2014 年3月 聖書の言葉 牧師 菊池 丈博 「希望はわたしたちを欺くことがありません。」 (ローマの信徒への手紙 5 章 5 節) 私たちは生きていると様々な体験をいたします。職場において、夫婦の間でも、子どもの事におい ても、色々と悩み、苦しみ、どうしようもないと思える時があります。つらいなぁと思える時が一 度や二度、いや、何度も経験することでしょう。それら全てを、もし一言で言えるとしたら、「希 望」が無いという事です。つらい、苦しい、そう思っている時、心の中に「希望」が無くなってい るのです。 けれど、私達の心の中に確かな「希望」がしっかりと根付いていると、どのような状況にあって も、もうだめだ、もう手立てが無いとは思わないでしょう。なぜなら、「希望」は私たちを欺くこ とが無いからです。今与えられているその苦難は、忍耐を、忍耐は、練達を、練達は「希望」を生 むと聖書に記されています。 教会には「子どもの教会」があります。子ども達の健やかな成長を願って、また、健全な信仰、 豊な心が育つようにと、毎週日曜日 9 時から「子どもの教会」の礼拝が行われています。子ども達、 お母さん、お父さん方が集まって下さり、今週などは 30 名を超える方々と一緒に礼拝を守りまし た。私はこの礼拝が、“とても、とても大切な時間”だと思っています。 子ども達は、かなり大きくなるまで、少なくとも中学を卒業する頃までは、一人で生きていくこと は殆ど出来ません。ですから子ども達の絶対的な「希望」はお父さん、お母さんです。自分のお母 さん、お父さんがいなかったら自分の命にかかわることを子どもたちは本能的に知っています。そ こに求められているのは、深い信頼関係です。多くのご両親は、子ども達の信頼に応えようと頑張 って、立派な親を演じようとします。でも、時々、立派な親を演じるのに疲れたり、時には何か失 敗をしたりすると、その悲しみや、怒りの向け先が子どもとなり、必要以上に子どもに八つ当たり したり、苛立ちを覚えて、子どもが傷つくような叱りかたをしていないでしょうか?そして、その ような自分を振り返り、後で後悔したりしていないでしょうか?ですからお母さん、お父さんも本 当は完全ではなく、一人の人間として不完全な一人であって、でも、お父さん、お母さんが子ども 達を支えていけるのは、私たちに命を与えてくださった神様を「希望」としているからだよと教え てあげることがとても大切なのです。教えるといっても、子ども達が理解するには少し難しいかも しれません。だから、子どもと一緒になって神様の前に向かい、一緒に祈り、一緒に歌い、一緒に 御言葉を聞き、一緒に過ごすのです。私たちの生きるエネルギーはここにあるよと、言葉ではなく 行動で示すことです。子どもたちは言葉を超えて体験として「希望」がここにあることを知り、心 にその思いを納めることでしょう。その心は、その子の一生涯を支えます。どんな困難に遭遇して も、神様が自分の「希望」であると信じて生きていける子どもは幸いです。ドレーパー記念幼稚園 の精神も基本的には全く同じです。その子の存在を肯定し、許し、支え、「希望」は決してあなた の生涯を欺くことが無いことを伝え続ける教育をと願って歩んでいます。そして、そのようにして この年も守られて来ました。感謝。 2014 年 2 月 聖書の言葉 牧師 菊池 丈博 「平和を保ちなさい。そうすれば、愛と平和の神があなたがたと共にいてくださいます。」 (コリントの信徒への手紙Ⅱ13 章 11 節) 最近の我が家のビッグニュースは夫婦で携帯からスマホに代えたことです。けれど、スマホの料金は高い ので何とか安くならないのかと販売店に話をしましたら、携帯の契約会社や我が家のテレビ、電話、PC の契 約会社を変更することによって、携帯の頃の料金と殆ど変らないか、割安になる(但し、2 年間だけですが) ことがわかり、かなり煩わしい手続きでしたが全てを済ませて、念願のスマホを購入しました。 二人で喜んでいます。思った以上に楽しいし、便利だと感じます。その中でも、これは便利だと思ったのは、 某会社のオークションでした。興味を持って見ていたら、欲しい品物が新品購入価格より、かなり安く手に 入ったのです。あ~世の中ってこんな仕組みになっているんだと感心したり、喜んだり。すっかりハマって しまった私は、車を安く落札したら楽しいかも、と思い、ある一台の車に値段を付けたのです。もちろん、 数千円です。ですから、本気で購入するつもりは全くありませんでした。ところが、その値段以上の値段を 付ける人が落札期日数時間前まで一人も現れないではありませんか。驚きました。心配しました。気の弱い 私は、家内にも本気で相談しました。「もしかしたら車を購入するかも…」。落札条件を良く読んでみると、 車の本体は数千円でも、整備代、輸送量代、名義変更に関わる諸手続き代、自動車税、等もろもろの全ては 落札者負担となっています。キャンセルは絶対ダメともあります。保険に入ったりもしなければなりません。 何万円もかけて要らないものを購入しなければなりません。 「あ~なんでこんなことになるの」と頭を抱えて しまいまいました。その日一日はどんな仕事をしていても、車のことが頭から離れません。スマホなんか買 わなきゃ良かった。最後はそんなことまで考えていました。 結果的には、落札時間2時間前から、超本気モードの方々の入札が入り、数万、十数万、二十数万とガンガ ン上がり、私の数千円は吹っ飛んでいきました、98%の安堵と、2%のがっかり感で終了したのです。 さて、ここで何を伝えたいのかというと、結論が出るまでの二日間位、自分の愚かさと、不安と、焦りの中 で、普段なら心にあると思っている「平和を保っている感」が極端に無くなっていたということです。欲に 走り、欲に溺れ、なんともみっともない心で過ごして来たことであろうか痛切に感じました。やっぱり、人 間は楽して儲けようとか、なんとか上手くやってやろうとか、そんな風に生きると、どうも神様から見放さ れるようです。というより神様から自分が離れていってしまっている、そんな風にも感じます。世の中が便 利になることと、人間性が向上することはどうも別のことかもしれません。 人間、欲張らず、シンプルに生きることが大切だなと心から感じます。手元に「物」がどんなにあっても「平 和」と感じることはありません。物の量とは関係無く、心が「平和」でなければ「愛と平和の神」が、いつ も私たちと一緒にいて下さることに気が付かないのかもしれません。 今回は、自分自身の失敗談で、笑われるかもしれませんが、でも、これもまた、スマホ買って有頂天になっ ていた私に、神様が忠告して下さったのだと受け止めて、やっぱり真面目に、あれやこれやと心迷わず、一 生懸命生きていくのが一番と改めて感じた次第でした。皆さん、欲張らないで生きていきましょう。 2014 年1月 聖書の言葉 牧師 菊池 丈博 「おのおのの部分は分に応じて働いて体を成長させ、自ら愛によって造り上げられてゆく。」 (エフェソの信徒への手紙4章 16 節) 新年明けましておめでとうございます。2014 年が始まりました。元気にスタートされたことと思い ます。 我が家の新年は、所沢の祖父と祖母の家に一族が集まり、楽しい新年会から始まることが恒例とな っております。今年も無事に行われ良かったなと思います。兄弟の子どもたちの中で一番年上の子 は、既に社会人です。それから大学生、高校生、中学生、小学生と続きます。大学生の甥はついに 20 歳を超えて、父親と一緒にビールを飲んでいて、ちょっとビックリしました。それぞれの子ども たちの一年の成長を感じられて、とても楽しい時間でした。 子ども達は心も体も成長していきますので、毎年、毎年が楽しみです。大人はさすがに体の成長を 望むことは難しいですが、けれど心の成長は決して止まることはありません。この年、どのように 私は成長していこうとしているのか、色々と考えておられる方もいらっしゃるでしょう。 聖書はこう記しました。「部分は分に応じて働いて体を成長させ、 」 どういう意味でしょうか。「分に応じて働く」とは、例えば、目は目の働き、鼻は鼻の働き、耳は 耳の働きをすることと考えられます。つまり、その働きに徹するということです。私たちはどうも、 自分に徹することが苦手かもしれません。隣の人の服装や、髪型を見て、私もあ~なりたいなぁと か、あの人のように話せたならなぁとか、あんな家に住みたいなぁ~、あんな料理を作れたならぁ ~、とまあ、色々と思い巡らします。勿論、そんな思いから決心して習い事や、学びを始めること も良いと思います。最初は何事も真似て、倣うことから始まります。 でも、もっと大切なことは、他人を見て、自分が劣等感を感じたり、自分の情けなさを思ったり しないことです。比較しすぎないことです。自分は自分、あの人はあの人と、自分自身に徹するこ とです。自分は耳だから、耳の働きをしっかりしよう。自分は足だから足の働きを頑張ろう。つま り、あなたにはあなたにしか出来ない働きがあって、あなたにのみ与えられている役割があるので す。しかも、思いの他、かなり沢山あるはずです。あのことも、そのこともやりたい、チャレンジ したい思いは大切です。そんな思いが人生を確かに豊かにしてくれるでしょう。けれど、どうも、 私たちは随分とチャレンジしたつもりが、途中で挫折したり、止めてしまったり。あるのではない でしょうか。それも人生の回り道であって、それも良しと受け止めながら…。でも、なぜ、続かな いのか?それは、徹していないからです。 私もこれまでの人生の中で、この時期、一体何度日記帳を買ったことでしょう。そして、2月には どこにあるのかもわからない経験を何度繰り返したことでしょうか。成長すること、徹することは 案外難しいものです。でも、その難しさを超えて、自分に徹して、牧師に徹して、夫に徹して、父 親に徹して、手を抜かず、誠実に生きて行こうと思っています。 あなたはどんな成長を生きようと考えておられますか?去年と同じかな?と思えば、去年と同じ一 年となるでしょう。だって人生は心に思ったことが実現するのですから。2014 年は一生に一度しか ありません。この年、どんな年にも増して、素敵な年であったと振り返ることが出来る年にしよう と、今、決意なさるならば、必ずそうなります。皆さんで、そういう年に一緒にしていきましょう。 2013年 12月 聖書の言葉 牧師 菊池 丈博 「エフラタのベツレヘムよ。お前はユダの氏族の中でいと小さき者。 お前の中から、イスラエル を治める者が出る。」 (ミカ書 5 章 1 節) 御子イエスの誕生は、ローマ帝国の皇帝アウグストゥス(在位 BC27-AD14)の時代です。当時、皇 帝が全領土の民に「住民登録をせよ」との命令を出しました。理由の一つは、兵隊として戦力にな る民の把握の為、もう一つは税金がどれだけ徴収出来るのかの調査です。実は、どの時代の、どの 国も国勢調査が行われる意味の一つはそういうことだと私は思っています。 その為に、父ヨセフは自分の町に帰らなければなりませんでした。しかも、身重のマリアを抱え ての旅です。その旅の大変さは想像に難くありません。けれど不思議なことに、この旅は別の側面 もありました。一つはマリアの出産が地元のガリラヤではないことです。つまり、婚約はしていて も完全に夫婦ではない二人にとって結婚前に子どもが誕生すると、肩身が狭い思いをすることにな ったでしょう。その為に、出産前にヨセフの故郷であるベツレヘムに到着して、出産後も暫くその 場で生活をし、それからガリラヤへ帰れば嫌な噂や非難の視線を受けずに済むことになります。当 時、何年何月何日、何時何分誕生などと母子手帳に記されることもなかったでしょうし、相当アバ ウトであったことは間違いありませんから、二人にとって嫌な思いがかなり軽減されたはずです。 そんなことを考えれば、少々無理をしても国勢調査は二人にとっては幸いであったとも言えるので す。 また、それだけでもありません。ベツレヘムで御子イエスが誕生しなければならなかった最大の 理由は聖書にそう書かれてあるからです。「エフラタのベツレヘムよ。お前はユダの氏族の中でい と小さき者。お前の中から、イスラエルを治める者が出る」。旧約聖書のミカという預言者がその ように預言していました。エフラタとは、ベツレヘムの古い名称です。ベツレヘムは随分古い時代 からあった町でした。大きな町ではなかったと思いますが、しかし、何よりもイスラエルの民が愛 していた偉大なダビデ王の出身地でもあり、聖書には「ルツ記」という美しい物語が記されていま すが、その主人公の一人、ナオミの出身地でもありました。聖書に登場する町の中にあっても、特 別な町であったことは間違いありません。 預言者ミカは御子イエスが誕生する 700 年以上も前に、このベツレヘムから私たちの救い主が誕生 すると預言しました。その預言が成就するために、御子イエスはベツレヘムで誕生しなければなり ませんでした。そして、そのことは当事者のヨセフやマリアは勿論知らなかったでありましょうし、 ローマ皇帝も、この時の自分が出した勅令が神の計画の中にあるなどと夢にも思わなかったでしょ う。 しかし、全ての条件が揃い御子イエスは、ダビデ王と同じユダ族という部族の民として、生まれる べくして生まれて来られたのです。それがクリスマスの出来事です。 なんの為に?私たちに「平和」をもたらす為です。平和な社会に必要なことは、武器や兵力を持つ ことではありません。権力を誇示することでもありません。大量破壊兵器によって「平和」はもた らされません。平和は「平和」という手段からしかもたらされないのです。御子イエスの誕生は人 から見れば小さな誕生です。けれど神はこの方に、神の「平和」を示されようとしました。皆さん、 「平和」に過していますか。より一層「平和」に過す為に、誰もが御子イエスの誕生を、私たちが 心で感じることが出来ますようにと切に願います。 2013年 11月 聖書の言葉 牧師 菊池 丈 どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。 (フィリピの信徒への手紙 4 章 6 節) 私が愛読している一冊の本があります。聖心会シスターの鈴木秀子さんが記した『神の業は現れ る』という本です。今月の御言葉を読みながら頭に浮かんできた一冊です。著書の中にこんな文章 があります。『私たちは、何か辛いことが起こったりすると、自分がどんな悪いことをしたのだろ うとか、あんなバカなことをしたから、こんなことが起こったのだと自分を責めます。それでも納 得がいかないと、誰かのせいにしようとします。自分を責めると、自分の中にある二つの力がぶつ かり合います。自分を責めているときのことを考えてみてください。 「何か失敗した」 「どうしてあ んなことをしてしまったんだろう」と考える時、もう一人の自分は「いや、だってあのときは仕方 がなかったんだ。あのときはあれしかできなかったんだ」と、一生懸命、弁解しています。すると、 自分との葛藤が始まります。これを、私は「分裂が始まる」と言っています。』この文章の中に、 私たちが悩む時の心の状況が明らかにされています。つまり、悩みとは心が一つになっていないと いうことです。一つになっていないとは不安定だということです。思い悩み、上手に解決出来てい ない状態。長い間、悩みが解決出来なかったりしますと、自分のエネルギーがどんどん下がってい って、考えるのも億劫となり、上手に頭が回転しなかったりすること、あるのではないでしょうか。 一体どうしたら良いのだろうか?と、あたかも自分の人生が立ち止まってしまったかのように感じ るかもしれません。そんな思いに鈴木秀子さんは「苦しみ、辛さと戦うと分裂が始まります」と説 明します。だから「戦わないで、受け入れることです。」と説明します。そのままを受け入れてい くと楽に生きられる。私はこの言葉を深い思いで心に治めています。それでも、私はもしかしたら まだ若いのでしょうか。受け入れるよりは、笑って吹き飛ばしてしまえ!立ち止まるよりは、歩き 続けろ!分裂する心なんか、捨ててしまえ!という思いもかなりあります。 いずれにしても「どんなことでも、思い煩うのはやめなさい」と聖書は記しています。思い煩いは 確かに「心が分裂した状態」です。自分の中に二つの心があると疲れます。思いが二つあると、身 動きが取れません。動けないのは大きな苦痛が伴います。人は受動的に生きるよりは、能動的に生 きる方が疲れません。身動きが取れないなら、動かせるところだけでも動かしましょう。数年前、 私は足を骨折しましたが、手術後、二日目からリハビリが始まり驚きました。現代の医学は出来る だけ早く動かした方が、早く治って後遺症も少ないと考えているようです。心のリハビリも遅いよ りは早い方が良いと私は思います。悩み続けるよりは、誰かに相談しましょう。動ける所はしっか り動かしましょう。そうすればいつかは全体が動いてくるはずです。 人生は一度きり、私たちの人生はリハーサル無しの、いつでも本番です。あなたはその主人公です。 どのようにしてあなたの人生の主演を生きますか?「思い煩う」時間、勿体ないかもしれませんよ。 さあ、笑顔で励んでいきましょう。 2013年 10月 聖書の言葉 牧師 菊池 丈博 わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。 (ヨハネによる福音書 15 章 12 節) 牧師となり最初に赴任した教会は岩手県の教会でした。そこで長男が誕生し、次男も誕生しまし た。長男が幼稚園を卒業するまで過した懐かしい土地です。楽しい思い出が沢山あります。 新米の牧師として熱意に燃え、一生懸命に伝道をと願い、生活していましたが、ある時に、大き な困難を感じたことがありました。ある女性と意志の疎通が十分に図れず、話せば話すほどに、ど うしても意見が合わないのでした。私の方も一生懸命でしたが彼女も必死でした。それでいて尚、 上手くいかずに悩みに、悩んでいました。 そんな時に助けて下さった方がいました。 山形県の大きな教会で牧師をされていた T 先生でした。 電話で何度も相談し自分の苦しい思いを伝え、それでも尚自分の何が不足しているのか皆目見当も つかない、わけがわからない、そんな私の思いを T 先生はしっかりと支え、聞き続けて下さり、そ して、聞き続けることの大切さを沢山教えて下さいました。2年ほど学び続けて、私はあの苦手な 女性と仲良くなることがようやく適いました。貴重な体験でした。 人を愛するとはどういうことなのでしょう。今月の聖書の御言葉には「互いに愛し合いなさい」 とあります。この御言葉は「互いに」という言葉が強調されているかのように感じます。 「互いに」 愛し合うとは例えれば恋愛感情のようなものです。恋心が成就して互いに大好き同士のカップルは 幸せ一杯です。苦しく、辛いのは、片思いの恋愛です。学生時代や若かった頃にはきっと、片思い で苦しんだ経験がある方がいらっしゃるかもしれません。 ところが「片思い」でもすごく幸せな時があるのです。そんなことがあるのだろうか、と思われ ますか?簡単です。赤ちゃんを育てている頃を考えてみて下さい。赤ちゃんが出来ることは殆どあ りません。特に、生まれて一年以内の赤ちゃんは完全に依存状態といって良いでしょう。そんな状 態でも、お母さんは、睡眠も十分に取れないとしても、自分の自由な時間が削られるとしても、愛 情を注ぎこんで育てます。とても男性には出来ない凄みを感じる程です。そしてそれでもお母さん は大抵幸せです。 このような「愛し方」があるのです。相手が何を言って、何を行っているのかを問い続けるのでは なく、ただ一方的に、徹底的に愛する姿。そんな姿が神様の愛の姿です。「わたしがあなたがたを 愛したように」とは神様が私達を一方的で、無条件に、無尽蔵に愛したように、ということです。 それでいて神様はかえりみを求めるわけではありません。 人間は、何歳になっても、一方的で、無条件で、無尽蔵に愛して貰いたいと願います。そのように 愛されていると感じられる時、また一つ自信を持って成長出来るのだと思います。そして、徹底的 に愛されていると思える人こそが、また、その同じ量の「愛」でもって、相手を徹底的に愛するこ とが出来るようです。そんな「愛」をドレーパー記念幼稚園も、多くの子ども達に注いでいきたい と願って来ましたし、これからもそうありたいと願っているのです。 2013年 9月 聖書の言葉 牧師 菊池 丈博 「自分自身を愛するように隣人を愛しなさい。」 (レビ記 19 章 18 節) 聖書の中で、ある法律の専門家がイエス様に尋ねました。「イエス様、律法の中で、どの掟が最も 重要でしょうか。」その問いに対して、イエス様はこう答えました。 「『心を尽くし、精神を尽くし、 思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』」、そして「『隣人を自分のように愛しなさい。』 律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている。」 神を愛することと、隣人を自分のように愛すること、この二つが聖書の中で最も大切な教えですよ とイエス様は教えて下さいました。その理由となった一つが、レビ記 19 章 18 節に書かれてある「自 分自身を愛するように隣人を愛しなさい。」という今月の御言葉です。 不思議なことに、自分自身を愛する量と、隣人を愛する量は同じであると言われます。自分自身を 愛するってどういうこと?と思われるかもしれません。例えば、コンプレックスについて考えてみ ましょう。日本語では「劣等感」と言い換えることも出来ます。あなたはどの位、コンプレックス を自分に感じているでしょうか。私自身のことを考えて見ると、牧師なのに歌が下手、といつも言 われます。自分でも音感やリズム感が無いと感じます。中学生の息子に英語は教えられても、数学 はまるで教えられません。私には親友の牧師が二人いますが、その二人共神学校で学生達に勉強を 教えていて、私だけ声がかかりません。最近、髪の毛がやたら後退してきたなと焦りを感じていま す。とまあ、色々とコンプレックスを持っているわけですが、実は、今記したことは、本当の意味 ではコンプレックスではありません。なぜか?それは、既に皆さんにこの文章を通して公表してい るからです。何も文章で公表しなくとも、口で「私ってこんな性格なのよね~。」とか「わたし中 卒なの」と友達や仲間に公に出来ることは、既にコンプレックスではありません。公にすることに よってコンプレックスから卒業出来ます。本当のコンプレックスとは、誰にも話せない、相談も滅 多なことでは出来ない秘密なのです。もし、そのことについて誰かが不用意に、あなたに話しかけ たとすれば、敏感に反応して、話題をそらすか、ウソをついてごまかしてしまったことありません か。ふれて欲しくない話題の一つや二つ私たちは持っています。その「ふれて欲しくない事柄」こ そ、本当のあなたのコンプレックスとなります。なぜなら、その事柄は、自分で未だに受け入れら れない事柄であるはずだからです。 人は、人と話すことが出来る量で、人と付き合っているのです。自分の 80%を受け入れている方は、 80%で人と付き合う事ができ、50%受け入れている方は、その 50%で人と付き合うのです。付き合 うとは、愛することです。つまり、自分をどの位愛しているかによって、隣人をどの位愛すること が出来るのかが決まるという仕組みとなるのです。おわかりだと思います。 大切なことは、自分が自分で好きな所も、嫌いなところも、「どっちも自分なんだなぁ~」としっ かりと受け止めて、背伸びせず、無理をしないで、そのままの自分を受け入れることです。そうす ると、自然なあなたの姿で、安心して隣人や、お友だち、仲間達と付き合うことが出来るでしょう。 隣人を愛するにはまず、あなたがあなたを愛すること。そこに秘訣があるようです。 素敵な2学期になりますように。 2013年 7月 聖書の言葉 牧師 菊池 丈博 「あなたがたは神に愛されている子供です。」 (エフェソの信徒への手紙 5 章 1 節) 我が家の次男で中学3年生の息子がおります。名前を光太朗と言います。先日は、中3なので京都、 奈良に修学旅行に行って来ました。さあ、これから本格的に受験シーズンが始まりますが、きっと 心が震えていることだろうと思います。その光太朗が生まれて数年、まだ幼稚園にも行っていない ころに、私は礼拝の説教でこんな話しをしていました。今から 13 年前のことになります。 「息子の光太朗を見ておりますと、光ちゃんは、小さいですから中々思うようにならない事ばかり ですね。信太朗〈長男〉の方が大きいですから、何をしても適わないわけですよ。言葉もままなら ない。足もおぼつかない。ちょっと走れば、けつまずいて顔から転んでしまいます。世の中、中々 大変だと思っているかもしれません。けれども、そういう光太朗が、どんな時でも安心できる場所 をしっかりもっています。それはお母さんのおっぱい、おっぱいは別に光ちゃんにそれ頑張れ、や れ頑張れと話しかける事はしないのです。でも、このおっぱいがあれば、光ちゃんは、それによっ ていつでも、なんにでも立ち向かっていける勇気を与えられるに違いないだろうと思います。 そ のように、私達の人生が、お母さんのおっぱいには適わなくとも、何も多くの言葉を語らずとも、 その人がそばにいるという、その人の存在によって、その人の生き方によって、あの人と一緒にい ると、なんだかわからないけれども、何か神の愛というものが伝わる、暖かさが伝わるなぁという のであれば素晴らしいですね。たとえ神様なんか信じないと思う人であっても、でも、あの人の生 き様を見せられると、やはり、神様っているんだろうなと思わざるを得ない。私達自身が、そのよ うな存在として生きていきたいですね。神様は人間を造られるとき、人の鼻から命の息を吹き入れ られましたが、教会に来ると神の息を感じて、深く深呼吸が出来る。又、教会の交わりによって励 まされ、神のエネルギーを豊かに与えられると、多くの方々が感じるような、そのような真実なる 教会を作り上げていきたいと思うのです。」 「あなた方は神に愛されている子供です。 」子どもというのは、お母さん、お父さんと一緒にいる、 家族と一緒にいる、絶対に離れることは無い。そう思うだけで安心します。実は大人も全く同じこ とが言えます。それは、自分を決して見捨てることはない、自分をいつも愛してくれて、必要とし てくれて、支え、励まし、許し、力付け、いつも一緒にいて下さる方、を探して、探して、探して 生きているということです。そして、私たちが子どもの時も、少年、少女の時も、青年の時も、壮 年の時も、老いた時も、どんな時でも、一緒にいて下さる方がおられます。それがイエス・キリス トという方です。 だから、キリスト教なのです。だから、私たちは一人残らず「神に愛されている子供」です。幼子 が母親の胸に抱かれて安心しているように、私たちの人生も神の懐に抱かれていることを信じて行 きましょう。その安心感が、家庭を平和に導き、幸せを作りだす確かな鍵であると、私は信じてい ます。 2013年 6月 聖書の言葉 牧師 菊池 丈博 「イエスは知恵が増し、背丈も伸び、神と人とに愛された」 (ルカによる福音書 2 章 52 節) 聖書の中で子どもの頃のイエス様が記されているのは一箇所しかありません。それが今月の御言葉 の箇所です。子どものイエス様と言っても 12 歳の頃の話しです。ナザレという村に住んでいたイ エス様家族が「過越しの祭り」という大きなユダヤ教の祝いがエルサレムで行われ、そこに恐らく、 初めて連れて行かれた時の場面が記されています。12 歳というと、現代では小学校 6 年~中学 1 年頃ですが。当時は、もう大人の仲間入りをする年齢でした。その為にも、両親はエルサレムのお 祭りに連れて行き、どのように祭りを祝うのか、大切なユダヤ教の宗教行事を見せたかったものと 思われます。祭りは一週間も続きましたから、結構長い期間エルサレムに滞在したのかもしれませ ん。祭りも終わり、さて帰宅という時に、イエス様が行方不明となります。母のマリアと父のヨセ フが探しまわったところ、エルサレムの神殿にいて、大人と神様の話しをしているのを見つけます。 大人の人達は、「イエスのあまりの賢い受け答えに驚いていた。」と記されています。 実は、古代に聖書が編纂された時に、聖書として認められなかった資料が沢山残っています。どう して聖書として採用されなかったのかは、信憑性の問題です。本当にイエス様の時代に書かれた文 章なのか?直接の弟子が記したものなのか?あるいは、後代になって作成されたものなのか?書い た著者は誰なのか?によって、聖書となった文章と、ならなかった文章とに分けられました。その 中で分かっていることの一つに、後代の文章に、子どもの頃のイエス様の姿を読むことが出来ます。 泳ぐのが下手だったのに、すぐに泳げたとか、飼っていた犬はトビアスという名前であったとか、 子どもたちが喧嘩をしていると上手に仲裁したとか、子どもの頃から霊的な力があったと記されて いる文章が多くあります。そのほぼ全てが不採用になり、聖書となりませんでした。どうしてでし ょうか。理由は簡単です。殆ど作り話であろうと考えられたからです。子どもの頃のイエス様につ いて誰かが知っていて、文章化したと判断出来ないと聖書を編纂した学者は考えたのでしょう。 ということは、聖書は信じられないと思える話し等が沢山記されていますが、本当は、学問的にも、 かなり逆に信じられる文章だけが聖書として採用されているのです。それ故に、子どもの頃の話し は、一つしかありません。それもイエス様が子どもの頃から奇跡を行えたと言う話では無く、12 歳になっていたイエス様は大人に対して賢く受け答えしていたという資料が聖書となりました。こ のことは、何を意味するのでしょうか?賢かったという事以上に、大切なことは、大人が「この子 は大したものだ」と誉めたのは、言葉遣いや、挨拶、応答の仕方、人との交わりがきちんと出来て いたということでしょう。12 歳頃の年齢とは、現代は思春期の年頃です。親も手こずる子どもが大 勢おります。話しもしない子どもが沢山います。どうしてこうなったのか親が心配する年頃です。 けれど、イエス様はそのような年齢で、一人前になっていたということでしょう。何を聖書は記そ うとしたのでしょうか。それは「神と人とに愛された」という言葉に凝縮されています。 みなさん、子どもの成長に大切なのは、たった一つ「愛される」ことです。「愛されていると感じ させてあげる」ことです。頑張っていきましょう。 2013年 5月 聖書の言葉 牧師 菊池 丈博 「わたしたちが愛するのは、神がまずわたしたちを愛してくださったからです。」 (ヨハネの手紙一 4 章 19 節) みなさん、GWどのように過されたでしょうか。楽しい思い出を沢山かかえて、子どもたちは新緑 の幼稚園に登園してきたことでしょう。素敵な幼稚園生活楽しんで頂きたいと思います。 実は、わたしのGWは少し大変でした。父が急逝しまして、田舎の岩手県に 2 年ぶりに帰りました。 男の子 4 人兄弟が揃ったのは実に 15 年ぶりとなりました。急逝といいましても 88 歳でしたから、 兄弟としては、どこかで神様の御心の中でのことと受け止めております。何よりも受け止めやすい のは家族の中では最年長でしたから、いわゆる順番通りになるわけで、そんなことも悲しみの中に あっても慰めの一つとなっています。そんな父の死を顧みながら、人が生きていく中で、案外、順 番って大切なことと改めて思います。 いきなりですが、子育てにしても順番が大切です。生まれて、2~3カ月で首がすわり、寝返り、 お座り、ハイハイとなり、つかまり立ち、そして初めての一歩というように、人の成長には確かな 順番があります。この順番を勝手に親が変えることは出来ません。最近、「早期教育」が盛んにな りつつありますが、果たして、どこまで成長する順番を意識しているのやらと、私はちょっと心配 しています。 父はとても厳格な性格でした。腹を割って話せる友も無く、無口な人でした。少し寂しさを持って いる人でした。その理由が父の葬儀に来た、父の妹の叔母さんと話しをして、なんとなくわかった 気がしました。それは、父は祖父の仕事の都合で、祖父の実家に預けられ、祖父は、父の妹の叔母 だけを連れて、隣町に越したのです。祖父は勿論父も連れて行きたかったのですが、実家の父のお 婆ちゃんが、家の跡取り孫を手放さなかったのです。それで止むなく娘だけを連れて、初孫である 父は家に残されました。 「何歳頃の話しなの?」と叔母に聞きましたら、 「小学校に行く前かしらね ~」と話してくれました。 そうなんです。丁度幼稚園の年齢です。父はその年齢で両親と離れて暮らさなければなりませんで した。しかも大切な妹は両親と一緒です。父は「心」の中で「自分は見捨てられた」と思ったので す。叔母が言っているのですから、恐らく本当です。 子どもにとって、何が大切なのでしょうか。お金だと思いますか?おもちゃだと思いますか?子ど もはそんなものに何の価値も見いだしません。子どもが価値を見いだすのはたった一つです。それ は「親の絶対的な愛情」です。愛情が一番です。後のことは2番以降になります。この順番が大切 なのです。 神の愛も、一番は、神様の側から私たちを愛して下さったということです。あなたが神様をどう理 解しようと、どう思っても、そんなことは神様からみれば大したことではありません。嫌いだろう が、恨もうが、それでも良いのです。人の思いを越えた神の愛があるからです。私たちのどんな時 にも、どんな状況でも神様は私たちを愛して見守っていて下さいます。その愛に「支えられている なぁ」と感じることが出来るならとても幸いです。なぜならその愛は、あなたの生涯を貫いて変わ ることがないからです。神様の愛に包まれて、良い家庭を築いていって欲しいと願います。みんな で素敵な5月にいたしましょう。 2013年 4月 聖書の言葉 牧師 菊池 丈博 「あなたの神、主を愛しなさい」 (申命記6章5節) 2013 年度が始まりました。幼稚園も始業式、入園式と行われ、新しい一年が本格的に始まろうとし ています。 その最初の月、4 月に与えられた聖書の御言葉は、 「あなたの神、主を愛しなさい」という御言葉で す。旧約聖書申命記6章5節の御言葉ですが、正確には聖書にこう記されています。「あなたは心 を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。」 つまり、私たちの神、主を愛する為には「心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くす」必要があります よ、ということです。実はイエス様も全く同じ言葉を話されています。但し、イエス様は神様を愛 することと、隣人を愛すること、この二つが大切ですよ、と教えられます。 信じるとは、神様を愛するだけでは、まだ不十分なのです。どうしてでしょうか?神様を愛する以 上に大切なことは無いと思われる方もいらっしゃるかもしれません。 聖書の中には「ファリサイ派」と呼ばれる法律の専門家が登場します。イスラエルの法律は「律法」 と言いました。法律と律法は、似ているようで違います。法律は人間が作り上げていくものですが、 律法は神様から与えられたものでした。その教えを守ることが最も大切だとファリサイ派の人々は イスラエルの人々に教えていました。ところが、どうも、ファリサイ派はイエス様とどうしても対 立してしまうのです。 どうしてでしょうか。イエス様が「神様を愛すること、それは隣人を愛することと同じだよ」と教 えたからです。神様を愛することは大切です、例えば具体的には教会の礼拝に行ったり、聖書を熱 心に読んだり、心を込めて祈ったり、そのどれもが大切です。ところが、不思議なことにあまりに も熱心に神様に夢中になってしまうと、神様に夢中になっていない人を見て、「あの人の信仰は生 ぬるい」とか「ろくに聖書も読んでいない」というように、人を裁いてしまう傾向が出て来るので す。ファリサイ派の人々はそのようにして多くの人々を裁いていました。だからことごとくイエス 様とぶつかってしまいました。 人を裁くとは、つまりは家庭においては夫が妻に対して、妻が夫に対して、親が子どもに対して怒 りや不満をぶつけるようなものです。なぜそれが出来るのかというと自分が中心であって、自分が 間違っていないからです。自分が間違っていないと思えば思う程、人は人を裁くことが出来るので す。 その姿は本当に正しいことなのか、とイエス様は問われているように思います。神を愛することは、 隣人を愛することです。しかも「心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして」愛することです。あな たの隣人はどなたですか?家族で言えば、愛する伴侶であり、子ども達であり、そして家族の皆さ んでしょう。家族の皆さんを心から愛することが出来る人が、神様を愛している人なのです。 「神様は愛せるけど、あの人は嫌い」この言葉は、聖書の意味を正しく理解していないと言えるで しょう。皆さん、幼稚園が子どもたちに伝えることは、「神様を愛するとは、お友だちを愛するこ とだよ」ということです。その実体を先生方から、しっかりと受け取ることでしょう。どうぞご家 庭でも、御家族を愛し、「あなたがとても大切です」という言葉を話して見て下さい。話すのが恥 ずかしいと思う方は、是非、行動で示してみて下さい。必ずそこに「幸せという宝物」を見つける ことが出来るでしょう。
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