いは親の愛に比べようもありません。
親が子どもに注ぐ愛は無私の愛、何の見返りも期待しない愛、一方的に与える愛といえます。
人間の愛は主体の愛であるがゆえに、愛する対象の幸せを深く考え、ひとすじに献身する行動として
現れていきます。
人間が願うのは能動的に人を愛することです。しかし、日本のような複雑な社会状況のなかで主体的
な愛を貫くことができず、愛されることのみを期待する人も多くなっています。
いじめに遭った子どもが自分と同じ境遇の友人を求めたり、両親の不和や暴力を目の当たりにして育
ったために、人を信じ愛することに戸惑いを感じる人もいます。愛を求めながら異性との愛のない結合
をくり返す人もいれば、また愛に絶望し酒や薬物に頼って孤独を癒す人もいます。
どのような苦労を背負ってきた人であれ、愛を主体的にとらえ自主性を基本にして愛をもつことによ
って、悲しみや孤独から解放され生きがいをもって力強く生きていくことができます。
人間の愛は主体の愛であり、対象の幸せに責任をもつ愛です。人間の愛は対象を幸せにすると同時に、
愛の主体も対象を愛することによって幸せを感じることのできる愛といえます。
自主性を生命とする人間を愛する
生命物質、無生命物質の違いを問わず、あらゆる物質はその物質だけがもつ固有の性質をもち、その
性質にそって運動していきます。例えば鉄は酸素と結合する性質をもっています。空気中の酸素と結合
した鉄は酸化鉄となって錆び、さらに新たな化学反応を起こしていきます。
生命物質も無生命物質と同じように自らの固有の性質にそって運動します。
人間は社会的存在であり、その固有の性質は自主性です。自主性は、世界の主人として自由に生きよ
うとする人間の本質的属性です。
人間は自分自身が何ものにも束縛されず自由であるばかりでなく、多くの人びとのことを考え、その
2
人たちのために生きていきたいという要求をもっています。自主性は人間が集団を愛し、社会に責任を
もって生きる生き様として現れていきます。
人間は自主性を発揮して生きるときに、人間としての輝きを増し、深い喜びを感じるものです。
人間が自主性を失えば人間を特徴づける本質的属性が失われたことを意味し、もはや社会的存在とは
いえません。言い換えれば、自主性を失っては人間として生きることができなくなってしまいます。人
間にとって自主性はまさに生命なのです。
人間が人間を愛するということは、自主性を生命とする人間を愛することを意味します。人間の自主
性を何よりも貴重に思い、尊敬することが、真に人間を愛することだといえます。
古今東西を問わず、崇高な愛は母の愛にたとえられてきました。母親は子どもを 1 年近く自らの胎内
で育み、出産後も長い期間にわたって細やかな愛情をもって世話し育てていきます。母子一体の営みの
なかで、幼子は安らぎを得、人間を信じて生きていく精神的基盤をきずいていきます。
母親と子どもの結びつきが、その後の子どもの人間的な発展の最初の鍵を握るのは疑い得ませんが、
子どもの成長にしたがって母親が子どもの自立を適切に促さなければ、その後の母子関係は歪んだもの
となっていきます。
子どもが社会的存在として自立していく節目にあたり、子どもの旅立ちを心から願い喜ぶことができ
るか否かは、母親の愛が自主性にもとづいた真実の愛か否かを問う一つの試金石となります。
愛する人の自主性を輝かせるため、敢えて別れを選び、別れを促す愛も人間の真の愛の一つの側面で
す。人間の真の愛は時間、空間の制約を越えて結ばれる崇高で強い愛だといえます。人間はたとえ地理
的にどれほど離れている人でも愛することができ、過去に育んだ愛も未来に向けた愛ももち続けること
ができます。人間は愛をもつことによって、今は一緒にいない人とも気持ちを通わせ、心を一つにする
ことができるのです。
人間の自主性を瞳のように大切にし、自主性の発展のために努力することが、人間を愛することの本
質的内容であるといえます。
社会的教育を通して愛を育てる
人間の本性を知り、人間を深く愛して生きることができるか否かは、社会的教育にかかっています。
人間は社会的教育によって真実の愛を知り、豊かな愛を育んでいくからです。
物質一般の性質が最初からその物質に備わっているのにたいして、自主性はもって生まれて人間に備
わっているわけではありません。自主性は人間が生まれた後、社会的な教育を受けて形成され発展して
いく点で、生物一般の性質とは際立った違いがあります。
人間は人間だけがもつ性質である自主性と、動物一般がもつ性質の二つを合わせもっています。
あらゆる子どもは自主性を伸ばして生きる可能性を秘めていますが、大人が対応を誤れば、人間とし
ての性質よりも自然に備わっている動物一般がもつ性質を強く表現してしまいます。大切なのは、大人
が子どもの自主性を尊び、愛し、社会的な教育のなかで子どもの自主性を系統的に育てていくことです。
社会的教育を受けて育つ子どもは、自然発生的な性質をコントロールし、高い目標に向かって努力す
る生き方を次第に身につけていきます。
幼い子どもにたいして、勉強しても良いししなくても良いと言って自由に選択させるならば、多くの
子どもは遊びを選び学校にも行かなくなるでしょう。社会的教育を施さず自由気ままに育てた子どもは、
生活体験を通して楽な生き方を覚え、目的意識的な努力を嫌う傾向を強めてしまいます。幼い子どもは
3
生物的な要求を満たそうと泣き暴れることもあるでしょう。おなかが空いたと泣けば、すぐに食べ物が
与えられることに慣れると、子どもは抑制を学ぶ機会を失い、生活秩序をうちたてることが難しくなっ
てしまいます。
子どもが思春期を迎える頃には自己主張を強め、大人と一緒に過ごすのを避けるようになってきます。
子どもは、急速に自立心を強める一方で自ら精神的なバランスがとりにくくなり、周囲の大人も対応に
苦慮することがあります。大人は思春期を迎えた子どもの姿を一面的にみるのではなく、自主性の発露
としての側面を認め、自主性を擁護する立場に立つことが大切です。大人は子どもの自主性を育てるこ
とを基本において、子どもの要求に応えることと応えてはならないことを選別し、責任をもつことが求
められます。同時に、大人は子どもにたいして、なぜそうするのが大切かを理解するまで教え、子ども
が自らの意思で正しく行動するようはたらきかけなくてはなりません。
子どもの要求をそのまま受け入れることは、大人にとっては楽で心地よい選択かもしれません。しか
し、社会的教育を受けず自主性を伸ばす機会を得られないままに育った子どもは、社会的に自立すると
きにはじめて、人間としての課題に直面することになります。子どもが自主性を輝かして生き発展する
道筋を、大人は深い愛情と責任をもって示していかなくてはなりません。
青年は未来の担い手であるがゆえに、大きな志をもって歴史の主人として堂々と生きることができる
ように育てなくてはなりません。
青年が未来を展望できず、将来に絶望すると力強く生きていくことが難しくなってしまいます。青年
に限らず人間は、進むべき未来が展望できないとき目先の選択をしがちです。
人間はある技術や資格をもてば生活のための手段を手にしたといえますが、それだけでは真の人間と
して生きる要求を満たすことはできません。人間にとって金や資格を得ることは人生の最終的な目標で
はなく、あくまでも幸せになろうとするときの手段にすぎません。
青年にとって重要なのは、正しい人生観をうちたてることを重視しながら、世界総体と世界の本質に
ついて学び、世界の主人として発展していく資質を目的意識的に備えていくことだといえます。
正しい人生観をもつために努力する青年は、未来を展望する大きな生き方をし、多くの人びとと真実
の愛の関係を結ぶ価値ある青春を送るようになります。
子どもに社会的な教育を与えていく過程では、何よりも大人自身の人間の自主性にたいする揺るぎな
い信念が問われてきます。大人は人間の存在、人間の本質的属性である自主性について深く理解し、自
主性にもとづく人間の豊かさ、人間の発展について確固とした見識をもたなくてはなりません。目的意
識的に社会的関係を結ぶ社会的存在としての見地から人間をみたとき、豊かな人間、発展した人間とは
何かが明らかになります。
豊かな人間、発展した人間の表徴は、一人の友人よりも 10 人、10 人よりも 100 人、100 人よりも 1000
人の友人をもち、自分の身近な人びとだけではなく、日本の人びと、世界のすべての人びとのことを考
え、愛し、人間としての絆を強めて生きる姿として現れます。さらに、きょうより明日のこと、10 年後、
100 年後の未来を科学的に予見し、そこに至る計画を立て、実現に向けてたゆまず努力する人であると
いえます。人間として豊かで発展した人はまた、人間の自主性にたいする揺るぎない信念をもち、人間
の発展を導くことができる人でもあります。
愛にあふれる運動と社会を
愛にあふれる活動が、愛にあふれる未来社会をきずいていきます。
4
社会運動は、めざすべき未来社会にたいする明確な展望をもっておしすすめることが重要です。
これまでの理論では、人間を支配と従属の鎖から解放する社会主義制度が樹立されれば、自ずと人間
中心の社会が実現するとみなされてきました。人間をとりまく客観的な条件を変えることによって人間
の幸せを実現できると考えたとき、未来社会は豊かな経済と平等が実現された社会、民衆が政治の主人
となり、すべての人びとが共通の目標に向かって努力する社会だと考えられてきました。
現時代は自主性の時代であり、人びとの関心事は自主性を発揮して生きる未来社会への新たな展望を
手にすることにあります。自主性の時代における未来社会の姿は、人間の自主性を基本にして新たに解
明されなければなりません。
自主性の時代における未来社会の重要な表徴は、人間と人間の関係が自主性にそって強固に結合され
自主性が高度に発揮される社会だという点にあります。
未来社会は全社会的範囲で人びとが自主性を基本にして愛の関係で結ばれ、愛が大きく花開く社会で
す。すべての人びとが愛しあい助け合い、互いに責任をもって生きる社会は、人間のめざす最高の社会
であり、人びとに未来への展望と力を与えていくものです。
未来社会は人間の真の愛にあふれた美しい社会であり、未来社会をきずいていく運動もまた愛にあふ
れたものにしていかなくてはなりません。
未来をきずく運動が愛に満ちた未来社会の原型を形成するものであってこそ、運動は多くの人びとの
心をとらえ励まし、多くの人びとが主体となって力強くおし進めていくことができます。
未来社会をきずく運動は、同志を得ることからはじまり、同志的関係をたえず拡大していくことによ
って生命力を発揮していきます。民衆の自主性のためにともに生きたたかっていこうとする人間と人間
が、生死苦楽をともにし、互いに愛し尊敬しながら自主偉業のために身を投じていくとき、人間のもっ
とも美しく強い絆が生まれていきます。
同志愛は、仲間を自分の生命の一部として考え、たとえ離れていようとも心はいつも一つでありたい
と求めあい、なにものによっても切り離したり遠ざけることのできないものです。友人の愛、家族の愛、
男女の愛、さまざまな愛も同志愛を基本にしてこそ真実の愛へと発展していきます。
愛は偶然の契機や自然発生的に生まれるものではなく、何年も相手の自主性にはたらきかけるたゆみ
ない献身の結果、はじめて育っていくものです。同志愛も真心をもって同志を愛し、すべてをかけて献
身し責任をもつ過程で育てていくことができます。
自主性を実現するために努力し実践する人が自主性が花開く未来社会を信じることができます。
未来社会は人間の自主性を堅く信じ、愛し育てるたゆみない努力のなかで確かな手ごたえをもって準
備されていきます。
愛にあふれた人間が愛にあふれた活動をおこない、愛にあふれた社会をきずいていくのです。
(本文は 2004 年 7 月 31 日、尾瀬の青年セミナーにおける報告に加筆したものです)
5