聖書の言葉 - ドレーパー記念幼稚園

2011
2011 年 4月
聖書の
聖書の言葉
牧師 菊池 丈博
イエス御自身
イエス御自身が
らの真ん中に立ち、
御自身が彼らの真
「あなたがたに平和
あなたがたに平和があるように
平和があるように」
があるように」と言われた。
われた。
ルカによる福音書 24 章 36 節
不思議なことにキリスト教の始まりは、主イエス・キリストの復活から始まります。それが何
を意味しているのかというと、人間的には完全な絶望の中から始まっているという事です。イエ
スという方が、イスラエルのベツレヘムで誕生され、ナザレという小さな村で大工の子として育
ち、しかし、30 歳頃から凡そ 3 年に亘って、神の国の福音をのべ伝えました。聖書には様々なイ
エス様の奇跡的な出来事や、病気の人を癒したり、目の見えない人、足の不自由な人を癒したり
する出来ごとも記載されています。多くの人々はそのようなイエス様の不思議な業に魅了され、
当時のローマ帝国という強国から受けている支配から脱却し、独立したいと願っていた思いがこ
の方によって成就されるのではないかと考えていました。12 人いた弟子たちの多くも、この方な
らイスラエルの独立を勝ち取る力を持っておられる方だと考え、従っていたと思われます。
けれども、当時の社会は政教一致の社会でしたから、イエス様は時の政治的・宗教的権力者か
らは妬みと、嫉妬によって嫌われていました。そして、権力者はなんとかしてイエス様を殺して
しまいたいと考え、ついに、根拠も無いまま政治犯に仕立て上げられてしまいます。その為、本
来、イスラエルでは死刑の刑罰は「石打の刑」であったのが、ローマ帝国の政治犯に対する処刑
方法である「十字架刑」にかけられてしまいました。そして、イエス様は十字架の上で天を仰ぎ
ながら「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます。」と言われながら息を引き取ってしまうのです。
イエス様を慕っていたおおくの人々、特に共に連れだっていた弟子たちの落胆と絶望は容易に
想像出来ます。もう、これで終わってしまった。完全に終わってしまった。絶望だ、と誰もが考
えたことでしょう。
けれど、不思議なことに、それから三日たった日曜日の朝早く、主イエス・キリストは復活さ
れました。それは生前にイエス様が弟子たちに話していた事でもあったのですが、そんな信じら
れない出来ごとが本当に起こったのです。人間的にみれば、人の死という越えられない壁を越え
て、復活されて主イエスは弟子たちと共に 40 日間おられ、そして神様のおられるところへ戻って
いかれました。その復活の出来ごとを「イースター」と呼び、以来、キリスト教最古の祝い事と
して今日でもキリスト教徒の間ではクリスマス以上に大切にされる祝い事の一つになっています。
復活された主イエスが弟子たちの前に現れた時に、話された言葉の一つが、今月の聖句「イエス
御自身が彼らの真ん中に立ち、『あなたがたに平和があるように』と言われた。」という御言葉で
す。
ですから、キリスト教は絶望を教えません。どんな辛い時、悲しい時、涙する時も、そこで絶
望ではないよ、必ず神様が共にいて下さり、必ず歩む道があるよと励まして下さっていることを
教えます。「どんな時でも大丈夫」今、この日本の国が置かれている社会状況の中にあって、教育
の現場にあって、最も大切な心構えの一つではないでしょうか。東日本大震災で被災されたお一
人お一人に主イエスの慰めを祈りながら、新しい年度をしっかりと私達も歩んでまいりましょう。
2011
2011 年 3月
聖書の
聖書の言葉
牧師 菊池 丈博
あなたたちはわたしの宝
あなたたちはわたしの宝 (出エジプト記 19 章5節)
「あなたたちはわたしの宝」この言葉が用いられる為には、イスラエルという民族の長い
歴史が刻まれています。イスラエルとは「神が支配する」という意味です。イスラエル民族
の歴史は旧約聖書に記されていますが、
その発端はアブラハムという一人の人物からでした。
天地を造られた神様がアブラハムに目を留められ「私が示す土地に向かいなさい」と声をか
けたところから始まります。その時、アブラハムは 75 歳という年齢でした。しかし、神様の
命令によって妻のサラ(65 歳)と共に長い旅に出発します。
その出発はまるで、私達の人生の始まりを意味しているかのようです。
彼らの旅は、神様が共にいて下さると信じていながらも、決して楽な旅ではありませんで
した。何よりも神様が約束して下さった「あなた方の子孫が、星の数のように、砂浜の砂の
ように数え切れないほどになる」という約束がなかなか成就いたしません。その約束が守ら
れ、子どもが与えられたのは、なんとアブラハムが 100 歳、サラが 90 歳の時でした。彼らは
25 年も待たねばなりませんでした。その子の名前をイサクと名付けます。意味は(笑う)と
いう意味です。イサクが成長し、結婚して、ヤコブという男の子が誕生いたします。このヤ
コブが後に、神様からイスラエルという名前を貰うことになります。
ヤコブには 12 人の子ども達がいました。幸せに暮らしていましたが、ある年、大きな飢饉
が起こります。7 年間にも及ぶ飢饉です。食べるものなく、死ぬかもしれないと危ぶまれて
いた時、エジプトに沢山の食糧が蓄えてあることを知ります。早速、エジプトに行って食糧
を調達しに子ども達を送り出すのですが…。
実は、物語は不思議な展開が繰り広げられ、12 人兄弟の中で、一番兄弟から嫌われていた
(つまり、親からは愛されていた)11 番目の子ども、ヨセフという人物が飢饉の前からエジ
プトで大臣となっていました。兄たちはヨセフがエジプトで大臣になっていることを知らず
に、エジプトの宮殿で、弟のヨセフに、ヨセフと知らずに食糧を分けてくれるように頼むの
です。勿論、ヨセフは、あの意地悪ばかりしていた兄達であると気付きます。本来、ここで
仕返しが出来たのです。けれど、仕返しをせず、兄達に自分が弟のヨセフであることを知ら
せ、このことの全ては主なる神の計らいにあったのだと悟り、彼らを許し、許すばかりでな
く、家族ごとエジプトに呼び寄せて、幸せに暮らすことになります。
それから、400 年後のことです。イスラエルの民はエジプトの地で沢山増えました。神様
の約束が守られた形となります。しかし、同時にエジプト人はイスラエル人を脅威と感じ、
彼らを奴隷にしてしまいます。イスラエルの民は、悲しみ、苦しみ、呻きながら神に祈りを
捧げるのです。
主なる神はモーセという人物を登場させ、指導者として立て、モーセをリーダーとして、
あの 400 年前に自分達が住んでいた本 の土地、
ヤコブの土地
っていくことになります。
その時、主なる神はこう語りかけます。
「あなたたちはわたしの宝」
。そう、イスラエルの民
が何 年 っても、神様の宝であったように、私達も、私達の子ども達も、全ては「神様の
宝」としてこの に誕生したのです。そして、どこにいても、どのような
にあっても、
私たちは「神様の宝物」なのです。そのことを に刻みまし う。
当
百 経
世
へ帰
心
ょ
状況
2011
2011 年 3月
聖書の
聖書の言葉
牧師 菊池 丈博
あなたたちはわたしの宝
あなたたちはわたしの宝 (出エジプト記 19 章5節)
「あなたたちはわたしの宝」この言葉が用いられる為には、イスラエルという民族の長い
歴史が刻まれています。イスラエルとは「神が支配する」という意味です。イスラエル民族
の歴史は旧約聖書に記されていますが、
その発端はアブラハムという一人の人物からでした。
天地を造られた神様がアブラハムに目を留められ「私が示す土地に向かいなさい」と声をか
けたところから始まります。その時、アブラハムは 75 歳という年齢でした。しかし、神様の
命令によって妻のサラ(65 歳)と共に長い旅に出発します。
その出発はまるで、私達の人生の始まりを意味しているかのようです。
彼らの旅は、神様が共にいて下さると信じていながらも、決して楽な旅ではありませんで
した。何よりも神様が約束して下さった「あなた方の子孫が、星の数のように、砂浜の砂の
ように数え切れないほどになる」という約束がなかなか成就いたしません。その約束が守ら
れ、子どもが与えられたのは、なんとアブラハムが 100 歳、サラが 90 歳の時でした。彼らは
25 年も待たねばなりませんでした。その子の名前をイサクと名付けます。意味は(笑う)と
いう意味です。イサクが成長し、結婚して、ヤコブという男の子が誕生いたします。このヤ
コブが後に、神様からイスラエルという名前を貰うことになります。
ヤコブには 12 人の子ども達がいました。幸せに暮らしていましたが、ある年、大きな飢饉
が起こります。7 年間にも及ぶ飢饉です。食べるものなく、死ぬかもしれないと危ぶまれて
いた時、エジプトに沢山の食糧が蓄えてあることを知ります。早速、エジプトに行って食糧
を調達しに子ども達を送り出すのですが…。
実は、物語は不思議な展開が繰り広げられ、12 人兄弟の中で、一番兄弟から嫌われていた
(つまり、親からは愛されていた)11 番目の子ども、ヨセフという人物が飢饉の前からエジ
プトで大臣となっていました。兄たちはヨセフがエジプトで大臣になっていることを知らず
に、エジプトの宮殿で、弟のヨセフに、ヨセフと知らずに食糧を分けてくれるように頼むの
です。勿論、ヨセフは、あの意地悪ばかりしていた兄達であると気付きます。本来、ここで
仕返しが出来たのです。けれど、仕返しをせず、兄達に自分が弟のヨセフであることを知ら
せ、このことの全ては主なる神の計らいにあったのだと悟り、彼らを許し、許すばかりでな
く、家族ごとエジプトに呼び寄せて、幸せに暮らすことになります。
それから、400 年後のことです。イスラエルの民はエジプトの地で沢山増えました。神様
の約束が守られた形となります。しかし、同時にエジプト人はイスラエル人を脅威と感じ、
彼らを奴隷にしてしまいます。イスラエルの民は、悲しみ、苦しみ、呻きながら神に祈りを
捧げるのです。
主なる神はモーセという人物を登場させ、指導者として立て、モーセをリーダーとして、
あの 400 年前に自分達が住んでいた本 の土地、
ヤコブの土地
っていくことになります。
その時、主なる神はこう語りかけます。
「あなたたちはわたしの宝」
。そう、イスラエルの民
が何 年 っても、神様の宝であったように、私達も、私達の子ども達も、全ては「神様の
宝」としてこの に誕生したのです。そして、どこにいても、どのような
にあっても、
私たちは「神様の宝物」なのです。そのことを に刻みまし う。
当
百 経
世
へ帰
心
ょ
状況
2011
2011 年 1 月
聖書の
聖書の言葉
牧師 菊池 丈博
創世記1章3節)
神は言われた。
「光
」
(
われた。
「光あれ。
あれ。
皆さん新年明けましておめでとうございます。今年も宜しくお願いします。2011 年最初の
聖書のみ言葉は、旧約聖書、創世記1章3節に記されている「光あれ」という言葉です。
聖書は、旧約聖書という箇所と、新約聖書という箇所から成り立っています。旧約聖書は
1502 頁、新約聖書は 480 頁あります。合計 1982 頁です。本の中で最も薄い紙に、しかも、
読みにくくならないように裏側には透けないように工夫されていますが、もし、仮に一睡も
しないで、最初から最後までを一気に読み通そうとしたら、約 100 時間はかかると言われて
います。4 日以上かかる計算となります。勿論、そんな無理をする必要はありませんけれど、
それほど沢山の事が聖書の中に書き記されています。
そして、その最初の箇所、旧約聖書の1章で、神様が初めて言葉を発せられたのが、
「光あ
れ」という言葉です。
「光あれ」そうすると、混沌としていた世界に、初めて光が現れました。
神はその光を見て、
「良しとされた。
」と記されています。神様は、そのようにして「光」を
創造されて、その後、空と水、陸と海、太陽と星、つまり昼と夜、そして、魚と鳥、動物と
人間を六日間かけてお造りになって、七日目に休まれたと聖書は続きます。
勿論、このような書き方は科学的に検証されるような事柄ではありませんし、何の証拠も
ありません。
一体、誰が見ていたのか、なんて疑問さえ出て来そうな箇所でもあります。でも、聖書はそ
のように読んでしまうと、聖書が伝えたいと思っていることを見逃してしまうことになるか
もしません。
聖書が伝えたいこととは何でしょうか。一つは、神様は「混沌」から「秩序」を作りださ
れたということです。黄色い絵の具と、赤い絵の具があるとしましょう。チューブから絵具
をそれぞれパレットに取りだして、その二つの絵の具を混ぜあわせないうちは、それぞれに
独立しています。けれど、一度、その二つを混ぜてしまえば、黄色でも赤でもない、違う色
になってしまいます。そして、人間である私達は、その二つを元に戻すことは決して出来ま
せん。人間は「混沌」を作りだすことは出来ても、それを元に戻すことがどんなに難しいこ
とか、を理解出来るのではないでしょうか。けれど、私達の神様はそのような「混沌」から
正しい「秩序」を作り出せる方だというのです。そしてそれが意味していることは、「光あれ」
と言われた時、光が現れ、それが神様にとって「良し」とされたということです。その後全
ての物が作られていきますが、その都度神様は「良し」とされて、最後の六日目の創造の出
来事が終わった時、
「それは極めて良かった」と言われました。神様の創造された私達の世界
は、神様にとって「それは極めて良かった」のです。そのことを私達は覚えることが必要だ
と思うのです。皆さんの人生もまた、その「極めて良かった」という世界に織り込まれてい
るのです。そうか、私の人生「良し」とされているのか、ということを知る時、あなたの人
生は、全く違った人生観を持つことになるでしょう。2011 年という年を、そのように生きて
みたいと思いませんか。いや、あなたならもうそのように生きておられるでしょう。
今年も宜しくお願いします。
2010 年 12月
聖書の
聖書の言葉
カ
牧師 菊池 丈博
福音書 2 章 15 節)
さあ、
さあ、ベツレヘムにいこう。
ベツレヘムにいこう。 (ル による
「さあ、ベツレヘムにいこう」この言葉は、イエス様が誕生された夜、
野宿をしながら羊の群れの番をしていた羊飼い達の言葉です。どうして
「さあ、ベツレヘムにいこう」と話しあったのでしょうか。
ベツレヘムとは町の名前です。そして、聖書の中にあっては、大変由緒ある町でもあります。
旧約聖書の最初の書「創世記」から既にその町の名前を見ることが出来ますし、イスラエルが最
も栄えた時代の王様として知られるダビデ王もまた、ベツレヘム出身です。旧約聖書のミカ書と
いう箇所にはイエス様の誕生に関わる決定的な御言葉を読むことが出来ます。「ベツレヘムよ お
前はユダの氏族の中でいと小さき者。お前の中から、わたしのために イスラエルを治める者が
出る。彼の出生は古く、永遠の昔にさかのぼる。」この御言葉は、御子イエスの誕生を示している
御言葉であると、古来からキリスト教徒は信じ、また、教えられてきました。イスラエルの人々
にとってベツレヘムは特別な町でありました。
そのベツレヘムという町の、片隅にある家畜小屋の中でイエス様はひっそりと誕生されました。
ひっそりと誕生されましたが、ミルトンという詩人は、「その時、天にはどよめきが起こった」と
記しました。
イエス様の誕生の知らせは、多くの人々が寝静まっている夜中、起きて仕事をしていた羊飼い
達に知らされました。羊飼い達が羊の番をしていた時、主の天使が近づき、主の栄光が周りを照
らしました。更には、天の大群が加わり、神を賛美する歌声を響かせます。
「いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ。」
羊飼い達は本当に驚いたに違いありません。一体これは何がどうしたのか、恐れおののきました。
けれど天の使いは「恐れるな」と彼らを励まし、この出来事が大きな喜びだと告げ、彼らを励ま
すのです。
そんな状況の中で、羊飼い達は相談しました。そして思いが一つになりました。「さあ、ベツレ
ヘムへいこう」彼らはどんな思いでベツレヘムに向かっていったことでしょう。驚きと戸惑いと、
恐れと不安。しかし、それ以上に大きな希望と喜びに満たされて向かっていったのではないでし
ょうか。
みなさん、私達が用いる言葉には二種類の言葉があります。肯定的、前向きな言葉と、否定的、
後ろ向きな言葉です。そして必ず、肯定的な言葉は、否定的な言葉を超えて勝利し、私達を希望
へと導きます。
「さあ、ベツレヘムへ行こう」この言葉の響きはなんと肯定的、前向きな言葉ではないでしょう
か。
「よし、やってみよう」「トライしてみよう」「一歩踏み出してみよう」そんな思いがこの言葉か
ら読み取れます。クリスマスは私達に喜びと希望と愛を与えて下さるために、神様が人の姿をと
られて、御子イエスが誕生された、神様の冒険でもあります。クリスマス前の 4 週間をアドヴェ
ントと言いますが、その意味は「到来」です。そしてこの言葉は、アドヴェンチャー「冒険」と
深い関係を持っています。神様もまた、「一歩踏み出すために」ベツレヘムに向かったのです。私
達も、ベツレヘムに生まれた御子イエスへと心を向ける時、そこにどんなに素敵なクリスマスを
見出すことが出来ることでしょうか。クリスマスおめでとうございます。
2010 年 11 月
聖書の
聖書のみ言葉
牧師 菊池丈博
いかに幸
いかに幸いなことか、
いなことか、神に逆らう者
らう者の計らいに従
らいに従って歩
って歩まず
罪ある者
ある者の道にとどまらず 傲慢な
傲慢な者と共に座らず 主の教
えを愛
えを愛し その教
その教えを昼
えを昼も夜も口ずさむ人
ずさむ人。
その人
その人は流れのほとりに植
れのほとりに植えられた木
えられた木。ときが巡
ときが巡り来れば実
れば実を
結び 葉もしおれることがない。
もしおれることがない。その人
その人のすることはすべて、
のすることはすべて、
繁栄をもたらす
《詩編 1 編 1~3 節》
繁栄をもたらす。
をもたらす。
ドレーパー記念幼稚園の保護者の皆さま、はじめまして。この 10 月より大塚平安教会の牧師と
して、又、幼稚園の宗教主任としての働きをさせていただくことになりました菊池丈博と申しま
す。宜しくお願いします。仲良くして下さいね。佐竹和平園長から「聖書のお話を書いて下さい」
とお願いされました。今回初めてですので、色々と悩みましたが、旧約聖書の中にある詩編 1 編
の最初の言葉を選びました。私のとっても好きな御言葉です。「その人は流れのほとりに植えられ
た木。ときがめぐり来れば実を結び 葉もしおれることがない」特にこの言葉が好きです。
私は岩手県の出身です。岩手県の名物の一つに石割桜という木があります。県庁所在地の盛岡
市の地方裁判所の前に大きな岩がありまして、その岩が二つに割れ、割れたところから大きな桜
の木が育っているのです。その桜の木の花が咲くころには沢山の観光客がやってきます。私も何
度も観てきましたが、何度観ても、桜の命の力強さに感動を覚えるのです。
木は、種が落ちて、芽が出て、成長し大きくなります。木の宿命というと大袈裟かもしれませ
んが、木は移動することが出来ません。芽を出したところで成長していく。その他の選択肢はあ
りません。例え、岩の間に種が落ちてしまっても、そこで芽を出した以上、生きていく為には岩
に打ち勝って、岩を割ってまでも根をおろして行かねばならないのです。石割桜にはそのような
命の躍動を、観る人に伝える力があるといつも感じます。時間のある方はいつか観に行かれるこ
とをお勧めします。
私達は人間ですから、右から左に移動したり、時には転勤や引っ越しを経験します。私達も町
田市から綾瀬市に引っ越して来ました。移動するということは気分転換にもなったり、時にはス
トレスを感じたり、色んなことを感じます。でも、大切なことは、詩編の御言葉のように、私達
の人生、「流れのほとりに植えられた木」のような人生を送りたいものです。どんな人生?主の教
えを愛し、夜も昼も口ずさむ人と聖書は説明しています。私達の「命」の造り主を知り、その方
が私達を愛して下さり、私達が根を張って生きているその場所で、「大丈夫、安心しなさい。私が
共にいるよ」とおっしゃって下さる神様の存在を知ることです。そのような人の土台にはいつも
水の流れ、つまり神様のエネルギーが沢山与えられますよ、と聖書は語りかけているのです。
どんな苦難の中にあっても、石割桜のような力強い人生を私達も生きていけます。「だから大丈
夫」そんな人生を一緒に歩んでいけたらならと思っております。どうぞ、これから宜しくお願い
します。