『私 の 旅 物 語』

特
集
『私 の 旅 物 語』
神田祭の旅
川内 清隆 (第 4 期)
学生時代からの友人の佐藤さんが日本橋久松町の町会長をしているということもあり、初めて神
田祭に夫婦で出向くことになった。今年の神田祭は、神田明神が天平 2 年(730 年)今から約 1300
年前に大手町将門塚に創建され、それが現在の地にご遷座され 400 年の奉祝ということから大変
な賑わいとなっていた。佐藤さんはハッピや浴衣や手拭と言う日本のお祭に係る小物から衣裳まで
の企画、製造をしている老舗・佐藤万の会長さんで、忙しい中であったのだが、時間を割いていただ
きお食事までご馳走になった。
この町会の久松町はこの地に久松松平家の上屋敷があったことから町名が付いたとのことであ
る、と佐藤さんからお聞きした。そしてその話から、何か不思議と神秘的な縁のような話の思いに繋
がっていくことに驚きを感じるのだった。
小生がオーロラ電卓社を経営していた頃には、
四国の松山市にあるダイキというホームセンター
とかなりの取引があり、毎年、3 回ほど一泊二日
の出張をしていて、松山城に登り、道後温泉で過
ごすのが楽しみとなっていた。この松山には川内
町という町があるのだが、その地は久松松平家の
鉄砲隊の川内家臣の名前から取った、と地場の方
より聞いたことがあつた。また、伊予松山藩は久松
松平家であり、我が家の白金にある済海寺が久松
松平家の江戸の菩提寺であることも何かの縁のよ
神田祭 (写真撮影:高橋滋(28 期)
うなものを感じたのだった。
そしてこのようなことで、この神田祭の日本橋久松町でのこの一日は、何か歴史の旅をしている
かのような思いに耽った重みのある楽しい旅となった。
<2015.5.16 記>
☆ ☆ ☆
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蓼科への旅
川内 清隆 (第 4 期)
神保町の油絵教室に 20 年間以上も通われた高羅さん(MBI 第 1 期)、そして先輩のご紹介でも
う 17 年間も続けて来た小生(MBI 第 4 期)と、5 年前にお仲間となった若手画家服部さん(MBI 第
21 期)と、各人の奥様の 6 人の蓼科スケッチ旅行(6/22~6/24)がやって来た。
この旅の企画は服部さんが蓼科に別荘を構え、低酸素生活を試みたことから、その別荘にお邪
魔をして、そこでスケッチをしようじゃないかということからであった。
小生は旅というと MBI イベントのハワイ旅行や MBI 関西の京都、大阪、山崎のイベント旅行の参
加や、我が家の夏恒例の孫家族との伊豆山の二泊三日であって、今回の旅は思いもかけないとて
も興味のある旅であった。
茅野駅で服部さんが我々を出迎え、ビーナスラインを
ドライブし、白樺湖近くの霧ヶ峰からダイナミックな高原の
大パノラマを展望し、日本にこのような見事な景観がある
ことに驚きと喜びと感動で吸い込まれてしまうかのように
見入ってしまった。
というのは、米国駐在時に家族 4 人でカナダのバンフや
レイクルイーズの壮大な自然の景観や、MBI 欧州研修でド
霧ヶ峰からの絶景
イツからスイスまでの列車から見渡したアルプスのスケール
ある景色を見て、二度とこのような驚きを伴う景観に出合うことは無いのではと思っていたのだった
が、この蓼科のビーナスラインのドライブで現実に自分の目の前に登場するとはと興奮するばかり
であった。
そしてその思いを妻昌子に語り掛けたのだった。
妻昌子「私もそう思いますよ。そのことと思いもよらない、万緑の高原に鮮やかに咲き乱れるレン
ゲツツジの花々とその花に戯れる野鳥の姿を見ることが出来、本当に来てよかったと思いました
の・・・」
そして私たちは蓼科東急ホテルに泊まり、鹿山の湯に入り、マイクロトマトや信州サーモンや鮎
のお造りの和食料理を堪能し、家族や孫のお話しや、油絵への思い入れや楽しさのお話しを夜遅く
まで語り合いました。
小生はこの旅で、何か標高千二百メーター以上のある蓼科の水田や田畑を見て、困難を伴っ
たであろう山や岩場を拓き、今に続く農家の豊禳の様や交通路を築き上げられた歴史の片隅で活
躍した藩の下級武士や農民たちの汗水たらした努力と忍耐の姿が目に浮かんでしまいました。
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それは実はNHKのBS金曜時代劇で、藤沢周平原作、
竹山洋脚本の「風の果て」で主演佐藤浩市が険しい山の開
墾を藩に提言し、岩山を拓き水を引くという難行事業を務め
るのだが、武士とはいっても農民の中に入り込み一緒になっ
て切り拓き、出世をして行くというTVドラマを見たことから、こ
の蓼科高原台地でもきっとそのような武家社会でのたゆまな
い開墾の歴史があったのではと思いをはせるのであった。
また御射鹿池に佇み、日本を代表する東山魁夷画伯の
御射鹿池
「緑響く」の池のほとりでその名画を描く作者の姿に思いを慕
たった旅でありました。
<2015.6.24 記>
☆ ☆ ☆
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モロッコへの旅の思い出
林 喬 (第 9 期)
今から24年前になるが、まだ一家がアメリカに駐在中に家族でモロッコを旅することになった。家
内の妹の家族がモロッコのカサブランカに滞在中で遊びに来ないかと誘われたからであった。
ロスアンゼルス郊外のオレンジカウンティー空港からダラス経由でスペインのマドリードで降り、1
泊してモロッコのカサブランカへ向かった。当時カサブランカには日本人の駐在員が多く住んでいる
ようであった。夕方に着いたのでその日は泊まり、翌日早朝にフェズへ向かって車2台での旅が始
まった。途中、モロッコの首都のラバトで昼食を取り、町中を一巡してまっすぐフェズを目指した。
フェズはまさに迷宮都市のようで4階建ての建物群の間の細い路地をくねくねと歩くことになる。当
然ガイドを雇わないと迷ってしまう。道に面して奥行きの狭い店が並んでおり、買物の値段はあって
無きがごとしで値段交渉が楽しいひと時であった。私はそこで壁掛け用の絨毯を買った。今でも家
に飾ってある。つい10日くらい前に TV 番組でフェズの町を紹介していたが、実は店の奥行きは浅
いが、一歩奥へ踏みこむと立派な家が広い中庭を囲んでいた。
建物の上の階では皮を鞣していた。強烈な匂いに辟易したが有名ブランドの革製品の多くがここ
で鞣されており、また贋作品も多く、ここから出ていると聞いた。
翌日は車で6時間以上かけてマラケシュへ向かった。丁度夕方に着いたので直ぐに有名なバザー
ルに出掛けた。広いスペースに何でも品が揃っていた。土曜に着いたので余計混んでいたのかも
知れない。ただ果物以外には気になるものはなく、何も買わずにホテルに戻った。ここは昔フランス
の統治下にあったようで、ホテルの様式も料理もフランス的であった。夜は子供達も交えて食事を
はさんでベリーダンスを見て楽しんだ。翌日もバザールに出掛けたが、矢張り見るだけでホテルに
戻ってきた。余談であるが、ここのカジノで4セブンが出たが賞金は5万円位しか貰えなかった。
モロッコでは、特段イスラムを意識することはなく、厳しい規則を強制されることも無かった。24年
前で、現在のようなイスラムの過激派が台頭する前であったからかも知れない。嫌な思いをしたの
は空港のチェックインカウンターで理由もなくストップを食らい、押し問答の末、袖の下を望んでいる
ことが判り、5ドルを渡すとすんなりと通してくれた位であった。我々の4泊5日のモロッコの旅はトラ
ブルなしで終わったのであった。
<2015.7.2 記>
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野湯の楽しみ
渡辺 貞 (第 12 期)
旅行の楽しみの一つは温泉に行くことである。2年前に仕事を完全に離れてから、私を含めて仲
間3人と「秘湯めぐり」と称して、2,3か月に一度の頻度で、2,3泊の山奥、人里離れたところにあ
る温泉巡りを始めた。温泉に行く楽しみを味わえるのは世界中で日本だけであろう。最近、海外か
らの観光旅行客が急増しているが、温泉につかって、のんびり過ごす楽しみを海外からの人にもも
っと知ってもらえたら、更に観光客は増えるだろう。もう一つ海外の人に温泉が受け入れられると思
うのは、多くの温泉は自然がいっぱいのところにあるので、日本の自然を満喫できると思うからであ
る。そんな温泉の中でも、自然そのままの温泉、いわゆる野湯或いは野天風呂(自然の中に湯船が
あるという意味であり、露天風呂ではあるが、旅館の中にある風呂ではない)のいくつかを紹介した
い。当然ながら、このような所はボイラーもろ過装置もない。すべて源泉垂れ流しである。
最初にご紹介するのは、これぞ野湯と言える温泉を二つ。
八ヶ岳 本沢温泉
新潟県 蓮華温泉
本沢温泉:八ヶ岳連峰、硫黄岳頂上直下のガレ場、海抜 2,000mを超える高所にある温泉である。
ここに行くには、硫黄岳登山口に車を止め、そこから山道を 2 時間ほど歩かなければならない。4駆
なら、さらに、車のすれ違いも出来ないような登山道を上って行くことが出来る。最後の車止めから
は、徒歩で1時間あまりである。山小屋の本沢温泉が管理している。
写真でお分かりのように、石ころだらけの沢に木製の湯船が切ってあるだけである。脱衣所もな
い。幅50センチくらいの板の上で、ガレ場に落っこちないようふらふらしながら服を脱いで、ざぶんと
飛び込む。湯温40度くらい。ちょうど良い。無色透明のお湯。周りは我々のほかは誰もいない。青
い空と硫黄岳、緑の木々、鳥のさえずり、蝶々が飛んでいる。思わず「世の中、平和だなー」と叫ん
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でしまった。私の同僚は、板の上で裸のまま仰向けになって寝ていたので、大事なところが日に焼
けてしまった。
蓮華温泉:白馬岳登山の山小屋、蓮華温泉ロッジが管理する海抜 1,500mほどのところにある雲
上の温泉である。ここはロッジから徒歩2、30分のところに、本沢温泉同様、山の斜面に、脱衣所も
何もない湯船が4、5カ所点在している。それぞれの湯船は源泉が異なっているようで、上から2番
目の湯船のお湯(薬師の湯)はグリーン、そのほかは無色透明である。
我々が行ったのは10月中旬、紅葉の季節の早朝。湯船につかりながら、赤や黄色に色づいた
木々とすぐ近くには朝日に輝く朝日岳を眺めることが出来た。まさに日本の秋。
このような温泉に入るには、誰もいないときに限るというわけで、早朝に行ったのであるが、我々
が入浴中に6人組のおばさんがやってきた!おばさんたちも一緒に入浴するかとギョッとなったが、
「どうぞどうぞごゆっくり」と湯船の横で待っているではないか。我々は出るに出られなくなってしまっ
た。しばらくすると、のぼせあがってぼーっとなってきた。我慢の限界。同僚と、「それっ」と掛け声を
かけて湯船から飛び出て、濡れた身体のまま、ささっと服を着て、ほうほうのていで逃げ出した。お
ばさんパワーに押し出されてしまった。
次は、最果ての野湯、知床の温泉である。知床の野湯と言えば、お湯の滝が流れ落ちるカムイワ
ッカ湯の滝が有名であるが、ここでご紹介するのは、知床半島の東の町、羅臼のずっと奥、道路が
尽きる所にある相泊部落の温泉とその手前のセセキ温泉である。
知床 相泊温泉
知床 セセキ温泉
時は6月中旬。東京を車で出発し、仙台からフェリーに乗って、翌日昼、苫小牧に着いた。ここか
ら車を運転して一路、知床の相泊目指してまっしぐら。途中、襟裳岬と根室にそれぞれ一泊。東京を
発って4日目。いよいよ知床だ。羅臼の町を過ぎ、右手にオホーツクの海を見て、海岸沿いの道を
飛ばし、漸く相泊の部落に着いた。道端に世界遺産知床相泊温泉の看板あり。ここだ!車を降り、
用意したタオルを持って、海岸沿いを見ると、なんと!温泉の湯船を囲む掘立小屋が修理中ではな
いか!マズイと思いつつ、小屋の中を覗くと、オジサンが二人、トントントンと小屋の壁に板を打ち付
けていたのだ。なんと言うことだ。東京から車を飛ばしてここまで辿りついたのに・・・。ところが、であ
る。湯船には木屑が浮かんではいるが、お湯が半分ほど張ってあったのだ。
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「あのー、東京から来たんだけど、入っていいっすか?」
「ああ、男だらいいだべさ。女は駄目だけんど」
早速、服を脱ぎ、湯船にそーっと足を入れた。アッチー!湯船の底に敷いてある簀の下から熱い
お湯が湧き出ている。これは足元湧出温泉(自噴)だ。
温泉通によれば、足元湧出温泉こそホンモノの温泉なのだそうだ。地の底から、大気に触れるこ
となく噴き出てくるまさにナマのお湯なのだ。足元湧出温泉の多くは混浴だ。湯元が一つだから、構
造上、湯船を二つに分けることが出来にくいことによるのだそうだ。
相泊から羅臼に向かって戻ることおよそ2キロ。相泊同様、道端にセセキ温泉の看板あり。車を
降り海岸を見ると、それはあった!波打ち際に石で丸く囲った湯船があったのだ。周りには目隠しの
掘立小屋などまったくない。道路から丸見えだ。ちょっと恥ずかしかったが、湯船の横、石の上に服
を脱ぎ捨て、湯船にざぶんと飛び込んだ。ヌルイ。湯温36‐7度。体温と同じくらいだ。外は20度くら
い。身体を外に出すと寒い。じーっと湯につかっていると、じわーっと身体が温まってくる。良く見ると、
ポカリ、ポカリと泡が底から湧き出ている。少しずつ底からお湯が湧き出ている。ここも足元湧出温
泉。目をつぶってじーっと湯につかっていると聞こえてくるのは、ザブン、ザブンと押し寄せる波の音
だけ。「世の中、平和だー」
相泊温泉もセセキ温泉も相当昔からの温泉で、当初は漁師が漁のあと、身体を休めるために使
っていたようだ。特に、セセキ温泉はTVドラマ「北の国から」のロケにも使われ、以来、全国的に知
れ渡ったようだ。
最後にご紹介するのは、北アルプスの山ふところ深く、高瀬川最上流にある超ワイルドな野湯、
湯俣温泉。ここは、信濃大町からずっと奥にある蔦温泉の先、東電の七倉ダムまで車で行き、そこ
から先は東電の許可を得たタクシーに乗り高瀬ダム下車、更に高瀬川沿いに歩くこと、およそ2時
間半で辿りつく。ここは槍ヶ岳や野口五郎岳の登山口でもあり、山小屋晴嵐荘がある。
壊れた吊り橋
噴湯丘
河原に出来た天然の露天風呂
行ったのは、この7月、台風の接近前。快晴。宿に荷物を置き、海水パンツをはいて、早速、温泉
が湧き出ているという高瀬川河原へ。ところが、である。温泉が湧き出ている河原に行く吊り橋が壊
れていたのだ。吊り橋を支える2本のワイヤの1本が外れ、ワイヤ1本で支えられて橋が斜めに垂
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れ下がっている。下の川は雪解けの激流が流れている。そこをカニの横ばいよろしく1本のワイヤに
つかまってそろりそろりと川を渡って漸く河原に立つことが出来た!
河原の向こうには、高さ3メートルくらいの石灰石が堆積して盛り上がった天然記念物の噴湯丘
が見える。噴湯丘の先端からは熱湯が流れ落ちている。噴湯丘の近くのいたる所から、熱いお湯が
川に注いでいるのである。河原にはスコップが置いてあり、河原を適当に掘って周りを石で囲むと露
天風呂の出来上がりであるが、近くに天然の露天風呂があったので、我々はそこに飛び込んだ。お
湯と冷たい川の水が適当に混ざって丁度いい湯加減だ。青い空、もくもくと湧きあがる入道雲、緑濃
い深山の木々、ゴーゴーと流れる川の水音。安保法案も新国立競技場も、サイバーテロもオレオレ
詐欺も、何もかも忘れて「世の中、平和だー」
まだまだご紹介したい野湯は沢山あるが、ここで紙数も尽きた。
野湯の楽しみは、まずは地図やネットなどで野湯を見つけること、次に計画を立ててそこまで辿り
ついた時の達成感を味わえること、そして野湯につかると自然と渾然一体となれることなどだろう。
野湯につかっていると、浮世の憂さや煩わしさなど、きれいさっぱり忘れてしまうこと請け合いであ
る。
<2015.7.16 記>
☆ ☆ ☆
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トルコ自転車旅行
(2015 年 4 月 10 日~5 月 3 日)
合田 敏夫 (第 15 期)
61 歳で現役引退後 5 年目を迎えています。定年後は輪駆輪駆(ワクワク)自転車生活と称して、
自転車を友に国内外を旅する生活を送っています。
最初の旅は中国雲南省のシャングリラ方面への一人旅。これですっかりはまり、後はエスカレー
トするばかり。新疆ウイグルからカザフスタン国境。カリフォルニア西海岸、ローマからアムステルダ
ム、台湾一周、中国西安周遊などを楽しんできました。国内は日帰りを含めて東奔西走していま
す。
さて今回のトルコ自転車旅行は地中海沿岸の港町 Antalya を起点として海沿いの町を辿り、エー
ゲ海の沿岸を北上してイスタンブールまで。同伴者は米国人(台湾人)のCJ。彼とは昨年もローマ
からアムステルダムまで一緒に走った自転車友達。
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e-Crossroads (No. 5, August 2015)
私の自転車はジャイアントの MR4 と言う、少し小ぶりの 24 インチで折りたためるタイプのもの。C
Jはバイクフライデーの 20 インチの折りたたみ。これが飛行機で運ぶのもバスに乗るのも一番簡単
で機動力抜群。これに総重量 5Kg のバッグを一つ乗せて、宿は行く先々で決めるという軽快スタイ
ルが我々の旅の形だ。
私の自転車 MR4 (24 インチ)と
後は Antalya 近郊の Olympos 山
Antalya の港
ここが今回のスタート
Antalya はトルコのリビエラと称されていることを現地で初めて知った。なるほどすぐ近くに雪山が
見える。これには驚いた。スキーと海水浴が楽しめるらしい。海も浜も素晴らしくクリーン。流木、ビ
ニール、ペットボトルなど一切ない。大洋ではなく大きな波が来ない、大きな川が無い(雨が少ない)
などの自然条件のなせる業か。日本の海岸よりはるかにきれい。(ゴミが無い。)
港町 Kas 海も浜も素晴らしくクリーン
グリーンハウスでトマトを戴く
海岸に沿って Kas、Fethie と素晴らしい港町を訪ねて進む。海岸沿いの道は日本でもそうだが
結構坂道とか山越えがある。しかしそういうところの景色がまた素晴らしい。天気にも恵まれる。途
中グリーンハウスを覗いたり、農民からチャイを振る舞われたり、魚の稚魚の養殖場なども通りがか
りに見学させてもらう。この辺りはハウス栽培が盛んな土地である。トルコの人は皆さん大らかだ。
農民からお茶(チャイ)の接待
通りがかりの養魚場の見学
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e-Crossroads (No. 5, August 2015)
Mugla では、カリフォルニアの自転車仲間から紹介さ
れた Bulent と Sadan が待ってくれており、Bulent の築
200 年のこの地方の伝統的なお宅に一泊させて頂いた。
Mugla は標高 700mの高原で海岸からいきなり屏風のよ
うな山を登る。これがこの日 100Kmを走った後の出来事
で、この日は最終的に 143Kmの長丁場となった。
友人に招待されるのは良いが、時として予定が狂うこと
がまま発生する。これも自由な旅ゆえ問題なし。翌日は午
前中 Mugla の町を案内してくれたおかげで、またもスケジ
ュール変更を余儀なくされた。それと予定ではギリシャ領の
ロードス島へ行く予定だったが、シーズンオフでフェリーが
Mugla の Bulent 宅の前で
動いていないとの情報を得ていたので日数的な余裕もで
きて、この日は山を下りた海岸沿いの Akyaka と言う町に投宿。荷物を置いて半島の先にある港町
の Marmaris まで往復した。
Akyaka 遠望
Akbuk の浜辺
その先は Oren、Bodrum、Didim、Kusadasi と進む。ここもすべて港町だ。どこの港にもマリーナ
があり、大型帆船、プレジャーボートがひしめいている。この近くに有名な古代の遺跡エフェソスが
ある。
Bodrum。どこの港にもマリーナがある
エフェソスの古代都
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e-Crossroads (No. 5, August 2015)
こちらを見学して出発してすぐに CJ のバイクのシートポストがぽっきり折れた。これは我々の荷
物を積むためのラックがシートポストをクランプしているため、震動などで金属疲労したためだろう。
彼のシートポストがアルミであったのも原因。やむなく次の目的地の Izmir までバスで移動。こういう
時に我々のバイクは便利だ。Izmir でも紹介されていた地元の Muhlis に会い、お宅に泊めてもらう
予定だった。彼は全国規模の自転車ディーラーのマネジャーで、すぐに知り合いの自転車屋まで車
で運んでくれてシートポストを交換。何ともタイミングの良い故障であった。もう一泊して行けとの申
し出を断り、次の日は Cesme まで走りここで二泊してギリシャ領のキオス島へフェリーで往復して日
帰りサイクリングを楽しむ。ここはオレンジ栽培が盛んな土地で栄えたようだ。
次の日は来た道を引き返して Izmir の手前にある Urla へ。ここには日本人女性が住んでおり、実
は Mugla の Bulent の知り合いで紹介してもらっていた。異国での日本人同士の気安さで厚かましく
泊めて頂き、久しぶりに洗濯機で衣類を洗濯したり、地元のハマム(トルコの銭湯)へ連れて行って
もらい、垢すりですっかり良い気持ちになった。
Izmir の自転車屋にて
Urla のトルコ風呂
次の日はフェリーで Izmir を迂回してショートカットするつもりだったが、Izmir の Muhlis が土曜日
で時間があるから、来てほしいとの連絡。有りがたいことだと思い行くことにした。市内を案内してく
れて何やらビルの一室へ案内されたら音楽の教室のようである。実は奥さんがテレビ、ラジオの音
楽番組を担当している方で、土曜日は教室で指導していた。そこで紹介されて、日本の歌を一曲と
の要望。はてさてカラオケもなく、歌詞もない中で歌えるのは国歌?思いついたのはウサギ追いし
の“故郷”。これならいけるだろうと歌いました。まあ気持ちが一番大事ということで、大きな拍手を頂
きました。
Izmir で Muhlis の奥さんの音楽教室にて
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e-Crossroads (No. 5, August 2015)
そんなこんなでまた時間がなくなり、結局 Izmir から Bergama まで一気にバスで移動。Bergama
も古代の都市遺跡で有名なところ。ここも見学。MBIでベルリンに行った時に当時の東ベルリンだっ
たと思うがペルガモン博物館を見学した記憶がある。そこにゼウスの祭壇が復元されていた。それ
はここから運ばれたものだ。
アタチュルクの追悼文
Bergama の古代都市遺跡
その後、Kucukkoy、Canakkale、Gelibolu と進む。第一次世界大戦の最中 1915 年に英国連合
軍(主力は ANZAC:オーストラリア・ニュージーランド軍団)とオスマントルコが激戦を戦った地域で
広大な地域に戦跡記念が保存されている。丁度 100 年で、4 月 25 日が ANZAC デーということで、
トルコ人、そして多くのオーストラリア、ニュージーランドの団体が追悼のために訪れていた。我々も
古代遺跡ばかりではなく近代の歴史も勉強しようという事でいくつか訪ねた。トルコ建国の父アタチ
ュルクが敵の戦没者、その家族に送った言葉が実に印象的だった。
Gelibolu からはバスで Istanbul まで移動して、Istanbul では友人の Mehmet に会い旧交を温め
た。彼との出会いが今回のトルコ自転車旅行に結びついているので出会いは大事にするものだな
あとつくづく思う。トルコの自然、文化、人々の生活をこの目で見ることのできた素晴らしい旅でした。
今回の自転車旅行は、約 20 日間で 1300km 走りました。
イスタンブールのアヤソフィア にて
<2015.5.27 記>
☆ ☆ ☆
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中近東での出張
三輪 博 (第 16 期)
いま旅というと、行ったことのないところへ行って、いろいろなものを観たり、体験したりすること、と
いうことになるかと思いますが、私にとっての旅の思い出というと、まずは、仕事での出張というのが
きます。
特に、最初の海外勤務は1980年代の中近東でしたが、仕事の9割はアポイント先にたどり着く
ことで、ビジネスは残り1割という感じでした。旅というよりは単なる移動といえます。ある国に行くに
は、まずビザが必要なことが多いのですが、当時の中近東ではその国のお客さんから毎回、招待テ
レックスをもらう必要がありました。国によってはすぐにはこないことが多く時間がかかりました。そ
のテレックスがきて、やっとビザを取得することがきるわけです。
そのうえで、飛行便の予約ということになりますが、これもあまりあてにできません。そもそも予約
していても、搭乗券が手に入いらないこともあります。出発時間の3時間前には飛行場に行き、とも
かく搭乗券を手にいれなければなりません。オーバーブッキングが日常茶飯事で、これも政府高官
が現れると、降ろされる人が出てくる始末でした。そうされないために、上着をきちんときて、ネクタイ
をしめ、気が弱そうな人とみられないことがポイントでした。
当時はオイルマネーの時代で、他国からの中近東参りが盛んでしたので、飛行機がすぐ満席に
なるので、タクシーで長距離移動することもよくありました。今と違い、昔は拉致されるとかはありま
せんでした。当時はイランとイラクが戦争中で、その近くをタクシーで抜けていくといったこともありま
した。
目的地では、タクシーをチャーターしてアポイント先に行きます。問題はタクシー・ドライバーが場
所を知らないので、アラビア語でここを曲がれとか、まっすぐ行けとか言わなければならないことで
す。そのためには、地図に目印を書き込んでおきますが、当時はビルが増えていたので、目印の隣
に新しいビルができて、時々わからなくなることもよくありました。
いろいろ手間がかかりますが、たどりつかないことにはビジネスが始まらないわけですので、避け
て通れません。若さというか、知らない強みで、なんとか行けたような気がします。しかし、昔の人は
海外へ船で行っているわけですので、それに比べればたいしたことではないともいえます。
現在の状況はよく知りませんが、どうなっているのでしょうか。気になるところです。今の仕事で、
国内出張にいくことがありますが、非常にスムースで、ストレスがあまりないことに感謝している次第
です。
<2015.7.27 記>
☆ ☆ ☆
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e-Crossroads (No. 5, August 2015)
北海道の思い出
三橋
健八(第 19 期)
6月下旬、昨年と同様に、女満別空港からレンタカーで阿寒国立公園内の弟子屈町にあるペンシ
ヨンに向かった。女満別空港からペンションまでの道のりは道の両側に白樺がきれいに長く続いて
いる。約1週間の宿泊である。昨年の女満別空港での小さな出来事であるが、近くの網走へ囚人の
護送と同じ飛行機であったのが印象に残っている。
知床では、知床五湖が見える高架木道を
歩いてきた。高架木道は背が高く景色もよく
見えて良かったが、いずれこの木道も作り直
さなくではいけないだろうと思った。
知床木道から車で約20分、カムイワッカの滝
に行き、滝に手を浸けると生ぬるいので、もっ
と上流なら人間が入れるほどの温度になって
いると思った。岩の上の滝のため滑って危ない
のでよく確かめなかったが、湯気が発生してい
る非常に面白い川であった。
知床連山にて
釧路駅の近くには市場があり、自分の食べる物を買い、市場のなかで食事ができる。それでいろ
いろ買い市場で食事をしたが、普通食べない物ではあるがかなりの金額になってしまった。釧路か
らの帰り道はガスが出ていた。
天気に恵まれた日、オホーツク海を望める平原と白百合の花を見ることができた。また、一両の電
車が走っていて濤沸湖との比較で美しかった。知床の山並みも遠くに見え良い景色であった。
遠軽町丸瀬布の昆虫生態館や古い鉄道があるとのことで行ってきた。車で片道3時間も必要で
かなりの山奥にあった。昆虫生態館は多くの昆虫が飼われていたり、標本も多かった。古い鉄道は
昔使っていたのを実際に少し動かして、見学用として置いてある。形式C型の古い鉄道を見せてく
れた。大型の連休には多くの観光客が訪れるといっていた。帰りの道には落雪注意の看板が目を
引いた。
ペンシヨンには、シカ、キツネ、蝦夷リス、アカゲラが良く遊びに来ていた。
多くの自然の動物に囲まれた一週間であった。
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e-Crossroads (No. 5, August 2015)
市場の中で
北海道斜里郡小清水町にあるログハ
ウスの「JR 原生花園駅」。一両の電車
が走っている(5~10 月)
<2015.7.8 記>
☆ ☆ ☆
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e-Crossroads (No. 5, August 2015)
沖縄のんびり旅
寺本 安久(第 21 期)
2014 年 11 月 22 日、いい夫婦の日に、嫁兄弟の次男、望君が結婚式を挙げるとの事で、久しぶ
りに沖縄那覇に降り立った。嫁の里でもある沖縄は私にとっても大好きな所だ。嫁は、首里の生ま
れ、首里育ちで、首里高出身だ。NHK の朝ドラ「ちゅらさん」で首里高が紹介されたが、その高校の
門を見るたびに「ここに通っていたのか!」と思う。首里は、琉球文化の中心地。首里の町並を歩く
と「りゅうきゅう」が肌で感じられ、「ここでしか味わうことは出来ないだろう!」と思う。嫁も子供のころ
から、この首里の味をかみしめて育ったのであろう。
望君の結婚式は、その「りゅうきゅう」スタイルで行われた。参列者のほとんどが沖縄の方である
が、彼らも一応に初めての体験だと口々に言う。本当に珍しかったのであろう。ホテルのチャペルを
琉球様式の祭壇に衣替えし、その祭壇の前にビン型衣装の望君と新婦が並ぶ。琉球の服を着た神
父役の司会により儀式が進行する。スデイヌチャーシーの儀という黒帳の 1 枚の着物を2人が羽織
る。その後、ウビナデイーの儀で黒帳を羽織ったまま2人の額にお水で、清め払いを行う。その後、
誓いの言葉をおこない、誓盃の儀に移り、お神酒で夫婦の契りを結ぶ。
以前、伊是名島に旅した。今は、モズクで有名なこの離島は、昔、琉球王朝の副王がおられたそ
うで、今でもその副王の墓がある。そこでは、琉球王国の残像を見た記憶がある。今回の結婚式は、
その琉球王朝の残像に加え、いまでも脈々と沖縄人の心の奥底に流れている温かく、かつ厳かな
琉球文化を大切にする気持ちと心意気を感じることが出来た。
今回は、もう一つの出会いがあった。国際通りの公設
市場奥にある地元の方も意外と知らない 350 円の絶品の
「沖縄そば」を食べた後、結婚式まで 3-4 時間の待ち時間
がある為、通常はウォーキングで過ごすところ、雨が落ちて
きたので、その沖縄そばの店近くに映画館があると聞き、
立ち寄ってみた。行ってみると、「桜坂劇場」という名前で、
小ぶりの映画館。5-6 本の外国映画が同時上映されていた。
その一つの映画に一瞬目が止まった。「アルゲリッチ」とある。
「うんん。なんだったっけ?」すぐには思い出さない。その映
画は、ちょうど 12 時に開始される。今、1 分前。とりあえず切
符を買って館内に入った。
沖縄そば
19
e-Crossroads (No. 5, August 2015)
フランス語と英語でのドキュメンタリータッチの映画が進むに連れて、「マルタ・アルゲリッチ
だ!!」とわかってきた。こんな日にこんな場所でアルゲリッチに会うことができるとは偶然の賜物で
有り難いとしか言えない。彼女の全貌・横顔を子供のころから現在までをうまくまとめてある素晴らし
い作品だ。日本の別府での演奏会も紹介されていた。彼女の演奏開始前に必ず「ふきげん」になる
様子がアップされていたが、「こんな人でもそんな癖があるのか!」と改めて彼女も人間そのものな
んだと思った。
約 2 時間はあっという間に過ぎて、映画館から外に出ると、雨が上がり、いつもの沖縄のあの青
空が戻っていた。映画館の中では、アルゼンチン文化にひたり、外に出ると別世界の沖縄。その後、
望君の結婚式で琉球文化に接することができた訳で、三拍子そろい踏みの、のんびり旅になった。
いずれにしても、大好きな沖縄でアルゼンチン文化に触れることができたことは、ツイていたとしか
思えませんし、また、何か「縁」を感じた次第です。また、のんびり旅での出会いを楽しみたいと思い
ます。
(注)マルタ・アルゲリッチはアルゼンチン人でアルゼンチンが生んだ世界的な天才ピアニスト。
今回の映画の題名は「アルゲリッチ 私こそ 音楽」
琉球衣装で家内とツーショット
<2015.7.7 記>
☆ ☆ ☆
20
e-Crossroads (No. 5, August 2015)
毎日
日が旅の中
中-国内の
の旅再発見
見-
木
木下 正治(第
第 22 期)
これま
までに数多くの
の旅をしまし
した。旅といえ
えば海外旅行
行が中心であ
あり、1978 年
年にフランス
スに 1 年
半滞在し
したときから始まって、西
西欧、東欧、エ
エジプト、アメ
メリカなどを自由なプラン
ンを作って回
回ってきま
した。しか
かし、2002 年の秋に、今
今でこそ言え
えますがヨー
ーロッパのとあ
ある都市で公
公園を散歩中
中に家内
共々強盗
盗に襲われて
てしまい、身に着けている
る財布を盗ま
まれてしまったことがあり
ります。一瞬気を失っ
てしまっ
ったものの幸い怪我はな
なく、財布には
は現金を大し
して入れてい
いなかったた
ために被害は
は少なくて
済みまし
したが、それ
れ以来、海外旅
旅行が億劫
劫になってしま
まいました。も
もちろん仕事
事上での海外
外出張は
その後も
も数多く行きましたが、家
家内をつれて
てのその後の
の海外旅行は
は現地で友人
人が面倒を見
見てくれる
ときの一
一回だけです
す。一種のトラ
ラウマのような
なものでしょ
ょう。
一方で
で、2006 年からは京都
年
に単身赴任
任したこともあ
あって、毎日が
が旅の中とい
いう錯覚を感
感じながら
過ごして
ていました。こ
これはいわゆ
ゆる国内の旅
旅再発見とい
いえるようなも
ものでしょう 。以前から歴
歴史が好
きであっ
ったことから、退職したら 1 年間くらい
い京都に住ん
んでみたいなと家内と話し
し合っていた
たのが、ひ
ょんなこ
ことから仕事で
で京都在住ということに
になり、仕事と
と楽しみの両
両立ができる
るまたとない機
機会を得
られるこ
ことになりまし
した。さて、京
京都に住むに
に当たって何
何処がいいか
かとなると、京
京都の中心は何とい
っても御
御所ですから
ら、上京区か中京区が一
一番ええでっしゃろ(これは京言葉か
かしら?)とい
いう方もい
れば、東
東山の岡崎あ
あたりの住宅
宅街もええよ
よという方、果
果ては北山が
が今はセンス
スがいいです
すよ(これ
は生粋の
の京都人では
はないな?)
)などなどが ありました。結局、通勤先と京都駅さ
さらには大阪
阪への出
張などを
を総合的に考
考えて、伏見に落ち着まし
した。
伏見と
といえば太閤
閤秀吉の伏見
見桃山城、坂
坂本竜
馬の寺田
田屋、幕末の
の鳥羽伏見の
の戦、日本三
三大酒
どころな
など、その名前
前は人口に膾
膾炙していま
ます。
実際に住
住んでみると
と、さらに多く
くの知らなかっ
ったこ
とを発見
見できました。
。桓武天皇が
が平安京を作
作った
ときに南
南北の軸を定
定める必要が
があり、北は京
京都市
内の船岡
岡山、南は京
京田辺の甘南
南備山を結ぶ
ぶ線を
京都の朱
朱雀大路が通
通る軸に設定
定したそうで
です。
ちなみに
にこの甘南備
備山の麓に私
私の勤務して
ていた
会社があ
あります。これ
れも奇遇です
すね。さて、こ
この
写真1:桓武天
写
天皇柏原陵
桓武天皇
皇の柏原陵((写真1)が伏
伏見にありま
ます。
21
e-Crossrroads (No. 5, August
A
2015)
この位
位置から西に
に線を引くとそ
そこは長岡京
京の乙
訓寺に突
突き当たると
といわれています。長岡京
京から
平安京に
に移る過程で
で相良親王の
の謀反があっ
ったと
され、相
相良親王は廃
廃太子となり乙
乙訓寺に幽閉
閉され
たことを考えるとなに
にやら因縁が
がありそうです
す。
また桓武
武天皇陵は桃
桃山丘陵の上
上にあり、そ の場
所は後に
に秀吉が伏見
見桃山城を造
造営したとこ
ころでも
あり、さら
らには明治天
天皇の桃山御
御陵(写真2 )が造
営されて
ています。
平安時
時代に戻ると
と、桃山丘陵
陵は京都から 宇治
写真2
2:明治天皇桃
桃山御陵
に向かう
う道筋にあた
たっていて、源
源氏物語で有
有名な
宇治十帖
帖に語られる
る薫君や匂宮
宮はこの道を
を通って宇治
治の八の宮の
の別荘に大君
君、中君、浮舟を足し
げく訪れ
れたのでした。また、桃山
山丘陵の南側
側には巨椋池
池(おぐらいけ
け)という当時
時は琵琶湖に次ぐ大
きな湖が
があり、貴族たちが丘陵の中腹に別
別荘を構えて
ては、この池に
に舟を浮かべ
べて管弦の興
興に耽っ
たともい
いわれていま
ます。巨椋池は昔は鴨川
川、桂川、宇治
治川さらには
は木津川のす
すべてが流れ
れ込んで
いて、そ
そこから一本の淀川となっ
って大阪湾に
に流れていた
たそうです。今
今はすべて埋
埋められて稲
稲作地に
なってい
いて、そこを京
京滋バイパス
スが横断して
ており、インタ
ターチェンジに
に巨椋池の 名前が残っています。
昭和の初
初期までは巨
巨椋池は存在しており、 和辻哲郎の
の随筆にこの
の巨椋池は蓮
蓮池で遊覧舟
舟が行き
かってい
いると書かれ
れています。も
もともと浅い
い池だったよう
うで、秀吉も
も伏見桃山城
城を築くときに
に巨椋池
の大改修
修を行い、宇
宇治川の流れ
れを北に迂回
回させて、城のある山の麓
麓に引き込ん
んだそうです
す。このよ
うに調べ
べていくと、生
生活している場所が歴史
史の中から浮
浮き上がってき
きて、あたか
かもタイムスリ
リップして
体感して
ているような気
気がしてきま
ます。
日本三
三大酒どころ
ろとして伏見が
が名を上げて
ているのは、京都の
伏流水が
がやわらかい
い味を作って
ているからだと
といわれてい
います。
実際に飲
飲むと優しい
い甘さを感じま
ます。伏見に
には今でも11
1の名水
があり、スタンプラリーでこれらの
の名水めぐり
りをすると、最
最後に名
水の名前
前が入ったぐ
ぐい飲みをゲ
ゲットできます
す。私も 2 つゲ
ゲットし
写真3:名
名水スタンプラ
ラリー
でぐい飲み
みゲット
ました(写
写真3)。この
の水の味を覚
覚えると伏見
見のお酒が一
一段とおいしく
く感じられます
す。毎年 2 月から 3
月にかけ
けて、伏見の
の酒蔵が蔵開
開きをします((写真4、5)。
平木
写真4;
写
蔵開き―富翁
蔵
写真5
5:伏見の酒蔵
蔵 松本酒造
22
e-Crossrroads (No. 5, August
A
2015)
このとき
きはいくつかの
の酒蔵をはし
しごして新酒
酒を賞味することができま
ますが、昼間
間から飲むもの
のですか
常の中の旅の楽しみです
らいい加
加減酔っ払っ
ってしまいます
す。これも日常
す。
京都は
はまた季節ご
ごとの風物詩
詩が豊富です
す。京都三大
大祭の葵祭、祇園祭、時
時代祭は良く知られて
いますが
が、そのほか
かにも夏の精
精霊会の時期
期には先祖を
をお迎えして
てお送りする 行事がいろいろなお
寺で催さ
されます。京都五山送り火
火は最も有名
名(写真6)で
です。私が興
興味を持った のは六斎念
念仏踊りと
松上げで
でした。六斎
斎念仏は空也
也上人の念仏
仏踊りが発祥
祥とも言われますが、今の
の六斎念仏踊
踊りは盂
蘭盆会の
の行事として
て行われてい
います。小鼓
鼓と鉦を鳴らしながら、素
素朴な念仏踊
踊りを踊りま
ます(写真
7)。
写真6::
上:五山
山送り火(大文
文字)
下:五山
山送り火(舟形
形)
写真 7:六斎念仏
仏踊
さらに
に獅子と土蜘蛛のダイナミ
ミックな格闘
闘も見
ものです
す(写真8)。松
松上げは愛宕
宕信仰を現す
す聖
火奉納行
行事が由来と
と伝承されて
ていますが、今
今で
は精霊の
の送り火とし
しての意味合いが強くなっ
ってい
る大変素
素朴な風習で
です。
広場の
の中央に置か
かれた高さ 20
2 メートルく
くらい
の檜の大
大木の上に焚
焚き木を入れ
れた大籠があ
あり、
荒縄で結
結んだ松の木
木片(上げ松
松)(写真9)に
に火を
つけて、これを振り回
回して勢いを
をつけて高く放
放り上
げ、籠に
に放り込むこと
とを繰り返す
すというもので
です。
写真8:六斎念仏 :土蜘蛛と獅子
子
松の木片
片が火のアー
ーチを作って
て上っていくの
のは見
ものです
す(写真10)。
。
旅というのは知らな
ない世界に入
入っていって
て、新し
い発見を
をすることなの
のでしょう。海
海外に目を向
向けて
写真9:上げ松
いた若い
いころには日本と外国とい
いう対比概念
念の中
で、新しいものを見よ
ようということ
とが旅の目的
的でした。
ところが
が、日本にいて
ても自宅のあ
あるところとそ
その他
23
e-Crossrroads (No. 5, August
A
2015)
という対
対比概念で見
見ると、国内に
にはまだまだ
だ知らないこ
ことがたくさん
んあることを 、京都の生活
活から学
んだよう
うな気がします
す。京都から
ら東京に戻っ
ってきましたので、これか
からはさらに新
新しい発見に
に向けて
もっと国内を見て歩こうと思ってます。
写真10:松
松上げ(松の木
木片が火のア
アーチを作って
て上っていく)
<2015
5.7.5 記>
☆ ☆ ☆
24
e-Crossrroads (No. 5, August
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2015)
キューバ・ペルー気まま旅
平松 信実(第 23 期)
キューバの首都ハバナはカリブ海に面している。そのカリブ海沿いに走る幹線道路の海側の歩道
を風に吹かれながら歩いた。南国の陽射しが強い。歩道沿いに幅1mほどの堤防が続いていて、堤
防越しに白い砂浜と海が見下ろせた。砂浜やところどころにある磯で釣り糸を垂れている人がいた。
日中歩いている人はまばらだが、夕方になると、ここは堤防に腰掛けて海に沈む夕陽を見る恋人た
ちや家族連れで賑わう。
道路には色とりどりの車が流れている。昔の映画でしか見られない 1950 年代のアメ車のポンコツ
も走っている。道路の向こう側には古いコロニアル風の建物が傷んだまま残っている。修復中の建
物も少なくない。
2013 年 3 月、リタイア直後に雑誌社の編集長だった友人と中南米を旅した。
キューバとコスタリカは友人の思い出深い国で、彼の感傷旅行に私が同行した。彼は胃を切って
いて体力的に不安なしとせず、コスタリカから帰国する旅程だが、私はさらに足を伸ばし、単独でペ
ルーに行くことにしていた。
キューバ
キューバにはカナダ経由で入国した。キューバには、カナダ、ヨーロッパ、ラテンアメリカから数多く
観光客が来る。砂糖と葉巻以外に産業のないキューバにとって、観光は最大の収入源だ。我々2 人
もハバナ市街、トロピカーナの豪華なショー、ヘミングウェーゆかりのホテルやバー、『老人と海』の
舞台となった漁村など観光名所をひと通り訪れたが、友人がキューバに永住している日本人 K さん
を知っていたので、土地の人しか出入りしない場所にも案内してもらった。
ある午後、K さんの案内で街の公会堂へ行った。地元の音楽の集いがあるという。公会堂の向か
い側の歩道に 70 歳前後の白人系の年配者が数人タバコを吸いながら立ち話をしていた。
幕が開けると、何とその年配者たちが舞台に出て来た。控室で心準備することもなく半袖シャツの
まま、それぞれピアノ、ギター、コンガなど楽器の位置に付いた。演奏が始まった。実にテンポ良く軽
やかな音楽だ。あの「ブエナ・ビスタ・ソシアル・クラブ」の世界そのものである。
すると最前列に座っていた 80 歳代のカップルがよろよろと舞台前のスペースに進み出て、組んで
ダンスを踊り始めた。客席から「いいぞ、いいぞ」と拍手の渦が起こった。とまた一組、同年輩のカッ
プルが前に出て踊り始めた。歩き方は心もとないが、ダンスは様になっている。
25
e-Crossroads (No. 5, August 2015)
2 曲目からは観客が総立ちとなり、自分の席で踊る者、通路に出て踊る者ありで、公会堂全体が
踊りまくる。成り行きを見守っていた私の座席の横の通路で、太目の中年の混血女性(肌はやや白
め)が一人でダンスしていたが、私を見つけて手招きで誘う。通路に出てその女性と踊った。ダンス
の「振り」は適当だ。女性はニコニコ、勝手にスペイン語で語りかけてくる。
曲が変わると「マリア、面白い男がいるよ。あんたに貸してあげるわ」と言ったのだと思う。今度は
黒人の痩せた中年女性が私と向かい合って踊り始めた。曲に乗って踊っているうちに、徐々に足幅
を広げ、腰を前に出しながらスカートを少しずつたくしあげた。危ない「振り」だが、どうもこれが流行
っているらしい。すぐ近くに 5 歳ぐらいの可愛い白人の女の子が踊っていた。この子も足を徐々に広
げ、スカートをたくし上げている。これにはびっくりした。キューバの洗礼を受けたと言えようか。
その後、別の場所でパワフルで抜群に歌のうまい若い女性ボーカルのライブに行った。また、ハ
バナの東南東 800km にある古都サンチャゴ・デ・クーバに行き、小さいながらも有名な居酒屋風の
店やパティオ(中庭)での演奏やダンスを見て回ったが、音楽とダンスのレベルは高く、人々は陽気
で楽しかった。
キューバの公会堂での演奏風景
キューバは治安が良い
サンチャゴ・デ・クーバでは、夜になると公園に沢山の人が出て涼んだり、お喋りを楽しんだりして
いた。夜の街も少しも危険を感じない。
社会主義の国だからか、治安が良い。教育(大学や専門学校も)と医療がタダである。生活レベル
は低い。社会インフラが貧困、住居は狭く電気・水を欠く場合もある。物資も食料も十分ではない。し
かし、最低限ながら食料・日用品の配給があって、スラムも無いし、ストリートチルドレンもいない。
貧乏な国だが、キューバの平均寿命は 78 歳。乳児死亡率は 5/1000 人と先進国に引けをとらない。
ヘビースモーカーが多く、野菜や魚を余り食べない食生活なのになぜ長寿なのか?
まず、医療福祉が進んでいる。医療福祉の浸透で革命後に寿命が 20 歳以上も伸びた。何度も恋
をして何度も結婚する人が少なくない。初婚の相手と添い遂げる人は 15%程度。その他は平均 3
回ぐらい結婚する。離婚しても慰謝料がない。子供の教育がタダで配給もあるし、女性の就業率も
高いので、離婚が悲壮でないと聞いた。それだけ家族関係は複雑になるが、家族を大切にする。
26
e-Crossroads (No. 5, August 2015)
ほとんどの人が貯金はしない。というより貯金する余裕はないのだが、その日暮らしのその日を
enjoy しているように見えた。
コスタリカ
次に訪問したコスタリカは豊かな自然と多様な生態系で知られ、エコツーリズムが売りである。
我々2 人も、太平洋と大西洋を同時に眺望できるイラス火山の山頂に登ったり、ジャングルを流れる
河をクルーズしながらワニ、水鳥、川岸の岩に貼りついているバジリスク、木々を渡って行く猿の群
れなどを見て回った。また、イエスの受難を記念する聖金曜日の行事が行われており、古代ローマ
の扮装をした行列を見ることもできた。
イラス火山山頂より大西洋をのぞむ
聖金曜日の行列
ここで友人とサンホセ空港で別れ、私はひとりペルーに向かった。
ペルー
ペルーでは、首都リマから標高 3400m のクスコに飛び、そこから鉄道でマチュピチュへ行くことに
していた。
マチュピチュは観光客の人数制限をしていて、入場予約券がないと入場券が買えない。そのこと
を私は知らなかった。リマのホテルに入った直後、部屋に電話があった。女性の声で「私、旅行代理
店のポチャ。あなたマチュピチュ行くか?マチュピチュ行くなら入場予約券要るよ。私都合できる。」
ということで、ポチャと会った。でっぷりしたやり手おばさんのポチャはパソコンでマチュピチュの公
式サイトを開き、入場予約券が1枚も残っていないことを示して見せた。買うしかない。代金を払った
ところ、彼女は入場予約券ではなく、紙切れにサインしたものを私によこし、入場予約券はクスコに
ある彼女の旅行代理店のオフィスで受け取れ、と言う。不安に感じたが、仕方がない。
リマ観光を終え、2 日後、クスコに飛んだ。空港を降りたつ観光客にタクシー運転手が群がって来
た。「クスコ市街まで 30 ソレス」と連呼していた。無視してスーツケースを引きながら少し歩くと、20 ソ
レス、15 ソレスとだんだん値段が下がって行く。本来 5 ソレス程度であるが、余り遠ざかってタクシー
27
e-Crossroads (No. 5, August 2015)
がつかまらなくても困る。ひとり追いすがってきた男が「8 ソレス」と言うので、そこで OK と手を打っ
た。
男は 50 歳前後、小柄でチョビ髭をたくわえている。男に案内され、タクシーに行くと運転席に運転
手が座っている!男は私を後部座席に乗せると助手席に座った。走り出すと後ろを向いて、名刺を
差し出した。旅行代理業フェルミンとある。走行中、後ろを向いたままインカ遺跡巡りのバスツアー
の売込みを始めた。ホテルに着くと、その男フェルミンも一緒に降りて来た。時刻はちょうど昼時にな
っていた。
ホテルはパティオを囲む 2 階建で、客室は 2 階、ロビーと食堂が 1 階。こじんまりしたホテルであ
る。ロビーの受付に西欧的顔立ちの女主人らしき女性がひとり立っていた。チェックインを済ませ、
キーを手に持った私とフェルミンはパティオの椅子に腰かけてバスツアーの商談続行。女主人らし
い女性が笑顔でその様子を見守っていた。
その日の午後出発のバスツアーと、翌日はマチュピチュ日帰りなので、翌々日の終日バスツアー
とを申し込んで金を払った。それでクスコ滞在の 3 泊 3 日のスケジュールは全て埋まった。フェルミ
ンは「午後一番にホテルの中庭風ロビーで待っていれば、バスツアーの迎えが来る。」と言い置いて
去った。女主人に「彼を知っているの?」と訊くと、「知らない。気を付けた方が良いわよ。」とニッコリ
答えた。
部屋にスーツケースを置いて、すぐにポチャのオフィス探しにかかった。クスコ市街は狭い。人に
聞きながら場所を探し当てたが、何と入口が閉まり鍵がかかっていた!午後一番にバスツアーで出
掛けるし、翌日朝早くから鉄道に乗るので、マチュピチュ入場予約券が入手できない!お金が無駄
になるが、マチュピチュに着いたら、他にも闇券があるだろう。そう思いながら、急いで辺りの店で昼
食を済ませ、ホテルロビーで待っていると、バスツアーの迎えがちゃんと来た。
半日コースのインカの遺跡巡りはなかなか迫力があって見応えがあった。バスツアーから戻ると
19 時を過ぎてすっかり暗くなっていた。これで入場予約券は完全に無駄になったと思いながら、昼
に閉まっていたオフィスに行くと、何と開いていた! 女性店員がポチャのお客かと訊いて来た。信
用のおける連中だったのだ。入場予約券も無事入手できた。
翌朝マチュピチュ行き鉄道に乗った。席は 4 名単位のボックス席になっていて、私の隣は空席、
向かいの席には白人男性と黒人女性のカップルが座った。女性の顔立ちには西欧風が混ざってい
る。しばらく一緒に移動することになるので、話しかけた。
相手の英語がカタコトだったので、私がカタコトのスペイン語で話すと、これが大いに受けた。ベネ
ズエラから来た夫婦と判ったので、「ベネズエラ、オイル有ル、リッチ。ベネズエラ、ナニ魅力?イチ
バン?」と訊くと、女性が「mujeres」と答えた。「mejeres(女)?」と聞き返すと、「そう、私たち」とニッ
コリ笑ってウインクした。「その次は comidas(料理)ね」と言った。ラテンな夫婦を相手に怪しいカタ
コト会話をしながらマチュピチュに着いた。
28
e-Crossroads (No. 5, August 2015)
マチュピチュは確かに一見に値する。しかし、写真や
TV 番組で見過ぎたためか、実際に見ても余り感動は
湧かなかった。
クスコの周辺に幾つもインカの遺跡があり、これらの
遺跡群は新鮮で、インカ帝国の偉大さ感じさせた。例え
ば石造りの神殿コリカンチャ。太陽神を祀る神殿の石壁
は分厚く金が内張りされ、芝生の庭園には黄金製のトウ
モロコシが稔り、黄金の等身大の牧夫やリャマの像が並
インカ遺跡:マチュペチュの段々畑
んでいたという。
インカ帝国は、現在のコロンビアからチリまで南北 4000km に亘る広大な帝国だった。最後の王
アタワルパには 8 万の軍勢がいた。ピサロはわずか 180 人の兵を率いてインカ帝国にやって来た。
余りの数の劣勢にピサロの兵士は怯えたが、いざ戦闘が始まると、馬で駆け、銃を撃つピサロの兵
の前に、インカ兵は蹴散らされ、逃げまどい、次々と殺戮され、アタワルパは生け捕りにされた。身
代金として山のような金銀を差し出したが、あえなく処刑され、1533 年にインカ帝国は滅亡した。コ
リカンチャの石壁の黄金は剥がされ、黄金の像とともにスペインに持ち去られた。神殿は教会に改
修された。
ペルーには数多くのインディオがいる。貧しいペルーのインディオが、栄華を誇った民族の末裔と
はなかなか信じられない。
ペルー音楽の物悲しい響きに、民族の悲劇がそこはかとなく漂って聞こえた。
<2015.7.9 記>
☆ ☆ ☆
29
e-Crossroads (No. 5, August 2015)
生まれ故郷への旅(中国・長春)
(1990 年 5 月 19 日~20 日)
堺 昭冶 (第 23 期)
私は 1939 年、当時、満州国政府・国務院の官僚であった父の関連で満州国新京特別市(現中
国・吉林省・長春市)東光区至善路の第 5 代用官舎で生まれました。
敗戦後 1 年経った 1946 年 7 月 24 日の満 7 歳の誕生日に、5 寸釘をドアに打ち込み、同じ官舎
の皆さん達と隊列を組み、父・母・姉と 4 人で日本への引き揚げの途に着きました。そのシーンから
後は鮮明に記憶しておりますが、それ以前は記憶がおぼろげです。
当時、私は東光小学校 1 年生で、ただし終戦と同時に日本人の立派な学校は現地中国人(満人)
の学校と取替えられ、汚いぼろ校舎に 1 学期 15 日間だけ通ったそうです。
小生は薬の入った小さなリュックを1つ背負わされただけでしたが、父母の郷里の大分県中津市
に着くまでの約 2 カ月に亘る無蓋貨車・馬小屋泊・貨物船・佐世保での収容所(伝染病発生)等での
引揚げの緊張・恐怖等で、それ以前の記憶は普通の人に比べて少ないようです。(記憶と思う大部
分は親等からのその後の伝聞?)
子供のころから一度行って見たいと思っていましたが、1990 年 5 月に中国(北京・瀋陽)に出張
(会社&中国政府関連)の機会があり、その間に運よく土・日が挟まったので私用で東北地方(長春)
行きを希望すると、通訳つきで許可されました。往きは旧南満州鉄道で瀋陽(旧・奉天)から長春ま
で、無蓋貨車での引揚げコースを遡り、1 泊して旧宅を探し、飛行機で北京に戻るという忙しい旅で
したが、本当に心に残るセンチメンタル・ジャーニーでした。
当時は、夜中に何処とも無く停車した無蓋貨車から出て、いつ発車するか分からない合間のトイ
レ時間の怖さはいまだに忘れられません。取り残されたら死に繋がるので集団で緊張感がはしるも
のでしたが、1990 年のときは、そこを優雅な特急列車(小生は特等車および食堂車)で、常時流れ
る中国風の音楽を聴き、周りの広大な原野・畑を見ながらの 4~5 時間の旅は余計感慨深いもので
した。
着いてすぐ昔の中央官庁の跡地等を見学。特に父親の勤めていた国務院は現在吉林大学基礎
医学院となっていますが、終戦当日から落着くまで家族で避難した場所で、関東軍もここで武装解
除、その間小生は大勢の兵隊さん達に大いに可愛がられたと聞いています。その人たちは後にシ
ベリアへ送られ辛酸な体験をされたのかと思うと悲しくなります。
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e-Crossroads (No. 5, August 2015)
翌日は朝からいよいよ生家探し。頼りは母から預かった玄関の写真(写真①参照)と当時同居し
ていた叔父にその前で抱かれた小生の写真の 2 枚のみ。「至善路」という地名もあり、行けば何とか
なると思っていたが、道路は舗装されていて狭い等イメージが全く違う。
近くにいる人に聞くと終戦時とは住人が全て入れ替わらされていて全く分からない。「警察で聞け
ば」というので行くと、写真の叔父と小生が同じかと鋭い目で見られる。抱かれている幼児が小生と
説明する方に手間がかかり、ここではないかと紹介してくれたところは全てハズレ。
ただ東光小学校はすぐ分かり、現在は共産党の青年教育施設になっていました。かくなる上は自
力あるのみと思い、至善路の官舎の先から少し下り坂だったという微かな記憶で歩いて行くと、それ
らしきところが見つかりました。道路を挟んだ前が満人街(一戸建て)だったと記憶があったが、これ
はすでに高層アパート群に立て替わっていました。
鉄筋 2 階建てのアパート群だった日本人官舎地区は当時は二重窓、集中暖房施設のある最新
鋭の建物だったが、古くなり煉瓦などは全て取り外され廃墟同然。周りの風景からもひどくみすぼら
しいスラム街のように見えました。聞くと今年中に取壊されて高層アパートになるとの事。
それでも当時の我が家に今でも 4 家族が住んでいる、というのでびっくり。もしもの時にと思い日
本からのお土産を1個用意していましたが、中を見せてもらう気にもなりませんでした。(写真②参
照)
② 1990 年 5 月
① 1939 年正月
写真と見合わせ、かつ取付けが反対になっていたがドアには 5 寸釘跡もあり、裏に回っても、間
の畑が取壊した煉瓦などで住居?・豚・鳥小屋?スペースになっているだけで間違いなくここだと確
信できました。
帰って存命だった母(当時 81 歳)にビデオ・写真で説明しましたが、それから心なしか母は満州の
話をあまりしなくなったような気がします。良き?想い出を壊してしまったのか、現実を認めたくなか
ったのか分かりませんでしたが・・・。
ただ、子どもの目線で見ていたものが如何に違うか、広かったと思った階段は狭く、もちろん広い
通りを挟んで満人の子と「ノ-テン・ホワイラ(馬鹿)」と言いあって喧嘩していた道も狭かったんだ、
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e-Crossroads (No. 5, August 2015)
と良く分かりました。
その後定年退職し、現在の会社(株式会社シー・アイ・
シー)に移って、縁あって 2 回(2003 年 9 月と 2009 年
5 月)長春・ハルピン・大連等に出張しましたが、そこは
立派な下駄履き高層マンションに変貌していました。
(写真③参照)
最初は信じられず何度も会社の長春支社(別会社組
織)経由で確認した結果、その一角に組み込まれている
のは間違いないということで、今は思い出の影さえ残って
ないが長春には何か淡い故郷を感じます。
③ 2003 年 9 月
これが縁で現在「日本長春会」の会員にもなっていますが、当時中学生以上のご老人方はともか
く、東光小学校の名札だけ付けた小生は全く話が合わず、このところ欠席がちです。
さらに、最近安保法案が国会で議論されていますが、この恐怖の引揚げを子供の頃体験した小
生としては、国民を最小限守れる軍備は絶対に必要だと思います。
少子化による若者の減少かつ愛国心の変貌等、それに平和ボケした“何でも反対”の大人たちに
日本の将来の不安を感ずる今日この頃です。
<2015.6.13 記>
☆ ☆ ☆
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e-Crossroads (No. 5, August 2015)
人生初の海外旅行
柴 英夫 (第 23 期)
今を去ること 39 年前の 1976 年、大学 4 年生にし
て初めて海外旅行をした。その年 8 月初旬から 3 週
間友人と二人でデンマーク、ドイツ、オーストリア、スイ
ス、スペイン、イギリス、フランスを訪れたのである。
(図 1 の古文書のような地図に太線で記載)
出発まで
大学生協企画の「ヨーロッパ自由交歓」を申し込んだ。
学生向けの安旅だけなので、行きと帰りの飛行機だけ
が予約され、欧州の中はどうぞご自由にというツアー
であった。向こうでの身分証明用に国際学生証(図 2)
も作った(溜息が出るほど若いです)。
旅の友は、「Where & How」(「1 日 10 ドル」の生協版)、
西欧州内の鉄道乗り放題の「ユーレイルパス」(40 年前
なのに 45,000 円もした!)とバンクアメリカの旅行小切
図1
手だった。
図2
デンマーク
コペンハーゲンで欧州の大地を踏んだ。ここから「ハイ、皆さん気を付けて、パリで会いましょうね」
と各自欧州に散っていったのであった。我々は取りあえずコペン見学から始め、有名な人魚姫の像
も見に行ったが、見た瞬間「何だ、これは!」。世界三大がっかりの一つとは後で知ったが、期待し
た方が間違っていたと反省する。残りの二つ、ブリュッセルの小便小僧とシンガポールのマーライオ
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e-Crossroads (No. 5, August 2015)
ンも後日見る機会があったけれど、それぞれ期待を裏切らないものだった。
ドイツ
デンマークからドイツのマインツへ行き、生のジャガイモを冊切りにしたものを食べてドイツでもお
いしいものがあることを発見した。その翌日ライン川下りを楽しんだが、ローレライの岩は人魚姫に
続くショックだった。河船がローレライのところにさしかかると、例のメロディが流れ、観光名所と言う
のは洋の東西を問わず同じような趣向をするものだと妙に納得したことを覚えている。
オーストリア
ドイツからは電車でウィーンまで行った。ウィーン駅構内で地べた
に座っていたらすぐ横のごみ箱に老人がやって来て本を捨てようと
したが、我々を認めるとその本を我々に差し出してくれた。どうも長
髪 T シャツの我々を完全にヒッピーと思ったみたいだが、有難く頂
戴した。昔の資料を捜したら、その本が見つかった!(図 3)日本ま
で持ち帰ったものの一度も目を通していないままだったので、これか
ら読んでみようと思う。
図3
スイス
ウィーンからは友人と別れて 3 日程一人旅になった。国内でも一人旅など一度もしたことがない
のに、遠く離れた欧州でよくやったものと今となれば思う。友人はアムステルダムに行くことを望んだ
が、チューリップや運河を見たい訳でないことは何も言わなくともわかっており、潔癖な私はストイッ
クなカルバンのスイスを選んだ。 チューリッヒで泊ったのだが、すっかり忘れてしまっており、7~8
年前アステラス時代に訪れた時は初めて行ったと思いこんでおり、皆にもそのように言っていた。翌
日のジュネーブの印象が強かったからかと思うが、悲しいことである。
ジュネーブでは市中を適当にぶらついたが、カルバンのレリーフのある丘の公園まで行ったとこ
ろ、中学生くらいの女子達が行進しているのに遭遇。その中にいたスラットして青い目の女の子に
魅せられて丘から市の中心までずっと追いかけた。北欧系と思うが、10 代前半頃までのあちらの女
性の中には飛んでもなくきれいな人がいるものである。その隣に我が同胞らしき女子もいて、二人
のコントラストの妙も楽しめた。
スペイン
ジュネーブからバルセロナに入ったけれど、サグラダ・ファミリアよりも下町の大衆食堂で食べた
深海魚(多分)のフライ、口を大きく開けてちょっと恐い面相、の方が記憶に残っている。
バルセロナからマドリッドまで夜行で移動し、友人と再会。スペインは未だフランコ時代で戒厳令
が敷かれていた筈だが、ものものしさは感じなかった。プラド美術館の周りも治安がよかった。マドリ
ッドは如何にもラテン的で私にはピッタリだった。バルで食べたアンギラスのオリーブ油炒めは今で
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e-Crossroads (No. 5, August 2015)
も忘れられない。ただ、現地の女性と仲良くなっている人が、スペイン女性はとても嫉妬深いとこぼ
していた。他の女性を見るだけで手が飛んでくるといっていた。その後スペイン女性と親しくなる機
会がなかったので、本当かどうかわからない。
マドリッド滞在中一人でゼコビアまで足を伸ばした。ゼゴビア駅は都市の中心から大分外れてい
たが、鉄道建設の時に地元の反対があったのだろう。こういうのは洋の東西を問わないようだ。ここ
は白雪姫伝説発祥の地らしく、そのお城も見学したが、白雪姫のイメージを掴むのは難しかった。む
しろ塔の上から見た四方の荒れた平原が記憶に残っている。また、ローマ時代の水道跡もあり、そ
の上を歩いて往古をしのんだものである。こんな建造物を造るとはローマ帝国はやはり只者ではな
い。
イギリス
マドリッドからは再び一人になり、ベルギーのオステンドからドーバー海峡を渡り、ロンドンへ行っ
た。ベルギーで乗り換え待ちをしている時、20 歳前後と思しき白人の男性が階段に座る私をうつろ
な目でじっと眺めていた。そういう趣味はないのだけれども、と思っていたら私のところまで来て一言’
Water’。私ではなく私の手元にあるペットボトルの水が欲しかっただけ。うつろな目は喉が渇いてぼ
んやりしていたせいだろう。快く渡すとボトルからぐい飲みして礼も言わず去っていった。一瞬変な病
気持っているんじゃないかと思ったが、結局気にせずその水を飲み続けた。AIDS はまだ騒がれて
いなかったが、もし後年なら渡すのを躊躇ったかな。
ロンドンは憧れの大英博物館(特にアッシリア建築)も見たが、
Beatles ファンの聖地かの Abbey Road を捜して、ミーハーらし
くあの横断歩道を渡ってきた。丁度アルバム撮影と同じ頃だった
ことになる。裸足で渡れば面白かったが、そこまでの勇気はなか
った。
ロンドン大学のチェルシー寮が夏休み中学生不在で開放され
ているので、ここに泊まった。最初取りあえず一泊で申し込んで
たがもう二泊することにし、ベッドメーキングにきた二人の女性に
も話したが伝わらない。それでも一人は理解して相変わらず理
解していないもう一人に向かい、「ヒーウィル スタイ ツダイ」と
言う。What’s ‘to die’?と思ったが、He will stay today と分
かった(図 4 はその時の領収証)。
図4
英国料理と言えば Fish & Chips。Take out のお店で買って立ち食いをした。使い古された油であ
げられごわごわの新聞紙に包まれた如何にも伝統庶民料理。お世辞にも美味しいとは言えないが、
こういうものを食べているイギリス人なればこそ、世界帝国を築けたのだと納得。ただ、6 年後に戻
ってきたロンドンはハンバーガーショップに席巻されていた。パブやレストランでお皿に載ってナイフ
とフォークで頂くのは今でもあるけれど、あの庶民的なスタイルの店はその後見ていない。このお店
中国系の人がやっていたが、注文すると何やら話し始める。腕時計をさして「ティンミニッツ」とか言
っている。錫(tin) がどうしたと思ったが、’ten minutes’「 10 分待て」と言っていると察し、OK と返
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e-Crossroads (No. 5, August 2015)
事した。でも、何故コクニーだと言っていることがわかるのだろう。
フランス
最終地のパリでは、ルーブルを駆け足で見て回った。モナリザは言うまでもないが、ルーベンスの
絵がやたら見た記憶がある。また、パリでは友達(女性)に頼まれていた Mitsuko という女性化粧品
を買った(今もあるのでしょうかね?)。お土産らしいお土産はこれくらいだが、彼女に大変喜んで貰
えたのが何よりだった(美しくなったかは秘密)。
パリからブリュッセル経由で帰国したが、モスクワ空港で添乗員が他所から来たお仲間に「今回
は一人集合場所に来なかった」と言っていたので、それなりにリスクのある旅だったのかも知れない。
それにしても「笑いながら言うかな?」と思ったものである。
今回『Where & How』や地図などは見つかったものの写真の類いは何度探しても出てこなかった。
インディアンの顔がプリントされた T シャツを着て「父です」と言っていたりしていたのだけれど、その
写真も出てこない。度重なる引越でどこに行ったかわからないのが残念。最後に、この旅行の興奮
もあり私は翌々年卒業の道を選んだが、9 月に再会した友人はリクルートカットに身を包み、さっさと
就職を決めた。彼の頭の切り替えの速さに驚いたのも今となっては懐かしい話だ。
<2015.6.4 記>
☆ ☆ ☆
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e-Crossroads (No. 5, August 2015)
遊行の旅
大東 敏治 (第 24 期)
(高校同期会で作成したTシャツ)
春と秋の各 3 ヶ月に一度の割合で、高校の同期生数人で旧東海道を歩いています。卒業後 47
年が経過し、誰からともなく四国松山の母校まで歩いてみようと言い出したのです。昨年 9 月に日本
橋をスタートし、無理のない程度に宿場を区切って、現在は沼津宿まで到達しています。
戸塚宿から平塚宿まで 23 キロ歩いた時の報告です。
戸塚宿本陣跡に9時半集合。澤邊本陣跡の標柱は、「澤邊」の表札がかかる民家のこじんまりと
した庭に立っています。本陣跡の敷地に子孫の住まいが残っているのは珍しく、表札が数百年の時
の流れを静かに表していました。「とつか」の地名の由来となった冨塚八幡宮には芭蕉の句碑があ
ります。
「鎌倉を生きて出けむ初松魚」
鎌倉で水揚げされた初鰹が、生魚のまま戸塚から江戸に運ばれていたことがわかります。戸塚
の坂と呼ばれた大坂を上りきったところで国道一号線と合流し、大学駅伝の戸塚中継所があります。
現在の東海道を走ったり車中からではあまり気づかないことですが、左手のマンション群の合間か
ら戸塚の市街地が見下ろせます。
松並木が残る街道筋には 江戸から11番目にあたる「原宿一里塚跡」の立札。5 間(9 メートル)
四方、1 丈(3 メートル)の塚台に立つ榎の木陰が旅人に安らぎを与え、付近に茶店があって原宿と
呼ばれるようになったようです。 その向かい側には全国 1300 社の富士信仰を旨とする浅間神社、
少し先には全国 2500 社の諏訪神社があります。
旧東海道は国道を離れ、左に折れて遊行寺坂に入ります。歩いて大坂を上り、遊行寺坂を下るこ
とによって、一時間ほど歩いた平坦な道が戸塚山の高台であったことがわかります。時宗総本山遊
行寺の宗祖である一遍上人は伊予で生まれ、遊行の旅に出て 51 歳で客死しています。境内の大
銀杏は樹齢 300~700 年と定かではありませんが、700 年とすると上人没後の世の中の変遷をず
っと見てきたことになります。
藤沢山の坂を下りきったところが遊行寺の門前町であり、江戸から 6 番目の宿場、藤沢宿です。
午前の 2 里 2 時間だけでも現代に息づく史跡の発見に満ちています。午後の 3 里半、ましてや大坂
(高麗橋)までの 139 里、更にその先となると・・・
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e-Crossroads (No. 5, August 2015)
期待に胸膨らむ新人前期高齢者の遊行の旅です。
時宗総本山遊行寺の大銀杏
昼食は藤沢宿さつまや本店の海鮮丼
<2015.7.3 記>
☆ ☆ ☆
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e-Crossroads (No. 5, August 2015)
ぶらり途中下車の旅
朝倉 潤一 (第 25 期)
毎週土曜日の朝 9 時 25 分から、関東地方では日テレで「ぶらり途中下車の旅」という番組が放送
されています。毎週、都内か近県の路線電車に乗り、ところどころの駅でぶらりと降りては駅周辺を
歩いて、お店に立ち寄ったり、人に出会ったり、思いもよらない発見をしたり、人情に触れたりする番
組です。
我が家では年に二度程度は温泉などに泊りがけで家族旅行をしますが、それはそれとして、週
末に時間があれば、私なりの“ぶらり途中下車の旅”をすることも楽しみにしています。朝起きてそ
の日の気分でぶらりと出かければ良いので、ホテルや飛行機の事前予約といった面倒はありませ
ん。コンパクトカメラと地図(私は昭文社の分県地図をもって行きます)、その日のお天候次第で折り
たたみ傘や汗を拭うタオルをリュックに入れて出かけます。靴は歩きやすいウォーキングシューズに
します。バスや電車に乗るため SUICA、PASMO は必需品です。都内をぶらりとするときには、都営
バス・地下鉄の一日乗車券を買います。一枚 700 円で都営バス、地下鉄、都電荒川線、日暮里・舎
人ライナーに一日乗り放題ですので、これはお得で便利です。
普段、冷暖房の効いた会社と自宅の往復だけですと季節感がなくなってしまうのですが、ぶらりと
街中や田園地帯を歩いていますと、四季折々の風景を楽しむことができます。湘南や外房の海、埼
玉や茨城の見渡す限りの田園の景色、横浜や都内の美しい街の景観、いつも新しい発見がありま
す。大抵は息子と一緒に出掛けて家内は留守番です。昼食にぶらりと立ち寄った食堂や飲み物を
買った商店で暖かい人情に触れることもあります。
水元公園(東京都・5 月)
森林公園周辺(埼玉県・4月)
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e-Crossroads (No. 5, August 2015)
年齢とともにハードなスポーツはできなくなってきましたが、こうして歩くことはメタボ対策、さらに
は健康増進の効果もあるかなと思っています。月に1、2度は、このぶらり旅を今後も続けていきた
いと思っています。
<2015.7.1 記>
☆ ☆ ☆
40
e-Crossroads (No. 5, August 2015)
久しぶりの台湾旅行
(言葉が通じないとやはり・・・)
片柳 雄三 (第 27 期)
30 代半ばに出かけて以来、つまり 30 年ぶりくらいで台湾旅行に行きました。
2012 年までは、大体毎年のように、夫婦でツアーの海外旅行に行っておりましたが、家内の股関
節の痛みから中断していました。手術後のリハビリを経て、回復を確認する旅行として、先ず近場で
練習ということで、昨年 7 月に 4 泊 5 日の旅に出発しました。
今回の旅は、私の会社で同期だった長年の友人が企画して、
彼の息子とわれわれ夫婦という 4 名の組合せのプライベート旅行
でした。彼は、中国語を習い、台湾にも近年何度か滞在し、また、
2 人の共通の友人(これも元会社の同期で、現在台湾在住)が
ホテルやレストラン、観光名所などの選択の相談にも前もって対
応してくれたため、言わば「大船に乗って気楽に」楽しめるコンディ
ションのはずだったのです。
実際に、旅の前半=台北では、故宮博物院や龍山寺・110 タワー・
九フンの名所、昼・夜のレストラン(豪華なフカひれスープなど)にお
いて、予定通りエンジョイできました。九フンの狭い坂道では、家内
もやや苦労しましたが、暑い中無難に見て回りました。
台北―観光地九フンの狭い通路にて
その後、台湾新幹線に乗って、後半の台南方面へ進みました。(ちなみに、新幹線は日本と同様
の車両で乗り心地良く、シニアは「料金半額」の待遇です!) 新幹線の終点=高雄からは、先述の
共通の友人の義兄が運転するタクシーを貸切とし、台南の名所・レストランを回り、宿泊するリゾート
地=懇丁へ向かいました。
問題はこのへんからでして、この義兄の話す言葉は、完全な台湾南部の言葉で、中国語を習っ
ている同行の友人の話す中国語(北京語ベース)は全く通じず、もちろん英語もダメ。態度もぶっき
らぼうで、名所の説明もできないし、レストランでもメニューの中身が見当つけられずに、店の主もた
だ「身振り手振り」のやりとりでした。(ただし、海鮮料理の魚・貝類は活きがよくて、出てきた料理は
安くて美味でした。)
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e-Crossroads (No. 5, August 2015)
そして、義兄氏のタクシーで宿泊するリゾートホテルに到着して
から、「悶着」が発生しました。その翌々日朝の便で、高雄から成
田へ帰国する予定(1 日 2 便しかない)ですが、問題は朝のホテ
ルからの足(距離は約 100km)の確保です。義兄氏は、1 日貸切
で味をしめたせいか、朝の迎車も自分が来る、とどうやら話してい
る模様。(言葉自体は不明。ただし、料金は常識からも高いこと、当
方も承知。)われわれは、義兄の 1 日の応対にあきれて、また値段
もふっかけていると判断し、結局迎車を断りました。彼は、粘ったあ
げく不満たらたらで帰っていきました。
とはいっても、ホテルから空港へのタクシーは、指定した日時に確
保できるか、フロントの宿泊係(南部台湾語と片言英語)への照会で
ははっきりせず、また、ちょうど夏休みに入った直後でフロントは次々
高雄―蓮池潭にて
にくる家族旅行客でごった返し状態(故宮博物院も同様)のため、ゆっくりロビーで相談できる雰囲
気ではありませんでした。何しろ、ここ懇丁は有力リゾート地ですが、台湾在住の友人も実際には行
ったことがない土地で、日本人は先ず見かけない状況だし、決められない不安が募り、皆急に疲労
感を覚えました。(リゾート宿泊プランに無理があったかも・・・という想い。)
しかし、このへんが知った者同士の旅行で、その場での結論は棚上げして、夜の街中へ繰り出し
ました。何しろ、緯度からしてハワイと同程度の南国で、明るく熱い夜でして、街道沿いに屋台がず
らーと軒を並べています。ホテルに入る前から目についていたので、朝の便のことは気になりつつも、
興味深々、お祭り見物のように出かけてみました。
実は、このブラブラ歩きが幸運でした。汗にまみれながら、右や左の屋台を覗いていたら、何とそ
の間に、「高雄―懇丁」ネオン表示のあるタクシーを発見! 車にいた男に声をかけて(英語)みたら、
「OK。早朝でも割増少々で大丈夫」!!
これはしめた、と喜んで飛びつき、念のため運転手本人だけでなく、その管理者のような者にも値
段と時刻を交渉し、ホテルと氏名・電話のメモ、手付金を渡して、目出度く「交渉成立」、ほっと一安
心しました。翌日は、この問題がほぼ解決したと思い、のんびりプールで過ごしたりできました。
当日早朝も若干緊張(すっぽかしの恐れ)してホテル前に待機しましたが、時間通りタクシーは到
着(運ちゃんは一昨日の男)し、無事に高雄へ出発、途中ずいぶん飛ばしてくれました。後から聞け
ば、高雄との間を往復するタクシーは普通にあるとのことで、義兄氏の申し出を断って正解だったこ
とがわかりました。
それにしても、やはり「言葉」が通じないと、あっと言う間に不安・不便になるという当然のことを再
認識した旅でした。
<2015.6.2 記>
☆ ☆ ☆
42
e-Crossroads (No. 5, August 2015)
ギャンブルの旅
岡本 守由(第 28 期)
(第1話)
MBI の研修でフロリダに行った時のことです。
研修の休みの日、さぁ何をしようかなと考えていた時「カジノクルーズ船」と書いた看板を見つけま
した。「ようし、これだ!」と即決です。海外出張に 100 回近く行くうちに、勝負事の好きな私は、すっ
かりカジノの魅力に取りつかれていました。
早速友人と二人でこのカジノ船に乗り込みました。私は乗ると同時にカジノにまっしぐらです。友
人はデッキに。私はカジノではルーレットonlyです。そして乗船してから、ルーレットをずーっとしてい
たものですから、素晴らしいフロリダの海を見ることもなく、当然食事もしませんでした。
カジノを始めてから 4-5 時間経過し、下船が近づいて来た頃、船員が私の所に近づいて来まし
た。
船員 「船長が呼んでいます。すぐに船長室に来て下さい」
私(びっくりして) 「なに、船長が呼んでいる。私は何も悪いことはしていない。なぜ船長室に行く
必要があるのか。私は行かない」
船員 「そう言わずに。船長が呼んでいるのです。ぜひ来て下さい」
私
「しかたないなぁ。わかった。行くわ」
船長 「よく来てくれました。あなたにあげたい物があります。それはこの船の”永久パスポート”で
す。これからいつもフリーでこのカジノ船に乗って下さい」
私
「私はこのフロリダに今後二度と来ないと思いますので、パスポートは要りません」
船長 「まぁそう言わずに、もらって下さい。お願いします」
私
「わかりました。そこまで言われるのならもらいます」
と言って、永久パスポートをもらいました。しかし、これからが本当の人生です。人生何が起こる
かわかりません。
船長室から出てくると、今度は 70 歳前後の御婆さんが私に近づいて来ました。
御婆 「アナタ、何かもらったでしょう」
(なぜ、知っているんだ。いったいどうなっているんだ、この船は。)
私
「永久パスポートをもらったよ」
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e-Crossroads (No. 5, August 2015)
御婆 「私にそれを売りなさい」
(そうだこの御婆さんは、私の隣でルーレットをしていた人だ。 私はここへ来ることはないのでこ
のパスポートを御婆さんにあげよう。)
私
「私はもうここへは来ないだろうから、このパスポートをあなたにあげます」
この時の御婆さんの喜びようたら、それはそれはもう表現の仕様がありませんでした。
しかしなぜ、船長が永久パスポートを私にくれたか未だに不明です。
カジノでは負けてはいないのに!!
(第2話)
次はカジノで大勝ちした話です。つい最近、今年(2015 年)の 4 月の話です。
米国のクルーズ会社「ロイヤル・カリビアン社」の
「ボイジャー・オブ・ザ・シーズ(13 万トン)」で 6 日間
のクルーズの旅に出かけました。妻は船に酔うから
行かないというので、友達を誘って出かけました。
東京発で、博多・済州島行です。13 万トンですから、
非常に大きなクルーズ船で、船上にはシアター、ス
ケートリンク、プール、それに私の好きなゴルフ(パ
ターゴルフですが)、ランニングコース、トレーニング
ジム等があり、当然本格的なカジノもあります。
ボイジャー・オブ・ザ・シーズ
このカジノでよもやのことが起こるのです。
食事はフルコースもあり、非常に楽しみにしていたのですがそれほどでもありませんでした。それ
より「一日飲み放題券」があったのが大歓迎でした。約 2,500 円で、酒の好きな私には非常に格安
です。朝の食事で、素晴らしい海の景色を眺めながらこの飲み放題券で一献です。ワインを飲みな
がら、時間はゆっくり流れます。まさに至福の時間です。
ゆっくり時が流れるのはここまでで、さぁ活動開始です。 まずはランニングです。一周 200 メート
ルのランニングコースを 20~30 回走ります。フルマラソンを走る私にとってこれぐらいは軽いもので
す。当然、ランニングコースは屋外に作られていますので、海を見ながら走ります。最高です!
次にトレーニングジムに移って、健康運動です。筋トレからストレッチと約 1 時間充分体を鍛えま
す。そして SPA です。温泉好きな私にとっては、この上ない時間です。充分汗をかきます。
次はなんですか。そうです、ビールです。最高です!ビールで乾杯です。ビールを飲めるバーが
あちこちにあるのです。ここでも「一日飲み放題券」が活躍します。クルーズ船は至れり尽くせりで
す!!
いよいよカジノです。冒頭にも書きましたが、外国船だけあって本場のカジノと遜色のない本格的
なカジノです。1 日目、久しぶりのカジノで興奮気味です。最初 1 時間ぐらいはやはり勘が戻らず負
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e-Crossroads (No. 5, August 2015)
けました。ところが中頃からつきはじめ、終わるころには相当勝ちました。ようしこれはいける。明日
も勝つぞ。
2 日目、最初からついており勝ちました。3 日目、こんなに勝つのはおかしいぞと思いながらやは
り勝ちました。
4 日目に負けなければいいがと思いながら床に就きました。しかし 4 日目 も勝ちました。そして 5
日目も勝ちました。こんなに 5 日間も続けて勝つのはカジノ歴が長い私でも初めてでした。本当につ
いていました。いや実力かな?
このカジノの勝ちで、今回のクルーズの費用はほとんどゼロとなりました。こんな素晴らしいクル
ーズはありませんでした。
これ以上書くと皆さんに恨みを買うことになりますので、これでペンを置きます。
又行くぞ!!。
ビールで乾杯!
<2015.7.13 記>
☆ ☆ ☆
45
e-Crossroads (No. 5, August 2015)
バンコク旅行大失敗の話
山内 眞也(第 29 期)
お恥ずかしいお話ですが、皆さんに少しでもご参考になればと思い、掲載します。
7 月 15 日、2 カ月前から計画していたバンコク旅行の日。女房と関空に 3 時間前に着いたら、乗
る予定だった LCC の SCOOT TZ29 のフライト情報が掲示板にありません! 出発ホールの
Information で聞いたら、「そのフライトは今、飛び立ちました」とのこと。この時点で、仰天です。(「な
にこれ、映画みたい」と正直思いました。)
バンコクからの帰りのフライト出発時間が変更されたことはメールで連絡があり、プリントして持参
していましたが、行きが 3 時間早くなったという変更はこの時点で全く知りませんでした。
関空の Information の方は実習生の方でしたが、SCOOT(スクート)社の Tokyo Office と一層懸
命にコンタクトをしてくれました。このスクート Tokyo Office の日本語があまり上手ではない人に聞く
と、私の方で出発時間変更の連絡メールを開封した証拠があるから、知らせているとのことでした。
いくら交渉しても、代わりのフライトも日にち変更もできなく(相手は「私には権限がないから決め
られない、すべてシンガポールの本社が決めている」とのこと)、二人とも出発時の高揚感が相当の
ガッカリ感に変わり、意気消沈して自宅に戻りました。幸い、ホテルや観光旅行のアレンジは全て無
料でキャンセルできました。(旅行保険だけはそのままになりましたが。)
帰ってメールをよく調べたら、予約からほぼ 1 カ月後の夜中に英文のメールにてバンコク出発の
変更が先に来ていて、その 4 分後に関西便の変更のメールが確かにありました。同じ(ような)メー
ルが来ていたので、PC のエラーと思っていました。
しかしながら、出発を 3 時間も早くするような非常に重要な情報は単にメール連絡ではなく(それ
も開封メッセージがあるから周知されたというロジック)、直接電話で乗客に確認するものではない
かと思います。緊急の連絡のためにも個人の携帯電話の情報も入れているわけですから。また、出
発 6 日前に旅行確認のメールがありましたが、メインは機内食の予約は必要か、とか、ホテルの予
約が必要かとかいう、案内でした。後で見ると、出発時間は確かに変更された時間になっていまし
たが、かなり小さな字でした。「出発時間が変更になりました」とかの注意書きは一切ありませんでし
た。また、出発直前の案内は、アップグレードの話(有料)のみでした。
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本件でシンガポールの本社から私に直接電話をくれるとのことでしたが、結局、音沙汰なし。その
ために、英文でクレームのメールを出しました。これも返事がないので、別途連絡先を見つけ、メー
ルを添付しました。こちらは受け取ったという連絡はありましたが、今のところ返答はありません。
これまで 40 年間で通算で 200 万マイル以上も飛行機に乗りましたが、出発時間の大幅変更に対
するこのような対応は初めてです。消費生活センターにも相談しましたが、確かに、出発を 3 時間早
くするような重要な情報はメールだけでなく電話等で直接確認すべきとの認識でしたが、「キャンセ
ル、変更認めず」ということなので、帰りのフライトの返金かバウチャー等での旅行券を入手できた
らベストではないかとのことでした。
このスクートのバンコク行きの価格は「関空乗り入れ記念価格」ということで、一人片道 8,000 円
でしたが、座席指定料金、預け荷物料金等で、結局、二人で往復 62,240 円になりました。
後で HIS にて調べてみると今の時期でも JAL でのバンコク直行便で二人で 102,360 円の航空券
がありました。
今回は 3 時間も出発を早くしてメール連絡だけという経験でしたが、HIS でのこのスクートの評判
ページを見ると、出発が殆ど連絡もなく 4 時間遅れたとか、ちゃんとパスポートを渡してチェックイン
をしたのに待たされて、結局そのフライトに乗れずに別途 10 万円かけて別の航空会社で帰国したと
かいうような話がありました。
利用者のクレームに対してもちゃんと対応していないようです。皆さん、泣き寝入りですね。このシ
ンガポールベースのスクートが日本で成功するにはこのような対応では非常に難しいのでは、と思
いました。
まあ、いずれにしてもメール連絡を見落としたという事実は消えません。高い授業料になりました
が、やはり「キッチリした航空会社が安心」という、当たり前のような結論に落ち着きました。
皆様のご参考になれば幸いです。くれぐれも LCC、特に日本に新規参入の外国会社にはご注意
を!
<2015.7.18 記>
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