アイヌ文化と北方世界

平成24年度普及啓発講演会 東京会場
佐々木史郎 様「アイヌ文化と北方世界」
開催日:平成24年 10 月 6 日(日)/開催場所:東京国際フォーラムホール
みなさん、こんにちは。国立民族学博物館の佐々木と申します。これから一時間ほど宜
しくお願い致します。私の今日のお話は「アイヌ文化と北方世界」とタイトルを付けまし
た。内容的には、アイヌ文化がどの程度北の世界に適応したものであるのか、それから、
アイヌの人々が暮らした北の世界にはどういう歴史があったのかということを中心にお話
していきたいと思います。私の専門はシベリアあるいは極北地方ですので、私の専門とし
ている地域からみますと、アイヌの人々が暮らしている北海道というのは南の世界になっ
てしまいます。ですから、アイヌの人たちの生活がどこまで北方的だったのかという疑問
を抱いて研究してまいりました。そこで、今回のお話は次の三つの点についてお話してい
きたいと思います。
1)アイヌ民族文化のうち、北方的な要素に焦点を当てて、彼らの文化がどのように寒
冷地に適応していったのかを明らかにする。
2)アイヌ民族が暮らしてきた地域と同じ気候帯(亜寒帯)にあり、同様の生態系の中
で暮らしてきた周辺民族との交流を明らかにする。
3)近世以降アイヌの地に進出(侵略)した、日本、中国、ロシアの3国の動向をアイ
ヌ民族の視点から見直してみる。
1 つめのアイヌの人たちの文化がどういう面で北方的なのか、どういう面で北方的ではな
いのかということをお話ししたいと思います。アイヌの人たちは、孤立してアイヌの人た
ちだけで暮らしてきたわけではないし、南にいる日本人とだけ接触していたわけではあり
ません。アイヌの人たちよりも北に住んでいる人たちとも、密接な接触関係を持ってきて
おりました。さらに、現在アイヌの人たちの大半がこの日本という国に住んでいますけれ
ども、実は面積的には彼らが住んでいた土地の半分近くが、現在ロシア領になっています。
そのために日本人と並んで、ロシア人とも頻繁に接触しています。また以前には中国とも
関係を持っていました。そのような、我々日本人があまり知らない歴史についても触れて
いきたいと思います。
まず、アイヌの人たちの本来の居住地、つまり、日本、ロシア、中国などといった国が
北海道の周りの土地を国境という線で切り刻んでいく前、具体的にいえば江戸時代より前
の時代にアイヌの人たちはどういうところに住んでいたのでしょうか。今の研究では、ア
イヌ語でアイヌモシリとよばれたアイヌの人たちの住んでいた地域というのは、南は東北
地方の一番北の端、つまり津軽・下北半島の先端が含まれます。そして北は、現在のサハ
リン、昔日本では樺太と呼ばれた大きな島の中ほどまで。西は北海道の渡島半島から東は
カムチャツカ半島の先端まで。この範囲にアイヌの人々が暮らしていたというふうに考え
られています。いつの時代からこれだけの範囲に住み始めたのかというのははっきりしま
せんが、少なくとも日本の江戸時代、1603 年に徳川家康が征夷大将軍になってから 1868 年
に江戸幕府が崩壊するまでの間、この範囲にアイヌの人々が住んでいたというのは確実視
されています。それで、みなさんすぐ気付かれたと思いますが、北海道アイヌの範囲がエ
トロフ島まで入っています。ここはいわゆる北方領土ですよね。何かの政治的な判断かと
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思われる方もいらっしゃるかもしれませんが、歴史的事実としてエトロフ島あるいはウル
ップ島もちょっと入っていたかもしれませんが、その辺りまでは北海道アイヌの人たちが
住んでいたのです。もっと詳しくいえば、彼らは道東アイヌ、つまり北海道の東側、現在
の釧路とか根室を中心とした道東のアイヌの人たちと同じグループに属する人たちでした。
それに対して、いわゆる千島アイヌと呼ばれます、千島列島にいたアイヌの人々の本当の
中心というのははるか北の、シュムシュ島、パラムシル島、オンネコタン島、そしてもう
少し南のラショワ島、こういった島々にありました。エトロフ、ウルップというのは、大
きい割には人が住みづらい島だったようで、住み着く人は少なく、道東のアイヌと北千島
にいたアイヌのちょうど境目といいますか、狩りや漁労をする時の勢力圏の境目にあたっ
ていたようです。それが大体今から 200 年から前、つまり 18 世紀末から 19 世紀初め頃の
状況といわれています。1855 年の日本とロシアとの間の国境交渉の時にウルップ島と択捉
島の間で国境線がひかれますが、その国境線の背景にこういったアイヌの人たちの間の地
域集団間の勢力分布が実は裏側にはあったようです(実はすでに 18 世紀末に幕府がクナシ
リ、エトロフのアイヌにウルップへの渡航を禁止していたために、このような住み分けが
成立したという事情があります)。
ではアイヌモシリの周りにはどういう人たちが住んでいたのでしょうか。100 年から 150
年位前の状況を想定していますが、まず、ツングース語とよばれる日本語に非常に近い言
葉を話す人々が多数いました。現在彼らはウイルタ、ウリチ、ナーナイ、オロチ、ウデヘ、
ネギダール、エヴェンキなどの諸民族に分類されています。また、樺太の北とアムール川
の河口周辺にはニヴフ(旧称ギリヤーク)、カムチャツカ半島にはイテリメン(またはカム
チャダール)と呼ばれる、言語系統がよくわからない独自の言葉を話す人々もいました。
そして、多数派の民族、例えばロシア人、中国人、朝鮮人、それから日本人等が取り巻い
ていました。現在はこのような多数派民族の勢力争いの結果、かつてのアイヌモシリとそ
の周辺地域は日本、ロシア、中国、韓国・朝鮮と国境で切られていますけれど、国境が確
定する以前はこういった人たちが棲み分けをしたり共存したりしながら暮らしていたので
す。つまり、アイヌモシリの北の地域にたくさんの多様な言語や文化をもつ人たちが住ん
でいた。そしてこの人たちはアイヌの人たちと直接接していましたし、文化的に大きな影
響を与えあっていました。
第一点目のお話しに入りたいと思います。アイヌ文化とは本当に北方文化であったのか。
北方文化であったということはどういうことかといいますと、北の寒い環境にどの程度適
応していたのかということになります。この点に関しまして、二つの大きなポイントから
お話したいと思います。一つは、一番寒い厳冬期での寒さへの対応。それは衣服の問題で
あるとか住居の問題になります。それからもう一点は北方の寒い地域では独特の生態系へ
の適応。北方の生態系には比較的広い範囲で共通した特徴があります。そういった生態系
にどこまでアイヌの文化が適応していたのかという点についてお話ししていきたいと思い
ます。
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まず、文化的な問題として、衣服の問題を考えていきたいと思います。こちらの会場で
も二人の女性がアイヌ衣装の紹介をしていたと思いますけれども、みなさんどういう印象
を持たれましたか。私などは「あれ、こんなに薄い布の服で北海道みたいな寒いところで
暮らしていけるのかな」と思います。実はアイヌの人たちというのは、この東アジアにお
いては糸から布を織りだす最北の民族です。アイヌモシリの周りには数々の民族が住んで
いますが、この中で糸から布を織りだして衣服を作る人々というのは実はアイヌが最北で
す。それより北、例えばニヴフとかウリチと呼ばれる民族、イテリメンとかエヴェンキと
呼ばれる民族がおりますが、彼らには布を織る文化、布を織る技術はありません。一方、
南隣の日本、韓国・朝鮮、中国には布を織る技術があります。したがって、この点ではア
イヌの人たちの文化というのは南方的であるといえます。ただし、使っている布に織る糸
は、いわゆる樹皮の裏側の薄皮を細く裂いて作ったものです。これは靱皮(じんぴ)とい
いますが、この靱皮を割いて細い糸にします。それをつないで作った糸で織ります。その
ような布で作られた衣服のことをアイヌ語でアットゥシといいます。それを織るための道
具も入口に展示してありますので後でご覧になってください。このアットゥシという服は
実はアイヌの人たちだけに愛用されたのではなくて、明治時代まで日本の船乗りや漁師た
ちにも愛用されていました。なぜかというと、靱皮は脂分を多く含んでいて水を弾くので、
水をかぶるような仕事をしている人達にとっては非常に都合の良い防水衣になったからで
す。しかも織物ですから通気性があります。いわば自然素材のゴアテックスという感じの
衣服として使えるのです。ということで、明治時代の初めには、アイヌの人たちが盛んに
日本人用にアットゥシの着物を作っていた時代が、ほんの短い期間ではありました。その
後、別の素材が開発されてアットゥシは日本人の防水着から廃れてしまうのですが、そう
した時代があったくらい優れた性質を持った衣服だったのです。それから他には、草の繊
維で作ったテタラペであるとか、日本や中国から輸入した木綿で作られたルウンペ、チカ
ララカラペなどの衣服が着られてきました。
しかし、寒い冬はどうだったのでしょうか。これらの布製の衣服で十分寒さをしのげた
のでしょうか。寒い季節にはやはり動物の皮で作られた衣服を着ました。
小さい島での海辺の生活に適応した千島アイヌの人々はアットゥシや木綿衣とともに、
鳥の毛皮をつなぎ合わせて作った外套を着ました。素材はエトピリカのような海鳥で、そ
れ海鳥の毛皮は防寒性と防水性に優れていたようです。
樺太に住んでいたアイヌの人たちは陸上の動物の毛皮(犬やアザラシなど)で作られた
衣服を多用しました。また樺太アイヌの間では、アムール川流域の人たちの文化の影響な
のですけれども、鮭の皮を乾かしてなめして作った衣服もよく使われました。樺太アイヌ
の人たちが鮭皮の衣服を使っていたことは、200 年前にここを探検した間宮林蔵の記録に残
されており、間宮林蔵が村上貞助という絵の上手い学者に頼んで描いてもらった絵が残っ
ております(
『北夷分界余話』国立公文書館所蔵)。その絵に描かれている子どもが鮭皮の
衣服を着ています。また、アットゥシを着る男性が描かれており、ほかにはテタラペと呼
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ばれる、イラクサという植物の繊維を割いて作った糸をつなげて作った衣服を着た女性が
描かれた絵もあります。テタラペというのは「白い着物」という意味で「白くて美しいも
の」と思われていたのですね。それから青い服も描かれています。これはおそらく中国か
ら輸入された青色木綿で作られた服でしょう。アイヌの人たちの衣文化は実はこのように
非常に多彩だったのです。樺太では厳冬期になると犬の毛皮で作られた外套を着ます。樺
太は北海道よりもさらに冬が厳しいので。犬の毛皮の外套というのはアイヌの文化という
より北樺太に住んでいたニヴフの文化なのですが、その文化を借用して厳しい樺太の冬を
やり過ごしていたと考えられます。それから寒い季節には足元の防寒が大事になりますが、
樺太アイヌはアザラシの毛皮を胴に使い、おそらく下の方は鮭の皮か鹿の皮を縫い合わせ
て作った長靴を履いていました。ちなみに、北方の民族は大体そうなのですが、乾燥させ
た草や苔をよく揉んで長靴の中に詰めて、靴下を着けずに裸足のまま履いていました。そ
れで十分寒さをしのげたのです。
アイヌの人たちの衣服には特徴が三点あります。一つが「一部形式」といいまして、ワ
ンピース状の衣服です。男性の衣服も日本の着物と同じ、つまり、上衣とズボンに分かれ
ていません。こういった点は日本の伝統的な衣服と似ております。北の世界に入りますと
「二部形式」といいまして、ズボンと上衣が分かれる傾向が強くなります。一部形式は寒
さ暑さ双方に対応できる。つまり、冬の寒さだけでなく、夏の暑さを凌ぐためにも一部形
式は使えるわけですけれども、アイヌの人たちの世界もおそらく夏は結構気温が上がって
いたと考えられるので、それにも対応できるよう一部形式になっているのです。第二点は
「もじり袖」です。これは袖が三角形になっていて袖口のところが、キューっとしまって
いて、ある程度防寒性が高まります。日本の和服の場合には「袂」といって四角く開いて
いまして、通気性を良くしておりますが、アイヌの人たちの着物はここを絞って防寒性を
高めています。第三点は「前開き」です。つまり、魚皮の着物も前が開いていますし、博
物館に展示されているアットゥシやテタラペも前が開いています。当たり前じゃないかと
思うかもしれませんが、本当に寒いところ、例えば、イヌイットやエスキモーが住んでい
るような極北地域あるいはシベリアでも北極海に面しているような地域の人たちは「かぶ
り式」の外套を身に付けます。なぜかというと、彼らは寒風吹きすさぶブリザードの中を
トナカイソリや犬ゾリで何時間もじっとしていなければなりません。そういう人たちにと
っては前が開いていたら風が入って寒くてしょうがない。そのために風が入らないように
かぶる形式の外套を着ます。しかし、アイヌの人たちの間にはそういった外套はありませ
ん。厳冬期であっても獲物を追って山の中を走ると暑くなります。私にも経験があります
が、ダウンコートを着て山の中を走っていると暑くなって脱ぎたくなります。そういう時
に前を開くことで体の熱を開放できる。そしてさっと閉めて体が冷えすぎないようにする。
そういう体の熱の放出と遮断を手軽にできるようにするために前開きの方が有利なのです。
ということで、アイヌの服というのは前開きなのですね。実はシベリアの中でも本当に寒
い、北海道よりももっともっと寒い地域の猟師たちも前開きのコートを着ています。やは
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り狩りで活動的になる人たちはどうしても、熱をある程度放散する対策が大事になってく
るのです。なぜかというと、中で汗をかいてしまうと活動を終えて冷えてきた時に汗が凍
って体温を奪われて凍死する恐れがあるからです。ですから、本当に寒い所に行ったらな
るべく汗をかかないというのが鉄則なのです。それをきちんと守るためにこういった衣服
が必要になるのです。
それからこれは付け足しですが、絵にでてくる男性は裸足で、衣服をいわゆる左前で着
用する姿、すなわち左衽(着用者に向かって左側が前になるように襟を合わせる着用の仕
方、逆に右側が前になるように襟を合わせる着方を右衽という)で描かれています。その
典型的な例は『夷酋列像』といいまして、松前藩の家老で絵師でもあった蠣崎波響が、ク
ナシリ・メナシ戦いがあった翌年の寛政 2 年(1790 年)に描いたアイヌの有力者たちの絵
にあります。たとえば、そこに描かれているマウタラケ(麻烏太蠟潔)という人物はウリ
ヤスベツというコタンの「総部酋長」と書かれていますからとても偉い人なのですが、裸
足のうえに蝦夷錦の服を左衽で着用するように描かれています。このような描き方は『夷
酋列像』に描かれた 12 人全員に共通です。左衽という着方は中国や東アジアでは死人この
世の人ではない者、あるいは野蛮人のものとされています。アイヌの服は、魚皮衣、アッ
トゥシ、テタラペともに左右対称ですから左衽でも右衽でも着用することはできます。し
かし、ではなぜあえてこういう描き方をするのでしょうか。これをもってアイヌが左衽だ
ったという人もおりますが、それは一般化することはできません。なぜならば、蝦夷錦の
服は左衽で着用することができないように作られているからです。それは本来中国の官僚
たちが着る制服でして、中国ではご存じのとおり必ず右衽になるように、つまり、左側の
襟が前に出るようなスタイルで作られます。しかも、この蝦夷錦の服はモンゴル、満洲に
共通のスタイルでして、着用者から見て右側の半身が短く、左側の半身で前を覆うように
作られています。このようなスタイルの服を左衽で着ることは絶対に不可能なのです。そ
れにもかかわらずあえてこういうふうに着せて描かせている。これには作為があると見な
ければなりません。ですからアイヌの服が写真や絵では左衽で描かれているものが多いの
ですが、実際にそう着ている人もいたのかもしれませんが、そのほとんどは「野蛮人」あ
るいは「異界の人」であることを示すための当時の絵画上の技法と考える方がよいと思い
ます。写真の場合には左衽かと思ってよく見てみると裏焼きだったということもあります。
絵画や写真であっても色々と手を加えることができますので、十分注意する必要がありま
す。おそらくアイヌの人たちもこんな着方はしていなかったでしょう。
ちょっと衣服の話が長くなりましたけれども、アイヌの人たちにも防寒着があり、毛皮
で作った靴やアザラシの毛皮で作った靴、防水着として魚皮の上衣がありましたけれども、
アイヌ衣装の基本は繊維製品です。繊維製品といっても、靱皮の糸で作られたアットゥシ
やテタラペは防水性と通気性を兼ね備えた優れものでした。
次は同じ防寒性として家の話の方に移ります。アイヌの家は、間宮林蔵と村上貞助が編
集した蝦夷生計図説に描かれているのが典型的なものです。現在、博物館で復元されてい
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る家はほとんどこのタイプになると思います。これは茅葺の住居で屋根や壁を茅で葺いた
ものです。この姿で復元されているものが多いのですが、この蝦夷生計図説を見て驚いた
のは、葦を使った家、クマザサで葺いた家、白樺の樹皮で葺いた家などがあることです。
それぞれに特徴がありますが、これは地方による違いだともいわれています。このクマザ
サや白樺の樹皮で雨風を防げるのか。あるいは寒いのではないかと思われるのかもしれま
せんが、これらは非常に優れた素材で、クマザサも一本や二本飾っているわけではなくぎ
っしり束にして壁に埋め込んでいきます。ぎっちり縛って隙間なくつめていきますので、
実際にとても断熱性の高い優れた壁材です。クマザサ葺きの家は旭川の「川村カ子ト記念
館」に一軒建っています。それから樹皮葺きの住居。この家は現在見ることはできません
が、この白樺の樹皮も非常に優れた防水性、防寒性をもった素材で、白樺の樹皮はボート
が作れるくらい防水性の高いものです。主に道東地方に多かったようですが、どういう場
面で作られたのかについて林蔵は書いていないので、地域差によるものなのか住む場所や
場面に応じて作られたのかは分りません。
そして、アイヌの家にはその骨組に大きな特徴があります。それは主に棟の支え方です。
アイヌの家の棟は柱で支えているのではなく三脚構造で支えられています。日本の、特に
神社建築に多いのは棟持柱のある住居です。今はこの棟持柱の代わりに束(つか)といい
まして、梁の上に柱を一本乗せるように作ってしまうので、この棟持柱を床から立てると
いうことはまずないのですが、日本の古代、古墳時代であるとか弥生時代にはこういった
住居が登場しますし、これは日本だけではなく東南アジアからアムール川流域まで、非常
に広い範囲で広がっています。それに対してアイヌの家は根本的に棟の構造が違う。だか
らこういうところは日本とは違います。実はこの三脚構造というのは北方的だといわれて
います。なぜかというと、北の狩猟民たち、エヴェンキであるとかエヴェンといった北の
狩猟民たちは円錐形のテントで暮らします。円錐形のテントというのは文字通り柱を円錐
形にぐるっと立て並べて、毛皮とか白樺の樹皮で覆ったような、本当に円錐形をしたテン
トですが、その骨組の基本が三脚構造です。すなわち、まず三脚を立て、その頂点に寄り
かかるように、柱を立て並べていくのです。
この三脚構造を使って棟を支える、その棟によって屋根全体を支える構造は、もしかす
ると北方の影響ではないかといわれています。国立民族学博物館には、明治時代に作られ
たアイヌの家の模型が保管されています。この屋根をよく見ますと三脚構造が浮かび上が
ってきます。ちゃんと二つの三脚によって棟を支えているのです。この三脚で棟を支える
ことによって、その下にドームと同じで比較的大きな空間を、柱を立てずに確保すること
ができます。棟持柱になってしまうと部屋のど真ん中に柱が立ってしまうのですが、三脚
構造にするとそれを避けることができるので、なるべく広い空間を確保することができま
す。ではアイヌのこういった人たちの住居がどれだけ寒さに耐えられたのでしょうか。私
は本当に寒い地域で-50°まで経験しましたが、さすがに真冬に-50°になるような地域
では、こういった茅や笹で葺いたような住居はありません。そういったところにいくと固
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定家屋は必ず丸太小屋になっています。あるいは、基礎の周囲に土を盛ったり、壁に土を
塗ったりして、土壁にしています。やはり、木や土の断熱性能を使わないと-50°の寒さ
はしのげないようです。あるいはテントに住んでいる人達、円錐テントに住んでいる人達
も冬になると白樺の樹皮ではなく分厚いトナカイの毛皮を巻きます。ですから、そういっ
た面から考えるとアイヌの家というのは極寒に耐えられる構造ではなさそうです。ですが
日本の冬を考えてみても、東北地方などでは雪囲いと称して藁や茅で壁を作り、雪を防ぎ
ます。それを家全体にやっていると考えれば良いわけで、かなりの断熱効果はあったので
はないかと考えられます。ですから、北海道の寒さであればこれで十分暮らしていける。
じゃあそれより寒かった樺太はどうかといいますと、樺太は寒さをしのぐために比較的新
しい時代まで竪穴住居を使っています。風が強く圧倒的に寒い、天候が悪い千島列島や樺
太では竪穴住居を作って寒さをしのぎました。ですから、アイヌの住居はほどほどの寒さ
には十分対応できますが、シベリアの奥地のような極寒の地域では対応できなくなるくら
いの耐寒性を持った住居だったといえるのではないかと思います。
それから、北方適応の三点目として、北の生態系にどの程度対応していたのかについて
触れておきます。日本は春夏秋冬が非常にはっきりした気候条件だといわれています。東
京などは温帯の中でも比較的暖かい暖温帯にあるといわれております。植生的には照葉樹
林(ツバキ、お茶、シイなど葉の表面がてかてかした樹木が典型的)が卓越しています。
ただし、ナラの木、クリの木など秋に葉が落ちてしまう樹木を落葉広葉樹といいますが、
東京は落葉広葉樹と照葉樹の両方混ざった境界地域になるのではないかと思います。これ
が大阪や京都へ行きますと落葉樹が少なくなる。ドングリの木(ナラ)などもないことは
ないのですが、少なくなって逆に照葉樹が増えてきます。照葉樹林というのは年中青くて
落葉せず、葉が常に茂っているので暗いです。対して落葉広葉樹というのは冬になると葉
が落ちますから森が明るくなります。そういった大きな違いが、東の森と西の森にはあり
ます。北海道はどうかといいますと、北海道の南半分、南西側は、東北地方からの続きで
落葉広葉樹と針葉樹の混合といわれる林層になります。そして東北側は逆にシベリアに近
く、針葉樹を中心としたタイガに近い森になっていきます。北海道やそれより北の地域、
すなわちアイヌの人たちが住んでいる地域も春夏秋冬がはっきりしています。はっきりし
ているけれども全体的に気温が低い地域です。
春夏秋冬がはっきりしているということは、得られる食料資源に季節性が表れるという
ことになります。ある資源が特定の季節にたくさん捕れるのですが他の季節になるとぱた
っと捕れなくなる。例えば、アイヌの人たちの食料資源の基本だったサケやマスですね。
特に秋鮭というのは遡上期間が8月の終わりから 10 月が最盛期です。その季節を外してし
まうと、例えば冬の2月から5月あたりの季節になると、まったく捕れなくなる。こうし
た季節性のはっきりとした資源が食料資源の基本となっているわけです。これは北海道に
限った話ではありません。実はシベリアから北アメリカまで、同じような亜寒帯、冷温帯
地域の森林層を持った地域にはすべてに共通する生態系なのです。そういう中でアイヌの
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人たちは暮らしてきた。アイヌの人たちもしっかり捕れるものは捕れるだけ捕って、後は
それを保存食にして一年間食べつないでいくという食生活だったわけです。ですから、ア
イヌの人たちの間では鮭を保存するための技術が発達しています。基本的には乾燥です。
「鮭とば」ですね。水気をとばして腐らなくなるので乾燥させます。ただし、乾燥させた
だけで日持ちはしますけれども、さらに風味を良くするために囲炉裏の上に吊るして燻製
にする。そうするとさらに美味しくなるし、日持ちがさらに延びる。そういったサケ類を
いっぱい作って家の倉庫に保管して一年間食べつないだのです。こういった生活はシベリ
アから北アメリカまで共通にみられる、北の世界の人たちの生活です。それから肉類もそ
うです。シカは年中ある程度獲れるのですけれども獲りやすい期間があります。それは交
尾期、発情期で、なぜなら雄は雌を追いかけて夢中になっていますから、他に注意が払え
なくなってしまうのです。そういう雄を狙うわけです。シカ笛には色々なパターンがあり
ますが、私が調査したのは大陸にいるアカシカというエゾジカよりもひとまわり大きなシ
カの例です。アカシカの場合は雄の鳴き声を出す笛を使います。白樺の樹皮を帯状に切っ
て、くるくると丸め、中の方から引っ張り出してラッパ状の筒にして、形が崩れないよう
に外側を留めます。音を鳴らすには細くなった部分を口の端に当てて、息を吸いながら唇
を鳴らします。ラッパと同じ原理ですが、息を吸って唇をふるわす点が異なります。ちょ
うど発情した雄の鳴き声に近い音になります。猟師がこのシカ笛で雄の鳴き声をたてると、
ライバルが現れたと思って本当の雄ジカが猟師の方に近づいてくるので、そこを仕留める
のです。そうやって獲るので発情期の今頃がシカ猟の真っ盛りになります。今頃(10 月)
私の友人のロシアの猟師たちはアカシカを探して森の中を走り回っているはずです。アイ
ヌの世界でもおそらくそういった猟が行われて、シカ笛なども発達しています。ただ、ア
イヌの人々のシカ笛は、雌の鳴き声をまねて雄をおびき出すように使われたようです。
こうした具合なのでシカ肉のシーズンも限られています。それからクマですが、年中獲
れないこともないのですが冬から春にかけての冬眠中に獲るのが一番良いのです。という
のは冬眠中のクマは餌を食べていないので、肉に臭みがなくて美味しいのです。さらに、
春先に穴から出てきたばかりの熊というのは胆嚢に胆汁が溜まっています。大きなクマの
胆が手に入るということで、本当は春先に獲れる熊が一番良いのです。つまり、クマ猟に
も季節性があるのです。こういった季節性のあるものを頻繁に使うわけですから、狩猟採
集も年中獲物を求めて追いかけ回すのではなく、季節にあわせた獲物を追いかけていくの
です。そういった、いつ、どこで何が獲れるかということは、知識がないとできませんか
ら、アイヌの人たちを始め北方の人たちは動物、植物に関しては、動物学者や植物学者よ
りもはるかに詳しい知識を持っていたのです。そういったことも、アイヌの人たちが北の
世界に適応している証拠になるわけです。ですからアイヌ文化に自然を学べということは
よくいわれますけれども、そうした伝統をアイヌの人たちが積み上げてきたという背景が
あるからこその話なのですね。
それからもう一点、北方的なのは農業です。
「アイヌって狩猟民族じゃないの」と思われ
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た方もいらっしゃるかもしれませんが、実は農耕をやっていたのです。その証拠に間宮林
蔵と村上禎助が編集した『蝦夷生計図説』という本には、狩猟や漁労の話がなくて農耕の
巻があるのです。何を作ったのかといいますと、粟や稷といった雑穀やカブなどの野菜類
です。収穫風景の絵がありますが、日本のように根本を刈るのではなくて、弥生時代さな
がらに穂刈りです。貝で作った鎌で穂を刈っていくやり方で粟や稷を収穫していたのです。
その伝統は決して新しいものではなく、今から 1500 年ほど前から始まる擦文時代からの伝
統として農耕がありました。ですから、アイヌ文化を現代のイメージだけでとらえてはい
けません。どういうところが北に適応しているのか、どういうところが北に適応していな
いのか丹念に見ていきますと、今まで見落とされていた文化が見えてきますので、今後み
なさんアイヌ文化に興味を持たれたら、細かいところまでよく観察してみてください。そ
うすると、思わぬところに新しい発見が出てくるのではないかと思います。
あと、北方的といわれる要素の中で言及しておかなければならないのが世界観です。ア
イヌの世界観を説明するとそれだけで何時間もかかってしまうので、詳しい説明はちょっ
とできませんけれども、一点だけ強調しておきますとクマに対する崇拝が特徴だといわれ
ております。いわゆる「イオマンテ」とよばれるクマ送り儀礼です。これがアイヌの人た
ちのアイヌたる、アイヌ文化をアイヌ文化にしている一番重要な儀礼だといわれています。
20 世紀初めに樺太や北海道でアイヌの調査を行ったポーランドの民族学者 B・ピウスツキ
という人が撮影した樺太アイヌのクマ送りの写真と昭和の初めに木下清三という写真家が
撮影した白老でのクマ送りの写真があります。両者とも今日では見ることが難しくなった
(樺太アイヌのものは見ることが不可能になった)貴重な儀式の写真です。樺太アイヌの
場合は、巨大なイナウを立てるのが特徴的です。なんだか諏訪の御柱のようなとてつもな
い高さです。クマ送り儀礼が北方的だというのはどうしてかといいますと、こちらもシベ
リアから北アメリカまでの、いわゆる亜寒帯針葉樹林帯に広く帯状に分布しているからで
す。この地域の人々は、クマを崇拝しクマを獲ってその肉を食べる時には、それを森の特
別な人や森の精霊と考え、敬いながらその肉をいただいて、そしてその魂には人間からの
お土産(クマ以外の肉や魚、衣服、アイヌの場合にはイナウ)をたくさん持たせてあの世
に帰ってもらう。そして、あの世に帰ったらまたそこからクマの服を着て人間世界にやっ
てきて、肉を人間たちにプレゼントしてくださいと願う。この儀礼は実に北半球の北方の
亜寒帯針葉樹林帯に広く分布しています。アイヌ文化はその中の一つになるわけです。
ただ、このクマ送り儀礼がアイヌ精神文化の中心を成しているといわれていますけれど
も、それがアイヌ文化の一部になった時代、アイヌ文化に入った時代というのは、それほ
ど古くはないと推測されます。考古学的にはクマを崇拝する習慣はオホーツク文化にあっ
たといわれています。オホーツク文化というのは、今から 1500 年ぐらい前、日本でいうと
古墳時代の頃、ちょうど北海道の縄文文化が古墳文化の影響を受けて擦文文化へと変わっ
ていく時期に北の樺太の方から南下して道北からオホーツク海沿岸、そして千島列島まで
広がった文化だといわれています。担っていたのも縄文人とは形質的、遺伝的に違う人た
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ちでした。その人たちが熊を崇拝する習慣を持っていた。彼らの竪穴住居には、ある一定
の場所から大量のクマの頭骨が出てくるのです。それは、今のアイヌの人たちがクマ送り
儀礼が終わった後、頭骨を特別な場所に安置するのと同じようなものではないかといわれ
ています。対して同じ時代にあった擦文文化には(擦文文化の遺跡、住居跡もたくさんあ
るのですが)その住居跡からはクマの骨は一切出てこない。クマ送り儀礼をやった跡が見
つからないのです。それどころか、オホーツク文化の遺跡(礼文島の事例)から出土した
クマの骨の DNA 分析から、擦文文化人がオホーツク文化人にクマを提供していたのではな
いかと思われるような結果が、わずかではありますが、出ているのだそうです。おそらく
前者が後者に、儀礼用にクマを売るなりプレゼントするなりしたのではないかと想像され
ています。アイヌ文化に直接つながって行くのは擦文文化の方です。アイヌ文化が成立す
る以前に、擦文文化がオホーツク文化を吸収していくのですけれども、その過程でクマ崇
拝とクマ送り儀礼を取り込み、それからアイヌ文化に変貌していったのではないかという
流れが、有力な仮説になりつつあります。オホーツク文化にはシャチのような大型海獣に
対する崇拝などの習俗もあり、それもアイヌ文化に取り込まれています。したがって、オ
ホーツク文化がアイヌ文化の形成に非常に大きな役割を果たしたということはいえるでし
ょう。このオホーツク文化と擦文文化の融合からアイヌ文化が生まれたという話から発展
しまして、さらに近隣諸民族との関係、その近隣諸民族を超えて国家がどのようにこの北
方世界に関わってきて、アイヌの人たちとどういう関係を結んだのかという話を最後にし
たいと思います。
アイヌの周りにはたくさんの民族がひしめいていました。といっても実は人口密度が一
平方キロメートル当たり 0.1 人以下の世界ですから、そんなにぎっしり人がひしめいてい
たわけではありません。ただ、多様な文化を持つ人々がアイヌの人々をとりまいていたと
いうことは事実です。実はアイヌの人たちと周辺民族との関係は、決して平和な関係だっ
たわけではありません。それをちょっと紹介しますと、まず、擦文人とオホーツク文化人。
先ほどいいましたように、アイヌ文化が成立する時にオホーツク文化を柱の一つに据えて
いるという話をしましたけれども、この擦文文化人とオホーツク文化人との関係もいろい
ろ微妙なことがいわれています。結果からいいますと、結局オホーツク文化は擦文文化に
吸収されてしまいます。時代的には9世紀から 10 世紀には、オホーツク文化は擦文文化に
吸収されてしまったといわれています。その後、各地にオホーツク文化と擦文文化が融合
した文化が生まれています。例えば、今の釧路、根室を中心とした地域にはトビニタイ文
化という両方を折衷したような土器が出てきたりもしています。そうした融合文化もある
のですが、大勢としては、オホーツク文化は擦文文化に吸収されてしまうとされています。
そこからどういう過程を経てアイヌ文化に至ったのか。
明らかにアイヌ文化であることがわかるような遺跡は、現在発見されているものでは 15
世紀くらいのものが最も古いようです。そして擦文文化の最も新しい時代の遺跡は 12 世紀
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ぐらいに相当します。そして、その間の時代の遺跡がなかなか見つからない。12 世紀から
14 世紀、日本でいうと平安末期から鎌倉時代、平清盛や源頼朝が活躍し、武家の世となり、
鎌倉に幕府が成立し、その一方でモンゴルが西から攻め寄せてくる。そのような時代が、
北海道以北では、考古学や歴史学の分野の空白時代となっています。しかし、その間が擦
文文化からアイヌ文化へ移っていく一番大事な時代なのですから、まさに隔靴掻痒という
感じです。
考古学的にこの時代が空白になってしまう最大の理由は、土器の製作が衰退することと、
住居が竪穴住居から平地式住居(掘立柱住居)に変わることにあるようです。土器片は遺
跡を見つけるときの一つの目印ですから、それが減ると、遺跡は見つけにくくなります。
また、平地式住居は竪穴住居のように明確な痕跡を残しません。土器の衰退は鉄鍋の普及、
鉄製の刃物の普及に伴う木器の普及、本州産、中国朝鮮産の陶磁器の普及などが関係して
いるようです。住居形式の変化も本州や大陸から影響による生活スタイルの変化を示して
いるのでしょう。この 12 世紀から 14 世紀という考古学上の空白時代は、北海道以北の地
域、すなわち樺太、アムール川流域でも共通しているようです。ただし、現在ロシア領と
なっているこれらの地域の場合には、単に研究者に知識と関心がなく、出土している遺物
や遺跡を見逃しているだけなのかもしれませんが。
この謎の時代の後半、すなわち 13 世紀の後半に中国の文献にアイヌと思しき人たちの姿
が登場してきます。それが、クギとギレミという人たちの話なのです。この時代になると、
東洋史学や考古学の研究で、骨嵬と書いてクギと呼ばれる人たちと、吉烈迷と書いてギレ
ミと呼ばれる人が文献に登場し始めます。クギというのは、樺太の北に住んでいたニヴフ
がアイヌを指していう呼び名だといわれています。ですから、この骨嵬と書かれた人たち
はアイヌの祖先を指すのだろうといわれています。それからこの吉烈迷というのは、ツン
グース系の人たちがニヴフに対して付けた名称だといわれています。ですから、この吉烈
迷というのは今のニヴフの祖先だといわれています。このアイヌの祖先とニヴフの祖先が、
樺太を舞台にして紛争を起こました。そして劣勢に立たされた吉烈迷が、当時中国を支配
していたモンゴル(元王朝、元寇を起こした王朝です)に救いを求めたのです。それで元
軍が松花江からアムール川を下って樺太まで渡り、南から押し寄せてきたアイヌの祖先た
ちを打ち破ったという記録が「元史」という元王朝の正史(次の明時代に編集)に出てき
ます。最初の紛争が 1264 年で、それから 1300 年代初頭まで軍を派遣した記録が散発的に
残っています。元寇の文永の役が 1274 年、弘安の役が 1281 年ですから、ちょうど同じ時
期にモンゴル軍は樺太でアイヌの祖先たちと干戈を交えていたわけです。元寇の時代に日
蓮宗を作った日蓮上人が、北から蒙古(モンゴル)が来るぞということを著作で書いて警
告しています。その解釈をめぐっては、歴史学者の間で論争があるのですけれども、北か
らの元寇というほど大げさなものではないだろうとはいわれています。どうやって日蓮上
人が樺太におけるアイヌの祖先と元軍との直接接触に関する情報を得たのか謎は多いので
すが、彼は当時の蝦夷地(北海道から東北北部の地域)についての情報をかなり持ってい
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て、北からモンゴルが来ているということを知っていたようなのです。そして彼のいう北
からの蒙古襲来というのが、実はアイヌの祖先とモンゴルの間の接触だったわけです。こ
れが尾を引いているのかどうか分かりませんが、江戸時代の文献によると、アイヌとニヴ
フ(江戸時代にはスメレンクルやニクブンと呼ばれていました)は仲が悪いということに
なっています。間宮林蔵が樺太を探検した時、彼はアイヌを先導役にするのですが、その
先導役にされたアイヌの人たちが北に行くのをものすごく嫌がるのです。なぜかというと、
北にはスメレンクルとか何とかという野蛮な連中がいて、「俺たちが行くと殺される」とい
って非常に怖がるのです。それを間宮林蔵が「俺がいるから大丈夫だ」とかいってなだめ
すかして行って、結果的には先導役のアイヌの人たちはみんな無事に帰ってはくるのです
が、そんなに樺太の南にいたアイヌの人たちが北にいる住民を嫌がったという歴史があり
ます。考古学者はこれをさらに敷衍しまして、実は骨嵬と吉烈迷の紛争は、擦文人がオホ
ーツク文化を吸収して成立したアイヌの人たちが、その吸収した力を使って北へ進出して
いったための紛争ではないか、あるいは、擦文人対オホーツク人の対立が樺太にまで持ち
越されたのが、この吉烈迷と骨嵬の対立だったのではないかというふうにいう人もいます。
そこまでいえるかどうかはわかりませんけれども、13 世紀、日本の鎌倉時代にアイヌの人
たちが一定のパワーを持って自分たちの居住域を北に広げていったというのは事実だった
ようです。このアイヌの祖先とモンゴル軍との接触の顛末はどうなったかといいますと、
結局アイヌの祖先はモンゴル軍の圧倒的な武力の前に一応恭順の意を示します。初めから
戦争というような大げさなものではなかったという話もあるのですけれども、一応恭順の
意を示して、元の支配下に入って、毎年毛皮を貢納しますということをいって収まるので
す。それが 1302 年ですから、14 世紀の初め、それ以降、このアイヌの祖先たちの話は元史
から消えてしまいます。消えたということは平和になって、いつもどおりの話になってし
まったので、あえて記録に登場させる必要がなくなったということなのです。おそらく従
ったのは樺太に住みついたアイヌだけで、北海道のアイヌが含まれていたかどうかという
のは分かりませんが、アイヌの一部が一時期モンゴルの支配下に伏したというのは事実で
す。
しかし、アイヌの人たちと大陸の人たち、北方の人たちというのは微妙な関係にありま
した。たとえば、アイヌの人たちと婚姻関係を結ぶような密接なつながりを持った民族と
いうのがほとんどないのです。「サンタン」
(山丹、山旦、山靼などとも記される)と呼ば
れた人々がいます。現在のウリチと呼ばれる人々の祖先で、ツングース系の民族なのです
が、このサンタン人との間にはアイヌ女性との結婚話というのがたくさんあります。それ
からウリチの中には「実は我々は樺太アイヌだった」という人たちが数多くいます。です
から、サンタンとアイヌとは一定の緊密な関係があったといわれています。ですが、それ
がいつも友好的であったかというと微妙です。江戸時代の文献には「サンタン人の横暴」
という有名な話がしばしば見られます。サンタン人たちは江戸時代、サンタン交易といわ
れるアムール川と樺太から北海道をつなぐ交易路の中で主導権を握っていました。そのよ
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うな状況の下で、彼らは樺太アイヌを借金で縛りつけて、傍若無人な振る舞いをしていた
という話が最上徳内や松田伝十郎や間宮林蔵など当時の樺太探検者たちの著作の中に出て
きます。
それに対して江戸幕府はアイヌの人たちに代わって借金をサンタン人に払って、彼らを
借金から解放して、サンタン交易を幕府の公認交易にしてしまうのです。一応日本側の記
録はアイヌの人たちを借金から解放したということになっているのですが、実はちょっと
いじわるな見方をすれば、アイヌの人たちは今まで続けてきた自分たちの独自の交易網か
ら弾き飛ばされてしまったということにもなります。つまり、幕府がやってきて「サンタ
ン人との交易は政府が直接やるからお前らは引っ込んでいろ」といわれて交易からのけも
のにされてしまったといえなくもないのです。そういう感じで、サンタンとアイヌとの間
にはある程度の友好関係と緊張関係がありました。しかし、婚姻関係まであるのはこの人
たちだけで、あとその周りの人たち、とくにニヴフの祖先、それから江戸時代にオロツコ
といわれた今のウイルタと呼ばれる、トナカイ飼育民の祖先とは戦争までしていまして、
江戸時代の文献には「婚姻関係はない」とはっきり書かれています。ですから、かなり対
立した関係になっていたようです。ただ江戸時代頃になると、こういった世界をロシアや
日本や中国といった国がどんどん侵略していくようになります。江戸幕府や松前藩の「蝦
夷地支配」はその支配体制が商場知行制から場所請負制に変わって、結果的にアイヌの人
たちを不当に搾取していくようになります。明治政府はアイヌの人たちを商人の搾取から
解放しますが、同時に、北海道と命名した土地を日本の植民地、つまり開拓地と定めて、
農耕できる土地に日本人を植民させて、アイヌの人たちから土地を奪っていきます。そし
て文化を同化していくという政策がとられていきます。ただ、目を外に向けてみると、こ
の時代には日本以外の国(つまりロシア)もアイヌモシリを植民地化しようとしていたと
していたことは事実です。
アイヌモシリ(アイヌの土地)と国家との関係に話を移しますと、このアイヌモシリの
一部、特に樺太にまず領土権を主張したのは中国でした。中国というと現在の中華人民共
和国と誤解する恐れがあるので、より正確を期せば、モンゴル人が作った元王朝が樺太の
ニヴフの祖先、アイヌの祖先を支配下に入れることで、樺太の領有権を得ます。領有とい
っても、現代的な意味の領有とは異なります。当時の中華王朝にとっては支配下にある住
民が住んでいる土地がその勢力下にある領土となるので、現在の近代国家の領土とは一緒
にしないでください(その住民が別の国に従えば、一瞬にしてその土地は失われてしまい
ます。無人の土地はそこに被支配民を入植させてはじめて領土とすることができます)。ア
イヌを含む樺太の住民に対する支配は、その後漢民族が作った明王朝、満洲人が作った清
王朝に受け継がれていきます。しかしそれでも、樺太の南端までは支配が及んでいません
でした。そのために清の時代、中国の人々は樺太と北海道が狭い海峡を挟んで向かい合っ
ているという事実を知らなかったのです。
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元王朝と明王朝が樺太を支配する時に役所を置いたのがヌルガンというところで、明の
時代にはそこに永寧寺というお寺が建立されました。そのことを記した石碑があります。
樺太の住民に対して一番長期的で徹底した支配を行ったのは清王朝で、こちらは間宮林蔵
がデレンというところに置かれた清王朝の出先機関を絵に残しています。しかし、清の支
配も 19 世紀初頭には陰りを見せ、その隙を突いて江戸幕府がその支配圏を北上させ、19 世
紀半ばまでに樺太アイヌのほぼすべてを支配下に収めます。1858 年には人口調査(人別)
を行い、人口も割り出されています。
その後は 1849 年からこの地域に勢力を伸ばしてきたロシア(ロシアは 17 世紀に一度ア
ムール川流域に進出したが、清王朝に敗れて排除されてしまった)と日本との間で国境交
渉が行われます。その結果、住んでいるアイヌの人たちの意向を全く無視した状態でアイ
ヌモシリが切り刻まれました。当初はエトロフ島とウルップ島の間に設けられた道東アイ
ヌと千島アイヌの境界に沿って日ロの境界が設けられましたが(1855 年の日魯通交条約)
、
1875 年の樺太千島交換条約(サンクト・ペテルブルク条約)では宗谷海峡と千島海峡(カ
ムチャツカ半島とシュムシュ島の間の海峡)に国境がひかれ、日本文化に親しんでいた樺
太アイヌがロシア側に取り込まれました。そして逆にロシア文化に同化されつつあった千
島アイヌが日本の支配下に入れられ、シコタン島に移住させられてしまいました。そして
1905 年に一度樺太アイヌの居住地も日本領に編入されましたが、第 2 世界大戦で日本が敗
戦となった結果、樺太南部だけでなく、クナシリ島までの千島列島からシコタン島、ハボ
マイ諸島までソ連軍に占領され、そのままソ連、ロシアの実効支配が続いています。そし
て、ソ連に占領された土地からアイヌの人々の大半が脱出ないし追放されてしまいました。
この状況をアイヌモシリという観点に立ってみれば、江戸時代までのアイヌモシリのう
ち北海道以外の部分が事実上ロシア領になり、そこからアイヌの人々が消えてしまったこ
とになります。つまり、近代国家である日本とロシアがアイヌモシリを舞台に争っている
間に北海道以外からアイヌの人たちが消えてしまった。しかも、本来の住民であるアイヌ
の人々の意向とはまったく関係なく国境や占領地が定められ、本来の住民がその土地を離
れざるをえなくなってしまったのです。
これは非常に大きな、深刻な問題ではないかと思います。では消えてしまったアイヌの
人はどこへ行ったのか。実は樺太にいたアイヌの人たちと北方四島にいたアイヌの人たち
は、ほとんどが北海道に移住しました。そしてその子孫の方々も北海道にいます。千島列
島、とくに北千島のアイヌの人たちは、前述のように樺太千島交換条約の後にシコタン島
に強制移住させられ、そこで環境不適応をおこして多くの方が命を落とし、独自の文化を
持つ文化集団(アイヌの下位集団)としては事実上消滅してしまいます。しかし、その血
を引く方々は戦後シコタン島から北海道に移住し、道東方面を中心に暮らしているようで
す。
ここまでアイヌ文化がどこまで北方世界に適応しているかを中心にお話してきましたが、
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彼らは北方世界の自然環境には見事に適応しました。さらに江戸幕府や清王朝、あるいは
ロマノフ王朝のような前近代的な国家との関係においても見事に適応し、自分たち独自の
文化を守り、育ててきました。彼らは前近代国家の支配に甘んじるだけではなく、国家に
とって必要不可欠な物資を供給することで、逆にその支配体制に影響さえ及ぼしたのです。
歴史研究や歴史小説などでは、江戸時代のアイヌの人々は一方的に収奪される惨めな人々
と描かれることがしばしばありますが、それはアイヌの歴史の一面に過ぎません。衣服の
ところでも触れたように、オヒョウの樹皮の繊維で作られたアットゥシは、その撥水性と
通気性がかわれて和人の船乗りや漁師の上着として重宝され、幕末明治期には手仕事でし
たが、大量に生産され、本州以南にさかんに販売された時代がありました。アイヌの猟師
が北海度や樺太で捕獲したクロテンやギンギツネなどの毛皮は、樺太アイヌやサンタン商
人の手で中国に運ばれ、北京の宮廷文化を彩りました。千島でもアイヌたちが捕るラッコ
の毛皮が帝政ロシアの経済を支えた時代があったのです。アイヌ社会は決して悪徳商人た
ちの搾取のために崩壊の一途をたどったわけではなく、厳しい状況の中でもそれなりに適
応しようとしたのです。
確かに近代国家との関係においては、強力な文化同化政策によって言語は消滅寸前に追
い込まれ、狩猟や漁撈、雑穀栽培といった生産活動も自由にできなくなり、非常に厳しい
状況におかれるようになったのは事実です。しかし、だからといってアイヌの伝統文化が
消滅し、大正時代以後の調査研究は「落ち穂拾い」状況だったという認識は間違っている
と思います。21 世紀の今日、アイヌの人々の中には生活面で苦しい状況にある人々もいま
すが、それでも現代の自然環境と社会、経済的な環境に順応しつつ、祖先たちから受け継
いできた文化を継承し、発展させています。ただ、今日の社会において、アイヌ文化の継
承、発展の問題をアイヌの人々だけのものとして、それ以外の人々が無関心でいるという
状況はよくありません。近代以後のアイヌ文化の状況は、実は日本文化の状況と共通する
部分もあるのです。自分たちの日常生活を見回してください。
「日本文化」なるもの、例え
ば自分たちの祖父や祖母の世代まで受け継がれてきたものを、私たちはどの程度きちんと
保持しているでしょうか。明治以後の近代化の中で、日本文化もその多くが失われたので
す。同じ現象は世界中で起きています。つまり、アイヌ伝統文化の継承、発展という課題
は日本国民に共通の課題であり、さらにはちょっと大げさに言えば、全人類に共通の課題
でもあるのです。自分たちの伝統文化を継承、発展させていくためのアイヌの人たちの活
動について、北海道を領有している日本という国家の国民は、自分たちの問題として真剣
に考えていかなければいけないと思います。
最後に一言触れておきますが、
「北方領土問題」というものは日本とロシアだけの問題で
はありません。国家間の問題ではあるのだけれど、その背後にはもう一つ、この地域の本
来の住民だった先住民族アイヌという存在を忘れてはいけない。これだけはしっかり頭に
入れておいていただければと思います。私の話はこれで終わりにしたいと思います。どう
も長時間ありがとうございました。
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