共産党宣言からヘルシンキ宣言へ

共産党宣言からヘルシンキ宣言へ
青木 國彦(東北大学)
はじめに
40
1.「隣の芝生」としての 20 世紀後半の資本主義
41
2.「ヘルシンキ宣言」
50
3.「憲章 77 宣言」
55
4.「憲章 77 宣言」に加えて
61
『カオスとロゴス』第 24 号(ロゴス社 2003 年 12 月発行)
共産党宣言からヘルシンキ宣言へ
青 木 國 彦
はじめに
『共産党宣言』
[MEW 第 4 巻]が出版されてから丁度 70 年後の 1918 年、レーニンは
「勤労被搾取人民の権利宣言」
[レーニン全集第 26 巻]を発し、階級闘争の勝利を宣言し
た。それは階級闘争史観を鮮明にしプロレタリアートの勝利を予言した『共産党宣言』の
実現であった。あとに続こうとしてヨーロッパでも他の世界でも幾百万、幾千万人の革命
家が奮闘した。
後進国ロシアゆえに 10 月革命は『資本論』に反する革命であるとした人々もいるが、
レーニンはマルクスの忠実な、但しマルクスの協同組合的・連合社会的ロマンチシズムを
幾分国家主義バージョンに変えた弟子であったし、ソ連における数々の論争が示したのは
マルクス構想を教条的に実行しようとして実現できない苦闘の連続であった。
あわれにも、
ソ連人はマルクスの構想そのものに根本的欠陥があることを知らずに社会実験を続け犠牲
を積み重ねた。ソ連を国家資本主義だと非難したマルクス主義者は、マルクスの言うとお
りにやると、誰がやっても必然的に国家資本主義そっくりの事態になることを知らない呑
気な人々であった。
10 月革命と勤労被搾取人民の権利宣言から奇しくもやはりほぼ 70 年後(1989・91 年)
に、ソ連東欧は、資本主義先進諸国の経済的優位と人権上の優位の前に崩れ去った。ソ連
東欧において人権要求を支えたのは、内的には「プラハの春」の改革経験(1968 年)
、外
的には「ヘルシンキ宣言」
(1975 年)であり、さらに両者の融合物たる憲章 77 宣言(1977
年)であった。
この「ヘルシンキ宣言」は 75 年 8 月 1 日にアルバニアを除きソ連を含む全ヨーロ
ッパ諸国と米国・カナダ計 35 ヵ国の首脳が調印した全欧安全保障協力会議(CSCE)
最終文書の通称である。本誌編集長によれば、本誌読者には「ヘルシンキ宣言」があま
40
『カオスとロゴス』第 24 号(2003 年 12 月)
り知られていない。80 年以来耳にタコだった私には意外だった。しかし『現代用語の基
礎知識 2003』でも今や「ヘルシンキ宣言」とは 64 年世界医師会倫理綱領のことだから仕方
がないかもしれない。この事典の 90 年版ではそれは本稿で扱う宣言と 89 年モントリオール
議定書締約国会議政治宣言(フロン全廃へ)のことであった。百科事典では「冷戦構造を平
和的に変革させ,やがてはソ連・東欧諸国の社会主義体制を内部から崩壊させる一因となっ
た」と評価し記述も的確なもの[世界大百科事典]だけではなく、
「西側諸国からは東側諸
国に対して人権無視や自由束縛の非難が繰り返されるなど、ヘルシンキでの決定と成果は十
分に生かされな」く東欧の体制転換後に有効になったとまるで見当違いなもの[スーパーニ
ッポニカ 2003]や殆ど年表にすぎず無内容なもの[エンカルタ総合大百科 2003]もある。
「ヘルシンキ宣言」の意義を語るにもっとも雄弁な言葉は、ソ連崩壊直後 92 年 3 月の
同宣言フォローアップ会議(ヘルシンキ)におけるロシア外相コズイレフの次の発言であ
る:
「1975 年にヘルシンキに集まった…各国指導者たちが誇らしくも採択したあの決定が、
その後、
われわれ全てをいったいどこに導いて行くことになるのか想像だにしえなかった。
CSCE プロセスは、過去数年間にヨーロッパで生じたあの大変動を促すことになった。ヨ
ーロッパを東と西に分断し…ていたあの人為的な境界線を撤廃することに CSCE プロセ
スは寄与した。CSCE プロセスは、東欧諸国やわが国の革命の触媒ともなった。CSCE プ
ロセスは、人間性や人間の尊厳を無視したあの不条理な体制が自ら運命がつき崩壊してい
くのを早めることに寄与した」
[吉川(1994)3 頁から再引用、一部略]
。CSCE プロセス
とは「ヘルシンキ宣言」履行過程のことである。
本稿は、ソ連東欧の体制転換を『共産党宣言』の世界から「ヘルシンキ宣言」の世界へ
の転換という面から捉え、その含意を考え、マルクス唯物史観再考の一環としようとする
意図の前半である1)。
ソ連東欧の体制転換後も共産党独裁は中国とベトナムでは生き残り、そこでは今
も至る所で「赤い帽子」が重くのしかかっている(北朝鮮は 1970 年代以来イデオ
ロギーが異なるようなので別枠とする)。が、その人民たちは、目下のところ少な
くとも表面的には、経済成長しさえすればよいかのように、独裁を容認しているか
のごとくである。ソ連東欧の体制転換に比べると、これらは経済成長では成功であ
っても社会体制の進歩という点では大きく遅れてしまった。また東アジアは、軍縮
と人権を実現し相互信頼と協力を醸成する地域的仕組み、つまり「ヘルシンキ宣言」
41
レベルの枠組み(安全保障・相互協力・人権の履行点検付き 3 点セット)もまだ作
られていない。現在の 6 ヵ国協議は安保と人権を分離したままである。
「ヘルシンキ宣言」はソ連東欧における反体制運動を支え、また拡大した。しかしその
大きな影響力の前提は、そこに謳われた人権実現をソ連東欧政府も署名・批准し国際約束
したということとともに、
「隣の芝生」の青さであった。まずこのことを実感されやすいよ
うに体験も交えて説明したい。隣、つまり 20 世紀後半の資本主義先進諸国の成果(内科
的に体制修正された資本主義の経済的・社会的・政治的・文化的達成)とそれが東欧から
どう見えたかということこそが、19 世紀的資本主義への外科的療法として案出された社会
主義体制の命運を理解する鍵の 1 つである。
1. 「隣の芝生」としての 20 世紀後半の資本主義
東欧人には「隣の芝生」は眩しいほどに青かった。隣だから青く見えた面も幾分はあっ
たが、実際にずっと青かったし、多くの東欧人が現場に行って実見した。
経済格差を示す統計の一例が表 1 である。このGNPは為替レートによるドル換算のため
JEC(1995)が認めるように東欧は過小評価である。そこで表 1 の右端列に通貨の購買力
を考慮した所得水準比較を追記した。
これを 90 年代ではなく最近の数字とし挿入たのは、
90 年代東欧は購買力平価算出に疑義が強い上に経済があまりに落ちんでいたからである。
東欧は上位国でもギリシャ・ポルトガルにさえ及ばず、チェコ・スロバキアも戦前は同水
準だったオーストリアの半分程にすぎない。西欧主要国は所得格差も戦後はひどくなかっ
た。人間開発指標(HDI)の 1 つ乳児死亡率は 85 年に東独は西欧並みだったが、東欧と
ロシアは西欧の 1.5∼2 倍であった[青木(1991)212 頁]
(その後体制転換を挟む 10 年
で東欧主要国は大幅に改善した[EBRD(1997) p.42]
)
。
隣の芝生があんなにも青くなければ、つまり仮に東欧の西隣の経済がせいぜいポルトガルやギ
リシャの水準にあり、政治も独裁とか金持ちだけが選挙権を持つものであり、革命騒ぎや暴動が
絶えなければ、ソ連東欧史は違った展開となったかもしれない。この点では先進国の貧困と貧困
意識についてのアマーチャ・センの生活環境と関連させる考察を想起する[Sen(1992)第 7 章]
。
ましてや西欧における資本主義のもとでの貧困化と抑圧がマルクスの予言通りに進行し、マルク
スが見たビクトリア期資本主義同等かそれ以下の状況であったならば、まるで違う歴史に
42
なっていただろう。
「隣」は西欧、ここではエルベ川以西である。そこは物質的に豊かであり自由に満ちあ
ふれていた。労働時間は短縮され実質賃金が高く教育やバカンス制度が普及し、完全に秘
密が保たれる自由な競争選挙のもと労働者が支持する政党が政権につけるほどに政治が成
熟し、プロレタリア文化一色ではない多様な文化が自由に発展していた。完全にではない
があまり迫害を恐れることなく政治的な発言や行動をすることができた。反体制派たる共
産主義者や無政府主義者でさえもである。
事業を興すことも政党を作ることも自由だった。
町も村も昼も夜も明るく感じられた。チロルを訪れた東欧人がその美しさに思わず靴を脱
いで車から降りたというジョークがあるほどに東欧との落差が感じられた。そうした情報
は人とメディアを通じて東欧に大量に流入した。
表1
1 人当り GNP 及び工業国化の比較
1 人当り GNP
1 人当り GNI
就業者数で
(1990 年ドル表
示)
製造業が農業を
1938 年* 1990 年
(オーストリア=1)
超えた年
(2002 年、PPP による)
オーストリア
1,800
19,200
1950
1.00
チェコスロバキア
1,800
3,100
1940
0.49
フィンランド
1,800
26,100
1950
0.90
イタリア
1,300
16,800
1960
0.90
ハンガリー
1,100
2,800
1970
0.45
ポーランド
1,000
1,700
1970
0.36
ポルトガル
800
4,900
1980
0.61
スペイン
900
10,900
1970
0.72
ブルガリア
700
2,200
1970
0.24
ギリシャ
800
6,000
1990
0.65
ルーマニア
700
1,600
1980
0.22
トルコ
600
1,600
1990
0.22
* 1938 年の数字は米国 GDP デフレーターにより 1990 年価格に変換。
(出所)JEC(1995)p.17 より再引用。元は世界銀行や OECD 資料。右端列は青木が World Bank(2003)
の 2002 年 GNI(総国民所得)統計から計算し(PPP は購買力平価)
、チェコスロバキアの項にはチェコ
とスロバキアの人口加重平均を入れた。
43
これらは事実だが、
資本主義の他の面が書かれていないと非難する人がいるに違いない。
確かに現代資本主義にも大きな負の側面がある。
それは市民的正義の完全実現にまだ遠く、
労働権が保障できず、貧困化の仕組みも残っているし、サイゴン陥落(
「ヘルシンキ宣言」
の 3 ヵ月前)で終焉したと思っていた帝国主義の復活かのごとき現象さえある。帝国主義
の遺物ヤルタ体制の克服も近代欧米の繁栄の基礎の 1 つであった植民地収奪の贖罪も完了
していない。
「金で買える最良の民主主義」
[Palast(2002)
]という面もある。にもかか
わらず、社会主義を論ずるには、その具現体を現代資本主義の欠陥や未達成ではなくその
達成と比較することが肝要である。社会主義体制はが資本主義を超えないなら、革命の意
味はなかったからである。
政治的には「ヘルシンキ宣言」が、経済的には石油ショックとレーガン高金利、東アジ
ア新興工業国のヨーロッパ市場進出が東欧への影響を強めていた頃、
1980-82 年の 2 年間、
国際文化会館の新渡戸稲造フェローシップのおかげで私は東西ドイツを住み比べた(住居
は東ベルリンと西独フランクフルト)
。ランニング仲間で電気工の東独人が、東ベルリンの
アパート近くのトラックを一緒に走っていた時に、
「西独の生活のほうが豊かだ。しかし仕
事がきつくて失業もある。労働はこっちのままで西のくらしができると理想的なのだが」
と言ったのを今でも覚えている(私のテーマが両独比較ということを知った上での発言)
。
当時の東欧で暮らしたことのある人はご存知のように、東独を含む東欧では、西欧におけ
る自由と物の両方の豊かさへのあこがれが強烈だった(左翼的反体制派や私とつきあいの
あった若い世代の資本論教条主義者は違ったが)
。ソ連でもそうだが、東欧ほどの切実感や
臨場感はなかったように思う。ソ連市民は地理的にも遠く、東欧に比べればはるかに情報
も商品も遮断され、表 2 のように「ヘルシンキ宣言」後も西欧への旅行者は少なく、東欧
に多かった西欧との姻戚や出稼ぎの関係も取るに足りないものだった。
あの時代にはソ連東部からモスクワへ、モスクワからワルシャワへ、ワルシャワ
から東ベルリンへ、東ベルリン(といっても誰もがというわけにはいかず、子や孫
に頼まれた年金生活者や部品調達のビジネスマンなどであり、私も頼まれた)から
西ベルリンへ買い出しに行くという、西への玉突き買い出しがなされていた。バイ
カル湖畔から一足飛びに東ベルリンに来たソ連人の土産の買い出しを見て思わず
吹き出しそうになった。プラスチック製を主とするまるきりの日用品の山であった
(のちにソ連へ行って納得)。東独の百貨店網ツェントルムの靴売り場ではポー
44
ランド人が棚ごと買っていくとか、東独が全部「黄色」になっても(黄禍論を私に
言ってしまったことに気付いた東独人は「いや、それは中国人のことだ」と弁解し
た)、ツェントルムのある東ベルリンやライプチッヒなどだけは赤い、ポーランド
人の買い出しで賑わっているから、などと東独人は揶揄していた。
こうした買い出しの帰りの東への流れによって、またテレビなどのマスメディアや親戚
訪問、出稼ぎ、駐留軍人(外交官と違って庶民)などを通じて西隣の豊かさが知られ、社
会民主主義も知られていた。ソ連兵は東独になんと 36 万人、つまり東独人口比で 2%以上
もいた(当時日本駐留米兵は「わずか」4.7 万人)
。その一部はガソリンや軽油などの横流
しで腕時計やツァイス製品、日用品を買っていた[東独人からの個人情報]
。他の東欧にも
ソ連兵が約 15 万人もいた。ユーゴからは大量の西独出稼ぎがあった。知人のスロバキア
人は「プラハの春」後も西独で子守や女中をしていた。せっかく西独にいたのにまもなく
母国に戻ったことを「馬鹿だった」と悔いていた。
表 2 ソ連東欧から西欧への年間旅行者数の変化(人口 100 人当り人数)
1970/74(A)
1975/79
1980/84(B)
B/A
ブルガリア
0.8
1.5
1.9
2.38
チェコスロバキア
1.7
2.4
3.3
1.94
東独
9.0
17.8
20.0
2.22
ハンガリー
2.2
3.0
4.9
2.23
ポーランド
0.6
1.4
1.9
3.17
ルーマニア
0.4
0.4
0.7
1.75
ソ連
0.4
0.4
0.5
1.25
(出所)Georg Brunner, et al., Before Reforms, Hurst & Company, 1988, p.209. 吉川(1994)
366 頁から再引用の上、B/A を加筆。
東欧の西部地域やエストニアでは西側のテレビを見ることができた。東独は西独が
国境沿いに完備した送信網のおかげで盆地ドレスデン以外の全土でそれを見られた。
東欧の中では国外旅行規制が最も厳しいはずの東独でさえ 1980 年代後半には年間
三百数十万人(全人口の約 1/5)が西独に旅行し、うち百数十万人は年金年齢未満で
あった[青木(1991)24 頁、移住者数は同 18-21 頁]。それが 88 年には 400 万人
45
に達した[吉川(1994)369 頁]。ソ連からのユダヤ人移住も著増し 79 年は 1 年に
5 万人を超え、75-80 年に計 14.5 万人にのぼったが、80 年代前半には著減し、再び
87 年から増えた[宮脇(2003)146 頁]。
西側の物と自由の豊かさについての豊かな情報は「ヘルシンキ宣言」効果により一層増
幅された。ソ連東欧から西欧への年間旅行者数について「ヘルシンキ宣言」以前(1970-74
年平均)と以後(1980-84 年平均)の比率を見ると(表 2)
、ポーランドの 3.2 倍を筆頭に、
東独・ハンガリー・ブルガリアがいずれも 2 倍以上、チェコスロバキアも 2 倍近くとなっ
た。ルーマニアの伸びはやや少なく、ソ連は 25%増と僅かな伸びであった。しかもその時
期が石油ショック(西側より遅れて波及)による東欧の経済困難増大の時期と重なったた
めに、東欧市民にとって落差はより大きく感じられた。石油ショックが経済大国への跳躍
台となった日本とは対照的に、それは東欧を奈落に落とし、その経済体制の内包的成長不
可能という欠陥を如実に示した。
80 年代初めにはすでに、市民が語る実感として東独でさえ消費財供給が悪化し、豊富に
あったシーツ・タオル類さえ不足商品になった。私も不足商品探索や行列を体験してみた
ものだった。
70 年代デタントの中で西側からの借入れを増やした国々にはレーガン高金利も強烈な
パンチだった。ハードカレンシーの対外債務が累積し、通常 20%を超すと要注意になるデ
ッド・サービス・レシオが、82 年にはポーランド 234、東独 102、ユーゴ 99、ハンガリ
ー88、ルーマニア 75、ブルガリア 64、チェコ 57、ソ連 46%に達した(短期債を除くと
平均で 37 ポイント下がる)
[Fink/Mauler(1989)p.20]
。この比率は本来は元利返済額
の対財・サービス輸出比だが、ここでは対商品輸出比なので比率が過大に出る反面、多くが
ハードカレンシー獲得に役立たないコメコン内輸出を含むために比率が過小になる面もあ
る。いずれにしても極めて危険であった。
。ルーマニアが
外貨収入を増やそうにも、西欧市場は東アジア新興工業国に奪われた[表 3]
80 年代後半に債務を激減させて(1 人当り 82 年 418 ドルから 87 年 189 ドルへ)西側にいい
子ぶっていたが、それは国民を貧困に追い込んで返済に走ったからであり、そのために残虐な
停電措置を取ったり食料配給量のヨーロッパ最低記録を樹立した[シュピーゲル 49/1987]
。
東欧やロシアにキリスト教やルネサンスは南から来たが、17 世紀以来、ことに近
代の新しい政治や経済、文化は西からやってきた。西といっても米国については 、
46
表 3 西欧市場からの敗退:西欧の対非 OECD 工業品輸入に占める東欧の比重(ソ連除く)
1975
1980
1984
急成長産業
35
12
8
平均以上成長産業
27
23
19
平均以下成長産業
17
15
16
停滞産業
57
54
35
(出所)Boot(1987)
。
しばしば暴動騒ぎやホームレスの様子がテレビで流されるからか、あるいは帝国主義イメ
ージが強かったからか、あわれな住宅事情にあったソ連人でさえ「あそこよりはましだ」
という気持ちを抱いていた。米国がベトナム戦争の背後で世界の価値的文化的革命をリー
ドしたことはあまり注目されていなかった。
隣では金持ちが豊かで自由であるだけではなく、モノと自由双方の豊かさの底上げもな
されていた。知人のドイツ系ポーランド人一家は、苦難の生活ゆえに 80 年代初めに西独
に移住したが、失業の身にもかかわらず、西独での「生活の容易さ」に心から感動してい
た[青木(1991)
]
。こうした情報はポーランドへ伝えられ、次の移住者を生んだ。
随分前に社会主義諸国についての「安価な必需品」というイメージをジョージ・ケナン
でさえふりまくことを批判したが、今でもまだそのイメージが残っているらしく、第 22
回比較経済体制研究会研究大会(2003 年)での若手ロシア研究者の報告にもそうあった。
ソ連崩壊後に旧ソ連圏研究に入った世代は、
ソ連での買い物の東欧に比べてさえのひどさ、
やっかいさ、みじめさ、つらさ、暗さ、冷たさ、苛立たしさ、ばかばかしさを体験できな
い。それは今のロシアからはまるで想像がつかない。転換後たった 10 年で生じたこの巨
大な変化が、現体制のあれこれの欠陥(例えばポーランド・ルーマニア・旧ソ連諸国での
貧困層激増[EBRD(1999) p.16]
)にもかかわらず、あの体制の劣位を示している。東欧
はもちろんサハラ以南的貧困ではなかったが、
「ここはヨーロッパなのに」
(私の知人の 80
年の言葉)
という感覚からはあまりに貧しく不足の上に高かった。
基本食料さえ高いのに、
野蛮にもたばこは安かった。対賃金比の消費財価格の高さも買い物の時間コストと精神的
肉体的ストレスもエルベ川から東へ行くほど膨れた。ここでは統計を掲げる紙幅がないの
47
で、生活水準・消費者物価などの東西比較統計は青木(1991)第 4 章を参照された
い。
自由の貧困については後述の憲章 77 宣言が克明に列挙してくれる。ポーランドにおけ
る独立労組「連帯」の運動は物的・金銭的要求に発したが、すぐに政権の不当性を追及し
政治的社会的自由を要求した。東独の壁開放にいたる民衆運動は反核と人権、そして特に
旅行の自由の要求や政権の不当性(選挙疑惑)追及に端を発し、独裁による抑圧と不正義
を追及したが、その背後には西独マルクと西独の生活水準へのあこがれがあった。西ベル
リンに行けば赤ん坊を含めて 1 人当り 100 西独マルクのハードカレンシー小遣いがもらえ
ることを知っていたので、壁が開放された時、あの混雑の中でも赤ん坊連れで行った。両
独通貨同盟は東独経済と多くの東独人の生活に困難ももたらしはしたが、殆どの市民にと
ってはハードカレンシーとあらゆる自由を手にした満足感のほうがはるかにまさった。
図 1 の上段に資本論の叙述を図式化した。そこに付けた①∼⑤の 5 点について 20 世紀
(特にその後半)の資本主義がマルクスの想像外の展開、つまり体制修正(図の下段)を
遂げた。それゆえマルクスの予言ははずれた。①にはマルクスが重視した教育や余暇の拡
充も入っているが、彼にとって労働者階級のためのそれらの実現は、貧困と抑圧からの解
放と同様に、革命後にしか実現されえない夢だった。類似の夢を新古典派経済学の祖 A. マ
ーシャルも持っていたが、彼は資本主義下でもそれらを実現したいと思っていた。現実の
発展の輝かしさはマルクスの目も眩むばかりである。実は、そうした発展の潜在的な必要
性と可能性が資本主義に内在していることを明らかにしたことこそ資本論の功績の 1 つで
あった。ただマルクスは、その潜在的体制能力が革命後にしか開花しないと見誤った。
東独党書記長・元首ホーネッカーの妻で 27 年間(1963-89 年)も国民教育相であった
マーゴットは、夫に同行の訪日(81 年 5 月)を前に準備された日本の教育事情報告を却下
した。この東独育ちの律儀なマルクス主義者には、報告が示す東独よりはるかに高い高校・
大学進学率は資本主義ではありえないはずだったからである[81 年 3 月関係者から聞き取
り]
。
税制・社会保障による所得再分配について厚労省(2003)にある数字を挙げると、
等価型(Luxemburg Income Study 型で、所得を世帯人数の平方根で割る)ジニ係数
(所得格差を最小 0 と最大 1 の間で示すジニ考案の数字)の当初所得の場合(A)と再分
配後所得の場合(B)を比べる(A と B の差を A で割る)と、80 年代にスウェー
48
図 1 マルクスの必然性予言と彼の想像外の出来事
マルクス「資本主義的蓄積の歴史的傾向」
(
『資本論』1 巻 24 章 7 節骨子)
:
小経営=自己の生産手段と自己の労働にもとづく個人的所有
↓
資本の本源的蓄積=「民衆の大群からの土地と生活手段、労働用具の収奪」
↓
少人数による大規模私的所有
市場経済の大規模化
生産技術の高度化と大規模化/1/
↓↑
↓↑
↓↑
産業循環・恐慌/2/②
↓↑
+
資本の集中=独占の発展③
×
+
+
貧困や抑圧の増大、失業等① →→ 労働者の反抗/3/④
↓
プロレタリア革命/4/⑤
「生産手段の集中も労働の社会化も、その資本主義的外皮とは調和できな
くなる・・。そこで外皮は爆破される。資本主義的私有の最期を告げる鐘が
鳴る。収奪者が収奪される」
(注)/1/生産の社会化と私的所有の矛盾(内在矛盾)、/2/工場内生産の組織化と社会的
生産の無政府性の対立、/3/ブルジョアジーとプロレタリアートの対立、/4/生産の
社会化に応じた所有の社会化
体制修正(マルクスの想像外の出来事により彼の必然性予言がはずれる)
:
①所得再分配、実質賃金上昇、労働基準改善、教育普及、余暇拡充、社会保障、
失業対策事業、②ケインズ政策、市場経済の枠組み内の「計画化」
、③独占解体
も含む独占禁止法(競争促進法)
、中小企業・ベンチャー企業育成、④市民的権
利の普遍化、従業員経営参加、昇進機会、階級階層間流動化、シェアエコノミー、
⑤体制修正による資本主義発展
[出所]青木(2003b)に若干加筆。注はエンゲルス『反デューリング論』の用語法。
49
デン52.7%、西独 37%、フランス 30%と高い再分配度であった。日本は 18%(98 年)
、米国も
18%(86 年)であった。最近のB はスウェーデン0.221(95 年)
、ドイツ 0.261(94 年)
、フラ
ンス0.288(94 年)
、日本 0.333(98 年)
、英国 0.345(99 年)
、米国 0.368(2000 年)である。
厳密なことではないが、ジニ係数が 0.4 以下で格差形状が極端でなければ、所得格差に
よる革命は考えられない。ただ日本ではバブル期以後最近もジニ係数が急上昇し、99 年に
は世帯当り当初所得のそれが 0.472 になったという調査(再分配後は 0.3814)もある[厚
労省(2002)
]
。
政治経済両面で 19 世紀構造だったからこそレーニンは革命に成功したが、20 世紀後半
には資本主義の体制修正のゆえに社会主義体制への革命は無理かつ不要であった。体制選
択にかかわるようなことでさえ想像外の出来事が歴史には起こりうる、そのことを無視し
てある方向に必然的に向かうかのごとくに予言するのは想像力の貧困だ、というのが、ポ
パーの歴史法則主義批判、マルクス批判の中心点であった。ポパーによれば、歴史法則主
義者の欠陥は、
「自分の気に入りの趨勢を固く信じていて、それが消え去ることになるよう
な諸条件などとても考えることはできない」
[Popper(1957)邦訳 196 頁]ことであり、
その趨勢を絶対視し、そこから外挿的に、確信をもって未来を予言することにあった[青
木(2003)3 章参照]
。
唯物史観なり進歩史観を想像力(従ってまた創造力)豊かで柔軟なものにするための 1
つの考案が市井(1978)のキーパーソン理論であった。資本主義の体制修正のキーパーソ
ンはまずマルクス、次いで大恐慌期のスウェーデン首相ハンソン、米大統領 F. ルーズベ
ルト、ケインズ、現代的社会保障の祖ベバレッジなどか。マルクスと彼が鼓舞した社会運
動が資本主義を鍛え、それが彼に由来する社会主義体制を倒した。ある時点の予測にいく
ら根拠があっても多様な主体的対応がありうるから予測と違う方向に社会が向かうことが
ある。共産圏がそうであったように硬直的な将来社会予測に縛られると、創造的で自由な
社会発展の道が閉ざされる。
2. 「ヘルシンキ宣言」
隣のような青い芝生への転換の要求を促進したのが「ヘルシンキ宣言」であった。
同宣言には履行をチェックする仕組みがあったので、その実施過程を CSCE プロセ
スと言う。
50
CSCE(全欧安保協力会議)の発端は 1954 年のソ連外相モロトフの「全欧州条約」締
結の呼びかけであった。フルシチョフ期には進展せず、ブレジネフ政権が欧州安全保障会
議いう形で再提案し、戦後処理の確保(特にポーランド国境や東独の承認)とデタントの
ために熱心に取り組んだ。西側も種々の思惑から、NATO 加盟国たる米国とカナダの参加
や人権・人と情報の交流も加えることなどを条件に開催に応じた。会議は全欧安全保障協
力会議という名で 1972 年 11 月 22 日ヘルシンキにおける大使級準備会議から始まった。
準備会議は議題や会議の決定方式、組織などを議論して翌年 6 月 8 日までかかって最終勧
告をまとめた。これに基づきアルバニア以外のすべてのヨーロッパ諸国(準備会議不参加
のモナコも含む)と米国・カナダが参加して、73 年 7 月 3 日から、まず外相級会議、つい
でジュネーブに移って専門家会議が続けられ、75 年 7 月 30 日-8 月 1 日に首脳会議が行わ
れ、全員が最終文書に署名した。CSCE 開催に至る東西双方の思惑や提案合戦、議論、そ
の後の経過については百瀬・植田(1992)や吉川(1994)が詳しい。
百瀬・植田(1992)第 5 章(筆者は関場誓子)によれば、米国では時の大統領フォード
の署名に議会やニューヨーク・タイムスなど有力マスコミの大勢が反対した。会議でも「ア
メリカは… あまりにも消極的 で、 ただ座っているだけ (ブレジネフ)としてソ連を
憤慨させた。当時キッシンジャーの補佐官を務めたハイランドによれば、 プロセスを長引
かせて各段階でソ連の譲歩を追る というのがアメリカの戦術だった」
[124 頁]
。フォー
ドはヘルシンキに発つ直前に議会や東欧系市民の代表を前に演説し、署名する理由として
西側との「大西洋同盟の連帯を維持する」ことと、
「東欧の人々の自由と独立への期待を支
持すること」を挙げ、
「異なった政府が、たとえ紙の上だけとはいえ、もっと幅広い人的接
触や交流、ジャーナリストの待遇改善、家族の統合や国際結婚、情報や出版物のより自由
な流通、旅行の増大等について合意することは、アメリカの積極的な支持を得るにたる展
開である」と述べた。フォードは署名式典でも宣言の成果として、まず思想の自由等の基
本的人権とより自由な情報の伝達や家族統合を挙げ、次いで貿易・科学技術協力、国家関
係の原則の順に言及した[125-6 頁]
。フォードやブレジネフ、両独首脳の式典演説やその
要旨の邦訳が外務省(1975)にある。
フォードは翌年の大統領選挙において CSCE についてのちょっとした失言でカー
ターに惜敗した[同前]。カーターによってより強い人権外交になった(対ソ連東欧
外交についてのフォード・カーター・レーガンの異同は百瀬・植田(1992)所収 N.ダ
51
ニロフ論文参照)。だが、もしもフォードがヘルシンキへ行かなかったら、「ヘルシ
ンキ宣言」は成立せず、その結果ソ連東欧の反体制派の国際的基盤が形成されず、
歴史は何十年か遅れたかもしれない。
カーターは「ヘルシンキ宣言」の履行を求める憲章 77 宣言発表と同じ 77 年 1 月に米大
統領に就任し、直ちに人権外交を展開した。ソ連は人権外交に対抗してオルロフやギンズ
バークなど国内のヘルシンキグループを逮捕したが、カーターは手を緩めなかった。これ
に対して西独首相シュミットなどはデタント促進の観点から反対したと言われる[同
128-9 頁]
。そうだとすると、シュミットもこの点ではこの時期まだ少なくなかった「ソ連
を刺激するな」という妥協的対応であった。
ソ連東欧当局は、
「ヘルシンキ宣言」によって戦後国境の不可侵の約束2)と東独の承認、
そしてデタントを手に入れたと大いに喜び、宣言全文が党機関紙やパンフで広く公式に流
布され、さらにソ連は 1977 年のいわゆるブレジネフ憲法に「ヘルシンキ宣言」10 原則を
取り入れたほどであった[吉川(1994)第 3 章 2]
。首脳会議でホーネッカーは、宣言を
「10 年間ワルシャワ条約機構諸国が提唱し続けてきた理想(の)実現」
「第 24 回ソ連党大
会における平和プログラム…の成果」だと讃えた[外務省(1975)演説要旨]
。しかし西
側では、成立当初、政府も民間も、西側の成果は人権尊重や人と情報の交流にすぎず、そ
れさえ履行されるかどうか分からないと、低い評価であった[吉川同前や小松原(1977)
]
。
ソルジェニツィンも宣言を東欧人の墓掘りに手を貸すものと非難したそうだ[小松原
(1977)
]が、ソ連東欧の多くの反体制派は宣言の意義をただちに見抜いて、宣言に呼応
する動きを敏速に見せた。
「ヘルシンキ宣言」は、(1)人権規定自体には新しさはないが、
人権尊重などを参加国間関係を律する原則の 1 つとした点で国際人権規約など既存の水準
を越えたこと[吉川(1994)89 頁]
、(2)具体的な人と情報の交流を規定する第 3 バスケッ
トが用意されたこと、(3)履行をチェックするフォローアップの仕組みを持ったこと、(4) ソ
連東欧の多くの国において反体制派が抑圧を覚悟の上で宣言に呼応してそれを活用しよう
と公然と立ち上がったこと、によりその後の歴史に大きく影響することになった。ソ連東
欧の反体制派の勇気ある呼応なしには「ヘルシンキ宣言」も絵に描いた餅に終わっただろ
う。他方、彼らにとっても、
「宣言違反だ」という追及の国際法・国内法上の根拠を得たこ
とは勇気百倍の出来事であった。ソ連東欧では、
「ヘルシンキ宣言」に基づく内外の圧力の
結果、西側との人と情報の交流が進展した。西側は肉(領土)を斬らせて骨(体制)を
52
斬ったと言えるが、それによりその後ドイツにとっては東独が戻り、ポーランドやチェ
コの旧ドイツ領もヨーロッパ連合に入るまでになった。
国際人権規約をソ連・東独・ハンガリー・ルーマニアは宣言交渉中(73-4 年)に、チェ
コスロバキアは宣言成立直後(75 年)
、ポーランドは 77 年に批准した(ユーゴ・ブルガリ
アは CSCE 以前)が、吉川(1994)はそれを人権(従って宣言)尊重の姿勢を見せるた
めだったと言う[87 頁]
。木村(1977)は、世界人権宣言採択を棄権したソ連やチェコが
人権規約を率先批准したのは、規約が表現の自由などに条件付きながら国家による制限を
認めたためだと言う。しかし「ヘルシンキ宣言」第Ⅶ原則(後述)はそうした限定をせず、
その上世界人権宣言にも従うと定めた。
国際人権規約は、国連憲章(1945 年)および世界人権宣言(1948 年国連総会)3)の具
体化として、1966 年国連総会で採択されたもので、自由権規約(
「市民的・政治的諸権利
に関する国際規約」
)と社会権規約(
「経済的、社会的及び文化的権利に関する国際規約」
)
からなる。これはCSCE開始当時は未発効だったが、
「ヘルシンキ宣言」の人権規定はこれ
らと世界人権宣言に基づいていた。
国際人権規約の国連総会採択後、ソ連東欧はまもなく 60 年代末に署名した(批准は前
述)
。人権規約はチェコスロバキアの批准により批准国数が規定の 35 ヵ国に達し 76 年に
発効した。皮肉な歴史であった。人権規約は、チェコスロバキアの隣国オーストリアも日
本や米国、英国も発効後の批准であった。北朝鮮が 81 年にそれを批准したのは当時も今
も人権規約への侮辱以外の何ものでもないが、いつか北朝鮮反体制派がこれを武器に登場
すること祈りたい。韓国の批准は 90 年であった[同規約批准情報]
。日本は署名でさえ発
効後の 78 年であり、国会承認が 79 年であった[田畑(1990)
]
。日本弁護士会が再三早期
批准を訴えていた[同会ウェブサイト]にもかかわらずである。
「ヘルシンキ宣言」の人権条項や第 3 バスケットを推進した西側に対し東側からは自国の人
権侵害を棚上げした欺瞞との声もあがった。そういう面もあるが、しかし戦後に人権と人権に
ついての議論を発展させたのは西側であった。それは現に貧困と抑圧があり利害対立と紛争、
葛藤があるからこそ、必要になったのであるが、言論の自由があるからこそ可能になったし、
社会運動の自由と経済発展による物質的裏付けがあったからこそ現実に人権が発展した。ソ連
東欧には、理念的に抑圧も搾取も紛争もないことにされ、実態究明の言論の自由や社会運動の
自由がなく、経済体制の困難ゆえに物質的豊かさもなかった。
53
「ヘルシンキ宣言」は、(1) 「ヨーロッパの安全保障に関する諸問題」
、(2) 「経済、科
学及び技術並びに環境の分野における協力」
、(3) 「人道及びその他の分野における協力」
という 3 つのバスケットと「地中海の安全及び協力に関する問題」という文書からなる。
第 1 バスケット(1)の合意文書は、
「1」
(タイトルなし)と「2 信頼醸成措置並びに安全
保障及び軍縮の若干の側面に関する文書」とから成っており、前者は「(a)参加国の関係を
律する諸原則に関する宣言」と「(b)上記諸原則のいくつかを実行することに関連する事項」
から成っていた。そのうち「1」の「(a)参加国の関係を律する諸原則に関する宣言」では、
次の 10 原則が合意された:Ⅰ主権平等、主権に固有の諸権利の尊重、Ⅱ武力による威嚇
又は武力行使の抑制、Ⅲ国境の不可侵、Ⅳ国家の領土保全、Ⅴ紛争の平和的解決、Ⅵ内政
事項への不干渉、Ⅶ思想、良心、宗教、信条の自由を含む、人権及び基本的自由の尊重、
Ⅷ人民の同権と自決権、Ⅸ国家間の協力、Ⅹ国際法の義務の誠実な履行。
この中の第Ⅶ原則「思想、良心、宗教、信条の自由を含む、人権及び基本的自由の尊重」
は、まず、次のように確認した:
「参加国は、人種、性、言語、宗教の差別なく、思想、良
心、宗教、信条の自由を含む、すべての者に対する人権及び基本的自由を尊重する。参加
国は、人間に固有の尊厳に由来し、人間の自由かつ完全な発展に不可欠な市民的、政治的、
経済的、社会的、文化的及びその他の権利並びに自由の効果的な行使を伸張し、奨励する。
この枠内において、参加国は、個人が自己の良心の命ずるところに従って行動し、単独に
又は他の者と共同して、宗教又は信条を表明しかつ実行する自由をもつことを認め、尊重
する。…少数民族に属する人の法の前の平等に対する権利を尊重し、…彼らの正当な利益
を擁護する。…参加国は、この分野において個人がその権利及び義務を知り、これに基づ
いて行動する権利をもつことを確認する」
。
このうちの少数民族の権利を提案したのは、皮肉なことに、ユーゴスラビアであり、東
側が支持した[吉川(1994)301-2 頁]
。
さらに、人権と基本的自由の意義付け(普遍的意義と国際的友好促進にとっての意義)
もおこなっている:
「参加国は、その尊重が、参加国並びにすべての国家の間の友好関係並
びに協力の発展を確保するために必要な平和、正義並びに福祉にとって基本的な要素とな
る人権及び基本的自由の普遍的な意義を認める」
。
その上で、具体的には次のような国際的取り決めの履行を参加国の義務とした:
54
「人権及び基本的自由の分野において、参加国は、国際連合憲章の目的及び原則並びに世
界人権宣言に従って行動する。参加国は、また、特に、人権に関する国際規約を含め、自
国を拘束するこの分野における国際的宣言及び取極に定められている義務を履行する」
。
憲章 77 はここをとらえて運動を開始した。
第 1 バスケットのうちの「2 信頼醸成措置…」は、Ⅰ主要な軍事演習の事前通告、Ⅱ
軍縮に関する問題、Ⅲ一般的な考察、からなっていた(この措置のその後の経緯は浅田
(1990)参照)
。
第 2 バスケットの中は、1 貿易、2 産業協力及び共通の関心を有するプロジェクト、3
貿易及び産業の協力に関する条項、4 科学及び技術、5 環境、6 他の分野における協力から
なっていた。第 3 バスケットについては次節で触れることにするが、吉川(1994)9 章、
百瀬・植田(1992)4 章、宮脇(2003)8 章が詳しい。
。
履行を検討するフォローアップ会議は最初は 2 年後ベオグラード開催とだけ決められた。
ベオグラード会議は準備と本番で 77 年 6 月から翌年 3 月まで紛糾の末、また 2 年後マド
リード開催を決めた。マドリード会議は 80 年から 83 年まで続き、ここで人権問題重視の
米国の立場が西側共通になった[吉川(1994)132 頁]
。そこで次回は 86 年 11 月からウ
ィーンと決まり、それは 89 年 1 月まで続いた。途中、軍縮、人権、人的接触などテーマ
別専門家会合やヘルシンキでの 10 周年会議も持たれた。経緯は百瀬・植田(1992)や吉
川(1994)
、宮脇(2003)に詳しい。
CSCE はソ連東欧の体制転換を経て 95 年に全欧安保協力機構(OSCE)という常設機
構になったが、あまり機能していない。東アジアでは当面常設よりも「ヘルシンキ宣言」
同様に、安全保障、経済・技術協力、人権と交流促進の 3 点のフォローアップ付きセット
の多国間協定が望まれる。
3. 憲章 77 宣言
東欧では、1950 年代のいくつかの大きな「暴動」
(東独、ポーランド、ハンガリー)の
後に、各国とも 60 年前後にはいわゆる過渡期の終了を告げた。それとほぼ同時に、消費
財滞貨や経済成長低下(チェコスロバキアではマイナス成長)などの経済矛盾が早くも露
呈してきた。
そこで 60 年代にはどの国でも改革が問題になったが、政治改革に踏み込もうと
55
したのはチェコスロバキアだけであった。
「人間の顔をした社会主義」への改革、いわゆる
「プラハの春」と呼ばれた改革がそれであり、それは社会主義圏に衝撃を与えた。作家同盟
などに突き動かされながら共産党の側から当時としては相当に踏み込んだ政治改革と経済
改革が志向されたが、さらに、68 年 6 月 21 日に「二千語宣言」が発表され、自由化支持の
知識人を中心に市民 7 万人が署名した。ソ連など 5 ヵ国からなるワルシャワ条約機構軍がチ
ェコスロバキアに侵攻して改革を圧殺したのは、その 2 ヵ月後 8 月 20 日であった。
「プラハの春」の改革はつぶされたが、その経験(改革の経験と改革が戦車でつぶされ
た経験の両方)はソ連東欧に体制への疑念をはぐくんだ。それは、周知の通り、ゴルバチ
ョフにも影響を与えたと言われている。彼はモスクワ大学同期で「プラハの春」の理論的
指導者・元党書記ムリナーシとの対談で、
「1968 年のチェコスロバキアは私にとって批判
的思考への主要な刺激だった。わが国にはなにか正しくないことがあるということを私は
理解した」と言う[Gorbachev/Mlynar(2002)p.47]
。そのことは彼の回想録にも控えめ
に出ている[ゴルバチョフ(1995)上巻 154-7 頁]
。東欧でも種々の呼応があった。
ゴルバチョフが、アンドロポフの指示でレーニン没後 60 周年報告を準備することにな
りレーニンの晩年を研究した結果、
「10 月後に我々は間違った道をたどった、誤りをおか
した、社会主義についての我々の考え方を根本的に修正しなければならないというレーニ
ンの告白の意味は何だったのか。…これが本来の彼自身に立ち返ったレーニンだった。つ
まり社会主義の土台は民主主義の発展によって準備され、社会主義は民主主義を通じて実
現するという考えだった」と熱弁をふるうのに対して、ムリナーシは「まるで 1968 年の
プラハの春にあった演説のようだ」と応じた[Gorbachev/Mlynar(2002)pp.50-1]
。ゴ
ルバチョフにとってペレストロイカは 20 年遅れのプラハの春であった[ゴルバチョフ
(1995)下巻 418-9 頁]
。
プラハの春の後はポーランドの独立労組「連帯」公認(1980 年)までソ連東欧には
政治改革はなく、反体制運動は非合法運動として広まった。反体制運動に画期的な基
盤を与えたのが「ヘルシンキ宣言」であり、彼らは 1977 年 6 月からベオグラードで
フォローアップ会議が予定されていたことを活用した。チェコスロバキアの反体制運
動は 77 年 1 月、
「プラハの春」当時の外相イジ・ハイエクを筆頭署名者とする「憲
章 77 宣言」を発表し、チェコスロバキアにおける「ヘルシンキ宣言」違反を国内
外に告発した。宣言の最初の署名者はハイエクや体制崩壊後に大統領になる非共産
56
党員劇作家ハベルのほか、ムリナーシら合計 240 人であった。うち半分が「改革派
共産主義者」であった[Gorbachev/Mlynar(2002)p.45]というから、半分は非共
産党であった。
憲章 77 宣言は、文学的飾りの多い呼びかけ文といった調子であった「二千語宣言」と
はまるで違い、
「ヘルシンキ宣言」とチェコスロバキアにおける国際人権規約批准という事
実に基づいて、法的、実務的にチェコスロバキアにおける国際人権規約(A 規約=社会権
規約と B 規約=自由権規約)違反を告発した。国際的反響は大きく、わが国でもすぐに朝
日新聞(1 月 9 日)や世界週報(2 月 1 日)
、世界政治資料(2 月下旬号)に全訳が掲載さ
れた
[栗栖
(1977)
]
。
憲章 77 宣言の英文は、
国際自由労連を介して ILO の Official Bulletin
A-3(1978)にも掲載された[Dominick(1981)p.407]
。
憲章 77 宣言は単に「憲章 77」と言われることもある[詳しい事例は栗栖(1977)
]し、
世界週報訳(ドイツ紙から)のタイトルも「 憲章 77 全文」であった。しかし宣言末尾
には、
「憲章 77 はその象徴的な名称において、それが政治犯の権利擁護の年と宣言された
年、またベオグラード会議が ヘルシンキ宣言 の義務履行を検討する年の初めに誕生し
たことを強調したい」とあるのだから、憲章 77 は組織名とする。ILO での英文タイトル
も「The Charter 77 Manifesto」であった。引用文中の政治犯擁護年とはアムネスティ・
インターナショナルが設定した「良心の囚人年」を指し、小松原(1977)によると、憲章
77 はアムネスティと連係したらしい。
モスクワ(物理学者オルロフら、76 年)などソ連各地やポーランドでもヘルシンキ・ウ
ォッチが設立された[吉川(1994)
]
。チェコスロバキアでは 75 年末にも元国民戦線議長
クリーゲルら 3 名や歴史家カプランがそれぞれ党と連邦議会に「ヘルシンキ宣言」遵守を
要求する意見書を提出していた[栗栖(1977)
]
。
西側では共産党を含む左翼も憲章 77 を支持した。人民日報 77 年 1 月 26 日号さえもだ
そうだが、
おそらく人権支持ではなくソ連批判からだろう。
ソ連東欧では弾圧も増えたが、
抵抗も強まり広まった。ソ連・チェコスロバキアのみではなくポーランドの労働者擁護委
員会の運動、東独のビアマン支持や 10 万人規模の出国申請、ハンガリー知識人 30 人によ
る支持声明などである[世界(1977)
、和田(1977)
、小松原(1977)
、木村(1977)など]
。
憲章 77 宣言4)は、その冒頭において、自由権規約と社会権規約が「1976 年 10 月 13
日にチェコスロバキアの法律集(No.120--英文から青木補足)の中で公表された。
57
両規約とも、1968 年にわが共和国の名において調印され、75 年にヘルシンキで確認され、
6 年 3 月 23 日にわが国で発効した。それ以来、わが国の市民もこれらに従う権利を持ち、
わ
が国家もその義務がある。両規約によって保障される人間のさまざまな自由と権利は、
重要
な文明上の価値であり、歴史上、多くの進歩的諸勢力がその実現を目指して努力してきた。
また、その法制化は、われわれの社会の人間的発展を大きく促進することができる。それゆ
え、われわれは、チェコスロバキア社会主義共和国がこれらの規約に加盟したことを歓迎す
る。
しかし、両規約の公表は同時に、わが国でいかに多くの基本的人権が目下のところ、残念ながら、
単に紙の上でしか通用していないことを、改めてわれわれに強く思い起こさせる」と訴えた。
憲章 77 宣言による体制告発事項を整理して列挙しよう。その際、項目分類と番号付け、
項目名は青木によるし、また文章の順序も若干変更し、省略もしている。以下の引用文中
の「第 1 の規約」は自由権規約、
「第 2 の規約」は社会権規約を指す。
(1) 表現の自由:自由権規約第 19 条(表現の自由)がチェコスロバキアにおいては「全
く幻想」であり、
「おびただしい数の市民が公的見解と異なる見解を持っているという理由
だけで、自分の専門分野で働くことを不可能にされている。その上、彼らはしばしば、当
局や社会的組織によるさまざまな差別やいやがらせの対象にされる。弁護の可能性はいっ
さい剥奪され、事実上一種の隔離政策(アパルトヘイト)の犠牲になっている」
。宣言は明
記していないが、こうしたことは社会権規約第 6 条(労働権)違反でもある。
「 あらゆる種類の情報や思想を、口頭であれ、文書、印刷物あるいは芸術の形によって
であれ、無制限に伝え、受け入れ、広める 権利(第 1 の規約の第 19 条第 2 項)<世界
週報訳は第 13 条第 2 項と誤記>を主張することは、裁判所以外でばかりでなく、裁判所か
らも追及され、しばしば犯罪告発の名目で訴追される」
。
(2) 恐怖からの自由:両規約共通の前文にある「恐怖からの自由」でさえ守られていな
い。
「自分の意見を述べれば、職業上やその他いろいろな可能性を失う危険を絶えず感じな
がら生活することを余儀なくされているからだ」
。
(3) 教育権:
「数限りない若者が自分や両親の意見だけを理由として高等教育の場から締
め出されているが、これはすべての者に教育を受ける権利を保障した第 2 の規約の第 13
条に違反している」
。
(4) 干渉・攻撃からの保護:「公式のプロパガンダが真実でない侮辱的主張をし
ても、これに対し公然と弁護する可能性は閉ざされている(第 1 の規約の第 17 条で
58
はっきり保障されている 名誉および品行に対する攻撃 からの法的保護は、実際上は
存在しない)
。虚偽に満ちた告発が誤りであることをあかしすることもできず、法廷に救済
や訂正を求めても全くムダである」
。
「 個人生活、家族、家庭、信書に対する恣意的な干渉
の明確な禁止(第 1 の規約の第 17 条)を含む他の市民的諸権利も、内務省がきわめてさ
まざまな方法で市民生活を規制することにより、由々しい侵害を受けている、その方法と
は、たとえば、電話や住宅内の話の盗聴、郵便物の取り締まり、個人に対する監視、家宅
捜索、住民の側での密告者網創設(しばしば、不法な脅迫やその反対のさまざまな約束に
よる)などである」
。
(5) 思想・信条・宗教の自由:
「第 1 の規約の第 18 条ではっきり保障されている信仰の
自由は、権力者の恣意によって組繊的に制限されている。それは、聖職者の職務遂行に対
する国家の認可取り消しや喪失という脅しを絶えずかけることによって、聖職者の活動を
規制し、自分の宗教信仰を言葉や行為であかす人々に対し、生活やその他の面で報復措置
を加え、宗教教育やそれに類するものを抑圧するという形をとっている」
。ここでは宗教の
みが言及されているが、第 18 条は思想・信条・宗教の自由の項目であり、思想・信条の
自由も抑圧されていたので、項目名を思想・信条・宗教の自由とした。
(6) 集会・結社の権利、(7) 参政権、(8) 普通平等秘密選挙権、(9) 公共サービス利用権、
(10) 法の前の平等:
「一連の市民的諸権利を制限し、しばしば完全に抑圧する手段となって
いるのは、支配している党機関の政治的指令や、影響力の大きい個々の権力者の決定の下に
国家の全制度・機構が事実上従属しているという体制そのものである。チェコスロバキア
憲法も他の法律も規則も…(それを)なんら規制していない。それらの決定は、主として舞
台裏で、しばしばただ口頭で下され、市民たちには全く知らされず、したがって市民たちか
らなんの制御も受けない。その発起者たちは、自分自身とその権力機構(ハイアラキー)以
外の何人に対しても責任を負わない。しかし、国家の立法・行政機関、司法組織、労働組
合、利益団体、その他のあらゆる社会的組織、他の諸政党、企業、工場、施設、官庁、学
校、その他の機関の活動に決定的な影響を与えている。しかもその場合、そうした指令は
法律よりも優先するのだ。…第 1 の規約の第 21 条と第 22 条に規定された諸権利(集会の
自由と、その行使の制限禁止)
、第 25 条による権利(参政権)<「公務の遂行に参加する
権利」との世界週報訳を改訳>、第 26 条に基づく権利(法の下での平等)は、以上のよ
うなもの全部によって重大な制限を受けている」
。
59
自由権規約第 25 条は、各人が差別や不合理な制限なしに、(a)直接・間接の参政権、(b)
普通平等秘密選挙権、(c)公共サービス利用権を持つことを規定している。憲章 77 宣言は
この第 25 条について (a)参政権のみを記しているが、(b)と(c)も侵害されていたので、(8)
と(9)を青木が追加した。
なお、田畑(1990)や外務省訳[外務省ウェブサイト]は、(c)を「…自国の公務に携わ
ること」と訳しているが、英文は「…公共サービスを利用すること」である。公共サービ
ス利用権は政治的差別によってのみならず、行政の不透明性と恣意性によっても著しい制
限があった。この様子の一端(私営パブ開業物語)については、青木(1991)159-161 頁
参照。
(11) 労働基本権:
「こうした状況<項目 6∼10 の引用文を指す>は、肉体労働者やその
他の勤労者が自分たちの経済的・社会的利益を擁護するため、なんの制限もなしに労働組
合やその他の組織を結成したり、ストライキ権(第 2 の規約の第 8 条第 1 項)を自由に行
使したりすることを妨げている」
。
戦後東独国境になったナイセ川沿いの町ツィッタウで、82 年 3 月、戒厳令のもと灯りの
見えない対岸ポーランドの町(戦前は同じツィッタウの一部)を見ながら、そこの大学の
労組委員長Tと、独立労組「連帯」を題材に労組の独立性について話したことがある。ま
ことに誠実な彼は、自分も労組の独自要求に努力していると言った。たしかに労組のみな
らず、共産党以外にも合法的に存在した諸政党や各種団体も幾分かは独自の役割を果たし
たが、基本的には「伝動ベルト」であり(この両面を如実に示したのが 1970 年代東独の
中小企業国有化とその後の私営緩和政策の経過における「ブロック」諸政党であった)
、野
党的存在は許されなかった。だからこそ憲法上のみならず実態的にも一党独裁であった。
(12) 公正な裁判を受ける権利:
「政治的動機からの刑事訴追の場合、捜査・司法機関は
第 1 の規約の第 14 条や国内法で保障されている被告とその弁護人の諸権利を侵害してい
る。この種の判決を受けた者は刑務所内で、人間の尊厳を傷つけ健康を危うくし道義的に
破滅させることをねらったような取り扱いを受ける」
。
(13) 移住権:
「第1 の規約の第12 条第2 項も一般的に侵害されている。これは市民が自分の国を自由
に去る権利を保障しているが、 国家安全保障の保護 (第3 項)という口実で、この権利は容認できない
さまざまな条件と結びつけられている。諸外国の国民に対する入国査証発給も恣意的に行われ、…多くの
外国人が…わが国で差別されている人々と交際したという理由だけで、チェコスロバキアを訪問で
60
きなくなる」
。
東欧ではそれほどひどくはなかったが、自由権規約第 12 条にある国内移動・居住の自
由も、とりわけソ連や中国において制限されていた。外国人との接触では東独でも厳しく
規制された職種があった。私の東独の友人の妻はそれに該当し、私が彼らのアパートに招
かれるのは彼女が出張の時であった。彼と子供に会うことはできた。彼女に初めて会った
のは壁が開いた翌年であった。少し性格が異なるが、ある東独軍ロシア語通訳は婚約者に
西独の親戚が多かったため、上司から結婚か仕事かの選択を迫られ、ウェイターに転職し
た。ウェイターや肉体労働者にはそうしたことは関係がなかった。やはりランニング仲間
の若い大工は私が党機関紙を買うのを見て、そんなつまらんものを読むなと人前でも大声
で言っていた(彼はエルツ山地から東ベルリンに出稼ぎに来ていたが、出稼ぎ条件は日本
に比べてはるかに良かった。これは社会主義の労働基準改善貢献だが、日本のそれがひど
すぎたとも言える)
。他方、学生や学卒には思想や社会活動、姻戚等々を記した「人物調書」
(詳細な自己申告書も添付)がどこにもついて回りシュタジにも送られていた。西側に公
用出張させうる「旅行幹部」と在外勤務させうる「在外幹部」の登録制度もあった[青木
(1991)92 頁以下、188 頁]
。国内監視網も併せ、プライバシーは侵されていた。但し、
質も量も違うが、西側にも警察・公安情報や興信所という民営化された監視がある。
4. 憲章 77 宣言に加えて
憲章 77 宣言が記してはいないが、その後の歴史展開に重要な影響を及ぼした「ヘルシ
ンキ宣言」の内容も追加的に見ておこう。
「ヘルシンキ宣言」第 1 バスケットの第Ⅵ原則(内政不干渉)には、
「参加国は、その
相互関係のいかんにかかわらず、他の参加国の国内管轄権に属する国内、対外事項に対す
る直接又は間接、単独又は集団のいかなる干渉も慎む」等々の文章が盛られた。
ソ連東欧は内政不干渉原則を盾に人権追及をかわそうとすると見られた。憲章
77 宣言はこの原則に言及していない。反体制運動はしばしば帝国主義者やシオニ
ストの手先呼ばわりされたが、彼らが「ヘルシンキ宣言」を武器にすることはなん
ら内政干渉ではない(国内法に基づく運動だから)。
「ヘルシンキ宣言」の国際的圧
61
力(矛)としての力も、内政不干渉という盾を突き破る可能性が強かった。という
のは、当該国自体が第Ⅶ原則と人権規約、さらにかつて認めなかった世界人権宣言
の履行、人と情報の交流促進をうたった国際取り決めを受諾した以上、その制限が
「国内管轄権」にあると主張するとしても、正当な理由を示さざるをえず、国際的
責任を免れる論理を構築することは容易ではなくなったからである。
逆に、この内政不干渉原則はソ連と東欧の関係において東欧の改革に有利に作用した。
というのは、ソ連が武力によってこの原則を無視することもありえないではなかったが、
この原則をソ連も受諾したことによってブレジネフ・ドクトリン発動の条件は 1960 年代
に比べれば格段に厳しくなったからである。
ポーランドで首相ヤルゼルスキが独立労組「連帯」押え込みのため戒厳令をひいたのは
81 年 12 月 13 日であった。シュミットの東独訪問中だった。当時これはソ連軍侵攻回避
策だとの説があった。80 年まで米大統領安全保障担当補佐官だったポーランド系のブレジ
ンスキーの証言(戒厳令 9 周年の 90 年 12 月 13 日のポーランド国営テレビとの会見)が
正しければ、
ブレジネフ政権に介入の計画があったのはその 1 年前だった。
それによると、
「ヤルゼルスキ首相らは 80 年 12 月 3 日、ソ連に軍事介入計画があるのを知ったが、当時
ポーランドの国家安全委員会のメンバーだったククリンスキ大佐(1 年後に米に亡命)が
米国への情報提供者だったために米国も知ったという。同 18 日にソ連の 18 個師団がチェ
コ、東独軍の支援を受け、ポーランド国境に向かう予定だった。カーター政権はホットラ
インを通じて、ブレジネフ書記長に 重大な結果を招く と警告。ソ連側は米が詳しい情
報を得ていたのに驚き、ワルシャワ条約機構の 将軍たち が 5 日、行動中止を決めたと
いう」
[朝日新聞 1990 年 12 月 15 日]
。もしこの侵攻計画が実施されていたら、私は「連
帯」の様子を見ようと東ベルリンからポーランド入りしていたので、侵攻を体験するはず
だった。
「連帯」発祥の地レーニン造船所正門前では錨と十字架を組み合わせたスト記念碑
が除幕式を待っていた。翌年の戒厳令直前にソ連が再度侵攻を計画していたとは考えにくい。
この記事では情報漏れゆえに軍事介入中止ということになっている。それも 1 つ
の要因ではあっただろうが、カーターが、
「ヘルシンキ宣言」違反を指摘し、その重
大な結果(ブレジネフが恐れる全欧安保協力体制破綻)を示唆したであろうことに
よる中止だろうと推測される。つまり、1980 年代初めの時点ではまだ「ヘルシンキ
宣言」にもかかわらず侵攻の可能性があったが、同時に、
「ヘルシンキ宣言」を根拠
62
にした侵攻抑止力も働き始めていたと見て間違いないだろう。おそらく 79 年末からア
フガニスタンに侵攻して強い国際的非難を浴びたばかりということも作用しただろう。
それによって、巨費を投じたモスクワ・オリンピックもソ連の国際的威信高揚には逆効
果となってしまった5)。1968 年とは大きな違いがあった。
ゴルバチョフとその側近の証言では 85 年 3 月 14 日チェルネンコ葬儀の際にブレジネ
フ・ドクトリン放棄が東欧首脳に通知された[ゴルバチョフ(1995)第 30 章、NHK(1993)
シャフナザーロフ証言]が、80 年代末にはソ連は東欧への内政不干渉を内外に明示し、そ
れを行動でも示した。89 年 6 月 13 日(ポーランドに非共産政権が誕生する 2 ヵ月半前)
のソ連・西独首脳共同政治宣言でゴルバチョフは、各国の体制選択権を承認し民族自決権
の尊重をうたった。ポーランドの出来事に加え、その 5 月から対オーストリア国境の鉄条
網と高圧電線を撤去して脱出可能にしていたハンガリーの国会が同年 10 月 18 日に共産党
の指導的役割条項を憲法から削除し、国名を人民共和国から共和国に変更した。それでも
同月 25-27 日にフィンランド(ヘルシンキ)を訪問したゴルバチョフは東欧改革不介入を
再度言明した。ベルリンの壁崩壊 2 週間前であった。
当時、次のような報道もあった。
「ポーランドやハンガリーで共産党の独裁体制が崩れ、
東側全体に民主化の動きが高まっているが、1989 年 10 月 22 日付の米紙ニューヨーク・タ
イムズによると、ゴルバチョフ・ソ連最高会議議長(共産党書記長)は、こうした東欧の動
きを容認すると、事前に米側に伝えていた。同紙は、複数の米政府高官による、として、
89 年夏、ゴルバチョフ議長はホワイトハウスにあててメッセージを送り、(1)ポーランド
が非共産主義の政府になることを容認する用意がある、(2)ハンガリーが共産党を放棄する
ことも容認する、などと伝えてきた」
[朝日新聞 1989 年 12 月 23 日]
。
憲章 77 宣言による告発以外にも自由権規約に照らしてみると、第 7 条(拷問の禁止)
、
第 8 条(強制労働の制限)
、第 9 条(逮捕・抑留手続き)についても侵害もしくは侵害疑
惑があった。また、所有権、私的営業権、労働権などの問題もある。
所有権は社会権規約にはないが、世界人権宣言第 17 条が財産権を唱え、
「何人も
その財産を恣意的に奪われない」としている。しかし、戦後日本の農地改革や財閥
解体にほとんど誰も異を唱えないだけでなく、両者なしには今日の日本の経済的社
会的達成はありえなかったのだから、ある種の所有改革は不可避である。所有の公
正が保たれなければ、新古典派経済学にはなんの説得力もない。それは所有に応
63
じた分配の経済学でもあるからである。問題は何が「恣意的」かである。社会主義
体制における所有改革にも正当視されうるものと恣意的なものとが混在したと言
うべきだろう。ジニ係数が 0.4 を超えれば国内的には危険水域と言われる 6)が、資
本主義では格差拡大メカニズムが働くので、社会の安定と進歩には適宜の再分配や
所有調整が必要である。
私的営業の自由の規定はこれら人権規約等にはないが、私営に関する社会主義体制の教
訓[青木(1991)第 3 章とそこに記述の諸拙稿参照]に鑑み、条件付きであれ社会権化す
べきだろう。
さらに、国内のみではなく国際的な情報の取得と発信の権利の問題がある。憲章 77 宣
言が自由権規約第 19 条第 2 項を挙げたことは前述したが、その条文は「すべての者は、
表現の自由についての権利を有する。この権利には、口頭、手書き若しくは印刷、芸術の
形態又は自ら選択する他の方法により、国境とのかかわりなく、あらゆる種類の情報及び
考えを求め、受け及び伝える自由を含む」である。憲章 77 宣言はこのうちの「国境との
かかわりなく」には取り立てた言及をしなかった。あまりに刺激的だったからかもしれな
い。この点では特に「ヘルシンキ宣言」第 3 バスケットの「人道及びその他の分野におけ
る協力」
(以下「人道協力」とする)が重要である。
「人道協力」には 4 項目あり、第 1「人の接触」は、(a)家族の絆を基礎とする接触及び
定期的会合、(b)家族の再結合、(c)異なる国の国民同士の結婚、(d)私的又は職業上の目的
の旅行、(e)個人及び団体による観光旅行の条件の改善、(f)青年の会合、(g)スポーツ、(h)
接触の拡大、からなっていた。その第 2「情報」は、(a)情報の普及、入手及び交換の改善
(ⅰ口頭情報、ⅱ印刷情報、ⅲ映像、放送)
、(b)情報の分野における協力、(c)ジャーナリ
ストの職業活動の条件の改善、からなっていた。さらに第 3「文化の分野における協力及
び交流」
、第 4「教育の分野における協力及び交流」と続いた。よくもまあソ連が呑んだも
のである。第 3 バスケットについての東西間のきびしい交渉経過やフォローアップ経過、
東側の履行状況については吉川(1994)第 9 章が詳しい。
チェコスロバキアの改革派経済学者であり「プラハの春」弾圧後には公募採用で
西独のフランクフルト大学教授となった(亡命ではない)イジ・コスタが、チェコ
に残っていた娘との家族再結合を果たすことができたのは、この「人道協力」に基
づくドイツ赤十字の支援ゆえであった[西独滞在のホスト教授であったコスタから
64
の個人情報]。彼はアウシュビッツ生き残りでもあるし、チェコスロバキアにおけ
るスターリン主義粛清の余波もかぶっている。
「人道協力」第 1 項の冒頭は「接触の発展は、諸国民の間の平和的な関係と信頼の強化
のための重要な要素である」ということを確認し、私的旅行についても「徐々に出入国手
続きを簡素化し弾力化すること」を求めた。
このことも、移住権確認とともに、社会主義体制をゆるがす結果を生んだ。移住権として
は、大量のユダヤ人がソ連から出たことがよく知られている(数字は前述)し、米国では移
住してきた彼らをインタビュー調査してソ連の生活実態を研究した。これは、対西側移住・
旅行を厳重に制限してきた東独に特に大きな影響があった[青木(1991)75-6 頁参照]
。
同第 2 項は、参加国が「他の参加国からの情報の普及とそうした情報との接触の改善の
重要性を認識」して、上記にある(a)∼(c)を謳った。これは西側情報の流入だけではなく東
側情報の流出促進の措置でもあった。東独では西独テレビと人的交流ゆえに情報遮断では
なかったが、一般人は西側の紙誌や書籍からは遮断されていた。
「ヘルシンキ宣言」後は一
部西側の新聞が外貨販売されるようになった。
。
同じ頃ユーゴスラビアに行ったら、プレイボーイその他の西側雑誌がキオスクで売られて
いた。東独とは色々な事情が違った。自力の社会主義革命という点でも東独とは違った。し
かし、体制転換の様相を見ると、ユーゴ内最先進国のスロベニアでさえ「あっと言う間の社
会主義切り捨て」と EU への統合欲求いう点では東独と変わりなかった。2002 年にリュブ
リアナでメルカトルという大企業の若手幹部に「なぜ自主管理をあっさり捨てたのか」と聞
くと、
「ユーゴは政治的には民主主義ではなく一党独裁だったのであり、厳しい秘密警察の
取り締まりもあったのであって、決して国民の自主決定ではなかったし、1980 年代の経済
困難で自主管理体制の不効率や無責任さがはっきりし変革への支持となった」と言う。
社会権規約第 6 条は、すべての者に自由な選択による労働の権利(労働権)を認
めている(関連して第 7 条が労働基準、第 8 条が労働基本権)。社会主義体制では自
由な選択が制限されていたが、完全雇用以上(過剰雇用)であった。市場経済諸国
では選択の形式的自由はあるが、多数の、しかもしばしば長期にわたる失業が問題
であり、それゆえに(あるいはその他のミスマッチによって)選択の実質的自由に
限界がある。中国とインドの参入により世界市場における本格的な工業労働人口が
一挙に巨大化したいま、労働権の実現は、その重要性にもかかわらず、難題である。
65
与えられた紙数をすでに超過したので、当時の西側の対応の問題点と教訓や東欧(主に
東独)における「ヘルシンキ宣言」と憲章 77 への呼応、人権ないし市民的権利というパ
ラダイムの含意などについて本誌次号で論じたい。
<注>
1) 本稿は青木(2003b)の前半部分に大幅な省略と加筆を加えたものである。両稿とも、体制存続時
には社会主義体制を主として経済面からしか論じなかったこと(そこにそれなりの批判的考察があ
ったとはいえ)への反省の気持ちを込めている。青木(1991)は多少は多角的だったが、とても十
分とは言えなかった。
2) 但しソ連東欧による国境不変更の要求は実現せず[百瀬・植田(1992)199 頁]
、第Ⅰ原則は「平
和的手段と合意」による国境変更を可能とした。首脳会議で東独ホーネッカーは国境不可侵の項を、
再統一を願う西独シュミットは国境の平和的変更可能性の項を賞賛した[外務省(1975)所収の両
者の演説]
。
3) 世界人権宣言をめぐる論争については寿台(2000)参照。
4) 特に断らない限り訳文は世界週報訳による。この訳は人権規約を「条約」としたが、通常通り「規
約」に改めた。
5) 後の結果からすると、侵攻の人的(戦死 1.5 万人)
・財政的・道徳的代償も大きかった。
6) 世界ジニ係数概算(当初所得)は名目平価で 0.7 超、購買力平価で 0.5 超にのぼる[浜松(2003)
]
。
〔引用文献〕
(先頭文字またはその読みのアルファベット順で、辞典類を除く)
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的研究:マルクスとポパー、ロストウ、ベル、フクヤマ、ロールズ、市井」科学研究費補助金研究成果報告
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