デ・レイケの日本と上海における略歴等 1873(明治 6)年 10 月 14 日

2013.6.16
オランニエ家勲爵士
オランダ人技術者業績研究会
代表 工学博士 上林 好之
デ・レイケの日本と上海における略歴等
1873(明治 6)年 10 月 14 日 大蔵省土木寮と枠外の低い職位 4 等工師月給 300 円で契
約
1876(明治 9)年 9 月 25 日 内務本省土木寮課長(奏任官)待遇で再契約月給 400 円
1881(明治 14)年 6 月 8 日 愛妻 Jonhana Maria Alida Hassoldt de Rijke 神戸で死去
1882(明治 15)年 10 月 奏任官待遇
1884(明治 17)年 3 月頃 内務省土木局長と大阪府知事へ文書で「淀川は低水工事ばか
りしているので近く洪水で大氾濫する」と警告
1884(明治 17)年 5 月 1 日 内務省土木局長待遇月給 450 円
1884(明治 17)年 11 月から 1885(明治 19)年頃まで 内務省中央衛生会委員
1884(明治 17)年 11 月 内務大臣山県有朋はデ・レイケの質疑に答えない土木局長島
惟精を参事院議官へ即刻左遷
1885(明治 18)年 6 月 17 日 デ・レイケの予告通り大阪府枚方の左岸堤防が決壊し約
9900 戸浸水、死者多数の史上最大の大災害となった
1885(明治 18)年 12 月 縁戚の女性教師 Maria Suzanna Heck とオランダで再婚して
再来日
1888(明治 21)年 5 月 月給 500 円に昇給
1889(明治 22)年 1 月 15 日 勲 4 等瑞宝章
1891(明治 24)年 10 月 1 日 勅任官(事務次官・副大臣相当の)内務技監待遇で月給 500
円
1892(明治 25)年 5 月 17 日 勲 3
等瑞宝
章
1894(明治 27)年 2 月 9 日 宮内大
臣から
嘉仁皇
太子結
婚式に
夫人同
伴で招
待され
た
1903(明治 36)年 6 月 17 日 帰国に際し勲 2 等瑞宝章 日本政府は 5 万円を贈ったとい
1
う
1905(明治 38)年 2 月 上海黄浦江管理委員会技師長に着任
1907(明治 40)年 7 月 27 日から 9 月 14 日まで 日本の軽井沢生まれの息子 Hendrik
Christiaan とともに来日し日本を楽しむ
1909(明治 42)年 5 月 11 日 デ・レイケが計画・設計・施工した上海黄浦江の新船舶
運河を英国海軍船 Astraea 号が無事通過し、ロンドンの新聞
で評判となった。
1909(明治 42)年 10 月 再び療養のため神戸に来たが、ドイツ人の悪事に満ちた新聞
記事のため 2 泊しだけで上海へ帰った
1909(明治 42)年 10 月 英国人技師 Wilson と Mahews が 2 週間上海に滞在して完成
検査を担当し、工事の素晴らしさと検査への協力に感謝して
19 日帰国
1910(明治 43)年 10 月 26 日 上海黄浦江管理委員会技師長を辞任して帰国
1911(明治 44)年 1 月 17 日 オランダ国王から獅子勲士(伯爵相当)
1913(大正 2)年1月 20 日 心臓が弱りアムステルダムの P.C. Hoofstraat 20 番地の自
宅で 70 歳の生涯を終えた
息子 Hendrik Cristiaan が親友 Ir. George Arnold Escher へ知らせた
父 Johannis de Rijke の死
「拝啓 エッシャー様
大きな悲しみのうちに、私たちの愛しい父が今朝 7 時、おだやかに静かに永眠した
ことをお知らせいなければなりません。…。1913 年1月 20 日」
翌日、Maria Suzanna Heck-de Rijke 夫人から葉書が届いた
「謹啓 エッシャー様
貴殿は主人の病気が何であったか、おそらくご存知でしたね。かなり長い間衰弱し
ていた心臓がここ数日どんどん悪化しました。最後の夜は主人がどんなに頑張っても、
とても呼吸が苦しくなって、もはや目覚めることのない眠りにつきました。病がすご
く早く悪化して私たちは怖くなるほどでした。
貴殿が主人に最後のお別れを告げるために参列してくださるという手紙をいただき
ました。私どもはそのことをこのうえなくありがたく思っております。
埋葬は 1 月 23 日木曜日 1 時、ゾルフィットでおこなわれます。…。」
エッシャーが親友デ・レイケの死を悼んで読んだ弔辞
2
「私たちは、1873 年 7 月末、日本へ向けて出発し、1876 年 5 月まで大阪に二人で
住んで、同じ仕事を一緒にしていました。またこのとき私たちは、上海の欧米領事団
の依頼に応えて、上海から海まで通じている河道の改修
に関する報告書の作成をともに引き受けました。
その報告書がきかっけとなって、その後つぎつぎに報
告書を作成し、最後は計画まで立案する依頼があり、彼
は幾多の困難を克服し、1905 年から 1910 年にかけて大
成功のうちに工事を実施しました。
私が日本滞在中の 1876 年から 1878 年まで、彼は大阪
の東部に、私はほかの場所にいたので、それほど会うこ
とはありませんでした。
けれども私たちの間柄は親しく、そのあと私が日本を
離れてから、また、彼が帰国してオランダで活躍してい
たときも、デ・レイケは私に彼のめずらしい体験をいつ
も知らせてくれました。日本で私が困難なことに出会ったとき彼が差しのべてくれた
援助や、その後の心のこもった友情に、私は心からお礼申し上げます」とやっとの思
いで弔辞を読み終えた。
エッシャーはそれから 26 年生き、1939 年 6 月 14 日、96 歳でなくなった。亡くなる
直前まで 29 年間にわったて綴った回想録には、異国で働くデ・レイケの姿が愛情を
こめて書かれている。
デ・レイケの日本における職名
近年、日本でデ・レイケの研究が少しずつ進められ
るようになった。その研究や発表、日常の会話に、
「お
雇い」とか「お雇い工師」という用語が使われること
がある。
しかしデ・レイケはその言葉が外国人をもっとも軽
蔑した者に使われる言葉であることを知っていた。
せめて彼が帰国後使っていた“ENGINEER TO THE
HOME DEPT. TOKIO”
「内務省技術顧問」か「内務省顧問」を諡にしたいものである。
デ・レイケは天皇から直接任命された「内務省顧問」、オランダでは女王から贈られ
た「伯爵相当の獅子勲士」である。
デ・レイケは明治の有力政治家元老山県有朋の
インフラインフラ整備のブレーンであった
財政困難な明治時代に、山県有朋は明治 16 年 12 月 12 日内務卿になってから内務
相、首相兼務内務相、首相などを経て明治 33 年 9 月 26 日辞表を提出するまでの 16
年9ヶ月半の長期間、日本のインフラストラクチャーを整備する指揮官であった。
山県は裏表のない実直で勤勉なデ・レイケをブレーンとし、彼の意見に耳を傾け、
そこから日本市民の声をベースとした適正な公共事業費を確保していた。
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その史実が、現在の公共事業につながっていることを、日本の歴史家や内務省・建
設省・国土交通省の公務員は、誰も知らないし、知ろうともしていない。
コリンスプラートの街にあるデ・レイケの生家
アムステルダムのゾルフリート共同墓地(Zorgvlied Bergraafplaats)にある墓
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